伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>646
>魏志倭人伝のどこにそんなことが書いてある? 典拠部分を引用してよ
戦乱があっというので、王統の正統性を疑った魏は、わざわざ郡使を派遣したんだよ。
それ以外に郡使を派遣する理由があるか?
一女子を共立したというからには、王家の関係者だったかもしれないが、少なくとも嫡子(これもそもそもは男子を想定した語だ)ではないはずであり、平原遺跡の状況と一致するんだよ。 >>647
>伊都国はのちの伊都県主
怡土県主が倭王の末裔であることは同意する。
>奴国が後に筑紫国造になる
魏志倭人伝の時点で奴国に王家はない。
紀元前に奴国にいた倭王の権威は伊都の倭王が継承しているのだろう。
>伊都国の王家と呼んでいるだけ
あなたが勝手に呼んでいるだけ。
漢や魏が冊封したのは「伊都国王」ではなく倭王だからね。
そして卑弥呼もそのような倭王の一人だ。 >>648
>平原遺跡は立地からしても、三雲遺跡群に対して従の立場であり、
平原遺跡の方が後から作られたのだから、当然だ。
同じ内行花文鏡を奉じる王墓として、平原遺跡は明確に三雲から倭王の権威を継承している。 >>635 さん
そうですよ。手を当てて測っていたのは何も日本だけじゃないですから。
この「尺」の解釈はアタそのものですね。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chuugokugogaku1955/1955/38/1955_38_105/_pdf/-char/ja
>>617 を読んで丈のことか夫のことかもわからないぐらいの読解力しかない人には
難しいですかね(笑) それはそれとして、>>633の内容も、丈=平均身長説(笑)とは、相容れない内容ですし、
現在推敲中の岡上説に資するところが大きそうですから、ありがたく参照に使わせてもらいますね。 遺跡の説明をすることと
説の中での遺跡の位置付けを説明するのは内容が違うで。
相変わらず、一人相撲の誤読大王だな。コミュ障改善するのに彼女と話をしてから書き込んだ方がいいぞ。 2ちゃん張り付き、粘着しすぎだし、それは無理な注文だろ >>654
相変わらず言い張るだけで
なんにも理由を言わない
ハジサラ氏
もといお鏡さん 考えを修正すると言っているんだからいいんじゃないか? >>648
三雲南小路は夏至の日の出が高祖山、日の入りが可也山となる位置にあり、この二つの山と夏至の太陽を意識していることがわかる。
そして、平原の5号甕棺から2号大柱の先は夏至の日の出方向。
5号墓から1号大柱の先は高祖山、また5号墓の主軸も高祖山を向いている。
https://www.google.co.jp/amp/s/ar.pinterest.com/amp/pin/627548529300333171/?source=images
夏至の日の入りは三雲南小路と同じ可也山。
少なくとも5号墓は三雲南小路の祭祀を継承していると見ていいんじゃない? >>649
>建物は古代神道で殯宮として知られる建物だよ。
>勝手な造語はいけないね。
殯宮というには、かなり小さいんだ
殯宮とするには根拠が乏しい
祀堂は吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓に伴う小型建物に付けられた名前で、
墳丘墓の被葬者へのお供え物を手向けるための場所とされている
勝手な造語ではないよ
>>649が知らないだけでね
>1号墓の被葬者だけが日の巫女だということだよ。
>他の人物は太陽信仰ではなく、1号墓の被葬者だけが特別なんだよ。
それは単なる伊都国説の人の思い込み
なぜ1号墓の被葬者が「いきなり日の巫女になったのか」という論証なしで
そんな主張をしても意味がない
5号墓と1号墓の大柱の指す方向は一致していないがだいたい同じ向きを意識している
5号墓被葬者が日の巫女ではないのなら、1号墓被葬者を日の巫女とする理由もない
5号墓と比べて1号墓の方が墳丘も大きく副葬品も豪華なので、異なる立場・地位に
あったことは推知できるが、その墳丘サイズは国家レベルの動員力を必要とするもの
ではなく、伊都国の有力家系が一族の力くらいで築造できるものだ
前後の墳丘のショボさや、その小さな2号墓と合わせて作られていることから考えて、
有力家系から伊都国王妃が出て、その王妃を一族総出で厚葬墓に葬ったというところだろう >>650
>戦乱があっというので、王統の正統性を疑った魏は、わざわざ郡使を派遣したんだよ。
>それ以外に郡使を派遣する理由があるか?
答礼使の派遣は、王の正統性を確認するためというのは正しいが、
一国を代表する王かどうかの確認が目的だぞ
王統はある意味どうでもいい
遠絶の地の王が誰であれ、朝貢に来て国を代表するものであれば王に除すればいいだけ
典拠を求められて、魏使が派遣されているからとしか言えないってことは
違う家系であることを示した部分は、魏志倭人伝にはないってことだな >>651
>怡土県主が倭王の末裔であることは同意する。
「縣主」という時点で、小首長としか認められていないってことだから、
それがかつて倭王だったとするのは牽強付会に過ぎるだろ
>魏志倭人伝の時点で奴国に王家はない。
中華視線で、皇帝から除正されていないものは王ではないとするのは勝手だが、
奴国には奴国の首長がいるし、伊都国より強勢だったのは遺蹟の規模からみて確実
実際魏志倭人伝でも、奴国が戸数二万の大国として描かれるのに対し、
伊都国は千戸に過ぎない
奴国首長がのちの筑紫「国造」、伊都国首長が怡土「縣主」であることとも
整合性がある
こういう前後の情報との関連を精査するってことを九州説はやらないよね
だからチェリーピッキングの域を超えられない
>紀元前に奴国にいた倭王の権威は伊都の倭王が継承しているのだろう。
「だろう」で勝手に想像しても、根拠がないのは変わらない
倭王の権威が衰微したからこその倭國亂と見る方が妥当
だからこそ、「共立」という「新たな正統性の担保」が必要だったと言える >>664
>墳丘墓の被葬者へのお供え物を手向けるための場所とされている
根拠のない決めつけ。
殯宮なら古代においてそのような風習があったことは確認できる。
>なぜ1号墓の被葬者が「いきなり日の巫女になったのか」という論証なしで
倭国大乱があったからだろ。
>有力家系から伊都国王妃が出て、その王妃を一族総出で厚葬墓に葬ったというところだろう
有力家系から倭国女王が出たんだろう。
三雲では王と王妃が隣り合っていて、王の墓の方がわずかに豪華だ。
しかし平原では王に相当する墓がないので、1号墓は女王だよ。
その時点であなたの勝手な妄想は完全に根拠を失っている。 >>653
>そうですよ。手を当てて測っていたのは何も日本だけじゃないですから。
>この「尺」の解釈はアタそのものですね。
どう強弁したところで「尺」なんだよ!
中国古典の解釈に日本語の単位を持ち出してどうする?
それにお鏡さんが>>617で書いてた「『字形』からして十アタか」の
『字形』ってのが完全に見当違いだってのは間違いないな?
>>>617 を読んで丈のことか夫のことかもわからないぐらいの読解力しかない人には
>難しいですかね(笑)
今問題にしている
「丈夫也。从大,一以象簪也。周制以八寸爲尺,十尺爲丈。
人長八尺,故曰丈夫。凡夫之屬皆从夫」
の説文解字の記事は「丈」はなく、「夫」の記事なんだよ
「丈」には「十尺也。从又持十。』としか書いてない
説文解字注でも
「『夫部曰。』周制八寸爲尺。十尺爲丈。人長八尺。故曰丈夫。
然則伸臂一尋。周之丈也。故从又持十。直㒳切。十部。」
と基本「夫」の記事を引用している
丈夫を論じるのに、丈の字について論じるのか、夫の字について論じるのか
確認するのが当然
相手に紛れなく伝わる文章を書く能力がないのを棚に上げて
「わからないぐらいの読解力しかない人には
難しいですかね(笑)」
と相手の非難にすり替えるあたりは、九州説の人間にふさわしい態度だけどな >>665
>一国を代表する王かどうかの確認が目的だぞ
>王統はある意味どうでもいい
>遠絶の地の王が誰であれ、朝貢に来て国を代表するものであれば王に除すればいいだけ
これは概ね理解できる。
魏も、嫡子ではなかった卑弥呼を最終的に承認している。
福岡の様子を見て、実際に卑弥呼が倭を代表していることを確認したのだろう。
(畿内に行かずに倭の様子を確認できたのだから福岡が倭の中心だ)
あと、おそらく卑弥呼が漢委奴国王印を使って国書を送ってきたのだろう。
そうでないと、国書が届いても倭王からのものだと確認できないからね。
つまり金印があった福岡が倭の王都だ。 >>666
>「縣主」という時点で、小首長としか認められていないってことだから、
はるか後世の文献であることに注意されたい。
しかし、他の県主よりも格上の扱いであることがわかる。
もっとも、天孫族の末裔もその頃にはかなりの数になっていたはずで、その一部ということになる。
>奴国には奴国の首長がいるし、伊都国より強勢だったのは遺蹟の規模からみて確実
奴国のどの遺跡だ?
少なくとも三雲と平原は、その時代の最高クラスの王墓だが?
奴国が首都であったのはそれよりかなり前の話になる。 >>654
>丈=平均身長説(笑)とは、相容れない内容ですし、
読解力以前に、アタマ大丈夫か?
>>622でも引用しているように
「成人男子を丈夫ジョウフという。立派な体格の男子は大丈夫である。」と
解説にも書いてあるだろ?
普通の平均的な成人男子が「丈夫」で、お鏡さんが勝手に思い込んでいる立派な人・大男は
「大丈夫」だって書いてあるだろ
お鏡さんの間違いってのが確認できるだけだぞ?
引用しなければ、リンク先を読みに行っていない人はごまかせるとでも思ったのかい?
白川先生の書いた部分は、
「会意。十と又とを組み合わせた形。十は木の枝の形で、又は手の形。
手に木の枝を持ち、それを支えとするもので、杖(つえ)のもとの字である」
これだけだが、こちらは身長の話には一切触れていないから、相容れないなんてことには
まったくならないだろう
何を言っているんだかww
「一丈169cmなら、凡夫にしかなりませんね(笑) 」
これが間違いでしたって、素直に認めるのがそんなに難しいことかねぇ?
まあ、がんばって恥の上塗りをまだまだ続けるっていうなら止めないけど、
お鏡さんは「間違いを正さない態度で、思い込みを言い張る人」、という評価がどんどん
固まっていくな そもそも、隣接する伊都国と奴国が別の国家だと考えてそれぞれに王家を想定するのが間違いだ。
それらは正式に冊封された倭国の王家だよ。
福岡県内で王宮が年代によって移動している。
それをまあよくも伊都国は平原の後で衰退したとか、適当なことをほざけるな。
一方では西日本全域の支配を想定しておいて、一方では奴国と伊都国を分離してそれぞれに王権を想定するなど、デタラメなダブスタだよ。 >>673
別の時代の話をしてるんだからダブスタでもなんでもないんじゃ? >>673
>そもそも、隣接する伊都国と奴国が別の国家だと考えてそれぞれに王家を想定するのが間違いだ。
理由は? >>675
隣接しているからだよ(^^;
平原と三雲は、それぞれ同時代に匹敵する王墓はない。 >>672
リンク先に
「古人は「丈は長なり」と語源を説いている。
dhiang(丈)という言葉は長や常と同源であり、「長い」というコアイメージをもつ語である。」
とありますね。都合のいいところだけ抜き出してますね。
大夫は、大きいとは限りませんが、だからといって大のもつコアイメージを否定して、
大きいは限らないから平均身長だと主張するのは滑稽でしょう。
丈夫も同様ということです。 >668
恥ずかしい長文乙ですね。
617には、
>説文にも身体尺の例から漏れてますしね。
と書いてます。
これで丈のこととわからないのというはかなりの重症ですよ。
夫はそもそも尺度じゃないですから。 >>679
だから大人の平均身長だと言っているのに >>679
「古人は「丈は長なり」と語源を説いている。
dhiang(丈)という言葉は長や常と同源であり、「長い」というコアイメージをもつ語である。」
とありますね。
常と同源であり
常と同源であり
常と同源であり
都合の悪いものは無視?
成長した大人の男の平均身長です >>683
>成長した大人の男の平均身長です
それと邪馬台国と関係まったく無し。 なにを馬鹿騒ぎしてんの??? @阿波 >>684
平原で八咫鏡なんか出てない事実を
どうしても認めたくない爺さんが
ゴネてるのさ >>685
ふ〜ん。 鏡で邪馬台国を見つける気、満々なんだね。 ある意味凄いわ。 @阿波 >>684
平原で八咫鏡が出た事実を
どうしても認めたくない爺さんが
ゴネてるのさ >>688
ジジイに認めて貰う必要はないよな
かってに喚いてるだけ >>690
粘着じじいの狭いすぎる世間に興味はないんだよ >>691
証拠ださない粘着じじいか
九州説は困ったちゃんだな >>663
できればPinterestじゃなくて、もとのブログのURLを貼ってくれればいいのに
https://plaza.rakuten.co.jp/chinchiraotsupe/diary/201712280000/
見てきたけれど、線の引き方がかなり恣意的だよな
5号墓周りの大柱の「横」を通る線が夏至方向と書いてあるし
>5号墓から1号大柱の先は高祖山、また5号墓の主軸も高祖山を向いている。
高祖山を向いていても、日向峠を向いていても、太陽信仰とは結びつかないよな?
>夏至の日の入りは三雲南小路と同じ可也山。
だが、平原遺跡は冬至の日の入り方向や可也山を意識している形跡はない
>少なくとも5号墓は三雲南小路の祭祀を継承していると見ていいんじゃない?
その三雲南小路の祭祀とは何を指すんだ?
三雲南小路にあやかった墓というのがせいぜいだと思う 東側に山、墓には水銀朱。
神仙思想だな(孝霊より) 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
高祖山を夏至の日の出の方向に臨む弥生王墓である三雲南小路遺跡は随伴する細石神社の祭神が天孫ニニギの妃である木花咲耶姫であるが、三雲遺跡そのものは男女のペアであり、ニニギと木花咲耶姫かもしれない。
ニニギは筑紫の日向に降臨してからクシフル山の高千穂宮で即位したと伝えられ、後世の怡土城、高祖城に相当する高祖山の山城がそれであろう。
現在では高祖神社(高祖宮)として糸島平野を見下ろしている。
三雲遺跡は璧や内行花文鏡などが副葬された倭王の墓であり、細石神社は江戸時代まで漢委奴国王印を保管していたという。
つまり伊都は倭王ニニギの王都、筑紫の日向であった。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺や博多湾沿岸のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 >>695
あやしげな出所不明ネタのデラックス詰め合わせだな 九州の原という地名は、国邑(おそらくは環濠集落)を意味するとともに、後世の城の丸(本丸など)の語源でもある。
さらにはマウル、ポルなども同じ語源の可能性があり、ユーラシア大陸各地で共通の概念である。
ttps://www.shochian.com/harubaru2.htm 畿内説は何も説明できなくてかわいそうだな。
いくら妄想を膨らませても史書とすり合わせできないからな。
筑紫が倭の王都だと考えると、紀元前からの弥生王墓群や金印、平原遺跡の内行花文鏡、邪馬台国、記紀の神代の巻まですべて一元的に説明できる。 >>700
筑紫にあった倭国の中から見た歴史がわかる。 >>699
記紀への当て嵌めゴッコが出来ると、何かいいことが有るのか?
そんな説明に意義があるとは思えないので、遠慮する >>701
幻が見えるなら御免被る
健康に悪そうだ >>607
>そもそも、隣接する伊都国と奴国が別の国家だと考えてそれぞれに王家を想定するのが間違いだ。
何度も繰り返すが、>>607が「中華目線で冊封がない限り王じゃない」というのは
構わないが、魏志倭人伝に別の国として書いてあるじゃん
魏志倭人伝に「伊都国」「奴国」として、「国」と呼ばれる別のまとまりであると
はっきり書かれているのを無視してはいけないな >>667
>根拠のない決めつけ。
>殯宮なら古代においてそのような風習があったことは確認できる。
殯宮っていう言葉しか知らないんじゃないか?
墳墓祭祀の準備が整うまで遺体を置いておく場所だぞ?
それが、最終的に葬られる平原1号墓そばにあるのは、実はかえっておかしい
それに、これも何度も何度も書いていることだが、平原遺跡の平面図をきちんと見てるか?
http://yamatai.cside.com/katudou/image/273-5.gif
この図は、邪馬台国の会のページのものだけれど、この図の一番上にある異形建物と
書かれているのが今問題になっている建物
比較してみると、1号墓埋葬主体の木棺よりも建物の方が小さいだろ?
そんな殯宮はないよw >>667
>倭国大乱があったからだろ。
倭国大乱じゃなくて、倭國亂な
そして、その収拾には「共立」で足りる訳だ
実際、魏志倭人伝にも共立とは書いてあるが、日の巫女であるとは一言も書いてない
要するに、妄想・感想の類ってことだなw >>704
伊都国や奴国は、国邑の名前だよ。
特に奴国には王もいないし。
国家としてはすべてあわせて倭であり、王は倭王家の卑弥呼と卑弥弓呼しかいない。
王は代々伊都にいた(卑弥弓呼だけ南の狗奴国にいて王位争い)。 >>667
>有力家系から倭国女王が出たんだろう。
伊都国内で有力家系であっても、他国から見れば王でなければ、
共立対象にはならない
>三雲では王と王妃が隣り合っていて、王の墓の方がわずかに豪華だ。
その辺も、彦姫制の傍証だな
>しかし平原では王に相当する墓がないので、1号墓は女王だよ。
その伝でいくなら、1号墓が王墓で2号墓がその配偶者の墓と考えることに
なるんじゃないのか?
でも、1号墓と比べても2号墓は極端に副葬品も墳丘サイズも貧弱だ
三雲南小路遺跡の頃(200年前)と比べても、平原1号墓を作る頃には
伊都国の国力がずいぶん落ちていることを示しているな
>その時点であなたの勝手な妄想は完全に根拠を失っている。
その時点の前に、>>667の想定(憶測)に妥当性がない >>705
>そんな殯宮はないよw
ほほう。
では普通の殯宮はどれくらいの大きさなんだ?
教えてくれ。 >>706
>実際、魏志倭人伝にも共立とは書いてあるが、日の巫女であるとは一言も書いてない
魏志倭人伝には日の巫女と書いてなくても、太陽を象った内行花文鏡を象徴としていた巫女女王なら日の巫女でいいだろう。 >>669
>福岡の様子を見て、実際に卑弥呼が倭を代表していることを確認したのだろう。
>(畿内に行かずに倭の様子を確認できたのだから福岡が倭の中心だ)
これが勝手な妄想・憶測
魏志倭人伝で邪馬台国までの日程が書いてあるのを無視している
>あと、おそらく卑弥呼が漢委奴国王印を使って国書を送ってきたのだろう。
これも、根拠なしの妄想だな
>そうでないと、国書が届いても倭王からのものだと確認できないからね。
「倭王からのものだと確認」するために答礼使が送られるというのは
認めているくせに
>つまり金印があった福岡が倭の王都だ。
志賀島は伊都国じゃないよな?
ご都合主義もたいがいにしておきなww >>708
>その伝でいくなら、1号墓が王墓で2号墓がその配偶者の墓と考えることになるんじゃないのか?
>でも、1号墓と比べても2号墓は極端に副葬品も墳丘サイズも貧弱だ
つまり、2号墓は配偶者ではないんだよ。
三雲は王と王妃だから、1号墓に近い規模の副葬品を持つ2号墓があった。
でも平原は配偶者を持たない独身の巫女女王なんだよ。
魏志倭人伝にある、先代の男王と、女王卑弥呼でぴったりだ。 >>670
>はるか後世の文献であることに注意されたい。
これは構わないんだが、
>しかし、他の県主よりも格上の扱いであることがわかる。
これが、びっくりするほど何の根拠もない決め付けなんだよな
どうして、九州説は根拠と憶測の区別がないんだろう?
>もっとも、天孫族の末裔もその頃にはかなりの数になっていたはずで、その一部ということになる。
かなりの数になっていたところで、宗家であり首長家の頭首が「県主」な訳だろ?
豪族首長っていうのはそういうものだ >>676
>平原と三雲は、それぞれ同時代に匹敵する王墓はない。
伊都国の三雲南小路遺跡と、奴国の須玖岡本遺跡D地点甕棺墓は
同時代だぞ
どちらも副葬品から王墓級とされている >>711
>>>669
>>福岡の様子を見て、実際に卑弥呼が倭を代表していることを確認したのだろう。
>>(畿内に行かずに倭の様子を確認できたのだから福岡が倭の中心だ)
>
>これが勝手な妄想・憶測
>魏志倭人伝で邪馬台国までの日程が書いてあるのを無視している
日程は帯方郡から。
九州から先の国邑が記されてなく、郡使は伊都に駐在したと明記してある。
>>あと、おそらく卑弥呼が漢委奴国王印を使って国書を送ってきたのだろう。
>
>これも、根拠なしの妄想だな
次の行に根拠が書いてあるのだが。
>>そうでないと、国書が届いても倭王からのものだと確認できないからね。
>
>「倭王からのものだと確認」するために答礼使が送られるというのは
>認めているくせに
王の印がない国書なら無視した。
漢が与えた金印で封された国書が届いたので使いを送った。
>>つまり金印があった福岡が倭の王都だ。
>
>志賀島は伊都国じゃないよな?
>ご都合主義もたいがいにしておきなww
高祖山は博多湾沿岸の要所であり、志賀島がその支配下であることは明白だよ。
そもそも対馬海峡全体が倭の支配下だしね。 >>679
>「古人は「丈は長なり」と語源を説いている。
>dhiang(丈)という言葉は長や常と同源であり、「長い」というコアイメージをもつ語である。」
「常」って、単に「尋(=丈)」の2倍の長さだぞ?
「尺=身近な長さ」に対して「長い」というコアイメージを持つだけで、
大男に繋がるような意味合いはない
現代の感覚でも、30センチ定規は取り回しも簡単だが、
1メートルの定規は「長い」と感じるだろ?
どうして、意味のない強弁を続けるかねぇ
まあ、お鏡さんの「人格の本質」が
「間違いを絶対に認められない気質」なんだろうね >>713
>かなりの数になっていたところで、宗家であり首長家の頭首が「県主」な訳だろ?
同じ福岡県内で怡土の県主と岡の県主がいて、いずれも三種の神器と同じ内容の象徴を保有していたとあるので、複数の宮家があったのだろう。
前者が筑紫日向の高千穂宮、後者が筑紫岡田宮のことだよ。
この話は仲哀天皇が穴門豊浦宮から筑紫香椎宮に入る時の話なので、景行の孫の仲哀が正統と認められたということだろうね。
昔は宮家はたくさんあったんだよ。
平成は宮家の数が極端に少ない時代だったからわからないかもしれないけどね。 >>679
>大きいは限らないから平均身長だと主張するのは滑稽でしょう。
>丈夫も同様ということです。
また捏造している
何度も典拠は出しているだろう?
>>21の一部を再掲
丈夫
身高一丈的男子。周朝以八寸為尺,十尺為丈,成年男子高八尺左右,故以丈夫為男子的通稱。
となっていて、成年男子高八尺「左右」と、「左右」が付くことで「標準的な身長」を
示す語であることが分かる
平均がお気に召さないならば、標準でもいいけれど
誰がなんと言おうと、「丈夫」は普通の成人男子の身長が元になった言葉だよ
「大きいは限らない」ではなく、
「普通に育って大人になった男の人の身長」が「丈」
お鏡さんの言う、立派な男・大男は、「偉」丈夫とか「大」丈夫とか、
大きいことを示す形容詞がつくんだよ
本当にお鏡さんは、恥の上塗りが大好きなんだなww >>707
>伊都国や奴国は、国邑の名前だよ。
>特に奴国には王もいないし。
國邑には首長がいるだろ?
國邑をなんだと思っているんだ?
冊封されていないのは王じゃないと強弁するのは勝手だけれど >>714
>伊都国の三雲南小路遺跡と、奴国の須玖岡本遺跡D地点甕棺墓は
>同時代だぞ
須玖岡本は甕棺墓、三雲は平原につながる木棺墓なので、三雲の方が新しいだろうね。
奴国から伊都国への遷都で説明できるんだよ。
三雲の被葬者が天孫族なら、この遷都は筑紫の日向へのニニギの降臨による政権交代でもあった。
だから王位の象徴(三種の神器の様式)を継承しながらも墓制が変化している。 >>719
>國邑には首長がいるだろ?
魏志倭人伝では官と書いてある。
それは王とは区別されている。 >>707
>王は倭王家の卑弥呼と卑弥弓呼しかいない。
卑弥弓呼は、大陸王朝から狗奴国王の徐正を受けていないが、
>>707は王と認めるのか?
魏略に書かれている「其國王『皆』属女王也」というのは、
通常は対馬国・壱岐国・末慮国・伊都国の王は「皆」と解釈するんだが?
なんだが、言ってることがトンチンカンだな
>>707が王と認めるのは王で、認めないのは王ではないという基準なのか? >>722
>卑弥弓呼は、大陸王朝から狗奴国王の徐正を受けていないが、
でもなぜか魏志倭人伝は王と呼称している。
何か根拠があったのかもしれないが書かれてはいない。
>通常は対馬国・壱岐国・末慮国・伊都国の王は「皆」と解釈するんだが?
伊都以外は魏志倭人伝に王と書かれていない。
あなたの勝手な解釈に過ぎない。 >>709
>ほほう。
>では普通の殯宮はどれくらいの大きさなんだ?
>教えてくれ。
つまり、>>709は殯宮がどういうものか知りもせずに、
>>667で殯宮だと言い張ったってことだな?
根拠なしの主張が九州説のデフォって言うのが、
こういうところでもすぐに顔を出すww >>709
>では普通の殯宮はどれくらいの大きさなんだ?
>教えてくれ。
殯宮の大きさ・態様については、明確には記されていないが、
敏達天皇紀に
「天皇病彌留、崩于大殿。是時、起殯宮於廣瀬。
馬子宿禰大臣、佩刀而誄。物部弓削守屋大連、听然而咲曰、
如中獵箭之雀鳥焉。次弓削守屋大連、手脚搖震而誄。」
用明天皇紀に
「穴穗部皇子、欲姧炊屋姫皇后而自强入於殯宮」
とあり、殯宮は墳墓の地とは別の場所に建てること、少なくとも
殯宮内に複数の人物が入って儀式が行える程度の広さがあることが分かる
まあ、いつものように時代が違うとか言い張るんだろうけれど、
木棺一つよりも小さい建物では困ってしまうだろ?
殯宮が立てられた廣瀬は、奈良県北葛城郡広陵町
敏達天皇陵は、大阪府南河内郡太子町 「左右」がつくと「平均的な身長」を示すの?
何か悪い電波でも受信した? >>710
>魏志倭人伝には日の巫女と書いてなくても、太陽を象った内行花文鏡を象徴としていた巫女女王なら日の巫女でいいだろう。
内行花文鏡を太陽を象ったとする文献記録はあるのかい?
内行花文鏡だけで日の巫女としてよいのなら、柳本大塚古墳の被葬者も、下池山古墳の被葬者も
日の巫女でいいのかい? この二つの古墳は、被葬者が女性であるとは考えられていないけれど?
他にも、内向花文鏡を副葬した墳墓はたくさんあるけれど、全部被葬者は日の巫女だってことでいいのかい? >>712
>つまり、2号墓は配偶者ではないんだよ。
じゃあ、平原2号墓の被葬者は誰?
1号墓と同時に築造されたとされていて、ペアの墓であることは確実だよ?
副葬品も貧弱な「一般人」と同時に埋葬される親魏倭王って、おかしいと感じないのか? >>725
本当に時代が離れているなw
ようは棺を一時的に置いておければいい。
1号墓の棺が大きすぎるんだよ。 >>728
卑弥呼を補佐していた弟の可能性が高いと思うよ。 >>727
内向花文が太陽を表すのは定説だろ。
まさか日光鏡をしらないのか?
平原は耳飾りがあるから女性なんだよ。
三種の神器がそろうから王だし。 >>715
本当にめんどくさいな
>日程は帯方郡から。
>九州から先の国邑が記されてなく、郡使は伊都に駐在したと明記してある。
これが誤読
それだと、水行で南にしか行かないことになって、冒頭の
「倭人在帶方『東南』大海之中」という地理観といきなり矛盾する
こういう無理読みを重ねないと、九州に行きつかない時点で、破綻してるんだよ >>727
卑弥呼は特別なんだよ。
あとは日御子、日嗣の御子などだろうね。
天皇制が太陽信仰をベースとしていることは、各所に用いられるその称号から明らかだよ。
皇祖神が天照大神と呼ばれることもその証拠だ。 >>732
>本当にめんどくさいな
あなたの意見こそ、日本の古来からの伝統を無視してその場の思いつきを重ねている。
三種の神器も殯宮も何もかも否定して、あとに何が残るんだい?
それもすべて、伊都が倭の王都で、平原遺跡が卑弥呼の墓であるということを否定したいがためだろ? >>715
>王の印がない国書なら無視した。
>漢が与えた金印で封された国書が届いたので使いを送った。んだよ
また、妄想
魏志倭人伝に
「倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。」
と書いてあるだろ?
帯方郡の太守劉夏が取り次いだから、倭国の使いだとみなされたんだよ
逆に、國印のある文書を持参したとは書いてない
國印、國印というが、漢委奴國王の金印のことが言いたいのか?
倭国王帥升は、金印を持参したのか? >>732
>それだと、水行で南にしか行かないことになって、冒頭の
魏志倭人伝には、南のつぎに東に水行して狗邪韓についているから、南東であっているよ。
よく魏志倭人伝を読んでごらん。 >>735
>國印、國印というが、漢委奴國王の金印のことが言いたいのか?
>倭国王帥升は、金印を持参したのか?
まだ紙がなかったので、木簡などを綴じて、封泥に印を押したというのが一般的な解釈だよ。
印を与えたのは漢だから、漢から禅譲を受けた魏もその印影の資料は保有していたはず。 >>717
>三種の神器と同じ内容の象徴を保有していたとあるので、複数の宮家があったのだろう。
別に宮家じゃない普通の豪族だろ?
何度も書くけれど、雄略紀に皇統とは関係ない「八咫鏡」が出てくるし、
垂仁紀には、皇統とは関係ない「八尺瓊勾玉」も出てくる
三種の神器があるから、宮家とか、倭王だったとか言うのは見当違い
日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇
昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。 >>726
>「左右」がつくと「平均的な身長」を示すの?
>何か悪い電波でも受信した?
漢文が読めないなら黙っとけよ
>>726はこれをどう訳すんだ?
「身高一丈的男子。周朝以八寸為尺,十尺為丈,成年男子高八尺『左右』,故以丈夫為男子的通稱。」 >>726
>「左右」がつくと「平均的な身長」を示すの?
本当に面倒くさいけど、親切に解説してあげると、
「成年男子高八尺左右」の「左右」は、現代日本語では「前後」にあたる言葉
成年男子の身長(高)は、八尺前後、だったら分かるだろ?
特に平均と訳す必要もないが、大体これくらいという意味でしかないし、
平均的な男子の身長、標準的な男子の身長、という意味にしかならないよ
丈夫が大男とかいうのは大間違い >>738
>別に宮家じゃない普通の豪族だろ?
筑紫高千穂宮、筑紫岡田宮、筑紫香椎宮、穴門豊浦宮、筑紫橘広庭宮などはいずれも宮の表記を用いる。
そこにいた天皇が明記される場合もあれば、はっきり起源がわからないものもある。
例えば、香椎宮は仲哀らが入ったと書かれるが、仲哀らが建てたとは書かれてない。
少なくとも伊都や岡には大王ではないが宮家があったことがうかがわれる。 >>736
>魏志倭人伝には、南のつぎに東に水行して狗邪韓についているから、南東であっているよ。
だから、その経路と水行20日の経路が同じ経路をもう一度書いただけ、という九州説の
言い分が正しいならば、
「南」至投馬國水行二十日 ではなく
「東南」至投馬國水行二十日 でないと矛盾するって言ってるんだよ
>よく魏志倭人伝を読んでごらん。
こっちの台詞だよww >>729
>本当に時代が離れているなw
>ようは棺を一時的に置いておければいい。
>1号墓の棺が大きすぎるんだよ。
逃げたなww
「1号墓の棺が大きすぎる」なら、それに合わせて殯宮を大きく作ればいいだろ?
要するに、異形建物は殯宮じゃないし、>>664の書き込みは
「知識のない人間の思い込みによる言いがかり」だと確認できたってことでいいな >>738
>別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
>昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
これだって、前者は領土を与えられているこら、大王ではないが王(紀なので冊封されたという意味ではない)の扱いを受けている。
後者は王の扱いを受けていないが、曰甕襲という名前は古い神別の可能性がある。日は王のこと、甕棺は古い王家が用いていた墓制、襲は熊襲など支配者のこと。 >>730
>卑弥呼を補佐していた弟の可能性が高いと思うよ。
ならば王族だし、王佐の第一の臣ならば、副葬品が貧弱すぎるとは思わないかい?
伊都国一国のローカル首長の弟ならばそれくらいで相当とも言えるけれど >>731
>内向花文が太陽を表すのは定説だろ。
>まさか日光鏡をしらないのか?
定説なら定説であることを示す、典拠資料を示してね!
単に文様から、通称がつくのは普通にあること >>746
魏志倭人伝における卑弥呼の弟の扱いはひどいよ。
名前も記録しないくらいだから。 >>747
その鏡の銘文そのものがその証拠だよ。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています