邪馬台国畿内説 Part352
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528141524/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>373
>間違えた実例があるのだから
全称命題「方位は間違えようが無いが・・太陽・星」 は不成立
論理的にあたりまえだな<
魏や郡の役人たちが関与し計測した方位記録には、
間違いが全くのように存在していない。
拠って、この大和説男も嘘つき騙しの・・・・詐欺師であり、
新幹線や秋葉原やオームと同じような、危険な狂人。
論理的にあたりまえだな。 >>550
じゃあ一里の長さはどうやって出したの? >>567の言動を見てると、いつ車中で狂刃を振るわないか不安でならないよ >>560
>魏使らは、当然周髀算経の一寸千里を知っているから、海路であっても、
>大体の南北距離は測れ、間違えようがない。
それを知っていて、またそれが正しかった場合でも、
夏至の正午に
八尺棒を
垂直に立てて、
正確に影の長さを測らないといけない
夏至の頃に、倭国のいろんな場所で、きちんと正午に測らないと
一寸千里の法は使えない
そして、そこまでしても、南北方向の距離しか出ないから、
「東南」方向の距離は結局いい加減になる
そして、ここまで何度も書かれているように、一寸千里の法は
机上の空論で、きちんと測定しているという証拠がない
よって、ザラコクはうそつき >>377
>例ならテンプレにあるよ<
何故、それを出さないんだい?。
嘘つき騙しの・・・・の大和説仲間だから?。
>古今東西世界中だれも間違えないとでも言うの?<
別に言わないよ。
そりゃ、世界中には、
東西南北の事がよく分からなかったり、
思想宗教などに狂った・・・・もいない訳ではないし、
判る必要もなかった人のいるんだろうし、
そのような人々からの伝聞情報であれば、少し間違っている事も有り得るが、
魏や郡の役人たちが確認した情報であれば、ほぼ100%間違える事はない。 >>378
>>周髀算経の一寸千里は、
周地付近やその南北千里の地点であれば、どこでも成立する、という記述。<
>大地は平面ではないのでどこも成立しない<
周地付近やその南北千里の地点付近以内であれば、有効数字2桁程度以内の程度で、
成立する。 >>381
>東が南になったのは転写ミスだよ<
「南」と「東」とは、意味も字形も全く違うんだから、
転写ミスを起こす確率は、
類似意味や字形の場合でも0.5%以下なので、
0.1%よりもはるかに低い、というレベルだよ。 正確には地球の重力の等ポテンシャル面は回転楕円体の形なので、
地表の鉛直方向は、極および赤道を除き、地球中心を指していない。
さらに正確には地球の重力ポテンシャルは複雑で、
地表付近の重力の等ポテンシャル面(ジオイド)は複雑に歪んでおり、
回転楕円体面の法線方向と比べると、実際の地表の鉛直方向は傾斜していることになる。
だからまず谷本の計算で説明しているようなモデルの
延長が地球中心で交わるような八尺棒を垂直に立てて影の長さを測る平面を作ることが難しい
実際に各地で実験してみないとどのくらいの誤差が出るかわからない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%9B%E7%9B%B4 >>382
>周髀算経が実測じゃないことは昔からバレてて、
漢代にもう蓋天説にツッコまれて論破されてる<
そりゃ、蓋天説も、周地付近での観察計測実態からの帰納的推論であったから。
しかし、一寸千里が実測であった、という記述であるから、唐代になっても、
まだ尚も、確認計測を命令する皇帝が絶えなかった。
>周髀家は反論できなくて論争に破れた<
いずこの世界でも、日本の・・・・大和説者らと同じように、
不可知部分に関しての議論で、
(自分等も出来ない癖に)
議論相手に「100%完全な証拠や論証」という不可能な事を要求して、
議論に勝った、と宣伝して、世間の人々を騙そうとする・・・・がいるもの。 >>383
>確率が低いって根拠は? そんな統計あるん?<
写本での、一般の文字と類似文字との間違いの発生確率は、0.5%以下。
例えば、邪馬壹國と邪馬臺國や、治と冶や、二と三や、幢と憧など。
そして、「南」と「東」などのような、
意味も字形も全く違っている場合の間違える確率は、0.5%以下よりもはるかに低いから、
0.1%位以下。
だから、殆ど間違えない。 >>576
一里が75mだとか80mだとかいう数字は
どこから持って来たの? >>384
>そんなことは判らない<
校勘対象になった文字数や、後代史家が書き換えた文字数などを数えれば、
間違えた確率は簡単に出て来る。
>現地でのミスかも知れないし<
魏使らは、周髀算経を当然知っているから、「南」と「東」は、ミスを全く犯さない。
>翻訳の手違いかも知れないし<
魏使らは、実際に計測出来るんだから、「翻訳の手違い」なんて、全く存在しない。
>政治的意図で歪めたのかも知れない <
バレれば首が飛ぶ可能性があるから、魏使らは「政治的意図で歪める」事も、全く出来ない。
>間違いはどこにでも潜む<
正常の人には全く起きないが、
思想宗教に狂った・・・・大和説のような異常者であれば、どこにでも潜む。 >>385
>伊都国は末盧国の東南じゃないでしょ?<
陳寿の行程説明の習慣に拠れば、
「東南」は、(伊都国方向ではなく)、末盧國からの出発時点での出発方向。 >>582
>末盧國からの出発時点での出発方向
そんな読み方をするのは、九州説の中でもごく一部だけ >>386
>奴国は伊都国の東南じゃないでしょ?<
奴國は、伊都国の東南百里(7.6〜7.7km)にある、という事だから、
伊都国からほぼ見えており、
「伊都国の東南じゃない」と言ったこの男が、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。 >>580
一番分かり安いのは
「韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」だな
1里80mなら韓の面積は102,400 km²となり
韓国の面積は100,210 km²と近い。 東夷の里が中原の里よりはるかに短かったのは、史料的に明らかですね。 >>388
>>末盧国の上陸地点を名護屋浦とすれば<
>そもそも、その仮説が間違い。 @阿波<
名護屋もおそらく末盧國内の外縁部であるから、可能性は十分にあり、
「仮説」でもなく「間違い」でもない。
しかし、「阿波(倭国)」説は、
「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠って、(大和説と同じく)、
ほぼ完全に間違い。 >>587
そんな里単位が使われたという根拠、ないんだけど >>475
>「倍正南方,以正勾定之」であるから、区域が南に二倍位広がった事を意味し、
ここでの「倍」は、背向(back towards)
http://www.zdic.net/z/15/xs/500D.htm
>天空上の斜めに配置された太陽位置(宿)を投影するための(円を二つ位含む)楕円形。
二十八宿は星宿
徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一 は、
1太陽年の長さ=365度4分の1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%AE%BF >>393
>間違った文献は幾つで、正しく書いた文献は幾つ?、
朝鮮通信使は、周髀算経の方向決定法や距離計測法を知らない単なる文官であったようであり、
案内日本人からの伝聞的情報でしかなく、
魏使らのような正確性は、始めから求められない。 >>588
韓は長いこと公孫氏の勢力下にあったから公孫氏が測ったんだろうな。 ホケノは邪馬台国と関係無いから、
どうでもいいと思ってます >>586
1里が80mだと、唐津市と糸島市の境から100里行って前原市街地にも着かないんだけど
伊都国はどこ?
奴国はどこ? >>594
相争ってた倭国大乱の片方だから思いきり関係がある。 南が東の方位の違いは
詳細には分からないが
春秋、史記、漢書、後漢書、三国志、で
方位が違う例が多数存在するなら納得できる
誰か詳しく人居ないか すまん
中国の古代正史に詳しい人が
居れば、方位の違い倭人伝以外で多数照会して欲しい >>597
だが、転写ミスと言われてる古代中国の文献も含めてヨロシク 唐津市と糸島市の境には山があるので伊都国は筑前深江付近が実質的な国境で
筑前深江付近から100里(8q)ですが、切りの良い100里は丸めた数字でしょうから
8q±2qくらいは幅があるでしょう
筑前深江付近から10qで福岡市が奴国ですね。 >>596
倭国大乱は九州内ですからホノケとか関係ない。 >>600
>筑前深江付近から10qで
相変わらず適当だな(呆)
筑前深江の駅から10キロ直線で行っても、まだ糸島平野の中だぞ
ザラコクみたいに、糸島平野まで奴国を引っ張ってくる気か? >>600
>唐津市と糸島市の境には山があるので伊都国は筑前深江付近が実質的な国境で
もっとずっと西の大入や福吉に遺跡ありますけど?
唐津市と糸島市の境からじゃなかったの? しばし
邪馬台国は倭人の圀
ヤマト王権、朝廷、今の日本は渡来人と倭人の合作の圀じゃよDNA 学者が笑われてるよ
何なの
「纒向型前方後円墳」wwwwwww 九州と畿内の地名の類似がよく言われる。
九州から畿内に地名が移ったという論者がほとんど。
が実際は逆で畿内から九州だ。
地名の類似では久留米と橿原市の久米対応している。
が、久留米の語源はそんなに古くない。
一方、橿原の久米は神武の時代であろうから2世紀末。
また大分の玖珠と葛城の国栖が対応している。
国栖はクス゛の語源であり神武以前からある。
一方,大分の玖珠は古くはない。
玖珠にクス゛という差別問題はない。
この九州と畿内の地名の類似、何のことはない、遣唐使が持ち帰った風水であろう。 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg >>612
>17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
魏志倭人伝の時代からありそうだね。 >>611
神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。
久米一族については、徳島県石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。
一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。
まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。 @阿波 >>605
疑問だが
当時は獣道じゃねーか
人の道の熊野古道(日本書記で出現?)も3、4世紀 無かったんじゃねーの >>611
朝倉地方を中心とした北九州地方の地名と大和地方を中心とした畿内の地名に驚くほどの酷似があり、
発音がほとんど一致しているだけでなく相対的な位置関係もほとんど同じである。
これはアメリカなどイギリスからの移民が行なわれた国々にイギリスと同じ地名があるのと同じで、
この地にあった勢力が畿内に移る時に地名も一緒に移ったものと考えられる。
折口信夫も日本の地名に同じものが多いのは偶然ではなく民団の移動とともに地名も
持ち運ばれたからであると述べている。
畿内説の弱点は、九州と近畿の地名相似を説明できないことにあると思う
どう考えても、どちらかの移住者が過去の地名を移住先に付けたとしか思えないが、
畿内→九州への移住は考えにくい >>610
卑弥呼の墓が前方後円墳の始まり?
前方後円墳が邪馬台国となんらかの
関係があるのか誰も分からない 学者もお手上げ前方後円墳と邪馬台国 久米の名は、天孫が筑紫に降臨する時に随伴した天津久米命に由来し、神武東征の時も天津久米命の末裔の大久米命が随伴した。
久米の子らと呼ばれる近衛部隊のようなものだったろう。
最後は大和に骨を埋めたが、筑紫の方が古いのは明らかだ。 3世紀三輪山がご神体なら
前方後円墳は東西南北一致してるはずだがバラバラ 何故 畿内説のスレらしくなってきた
前方後円墳と邪馬台国
興味ある議題 >>616
>どう考えても、どちらかの移住者が過去の地名を移住先に付けたとしか思えないが、
>畿内→九州への移住は考えにくい
簡単なこと。 九州←倭国(阿波)→畿内 @阿波 >>616
いやだから久米=久留米と国栖=玖珠の例を出して、
畿内の方が古いと言ってるわけだが? >>397
>>きちんと、周地付近や南北千里や、それらの地での夏至正午の8尺棒の影長を、
1尺5寸や1尺6寸や1尺7寸であった、と記録してあるから、 実測値。<
>それは計算で出しただけ<
逆。
実測値から、天地の数を計算で出した。
天地の数が決まっていたんなら、
一寸千里などの数字を記載する必要がないし、求める必要がない。 >>619
>3世紀三輪山がご神体なら
>前方後円墳は東西南北一致してるはずだがバラバラ 何故
倭国(阿波)の豪族墓だから。 もちろん、3世紀は三輪山がご神体ではない。 @阿波 >>620
箸墓が最古の前方後円墳でモモソの墓としたら
陵墓を見直す必要があるな >>399
>>だから、不彌國で萬二千余里は殆ど使い果たしており<
>それは古田珍説の独自解釈<
いや、魏志の記載からの「史料批判に拠った史料実態」。
大和説の解釈の方が、国民の7割に否定されているから、単なる・・・・大和説者の独自解釈。 >>620
奈良の前方後円墳は倭国(阿波)が発祥で、倭国(阿波)の資材・工法に拠っている。 @阿波 畿内説 虐めすぎ
ど素人の畿内説の輩は虐めは容易い
学会へおいで >>622
「《近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であっ
たことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。倭人伝
は、すでに「邪馬台国」の名で呼ばれる北九州の部族連合体政権を魏の使者の報告通りに記載
しているので、この連合体政権は、それより早く、二世紀の後半には存在していたとみなけれ
ばならぬ。そして北九州で蓄積され発達した、この政権のエネルギーがわが国の中央部である
やまと東に移り、現地の部族連合体を吸収して大和古代国家の基礎となったであろうことは
すでに多くの学者の説くところである。すなわち畿内政権の故郷は北九州であると
無理なく考えられよう。記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の
「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州に
ずっと以前からあったものとみなければならない。ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、
豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、
大化後の行政区画である豊みやこ前豊後のうち、豊前がその原体である。
それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家の
いずれも認めるところである。 >>400
>>有効数字1桁程度の近似値計測であったから、ばらつきがあったのであり、<
>ばらつき以前に、何処からどこまで測るか 地点の特定すらも出来ていない
説として成り立っていない<
陳寿は、国間距離は原則として、出発地点も到着地点も、
その国内に立った事の確認が出来る「居住外縁部」までの距離で示しており、
その意味で、特定出来ている。
勿論、むしろ大和説の方が、
「何処からどこまで測るか 地点の特定すらも出来ていない」。 つまり、この京都郡地域は、東遷して成立した大和政権の、母なる地であったことが推定されるのである。
豊の国のミヤコあがたは、伝説の景行天皇が熊襲征伐のとき行宮をこの地方のナガオ(長峡)の県に
置いたから起こったというが、ミヤコを皇都の意味にした京都の字を宛てたのは奈良朝で、
ミヤコというのはこの地方の独立した古い地名であった。
「一体に古い地名は意味のわからぬのが多いことを考えねばならぬ」と津田左右吉博士が言っているとおり、
ミヤコ=京都としたのは二、三世紀と八世紀とを突然に接合したようなものだ。
古い地名のミヤコは、あるいはヒミコとも関連があるかもしれず、空想を許されるなら、
ヒミコは魏の旅行者がミヤコを聞き誤っての訛伝かもしれないのである。
ミヤコの地名が皇都として畿内に東漸したのは、民族の移動に付随してあり得ることである。
いったい景行天皇の西征は架空の物語で、これは奈良朝に全国統一を誇示するために創作された。
景行帝が九州に入った最初の行宮がトヨの国の長峡であったことは、このかつ地が大和政権の
曾ての故郷だったのを現わしている。景行紀によってミヤコ(京都)の名がこの地方に
起こったのではなく、五世紀も隔てて忘れかけられている母国の名がようやくにして
「地方誌」に書きとめられたのである。明治三十三年に京都郡小波瀬村の挾間畏三という人が
『神代帝都考』という一書を著して京都郡仲津郡内を記紀の神代史の地名に当てた。 >>622
国栖はともかく久米は明らかに筑紫→大和だよ。 >>625
>箸墓が最古の前方後円墳でモモソの墓としたら
磯城の王・伊香色雄命(いかがのしこお)であろう。
妹の伊香色謎命(いかがのしこめ)とヒメヒコを形成してることに留意。
この伊香色謎命(いかがのしこめ)から産まれたのが1ミマキイリヒコこと崇神。
崇神が行灯山古墳だとして、その崇神陵墓より巨大な墓を造れたのは、
崇神の叔父であり磯城の王であった伊香色雄命(いかがのしこお)。 ずっと後代になって、暦日が制定され、日付が誰の知識にも入ってくると、
日時をきめて市場が開催されるようになった。
二日市、四日市、五日市、八日市、十日市、二十日市(豊前にも四日市がある)の地名がその
起りということは、ひろく知られている通りだが、「ツバキの市」はそれ以前の原始的形態で、
古代の交換経済の実施場所であったろう。「最初は種族と種族とが、それぞれの氏族長を通じ
て交換した。しかし畜群が特別財産に移りはじめるや、個別的交換が次第に多くなり、逆に唯
一の形態となった。
倭人伝に「大倭」がこの市を監したと伝えるのは、すでに権力階級の発生があったからであり、
この地方権力者による云い伝かんせんえが、のちに中央政府によって官撰の歴史に組みこまれたのであろう。
そういう例は多いのでよある。ツバキが古代に珍しかったのは八、九世紀になっても万葉集などに多く
詠まれているこやまとしきとで分る(4)。海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。
これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の
径路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおける
イングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を
そうしつ喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の
うたがきがはるかに古い証である。大和の海柘榴市が上代の歌垣の場所になったというのは、古代市場
としての広場の機能が転化したとみられるが、わずかにその名残りも伝えられないではなかった。 >>630
>近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であった
北九州にそんな部族など存在しない。 @阿波 >>633
ならば神武の臣下・大久米命は久留米から来たのか?
九州の方が古くあってほしいという君の願望は何の根拠にもならない。 「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。
仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。
奴佳鞮
ぬかて
なかとみ
中臣郷
中臣鎌足
中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい)
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 畿内説だと...
大国主 そんな人はいません、ただの伝説です
アマテラス そんな人はいません、ただの伝説です
ニニギ そんな人はいません、ただの伝説です
木花咲耶姫 そんな人はいません、ただの伝説です
神武 そんな人はいません、畿内王権は自然発生したのであり、筑紫から流入した勢力などありません
卑弥呼 そんな人はいません、実は◯◯姫で、王宮は纒向4棟だけです
九州説だと...
大国主 筑紫の前の倭王です
ニニギ 倭国の王都を筑紫伊都に定めた倭王です
木花咲耶姫 三雲南小路遺跡にニニギとともに葬られた王妃です
神武 筑紫を出て大和に入りました
卑弥呼 筑紫の日向の伊都でクジフル山に高千穂宮の楼閣高くして千人の奴婢が仕え、太陽を象徴する史上最大の「八咫鏡」を持ち、その墓は伊都国代々の王家と同じ方形周溝墓であり古代神道の成立を示す鳥居に守られていました >>403
>>魏使が末盧国に上陸地点した場所は名護屋浦以外にはあり得ません。<
>名護屋浦が大陸からの玄関口ならば、名護屋浦に大陸からの遺物がいっぱい有る筈。
福津や宗像のようにね。 @阿波<
正式の「玄関口」としては、
伊都国が「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯 」
としてして示されている。
そして、名護屋は、一応末盧國の居住外縁部にあたる可能性は十分にある。
勿論、「阿波(倭国)」は、「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠っても×。 >>637
神武本人が九州の生まれなのだから当然だ。
そもそも天孫降臨から久米の名が記紀に登場するのだから。 纒向の掘立柱建造物
石床いくつみつかったの
復元計画があるみたいだけど
纒向は どう復元するの
秀吉の一夜城(墨俣)の見た・・・復元じゃない
墨俣の一夜城は復元と誰も言わないし、象徴的に立てのは周知 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。 >>634
>磯城の王・伊香色雄命(いかがのしこお)であろう。
>妹の伊香色謎命(いかがのしこめ)とヒメヒコを形成してることに留意。
その・伊香色雄命・伊香色謎命 兄妹を今も大切にお祀りし続けているのは
全国唯一、倭国(阿波)だった阿波の忌部の郷。 @阿波 >>639
お。わしの書き込みをコピーして保存してくれてたのか、うれしい。
どんどん信者が増えてくる。
わしの言ってることが正しいからだ。
纏向遺跡は物部。
女王が住んだのは葛城。
ヒミコの墓は高天原(御所市高天)の日本最古の神社の境内にある。
径百余歩の塚の端に奴婢(土蜘蛛)が埋葬されている。 >>647
年代比定は概ねあっているだろう。
ただし、卑弥呼は九州福岡だ。
神武は大和の田舎の大将。 >>404
>>>終わらせるためには、他に一切用例のない「島巡り仮説」を採用しないといけないww<
>史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、確率の高い帰納的推論だ。<
>帰納した形跡なし 確率も算定した形跡なし ただの自己賛美美辞麗句だな 空疎<
5chでも、帰納した事の説明や、確率を算定した説明は、
もう何度も何度も書いて来てある。
wwは、ただの、都合の悪い事に対しての、
「口先での嘘つき騙しのヘイトスピーチ的な街宣」の美辞麗句だな。
空虚。 前方後円墳は畿内の実力者であった物部の墓
神武の実時代は3世紀
卑弥呼がいたのは倭の王都である筑紫 >>642
j神武は九州であるのは当たり前だが、
久留米と南九州では大きく違う、そこら辺を大雑把にするな。
崇神が神武の痕跡地に宮崎神宮を建てている。
崇神が約100年前の祖先の出身地を間違えるわけがない。
神武も久米も南九州であり久留米は何も関係がない。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>650
>前方後円墳は畿内の実力者であった物部の墓
だから、忌部一族の墓ということ。 @阿波 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 >>653
物部の祖である饒速日が十種の神宝の鏡を籠神社に残し、大和で神武と会っている(何歳だ?)。
畿内を開拓したのは饒速日ら物部氏であり、前方後円墳の主である。
阿波などお呼びではない。 >>655
> 阿波などお呼びではない。
物部の祖である「伊香色雄命・伊香色謎命」 兄妹を今も大切にお祀りし続けているのは
全国唯一、倭国(阿波)だった阿波の忌部の郷。 @阿波 >>405
>>南を東にしたいなら自分で調べたらいい 確率が高ければ畿内説に優位だと思う
先ず、朝鮮通信使では一度だけだな<
>じゃあ確率が低いという反論は無効ね
こっちは「間違いはあり得ない」が否定できればいいの
そして目的は果たされてる これ以上すること無し<
間違いの有無は、不可知部分への確率的な問題であり、
確率が低い、という反論は十分に有り得る。
そして、「間違いはあり得ない」も確率的であり、
それの「否定」など出来る筈もない。
つまり、この男も、不可知部分に対する「絶対性」を要求して、
議論に勝ったような形に装って、
世間の人々を騙そうとする、・・・・詐欺師の大和説者の仲間。 >>649
>5chでも、帰納した事の説明や、確率を算定した説明は、
>もう何度も何度も書いて来てある。
うそついてもダメ
うそでないなら説明書いてみな >>655
>畿内を開拓したのは饒速日ら物部氏であり、前方後円墳の主である。
その物部氏も前方後円墳も結局は忌部一族。 @阿波 >>605
名護屋浦から500里(40km)ですから大入や福吉は通り過ぎてしまいますね
もっと東の伊都ゴルフ倶楽部付近が伊都国の国境ですかね。 >>660
>阿波を開拓したのは、鴨王のさらに末裔だよ。
無礼者。 頭が高い。 @阿波 >>407
>間違いはありえないと言うには 確率論が必要なんだがねw w<
もう既に、三国志における差異や間違いの発生確率に関しては、
三国志のおよそ80万字の内で、差異発生のために校勘に供された文字数が4000字余りであった事から、
全写本版本での差異発生確率は、約0.5%位だと判っている。 >>413
>陵遅刑じゃないから斬首は残虐な刑罰ではない みたいな理屈に 笑笑<
またまたの、意味不明な「口先でのヘイトスピーチ的な理屈」に対して、笑笑。 >>414
「間違い発生確率は0.5%以下だ」と言っているのに、
「100%間違いはありえない」と断定したかのヘイトスピーチを繰り返す大和説者は、
もはや・・・・宗教。 >>415
>短里って秦漢代の公定里と比べて6倍くらい違いますが、何か?<
短里って秦漢代の公定里と比べて6分の1くらい距離ですが、何か?。
>有効数字1桁以内位の 、<
有効数字は、直接関係がありませんが、何か?。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています