邪馬台国畿内説 Part352
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528141524/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 学者が笑われてるよ
何なの
「纒向型前方後円墳」wwwwwww 九州と畿内の地名の類似がよく言われる。
九州から畿内に地名が移ったという論者がほとんど。
が実際は逆で畿内から九州だ。
地名の類似では久留米と橿原市の久米対応している。
が、久留米の語源はそんなに古くない。
一方、橿原の久米は神武の時代であろうから2世紀末。
また大分の玖珠と葛城の国栖が対応している。
国栖はクス゛の語源であり神武以前からある。
一方,大分の玖珠は古くはない。
玖珠にクス゛という差別問題はない。
この九州と畿内の地名の類似、何のことはない、遣唐使が持ち帰った風水であろう。 【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg >>612
>17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
魏志倭人伝の時代からありそうだね。 >>611
神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。
久米一族については、徳島県石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。
一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。
一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。
さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。
まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。 @阿波 >>605
疑問だが
当時は獣道じゃねーか
人の道の熊野古道(日本書記で出現?)も3、4世紀 無かったんじゃねーの >>611
朝倉地方を中心とした北九州地方の地名と大和地方を中心とした畿内の地名に驚くほどの酷似があり、
発音がほとんど一致しているだけでなく相対的な位置関係もほとんど同じである。
これはアメリカなどイギリスからの移民が行なわれた国々にイギリスと同じ地名があるのと同じで、
この地にあった勢力が畿内に移る時に地名も一緒に移ったものと考えられる。
折口信夫も日本の地名に同じものが多いのは偶然ではなく民団の移動とともに地名も
持ち運ばれたからであると述べている。
畿内説の弱点は、九州と近畿の地名相似を説明できないことにあると思う
どう考えても、どちらかの移住者が過去の地名を移住先に付けたとしか思えないが、
畿内→九州への移住は考えにくい >>610
卑弥呼の墓が前方後円墳の始まり?
前方後円墳が邪馬台国となんらかの
関係があるのか誰も分からない 学者もお手上げ前方後円墳と邪馬台国 久米の名は、天孫が筑紫に降臨する時に随伴した天津久米命に由来し、神武東征の時も天津久米命の末裔の大久米命が随伴した。
久米の子らと呼ばれる近衛部隊のようなものだったろう。
最後は大和に骨を埋めたが、筑紫の方が古いのは明らかだ。 3世紀三輪山がご神体なら
前方後円墳は東西南北一致してるはずだがバラバラ 何故 畿内説のスレらしくなってきた
前方後円墳と邪馬台国
興味ある議題 >>616
>どう考えても、どちらかの移住者が過去の地名を移住先に付けたとしか思えないが、
>畿内→九州への移住は考えにくい
簡単なこと。 九州←倭国(阿波)→畿内 @阿波 >>616
いやだから久米=久留米と国栖=玖珠の例を出して、
畿内の方が古いと言ってるわけだが? >>397
>>きちんと、周地付近や南北千里や、それらの地での夏至正午の8尺棒の影長を、
1尺5寸や1尺6寸や1尺7寸であった、と記録してあるから、 実測値。<
>それは計算で出しただけ<
逆。
実測値から、天地の数を計算で出した。
天地の数が決まっていたんなら、
一寸千里などの数字を記載する必要がないし、求める必要がない。 >>619
>3世紀三輪山がご神体なら
>前方後円墳は東西南北一致してるはずだがバラバラ 何故
倭国(阿波)の豪族墓だから。 もちろん、3世紀は三輪山がご神体ではない。 @阿波 >>620
箸墓が最古の前方後円墳でモモソの墓としたら
陵墓を見直す必要があるな >>399
>>だから、不彌國で萬二千余里は殆ど使い果たしており<
>それは古田珍説の独自解釈<
いや、魏志の記載からの「史料批判に拠った史料実態」。
大和説の解釈の方が、国民の7割に否定されているから、単なる・・・・大和説者の独自解釈。 >>620
奈良の前方後円墳は倭国(阿波)が発祥で、倭国(阿波)の資材・工法に拠っている。 @阿波 畿内説 虐めすぎ
ど素人の畿内説の輩は虐めは容易い
学会へおいで >>622
「《近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であっ
たことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。倭人伝
は、すでに「邪馬台国」の名で呼ばれる北九州の部族連合体政権を魏の使者の報告通りに記載
しているので、この連合体政権は、それより早く、二世紀の後半には存在していたとみなけれ
ばならぬ。そして北九州で蓄積され発達した、この政権のエネルギーがわが国の中央部である
やまと東に移り、現地の部族連合体を吸収して大和古代国家の基礎となったであろうことは
すでに多くの学者の説くところである。すなわち畿内政権の故郷は北九州であると
無理なく考えられよう。記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の
「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州に
ずっと以前からあったものとみなければならない。ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、
豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、
大化後の行政区画である豊みやこ前豊後のうち、豊前がその原体である。
それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家の
いずれも認めるところである。 >>400
>>有効数字1桁程度の近似値計測であったから、ばらつきがあったのであり、<
>ばらつき以前に、何処からどこまで測るか 地点の特定すらも出来ていない
説として成り立っていない<
陳寿は、国間距離は原則として、出発地点も到着地点も、
その国内に立った事の確認が出来る「居住外縁部」までの距離で示しており、
その意味で、特定出来ている。
勿論、むしろ大和説の方が、
「何処からどこまで測るか 地点の特定すらも出来ていない」。 つまり、この京都郡地域は、東遷して成立した大和政権の、母なる地であったことが推定されるのである。
豊の国のミヤコあがたは、伝説の景行天皇が熊襲征伐のとき行宮をこの地方のナガオ(長峡)の県に
置いたから起こったというが、ミヤコを皇都の意味にした京都の字を宛てたのは奈良朝で、
ミヤコというのはこの地方の独立した古い地名であった。
「一体に古い地名は意味のわからぬのが多いことを考えねばならぬ」と津田左右吉博士が言っているとおり、
ミヤコ=京都としたのは二、三世紀と八世紀とを突然に接合したようなものだ。
古い地名のミヤコは、あるいはヒミコとも関連があるかもしれず、空想を許されるなら、
ヒミコは魏の旅行者がミヤコを聞き誤っての訛伝かもしれないのである。
ミヤコの地名が皇都として畿内に東漸したのは、民族の移動に付随してあり得ることである。
いったい景行天皇の西征は架空の物語で、これは奈良朝に全国統一を誇示するために創作された。
景行帝が九州に入った最初の行宮がトヨの国の長峡であったことは、このかつ地が大和政権の
曾ての故郷だったのを現わしている。景行紀によってミヤコ(京都)の名がこの地方に
起こったのではなく、五世紀も隔てて忘れかけられている母国の名がようやくにして
「地方誌」に書きとめられたのである。明治三十三年に京都郡小波瀬村の挾間畏三という人が
『神代帝都考』という一書を著して京都郡仲津郡内を記紀の神代史の地名に当てた。 >>622
国栖はともかく久米は明らかに筑紫→大和だよ。 >>625
>箸墓が最古の前方後円墳でモモソの墓としたら
磯城の王・伊香色雄命(いかがのしこお)であろう。
妹の伊香色謎命(いかがのしこめ)とヒメヒコを形成してることに留意。
この伊香色謎命(いかがのしこめ)から産まれたのが1ミマキイリヒコこと崇神。
崇神が行灯山古墳だとして、その崇神陵墓より巨大な墓を造れたのは、
崇神の叔父であり磯城の王であった伊香色雄命(いかがのしこお)。 ずっと後代になって、暦日が制定され、日付が誰の知識にも入ってくると、
日時をきめて市場が開催されるようになった。
二日市、四日市、五日市、八日市、十日市、二十日市(豊前にも四日市がある)の地名がその
起りということは、ひろく知られている通りだが、「ツバキの市」はそれ以前の原始的形態で、
古代の交換経済の実施場所であったろう。「最初は種族と種族とが、それぞれの氏族長を通じ
て交換した。しかし畜群が特別財産に移りはじめるや、個別的交換が次第に多くなり、逆に唯
一の形態となった。
倭人伝に「大倭」がこの市を監したと伝えるのは、すでに権力階級の発生があったからであり、
この地方権力者による云い伝かんせんえが、のちに中央政府によって官撰の歴史に組みこまれたのであろう。
そういう例は多いのでよある。ツバキが古代に珍しかったのは八、九世紀になっても万葉集などに多く
詠まれているこやまとしきとで分る(4)。海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。
これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の
径路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおける
イングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を
そうしつ喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の
うたがきがはるかに古い証である。大和の海柘榴市が上代の歌垣の場所になったというのは、古代市場
としての広場の機能が転化したとみられるが、わずかにその名残りも伝えられないではなかった。 >>630
>近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であった
北九州にそんな部族など存在しない。 @阿波 >>633
ならば神武の臣下・大久米命は久留米から来たのか?
九州の方が古くあってほしいという君の願望は何の根拠にもならない。 「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。
仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。
奴佳鞮
ぬかて
なかとみ
中臣郷
中臣鎌足
中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい)
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 畿内説だと...
大国主 そんな人はいません、ただの伝説です
アマテラス そんな人はいません、ただの伝説です
ニニギ そんな人はいません、ただの伝説です
木花咲耶姫 そんな人はいません、ただの伝説です
神武 そんな人はいません、畿内王権は自然発生したのであり、筑紫から流入した勢力などありません
卑弥呼 そんな人はいません、実は◯◯姫で、王宮は纒向4棟だけです
九州説だと...
大国主 筑紫の前の倭王です
ニニギ 倭国の王都を筑紫伊都に定めた倭王です
木花咲耶姫 三雲南小路遺跡にニニギとともに葬られた王妃です
神武 筑紫を出て大和に入りました
卑弥呼 筑紫の日向の伊都でクジフル山に高千穂宮の楼閣高くして千人の奴婢が仕え、太陽を象徴する史上最大の「八咫鏡」を持ち、その墓は伊都国代々の王家と同じ方形周溝墓であり古代神道の成立を示す鳥居に守られていました >>403
>>魏使が末盧国に上陸地点した場所は名護屋浦以外にはあり得ません。<
>名護屋浦が大陸からの玄関口ならば、名護屋浦に大陸からの遺物がいっぱい有る筈。
福津や宗像のようにね。 @阿波<
正式の「玄関口」としては、
伊都国が「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯 」
としてして示されている。
そして、名護屋は、一応末盧國の居住外縁部にあたる可能性は十分にある。
勿論、「阿波(倭国)」は、「南≠東」や「正北抵新羅」などに拠っても×。 >>637
神武本人が九州の生まれなのだから当然だ。
そもそも天孫降臨から久米の名が記紀に登場するのだから。 纒向の掘立柱建造物
石床いくつみつかったの
復元計画があるみたいだけど
纒向は どう復元するの
秀吉の一夜城(墨俣)の見た・・・復元じゃない
墨俣の一夜城は復元と誰も言わないし、象徴的に立てのは周知 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。
平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、
正確な数値が出ないと思われるので、
30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。
・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年
・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年
・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年
・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年
・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年
11年弱が平均在位。
さらに古くなると若干在位が短くなると考え、
「11年」で計算してみる。
ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。
11年×15代=165年。
応神天皇390年ー165年=225年。
神武元年は3世紀前半。
卑弥呼の時代である。 >>634
>磯城の王・伊香色雄命(いかがのしこお)であろう。
>妹の伊香色謎命(いかがのしこめ)とヒメヒコを形成してることに留意。
その・伊香色雄命・伊香色謎命 兄妹を今も大切にお祀りし続けているのは
全国唯一、倭国(阿波)だった阿波の忌部の郷。 @阿波 >>639
お。わしの書き込みをコピーして保存してくれてたのか、うれしい。
どんどん信者が増えてくる。
わしの言ってることが正しいからだ。
纏向遺跡は物部。
女王が住んだのは葛城。
ヒミコの墓は高天原(御所市高天)の日本最古の神社の境内にある。
径百余歩の塚の端に奴婢(土蜘蛛)が埋葬されている。 >>647
年代比定は概ねあっているだろう。
ただし、卑弥呼は九州福岡だ。
神武は大和の田舎の大将。 >>404
>>>終わらせるためには、他に一切用例のない「島巡り仮説」を採用しないといけないww<
>史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、確率の高い帰納的推論だ。<
>帰納した形跡なし 確率も算定した形跡なし ただの自己賛美美辞麗句だな 空疎<
5chでも、帰納した事の説明や、確率を算定した説明は、
もう何度も何度も書いて来てある。
wwは、ただの、都合の悪い事に対しての、
「口先での嘘つき騙しのヘイトスピーチ的な街宣」の美辞麗句だな。
空虚。 前方後円墳は畿内の実力者であった物部の墓
神武の実時代は3世紀
卑弥呼がいたのは倭の王都である筑紫 >>642
j神武は九州であるのは当たり前だが、
久留米と南九州では大きく違う、そこら辺を大雑把にするな。
崇神が神武の痕跡地に宮崎神宮を建てている。
崇神が約100年前の祖先の出身地を間違えるわけがない。
神武も久米も南九州であり久留米は何も関係がない。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>650
>前方後円墳は畿内の実力者であった物部の墓
だから、忌部一族の墓ということ。 @阿波 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 >>653
物部の祖である饒速日が十種の神宝の鏡を籠神社に残し、大和で神武と会っている(何歳だ?)。
畿内を開拓したのは饒速日ら物部氏であり、前方後円墳の主である。
阿波などお呼びではない。 >>655
> 阿波などお呼びではない。
物部の祖である「伊香色雄命・伊香色謎命」 兄妹を今も大切にお祀りし続けているのは
全国唯一、倭国(阿波)だった阿波の忌部の郷。 @阿波 >>405
>>南を東にしたいなら自分で調べたらいい 確率が高ければ畿内説に優位だと思う
先ず、朝鮮通信使では一度だけだな<
>じゃあ確率が低いという反論は無効ね
こっちは「間違いはあり得ない」が否定できればいいの
そして目的は果たされてる これ以上すること無し<
間違いの有無は、不可知部分への確率的な問題であり、
確率が低い、という反論は十分に有り得る。
そして、「間違いはあり得ない」も確率的であり、
それの「否定」など出来る筈もない。
つまり、この男も、不可知部分に対する「絶対性」を要求して、
議論に勝ったような形に装って、
世間の人々を騙そうとする、・・・・詐欺師の大和説者の仲間。 >>649
>5chでも、帰納した事の説明や、確率を算定した説明は、
>もう何度も何度も書いて来てある。
うそついてもダメ
うそでないなら説明書いてみな >>655
>畿内を開拓したのは饒速日ら物部氏であり、前方後円墳の主である。
その物部氏も前方後円墳も結局は忌部一族。 @阿波 >>605
名護屋浦から500里(40km)ですから大入や福吉は通り過ぎてしまいますね
もっと東の伊都ゴルフ倶楽部付近が伊都国の国境ですかね。 >>660
>阿波を開拓したのは、鴨王のさらに末裔だよ。
無礼者。 頭が高い。 @阿波 >>407
>間違いはありえないと言うには 確率論が必要なんだがねw w<
もう既に、三国志における差異や間違いの発生確率に関しては、
三国志のおよそ80万字の内で、差異発生のために校勘に供された文字数が4000字余りであった事から、
全写本版本での差異発生確率は、約0.5%位だと判っている。 >>413
>陵遅刑じゃないから斬首は残虐な刑罰ではない みたいな理屈に 笑笑<
またまたの、意味不明な「口先でのヘイトスピーチ的な理屈」に対して、笑笑。 >>414
「間違い発生確率は0.5%以下だ」と言っているのに、
「100%間違いはありえない」と断定したかのヘイトスピーチを繰り返す大和説者は、
もはや・・・・宗教。 >>415
>短里って秦漢代の公定里と比べて6倍くらい違いますが、何か?<
短里って秦漢代の公定里と比べて6分の1くらい距離ですが、何か?。
>有効数字1桁以内位の 、<
有効数字は、直接関係がありませんが、何か?。 >>418
>だから九州さん ガリバー旅行記みたいな代物を まじめに信じてどうすんだよw<
侏儒國は、魏の役人たちの実見記録の形だし、
種子島や済州島南部にも、低身長部族の存在があったみたいだし、
当然、ネグルト系の渡来があった可能性はある。 >>420
>キナイコシはご都合主義だから、 論破される
シナリオがその場かぎり <
>という証拠は?<
このスレでの投稿や議論が証拠。 >>422
>皆さん、これが九州説です<
皆さん、このような、
何の根拠も論理も言わずに、口先でのヘイトスピーチだけ、というインチキが
大和説者らです。 >>424
>そういうことを書く時には、「島巡り仮説」とやらの他の用例を一つでも挙げれば
すごく説得力が出るのにwwそれをしない、できない時点で、ただの空論ww<
中国の周りに、中国役人らの「島巡り」した例が他にはなかった、
と説明した事を隠して、
「他の用例を一つでも挙げれば」なんてヘイトスピーチ宣伝をするwwは、
やはり、・・・・詐欺師の異常者。 >>425
>>変な世界観思想で、「実際よりも6倍も大きく描いた」報告書を書けば、
バレれば、魏使らや陳寿の首が危ないだろうなあ。<
>三国志は晋の時代に書かれているから、司馬懿の公孫氏討伐の功績を大きく
見せるために、誇張した観念的距離が書かれているんだよ
東夷のことなんて、中原で詳しく知っている人なんていないし、知っていると
思っている人もその内容は、山海経や淮南子の観念世界の東夷なんだから<
ダメだよ。
魏使らには当然役人たちや従者が付いているから、
ウソを書いた事がバレれば首が危ないし、
その後の張政らも来ているから、
梯儁等が嘘を書いていれば、直ぐにバレてしまって首が危なくなる。 >>427
皆さん、これが「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者です。 >>430
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
どうも政治や人種差別や部落差別などの思想がらみに流れるなあ。 >>433
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
もともと皇国主義の・・・・思想家が考案したものだから、仕方ない。 >>437
ほんと、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
口先で言い張るだけで証拠を出さないのは、
子供や・・・・みたいだね。 >>441
>(ホケノの布留)それは木蓋腐食の崩落分だからノーカン?。
ふーん?。
「木蓋腐食の崩落分」であれば、何故ノーカンなの?。 >>444
>中国では会稽東冶だよ<
中国の宋明清代の考証校勘では、
魏志倭人伝の「会稽東治」は「会稽東治」のままだよ。 >>446
>「度量衡の統一」なんて指示は存在しません。<
初代文帝の即位の詔書は「同律度量」という方針を書いており、
「律度量を同じゅうする」と言っているんだから、
度量衡も同じではなかった、という事であり、
度量衡の統一を指示した事になっている。 >>448
>否定する確かな根拠があるんだよ 東夷伝に出てくる距離が国内の移動距離を含まないことになり、矛盾を産む<
倭人伝でも、原則として、韓國や對海國や一大國などのように、
国の大きさを記載して国内移動を書いた場合には、その国の大きさの分の距離算定がなされ、
末盧國のように、国の大きさを記載しないで国内移動を書いた場合には、
その国の国内移動の距離を算定していない、という規則性がある。
また、「方三百里」以下の大きさの国は、
国内移動があっても、その移動距離を加算しない、という可能性もある。
また、東夷伝では、遼東と高句麗の関係や、高句麗と扶余の関係において、
例えば、遼東高句麗間の千里が両方の首都間距離で、高句麗の大きさが二千里であるんなら、
高句麗領土が遼東の中心部付近にまで達してしまう、という矛盾が発生し、
その矛盾を避けるには、遼東の居住外縁部と高句麗の居住外縁部の間の距離が千里だ、とする解釈が必要になり、
その場合には、その千里は、別の小部族國や無人地帯の存在を想定しなければならない、という事にもなり、
例えば「陸行五百里」部分は、別の小部族國や無人地帯であった、という事も想定しなければならなくなる。 >>637
小野田口伝から
九州から畿内に移民があった伝承があるからねしょうがないな。 >>450
>文帝が「同律度量」という指示をする必要性がないという理由がない<
文帝は、秦漢代の公定(長)里を肯定していたんなら、
秦漢代は、長里が圧倒的に優勢な使用状況であったんだから、
今更、肯定長里を減らす可能性があるような「同律度量」という指示を、
する必要がない。 >>681
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサキジジイ! 古代史はなにわ
なにわ中心にぐるぐると時代は回る
奈良は代理戦争の場所 >>452
>>このように、 大和説は、周髀算経や魏志などを根っこから破壊しないと主張できない。
つまり無理。<
>破壊しないと主張できない という証拠は?<
行程記載里数が(長里ではなく)短里であれば、
大和には全く届かないから。 >>486
>>史料事実そのものや、史料批判の結果の史料実態からの、
確率の高い帰納的推論だ。<
>一例だけからの帰納って、事実上意味がないんだよ 循環論法でしかない
他例を沢山出せるならともかく、一例だけで言い張っても無駄なんだよね<
変な男。
1例からであっても、その内実には多くの論点に関する事実を持っており、
多数例からの帰納的推論が出来るもの。 >>487
>末盧国はどこに到着して、どこから出発する?<
居住外縁部に到着して、国内移動説明があるから、別の居住外縁部から出発する。
>そしてどこまで何里進む?<
伊都国の居住外縁部まで、「陸行五百里」進む。
>伊都国はどこに到着して、どこから出発する?<
居住外縁部に到着して、次の国へ近い所の別の居住外縁部から出発する。
>そして何里進む?<
不彌國の居住外縁部まで百里進む。
>奴国はどこに到着して、どこから出発する?<
奴國へは、向かっていない。
>おかしいだろ?<
お前の顔と頭がおかしいんだろう。 >>489
>おかしい点がテンコ盛りだ・・・わけがわからない<
お前が「南→東」などの嘘吐き騙しだから、わけが判らない。 >>492]
>>南が東になった根拠がイマイチわからない <
>方位磁石がない時代だからキチッとした方位自体がない。<
漢代には、既に方位磁石があった筈。
勿論、周髀算経や礼記の「東西南北」の決め方もあった。
>「あの人は平均身長より5cm背が高い」という場合には平均身長という基準があるわけね。
でも平均身長という統計がない時代なら何センチ低いの高いのは言えないよね。<
東西南北に関しては、周髀算経や礼記の計測法や方位磁石などがあった。 それと同じ。
wwは「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・アホだから、
壊れたレコードみたいに同じこと言ってるだけ。 >>493
>>末盧国は北の端の名護屋浦に到着して南下 唐津市付近で方向を変えて東に進み <
>このあと、北に向かわないと伊都国には着かないよ?<
「陸行五百里」は、案内人や道なりに従って行くんだよ。
>どうしてこういうみえみえのゴマカシをするかねぇ?<
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者らは、
どうしてこういうみえみえのゴマカシをするかねぇ?。 >>494]
>だから、どこから500里でどこから100里? <
末盧國の外縁部を出発してからの「陸行」が五百里であり、
伊都国の外縁部を出発してからが100里。 >>502
>つまり国内を通過する距離ってことか? なら、どうして壱岐対馬は違うの?<
一大國は方三百里だが、
末盧國は、国内移動がおそらく3百里以下であったから、書かれなかった。 >>504
>>末盧国は北の端の名護屋浦に到着して南下 唐津市付近で方向を変えて東に進み<
>唐津市付近って、具体的にどこで方向を変えるんだ?<
おそらく、末盧國から東南に出発した後の、松浦川の河口付近で。 >>368
そもそも北緯35度付近だと南北で
それぞれ棒の影長が基準地から一寸違う場所を探して実測したとして
どっちも丁度千里になるなんてないぞ太陽が真上にないんだから
南と北どっちも千里で基準地からの棒の影長が一寸差になりましたなんて
書かれてあるのは一寸千里が実測値でない証拠
ゆえに短里の根拠にはならない
あと周地付近てどこだよ周髀算経にはっきり地名書いてないの? >>509
>方可○○里なら外側でしょ どうして国内を通過する距離になるの?
おかしいよね <
古田さんは、外縁の二辺通過説だが、
私は、「一辺〜二辺」通過説だよ。 >>509
>船で通過したから外側を通過したんだよ<
国内の移動や見聞記録が書かれているから、
陸上移動だよ。 >>517
>深江からなら室見川上流は東に陸行だよな <
魏使らは、奴國へは行っていない。 行とか水行とかが移動の動詞
方○○里は移動の動詞じゃないから移動した記録じゃないな >>524
>〜しかないからってのがわからんなw
不彌國からも南に出発した後、水行二十日と水行十日陸行一月を東に行けばいい
手前の金武まででも18kmくらいはある<
不彌國で萬二千余里の里数記載がほぼ終わっており、
日数記載は、里数記載ではないから、行程自体の里数記載とは別のの説明になるの。 >>700
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と
龍信仰と亀卜は?
で、周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来定着したとウソブいている
サギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
今言えサキジジイ! >>441
当時の発掘担当者が後世の混入物ではないとはっきり言ってるが >>687
一例だけで推理するのもいいが
一例だけでドヤ顔されてもね >>701
邪馬台国論叢なんて推理だろ
推理の不都合を指摘するのも結構だが
個人的な感情出しすぎだよ
たぶん、あんたの求める証拠は出ないと思うよ
半面
周王朝や呉王夫差の後裔が火の国に渡来「定着していない」という証拠も無いだろうし >>704
>たぶん、あんたの求める証拠は出ないと思うよ
どうみても、出ることを期待しているわけではないと思う。 >>643
纒向の復元はいかがなものかな・・・どのようなものができるか興味あるが
石床は発見されていないのでは?だから掘立柱建物、あれば堂々と高床建物と主張できる。
現段階では平屋建物とみるべきだろうね
復元は
観光目当てでしょうが 後世で赤っ恥かく可能性もある >>670
>中国の周りに、中国役人らの「島巡り」した例が他にはなかった、
この時点で、帰納でもなんでもないただの憶測
何の根拠もない思いつきだってことさね
それを正しいと言い張るカルトのあさましさよ >>687
ザラコクさんに論理を教えるのはあきらめてるよ
>「1例からであっても」、その内実には多くの論点に関する事実を持っており、
>「多数例からの帰納的推論が出来る」
もう論理以前に日本語が通用しないんだものww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています