邪馬台国畿内説 Part352
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528141524/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>281
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサキジジイ! 一寸千里は唐の時代に本当かどうか実測されたが
その時の記録資治通鑑に
壬子、河南、北平の地で八尺の棒の影の長さを計測した
距離は526里270歩で2寸違うと書かれている
現代で計測すると距離が3割ほど間違っているそうだけど
このように計測地がはっきりしていないと
一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できない
ゆえに論拠としては用いれない >>287
見つかっている史料?
魏志倭人伝という史料を無視しておいてそれですか?
邪馬台国については史料はほぼ魏志倭人伝しかないので、その中の里程を無視した議論など無意味ですよ。 >>289
魏志倭人伝が信用できないなら、「邪馬台国はなかった」とか本を書いてみてはいかがですか? スレ主へ
纒向に詳しいようだが 大型建物の柱の石床はいくつ発見されているの? >>283
そういえば安本先生が条件付き確率で計算して
99%近くで邪馬台国は九州筑紫と結論していた。 >>290
律歴志という魏で使われた度量衡を記した書には
一里=三百歩
一歩=六尺とあって
一尺の基準となる約24cmのモノサシ正始弩尺も見つかっている
そこから換算すれば魏で使われていた里は
短里の一里=約80mではなく一里約430m
さらに魏では文帝の度量衡統一の指示もあり
使われていた単位は一つ
なので少なくとも魏で書かれた記録は短里で記されようがない >>291
それより歯の黒い人間の住む歯黒国を探されてはいかがか 魏の劉徽が『九章算術』註釈本において「王莽銅斛,於今尺為深九寸五分五厘」と書いている
この王莽銅斛は新莽嘉量として知られるもの(台北・故宮博物院蔵)
これにより魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算できる
魏の里は435.392m(一里=1800歩) >>271
>>尺寸系の定規は、殆ど変わっていないし、各時代の寸法も既知であるので、<
>これは本当ですか?<
Yahooでの議論で、mkpoとかハイエナなどの大和説者が、
周代の「尺定規」が発見されている、と言って、写真も添えており、
その寸法も23cm位であった、という記憶があります。
しかし、新井宏さんは、古韓尺の淵源は、32cm位の尺寸法であった、という説でした。
>伊都スレで今日は白熱していたのが「咫」の説文解字注の内容で、
中婦人手長「八寸」謂之「咫」。、、、中略、、、 殷法十二月。
言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
、、、中略、、、 古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
これの「八寸」が漢尺か周尺なのか? 私は漢尺と思ったんですね。<
「説文解字注」とは、「説文解字」自体の本文ですか?。
それとも、「説文解字」以後の人の「説文解字」に対する注なのですか。
しかし、いずれにしても、漢代の解釈にしかなりませんね。
>古者以「周尺」八尺爲步。今以「周尺」六尺四寸爲步。
周尺八尺=以周尺.為歩=漢六尺四寸
周尺=漢尺八寸=咫 つまり、 殷は漢尺の12寸相当が基準長で一尺だった
周は漢尺の八寸相当が基準長で一尺としていた。 漢は当然一尺=10寸。
変わったのは寸=尺の関係性であって、寸自体の長さじゃない。
こう思ったのですが、いかがでしょうか?<
「古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步」というのは、
説文解字以後の文なのではありませんか?。 >>294
根拠厨は八咫鏡の件で言い負かされたのに、まだ懲りないのか? 魏志倭人伝に考古資料や科学的測定を加えて畿内説は補強されている
史料の不確かな部分を
自説に有利なように強引に解釈するしかない九州説は弱いな >>273
>落葉付近のどことどこ それがわからない、不可知だとするなら
距離を正確に測って計測できたのかどうかわからない
つまり短里は正しいかどうかわからないという事になる<
反対。
短里を疑うんなら、
尺寸系は殆ど変わっていないんだから、
周地付近で夏至正午の8尺棒の影長が1尺6寸であったのか?を確認しておいて、
その南や北に行って、
夏至正午の8尺棒の影長や1尺5寸や1尺7寸になる場所を見つけて、
それが元の周知付近の南北何里にあったのか?を計測すればよい。 >>299
都合が悪い部分を不確かと言って無視しているだけでしょ。
絹もない鉄もない、倭人伝にある記載の内容が全く一致しない。 >>275
>九州説は史料しかないのか
畿内説は史料と考古学的物証2つを比較するけれど<
言葉の意味や定義法の問題。
古田さんらは、
史料と言えば、文献史料と考古史料の両方を意味され、
(資料とは区別して)史料批判に拠って存在確認済みであるものだ、
という意味に使っておられる。 >>300
計測する地がお互い東西にズレて実際の直線距離は600里になるような地で
計測が行われたのかも知れない
なので実際測ったのならどこの地で棒の影長をはかったのか
はっきり書いてある史料が必要 >>276
これではっきりしたな。
大和説者らは、学問とか科学とかなどどうでもよくて、
ただ九州説を攻撃して、
「大和天皇家一元列島支配」という国家国粋皇国史観を宣伝したいだけの、
キョクウ殺人戦争狂のヘイトスピーチのキ印。
天皇制反対がやりたいなら他の板に行ってやればいいのにね >>301
絹は倭国で作られているとあるだけで特に邪馬台国特産とは書かれてない
鉄は畿内の古墳から多数見つかっている
景初三年(239年)と卑弥呼が魏に使いを送った年と複数の史料にある
魏の年号が入った三角縁神獣鏡が見つかる >>302
その割には九州説は史料にないことばっかり主張しているようだが
三角縁神獣鏡は呉の職人が作ったとか短里とjか 卑弥呼が魏と絹をやり取りしていたのに邪馬台国には絹がないと言い張るつもり?
そりゃ無理があるだろ。 >>308
別に邪馬台国そのものが絹の産地じゃなくてもいいだろ >>279
>実測データはない <
ある。
夏至正午の8尺棒の、影長の周地付近での計測や、
その南北千里地点の計測や、そこでの影長計測が、実測データ。 短里という度量衡が存在したのではなくて
東夷を実際より大きく描いた観念的世界観だからな >>282
>倭国が絹を作ってると書いてあるが邪馬台国が絹の生産地とは魏志倭人伝に書いてない<
そもそも「邪馬台国」なんて、魏志倭人伝に存在しないから、この男は嘘つき騙しの詐欺師。
>鉄器もホケノ山古墳やら椿井大山古墳から大量に出ている<
いずれも布留であるから、4世紀の倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国である。
>金印は漢の時代に倭奴国に贈られたものだろ<
魏志倭人伝には倭奴國名が消失しており、
呼称の類似や地域的な近接状態から、倭奴國は奴國と伊都国に分裂していた可能性が高い。 >>309
産地との交流そのものがなかったように見えるのですよ。 >>284
>実際に観測してみていないならダメじゃん <
実際に観測計測をしているんだから、ダメじゃない。
>一寸千里は空想の数値で短里の証明にはならないという事でいいんだな<
一寸千里は実際の数値での、(谷本確認計算に拠って)短里の証明にはなる、
という事でよい。 >>297
>「古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步」というのは、
>説文解字以後の文なのではありませんか?。
《說文解字注》は清代の段玉裁の注釈だが、該当部分は鄭注からの引用
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。
後漢の初期に成立している文書だよ
でも、自分でググればすぐに分かるだろうに
相変わらず、ザラコクさんは、知らない、調べない、理解しない、のないないづくしww >>310
>ある。
ザラコクさんがいくら言い張っても無意味だよ
ザラコクさんの言葉にはまったく根拠も信用もないんだからww >>285
>区間によって2倍3倍差があるなら数学的に短里はあったとしても
1万2千里は九州を指すものとは言えなくなるぞ数学的に<
区間に拠って、多少の誤差があっても、
不彌國で合計の「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
邪馬壹國女王之所都や倭国は、九州を指す、と言ってよい。 >>286
>>計算結果の有効数字1〜2桁の概数の範囲内にしかならない。<
>言張るだけじゃなくて
平面大地モデルの一寸千里の法が、楕円体、凹凸表面の地球上で測量に使えたことを
実際に実験して証明してみたらいい <
周髀算経が、実際に夏至正午の8尺棒の影長や南北千里などを、
計測測定している。 >>287
>歴史学的には魏で使われていた里は 見つかってる史料から換算した一里430m
皇帝の単位統一の指示もあり それ以外はその時代に存在が確認されてないようだけど <
魏志に書かれた「里」記載は、殆ど全て、「1里=430m」ではなく、
「1里=50m〜100m」位の間であった。 >>289
>一寸千里は唐の時代に本当かどうか実測されたが その時の記録資治通鑑に
壬子、河南、北平の地で八尺の棒の影の長さを計測した
距離は526里270歩で2寸違うと書かれている
現代で計測すると距離が3割ほど間違っているそうだけど<
心配なら、周地付近での夏至正午の8尺棒の影長と、
南北方向に離れて行って、夏至正午の8尺棒の影長が1尺5寸や1尺7寸になる場所を見つけて、
それと周地付近との距離を計測してみれば、
唐代の里が、(短里ではなく)長里であった、という事が判る。
このように計測地がはっきりしていないと
一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できない
ゆえに論拠としては用いれない >>314
どっからどこで測ったとはっきりしないなら
一寸千里は実測値とは扱えない
架空の数値 >>317
不彌國までは今までの里程を足し算すると1万700里
残り1300里だ
それが短里のズレの範囲内という3倍で1里240mと計算すれば
約2700kmで畿内に届くかもなあ >>319
それだけばらつきがあるなら測定のミスか何かだな
短里はなかった で、畿内説さんの里ではどこになるんですか?
あ、海の中でしたねwwww >>317
>不彌國で合計の「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
終わってないよ
終わらせるためには、他に一切用例のない「島巡り仮説」を採用しないといけないww
九州説は、他に一切用例のない無理読みを多数開発することによってのみ、成り立って
いる恥ずかしい説でしかない
いや、すでに説とすら呼べない代物だなww >>325
ちゃんとソースを付けて
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
布留式甕になる前から、畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順できっちり九州から出てるよ
畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが確認できる >>329
お前の脳内の謎の「島巡り仮説」とやらが他に一切用例が無いってだけだからな
お前の脳内が間違ってるだけだろう >>326
測定の精度が悪いとは言えるが、短里がなかったという結論は出せないよ。 東夷だからね。
統一されていない、独自の里を使っていたんだよ。
でも東夷伝の中では一貫している。 3世紀前半から中ごろに築造と言われるホケノ山古墳ですが、その土手には6世紀末頃の14mの横穴式石室があります。
http://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/1/7/17132098.png
不思議なことに300年以上も経過してから、突然、横穴式石室が作られたことになります。
14mというのは、あの石舞台古墳の倍ですから、相当力のある豪族が造ったのでしょう。
6世紀後半、桜井を支配してたのは物部守屋です。
「日本書紀585年、物部守屋は3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、
海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。」
守屋は海石榴市が自分の領地だから連れてこれたのでしょう。
6世紀末の14mの横穴式石室を作ったのは物部氏ではないでしょうか。
。
守屋が蘇我馬子と争った丁未の乱(ていびのらん)で死に物部宗家が滅びます。
生き残った物部の有力者が一族再興を願い、死後に氏神と添い寝する形でホケノ山古墳の横穴式石室に埋葬されたのではないか。
ホケノ山古墳が物部の氏神墓だった。
ならば3世紀の主体被葬者被葬者はウマシマジまたはヒコユキだったのではないか。
などと考えてます。 >14mというのは、あの石舞台古墳の倍ですから、相当力のある豪族が造ったのでしょう。
測る基準が違うぞ
ホケノ山の石室が14メートルってのは全長
つまり羨門から玄室奥壁までの長さだ
石舞台で同じ区間を測ったらおよそ18メートルになる
ホケノの横穴式石室の主は三輪君逆だな
地域、年代観、墳丘を造る余裕がなかった状況、
いずれも文献の記録と考古学的成果にピッタリだ >>337
>石舞台で同じ区間を測ったらおよそ18メートルになる
だから何だ、ホケノ山の横穴式石室が大豪族にとって造られた反論にならない。
>ホケノの横穴式石室の主は三輪君逆だな
三輪は4世紀以降だ。
三輪の祖先がなんで3世紀のホケノ山の被葬者なんだアホ。
三輪では纏向遺跡の瀬戸内の強い要素を説明できないだろうが。 >不思議なことに300年以上も経過してから、突然、横穴式石室が作られたことになります。
自分のレスすら理解出来ないのが池沼の証 >>339
ホケノ山主体埋葬部は庄内か布留かの議論もあるが3世紀中頃。
横穴式石室は6世紀末。
「300年以上も経過して」のどこが間違えてるのかな?
おまえは計算もできないのか。 南が東になった根拠がイマイチわからない
テンプレも含め畿内説の見苦しい言い訳のように思えてならない
誤認、誤写なんて証拠は一切ないし憶測でしかない
誰もが納得する説明を頼む
単里の議論が続くが九州説のスレで頼む
畿内説のスレだから敢えて 単里をここで議論するのは九州説のペースにはまるだけでは >>341
会稽東冶の東なんだから短里じゃないし南は東の間違いだろう
反論もできないで「見苦しい」とか感情論に逃げてるから正論に納得できないだけだよ >>341
自分のレスすら理解出来ないのが池沼の証
>>ホケノの横穴式石室の主は三輪君逆だな
>三輪は4世紀以降だ。
>三輪の祖先がなんで3世紀のホケノ山の被葬者なんだアホ。 >>293
>>律歴志という魏で使われた度量衡を記した書には
一里=三百歩
一歩=六尺とあって
一尺の基準となる約24cmのモノサシ正始弩尺も見つかっている
そこから換算すれば魏で使われていた里は
短里の一里=約80mではなく一里約430m<
後代の長里時代の史書学者の「長里しかなかった」という自己解釈の律歴志は」は、
周髀算経や魏志などの短里記録の確認がされておらず、
欠陥史書であり、×。
>さらに魏では文帝の度量衡統一の指示もあり 使われていた単位は一つ
なので少なくとも魏で書かれた記録は短里で記されようがない <
文帝は、秦漢代の殆ど長里ばかりであった度量衡を踏襲するのなら、
「度量衡の統一」という指示をする必要がないから、
これも×。 >>345
「度量衡の統一」なんて指示は存在しません。 >>295
>それより歯の黒い人間の住む歯黒国を探されてはいかがか <
中国の古い史書や魏志などで、南洋方面?に「黒歯國」の記録が幾つもあるし、
日本でも、理由がよく判らんが、江戸時代の産後の?婦人が「お歯黒」にする習慣があったようだよ。 >>296
>魏の劉徽が『九章算術』註釈本において「王莽銅斛,於今尺為深九寸五分五厘」と書いている
この王莽銅斛は新莽嘉量として知られるもの(台北・故宮博物院蔵)
これにより魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算できる<
九章算術は、「長里」で書かれた算術書として有名であるが、
尺の寸法は、「里歩系」の寸法と全く関係がなく、周代から殆ど変わっていないから、
「魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算」出来ても、
何の問題もない。
>魏の里は435.392m(一里=1800歩)<
文帝は「1歩=6尺」の始皇帝の換算命令を否定したのであるから、
これも×。 >>348
>文帝は「1歩=6尺」の始皇帝の換算命令を否定したのであるから、
これも捏造。 このように
九州説は中国史を根っこから破壊しないと主張できない
つまり無理 >>298
>魏志倭人伝に考古資料や科学的測定を加えて畿内説は補強されている<
畿内なんて存在もしなかった。
また魏志の里記載の殆どは、短里ばかりで書かれていて、
6倍位になる始皇帝命令の(1歩=6尺の)長里記載は全くのように存在しない。
つまり、魏志倭人伝の里記載は、大和説を拒否し、否定している。
>史料の不確かな部分を自説に有利なように強引に解釈するしかない九州説は弱いな<
「南→東」などのように、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しまでして、
大和説に不利な史料記載の部分を、自説に有利なように強引に解釈するしかない大和説は、
弱いな。 >>304
>計測する地がお互い東西にズレて実際の直線距離は600里になるような地で
計測が行われたのかも知れない
なので実際測ったのならどこの地で棒の影長をはかったのか はっきり書いてある史料が必要 <
周髀算経は、「日の入りと日の出での8尺棒の影端を結んで東西を決め、
それと直交する方向を3:4:5の直角三角形の直角を使って南北を決める事が記載されており、
礼記も、円を描いて、その中心に棒を立て、その棒の影端がその円周を横切る2点を結んで東西を決める、
という方法を記載しているから、
周代の人は、東西南北を殆ど間違えないので、
この男も嘘つき騙しであり、・・・・×人間。 >>353
間違えないのは天文学者と建築家くらいだよ >>306
>絹は倭国で作られているとあるだけで特に邪馬台国特産とは書かれてない
鉄は畿内の古墳から多数見つかっている<
大和の絹も鉄も3世紀末以後であり、卑弥呼の時代では全くない。
>景初三年(239年)と卑弥呼が魏に使いを送った年と複数の史料にある<
肝心の皇帝名は、通典と書紀に「明帝」だと明記されていて、他の皇帝名は一切なく、
明帝は、景初三年元日に亡くなっているので、
倭の使節との面会も詔書も景初二年であった事になり、
従って、景初三年鏡は、魏の下賜の鏡ではない。
>魏の年号が入った三角縁神獣鏡が見つかる<
三角縁神獣鏡は、
洛陽から0〜1枚しか出土せず、尚方作鏡も見つからず、
列島からは500枚以上見つかっているので、
明帝の下賜鏡ではない。 >>307
>その割には九州説は史料にないことばっかり主張しているようだが <
その割には大和説は、「南→東」などのように、
史料に存在ないことばっかり主張しているようだが。
>三角縁神獣鏡は呉の職人が作ったとか<
三角縁も神獣鏡も、呉で盛行し、楽浪に広がっていたし、
呉からの「海東」鏡の相当するのは、からの楽浪の地よりも九州〜西日本。
>短里とjか <
魏西晋朝の公定里や周髀算経の里は、短里。 >>308
>卑弥呼が魏と絹をやり取りしていたのに邪馬台国には絹がないと言い張るつもり?
そりゃ無理があるだろ。<
邪馬台国なんて存在しない。
また、倭絹や中国絹があったのは、筑紫ばかりであり、
大和に絹が見つかったのは、3世紀末であり、卑弥呼や壹與の絹にはならない。 >>309]
>別に邪馬台国そのものが絹の産地じゃなくてもいいだろ <
邪馬台国なんて存在しないし、
また、卑弥呼の頃に倭絹や中国絹が見つかったのは、筑紫ばかりであり、
大和に絹が見つかったのは、3世紀末であり、卑弥呼や壹與の絹にはならない。 >>356
>魏西晋朝の公定里や周髀算経の里は、短里。
だなんて妄想ね
なんの根拠もない
周髀算経でさえ六尺=一歩、三百歩=一里だ >>311
>短里という度量衡が存在したのではなくて
東夷を実際より大きく描いた観念的世界観だからな<
変な世界観思想で、「実際よりも6倍も大きく描いた」報告書を書けば、
バレれば、魏使らや陳寿の首が危ないだろうなあ。 >>313
>産地との交流そのものがなかったように見えるのですよ。<
魏使らが見聞した地域に、絹が存在していない、
という話は、×。 >>343
計其道里當在會稽東冶之東は
いろんな説あり却下 >>362
いろんなトンデモ説があっても関係ないね
通説の勝ち >>315
>>「古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步」というのは、
説文解字以後の文なのではありませんか?。<
>《說文解字注》は清代の段玉裁の注釈だが、該当部分は鄭注からの引用 <
>鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
<鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。
後漢の初期に成立している文書だよ <
嘘を付くな。
鄭玄は、検索では、後漢末の人だとしてあるよ。
説文解字の、
「後漢の許慎(きょしん)の作で、和帝の永元12年(西暦100年)に成立」
よりもはるかに後代だな。
>でも、自分でググればすぐに分かるだろうに
相変わらず、ザラコクさんは、知らない、調べない、理解しない、のないないづくしww <
何だ?、やっぱりインチキ・・・・詐欺師のwwの「変な投稿」であったのかい。 >>316]
>>>実測データはない <
>ある。
夏至正午の8尺棒の、影長の周地付近での計測や、
その南北千里地点の計測や、そこでの影長計測が、実測データ。<
>ザラコクさんがいくら言い張っても無意味だよ
ザラコクさんの言葉にはまったく根拠も信用もないんだからww<
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホのwwさんがいくら言い張っても無意味だよ。
wwさんの言葉にはまったく根拠も信用もないんだからww。 >>321の訂正
「このように計測地がはっきりしていないと 一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できない
ゆえに論拠としては用いれない」
は、×。
このように計測地がはっきりされているから、
一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できる。
ゆえに論拠としては用いられる。 >>322
>どっからどこで測ったとはっきりしないなら 一寸千里は実測値とは扱えない
架空の数値<
周髀算経の一寸千里は、
周地付近やその南北千里の地点であれば、どこでも成立する、という記述。
どっからどこで測ったとはっきりさせる必要もなく、
一寸千里は実測値とは扱える。
実測の数値。 帯方郡から邪馬台国までの距離数は『萬二千餘里』
帯方郡から末廬国までをちょうど『萬餘里』としている。そうすると、末廬国から邪馬台国までは『二千餘里』しかない。
『二千餘里』の距離数は対馬から末廬国までの距離数と一致?
距離は正確に測れたのだろうか?(特に海路)
方位は間違えようが無いが・・太陽・星 >>369
現実に方向間違えてんだから、その考えはペケなー >>368
オレは正しいゾーと言ったら正しくなるわけもなく
成立するゾーと言ったから成立するわけがない
実測した形跡のない数字を実測として扱うことは出来ず
古代中国人から妄説と呼ばれた一寸千里を信用も出来ない >>372
間違えた実例があるのだから
全称命題「方位は間違えようが無いが・・太陽・星」
は不成立
論理的にあたりまえだな >>370
現実って何
すごい論調
はぁーーーーー >>375
例ならテンプレにあるよ
古今東西世界中だれも間違えないとでも言うの? >>368
>周髀算経の一寸千里は、
>周地付近やその南北千里の地点であれば、どこでも成立する、という記述。
大地は平面ではないのでどこも成立しない >>373
ものすごく低い確率を出すなよ・・それも状況も違うし
決定打にはならないよ
間違えた確率はゼロに近いがゼロでは無いぐらいにしとけよ 周髀算経が実測じゃないことは昔からバレてて、漢代にもう蓋天説にツッコまれて論破されてる
周髀家は反論できなくて論争に破れた >>380
確率が低いって根拠は?
そんな統計あるん? >>381
そんなことは判らない
現地でのミスかも知れないし
翻訳の手違いかも知れないし
政治的意図で歪めたのかも知れない
間違いはどこにでも潜む >>385
末盧国の上陸地点を名護屋浦とすれば伊都国は末盧国の東南東の方角であり東南と表記されても間違いではない。
>>386
奴国は二萬戸の大国でありその国境線も長く、伊都国から東南へ向かうと奴国との国境の一部に着くってことですから間違いではない。 >>387
>末盧国の上陸地点を名護屋浦とすれば
そもそも、その仮説が間違い。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています