伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>548
だからこそ大国主を倒して豊葦原中国を奪ったんだろ。
まあ、もともとは対馬海峡の天津国(海の国)も博多湾沿岸のイザナギの家系だが、家督争いの結果としてニニギの代に陸上の伊都に返り咲いたというわけだ。 >>544
>だからこそ平原遺跡の特別さが目立つ。
読解力、ないの?
平原1号墓はすぐそばの小型建物(祀堂?)に向けて、墳丘軸と大柱を合わせているだけで、
日向峠の日の出なんて関係ないだろうっていってるんだぞ?
この小型建物があるから、1号墓から日の出は見られない
5号墓の大柱の指す方角とも異なるし、平原1号墓の築造をした人たちこそ、方角に無頓着だよな?
5号墓の大柱の先にあるべき祀堂の位置に、3号墓があるからその頃には5号墓祭祀は
終わっていたのかもしれない >>549
だから時系列はどうなってるんだよ?
それは神話を楯にとったただの妄想
神話は史実じゃないっていうのが分からない人間は、たちが悪い >>550
>日向峠の日の出なんて関係ないだろうっていってるんだぞ?
根拠なし。
>この小型建物があるから、1号墓から日の出は見られない
一時的な殯宮だろ。
古代神道の様式が成立したんだな。
>5号墓の大柱の指す方角とも異なるし、平原1号墓の築造をした人たちこそ、方角に無頓着だよな?
5号墓なんて重要ではないし、1号墓を作った時には忘れていたかもしれないね。
5号墓の方角こそ、無頓着に作ったんだろう。
1号墓の特殊性がわかるというもの。
太陽神の化身は卑弥呼だけ。
>5号墓の大柱の先にあるべき祀堂の位置に、3号墓があるからその頃には5号墓祭祀は >>551
辻褄は合っているだろ?
しかも博多湾沿岸に次々に新しい部族が入り込んだことは、考古学的に推定できる。
稲作文化を持ち込んだ部族、甕棺や支石墓の部族、方形周溝墓や木棺も部族など。
しかし倭王の象徴としての内行花文鏡を含む三種の神器は共通している。 非論理的ないちゃもんをつけているのは畿内説だよ。
それに対して誠意的に回答しているけど? 5号墓なんてどうでもいいものを持ち出しても無駄だということ。
副葬品から、1号墓の被葬者が圧倒的に上位であったことは間違いないわけだから。 「非論理的ないちゃもん」の典型が>>556
5号墓が「どうでもいい」という理由がまったく説明されていない 伊都トンデモ説が論破されちゃうのに
反論できないから
何としても無視しなきゃいけないんだよ >>552
>根拠なし。
困ったときの「根拠なし」ww
便利だねぇw
ザラコクさんの「南≠東」とまったくの同レベルw >>558
そもそもなぜ5号墓なんて持ち出すのが理解できない。
世間ではこういうのをいちゃもんをつけると言う。 >>561
>そもそもなぜ5号墓なんて持ち出すのが理解できない。
本気で言ってるの?
本気で言ってるのであれば、歴史について考えるのやめたほうがいいと思うよ
これまでにも何度となく、平原遺跡じゃなくて、平原1号墓と呼ぶように
言ってきたんだが、まったく理解できていないんだな
平原1号墓は、孤立して単独で存在するのではなく、平原遺跡の中に位置づけられるもので、
平原遺跡は平原1号墓に限定されない、空間的時間的な広がりを持つ
その中での平原1号墓の位置づけを考えるのが歴史学だ
さらに言えば、平原遺跡も曽根遺跡群の一角を占めるものだから、曽根遺跡群の
主体から考えていく必要がある
伊都国説(平原1号墓が卑弥呼の墓説)は、歴史学じゃないんだな
知ってたww >>563
>さらに言えば、平原遺跡も曽根遺跡群の一角を占めるものだから、曽根遺跡群の
>主体から考えていく必要がある
その「曽根遺跡群」といっても、所詮お墓ばっかり。
畿内も九州も頼れるものはお墓だけ。 @阿波
>>563
同時に作られた2号墓ならともかく、時代的に違う5号墓を恣意的に取り上げても意味がない。
魏志倭人伝からは、卑弥呼が正統ではなかった家系から共立されたように読めるので、その出自の家系の墓だとしても、あまり意味はない。
畿内説は平原遺跡が怖いあまりに強弁しているだけ。 >>566
>魏志倭人伝からは、卑弥呼が正統ではなかった家系から共立されたように読めるので
勝って読みして、決めつけはイカン。 @阿波 >>566
>同時に作られた2号墓ならともかく、時代的に違う5号墓を恣意的に取り上げても意味がない。
そう思うなら、歴史について考えるのをもうやめなよww
5号墓は「時代的に違う」とか言いながら、二百年も前の、完全に時代の違う三雲南小路遺跡は
重視するんだろ?
5号墓は単に1世代違うだけで、同じ家系の家族墓だと考えられるし、三雲南小路遺跡より
よっぽど関係も深いぞ
そもそも、平原遺跡全体の立地は、5号墓の造営のときに選ばれているんだから、
無視していたら何も言えないよ?
伊都国の王墓の地である三雲遺跡群の外、曽根遺跡群の地を墓所に選んだ理由を
考えることが、1号墓被葬者の属性を考える上で重要
古墳時代に入った後、
三雲遺跡群には伊都国首長(怡土国造)の墓である端山古墳、築山古墳が作られるのに対し、
曽根遺跡群にも、
それより規模の劣るワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が作られる
曽根遺跡群に墓を作る家系(平原遺跡後裔)と三雲遺跡群に墓を作る家系(伊都国首長家)は
別の家系だと考える方が蓋然性が高い
つまり、平原1号墓は伊都国王墓ではないと考えた方がよい
その方が、12×8メートルという小さな墳丘サイズを理解しやすい
ましてや、倭国全体の倭王の墓だなんて、ご冗談はヨシコサンだよw >>566
>魏志倭人伝からは、卑弥呼が正統ではなかった家系から共立されたように読める
苦しいなぁww
共立という言葉からは、各地にいる首長のうち、多くが納得できるものを
共同で推戴したという様子が伺える
先代が大きさ5メートルくらいの方形周溝墓に葬られている弱小家系の人物が
いきなり倭国全体の王に担ぎ上げられるってのはないって
卑弥呼が倭王に共立されたのは、邪馬台国七万余戸という倭国内随一の大国を
背景にしている
ここから先は、想像でしかないが、平原遺跡は伊都国首長家の姻族だったと
考えるのが妥当だと思っている >>568
>別の家系だと考える方が蓋然性が高い
だから伊都国説では別の家系だと言っているが?
的外れな批判は返事の仕方に困る。
>つまり、平原1号墓は伊都国王墓ではないと考えた方がよい
倭王墓だし、伊都国にいた王家は倭王家だよ。
伊都国の王というわけではない。
倭国の王家が三雲の一族から平原の一族に移ったんだよ。
だから5号墳は王ではないのでどうでも良い。 >>570
>卑弥呼が倭王に共立されたのは、邪馬台国七万余戸という倭国内随一の大国を
>背景にしている
七万余戸という倭国内随一の大国は以下。 @阿波
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地
【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡
【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡 >>570
>先代が大きさ5メートルくらいの方形周溝墓に葬られている弱小家系の人物が
方形周溝墓は倭国王家の墓制だろ。
>ここから先は、想像でしかないが、平原遺跡は伊都国首長家の姻族だったと
>考えるのが妥当だと思っている
まあ大ハズレではなさそうだ。
だから女王を輩出できたのだろう。 >>571
>だから伊都国説では別の家系だと言っているが?
つまり、伊都国王家ですらないってことだな
倭王墓はさらに無理ってことでFAだな >>571
>倭王墓だし、伊都国にいた王家は倭王家だよ。
こういうのこそ「根拠なし」っていうんだよw
>伊都国の王というわけではない。
伊都国王ですらない人物が、共立されることはないな
>倭国の王家が三雲の一族から平原の一族に移ったんだよ。
そもそも卑弥呼の前代の時点で、三雲の一族の倭王などというものは認められない
王墓もないしね
三雲の一族の倭王がいないんだから、そこから平原の一族に移りようがない
>だから5号墳は王ではないのでどうでも良い。
径5メートルの小さな方形周溝墓を作る人物の娘が、倭王になるってどんなファンタジーだよww
1号墓の大柱が、日向峠とは無関係だってのは理解できたか? >>573
>方形周溝墓は倭国王家の墓制だろ。
「時代が違う」&「三雲南小路でも30メートル四方の大墳丘墓」だ
適当だよな、知識のない人の書き込みはいつでもw >>573
>まあ大ハズレではなさそうだ。
>だから女王を輩出できたのだろう。
いや、伊都国王妃、くらいがせいぜいだよ
彦姫制の姫が、彦王の死後、全権を掌握したから、それなりに豪華な
副葬品を用意できたってところかな 伊都だけの王家というものがあったという証拠を出せよ。
どこの何という王家だ? >>578
>彦姫制の姫が、彦王の死後、全権を掌握したから、それなりに豪華な
>副葬品を用意できたってところかな
それなりというか、弥生時代で最も豪華な副葬品の女王墓なんだが? 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 後漢時代の倭国の範囲は、狗邪韓国から倭奴国まで。
この範囲でこの時代の王墓は糸島平野にしかない。
つまり、キナイコシが「伊都国王家」と呼んでいるのは、実は伊都を王都とした倭国王家だよ。
もちろん彼らには名前があり、天津神と呼ばれていた。
現代の呼び方だと日向三代とか天孫族とか呼ぶけどね。
これは、高祖山周辺が筑紫の日向と呼ばれる場所であることからわかる。 おまえらいい加減
同じ言葉で違うものを論じてるの理解しろよ。
言葉の定義と中身のすり合わせしないといつまでたっても決着せんぞ? >>580
>伊都だけの王家というものがあったという証拠を出せよ。
>どこの何という王家だ?
怡土県主家だよ
日本書紀仲哀紀にも筑紫伊覩縣主祖五十迹手って出てくるだろ
この家系の祖だよ >>581
>それなりというか、弥生時代で最も豪華な副葬品の女王墓なんだが?
それが単なる思い込み
仿世鏡がやたらたくさんあるだけで、剣でもガラス玉でも丹波の王墓の方が豪華だよ >>584
>後漢時代の倭国の範囲は、狗邪韓国から倭奴国まで。
コピペではないが、結局これだろ?
「後漢書で倭とは対馬海峡の国で 」
それは、九州説の勝手読みだよ
後漢書の原文は
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」で、基本的には魏志倭人伝と同じ認識、
というか、魏志倭人伝のコピペだし、さらに魏志倭人伝よりはっきりと
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」と、相当に南方まで繋がった国だと書いてある
あ、漢文読める?
読み下し付けた方がいいかな?
倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居を爲す。凡そ百餘國。
その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・儋耳と相い近し。
朱崖・儋耳は、海南島とかだよ もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ
その表現が「計其道里、當在會稽、東冶之東」であり、後漢書の「與朱崖儋耳相近」なんだよ
そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里なんてなかったってことなんだけどね
九州説は「短里なんてない」って認めた瞬間に瓦解するから、どんなに論理的に
解説されても頑なに認めないけどねw
逆に言えば、「短里なんてない」って分かってる人には、九州説は噴飯物でしかないw 後漢書
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」
三国志
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國」
後漢書
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」
三国志
「計其道里當在會稽東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」
同じ認識、というか、同じ情報だろ? >>584
>高祖山周辺が筑紫の日向と呼ばれる場所であることからわかる。
「日向峠」という小さな地名一つでよくそこまで妄想できるものだなw
クシフル岳もないのにw で、5号墓からは逃げっぱなしか?
大柱が日向峠を指してないってのもいいか?
諏訪大社の御柱に言及したのは黒歴史でいいんだな? 径百歩の説明がどうにもつかない平原1号墓を卑弥呼の墓にしようって時点で詰んでるんだよ >>591
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
この日向はどこなんだ?
あ、ここに書かれているのは高祖山の麓の福岡市西区の小戸のことだけどね。 >>590
短里で書かれた情報を、短里を知らない中原の人間が解釈したので、実際よりも南にあると思い込んだんだろ?
東夷で短里が使われていたことを示す文章だよね。 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀頃の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、強大な権力があったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。 >>596
>古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
これの確認ができる典拠情報が示されたことが一度もない
つまり、根拠がない >>594
>この日向はどこなんだ?
普通に宮崎県の日向国で問題ないだろ
宮崎県宮崎市阿波岐原って地名もあるよ
まあ、本質的には「特定の土地を指していない」んだろうけれど
「アワギハラ」http://nihonsinwa.com/page/1962.html
>あ、ここに書かれているのは高祖山の麓の福岡市西区の小戸のことだけどね。
相変わらずどこにでもある小さな地名をあてにするんだな、九州説はw
日向峠もそうだけれどさ >>595
>短里で書かれた情報を、短里を知らない中原の人間が解釈
そもそも、3世紀には短里を知っている人がいないんだよ
20世紀になって「考案」された戯言だからね
よく九州説の人が、対馬海峡を渡るところまでで一万里って言うけれど、
それが本質なんだよ
王朝の徳を示すために、倭国からの遣使を「万里の修交」としたかったから
数字を盛ったってのが本質
盛った数字だから、魏晋里より短いことになるけれど、実測値ではないし
適当な数字 祓詞の筑紫の日向の小戸はどこなんだ?
福岡だよね? >>602
倭国(阿波)の阿南市周辺に決まってるでしょ。 @阿波 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
7D0 楽浪郡徼去其國萬二千里
其西北界狗邪韓國七千餘里
楽浪郡から倭の国境(狗邪韓国)まで七千里余り、大倭王がいる邪馬台国まで一万二千里
倭王帥升はどこにいた?
倭王卑弥呼はどこにいた?
帥升から卑弥呼までの間に、邪馬台国は移動した? >>605
そうですねぇ、帥升から卑弥呼の間に畿内に移動したんでしょうね。
それがこのスレの趣旨でもありますから。
―――――
指摘のあった箸墓と夏至の関係も踏まえて、付論に少し加筆しましたので、こちらにアップしておきます。
http://fast-uploader.com/file/7086948633981/
八寸と八咫の話も今まとめてますが、ちょっと校正したり出典を調べたりしてますので、時間がかかっています。 >>606
>八寸と八咫の話も
丈と丈夫の話もまとめた方がいいんじゃないの?
チェリーピッキングも程々にしたら?
それと、間違いを間違いと認められない人は、進歩しないよ? 倭国王帥升は、大倭王とは書いてないだろ?
後漢書の典拠資料は、三国志が書かれた時代と同時代のもの
後漢書の其大倭王居邪馬臺國、というときの大倭王は三国志当時の情報であり
卑弥呼の後継の王
それに対し、倭国王帥升は、卑弥呼の遣使の130年前の王で
北宋版『通典』には「倭面土王帥升」と書かれているし、
『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」、
唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」となっている
まあ、倭国の王というよりは、倭の面土の「地」の王ってのが最大公約数かな
帥升「等」って後漢書にも書かれているし、倭国のただ一人の王という地位にはない >>607
一連の考察になってますからね、当然それも入ってますよ。 >>609
それで、もともとの丈夫は、成人男子の平均身長から来ている言葉で
偉丈夫にあたるような大男の意味はなかったってのは認められるようになったのかい? 丈が平均身長っていうのが同意できませんね。
当たり前ですが。 >>608
後漢書は倭国王と大倭王を区別しているようには読めないね。
倭王がいた倭国の王都である邪馬台国が九州北部にあったことを認めたくないからごねているだけにしか見えない。 >>611
>当たり前ですが。
どこがどう当たり前なのか、説明できるかな?
自分の間違いは認めたくないから、以外の理由で? >>608
>後漢書は倭国王と大倭王を区別しているようには読めないね。
>倭王がいた倭国の王都である邪馬台国が九州北部にあったことを認めたくないからごねているだけにしか見えない。
お前さんも、頭悪い系なのかい?
後漢書は、後漢の記録だけれど成立はずっと遅い
だから倭国の情報に関しては後漢当時のことではなく、典拠情報の成立時のことが
書かれている
其大倭王居邪馬臺國、というときの「大倭王」は三国志当時の情報であり
卑弥呼の後継の王
後漢代の倭国王ではないよ
それに対して倭国王帥升は、後漢の安帝に朝貢した人物で、時代が200年くらい離れている
区別するも何も、完全に別の立場の別人だよ >>615
もう何度か説明したと思いますが。
字形からして十アタか杖を手に持つ象形だからですよ。
説文にも身体尺の例から漏れてますしね。 >>617
>十アタか杖を手に持つ象形だから
またごまかそうとしている
その「字形」というのは、丈なのか夫なのかどっちだ?
それに、十アタってことは絶対にないぞ
「咫・あた」は日本の単位であって、大陸側には何の意味もない
>説文にも身体尺の例から漏れてますしね。
これもごまかし
尋の方が身体尺に入っていて、尋が丈であると書いてある
「清代 段玉裁《說文解字注》」
十尺也。从又持十。
夫部曰。周制八寸爲尺。十尺爲丈。人長八尺。故曰丈夫。「然則伸臂一尋。周之丈也。」
故从又持十。直㒳切。十部。
周制、寸・尺・咫・「尋」・常・仞諸度量、皆以人之体為法。
と合わせて考えれば、尋が身体尺でそれが周代の丈だと書いてある
さらに漢典の国語辞典で丈夫の項を見ると
丈夫
身高一丈的男子。周朝以八寸為尺,十尺為丈,成年男子高八尺左右,故以丈夫為男子的通稱。
となっていて、成年男子高八尺「左右」と、「左右」が付くことで「標準的な身長」を
示す語であることが分かる >>618
>その「字形」というのは、丈なのか夫なのかどっちだ?
丈に決まってますよね。文盲ですか?
>それに、十アタってことは絶対にないぞ
>「咫・あた」は日本の単位であって、大陸側には何の意味もな
手の大きさ(それを用いるアタ)は、日本以外でも基本的な身体尺ですよ。
>尋が丈である
だからそういう一般的な身体に関する知識でしょ。
丈が平均身長であることを積極的に示すようなもんじゃないですね。
字形積極的に示されているのは、丈は「丈は10アタ」という会意ですね。 >>619
>丈に決まってますよね。文盲ですか?
非識字者と言おう >>619
>手の大きさ(それを用いるアタ)は、日本以外でも基本的な身体尺ですよ。
「あた」は日本の単位だって言ってるんだよ
それに、丈の字形のどこが「あた十個分」なんだ?
それに、手の大きさの身体尺と丈の関係では「尺」を使うと説文解字にも書いてある
「尺」はおおもとは男の手の大きさの身体尺
「咫」はおおもとは女の手の大きさの身体尺
「尺」を使う場面では、身体尺だからといって「咫」の出る幕はない
どうせ、白川静『常用字解』あたりを訳も分からずに引用して、
引っ込みがつかなくなってるんだろ
「文句があるなら白川静に言ってください」ってお鏡さんが書く前に言っておいてあげるよ
そして、白川静『常用字解』でも
「長老を丈人、成人男子を丈夫ジョウフという。立派な体格の男子は大丈夫である。」
と書いてある
お鏡さんの言う「丈夫は大男」は間違いで、大男は「大丈夫」なんだよw
本当に、お鏡さんは
1.漢文が読めない
2.思い込みが激しい
3.他人の説を自分の説のように言う
4.そのくせ間違いを指摘されると責任転嫁する
5.それでも自分の間違いは認めない
クズですな 10月20日は柳田先生
八咫鏡は原田大六氏
そしてnew
丈の字形は十あた by白川静
お鏡さんオリジナルは、浦間茶臼山だけ?
じゃあ、これを否定すれば、お鏡さんは終わるかな? >>622
丈が10アタというのは藤堂先生の説らしいですよ。
何トンチンカンなこといってるんですか?
>>623
浦間茶臼山と箸墓は、北條先生の指摘ですね。
岡上オリジナルの説は、ここではあんまり開陳してませんよ。
知りたければアマゾンで買ってくださいね。 要するに、人の説をとくとくと劣化コピーとして披露している訳か
しかも、古くて既に否定されているものでも、信じ込んでしまったらそのままww お鏡さんはこの辺を読んでおいた方がいいんじゃないかな
「聖なるものさし」 尺…身体尺
https://flora.karakusamon.com/syaku.html
そうすれば、平原1号墓出土鏡が八咫鏡とかいう寝言は通らないことが分かるだろうに >>626
>丈が10アタというのは藤堂先生の説らしいですよ。
>何トンチンカンなこといってるんですか?
その藤堂先生の説の典拠は出せるかい?
藤堂明保先生の「中国人のはかり方」という論文があるけれど
丈は十尺と書いてあるし、字形がどうこうという話はどこにもないよ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chuugokugogaku1955/1955/38/1955_38_105/_pdf/-char/ja
そもそも、白川静先生と、藤堂明保先生の学説の根本の違いが
白川説では漢字の意味は象形重視であり「最初に字ありき」、
藤堂説は漢字の意味は音重視であり「最初に音ありき、字は後」
字形について何か言うとしたら白川先生のはずだよ
実際、ぐぐったら、白川先生の説が出てきたから>>622に書いたんだが、
同じページに行き着けないww
もう少し探してみるよ
どっちにしても、お鏡さんの「丈夫は大男」という強弁が大間違いなのは確実 >>628
意識高い系じゃなくても、「非識字者」を使いなさい このページだったかな?
丈の象形の白川説
http://gaus.livedoor.biz/archives/13639355.html
いずれにしても、十アタなんてのは出てこないな
さて、お鏡さんはどこまでがんばるんだろうねぇ
「恥の上塗り」にしかならないのにw >633
横レスすまんが、
岡上は、手をあてて測る長さの身体尺をアタっていってんじゃないの? まぁ、平原は最高の副葬品の墓なのは事実だし、女性の可能性も高いので、卑弥呼の墓の候補だね
鏡も倭人伝の記載にあり、後の伊勢神宮に御神体として扱われている訳だし、重要な品なのは間違いない
その鏡何十枚もあり、中でも最大の鏡は八葉座の紋様さえも他の墓で類似品がでない
そのオリジナル性は凄いな
破片でも磨いて(破鏡)から副葬してある墓も多い時代なのに、その様相は圧倒的 そうですね。
畿内説はまず平原遺跡の位置付けをはっきりさせてからでないと主張できないはず。
その点では岡上さんは畿内説にありながらも平原遺跡の意味をまともに検討しようとしている点が評価できます。
まあ、私は伊都説派なので岡上さんの意見に賛成というわけにはいきませんけどね。 >>636
>まぁ、平原は最高の副葬品の墓なのは事実だし
鉄器は出ていたっけ? 鉄剣? @阿波 >>635
>岡上は、手をあてて測る長さの身体尺をアタっていってんじゃないの?
ただな、中国古典の「丈夫」の問題を、日本語の「あた」で表す時点で意味がないんだ
そして中国語では尺だと何度も書いている
もともとが、「平原1号墓出土鏡が八咫鏡だ」という戯言の否定で、
「咫」の長さを検討している場面で、自説に都合が悪いからという理由で
お鏡さん自身が
「>八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
一丈169cmなら、凡夫にしかなりませんね(笑)
> 六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
一丈211cmなら、丈夫というより、怪物ですよ 」 (伊都国東遷スレPart5>883)
と言っているのが、発端で大間違い
具体的には「一丈169cmなら、凡夫にしかなりませんね(笑) 」の部分
丈夫というのは「普通の成人男性」を指すから「凡夫」こそが正しい
そして、実際に当時の成人男性の推定平均身長が168.8センチだから、
まさにそのものだ
これだけ明確に間違えているのに、言を左右して、関係ない藤堂明保先生の
せいにしようとしてまで、自分の間違いだと認められないのがお鏡さん >>637
>畿内説はまず平原遺跡の位置付け
いい加減に、平原遺跡と平原1号墓の区別を付けろって言ってるだろ!
平原遺跡の位置づけはこれまで何度も書いてる
伊都国のそれなりに有力家系の家族墓地だよ
発端は、5号墓の築造
そのときに平原の地を選んで、5号墓を作り大柱を立てる祭祀をしている
1号墓はその後に作られたもので、同じように大柱を立てる祭祀を行っているが、
墳丘と大柱を結ぶ線の延長上に、小型建物の跡があり、
吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓」「立柱」「祀堂」と同じ位置関係になっている
よく、平原1号墓は太陽祭祀をした日巫女の墓で、大柱は日向峠の夜明け方向を
指しているというが、大柱は「祠堂」から墳丘墓を拝むためのもので見る向きが逆
吉野ヶ里の立柱は、南北に近い方向に立てられていて、太陽祭祀とは関係ない
5号墓の大柱の指す方向と、1号墓の大柱の指す方向も一致していない
吉野ヶ里、5号墓、1号墓と墳丘墓と大柱、祠堂の関係を順に並べて考えてみると
日向峠からの日の出と大柱の関係には特に根拠がないとするよりなく、
平原1号墓が太陽祭祀を行った日巫女の墓というのも理由を失う
そして、平原遺跡を伊都国有力家系の家族墓として見たときに、1号墓以外には
厚葬墓がなく、墳丘サイズも小さいものばかりで、伊都国王家とは異なる家系なのは
あきらか
日巫女でもなく、伊都国王家でもなければ、1号墓を卑弥呼の墓とする理由はない
どうやっても径百歩にならない墓に、そんなに執着してもしょうがないだろうに >>640
>つまり平原遺跡の鏡は八咫鏡でいいのだよね?
全然ダメだよ
当時、八咫鏡だった可能性はほぼない
単なる祭祀用の大鏡を普通名詞として八咫鏡と呼んだと主張する余地はあるけれど
円周長が八咫だからという説明は、完全に否定済みだよ
基本的には、原田大六氏の昭和の時代の思いつきだけが根拠なんだからさ >>641
>平原1号墓が太陽祭祀を行った日巫女の墓というのも理由を失う
1号墓の卑弥呼の時に日御子の立場が確立されたなら、別に問題ではない。
>厚葬墓がなく、墳丘サイズも小さいものばかりで、伊都国王家とは異なる家系なのは
伊都国のかつての男王たちと少し違う家系だろうというのは、魏志倭人伝のとおり。
個人的には、壹與は筑後に遷都した説ので、糸島平野に後に続く墓がなくてもいい。
筑紫の王家だからこそ、広域で考えなくてはいけない。
「伊都国だけの王家」などというものをあなたがでっち上げようとしているからこそ、矛盾が生じているだけだ。
伊都国説の不備ではない。 で、この「咫」の長さの論争の中で、
「丈夫は平均身長の凡夫じゃない」とか血迷った間違いをした人がいて、
丁寧に「それは間違いだよ」と教えてもらっているのに、
そんはのは認めないって言い続けている恥さらしが一人いるだけ >>643
>1号墓の卑弥呼の時に日御子の立場が確立されたなら、別に問題ではない。
どこから「日御子の立場が確立された」なんて事が出てくるの?
墳丘(そば)に立って、大柱の方向を見ると「祠堂」があって、
「日向峠は見えない」んだよww
もともと、二至二分でもない10月20日に昇る朝日の方向を指すから
日御子だっていう時点で無理があるんだけどね、しかもきちんと調べると
10月22日というお粗末さww
そして、埋葬主体の木棺の方角は、日向峠よりも南を向いている
結局偶然それっぽかった(日向峠の日の出の方向)だけで、大柱も
埋葬主体も具体的な方向を向いていた訳でもないんだ
>伊都国のかつての男王たちと少し違う家系だろうというのは、魏志倭人伝のとおり。
魏志倭人伝のどこにそんなことが書いてある? 典拠部分を引用してよ
>個人的には、壹與は筑後に遷都した説ので、糸島平野に後に続く墓がなくてもいい。
個人的にって言ってるけど、要は「根拠なし」だろ >>643
>筑紫の王家だからこそ、広域で考えなくてはいけない。
そんなものはないよ
伊都国はのちの伊都県主
奴国が後に筑紫国造になる
末慮国は、末羅国造
別々の首長の家系があり、ここではそのうちの伊都県主家を
伊都国の王家と呼んでいるだけ
>「伊都国だけの王家」などというものをあなたがでっち上げようとしているからこそ、矛盾が生じているだけだ。
要するに、伊都国地域のローカル首長の家系だよ
邪馬台国からの派遣官の一大率の監督下におかれている首長
>伊都国説の不備ではない。
伊都国説自体が不備だからね
「短里」「島巡り仮説」「水行の起点を帯方郡に戻す」
こういった捏造がないと、説の形すら取れない
そもそも、伊都国と邪馬台国とは、水行陸行合わせて2ヶ月かかる
遠地の別の国、っていう魏志倭人伝の記録を無視しないと
成り立たない時点で終わってる、という前に始められない これまで、平原遺跡の立地と太陽の運行について意味があるなと思ったのは、
「三雲遺跡群から見て、夏至の日の入り方向に平原遺跡がある」
というもの
これだけ
でも、平原遺跡内の墳丘や大柱などの配置は、夏至の日の出日の入は、
一切意識していないようだ
平原遺跡は立地からしても、三雲遺跡群に対して従の立場であり、
すべてを差配できる王の立場にあるとは見えない >>641
>指しているというが、大柱は「祠堂」から墳丘墓を拝むためのもので見る向きが逆
御柱は被葬者のためのもの。
建物は古代神道で殯宮として知られる建物だよ。
勝手な造語はいけないね。
>日向峠からの日の出と大柱の関係には特に根拠がないとするよりなく、
>平原1号墓が太陽祭祀を行った日巫女の墓というのも理由を失う
逆だよ。
1号墓の被葬者だけが日の巫女だということだよ。
他の人物は太陽信仰ではなく、1号墓の被葬者だけが特別なんだよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています