平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
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説文解字(後漢)にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大) 倭国乱前の男王墓が2世紀中旬までだろ。
そこからは戦乱なんだから王墓は無いか、あってもごくささやかな墓。
2世紀後半から卑弥呼の時代になって、王墓なし。
卑弥呼の墓が3世紀中旬。
伊都でFA。 倭国大乱の後の最初の王墓が平原遺跡。
そしてその被葬者は三種の神器を副葬された倭国女王。
さて、平原遺跡に眠るのは誰でしょう? 三種の神器なんて幻想
考古学的にはまったく意味がない 三種の神器が紀元前から福岡では王墓に副葬されていたことが、畿内説支持者には相当不快なんだな。
万世一系と相容れないからかな?
考古学的に貴重な副葬品を「まったく意味がない」なんて、恥知らずだな。 記紀にも筑紫の日向から神武東征と明記されているのだから、
万世一系と相容れないことはないと思うのだが 学問的には無意味な事象を根拠にできると思い込んでる腐った脳ミソ 三種の神器なんてくくりは文献の方でも疑われてるのに…
かわいそうだなw 実際に出土する副葬品を理解することもできないなんて。
畿内説に入信すると、事実認識も捻じ曲げられるのかな。
では、畿内説では玉、鏡、剣の組み合わせはなんなんだ? >>804
倭人伝で南部を領有してるんだから
現代の元首までその権威が連続してたらヤバイんだろ。
こっちがプラスなら
あちらはマイナス 狗邪韓国ですら発狂したように倭人領じゃないと言い張る時点でw >>804
後世の概念を勝手に遡らせて悦に入っても、理解してることにはならないぞ >>804
いろんなところで事実をねじ曲げてると評判なのは糸クズって呼ばれてる歴史学を知らない九州説のじいさんなんだが 三種の神器=玉、鏡、剣の組み合わせ
が
紀元前の福岡から現代まで連続しているという
事実
キナイコシ 残念!!!www >>808
事実として出土しているのに、目をそらすなよ。
呼称は後世のものかもしれないが、倭王の象徴としての概念はあっただろう。
それとも何か?
畿内説では、三種の神器はいつ成立したんだ? >>810
紀元前から現代まで連続してる?
じゃあ、古墳時代前期前半の例をあげてみせてよ >>811
出土した事実から目を背けてなんかいないさ
学問的に考察もなく奈良時代に認められる概念を弥生時代に適応させるな、
といっている >>820
その概念の"源"なのは明らか
出土した事実は重い >>813
奈良時代まで伝えられたんだろ。
記録が奈良時代からしかなくても、実際に発掘されるわけだから。 >>814
>その概念の"源"なのは明らか
個人の思い込みを勝手に事実にするな
同様の主張をしてるプロの歴史学、考古学の研究者をあげてみろ >>815
「だろう」じゃなくて、遺物や史料を使って、伝えられたことを実証してみろ 弥生の矛形祭器が平安時代にまで連続してるとかいっちゃうバカにはどだい無理
なんたって現実をまるでみようとしないんだからw 鏡と矛に対する信仰が継承されているのは確かだよ。
何を言っているんだ?
現実を見ろよ。 論証なしで結論連呼w
伊都クズにはやっぱり学問は無理w そして、歴史の問題を扱っているのに時間による変化を無視するというトンデモ思考 事実:北部九州が源
解釈:
九州説:北部九州勢力が全国制覇
キナイコシ:全て突然キナイコシ 事実:
内行花文鏡だけじゃない。
方格規矩鏡にしても大量に北部九州の「弥生」墳墓に副葬されていた歴史があり、
それが畿内の「古墳」からもポツポツと出土する。
解釈:
九州説:九州由来の支配者による伝世品だね
キナイコシ:弥生時代から海外と交流があった証拠だ 弥生の矛形祭器が平安時代にまで連続してると主張しているとか
決めつけ批判しちゃうバカにはどだい無理
なんたって
弥生の銅鐸祭祀キナイコシは絶滅して
弥生の鏡矛祭祀が現代まで連続しているという現実をまるでみようとしないんだからw >>826他
「キナイコシ」さん、おはよう(定型句)
祇園祭の山鉾巡行が、弥生時代の銅矛祭祀を引き継いでるとか、バカもいいとこ
祇園祭
清和天皇の貞観11年(869)に、京洛に疫病が流行し、庶民の間に病人、死人が
多数出た。 これは、牛頭天王のたたりであるとして、鎮めるためにお祀りした
祇園社(八坂神社の前身で、祭神は素盞鳴命)を信仰し、病魔退散を祈願したという。
例えば、この画像が、祇園祭の山鉾巡行の「傘鉾」だけれど、「鉾」という字を
使っているだけで弥生時代の鉾とどんなつながりがあるのか教えて欲しいわw
http://blog-imgs-108.fc2.
com/h/a/n/hanagasumi39/aya01.jpg
弥生時代の祭器の矛
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/187582 全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、
神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。
この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされている。
ということで、もともとは文字通りの矛だったけど、だんだん飾り付けられて今の形になったんだよ。
矛自体、古墳時代あたりからどんどん祭器としての性格が強くなっていったので、その究極進化型が祇園祭なんだろう。
それは明らかに九州北部を起源とする銅矛文化の系譜だよ。 wiki 銅矛から引用
日本には朝鮮半島から入ったと思われ弥生時代中期頃から九州のみで生産されていたと思われる。
その後、銅剣・銅戈などのように、しだいに大型化し祭器化する。 >>830
牛頭天王を画像検索してごらん
牛頭天王は右手に斧または三叉戟を持っているだろ?
牛頭天王に疫病を鎮めるように願うのが祇園御霊会だから、
牛頭天王にちなんで鉾を並べてるんだろ?
弥生の九州の巨大かした祭祀用の矛とは関係ないよ
筑紫の文化は鏡がーっていうなら、鏡じゃなくて鉾である理由を
説明してもらわないと >>832
>牛頭天王は右手に斧または三叉戟を持っているだろ?
それが日本風に矛に置き換わっているんだよ。
矛を祭る文化があったからだろうね。 筑紫の文化は銅矛銅鏡文化だからね。
少なくとも畿内の銅鐸文化は顧みられていない。 >>833
>それが日本風に矛に置き換わっているんだよ。
でも、牛頭天王にちなんだものであって、弥生以来連綿と伝えられた矛祭祀なんてのは
ないよな?
鏡の祭祀は、神明社その他で鏡をご神体としている神社が多いから分かるけれど、
矛の祭祀をしているところ、神社でいいや、それがあったら教えておくれ
全国に広がってるんだろ? いくらでもあるはずだよな
さあ、教えておくれ! >>835
連綿となんて誰も言ってないよ?
でも信仰としてそういう基盤があるからこそ、牛頭天王の持ち物が矛に置き換えられたんだよ。
それこそ銅矛文化が基盤にあった証拠だろ?
矛の祭祀も何箇所かにあり、その中でも最大というかもっとも有名なのが祇園祭なんだよ。 >>836
>連綿となんて誰も言ってないよ?
弥生時代から祭祀用に進化して使われ続けているらしいよ?
「銅矛はその後も祭祀用に進化して使われ続けたよ?
京都祇園祭りの山鉾巡行でも、てっぺんに鉾や長刀が立ててあるよ。 」 >>836
>矛の祭祀も何箇所かにあり
何箇所かって、どこ?
具体的に教えて?
それに全国に広まったなら、何箇所かってことはないと思うんだが?
実際神明社は全国に約5400社あると言われている
祇園祭は、牛頭天王という仏教系の天がもとで、日本古来の信仰とは別だよな? >>839
>神仏習合って知っている?
誰に物言ってるんだ?
知らなかったら、祇園祭はスサノオだって言ってるはずだって分かるか? じゃあ、
>>838
>祇園祭は、牛頭天王という仏教系の天がもとで、日本古来の信仰とは別だよな?
は意味がないこともわかるよな。 連綿と、という表現は、例えば沖ノ島の祭祀のようなものに使うのが良いのかな。 >>841
>は意味がないこともわかるよな。
どこが?
祇園御霊会は、疫病神である牛頭天王を慰撫するのが目的だぞ?
そして、牛頭天王が疫病神というのは、仏教側の教義で習合されたスサノオの性格ではない
日本古来の信仰とは別だよな?
さてはお前、神仏習合ってなんだか分かってないだろ? 神仏習合を唱えるのはいいけれどもじゃあ仏教に矛祭祀はあるのかとい インドに矛は関係ないだろ
神社から銅矛が出土している
そういうことだ つまり、古来からある神道の銅矛文化を仏教文化と融合させてできたのが祇園祭。 >>845
>矛が各地で祭祀されているのは事実だね。
行くらここに文字列を並べても無駄だってばさ!
確認できる根拠を「具体的に」示してくれ
各地でではなく、どこどこのどういう祭り・神社・寺等で祭られているって、
きちんと「具体的に」示して! >>850
纒向遺跡から唯一出土した金属器
『銅鐸片』
は?www >>848
>古来からある神道の銅矛文化
おいおい、いいかげんにしろよ!
神道のどこに銅矛文化があるんだ?
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕にも、矛なんて出てこないぞ
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/000008.html 銅矛は副次的なものだな。
各地で祭祀されて、神社境内から出土するけれども。
銅鏡こそ神道の真髄。
銅鐸はないねえ。残念!w 200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 >>854
>銅矛は副次的なものだな。
もう降参か?ww
まあ、最初から無理だからな
九州ローカルの祭器はww >>857
あれれ?
巻向唯一の金属器である銅鐸は???
まさかまさかの鉄器ゼロ???www 200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 >>862
銅矛を持った勢力が九州を出発して西日本も東日本も征服したんだよ。
wiki 銅矛から引用
槍状の刃の下部が袋状になっていて、そこに柄を差し込んで使用する。
袋部の根本付近に半環状の耳が両側につくもの、片側だけのもの、つかないものなどがある。
耳には布などを結び旗印などに使用したと思われる。
日本には朝鮮半島から入ったと思われ弥生時代中期頃から九州のみで生産されていたと思われる。
その後、銅剣・銅戈などのように、しだいに大型化し祭器化する。 wiki 天之尾羽張より引用
日本神話は、天之尾羽張(伊都之尾羽張神、稜威雄走)・タケミカヅチ(建御雷神)の二柱とも、剣の神霊であることを表している。
なお「尾羽張」は「尾刃張」で、鋒の両方の刃が張り出した(切先が幅広くなった)剣の意味である。
「雄刃張」で、刃全体が鋭利であることを意味するとも。
「天」は高天原に関係のあるものであることを示す。
「伊都」「稜威」(いつ/いづ)は、神の威力盛んな様子を意味する。 神威旺盛な神代の王都、それが筑紫の日向の伊都高千穂宮。
天孫降臨の地にして神武東征の出発地、天つ日御子の宮城。 >>865
>なお「尾羽張」は「尾刃張」で、鋒の両方の刃が張り出した(切先が幅広くなった)剣の意味である。
実は銅矛のことである。 イザナギとイザナミの国産みは、天沼矛(あめのぬぼこ)を用いてオノコロ島を作るところから始まる。
日本書紀では天之瓊矛。
「瓊は玉のことである」と日本書紀本文に注釈があり、「天之瓊矛」は玉で飾られた矛ということになる。
祇園祭の鉾も豪華に飾り立てられている。
オノコロ島はどこか。
オは接頭語、ロは接続詞で、弥生文化発祥の地である博多湾に浮かぶ能古島のことであるという。
能古島は、弥生時代の倭王の証である漢委奴国王印(金印)が出土したことでも知られる。
イザナギやアマテラスも倭王であったのだろう。
ttps://stat.ameba.jp/user_images/20161229/07/learnjapanonline/7c/1f/j/o3630253213832459822.jpg?caw=800 【伊観神社】福岡市西区周船寺
由緒書きでは2世紀ごろに「神功皇后を助けた伊都国の主はここから400m先の丸隈山古墳に埋葬されてる」と書かれています。
福岡奴国から遷都してきた伊都国の最初の王である邇邇芸と木花咲耶姫が祭られています。
ttp://livedoor.blogimg.jp/jingu2675/imgs/5/5/55a24db7.jpg 邇邇芸と木花咲耶姫の王墓は、平原遺跡に近い三雲南小路遺跡です。
江戸時代までは、三雲南小路に近い細石神社が倭王の証である漢委奴国王印を保管していたそうです。
三雲南小路遺跡の被葬者は男女のペアで、三種の神器と、王権の証である璧、さらには平原遺跡を超える数の銅鏡が副葬されていました。
三雲南小路は、筑紫の日向のクジフル山(高祖山)の麓にあります。 200メートル以上の前方後円墳33のうち
24は陵墓指定されておらず
それなりに発掘調査されている。
そのうちたった2つの結果がこれ
>>839
他を調べてみると。。。
大きいからすごいという固定観念は。。。 >>871
なるほど。
三雲南小路遺跡をそう捉えると記紀の中に内包できるが、
記紀と無関係とするならば、
別系統の国家が北部九州にあったと言っているのと同じことになるわけだ。 末蘆(唐津)に官がいないのは
実際に末蘆国府らしき遺跡が桜馬場遺跡までで途絶えていることと合致するが
なんで急に寂れたんだろうな。
漢が滅亡したり公孫氏が出てきたりしても、
朝鮮半島との交易は続くわけだから
末蘆国の重要性はさほど低下したわけでもなかろうに。 那の津は国内からの集積地だね。
けど楽浪土器も唐津をスルーして伊都三雲に集積しているし、
韓人などの海外系集落も伊都から福岡市西部の海岸沿いに展開していて
唐津には少ない。 航路がつけ変わった
唐津ー小城が
伊都ー奴国ー御笠川ー宝満山 唐津は最古の菜畑遺跡から人が住んでいたから
倭人で占められていたんだろう。
四千戸だから伊都の4倍いたんだし。
首都でも無いから海外からの使節は緊急時以外素通りして伊都へ。
新規の渡来人は有能なのは奴国、落人はもっと東へ入っていったんじゃなかろうか。 ・舟でやってくる
・目的地は伊都三雲
なんだから
唐津やまして呼子などで下船することはなくて
湾の中を安全に進んで伊都に近い所で下船する。 伊都では、
三雲南小路〜井原鍵溝甕棺から平原木棺に墓域が移動
末蘆國では、
井原鍵溝の相方である桜馬場が途絶える。
三雲南小路〜井原鍵溝+桜馬場の甕棺墓政権は
倭国乱で失脚したということ? >>874
>200メートル以上の前方後円墳33のうち
>24は陵墓指定されておらず
これ、どこから拾って来た情報だ?
ウィキペディア見ると200メートル以上が33と書いてあるが、
このページの情報だけで、そのうち10基が天皇陵治定されているし
皇族墓も入れれば17が陵墓指定されていて発掘できない
残りは16になるはずだが?
相変わらずいい加減なゴミ情報を何度も書き込むばかりだな >>877
>なんで急に寂れたんだろうな。
>末蘆国の重要性はさほど低下したわけでもなかろうに。
それを解く鍵が「東南陸行五百里、到伊都國」なんだと思う
東南陸行では、伊都国には着かないが、佐賀方面へ抜けるのにはちょうどよい
かつては倭国も代表が佐賀方面にあり、そこへ行くためには末蘆国に上陸するのが自然で、
その頃は倭国の玄関口として末蘆国が栄えていた
それが、倭国の中心が移動することおよび一大率が伊都国に置かれることで、
末蘆国の重要性が低下したと考えればよい
そのときの記録が、魏志倭人伝では倭国に上陸してからの記録として伊都国行きに
書き込まれてしまったので、実際に地理と矛盾してしまったと考えられる
さらに推測を交えれば、吉野ヶ里周辺に米多郷という地名が残っていることから
倭面土国が倭米多国と考えれば末蘆国からの東南陸行五百里の目的地として
妥当な位置になる
私のオリジナルじゃなくて、このページの受け売りだけどね
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu03.html#rikuko 三雲南小路〜井原鍵溝の伊都甕棺墓王家の治世に
桜馬場まで存在しているから
伊都三雲を楽浪郡史が目指している期間にも唐津は栄えていたわけで、
航路が変わっていないのに唐津が寂れている。 甕棺墓の王達が失脚したことで政治区分も変わったということかな。
甕棺墓王の時代は、末蘆國にも伊都にも奴国にもそれぞれ王がいたのが、
平原女王の時代には、
伊都+末蘆國の5千戸を伊都の官が管轄してたんだろうね。
同じ湾に面しているし。
2万戸の奴国と同じく副官までいるのは
広域対応しているからなのだな。 >>886
>伊都三雲を楽浪郡史が目指している期間にも唐津は栄えていたわけで、
いや、甕棺墓時代って時点で、魏志倭人伝の時代には届かないだろうに >いや、甕棺墓時代って時点で、魏志倭人伝の時代には届かないだろうに
議論についてこれていない >>889
>議論についてこれていない
>>889がな
まずは、甕棺編年を確認してきてくれ
話はそれからだろうな 甕棺墓時代は、卑弥呼の時代の100年以上前に終わってるだろ?
北部九州がすごいって言ってる人はそれが平原1号墓を除けば
全部甕棺墓だってことを意識した方がいい
そして、平原1号墓は舶載鏡が2枚しか出ない
九州は、卑弥呼の時代には政治勢力としてはオワコン >>892
>言っていることがめちゃくちゃ
はいはい、いつもの根拠・理由なしの一言レスww
どこかどうめちゃくちゃなのか、「具体的に指摘」しろと何度言えば 具体的な指摘の例
平原1号墓は
魏鏡はおろか新しい後漢鏡すら1枚も副葬されておらず
墳丘に土壙墓を掘られるような、
径十歩に満たない墓で、
卑弥呼の墓も倭王の墓もない 各地の地域首長墓、いわゆる王墓級弥生墳丘墓の大きさ
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え、四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある
纏向型前方後円墳は、弥生墳丘墓に入れる立場だけれど、
纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある
北部九州でも、
須玖岡本遺跡D地点王墓や三雲南小路遺跡王墓は、30メートル四方程度の墳丘があるし
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓も南北約40メートル、東西約27メートルの大きさがある
平原1号墓の墳丘サイズは、平原遺跡の案内看板の数値で、13×8メートル
吉野ヶ里の北墳丘墓の10分の1 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています