前九年の役・後三年の役
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説文解字(後漢)にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大) >>2
都に献上していたもののリストを見ると凄い豪華なんですよ 今の氣仙あたりの金が産出量日本一。
奈良の大仏に使われた金はすべてそこといわれる。
でゴールドラッシュになって人がうじゃうじゃと来た模様。 >>10
全く関係ないってわけではないが。
藤原秀郷の末裔が奥州藤原氏だからね。 阿久利川の変を頼義の謀略という説があるけど、
頼義はそのまま帰任すれば陸奥平定の手柄になるから考えづらい
頼義に帰られて困る人間が引き起こしたんだろう >>12
当然陸奥も一枚岩ではないと
どーだろーかなー 阿久利川は頼義ではなく、安倍氏の勢力に脅威を感じた地元官人たちが仕組んだ説って
元木泰雄説だね。
陸奥守は大過なく過ごして都に帰れば昇任なのに、
わざわざ自分の任期の失点になるような反乱を誘発する意味がない
しかも敵地に少人数では乱の鎮定もままならない
現に頼義は更迭寸前になったわけで 大河ドラマで藤原三代を取り上げた時、熱烈な八幡太郎ファンの親父は大いに楽しみにしていた。
「これをドラマにすると八幡太郎は悪役だよ」と言ってたけど、親父は「そんなはずはないっ!」
だけど始まったら予想通り頼義・義家は悪役。
親父は怒ってNHKに電話しようとしたんで、家族は必死でとめた。 安倍一族根絶やしかと思ったらそうでないのな
内紛もあったのか あまり話題にならない清原一族は、伝えられてる系図どおりなら
清少納言とは近い存在。 近いか?
清少納言の曾祖父と、家衡の6代前の先祖が兄弟 安倍頼時が北に見える陸地に逃亡しようとして大河を遡る今昔物語の話と混同してない? そっか。じゃあ辺境の珍事くらいに思われたんだろうな 前九年の役 1051-62
後三年の役 1083-87
後冷泉天皇 1045-68 在位
後三条天皇 1068-73 在位
白河天皇 1073-87 在位
堀河天皇 1087-1107 在位
藤原道長 966-1028 在世
藤原頼通 992-1074 在世 >>24
義家「反乱した清原一族を退治したんで恩賞を頂戴」
朝廷「反乱? 何言うてはる、一族内での仲間割れやないか。
ほっときゃよろしいのをなんであんさんちょっかい出したん?
これは私闘やよって何も出せまへん」 >>26
この時の恩賞って、どんなカタチでペイしたのかな?
清衡に出させたとか?
この時代の源氏にそんな財力があったのか。 清衡が差し出した財産もあるけど、前九年以降源氏がため込んだ私物が山のようにあったから部下に分けることが出来たんでしょう。 将棋の格言になる位だから京でも心配事だったのでは?
双入玉は前九年の役ほど手間を食い どういう計算違いをしたのか、前九年と言いながら12年間の戦い >>31
お互い相手の陣地に「王」や「玉」が入ってしまうこと。
王の周囲に成り歩を固めれば、せめる方は異様な出血をするけど、出血してせめた結果が歩を得ただけだから、
実質的に攻める方法が無い。素朴なルールだと、時間だけが過ぎていく…。
現代将棋のルールでは、「双方合意の上、持ち駒を点数換算して合計点数を競う」ことになっているが、「合意」が
いかなるものか極めて曖昧だから、コンピュータと棋士の実力が伯仲していた頃には、このルールの部分の明確化
が求められたが、あっという間にコンピュータが強くなり過ぎたので、ルール改正は立ち消え。 >>32
「奥州で頼義が十二年間戦争をやってた。後にやはり奥州で義家が三年間戦った」
↓
「奥州で十二年間戦争をやってた。後部の三年は奥州で義家が戦った」 → 後三年
↓
「前部の九年は頼義が戦っていた」 → 前九年
こういう勘違いが今に至っても正式名称として残っている >>33
レスありがとう
将棋てそんな昔からあったんだ 日本の合戦は一日で決着がつくということだ。役はながくていいねえ。 古代の城柵すべてに言えることだけど戦国時代の城と比べて一つ一つの曲輪がやったら広い
平安時代末期になっても兵数に物言わす古代的な戦いをしていたのだろう いまさら「前十二年の役」とは言えない。
そもそも「ぜんじゅうにねんのえき」なんて言いにくい。 清原氏は先住民系の人たちが中心となっていると思う。
DNA検査をしているわけではないが、この 湯沢ー横手ー大曲ー角館 地区は縄文系が色濃く残っているからだ。
早くから縄文系が一定の領地を得たから、和人が入り込みにくかったのではないか? 女系でアイヌ人の血が入っているからなんじゃないの
前九年の役の絵巻では安倍氏の軍勢は目が大きくて毛深く
明らかに日本人と異なる容姿で描かれているらしい >>44
藤原三代は、ミイラを造っている。長谷部言人は、自然発生説を唱えてそれがなぜか学説になっている観があるが、ミイラがひとりでにできるかあ?
ちなみにミイラは樺太アイヌの風習。
元々アイヌ系でなければそうしたことをやらないだろ。婚姻をとうして混雑したとしても。 そりゃ化外の地なんだから上からアイヌは入ってくるだろう >>47
有力者を内蔵を取り出してミイラ化するのは、カラフトアイヌの風習。 >>1
日和見どころか頼義・義家を見逃して大失態ですぜ >>45
奥州藤原もミイラにされたのは清衡、基衡、秀衡だろ
で、清衡の母方が安倍氏
普通に母系の風習が引き継がれたでいいんじゃないの
清衡の前も代々ミイラにされてるならだが 確か泰衡も首だけミイラになって秀衡に合葬されたんじゃなかったか?
今まで忠衡の首と伝えられてきた頭蓋骨を詳細に調べてみたら
泰衡の特徴という記録と一致。
これで一転、忠衡は存在そのものが疑問視されることにw 日本の実力者と思っていたらいきなり、アイヌの葬送方式を引き継がないなあ。 日本史でミイラってのはこれだけだからね。
不思議だわ。 前九年は最終的に勝者は清原氏、後三年は藤原氏
頼義義家は何のために行ったんじゃ >頼義義家は何のために行ったんじゃ
陸奥の守としての仕事をしに行ったのだ >>53
中央官僚が下野して地方有力者のところへ入り婿するから
姓は父方を受け継ぐけどどっぷり母方親族と一緒に生活する
源頼朝が母方の熱田神宮家の財力と兵力を頼みにしていたようなもん 頼義義家はあわよくば奥州にも源氏の基盤を拡げたかったが叶わず >>60
なるほど。平安期は和人も蝦夷も母系家族を中心とした通い婚だったからなあ。
一部貴族もそうだったのだろう。
武士階級が台頭してきて、血統とか、純血とかが重視されるようになったわけか。 嫁の実家は重要だからな。家格が低ければそれだけで出世争いから脱落 >>62
平安時代どころか室町時代まで庶民は通い婚だけどね
男の子の場合は父方に女の子の場合は母方につくのが慣例だった模様 でも、例え通い婚だとしても、「藤原氏」がアイヌの葬送風習を受け継ぐってどういう状況だろう? 安倍の末裔って正統性がなきゃ奥六郡を支配できないし。 >>55
いや、寺院の高僧が死してミイラとなって仏像と並ぶ例がしばしばあった。 寺院の高僧のミイラは中国の唐代で見られたものが日本に輸入された
地中に掘った穴に籠り飲食を断って鐘を鳴らし続け
鐘が聞こえなくなったら死んだことが分かる
死ぬまで何日間も飲食をせず餓死するために体内にものは残っておらず
そのまま干からびたミイラとなる
そしたら掘り出して僧侶の衣服を着せて即身仏として飾っておく
奥州藤原氏のミイラは病死した遺体で間際まで飲食をとっている
脳味噌や内臓など腐りやすい臓器が取り出されてあり
エジプトミイラのように人の手が加わっている
男性器も切り落とされているらしい
アイヌ民族の有力酋長で行われていた埋葬方法 しかし、長谷部言人は裂け目にネズミの歯形が付いており、ミイラは自然発生したと主張しているんだよな。
ミイラの内蔵はネズミが食べたって事だ。
そして、現在日本考古学の重鎮、長谷部言人が言った事は定説みたいになっている訳だ。
長谷部言人は「古代日本人=アイヌ人」を否定した一人だから、そりゃ藤原3代が日本人であったとしたいわけだね。
長谷部言人は日本考古学の開拓者の一人だけど、明石原人など妙ちくりんなコト言っているからなあ。 平範国の日記『範国記』長元9年(1036)12月22日には、
その日の小除目として、陸奥権守に安倍忠好が見え、それが『陸奥話記』などの
安倍頼良の父忠良である可能性が高く、奥六郡安倍氏の出自を中央貴族安倍氏とする
指摘がある(戸川1999)。
数年前これをこのチャンネルで見たけど、その後どうなったんだろう。
えらい学者さん達はこれをどう扱っているんだろう? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています