邪馬台国畿内説 Part352
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528141524/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>317
不彌國までは今までの里程を足し算すると1万700里
残り1300里だ
それが短里のズレの範囲内という3倍で1里240mと計算すれば
約2700kmで畿内に届くかもなあ >>319
それだけばらつきがあるなら測定のミスか何かだな
短里はなかった で、畿内説さんの里ではどこになるんですか?
あ、海の中でしたねwwww >>317
>不彌國で合計の「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
終わってないよ
終わらせるためには、他に一切用例のない「島巡り仮説」を採用しないといけないww
九州説は、他に一切用例のない無理読みを多数開発することによってのみ、成り立って
いる恥ずかしい説でしかない
いや、すでに説とすら呼べない代物だなww >>325
ちゃんとソースを付けて
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
布留式甕になる前から、畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順できっちり九州から出てるよ
畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが確認できる >>329
お前の脳内の謎の「島巡り仮説」とやらが他に一切用例が無いってだけだからな
お前の脳内が間違ってるだけだろう >>326
測定の精度が悪いとは言えるが、短里がなかったという結論は出せないよ。 東夷だからね。
統一されていない、独自の里を使っていたんだよ。
でも東夷伝の中では一貫している。 3世紀前半から中ごろに築造と言われるホケノ山古墳ですが、その土手には6世紀末頃の14mの横穴式石室があります。
http://livedoor.blogimg.jp/myacyouen-hitorigoto/imgs/1/7/17132098.png
不思議なことに300年以上も経過してから、突然、横穴式石室が作られたことになります。
14mというのは、あの石舞台古墳の倍ですから、相当力のある豪族が造ったのでしょう。
6世紀後半、桜井を支配してたのは物部守屋です。
「日本書紀585年、物部守屋は3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、
海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。」
守屋は海石榴市が自分の領地だから連れてこれたのでしょう。
6世紀末の14mの横穴式石室を作ったのは物部氏ではないでしょうか。
。
守屋が蘇我馬子と争った丁未の乱(ていびのらん)で死に物部宗家が滅びます。
生き残った物部の有力者が一族再興を願い、死後に氏神と添い寝する形でホケノ山古墳の横穴式石室に埋葬されたのではないか。
ホケノ山古墳が物部の氏神墓だった。
ならば3世紀の主体被葬者被葬者はウマシマジまたはヒコユキだったのではないか。
などと考えてます。 >14mというのは、あの石舞台古墳の倍ですから、相当力のある豪族が造ったのでしょう。
測る基準が違うぞ
ホケノ山の石室が14メートルってのは全長
つまり羨門から玄室奥壁までの長さだ
石舞台で同じ区間を測ったらおよそ18メートルになる
ホケノの横穴式石室の主は三輪君逆だな
地域、年代観、墳丘を造る余裕がなかった状況、
いずれも文献の記録と考古学的成果にピッタリだ >>337
>石舞台で同じ区間を測ったらおよそ18メートルになる
だから何だ、ホケノ山の横穴式石室が大豪族にとって造られた反論にならない。
>ホケノの横穴式石室の主は三輪君逆だな
三輪は4世紀以降だ。
三輪の祖先がなんで3世紀のホケノ山の被葬者なんだアホ。
三輪では纏向遺跡の瀬戸内の強い要素を説明できないだろうが。 >不思議なことに300年以上も経過してから、突然、横穴式石室が作られたことになります。
自分のレスすら理解出来ないのが池沼の証 >>339
ホケノ山主体埋葬部は庄内か布留かの議論もあるが3世紀中頃。
横穴式石室は6世紀末。
「300年以上も経過して」のどこが間違えてるのかな?
おまえは計算もできないのか。 南が東になった根拠がイマイチわからない
テンプレも含め畿内説の見苦しい言い訳のように思えてならない
誤認、誤写なんて証拠は一切ないし憶測でしかない
誰もが納得する説明を頼む
単里の議論が続くが九州説のスレで頼む
畿内説のスレだから敢えて 単里をここで議論するのは九州説のペースにはまるだけでは >>341
会稽東冶の東なんだから短里じゃないし南は東の間違いだろう
反論もできないで「見苦しい」とか感情論に逃げてるから正論に納得できないだけだよ >>341
自分のレスすら理解出来ないのが池沼の証
>>ホケノの横穴式石室の主は三輪君逆だな
>三輪は4世紀以降だ。
>三輪の祖先がなんで3世紀のホケノ山の被葬者なんだアホ。 >>293
>>律歴志という魏で使われた度量衡を記した書には
一里=三百歩
一歩=六尺とあって
一尺の基準となる約24cmのモノサシ正始弩尺も見つかっている
そこから換算すれば魏で使われていた里は
短里の一里=約80mではなく一里約430m<
後代の長里時代の史書学者の「長里しかなかった」という自己解釈の律歴志は」は、
周髀算経や魏志などの短里記録の確認がされておらず、
欠陥史書であり、×。
>さらに魏では文帝の度量衡統一の指示もあり 使われていた単位は一つ
なので少なくとも魏で書かれた記録は短里で記されようがない <
文帝は、秦漢代の殆ど長里ばかりであった度量衡を踏襲するのなら、
「度量衡の統一」という指示をする必要がないから、
これも×。 >>345
「度量衡の統一」なんて指示は存在しません。 >>295
>それより歯の黒い人間の住む歯黒国を探されてはいかがか <
中国の古い史書や魏志などで、南洋方面?に「黒歯國」の記録が幾つもあるし、
日本でも、理由がよく判らんが、江戸時代の産後の?婦人が「お歯黒」にする習慣があったようだよ。 >>296
>魏の劉徽が『九章算術』註釈本において「王莽銅斛,於今尺為深九寸五分五厘」と書いている
この王莽銅斛は新莽嘉量として知られるもの(台北・故宮博物院蔵)
これにより魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算できる<
九章算術は、「長里」で書かれた算術書として有名であるが、
尺の寸法は、「里歩系」の寸法と全く関係がなく、周代から殆ど変わっていないから、
「魏の尺は23.1/0.955=24.188cmと計算」出来ても、
何の問題もない。
>魏の里は435.392m(一里=1800歩)<
文帝は「1歩=6尺」の始皇帝の換算命令を否定したのであるから、
これも×。 >>348
>文帝は「1歩=6尺」の始皇帝の換算命令を否定したのであるから、
これも捏造。 このように
九州説は中国史を根っこから破壊しないと主張できない
つまり無理 >>298
>魏志倭人伝に考古資料や科学的測定を加えて畿内説は補強されている<
畿内なんて存在もしなかった。
また魏志の里記載の殆どは、短里ばかりで書かれていて、
6倍位になる始皇帝命令の(1歩=6尺の)長里記載は全くのように存在しない。
つまり、魏志倭人伝の里記載は、大和説を拒否し、否定している。
>史料の不確かな部分を自説に有利なように強引に解釈するしかない九州説は弱いな<
「南→東」などのように、史料事実を否定曲解する嘘つき騙しまでして、
大和説に不利な史料記載の部分を、自説に有利なように強引に解釈するしかない大和説は、
弱いな。 >>304
>計測する地がお互い東西にズレて実際の直線距離は600里になるような地で
計測が行われたのかも知れない
なので実際測ったのならどこの地で棒の影長をはかったのか はっきり書いてある史料が必要 <
周髀算経は、「日の入りと日の出での8尺棒の影端を結んで東西を決め、
それと直交する方向を3:4:5の直角三角形の直角を使って南北を決める事が記載されており、
礼記も、円を描いて、その中心に棒を立て、その棒の影端がその円周を横切る2点を結んで東西を決める、
という方法を記載しているから、
周代の人は、東西南北を殆ど間違えないので、
この男も嘘つき騙しであり、・・・・×人間。 >>353
間違えないのは天文学者と建築家くらいだよ >>306
>絹は倭国で作られているとあるだけで特に邪馬台国特産とは書かれてない
鉄は畿内の古墳から多数見つかっている<
大和の絹も鉄も3世紀末以後であり、卑弥呼の時代では全くない。
>景初三年(239年)と卑弥呼が魏に使いを送った年と複数の史料にある<
肝心の皇帝名は、通典と書紀に「明帝」だと明記されていて、他の皇帝名は一切なく、
明帝は、景初三年元日に亡くなっているので、
倭の使節との面会も詔書も景初二年であった事になり、
従って、景初三年鏡は、魏の下賜の鏡ではない。
>魏の年号が入った三角縁神獣鏡が見つかる<
三角縁神獣鏡は、
洛陽から0〜1枚しか出土せず、尚方作鏡も見つからず、
列島からは500枚以上見つかっているので、
明帝の下賜鏡ではない。 >>307
>その割には九州説は史料にないことばっかり主張しているようだが <
その割には大和説は、「南→東」などのように、
史料に存在ないことばっかり主張しているようだが。
>三角縁神獣鏡は呉の職人が作ったとか<
三角縁も神獣鏡も、呉で盛行し、楽浪に広がっていたし、
呉からの「海東」鏡の相当するのは、からの楽浪の地よりも九州〜西日本。
>短里とjか <
魏西晋朝の公定里や周髀算経の里は、短里。 >>308
>卑弥呼が魏と絹をやり取りしていたのに邪馬台国には絹がないと言い張るつもり?
そりゃ無理があるだろ。<
邪馬台国なんて存在しない。
また、倭絹や中国絹があったのは、筑紫ばかりであり、
大和に絹が見つかったのは、3世紀末であり、卑弥呼や壹與の絹にはならない。 >>309]
>別に邪馬台国そのものが絹の産地じゃなくてもいいだろ <
邪馬台国なんて存在しないし、
また、卑弥呼の頃に倭絹や中国絹が見つかったのは、筑紫ばかりであり、
大和に絹が見つかったのは、3世紀末であり、卑弥呼や壹與の絹にはならない。 >>356
>魏西晋朝の公定里や周髀算経の里は、短里。
だなんて妄想ね
なんの根拠もない
周髀算経でさえ六尺=一歩、三百歩=一里だ >>311
>短里という度量衡が存在したのではなくて
東夷を実際より大きく描いた観念的世界観だからな<
変な世界観思想で、「実際よりも6倍も大きく描いた」報告書を書けば、
バレれば、魏使らや陳寿の首が危ないだろうなあ。 >>313
>産地との交流そのものがなかったように見えるのですよ。<
魏使らが見聞した地域に、絹が存在していない、
という話は、×。 >>343
計其道里當在會稽東冶之東は
いろんな説あり却下 >>362
いろんなトンデモ説があっても関係ないね
通説の勝ち >>315
>>「古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步」というのは、
説文解字以後の文なのではありませんか?。<
>《說文解字注》は清代の段玉裁の注釈だが、該当部分は鄭注からの引用 <
>鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
<鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。
後漢の初期に成立している文書だよ <
嘘を付くな。
鄭玄は、検索では、後漢末の人だとしてあるよ。
説文解字の、
「後漢の許慎(きょしん)の作で、和帝の永元12年(西暦100年)に成立」
よりもはるかに後代だな。
>でも、自分でググればすぐに分かるだろうに
相変わらず、ザラコクさんは、知らない、調べない、理解しない、のないないづくしww <
何だ?、やっぱりインチキ・・・・詐欺師のwwの「変な投稿」であったのかい。 >>316]
>>>実測データはない <
>ある。
夏至正午の8尺棒の、影長の周地付近での計測や、
その南北千里地点の計測や、そこでの影長計測が、実測データ。<
>ザラコクさんがいくら言い張っても無意味だよ
ザラコクさんの言葉にはまったく根拠も信用もないんだからww<
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホのwwさんがいくら言い張っても無意味だよ。
wwさんの言葉にはまったく根拠も信用もないんだからww。 >>321の訂正
「このように計測地がはっきりしていないと 一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できない
ゆえに論拠としては用いれない」
は、×。
このように計測地がはっきりされているから、
一寸千里の法が正しく計測されたものなのかか確認できる。
ゆえに論拠としては用いられる。 >>322
>どっからどこで測ったとはっきりしないなら 一寸千里は実測値とは扱えない
架空の数値<
周髀算経の一寸千里は、
周地付近やその南北千里の地点であれば、どこでも成立する、という記述。
どっからどこで測ったとはっきりさせる必要もなく、
一寸千里は実測値とは扱える。
実測の数値。 帯方郡から邪馬台国までの距離数は『萬二千餘里』
帯方郡から末廬国までをちょうど『萬餘里』としている。そうすると、末廬国から邪馬台国までは『二千餘里』しかない。
『二千餘里』の距離数は対馬から末廬国までの距離数と一致?
距離は正確に測れたのだろうか?(特に海路)
方位は間違えようが無いが・・太陽・星 >>369
現実に方向間違えてんだから、その考えはペケなー >>368
オレは正しいゾーと言ったら正しくなるわけもなく
成立するゾーと言ったから成立するわけがない
実測した形跡のない数字を実測として扱うことは出来ず
古代中国人から妄説と呼ばれた一寸千里を信用も出来ない >>372
間違えた実例があるのだから
全称命題「方位は間違えようが無いが・・太陽・星」
は不成立
論理的にあたりまえだな >>370
現実って何
すごい論調
はぁーーーーー >>375
例ならテンプレにあるよ
古今東西世界中だれも間違えないとでも言うの? >>368
>周髀算経の一寸千里は、
>周地付近やその南北千里の地点であれば、どこでも成立する、という記述。
大地は平面ではないのでどこも成立しない >>373
ものすごく低い確率を出すなよ・・それも状況も違うし
決定打にはならないよ
間違えた確率はゼロに近いがゼロでは無いぐらいにしとけよ 周髀算経が実測じゃないことは昔からバレてて、漢代にもう蓋天説にツッコまれて論破されてる
周髀家は反論できなくて論争に破れた >>380
確率が低いって根拠は?
そんな統計あるん? >>381
そんなことは判らない
現地でのミスかも知れないし
翻訳の手違いかも知れないし
政治的意図で歪めたのかも知れない
間違いはどこにでも潜む >>385
末盧国の上陸地点を名護屋浦とすれば伊都国は末盧国の東南東の方角であり東南と表記されても間違いではない。
>>386
奴国は二萬戸の大国でありその国境線も長く、伊都国から東南へ向かうと奴国との国境の一部に着くってことですから間違いではない。 >>387
>末盧国の上陸地点を名護屋浦とすれば
そもそも、その仮説が間違い。 @阿波 >>388
倭人伝に記された方角から考えて末盧国の上陸地点は名護屋浦ですし
名護屋浦は天然の良港で魏使の船が入港するには最適の場所ですから
魏使が末盧国に上陸地点した場所は名護屋浦以外にはあり得ません。 >>383
簡単だよ、
歴史上、朝鮮半島から日本に来て、
方位を間違った文献はほとんど無い 朝鮮通信使だけとっても、方位を間違ったの一度だけじゃないの >>391
間違った文献は幾つで、正しく書いた文献は幾つ? >>389
>倭人伝に記された方角から考えて末盧国の上陸地点は名護屋浦ですし
倭人伝に記された方角から考えて末盧国?
倭人伝に末盧国への方角なんて書いてないでしょ。 @阿波 >>322
>どっからどこで測ったとはっきりしないなら 一寸千里は実測値とは扱えない
架空の数値<
きちんと、周地付近や南北千里や、それらの地での夏至正午の8尺棒の影長を、
1尺5寸や1尺6寸や1尺7寸であった、と記録してあるから、
実測値。 >>324
>不彌國までは今までの里程を足し算すると1万700里
残り1300里だ<
方四百余里の對海國と方三百里の一大國の国内を見聞移動した事を記載し、」
奴國へは「途中移動があった記載がない」から、奴國へは行っておらず、
だから、不彌國で萬二千余里は殆ど使い果たしており、
残りは1300里には全くならない。
>それが短里のズレの範囲内という3倍で1里240mと計算すれば
約2700kmで畿内に届くかもなあ<
畿内なんて存在もしていなかったんだし、
「短里のズレ」とか「3倍で1里240m」とかの史料根拠もない勝手な妄想で、
インチキを匂わすこの男は、やはり・・・・詐欺師。 >>326
>>魏志に書かれた「里」記載は、殆ど全て、「1里=430m」ではなく、
「1里=50m〜100m」位の間であった。<
>それだけばらつきがあるなら測定のミスか何かだな 短里はなかった<
有効数字1桁程度の近似値計測であったから、ばらつきがあったのであり、
6倍位の430mなんて長里には全くならないから、
長里ではなかった。 >>396
>だから、不彌國で萬二千余里は殆ど使い果たしており
それは古田珍説の独自解釈 >>398
>有効数字1桁程度の近似値計測であったから、ばらつきがあったのであり、
ばらつき以前に、何処からどこまで測るか
地点の特定すらも出来ていない
説として成り立っていない >>329
>>不彌國で合計の「萬二千余里」がほぼ終わっているから、<
>終わってないよ<
大和説は終わっている。
>終わらせるためには、他に一切用例のない「島巡り仮説」を採用しないといけないww<
史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、確率の高い帰納的推論だ。
>九州説は、他に一切用例のない無理読みを多数開発することによってのみ、成り立って
いる恥ずかしい説でしかない<
大和説は、「南→東」などの史料事実の否定抹殺の嘘つき騙しの・・・・大和説学者らの、
史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの・・・・説を妄信隷従する事によってのみ成り立っている、
恥ずかしい限りの説でしかない。
>いや、すでに説とすら呼べない代物だなww <
いや、wwの話は、すでに説とすら呼べない代物だなww。 >>393
南を東にしたいなら自分で調べたらいい
確率が高ければ畿内説に優位だと思う
先ず、朝鮮通信使では一度だけだな >>389
>魏使が末盧国に上陸地点した場所は名護屋浦以外にはあり得ません。
名護屋浦が大陸からの玄関口ならば、名護屋浦に大陸からの遺物がいっぱい有る筈。
福津や宗像のようにね。 @阿波 >>401
>史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、確率の高い帰納的推論だ。
帰納した形跡なし
確率も算定した形跡なし
ただの自己賛美美辞麗句だな
空疎 >>402
じゃあ確率が低いという反論は無効ね
こっちは「間違いはあり得ない」が否定できればいいの
そして目的は果たされてる
これ以上すること無し >>330
>布留式甕になる前から、
畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順できっちり九州から出てるよ<
佐々木の論考は、柳田と米田らに拠って、既に否定されている。
庄内の列島での発生は、三雲であり、それから弥生銀座や東征毛人五十五國地域に伝わり、
その内の播磨や河内から弥生銀座付近に搬入上納されたのであり、
大和から弥生銀座への搬入上納は殆どなく、
布留は、米田に拠って、大和や河内よりも南加賀の方が古くて、
その南加賀と弥生銀座のどちらが古いか?が未定であるだけ。
>畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、
正確に畿内の製作技法で九州の胎土で作られた土器、<
畿内なんて存在もしない地名を使っているのが、嘘つき騙しのインチキ。
三雲や南加賀が大和よりも先行していた。
>畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが確認できる<
搬入上納土器は、播磨や河内の胎土であり、三雲や南加賀の模倣生産。 >>405
間違いはありえないと言うには
確率論が必要なんだがねw w >>331
>お前の脳内の謎の「島巡り仮説」とやらが他に一切用例が無いってだけだからな
お前の脳内が間違ってるだけだろう<
そりゃ、中国の周りの島国で、
魏の使節らが里数や方向を記録しながら移動した、って事は、
倭地以外にないから、だろうよ。
それが判らないお前の脳は、腐っているんだろ?。 >>407
405は宗教だから放っておけば良いのに
彼は何も論じてない
南を東に変えないと畿内説が成り立たないから
ゴネてるだけ 驚いたな、、、キナイコシの脳が腐っているのか。。。。 >>333
>測定の精度が悪いと度量衡を統一してないのと同じ<
6倍も違う事なく、
有効数字1桁以内位の精度で記録出来た、ってことは、
度量衡が統一されていた、という事と同じ。 >>335
>独自の里なら、測量してない、<
秦漢代の公定里と比べて、6倍も違う事なく、
有効数字1桁以内位の精度で記録出来た、ってことは、
(周髀算経と同じの)短里を使って計測していた、という事と同じ。 >>411
陵遅刑じゃないから斬首は残虐な刑罰ではない
みたいな理屈に
笑笑 >>407
それなのに
間違いはありえない
と繰り返す九州は
宗教 >>412
短里って秦漢代の公定里と比べて
6倍くらい違いますが、何か?
有効数字1桁以内位の >>414
九州説しかありえない
邪馬台国の3000里南には小人国があるとか、ガリバー旅行記みたいな代物を
まじめに信じてどうすんだよw
侏儒国は、高知県沖の、沖の島だけどな
江戸時代の地誌「沖の島記」に
それらしき描写がある >>416
だから九州さん
ガリバー旅行記みたいな代物を
まじめに信じてどうすんだよw キナイコシはご都合主義だから、
論破される
シナリオがその場かぎり >>417
女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、
人の長(たけ)三・四尺、女王を去る四千余里。
復(ま)た国有り、皆倭種なり ←関西人 近畿のこと
又有侏儒國在其南
↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
江戸時代の地誌「沖の島記」にそれらしき描写がある
横山やすしの母方の故郷 >>331
>お前の脳内の謎の「島巡り仮説」とやらが他に一切用例が無いってだけだからな
そういうことを書く時には、「島巡り仮説」とやらの他の用例を一つでも挙げれば
すごく説得力が出るのにww
それをしない、できない時点で、ただの空論ww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています