邪馬台国畿内説 Part352
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528141524/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 なんかここ最近一寸差一寸差言ってるガイジがいるが
二寸差だぞ
このガイジがまったく理解できてない証左だな >>525
>不正確なら行程の確実な1里あたりの距離はわからないな<
不正確なのではなく、始めから近似的な里数値や方向の計測なんだよな。
そして、その計測値の確率が、大和説を否定し、九州説を示す事になる。
>陸上のは仮定の比定だからな<
陸上も、確率的な比定であり、
大和説が否定され、九州説が肯定される。
そして、この「南→東」などに嘘吐き騙しの大和説者も、
最も基本的な根拠になるべき距離や方向が、大和説にとっては都合が悪いから、
それに100%の絶対性を要求して、否定抹殺して無くしてしまおう、
とする・・・・詐欺師。 >>526
>寄港はしたとしても長居はしてないね <
当然、夜は原則就寝であるし、接待も受けるし、距離方向の記録も必要だし、
見聞記録のための調査も必要である。 >>534
>陸上は歩測でだいたいの距離は測れるなら
深江〜金武間が100里で18kmだから
名護屋浦から500里で90km進まないとだめだな
そうすると深江はとっくに通り過ぎると <
居住外縁部間の里数記載である、という原則を破っちゃ、
インチキになるよ。 >>539
>深江から8q±2qなら三雲にも届かないな<
これも、居住外縁部間の距離、という原則を破っているから、×だな。 >>544
>渡海が50km以下だけど、なんで一里がそんなに大きいの?<
おそらく、この男は、
国間距離が居住外縁部の原則や、一寸千里や簡易三角測量の1桁概数である事や、
一寸千里の計測地点などを全く考察しない、
大和説詐欺師だから、
なんだろう。 >>549
>銅鐸とは、何だろうか。。。。<
おそらく、狩猟民が、鐘や鈴のように、
相互の位置を知らせたり、熊よけ鈴のような猛獣の威嚇のための必需物であり、
お宝であったんでしょうね。 >>550
>渡海は測れないので一律に1000里に合わせてるみたいですね。<
この男も、「渡海千里」が大和説にとっては都合が悪いから、
「渡海は測れない」という嘘を付いて、
否定抹殺してしまうとする詐欺師なんでしょうね。
渡海距離は、目視出来れば、簡易三角測量で距離計測出来るし、
目視出来ないような距離も、一寸千里と大体の方向から概算出来る。 >>716
いや、そんな「原則」を現代人が勝手に作っても、古代人は従わないから >>720
泣く子とワメく爺ィには、打つ手ないかもね
猿が論理で説得できないのと同じ >>552
>水行は一日航海千里の規定を採用(基本である<
いや、
向かっている大体の方向と一寸千里を組み合わせれば、大体の里数は計測出来るし、
航行日数測も、1日450里位として、補助的には使えるだけ。 >>555
>不彌國から後の日数で表記されてる国々が倭人の女王国の構成国<
違うだろうね。
魏使らは、共立女王国の構成国については、当然、
30国から狗奴國を省いた29国なんだろう、と推定している,
と思う。 >>713
筑紫一元史観の朝鮮人が近似的と言張って、朝鮮半島祖国陸行だから
他の夢ロマン九州お爺さん説の伊都国を糸島に比定してない千差万別な地元説と
古田のどろぼう偽書反日有害活動とは関係ない
>>716 >>717
お前は関係ない >>559
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らは、
根拠も無く、史料事実の否定曲解を言い張るだけの、
分裂幻覚妄想の・・・・詐欺師だから、
罵声で自論を守るしかない。 >>563
>>魏使らは当然、漢代末に再収集注釈された周髀算経の、
「日の入り日の出方向に拠って東西南北を知る方法」」を知っているんだから、
現実に方向をほぼ間違えないのであり、<
>それ知ってたら伊都国へ東南陸行って書かないね <
「東南」は、出発時点での出発方向説明であって、
だから方向を間違えないのであり、
出発時点では見えない伊都国方向ではない。
また、「陸行五百里」が途中移動の説明。 >>565
>>一大國〜末盧國は、見えているから、簡易三角測量でも計測出来る。<
>見えないよ<
出発時点で殆ど見えないのは、対馬→壱岐だが、
それでも対馬海岸から、年に数回、壱岐の最高峰が僅かに見える時がある。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな、、、 倭国と日本国が別の国で、同時にも存在していたことが、はっきりした今、邪馬台国は何処にあったのか自ずと判明するのではないだろうか、 キナイコシが簡易三角測量に過剰反応するのはなぜだろうか、、 簡易三角測量は、畿内説を妄信するキナイコシが優れた考古学者に打ちのめされた話題なのではないのかな。。。 簡易三角測量と三角縁神獣鏡とは関係するのだろうか。。。 計算すると、応神天皇の頃だな。。。
昔の天皇は長生きだな。。。
魏志倭人伝にも倭人が長生きで100年生きるとあったが、それが正しいことが証明されたな、、 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>733
>どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったと考えているのかな
その通りだ、桜井市に邪馬台国などない。
女王が住んでいたのは奈良県御所市だ。 邪馬国が八女で、邪馬台国が熊本城ですっきりするのではないのかな。
遺蹟に惑わされると、2013年に破綻した巻向の二の舞になってしまうのではないのかな。 テンプレートに書いてあることの根拠が、本当は何もないということが、優れた考古学者達によって、明らかになってしまったね。 >>734
おれは、北部九州の京都郡だとおもう
神籠石のあるところ
墓は、祇園山か大分の赤なんとか古墳 もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 >>566
>>周地付近とその南北千里での、
夏至正午の8尺棒の影長を実測したデータが記載されているのであり、<
>そんなものが書かれてるって証拠は無い<
周髀算経が証拠。 キナイコシはテンプレートが論破されそうな時は、なかなか次のスレッドを作成しないな。。。 僕たちが、論破されてしまったテンプレートを撤去して、次のスレッドを作成してあげれば良いのではないのかな。。。 改めて狂人のキナイコシが貼り付けているテンプレートを読んでみると、訳が分からなくなってくる。。。
奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることの言い訳ばかりで、、、
かえって、奈良のあの古墳が、魏志倭人伝の世界とかけ離れていることが強調されているのではないのかな。。。 >>569
「南→東」などの嘘つき騙しの、キョクウ皇国史観戦争狂の大和説者の言動を見てると、
いつ車中で狂刃を振るわないか不安でならないよ。 >>716
グーグルで測ってみると名護屋浦から伊都カントリー俱楽部付近までが44q(約500里)
伊都カントリー俱楽部付近から日向峠付近までが8〜10q(100里)
伊都カントリー俱楽部付近が末廬国と伊都国の境のようですね
末廬国が思ったよりも糸島市に入りこんでる。 >>570
>>魏使らは、当然周髀算経の一寸千里を知っているから、海路であっても、
大体の南北距離は測れ、間違えようがない。<
>それを知っていて、またそれが正しかった場合でも、 夏至の正午に八尺棒を垂直に立てて、
正確に影の長さを測らないといけない<
垂直か?どうかは、棒を釣ってみたりすれば判る。
>夏至の頃に、倭国のいろんな場所で、きちんと正午に測らないと
一寸千里の法は使えない <
いや、東西南北が計測出来るんだから、太陽の南中時が正午だ、とすぐ判る。
>そして、そこまでしても、南北方向の距離しか出ないから、
「東南」方向の距離は結局いい加減になる<
簡易三角測量で作図して、大体の距離は簡単に判る。
>そして、ここまで何度も書かれているように、一寸千里の法は
机上の空論で、きちんと測定しているという証拠がない<
周髀算経に、1尺5寸や1尺6寸や1尺7寸の測定結果が記載されている。
よって、この男(おそらくww)はうそつき騙しの危険な・・・・大和説の詐欺師。 倭人の人名が書いてないのが、
對海國、一大國の官・副、奴國・不彌國の副、伊都國の王だな
末盧國は官名も無し
里数で記載されてる女王國以北地域 >>574
>正確には地球の重力の等ポテンシャル面は回転楕円体の形なので、
地表の鉛直方向は、極および赤道を除き、地球中心を指していない。
さらに正確には地球の重力ポテンシャルは複雑で、
地表付近の重力の等ポテンシャル面(ジオイド)は複雑に歪んでおり、
回転楕円体面の法線方向と比べると、実際の地表の鉛直方向は傾斜していることになる。<
周髀算経は、始めから、
周地付近での大地がほぼ平面だ、と見る事が出来る地域での、
「近似的計測数値からの演繹的天地像」を推定しているんだから、
地球上での重力差異などの影響は殆ど関係がない。
>だからまず谷本の計算で説明しているようなモデルの
延長が地球中心で交わるような八尺棒を垂直に立てて影の長さを測る平面を作ることが難しい<
谷本さん自身も、始めから、「近似計算である」事を断っておられる。
>実際に各地で実験してみないとどのくらいの誤差が出るかわからない<
周髀算経も有効数字1〜2桁の近似値計測。 >>756
測定結果じゃないんだよ
机上の架空の計算結果
周髀算経にそう書いてある >>758
大地がほぼ平面ならば谷本が計算しているモデルとは違う
後期高齢者には理解するのは無理だろうが >>755
>末廬国が思ったよりも糸島市に入りこんでる。
九州説はいつもこれをやるんだよなぁ
「魏志倭人伝は間違っていない」という、「間違った前提」を基礎において
現実ではありえない比定をしようとする
自然国境も何もないところに、古代の国の境がくるはずがないだろうに 魏志倭人伝は間違っているなら邪馬台国も間違ってるから邪馬台国畿内説も当然間違ってるな 倭人伝を100%信用するか、全く信用しないかの二者択一が間違っている >>577
>古田が決めました<
古田さんは、史料記載事実などからの帰納的推論をされただけ。
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしたのは、
「大和天皇家一元列島支配」というキョクウの宗教に狂った大和説学者ら。 >>766
だから古田が決めた
古田が思いついた商品の里は、中国、韓国、日本では議論されていない >>761
その説が正しいかどうかは別として、集落を国と呼んでいたなら、自然地形と一致しないことも出てくるだろう。 そもそも福岡県内で数キロ単位でいろいろ国邑を議論しているのに、いきなり畿内に何百キロもワープするわけないだろ。 >>769
数キロ単位というのがウソだな
われらの短里珍説に合わない、とゴネてるだけ ワープというか
里数表記の後、水行二十日、水行十日陸行一月移動している
福岡県内だけで行程里数を操作してるのは朝鮮部落民だけだろ >>768
自然国境で文化圏が代わってるからウソが丸わかり >>773
どことどこが違う文化圏だって?
それなら畿内なんてまるで縁のない異国だろ。
邪馬台国でもなんでもない。 >>772
それ、帯方郡からの日程だろ。
すくなくとも魏の使いは福岡から出ていないのだから、畿内にワープさせるなよ。 >>776
「魏の使いは福岡から出ていない」とか
なんの根拠もない 【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 >>778
里程が福岡で終わっている。
郡使は常に伊都にとどまると明記されている。 ザラコクさんはどうせグダグダ言い続けるだろうけど、
それ以外の人との理解の共有のために
『周髀算経』にみられる数値について
一 一寸千里説の意味するもの 一
下司 和男 計量史研究 33−1 [39] 2011
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10632233_po_ART0009767074.pdf?contentNo=1&alternativeNo=
「一寸千里則」は、天地が8万里を隔てた平行平面をなすという蓋天説の
宇宙像から必然的に導き出される法則であって、実測の結果から帰納されたものとは
考え難い 。」
「『周髀算経』に出てくる「里」は、宇宙を観測する器具である表の影と
蓋天説の宇宙の定数を結びつける、いわば蓋天説における「宇宙里」とでも
称すべき単位であって、現実に土地の計測に使われている計量単位である里とは
異なるものであると認識すべきである。」
オマケ
『周髀算経』影の測定
http://www.geocities.jp/yamauo1945/shuhisankei1.html 福岡は搬入庄内式土器は非常に少ない
在地の特徴がわずかに残った大和型庄内甕の模倣製作 >>576の後の返事の投稿は、
5chから掲載拒否されて、無くなっていたみたいだから、
面倒だから、パスしておくね。 >>768
>その説が正しいかどうかは別として、集落を国と呼んでいたなら、
それなら、末慮国四千余戸、奴国二万余戸という戸数は出てこない
集落はどうがんばっての百戸単位にしかならない
当時の国は、水系単位〜平野単位と見るのが妥当
水系単位での治水・利水のための共同体が国となっていったと考えるのが自然
平野の中に国境線を引いたら、水利権争いの元にしかならない
そういう視点から見て、末慮国の位置を名護屋浦湾の到達地点で示した、などと
いうのは噴飯もの
末慮国が糸島平野に食い込んでいたというのも、ありえない >>780
>里程が福岡で終わっている。
つまり、里程と日程の両方が書かれている、陳寿は知っていた、っていう説だよね?
投馬国までは何里になるの? 水行20日だけど? 掲載拒否されたのは、>>583までの投稿への返事であったようだね。 >>588
>魏のひと韓国の面積どうやって知った? <
当然、「方四千里」は、楽浪郡や帯方郡の郡役人らの計測。 >>590
>そんな里単位が使われたという根拠、ないんだけど<
魏志を中心とした三国志内の里記載などが根拠。 魏慶元四年に劉徽『九章算術』註釈本が世に出ました
劉徽はその十章として『海島算経』を書いています
『海島算経』は一歩=六尺、一里=三百歩が前提で答を求めることが出来ます
なお『海島算経』以降でないと三角測量は広まらなかったのではないでしょうか
裴秀は『禹貢地域圖』を泰始四年〜七年にかけて完成させています
それまでは正確な地図というものは存在しませんでした
詳しくは『晋書』《裴秀伝》に引用されている『禹貢地域圖』序文をお読みください
残念なことに正始年に倭を訪問した魏使等は正確に地理情報を得る技術をまだ持ってはいなかったのです >>591
>>「倍正南方,以正勾定之」であるから、区域が南に二倍位広がった事を意味し、<
>ここでの「倍」は、背向(back towards)<
北極星を中心とする黄道を、地面に投影するには、
南方に見えている黄道を北側にも延長しなければならない、というだけ。
>>天空上の斜めに配置された太陽位置(宿)を投影するための(円を二つ位含む)楕円形。<
>二十八宿は星宿<
黄道上の星座。
>徑一百二十一尺七寸五分。因而三之,為三百六十五尺、四分尺之一 は、
1太陽年の長さ=365度4分の1<
何を「当たり前の無意味な事」を言ってんだい?。
それが、前漢初期に周髀算経の収集学者が、「自己解釈に拠る書き加えをした文」だ、
と言ってんだよ。 >>761
何で「魏志倭人伝は間違っていない」は「間違った前提」だと言えるの?
根拠は?
>>784
>そういう視点から見て、末慮国の位置を名護屋浦湾の到達地点で示した、などと
>いうのは噴飯もの
>末慮国が糸島平野に食い込んでいたというのも、ありえない
「つまり」が前の説明と繋がってないですよ。 >>761
何で「魏志倭人伝は間違っていない」は「間違った前提」だと言えるの?
根拠は?
>>784
>そういう視点から見て、末慮国の位置を名護屋浦湾の到達地点で示した、などと
>いうのは噴飯もの
>末慮国が糸島平野に食い込んでいたというのも、ありえない
「そういう視点」が前の説明と繋がってないですよ。 >>784
宮地岳、伊都カントリー俱楽部の東
高祖山、日向峠の西
この間の糸島平野が伊都国の範囲だったようですね。
宮地岳、伊都カントリー俱楽部は小高い山になってますからこの山が境界線ですね。 何の根拠もなく変質者伊都厨が伊都カントリー俱楽部あたりを国境にしてるだけだから >>796
根拠は末慮国に上陸してからの500里の距離ですよ。 伊都国までの500里が末慮国の入口からの距離というのがおかしい >>798
島巡り説の読み方を末慮国以降でもしたからです。 東南陸行五百里到伊都國が末盧國の入口から末盧國内を通り抜ける距離を含むなら
東行至不彌國百里も奴国の入口から奴国内を通り抜ける方位と距離にしないと >>800
東行至不彌國百里は奴国(福岡市)の南部を通り抜けて不彌國(那珂川町、春日原市方面)ですね。 >>784
>当時の国は、水系単位〜平野単位と見るのが妥当
>水系単位での治水・利水のための共同体が国となっていったと考えるのが自然
自分の頭の中で勝手なルールを作り、それをもとち妄想するのが畿内説。 >>785
>投馬国までは何里になるの? 水行20日だけど?
里数がわからないから日数だけ書いてあるんだろ。 >>796
>何の根拠もなく変質者伊都厨が伊都カントリー俱楽部あたりを国境にしてるだけだから
それは畿内説だろ。
勝手に国境があったことにしている。
筑紫日向は高祖山を中心に福岡市の一部を含めた広域なので、伊都国の範囲も自然地形に制約されないよ。 >>801
日向峠の東側の金武から道なり8kmだったら那珂川町まで行かんよ
それに2万戸の奴国が小さ過ぎ >>804
筑紫日向とか倭人伝にはない
高祖山に遺跡なんかない >>596
>(ホケノ)相争ってた倭国大乱の片方だから思いきり関係がある<
倭国大乱などなかったし、
あったのは、九州での付近内での「倭國亂、相攻伐歴年」だし、
大和は倭國の倭奴國から別れた別種の旧小国の附庸國であり、
「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国。 >>805
そっちじゃなくて県道56号線ですね。
2万戸は福岡市方面全体の戸数です
通過したのは奴国の南端の一部。 >>597
>南が東の方位の違いは 詳細には分からないが 春秋、史記、漢書、後漢書、三国志、で
方位が違う例が多数存在するなら納得できる 誰か詳しく人居ないか <
知り得た範囲内では、夷蛮からの伝聞情報以外の、
中国人や中国役人達か関与した方位記録には、
違う例は存在しない。 >>804
話がこんがらがうから意味不明なことを言うなよ。 >>603
>筑前深江の駅から10キロ直線で行っても、まだ糸島平野の中だぞ
ザラコクみたいに、糸島平野まで奴国を引っ張ってくる気か?<
古田さんらの伊都国の比定は、
末盧國を唐津付近に比定して、陸行500里で、
「前原〜糸島水道」付近だ。
そして、奴國は、三雲〜平原付近が入り口だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています