伊都国東遷スレ 7
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
https://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html >>581
>それなりというか、弥生時代で最も豪華な副葬品の女王墓なんだが?
それが単なる思い込み
仿世鏡がやたらたくさんあるだけで、剣でもガラス玉でも丹波の王墓の方が豪華だよ >>584
>後漢時代の倭国の範囲は、狗邪韓国から倭奴国まで。
コピペではないが、結局これだろ?
「後漢書で倭とは対馬海峡の国で 」
それは、九州説の勝手読みだよ
後漢書の原文は
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」で、基本的には魏志倭人伝と同じ認識、
というか、魏志倭人伝のコピペだし、さらに魏志倭人伝よりはっきりと
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」と、相当に南方まで繋がった国だと書いてある
あ、漢文読める?
読み下し付けた方がいいかな?
倭は韓の東南、大海の中にあり、山島に依りて居を爲す。凡そ百餘國。
その地はおおむね會稽・東冶の東に在り、朱崖・儋耳と相い近し。
朱崖・儋耳は、海南島とかだよ もともと、大陸中華の地理観だと、倭国は呉とか越とかの沖合なんだよ
その表現が「計其道里、當在會稽、東冶之東」であり、後漢書の「與朱崖儋耳相近」なんだよ
そもそも短里なんて想定されてないし、想定さえされてないっていうことは、
短里なんてなかったってことなんだけどね
九州説は「短里なんてない」って認めた瞬間に瓦解するから、どんなに論理的に
解説されても頑なに認めないけどねw
逆に言えば、「短里なんてない」って分かってる人には、九州説は噴飯物でしかないw 後漢書
「倭在韓東南大海中 依山島爲居 凡百餘國」
三国志
「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國」
後漢書
「其地大較在會稽東 與珠崖儋耳相近」
三国志
「計其道里當在會稽東冶之東」「所有無與儋耳朱崖同」
同じ認識、というか、同じ情報だろ? >>584
>高祖山周辺が筑紫の日向と呼ばれる場所であることからわかる。
「日向峠」という小さな地名一つでよくそこまで妄想できるものだなw
クシフル岳もないのにw で、5号墓からは逃げっぱなしか?
大柱が日向峠を指してないってのもいいか?
諏訪大社の御柱に言及したのは黒歴史でいいんだな? 径百歩の説明がどうにもつかない平原1号墓を卑弥呼の墓にしようって時点で詰んでるんだよ >>591
祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
この日向はどこなんだ?
あ、ここに書かれているのは高祖山の麓の福岡市西区の小戸のことだけどね。 >>590
短里で書かれた情報を、短里を知らない中原の人間が解釈したので、実際よりも南にあると思い込んだんだろ?
東夷で短里が使われていたことを示す文章だよね。 福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀頃の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、強大な権力があったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。 >>596
>古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
これの確認ができる典拠情報が示されたことが一度もない
つまり、根拠がない >>594
>この日向はどこなんだ?
普通に宮崎県の日向国で問題ないだろ
宮崎県宮崎市阿波岐原って地名もあるよ
まあ、本質的には「特定の土地を指していない」んだろうけれど
「アワギハラ」http://nihonsinwa.com/page/1962.html
>あ、ここに書かれているのは高祖山の麓の福岡市西区の小戸のことだけどね。
相変わらずどこにでもある小さな地名をあてにするんだな、九州説はw
日向峠もそうだけれどさ >>595
>短里で書かれた情報を、短里を知らない中原の人間が解釈
そもそも、3世紀には短里を知っている人がいないんだよ
20世紀になって「考案」された戯言だからね
よく九州説の人が、対馬海峡を渡るところまでで一万里って言うけれど、
それが本質なんだよ
王朝の徳を示すために、倭国からの遣使を「万里の修交」としたかったから
数字を盛ったってのが本質
盛った数字だから、魏晋里より短いことになるけれど、実測値ではないし
適当な数字 祓詞の筑紫の日向の小戸はどこなんだ?
福岡だよね? >>602
倭国(阿波)の阿南市周辺に決まってるでしょ。 @阿波 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
7D0 楽浪郡徼去其國萬二千里
其西北界狗邪韓國七千餘里
楽浪郡から倭の国境(狗邪韓国)まで七千里余り、大倭王がいる邪馬台国まで一万二千里
倭王帥升はどこにいた?
倭王卑弥呼はどこにいた?
帥升から卑弥呼までの間に、邪馬台国は移動した? >>605
そうですねぇ、帥升から卑弥呼の間に畿内に移動したんでしょうね。
それがこのスレの趣旨でもありますから。
―――――
指摘のあった箸墓と夏至の関係も踏まえて、付論に少し加筆しましたので、こちらにアップしておきます。
http://fast-uploader.com/file/7086948633981/
八寸と八咫の話も今まとめてますが、ちょっと校正したり出典を調べたりしてますので、時間がかかっています。 >>606
>八寸と八咫の話も
丈と丈夫の話もまとめた方がいいんじゃないの?
チェリーピッキングも程々にしたら?
それと、間違いを間違いと認められない人は、進歩しないよ? 倭国王帥升は、大倭王とは書いてないだろ?
後漢書の典拠資料は、三国志が書かれた時代と同時代のもの
後漢書の其大倭王居邪馬臺國、というときの大倭王は三国志当時の情報であり
卑弥呼の後継の王
それに対し、倭国王帥升は、卑弥呼の遣使の130年前の王で
北宋版『通典』には「倭面土王帥升」と書かれているし、
『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」、
唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」となっている
まあ、倭国の王というよりは、倭の面土の「地」の王ってのが最大公約数かな
帥升「等」って後漢書にも書かれているし、倭国のただ一人の王という地位にはない >>607
一連の考察になってますからね、当然それも入ってますよ。 >>609
それで、もともとの丈夫は、成人男子の平均身長から来ている言葉で
偉丈夫にあたるような大男の意味はなかったってのは認められるようになったのかい? 丈が平均身長っていうのが同意できませんね。
当たり前ですが。 >>608
後漢書は倭国王と大倭王を区別しているようには読めないね。
倭王がいた倭国の王都である邪馬台国が九州北部にあったことを認めたくないからごねているだけにしか見えない。 >>611
>当たり前ですが。
どこがどう当たり前なのか、説明できるかな?
自分の間違いは認めたくないから、以外の理由で? >>608
>後漢書は倭国王と大倭王を区別しているようには読めないね。
>倭王がいた倭国の王都である邪馬台国が九州北部にあったことを認めたくないからごねているだけにしか見えない。
お前さんも、頭悪い系なのかい?
後漢書は、後漢の記録だけれど成立はずっと遅い
だから倭国の情報に関しては後漢当時のことではなく、典拠情報の成立時のことが
書かれている
其大倭王居邪馬臺國、というときの「大倭王」は三国志当時の情報であり
卑弥呼の後継の王
後漢代の倭国王ではないよ
それに対して倭国王帥升は、後漢の安帝に朝貢した人物で、時代が200年くらい離れている
区別するも何も、完全に別の立場の別人だよ >>615
もう何度か説明したと思いますが。
字形からして十アタか杖を手に持つ象形だからですよ。
説文にも身体尺の例から漏れてますしね。 >>617
>十アタか杖を手に持つ象形だから
またごまかそうとしている
その「字形」というのは、丈なのか夫なのかどっちだ?
それに、十アタってことは絶対にないぞ
「咫・あた」は日本の単位であって、大陸側には何の意味もない
>説文にも身体尺の例から漏れてますしね。
これもごまかし
尋の方が身体尺に入っていて、尋が丈であると書いてある
「清代 段玉裁《說文解字注》」
十尺也。从又持十。
夫部曰。周制八寸爲尺。十尺爲丈。人長八尺。故曰丈夫。「然則伸臂一尋。周之丈也。」
故从又持十。直㒳切。十部。
周制、寸・尺・咫・「尋」・常・仞諸度量、皆以人之体為法。
と合わせて考えれば、尋が身体尺でそれが周代の丈だと書いてある
さらに漢典の国語辞典で丈夫の項を見ると
丈夫
身高一丈的男子。周朝以八寸為尺,十尺為丈,成年男子高八尺左右,故以丈夫為男子的通稱。
となっていて、成年男子高八尺「左右」と、「左右」が付くことで「標準的な身長」を
示す語であることが分かる >>618
>その「字形」というのは、丈なのか夫なのかどっちだ?
丈に決まってますよね。文盲ですか?
>それに、十アタってことは絶対にないぞ
>「咫・あた」は日本の単位であって、大陸側には何の意味もな
手の大きさ(それを用いるアタ)は、日本以外でも基本的な身体尺ですよ。
>尋が丈である
だからそういう一般的な身体に関する知識でしょ。
丈が平均身長であることを積極的に示すようなもんじゃないですね。
字形積極的に示されているのは、丈は「丈は10アタ」という会意ですね。 >>619
>丈に決まってますよね。文盲ですか?
非識字者と言おう >>619
>手の大きさ(それを用いるアタ)は、日本以外でも基本的な身体尺ですよ。
「あた」は日本の単位だって言ってるんだよ
それに、丈の字形のどこが「あた十個分」なんだ?
それに、手の大きさの身体尺と丈の関係では「尺」を使うと説文解字にも書いてある
「尺」はおおもとは男の手の大きさの身体尺
「咫」はおおもとは女の手の大きさの身体尺
「尺」を使う場面では、身体尺だからといって「咫」の出る幕はない
どうせ、白川静『常用字解』あたりを訳も分からずに引用して、
引っ込みがつかなくなってるんだろ
「文句があるなら白川静に言ってください」ってお鏡さんが書く前に言っておいてあげるよ
そして、白川静『常用字解』でも
「長老を丈人、成人男子を丈夫ジョウフという。立派な体格の男子は大丈夫である。」
と書いてある
お鏡さんの言う「丈夫は大男」は間違いで、大男は「大丈夫」なんだよw
本当に、お鏡さんは
1.漢文が読めない
2.思い込みが激しい
3.他人の説を自分の説のように言う
4.そのくせ間違いを指摘されると責任転嫁する
5.それでも自分の間違いは認めない
クズですな 10月20日は柳田先生
八咫鏡は原田大六氏
そしてnew
丈の字形は十あた by白川静
お鏡さんオリジナルは、浦間茶臼山だけ?
じゃあ、これを否定すれば、お鏡さんは終わるかな? >>622
丈が10アタというのは藤堂先生の説らしいですよ。
何トンチンカンなこといってるんですか?
>>623
浦間茶臼山と箸墓は、北條先生の指摘ですね。
岡上オリジナルの説は、ここではあんまり開陳してませんよ。
知りたければアマゾンで買ってくださいね。 要するに、人の説をとくとくと劣化コピーとして披露している訳か
しかも、古くて既に否定されているものでも、信じ込んでしまったらそのままww お鏡さんはこの辺を読んでおいた方がいいんじゃないかな
「聖なるものさし」 尺…身体尺
https://flora.karakusamon.com/syaku.html
そうすれば、平原1号墓出土鏡が八咫鏡とかいう寝言は通らないことが分かるだろうに >>626
>丈が10アタというのは藤堂先生の説らしいですよ。
>何トンチンカンなこといってるんですか?
その藤堂先生の説の典拠は出せるかい?
藤堂明保先生の「中国人のはかり方」という論文があるけれど
丈は十尺と書いてあるし、字形がどうこうという話はどこにもないよ
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chuugokugogaku1955/1955/38/1955_38_105/_pdf/-char/ja
そもそも、白川静先生と、藤堂明保先生の学説の根本の違いが
白川説では漢字の意味は象形重視であり「最初に字ありき」、
藤堂説は漢字の意味は音重視であり「最初に音ありき、字は後」
字形について何か言うとしたら白川先生のはずだよ
実際、ぐぐったら、白川先生の説が出てきたから>>622に書いたんだが、
同じページに行き着けないww
もう少し探してみるよ
どっちにしても、お鏡さんの「丈夫は大男」という強弁が大間違いなのは確実 >>628
意識高い系じゃなくても、「非識字者」を使いなさい このページだったかな?
丈の象形の白川説
http://gaus.livedoor.biz/archives/13639355.html
いずれにしても、十アタなんてのは出てこないな
さて、お鏡さんはどこまでがんばるんだろうねぇ
「恥の上塗り」にしかならないのにw >633
横レスすまんが、
岡上は、手をあてて測る長さの身体尺をアタっていってんじゃないの? まぁ、平原は最高の副葬品の墓なのは事実だし、女性の可能性も高いので、卑弥呼の墓の候補だね
鏡も倭人伝の記載にあり、後の伊勢神宮に御神体として扱われている訳だし、重要な品なのは間違いない
その鏡何十枚もあり、中でも最大の鏡は八葉座の紋様さえも他の墓で類似品がでない
そのオリジナル性は凄いな
破片でも磨いて(破鏡)から副葬してある墓も多い時代なのに、その様相は圧倒的 そうですね。
畿内説はまず平原遺跡の位置付けをはっきりさせてからでないと主張できないはず。
その点では岡上さんは畿内説にありながらも平原遺跡の意味をまともに検討しようとしている点が評価できます。
まあ、私は伊都説派なので岡上さんの意見に賛成というわけにはいきませんけどね。 >>636
>まぁ、平原は最高の副葬品の墓なのは事実だし
鉄器は出ていたっけ? 鉄剣? @阿波 >>635
>岡上は、手をあてて測る長さの身体尺をアタっていってんじゃないの?
ただな、中国古典の「丈夫」の問題を、日本語の「あた」で表す時点で意味がないんだ
そして中国語では尺だと何度も書いている
もともとが、「平原1号墓出土鏡が八咫鏡だ」という戯言の否定で、
「咫」の長さを検討している場面で、自説に都合が悪いからという理由で
お鏡さん自身が
「>八尺=歩=135センチなら 一尺=16.9センチ
一丈169cmなら、凡夫にしかなりませんね(笑)
> 六尺四分=135センチなら 一尺=21.1センチ
一丈211cmなら、丈夫というより、怪物ですよ 」 (伊都国東遷スレPart5>883)
と言っているのが、発端で大間違い
具体的には「一丈169cmなら、凡夫にしかなりませんね(笑) 」の部分
丈夫というのは「普通の成人男性」を指すから「凡夫」こそが正しい
そして、実際に当時の成人男性の推定平均身長が168.8センチだから、
まさにそのものだ
これだけ明確に間違えているのに、言を左右して、関係ない藤堂明保先生の
せいにしようとしてまで、自分の間違いだと認められないのがお鏡さん >>637
>畿内説はまず平原遺跡の位置付け
いい加減に、平原遺跡と平原1号墓の区別を付けろって言ってるだろ!
平原遺跡の位置づけはこれまで何度も書いてる
伊都国のそれなりに有力家系の家族墓地だよ
発端は、5号墓の築造
そのときに平原の地を選んで、5号墓を作り大柱を立てる祭祀をしている
1号墓はその後に作られたもので、同じように大柱を立てる祭祀を行っているが、
墳丘と大柱を結ぶ線の延長上に、小型建物の跡があり、
吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓」「立柱」「祀堂」と同じ位置関係になっている
よく、平原1号墓は太陽祭祀をした日巫女の墓で、大柱は日向峠の夜明け方向を
指しているというが、大柱は「祠堂」から墳丘墓を拝むためのもので見る向きが逆
吉野ヶ里の立柱は、南北に近い方向に立てられていて、太陽祭祀とは関係ない
5号墓の大柱の指す方向と、1号墓の大柱の指す方向も一致していない
吉野ヶ里、5号墓、1号墓と墳丘墓と大柱、祠堂の関係を順に並べて考えてみると
日向峠からの日の出と大柱の関係には特に根拠がないとするよりなく、
平原1号墓が太陽祭祀を行った日巫女の墓というのも理由を失う
そして、平原遺跡を伊都国有力家系の家族墓として見たときに、1号墓以外には
厚葬墓がなく、墳丘サイズも小さいものばかりで、伊都国王家とは異なる家系なのは
あきらか
日巫女でもなく、伊都国王家でもなければ、1号墓を卑弥呼の墓とする理由はない
どうやっても径百歩にならない墓に、そんなに執着してもしょうがないだろうに >>640
>つまり平原遺跡の鏡は八咫鏡でいいのだよね?
全然ダメだよ
当時、八咫鏡だった可能性はほぼない
単なる祭祀用の大鏡を普通名詞として八咫鏡と呼んだと主張する余地はあるけれど
円周長が八咫だからという説明は、完全に否定済みだよ
基本的には、原田大六氏の昭和の時代の思いつきだけが根拠なんだからさ >>641
>平原1号墓が太陽祭祀を行った日巫女の墓というのも理由を失う
1号墓の卑弥呼の時に日御子の立場が確立されたなら、別に問題ではない。
>厚葬墓がなく、墳丘サイズも小さいものばかりで、伊都国王家とは異なる家系なのは
伊都国のかつての男王たちと少し違う家系だろうというのは、魏志倭人伝のとおり。
個人的には、壹與は筑後に遷都した説ので、糸島平野に後に続く墓がなくてもいい。
筑紫の王家だからこそ、広域で考えなくてはいけない。
「伊都国だけの王家」などというものをあなたがでっち上げようとしているからこそ、矛盾が生じているだけだ。
伊都国説の不備ではない。 で、この「咫」の長さの論争の中で、
「丈夫は平均身長の凡夫じゃない」とか血迷った間違いをした人がいて、
丁寧に「それは間違いだよ」と教えてもらっているのに、
そんはのは認めないって言い続けている恥さらしが一人いるだけ >>643
>1号墓の卑弥呼の時に日御子の立場が確立されたなら、別に問題ではない。
どこから「日御子の立場が確立された」なんて事が出てくるの?
墳丘(そば)に立って、大柱の方向を見ると「祠堂」があって、
「日向峠は見えない」んだよww
もともと、二至二分でもない10月20日に昇る朝日の方向を指すから
日御子だっていう時点で無理があるんだけどね、しかもきちんと調べると
10月22日というお粗末さww
そして、埋葬主体の木棺の方角は、日向峠よりも南を向いている
結局偶然それっぽかった(日向峠の日の出の方向)だけで、大柱も
埋葬主体も具体的な方向を向いていた訳でもないんだ
>伊都国のかつての男王たちと少し違う家系だろうというのは、魏志倭人伝のとおり。
魏志倭人伝のどこにそんなことが書いてある? 典拠部分を引用してよ
>個人的には、壹與は筑後に遷都した説ので、糸島平野に後に続く墓がなくてもいい。
個人的にって言ってるけど、要は「根拠なし」だろ >>643
>筑紫の王家だからこそ、広域で考えなくてはいけない。
そんなものはないよ
伊都国はのちの伊都県主
奴国が後に筑紫国造になる
末慮国は、末羅国造
別々の首長の家系があり、ここではそのうちの伊都県主家を
伊都国の王家と呼んでいるだけ
>「伊都国だけの王家」などというものをあなたがでっち上げようとしているからこそ、矛盾が生じているだけだ。
要するに、伊都国地域のローカル首長の家系だよ
邪馬台国からの派遣官の一大率の監督下におかれている首長
>伊都国説の不備ではない。
伊都国説自体が不備だからね
「短里」「島巡り仮説」「水行の起点を帯方郡に戻す」
こういった捏造がないと、説の形すら取れない
そもそも、伊都国と邪馬台国とは、水行陸行合わせて2ヶ月かかる
遠地の別の国、っていう魏志倭人伝の記録を無視しないと
成り立たない時点で終わってる、という前に始められない これまで、平原遺跡の立地と太陽の運行について意味があるなと思ったのは、
「三雲遺跡群から見て、夏至の日の入り方向に平原遺跡がある」
というもの
これだけ
でも、平原遺跡内の墳丘や大柱などの配置は、夏至の日の出日の入は、
一切意識していないようだ
平原遺跡は立地からしても、三雲遺跡群に対して従の立場であり、
すべてを差配できる王の立場にあるとは見えない >>641
>指しているというが、大柱は「祠堂」から墳丘墓を拝むためのもので見る向きが逆
御柱は被葬者のためのもの。
建物は古代神道で殯宮として知られる建物だよ。
勝手な造語はいけないね。
>日向峠からの日の出と大柱の関係には特に根拠がないとするよりなく、
>平原1号墓が太陽祭祀を行った日巫女の墓というのも理由を失う
逆だよ。
1号墓の被葬者だけが日の巫女だということだよ。
他の人物は太陽信仰ではなく、1号墓の被葬者だけが特別なんだよ。 >>646
>魏志倭人伝のどこにそんなことが書いてある? 典拠部分を引用してよ
戦乱があっというので、王統の正統性を疑った魏は、わざわざ郡使を派遣したんだよ。
それ以外に郡使を派遣する理由があるか?
一女子を共立したというからには、王家の関係者だったかもしれないが、少なくとも嫡子(これもそもそもは男子を想定した語だ)ではないはずであり、平原遺跡の状況と一致するんだよ。 >>647
>伊都国はのちの伊都県主
怡土県主が倭王の末裔であることは同意する。
>奴国が後に筑紫国造になる
魏志倭人伝の時点で奴国に王家はない。
紀元前に奴国にいた倭王の権威は伊都の倭王が継承しているのだろう。
>伊都国の王家と呼んでいるだけ
あなたが勝手に呼んでいるだけ。
漢や魏が冊封したのは「伊都国王」ではなく倭王だからね。
そして卑弥呼もそのような倭王の一人だ。 >>648
>平原遺跡は立地からしても、三雲遺跡群に対して従の立場であり、
平原遺跡の方が後から作られたのだから、当然だ。
同じ内行花文鏡を奉じる王墓として、平原遺跡は明確に三雲から倭王の権威を継承している。 >>635 さん
そうですよ。手を当てて測っていたのは何も日本だけじゃないですから。
この「尺」の解釈はアタそのものですね。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/chuugokugogaku1955/1955/38/1955_38_105/_pdf/-char/ja
>>617 を読んで丈のことか夫のことかもわからないぐらいの読解力しかない人には
難しいですかね(笑) それはそれとして、>>633の内容も、丈=平均身長説(笑)とは、相容れない内容ですし、
現在推敲中の岡上説に資するところが大きそうですから、ありがたく参照に使わせてもらいますね。 遺跡の説明をすることと
説の中での遺跡の位置付けを説明するのは内容が違うで。
相変わらず、一人相撲の誤読大王だな。コミュ障改善するのに彼女と話をしてから書き込んだ方がいいぞ。 2ちゃん張り付き、粘着しすぎだし、それは無理な注文だろ >>654
相変わらず言い張るだけで
なんにも理由を言わない
ハジサラ氏
もといお鏡さん 考えを修正すると言っているんだからいいんじゃないか? >>648
三雲南小路は夏至の日の出が高祖山、日の入りが可也山となる位置にあり、この二つの山と夏至の太陽を意識していることがわかる。
そして、平原の5号甕棺から2号大柱の先は夏至の日の出方向。
5号墓から1号大柱の先は高祖山、また5号墓の主軸も高祖山を向いている。
https://www.google.co.jp/amp/s/ar.pinterest.com/amp/pin/627548529300333171/?source=images
夏至の日の入りは三雲南小路と同じ可也山。
少なくとも5号墓は三雲南小路の祭祀を継承していると見ていいんじゃない? >>649
>建物は古代神道で殯宮として知られる建物だよ。
>勝手な造語はいけないね。
殯宮というには、かなり小さいんだ
殯宮とするには根拠が乏しい
祀堂は吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓に伴う小型建物に付けられた名前で、
墳丘墓の被葬者へのお供え物を手向けるための場所とされている
勝手な造語ではないよ
>>649が知らないだけでね
>1号墓の被葬者だけが日の巫女だということだよ。
>他の人物は太陽信仰ではなく、1号墓の被葬者だけが特別なんだよ。
それは単なる伊都国説の人の思い込み
なぜ1号墓の被葬者が「いきなり日の巫女になったのか」という論証なしで
そんな主張をしても意味がない
5号墓と1号墓の大柱の指す方向は一致していないがだいたい同じ向きを意識している
5号墓被葬者が日の巫女ではないのなら、1号墓被葬者を日の巫女とする理由もない
5号墓と比べて1号墓の方が墳丘も大きく副葬品も豪華なので、異なる立場・地位に
あったことは推知できるが、その墳丘サイズは国家レベルの動員力を必要とするもの
ではなく、伊都国の有力家系が一族の力くらいで築造できるものだ
前後の墳丘のショボさや、その小さな2号墓と合わせて作られていることから考えて、
有力家系から伊都国王妃が出て、その王妃を一族総出で厚葬墓に葬ったというところだろう >>650
>戦乱があっというので、王統の正統性を疑った魏は、わざわざ郡使を派遣したんだよ。
>それ以外に郡使を派遣する理由があるか?
答礼使の派遣は、王の正統性を確認するためというのは正しいが、
一国を代表する王かどうかの確認が目的だぞ
王統はある意味どうでもいい
遠絶の地の王が誰であれ、朝貢に来て国を代表するものであれば王に除すればいいだけ
典拠を求められて、魏使が派遣されているからとしか言えないってことは
違う家系であることを示した部分は、魏志倭人伝にはないってことだな >>651
>怡土県主が倭王の末裔であることは同意する。
「縣主」という時点で、小首長としか認められていないってことだから、
それがかつて倭王だったとするのは牽強付会に過ぎるだろ
>魏志倭人伝の時点で奴国に王家はない。
中華視線で、皇帝から除正されていないものは王ではないとするのは勝手だが、
奴国には奴国の首長がいるし、伊都国より強勢だったのは遺蹟の規模からみて確実
実際魏志倭人伝でも、奴国が戸数二万の大国として描かれるのに対し、
伊都国は千戸に過ぎない
奴国首長がのちの筑紫「国造」、伊都国首長が怡土「縣主」であることとも
整合性がある
こういう前後の情報との関連を精査するってことを九州説はやらないよね
だからチェリーピッキングの域を超えられない
>紀元前に奴国にいた倭王の権威は伊都の倭王が継承しているのだろう。
「だろう」で勝手に想像しても、根拠がないのは変わらない
倭王の権威が衰微したからこその倭國亂と見る方が妥当
だからこそ、「共立」という「新たな正統性の担保」が必要だったと言える >>664
>墳丘墓の被葬者へのお供え物を手向けるための場所とされている
根拠のない決めつけ。
殯宮なら古代においてそのような風習があったことは確認できる。
>なぜ1号墓の被葬者が「いきなり日の巫女になったのか」という論証なしで
倭国大乱があったからだろ。
>有力家系から伊都国王妃が出て、その王妃を一族総出で厚葬墓に葬ったというところだろう
有力家系から倭国女王が出たんだろう。
三雲では王と王妃が隣り合っていて、王の墓の方がわずかに豪華だ。
しかし平原では王に相当する墓がないので、1号墓は女王だよ。
その時点であなたの勝手な妄想は完全に根拠を失っている。 >>653
>そうですよ。手を当てて測っていたのは何も日本だけじゃないですから。
>この「尺」の解釈はアタそのものですね。
どう強弁したところで「尺」なんだよ!
中国古典の解釈に日本語の単位を持ち出してどうする?
それにお鏡さんが>>617で書いてた「『字形』からして十アタか」の
『字形』ってのが完全に見当違いだってのは間違いないな?
>>>617 を読んで丈のことか夫のことかもわからないぐらいの読解力しかない人には
>難しいですかね(笑)
今問題にしている
「丈夫也。从大,一以象簪也。周制以八寸爲尺,十尺爲丈。
人長八尺,故曰丈夫。凡夫之屬皆从夫」
の説文解字の記事は「丈」はなく、「夫」の記事なんだよ
「丈」には「十尺也。从又持十。』としか書いてない
説文解字注でも
「『夫部曰。』周制八寸爲尺。十尺爲丈。人長八尺。故曰丈夫。
然則伸臂一尋。周之丈也。故从又持十。直㒳切。十部。」
と基本「夫」の記事を引用している
丈夫を論じるのに、丈の字について論じるのか、夫の字について論じるのか
確認するのが当然
相手に紛れなく伝わる文章を書く能力がないのを棚に上げて
「わからないぐらいの読解力しかない人には
難しいですかね(笑)」
と相手の非難にすり替えるあたりは、九州説の人間にふさわしい態度だけどな >>665
>一国を代表する王かどうかの確認が目的だぞ
>王統はある意味どうでもいい
>遠絶の地の王が誰であれ、朝貢に来て国を代表するものであれば王に除すればいいだけ
これは概ね理解できる。
魏も、嫡子ではなかった卑弥呼を最終的に承認している。
福岡の様子を見て、実際に卑弥呼が倭を代表していることを確認したのだろう。
(畿内に行かずに倭の様子を確認できたのだから福岡が倭の中心だ)
あと、おそらく卑弥呼が漢委奴国王印を使って国書を送ってきたのだろう。
そうでないと、国書が届いても倭王からのものだと確認できないからね。
つまり金印があった福岡が倭の王都だ。 >>666
>「縣主」という時点で、小首長としか認められていないってことだから、
はるか後世の文献であることに注意されたい。
しかし、他の県主よりも格上の扱いであることがわかる。
もっとも、天孫族の末裔もその頃にはかなりの数になっていたはずで、その一部ということになる。
>奴国には奴国の首長がいるし、伊都国より強勢だったのは遺蹟の規模からみて確実
奴国のどの遺跡だ?
少なくとも三雲と平原は、その時代の最高クラスの王墓だが?
奴国が首都であったのはそれよりかなり前の話になる。 >>654
>丈=平均身長説(笑)とは、相容れない内容ですし、
読解力以前に、アタマ大丈夫か?
>>622でも引用しているように
「成人男子を丈夫ジョウフという。立派な体格の男子は大丈夫である。」と
解説にも書いてあるだろ?
普通の平均的な成人男子が「丈夫」で、お鏡さんが勝手に思い込んでいる立派な人・大男は
「大丈夫」だって書いてあるだろ
お鏡さんの間違いってのが確認できるだけだぞ?
引用しなければ、リンク先を読みに行っていない人はごまかせるとでも思ったのかい?
白川先生の書いた部分は、
「会意。十と又とを組み合わせた形。十は木の枝の形で、又は手の形。
手に木の枝を持ち、それを支えとするもので、杖(つえ)のもとの字である」
これだけだが、こちらは身長の話には一切触れていないから、相容れないなんてことには
まったくならないだろう
何を言っているんだかww
「一丈169cmなら、凡夫にしかなりませんね(笑) 」
これが間違いでしたって、素直に認めるのがそんなに難しいことかねぇ?
まあ、がんばって恥の上塗りをまだまだ続けるっていうなら止めないけど、
お鏡さんは「間違いを正さない態度で、思い込みを言い張る人」、という評価がどんどん
固まっていくな そもそも、隣接する伊都国と奴国が別の国家だと考えてそれぞれに王家を想定するのが間違いだ。
それらは正式に冊封された倭国の王家だよ。
福岡県内で王宮が年代によって移動している。
それをまあよくも伊都国は平原の後で衰退したとか、適当なことをほざけるな。
一方では西日本全域の支配を想定しておいて、一方では奴国と伊都国を分離してそれぞれに王権を想定するなど、デタラメなダブスタだよ。 >>673
別の時代の話をしてるんだからダブスタでもなんでもないんじゃ? >>673
>そもそも、隣接する伊都国と奴国が別の国家だと考えてそれぞれに王家を想定するのが間違いだ。
理由は? >>675
隣接しているからだよ(^^;
平原と三雲は、それぞれ同時代に匹敵する王墓はない。 >>672
リンク先に
「古人は「丈は長なり」と語源を説いている。
dhiang(丈)という言葉は長や常と同源であり、「長い」というコアイメージをもつ語である。」
とありますね。都合のいいところだけ抜き出してますね。
大夫は、大きいとは限りませんが、だからといって大のもつコアイメージを否定して、
大きいは限らないから平均身長だと主張するのは滑稽でしょう。
丈夫も同様ということです。 >668
恥ずかしい長文乙ですね。
617には、
>説文にも身体尺の例から漏れてますしね。
と書いてます。
これで丈のこととわからないのというはかなりの重症ですよ。
夫はそもそも尺度じゃないですから。 >>679
だから大人の平均身長だと言っているのに >>679
「古人は「丈は長なり」と語源を説いている。
dhiang(丈)という言葉は長や常と同源であり、「長い」というコアイメージをもつ語である。」
とありますね。
常と同源であり
常と同源であり
常と同源であり
都合の悪いものは無視?
成長した大人の男の平均身長です >>683
>成長した大人の男の平均身長です
それと邪馬台国と関係まったく無し。 なにを馬鹿騒ぎしてんの??? @阿波 >>684
平原で八咫鏡なんか出てない事実を
どうしても認めたくない爺さんが
ゴネてるのさ >>685
ふ〜ん。 鏡で邪馬台国を見つける気、満々なんだね。 ある意味凄いわ。 @阿波 >>684
平原で八咫鏡が出た事実を
どうしても認めたくない爺さんが
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