前九年の役・後三年の役
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炎立つの原作者が岩手出身でファンタジー系の人だから何とも言えないよな アラハバキの神は一応「東日流外三郡誌」以前からあるだろ。 あるけど荒脛巾神は東北古来の神じゃなくて東北・関東に多いけど全国にあり、いつから信仰されてるのか
どういう神様なのかよく判らない謎の神。
<<荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。
客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。>> 白鳥舘遺跡とか長者ヶ原廃寺遺跡とか平泉の遺跡の一部は安倍氏の時代のものと考えられている。
http://www2.pref.iwate.jp/~hp0907/syokai/shirotoritate.html 流石にここの人達は読書板の人達より博識なんだなぁ 東北住みが長くなり愛着が湧いてアテルイから戊辰戦争まで東北物色々読んだつもりだけど大河兼任とか初めて知った
戦国以降は色んな作家の小説を読み較べる事ができるけど前九年後三年とかアテルイ辺りは需要が無く史料も乏しいせいか小説は本当に少ない
ある程度史実を押さえておきたいなら学術書を読まないと駄目なのかな >>214
えー
でも九州山地から下の方はどうよ? >>215
その下の方のやつらを都に移住させて管理したのが隼人司って役所や >>218
オレンジ武者どころか前九年・後三年の頃も有名無実だわ。そんくらい九州はとっとと王化に服している 酸っぱくて食べられない橙をオレンジと訳すのは如何なものか。 >>218
いきなり時代がとんでるけど…まさか平安後期と安土桃山期の構造が同じだと思ってる? 小学校の頃大河ドラマ見てたから炎立つが思い浮かぶ・・・
清原家内紛のときに家衡豊川悦司と清衡村上弘明の対立が好き。 安部貞任の嫁が財前直見で源義家(佐藤浩市)とチョメチョメするんだよな えっと、藤原秀衡の嫁に眞野あずさと浅利香津代がいて、、、
眞野あずさは藤原秀衡の長男(長嶋一茂)と再婚すんだよな? 岩手のスーパースター大谷翔平と菊池雄星がメジャーで対戦するのは凄いことやと思うよ 実際に資料を見たことがないので自信はないが父方の一族が出羽清原の末裔だという話です
横手で負けた後、山を移動して岩手の花巻に隠れ住んだとか...名前は全然違ってたけど大正までは地元の名士だったらしいです。 >>190の子孫なら面白いが。こちらは勝者の側だからな 平安時代の東北は、「東夷」と呼ばれる蛮地であった
そこに、土着の豪族・安倍氏が勢力を拡大し、ほぼ独立国となった もしも、このまま阿倍政権が長期化していたら、東北は日本とは別の国になっていたかもしれない
中国とモンゴル・満州のような関係になったかもしれない
同じ島国のイギリスも、スコットランドとイングランドとは別の国として発展してきたのだから、東北が安倍王国になっても別におかしくなかった 安倍政権が長期化していれば、東北は倭人の傘下に入らなくてすんだのに
源頼義・義家さえ出てこなければ 北海道からアイヌ人が攻めてきて、日本全国を平定
首都を京都から青森に移す
中国の歴史はそんなことの連続だったが、日本では起きた試しがない そもそも、「前九年の役」という言い方からして、いかにも「土人の反乱を鎮圧しました」という感じ
「第一次奥州戦争」とか、そういう名前にしたらどうか 安倍氏が東北を統一して、関東に南下していれば、東日本は安倍政権の勢力基盤となっていた >>245
元慶の乱は、秋田城がそうなったと思う。
正史の記録には無いけどね。 >>247
頼朝より先にそれをやれよ。それだけの実力はあっただろう糞秀衡よ。 唐の長安→宋の開封→元の北京と、中国の首都は移っていったわけだが、奇しくも、距離や位置関係が、京都→鎌倉→青森と酷似している
それを思えば、京都の次が鎌倉で、鎌倉の次が青森でも別におかしくなかった 青森とか頭イカれてんのか?明治以前はプチ氷河期で冬は死ねるわ。日本は関西か関東しか中心になり得ないぞ 瑞穂の国の生活が基本だからな。
しかし、暖かいところは病原体がいた。
食料と暖房がなんとかなれば問題はなかったかもな。夏は過ごしやすいし。 >>250
アイヌが大和を脅かすほどの大勢力だったら
青森辺りに軍事拠点があったかもしれんが むしろ可能性としてはアテルイの時だろう。あの時蝦夷にもっと力と団結があれば胆沢あたりが
首都になったかもしれん。 アテルイの後に元慶の乱で蝦夷が反乱を起こし、朝廷の権威が北東北に到達しなかった時が200年ほどあるんだよ。
その時に、事実上独立していたと思う。
ただ、蝦夷はまとまり無いからなー。津軽は危険視されていたのは確実だけど。
蝦夷には文字を書く人も、製鉄文化も、馬も揃っていた。
しかしそれも、915年の十和田湖火山の大爆発で北東北一帯が火山灰の下でおじゃんに…。 >>251
でも、モンゴル帝国が首都を北京に移したのは、実際にそのレベルの話だぞ?
それ以前は、もっと南の洛陽とか長安とか開封あたりしか、中国の中心になり得なかった 明や清の時代劇を見れば分かるが、北京人は冬には分厚い毛皮をまとって、エスキモーみたいな格好をしていた
大運河を掘って、南から食糧をせっせと運び、それを食って生きていた 藤原基衡や秀衡の時代に関東を鎮圧できるだけの軍事力はあったわけだが。やはり大義名分がなかったかな。しょせん自分たちは俘囚の末裔だと… 占領すれば防衛が必要な拠点がどんどん増えていくわけだから
軍事力があるからと行ってイナゴみたいに攻めるわけにもいくまい
信長みたいにちょくちょく移動できる身軽さがあれば別だけど
あと関東だけじゃなく越後も同時抑えないと背後つかれる可能性もある > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 チョンと東北人は被害者ぶる歪んだ誇りが共通のアイデンティティー
太古は勿論、近世では維新の時の被害者話しを今でもやるわ、震災でも原発でも被害者アイデンティティーが半端ない 吉彦秀武だっけかな?
彼らの末裔はどうなったんだろ? >>262
安倍晋三首相も安倍氏のすえを自称しているんだけど。 南北朝時代の初期には、北畠顕家を総大将とする東北の南朝軍が仙台から長征し、逆賊・足利尊氏を京都から叩き出して九州まで落ち延びさせたことがある
歴史上、これほど仙台が輝いたのは、他に伊達政宗のときしか見当たらない 筑波山の麓、常陸国伊佐庄中村(下館市)から中村常陸介念西入道が子息らとともに伊達に下り、氏を改めて伊達氏を名乗ったのをはじめ、
相馬・蘆名・結城・二階堂・伊東・長沼の諸氏は一族または家人を地頭代として奥州に派遣し、新しい所領を経営した。
これらの諸氏はみな関東地方に本領を持つ豪族であり、家督が子息・一族郎党を引き連れてその主力をいち早く奥州に移した伊達氏を例外として、
ほとんどが鎌倉後期(南北朝期)まで関東の本領に住したのである。
(『福島県の歴史』山川出版社) 鎌倉では、平泉の再興を阻止する東北非政治化がその政策の基調であった。奥州総奉行を置きながら、これを単なる中継機関程度にしか扱わず、
やがてこれを鎌倉直轄としたのも、そのことを示していよう。
それともう一つ、鎌倉時代には、地頭の生活の本拠は関東=鎌倉にあったから、彼らが東北武士として働くことはほとんどなかった。
『保暦間記』
「東国ノ武士、多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力モアリ。是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所下シ奉ルベシトテ、
国司ニハ(中略)土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル。誠ニ関東ノ侍モ多付テゾ下リケル。
(中略)同十二月、主上ノ宮成良親王ト申ニ、尊氏舎弟左馬頭直義朝臣相副テ、関東八ヶ国守護トシテ下向アリ。
鎌倉ノ将軍トゾ申ケル。サレドモ、出羽・奥州ヲ取放サルル間、東国ノ武士、多ハ奥州ヘ下ル間、古ノ関東ノ面影モ無リケリ」
これは非常に大事なことを語っている。鎌倉時代の武士は、東北に所領を持つ関東武士としての勢力が強かった。
奥州に強力な国司制度をしいたのは、その関東武士の勢力の根源を断ち、鎌倉の権威にかわる権威を東北につくるためである。
その政策が成功して、東北に所領ある武士は、大半奥州に下向したので、鎌倉は名ばかりとなった。
そういう意味のことが述べられているのである。
(山川県史シリーズ4『宮城県の歴史』高橋富雄) >>266
陸奥国府だった多賀城は多賀城市であって仙台じゃないけどな。残念! この時代の鎮守府は多賀城より上の胆沢じゃなかったっけ? >>271
伊達政宗が仙台を開発する以前の仙台周辺は多賀城圏だろう。
>>270
義良親王(のちの後村上天皇)が国府多賀城にいたので側に仕えて多賀城にいたと思われる。
鎮守府将軍に任じられた時点で既に尊氏がおかしな動きをしてるし。
リンク先の年表の建武2年の所。
http://www5.plala.or.jp/akiie/akiie/turedure/nenpyo/nen-02.htm 独眼としては仙台じゃなくて会津を本拠地にしたかったんだよなあ 横手に行った時に、金沢柵がある事知らずに行ったんだけど驚いた、、
柵のあった場所と
今の都市名の対照表、ないかな? 江戸時代の有能な武士であった金易右衛門は、先祖は藤原姓だった。
将棋棋士1号の秋田県雄勝郡羽後町の金易二郎は蕎麦屋の息子だが、先祖は分からないナー ちょっとスレチだけどぽっと出の頼朝に簡単に滅亡させられたのが下せん 城柵ってろくな攻城兵器がないとは本当にあれで防御の訳に立ったのだろうか
アイヌのチャシのほうがまだ技巧的な作りしてるし >>288
まあ,田舎の資料館って感じ。
歴史的に不明なトコがいっぱいあるからね。 炎立つとかいう大河ドラマあったけど
あれは原作を書いた人の思想が反映されすぎていて
実態は全然違うだろう。
陸奥の安部氏は、中央貴族の安部氏の流れだろう。
出羽の清原氏は、完全に皇別貴族の清原氏だろう。 まあ、後の藤原氏が完全にアイヌ人の形式で藤原3代を葬送しているからな。
長谷部言人は違うといちゃもん付けたようだけど。 いやいや。いくらなんでも葬送をアイヌ式にするって、人種混雑があったからと言って、心情は蝦夷だっただろ。
蝦夷は母系だから、父系はどうでも良いんだよ。だからこそ混雑した。 父系でみたら、畿内の皇族・貴族の末裔たち。
現地の豪族と婚姻関係を結んで土着化。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています