中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。

当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。

この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。

この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。

崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。

もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山3号墳だ。

この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。

被葬者の該当人物がいる。

孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。

河内青玉繋→埴安媛 →武埴安彦

祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。

ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。

どちらにしても「欠史」などと言われてきた初期8代天皇は確実に実在した、
そして魏志の台与と大和朝廷がこの冑によって結びつくのだ。