伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>47
>平原一号墓は、卑弥呼の墓でも、倭王の墓でもないし
根拠は?
>短里もないし
根拠は?
>秦所都と秦之所都には意味の違いはないし、
>女王之所都に女王のすべてという意味はない
何が言いたいのか分かりません?
「邪馬壹國 女王之所都」とは投馬國に対して邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味ですよ。 魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >>54
>邪馬台国時代の遺物の出土状況
>http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
古墳の副葬品なんかどうでもいいからw
いや、だから、その根拠となる「弥生集落遺跡群」は? 示せないの? 妄想はもう腹いっぱい。 @阿波 >>52
>それがうまい説明かね? 水銀鉱脈がなにか? @阿波
その水銀鉱脈が発見されるのは、飛鳥時代に入ってから
畿内豪族が九州まで出向いて見つけている
弥生時代には存在自体知られていないから、「ない」んだよ >>48
>九州説ではすべてがうまく説明できるが、畿内説ではすべてが矛盾するため、
どこが矛盾するのか、具体的にどうぞ!w
具体論から逃げ続ける九州説w
「25センチ=歩」に頼らなきゃいけないのが、うまい説明か?ってのww >>53
>卑弥呼の墓でも、倭王の墓でもない
径百歩ではない ⇒ 卑弥呼の墓ではない
弥生終末期は各地の地域首長が巨大な墳丘墓を作るようになっている
魏志倭人伝にも、王(卑弥呼)の死に際して「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩」と
記していることとも整合性が取れる
倭王の墓は、最大級の墳丘墓とみなせる
平原1号墓は、12×8メートルの小さな墳丘墓
⇒ 倭王の墓ではない >>53
>根拠は?
距離が測れるのは、
末廬國−伊都国間と
伊都国−奴国 間の2箇所しかなくて、統計処理もできないデータ数
そして実際の距離は
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島) 25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市) 20km/100里=200m/1里
里に換算すると、50メートルと200メートルで4倍違うけど、
「短里という統一した単位」で計られているんでしたよね
そんなものある訳ないだろ?
単里なんてない >>53
>>秦所都と秦之所都には意味の違いはないし、
>>女王之所都に女王のすべてという意味はない
>何が言いたいのか分かりません?
この部分は、前スレにいた池沼連呼の頭の悪いやつへの通告
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528806114/978
>「邪馬壹國 女王之所都」とは投馬國に対して邪馬壹國の方に女王の都が在るとの意味ですよ。
投馬国も邪馬台国も、倭国の中の一国(地名)であって、
投馬国と邪馬台国が対置されているわけではない
この辺の読みからして無理読みなんだよな、九州説は >>61
>投馬国も邪馬台国も、倭国の中の一国(地名)であって、
投馬国と邪馬台国は書き方が他の文と違い明らかに国邑ではない
投馬国は朝鮮半島の南岸であり邪馬台国は北部九州地域の名称である
投馬国と邪馬台国を国邑と混ぜて読んでしまうから魏志倭人伝が意味不明のものとなるんだよ。 >>60
末廬國−伊都国間は(呼子〜伊都ゴルフ倶楽部)44q
伊都国(糸島)ー奴国(伊都ゴルフ倶楽部〜福岡市)8q
44q=500里=88m/1里・・・1里=80mで550里なので500里としてもおかしくない。
8q=100里=80m/1里 >>61
>投馬国も邪馬台国も、倭国の中の一国(地名)であって、
投馬国と邪馬台国は書き方が他の文と違い明らかに国邑ではない
投馬国は南部九州地域であり邪馬台国は北部九州地域の名称である
投馬国と邪馬台国を国邑と混ぜて読んでしまうから魏志倭人伝が意味不明のものとなるんだよ。 >>64
>邪馬台国は北部九州地域の名称である
北部九州地域は「其山有丹」で即死。 @阿波 >>62
>投馬国と邪馬台国は書き方が他の文と違い明らかに国邑ではない
これが根拠になってないんだよ
魏志倭人伝は、きちんと見ていくと、二国分くらいずつで、旅程の書き方を変えていっている
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
始 度一海 千餘里 至對馬國・・・方可四百餘里・・・有千餘戸
又南 渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國・・・方可三百里・・・ 有三千許家
又 渡一海 千餘里
至末盧國 有四千餘戸
東南 陸行五百里 到伊都國・・・ 有千餘戸
東南 至奴國 百里・・・ 有二萬餘戸
東行 至不彌國 百里・・・ 有千餘家
南 至投馬國 水行二十日・・・ 可五萬餘戸
南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日、陸行一月・・・ 可七萬餘戸
きっちり、ほぼ二カ国ごとに書き方が変わってる
末慮国のところが、水行と陸行の境目で、ちょっと対応が悪くなってるけどね
それと、邪馬台国までは、距離(道里)と戸数の情報が必ず入っている
これが、自女王國以北、其戸數道里可得略載の意味で、
投馬国が、女王国より以北であることがはっきりする
奴国、投馬国、邪馬台国の3国は、ある程度の動員が可能な領域国家に
近い段階だと思われる >>63
>末廬國−伊都国間は(呼子〜伊都ゴルフ倶楽部)44q
また適当なことを書いているなぁ
呼子と伊都ゴルフクラブの間は30キロないぞ
呼子を末慮国とするのも不適当
国の中心と見るべき遺跡が呼子にはない
伊都ゴルフクラブを伊都国とするのも不適
伊都国の中心は三雲遺跡群でもっと北になる
呼子から伊都国方向は、東であって東南にはならない
奴国の福岡市というのもごまかしがひどい
奴国の当時の中心は那珂遺跡群のあたり
伊都ゴルフクラブからでも軽く20キロくらいはあるぞ
無理やりな比定地を持ち出さなきゃいけない時点で、
筋の通らない無理読みだってのが証明されているんだよ >>67
>国の中心と見るべき遺跡が呼子にはない
そうですね。 やはり末慮国は「国の中心と見るべき遺跡」が在る宗像方面ですね。 @阿波 >>68
>さらりと嘘をつく畿内説
だから、嘘だというなら、「どこが嘘なのか『具体的に』指摘しろ」って、何度言えばw
まあ九州説は、議論・討論に耐えられるだけの知的能力がない人ばかりみたいだから、
無理な要求なのかもね
「具体的な指摘」 >>66
對馬國と一大國は島国
末盧國と伊都國は伊都国までの陸上行程
奴國と不彌國は伊都國から先の国
書き方が変わる理由がある
たまたまだね
投馬國と邪馬台国はこれらの国邑とま全く違う
これらの国邑を含んだ領域国家。
>>67
距離を脳内で測らずにグーグルマップで測ってみろよw
倭人伝の行程は国邑の端から端までを記してあり国の中心は関係ないよ
思い付きでいい加減なことを書かないように。 >>72
>對馬國と一大國は島国
>末盧國と伊都國は伊都国までの陸上行程
>奴國と不彌國は伊都國から先の国
>書き方が変わる理由がある
つまり、投馬国、邪馬台国は、水行(沿岸航行)という、それまでと異なる移動方法を
とるために、書き方が変わる理由があるってことだよな!
>たまたまだね
>>72の主張どおり、はっきりとした書き方が代わるべき理由があるんだから、
たまたまじゃないだろ?
自分の書いたことには、すぐに手のひら返しをしたりせずに、責任を持とうな! >>73
だから、帯方郡からの総日程をおさらいしたんだろ。 >>72
>投馬國と邪馬台国はこれらの国邑とま全く違う
何をもってまったく違うというのか、根拠が不明
「具体的」に書いてくれ
>これらの国邑を含んだ領域国家。
ある程度の領域国家的なものになっていただろうことには同意
萬餘戸を超える大国でも、奴国は「有」二萬餘戸なのに対し
投馬国、邪馬台国は「可」五萬餘戸、「可」七萬餘戸という書き方になっていることも
傍証といえる
ただ、それが、他の国名と重なる領域とするのは、読み方がおかしい
重なるのであれば、戸数がダブルカウントになってしまうので、その旨を示す注釈が
入らないといけない
投馬国は山陰の日本海沿岸、四隅突出墓の領域
邪馬台国は大和+河内〜環大阪湾の、畿内第V様式土器を使う領域 が
それぞれの領域国家(仮)の範囲として想定できる
無理に九州の国と重ねる理由がない >>76
>無理に九州の国と重ねる理由がない
無理じゃない。
投馬国は帯方郡から南にあり、出雲では方角が違う。
宮崎県都万が大きさから言っても妥当。 >>72
>距離を脳内で測らずにグーグルマップで測ってみろよw
きちんとYahoo!Mapで測ってあるよ
グーグルマップではないけどなw
>倭人伝の行程は国邑の端から端までを記してあり国の中心は関係ないよ
そんな計り方だったら、旅程に記された距離を足しても、総移動距離が出ないだろ?
それに、末慮国から伊都国への経路として、末慮国の国内移動を書くことになるぞ?
大陸史書の地理・旅程記事は、基本的にはその国(地域)の中心(国邑・首都)を
直線距離で方角と距離で示しているんだよ
>思い付きでいい加減なことを書かないように。
思いつきでいい加減なのは、九州説の方ww
「行程は国邑の端から端まで」だとしたら、
伊都国の端が「伊都ゴルフ倶楽部」ってのは、どっちから来たときの端なんだい?
また、手のひらクルックルで、前言撤回して、
新しい思いつきで言い逃れを試みるのかい?w 伊都国説は支持者が多いから、人により言うことが違う。
手のひらを返しているわけではない。 >>77
>無理じゃない。
無理だよw
>投馬国は帯方郡から南にあり、出雲では方角が違う。
帯方郡から南っていう時点で、無理
倭人伝冒頭に、倭人在帶方「東南」大海之中とあるのに、
帯方郡起点で、南にしか行かなかったら、倭人の領域、帯方東南大海之中には
たどりつかないだろ
出雲の方がまさに、帯方の東南だ
魏志倭人伝の記述が、方角を間違えているんだよ
倭国が南北に連なる洲島だと勘違いしているからね
>宮崎県都万が大きさから言っても妥当。
宮崎県都万に、奴国を超える人口を容れられるような遺跡はないよ
それに自女王國以北、其戸數道里可得略載から
投馬国が、女王国より以北であることがはっきりしている
北部九州が邪馬台国だと主張するなら、それより南に投馬国を持ってくるのは
無理読み 伊都国説とか本も出てないのに
どうして「支持者多い」の?
ww >>80
>伊都国説は支持者が多いから、人により言うことが違う。
>手のひらを返しているわけではない。
さっきから、私の相手をしているのは一人だと思ったんだがな?
>>63、>>64は、>>72、>>80とは別の人の書き込みだと主張するのかい?
まあ、匿名掲示板だから、何とでも言えるけれど
それはそれとして、>>72の立場からすれば、>>63は大間違いの比定地だって
ことでいいのかい?
手のひらクルックルじゃないとすると、そういうことになるんだが?w >倭人伝冒頭に、倭人在帶方「東南」大海之中とあるのに、
>帯方郡起点で、南にしか行かなかったら、倭人の領域、帯方東南大海之中には
>たどりつかないだろ
倭人は倭国だけでなく東方の倭種や黒歯国、裸国にも居ますから問題ないんです。
>宮崎県都万に、奴国を超える人口を容れられるような遺跡はないよ
投馬国は宮崎じゃありませんね、朝鮮半島の南岸ですね。 >>81
>魏志倭人伝の記述が、方角を間違えているんだよ
魏志倭人伝を信じないのに邪馬台国を語るとは笑止千万w >>81
>宮崎県都万に、奴国を超える人口を容れられるような遺跡はないよ
西都原古墳群だろ。
>それに自女王國以北、其戸數道里可得略載から
>投馬国が、女王国より以北であることがはっきりしている
投馬国は里数が記載されていないので、女王国以北に含まれない。 >>83
>>>63、>>64は、>>72、>>80とは別の人の書き込みだと主張するのかい?
自分のは80だけだね。
>それはそれとして、>>72の立場からすれば、>>63は大間違いの比定地だって
>ことでいいのかい?
少なくともゴルフ場に否定するようはアホなことは言わないよ。
そんなところは知らないし。 地図で測定すればわかるが、
帯方郡から半島南岸を経て対馬海峡横断する水行部分の総距離が、
水行800km
よって、水行10日であれば、800÷10=80km/日
水行20日+10日であれば、800÷30=26.7km/日
古代船の最大速度が3ノット=時速5.5km
灯台も無い古代沿岸航海での夜間航海はありえない。
(夜間航海を主張した時点でその説は敗北)
1日10時間全力で航海したとしても、1日に進める最大距離が55km。
里程部分は連続読み
日程部分は並列読み
という主張をして、投馬国を宮崎に比定しようとしても、
現実がついてこない。
文脈としても、
帯方郡から近い土地から先に書くわけなので、
帯方郡→まず投馬国(水行20日)があって→次に邪馬台国(水行30日陸行1日)。 魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日 >>95
伊都ゴルフ倶楽部付近は小高い丘になっている
この付近が末廬國と伊都國の境で伊都國は怡土平野。 >>97
違いますよ、
帯方郡から投馬国まで水行20日
投馬国から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤り)
宮崎は狗奴国です。 邪馬台国は福岡、佐賀、長崎、大分、熊本・・・7万戸
狗奴国は鹿児島、宮崎。 【狗奴国】
狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。
邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。 >>103
倭国大乱は邪馬台国よりも前の時代
この文では結論だけで狗奴国を熊本とする理由の説明がなされていない
九州で出土した副葬品の分布地図で見ても熊本は邪馬台国の一部としか考えられないですよ
言ってることの意味が分かりませんね。 「参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」
この文は奴国から奴国まで有明海一周ですから熊本も邪馬台国を構成してる一部ですね。 >>84
>倭人は倭国だけでなく東方の倭種や黒歯国、裸国にも居ますから問題ないんです。
帯方郡の南に倭人がいるとはどこにも書いていない
なのに、倭王が帯方郡の南にいるっていう読み方ではダメだと言ってるんだよ
典型的な誤読・無理読み >>94
>西都原古墳群だろ。
古墳時代で語ってよいなら、その時点で畿内で終了だよ
古墳時代の前に九州に倭王の都するところがあったってのが、九州説だろ? >>94
>投馬国は里数が記載されていないので、女王国以北に含まれない。
道里であって、里数とは書いてない
日数も道里の略載法だよ
邪馬台国も日数で書いてあるが、邪馬台国までが「女王国より以北」だ
当然、投馬国も「女王国より以北」になる >>106
>この文は奴国から奴国まで有明海一周ですから熊本も邪馬台国を構成してる一部ですね。
いろんなところで書いているんだが、なかなか常識にならないな
「周旋」は、一周しない
いろいろと寄りながら進むことであり、周旋五千里は片道で五千里になる >>98
>伊都ゴルフ倶楽部付近は小高い丘になっている
>この付近が末廬國と伊都國の境で伊都國は怡土平野。
伊都ゴルフクラブは、松慮側から見て脊振山地を越えたた先じゃないか
脊振山地という自然境界の北側まで末慮国ってことは、相当に伊都国が
圧迫されてたことになるぞ
つまり、ありえない想定だってこと
九州説は、短里の不合理さを示されると、さらにそれ以上に不合理な「勝手な
条件」や「恣意的な国境線」を引き始める 末盧国は伊都の玄関口だよ。
圧迫とかそういうことはない。
場所の比定が正しいかどうかは知らないけどね。
伊都はあくまでも広域の倭国の王都だから、周辺地域はすべて支配下だよ。 >>109
>古墳時代の前に九州に倭王の都するところがあったってのが、九州説だろ?
「古墳時代の前に」という注釈は畿内説側の思い込み。 >>114
>「古墳時代の前に」
古墳時代に入ってから後も九州王朝があったというのは
ただのトンデモ >>113
>末盧国は伊都の玄関口
誰がそんなことを決めたんだい?
末慮国と伊都国の間は五百里と書かれているよ?
これは、かなりの遠距離だろう
実際には、末慮国から伊都国まで陸行はしていないと思うけれどね >>116
>実際には、末慮国から伊都国まで陸行はしていないと思うけれどね
ちゃんと魏志倭人伝に「東南陸行五百里到伊都國」と書いてあるのになんでそう思うかね? へそ曲がり? @阿波
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) >>117
>魏志倭人伝に「東南陸行五百里到伊都國」と書いてある
末慮国の東南五百里に伊都国がないからだよ
末慮国が万津浦とかいうたわ言は却下で
浦=海岸の名前を国の名前にしてはいけない >>111
まだ変なことを言ってますね
周旋とはぐるりと回ることですよ。 >>119
>まだ変なことを言ってますね
>周旋とはぐるりと回ることですよ。
三国志で、周旋で「ぐるりと回る」意味で使われているところがあったら出してくれ
http://www.zenyamaren.org/yamaren20-038.pdf
斡旋の意味(今でいう周旋屋)で使われているところはあっても、ぐるりと回ったり、
出発点に戻る用法で使われているのはないそうだよ >>118
>末慮国の東南五百里に伊都国がないからだよ
へそ曲がり?
>末慮国が万津浦とかいうたわ言は却下で
>浦=海岸の名前を国の名前にしてはいけない
万津浦にこだわってるわけじゃないよ。 参考まで。
末盧国(四千戸)(福津市辺り)なら満足かい? @阿波 >>121
>末盧国(四千戸)(福津市辺り)なら満足かい?
万津浦を参照しないのであれば、松浦川、末羅国造等、古代まで
遡れる地名が残る唐津平野を差し置いて、福津市辺りを末慮国とする理由はない そろそろお鏡さんが出てくるかもしれないから、ごまかせないように貼っておく
16日本@名無史さん2018/06/24(日) 10:42:35.88
>>10
>私は丈夫という単語から「背が高い」という意味を抜くのは、
>炭酸の抜けたコーラみたいな読みと思いますので、感心しませんせんね。
お鏡さんが感心しようがしまいが、それはお鏡さん個人が恥をかくかどうかってだけで、
古代の丈夫の意味とは何の関係もないね
もともと丈が平均的な成年男子の身長を示す身体尺なんだから、
丈夫も平均的な身長の成年男子だよ
恥ずかしいね! いまだに「自分の解釈ミス」というか「もの知らずの思い込み」を
間違いだと素直に認められないってのはw >>116
>実際には、末慮国から伊都国まで陸行はしていないと思うけれどね
魏志倭人伝を無視して妄想しても意味ない。 「東南陸行五百里 到伊都國」これは実際に末慮国から伊都国まで陸行したってことですよね。 >>120
三国志でも周旋は「ぐるぐる回る」との意味で使われてますよ
「いろいろと寄りながら進む」は誤訳ですよ
畿内説の人からも馬鹿にされる恥ずかしい間違いですね。 >>116
末盧国も伊都国も女王国の領土内なんだから
首都である伊都国に対して末盧国は玄関口ですね
伊都国が怡土平野だけで直ぐ西まで末盧国であってもそれは単なる行政区分上のこと。 >>122
>松浦川、末羅国造等、古代まで
>遡れる地名が残る唐津平野を差し置いて、福津市辺りを末慮国とする理由はない
あのねぇ、もういい加減に地名だけに頼るトンデモ説を卒業しなさいよ。 君、レベルが低いよ。
きょうび、遺跡とか遺物で証明しなきゃね。 @阿波 >>127
>三国志でも周旋は「ぐるぐる回る」との意味で使われてますよ
>「いろいろと寄りながら進む」は誤訳ですよ
>畿内説の人からも馬鹿にされる恥ずかしい間違いですね。
言い張れば済むってもんじゃないんだよ
そう取れるところを原文と解釈とともに挙げてくれ
そうしたらこっちでも解釈できるから
ただ、このネタは結構古くからあって、知ってる人は知ってるネタなんだよ
きちんと読んでる人は、周旋は、一周とか元の場所に戻る経路じゃないのを知ってる
https://awabi.5ch.net/test/read.cgi/history/1329627586/500 >>126
>「東南陸行五百里 到伊都國」これは実際に末慮国から伊都国まで陸行したってことですよね。
いや、そうでもないんだ
よく、魏志倭人伝の旅程記事、という呼ばれ方をしているけれど、
地理・旅程記事と呼ぶ方が実態をよく表している
大陸正史では、ある場所からどっちの方向にどれだけ離れた場所に、
どこの国(町)がある、というのを「至(到)」で表現しているんだよ
陸行と書いているから、移動しているように見えるけれどね
そもそも宇木汲田遺跡や、千々賀遺跡のある末慮国から、伊都国に行くのに
脊振山地を越えて陸行するのはバカらしい
壱岐から船で来ているのだから、そのまま伊都国へ船で向かうほうが楽
この部分は、漢代の倭国への行程記録が紛れ込んでいるのだと思う
私のオリジナルの考えではないのだけれど、末慮国から東南五百里は
松浦川沿いに筑紫平野に抜けるルートだという説に賛成
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu03.html#rikuko >>128
>伊都国が怡土平野だけで直ぐ西まで末盧国であってもそれは単なる行政区分上のこと。
行政区分などという概念は、3世紀にはないから
自然境界も何もないところに、国の呼び名が変わる境界があったらびっくりだよw >>131
>あのねぇ、もういい加減に地名だけに頼るトンデモ説を卒業しなさいよ。 君、レベルが低いよ。
相手を無意味に罵るようになったら、九州説の同類だよww
桜馬場遺跡、千々賀遺跡、宇木汲田遺跡とか、国の存在を想定できる遺跡が
唐津平野に揃ってるんだから、これと松浦(現在)、末羅国(古代)という地名と
合わせて考えるに決まってるだろw >>134
そうじゃなくて、伊都国と末盧国はお互いに張り合うような独立した関係ではないでしょう、という意味だろ。 >>135
>桜馬場遺跡、千々賀遺跡、宇木汲田遺跡とか、国の存在を想定できる遺跡
それらはとても「国の存在を想定できる」ほどの遺跡じゃないでしょ。 せいぜい邑程度。 甕棺墓地じゃね。 仕方ないよ。
とにかく、これといった弥生末期集落遺跡が無さすぎ。 @阿波 >>136
>伊都国と末盧国はお互いに張り合うような独立した関係ではないでしょう
張り合わなくて、同じ平野にいたら一つの国になって、伊都国と末慮国の間の
国境線はあり得ないってこと >>137
>せいぜい邑程度。 甕棺墓地じゃね。
千々賀遺跡は、墓地だけじゃない複合遺跡群だよ
平成12年(2000年)に漆の蓋状のものや直径40センチの柱や板材などが出土。
周辺では、甕棺と銅鉾、銅戈などが出土した千々賀庚申遺跡、銅の腕輪が出土
した千々賀宇ノ木遺跡があり、久里双水古墳も近いなどの理由から、それまで
不明とされてきた魏志倭人伝に記載されている末盧国の拠点ではないかと話題に
なった。
その時発掘された、蓋状の漆品のうち、形状のしっかりしたものは2枚。このうち
1枚は、ほかの遺跡でも見られるように、全体を黒漆で塗り、中心の小丸と外円の
やや内側に赤色の漆で丸い線が描かれている。
もう1枚は、前の線に加えて、幾何鋸歯紋と呼ばれる、細かい三角形の文様や、
斜線、細線などが描かれている。青銅器にはみられるが、漆品に見る国内での出土
例は初めてとされた。 >>139
糸島市の中央には小高い山脈みたいのがあって東西に平野が分かれてるよ。 >>140
>千々賀遺跡は、墓地だけじゃない複合遺跡群だよ
いや、だからせいぜい邑程度なんだよ、倭国(阿波)の集落遺跡と比べたら。 @阿波 >>137
松浦は唐津平野付近だけじゃなくて長崎県から佐賀県北部一帯の地名だよ。 >>139
そうだね
かなり糸島と唐津は当時はかなり近しい存在だと思われるよ
中原遺跡の弥生終末期の墓で
平原1号墓と規模と構成が類似する墓がある
破砕鏡も伴うが副葬品は平原に及ばない >>141
>糸島市の中央には小高い山脈みたいのがあって東西に平野が分かれてるよ。
どれのこと?
地名で教えて
微高地程度なら、むしろ集落が作られやすい場所になるんだが? >>143
>松浦は唐津平野付近だけじゃなくて長崎県から佐賀県北部一帯の地名だよ。
松浦郡のことでしょ?
それはそれで、古代の末慮国の範囲を考える上ではあまり参考にならないと思う >>144
親しいかどうかは別だけどな
対外貿易の利権を取られてるだろう >>144
>中原遺跡の弥生終末期の墓で
>平原1号墓と規模と構成が類似する墓がある
てことは、平原1号墓は、そこらの一族の墓と同程度の規模ってことだよね
倭王墓に見立てるのは無理でしょ >>139
環濠集落なら自然地形にこだわる必要はそもそもない。 >>147
伊都にいた一大率が伊都から北を統率したとあるのだから、当然末盧も含むだろ。
末盧で荷揚げした物資を確認して帳簿と付け合わせて女王の元に届けるのも一大率の仕事だよ。 >>148
副葬品の規模が違うと書いてあるのが読めないのか? >>149
>環濠集落なら自然地形にこだわる必要はそもそもない。
そういう主張はありうると思うけれど、九州説の
「魏志倭人伝の旅程は正しい」
「距離は短里」
という主張とは相容れないんだ
国がかなりピンポイントになるだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています