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邪馬台国畿内説 Part361
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0001◆UiepmfCeDJqf
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2018/07/12(木) 22:02:40.35
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1531131991/


◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0060◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:34:11.71
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0061日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:34:12.32
>>599
>ザラコクに人間でないと言われた
ということは即ち
立派な人ですね うん<


ザラコクに人間でないと言われた ということは、即ち、
立派な「南→東」の嘘つきですね?。
うん。
0062◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:34:42.09
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0063日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:35:01.97
>>601
>寺澤説は有力で傾聴に値するでしょ
インチキデマ男がねつ造したニセ寺澤説がゴミなだけ <

寺澤は「南→東」などの嘘つき騙しだから、傾聴に値しないでしょ。

インチキデマの大和説男は、ゴミなだけ。
0064◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:35:15.86
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0065日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:35:29.56
キナイコシは九州が大和国なのしらんの。。。???
0066日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:35:37.73
>>603
本人は大和説者教授や文部省の権力を憚ってハッキリ言わないが。
彼らは、皆「南→東」の嘘つき騙しなんでしょ?。
これは、大和説者がよくやるイタコ芸。

これって大和説という病気の末期症状?。
0067◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:35:47.30
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0068日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:35:58.09
九州は大和国です
0069日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:36:15.78
>>605
死ぬ前にあと千回は、「南→東」などのウソをつきたい、とかが、
大和説者らの宿願なのかな?。
0070◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:36:15.94
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0071◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:36:44.85
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0072日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:36:46.29
>>612
このように、トンデモ大和説者は、
20万〜30万個位ある投稿の中から、一個の証拠投稿を探してこい、
なんていう無茶苦茶の要求をして、
自分は、「南→東」などの証拠は、決して出さない。
0073日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:36:56.59
>>66
バカでごめん。大和説の人らまだまだバカレス続くからよく見といて。。。
0074◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:37:23.14
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
0075日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:37:28.93
>>619
大和には祭祀村はあっても、西日本を統治出来るような王権はなかったよ。

くやしいだろうけど、それが古代史。
0076◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:37:46.38
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0077日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:37:53.99
九州に倭国があったんだよ 中央政権も九州だよ 知らんの???
0078日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:38:14.78
>>620
>邪馬台国=大和国ですよ<

「南≠東」に拠って、×。
大和説は完全に田舎っぺの妄想。
0079◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:38:23.51
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-_________170.3 18.5 159.0 17.1
0080◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:38:53.72
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百x四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0081日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 22:39:11.74
>>627
>「北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成」
が寺澤の主張だ<

「南≠東」などで、寺澤は×。
0082◆wDufv9If9vkc
垢版 |
2018/07/12(木) 22:39:22.07
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0083◆wDufv9If9vkc
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2018/07/12(木) 22:39:47.01
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で3世紀末か4世紀だろう! 奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。黒塚も3世紀とされる。黒塚築造年代の根拠は近刊の報告書入手後に詳説したい。
 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て築造年代を纏向3類中葉とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と比べて劣後しない。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:39:51.44
九州説の僕らはバカなんだよ。。。

まだまだバカレス続くから見とって。。。。

以下バカレス↓
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:39:55.71
>>628
大和に王都なんてものは存在してない。
ただの「東征毛人五十五國」の経由地、または出先機関。

理解できてますか。
0086◆wDufv9If9vkc
垢版 |
2018/07/12(木) 22:40:10.78
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆1、◆FAQ22に追記、◆9の引用文献リンクを修正
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:40:49.75
>>632
>その結果、 対海国 対馬<

「方四百余里」だから、対馬全体ではない。浅茅湾周辺〜厳原付近。

>一大国 壱岐 <

周辺の島も含む。

>末慮国 松浦(唐津平野)<

到着地はおそらく唐津港。

>伊都国 糸島(怡土)<

海岸〜糸島水道付近。

>奴国  福岡(那珂、那の津)<

伊都國の東南になっていないから×。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:41:46.73
九州に奈良はありました @阿波
0089日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:42:33.55
>>632
>を通説どおり、比定地と考えるが、ここまででも、 距離と方角はあてにならないと考えている 実際、海峡横断部分も行程によって距離が2倍程度異なるし、<

有効数字1桁程度の差異内。

>末慮国ー伊都国間と伊都国ー奴国間で、里の換算距離が4倍異なる<

奴國の比定地のインチキ。

>方角も、海峡横断部分も南ではなく南東だし<

朝鮮海峡と玄界灘は、目視できるから書かれていない。対馬海峡も南は出発方向であり、対馬海流に乗るから、間違っていない。

>末慮国ー伊都国間で90度方角が狂っている<

「東南」は、出発時点での出発方向であり、間違っていない。

>それ以降も、北部九州から水行で長距離で、投馬国、邪馬台国の順に進むと 考えているよ 否定はしない<

投馬國は、側副傍線国説明であり、「水行十日陸行一月」は「女王之所都」の説明だから郡からの日数。

>ただ、日数は10日単位に丸めた数字だと考えるし、<

有効数字1桁近似日数。

>方角は間違っていると考える九州説のように、いきなり起点を帯方郡に戻したりはしないww<

wwの脳が間違っていると考える。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:43:37.68
>>637
>『古事記』にみえる倭の記載範囲に重なり、<

古事記も「倭国の存在や歴史を抹殺造作」している半分×書であるから、
論拠にはならないよ。

>直木孝次郎氏のいう「狭義のやまと」にほぼ相当するものといえる。<

直木も「南→東」などの嘘つき学者であるから、根拠にはならないよ。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:43:44.73
もう飽きた
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:44:16.81
>>641
>天孫族=関東人→九州に防壁のための出先機関→東征→邪馬台国=大和国
で日本の古代の歴史は間違いないよ<

「南≠東」に拠って、×。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:44:55.19
>>642
大和説は今日も、「南→東」などの嘘つき騙しで、思考停止。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:45:16.47
以下九州大和国節のバカレス続きます↓
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:45:39.96
>(寺澤派)また、卑弥呼の共立を
「私は北部九州(2世紀までの倭国中枢であった、私の言う「イト倭国」勢力)や
 2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を
 維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と
 考えている。」 と捉えていらっしゃる<

「南≠東」に拠って×ね。
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:46:19.99
>>649
>「どっちもどっち」論w
これは、論争に負けたという自覚のある人間が、 負けじゃないもんね、というために編み出した技
用例 9回2アウトランナーなし10点リードされてる状況で
「まだ勝負は決まってない」←まあね笑
「つまり同点だ」←は?
これが大和説。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:46:31.88
>>93
真面目に答えとくと大和は説じゃないよ 事実だから
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:46:36.64
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。

2世紀半ば以降の倭国大乱、畿内征伐でこれらは崩れ去る。
攻めてきたのは、出雲など山陰と尾張三河など東海の勢力だよ。彼らが平和な世界を破壊したんだな。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:47:06.99
>>651
>重要なんで理解できるようにもう一度書いておく
天孫族=関東人(縄文)→九州に防壁のための出先機関{弥生)→東征→邪馬台国=大和国
である。<

「南≠東」に拠って、×である。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:47:21.86
近畿は元々縄文系勢力も渡来人系勢力も仲良く暮らしていた。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。

スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。

結果できたのが、山陰と東海の勢力を中心とした邪馬台国、大和朝廷だよ。
近畿は大和朝廷の最初の討伐ターゲットだったんだな。
大和朝廷は4世紀前後四道将軍で関東東北を征伐する。

大和朝廷に虐げられていた元々の近畿の勢力、関東の先住民が手を結び、神功皇后応神を旗頭にして大和朝廷の旧勢力に叛旗を翻すんだよ。
藤原氏の守り神が関東の人々であるように、近畿と関東は同盟関係だったんだな。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:47:43.25
>>652
>なんで致命傷なの? 理由もなく言い張っても、なあw、

大和説って人種は、幾ら理由を説明したって、知らん振りして、
また「理由もなく言い張った」って言い出すからなあ。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:47:51.04
バカにされて悔しくて更にバカになった九州大和国説のバカレス続きます↓
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:48:04.84
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:48:27.23
>>653
>「(倭人伝の)行程の国の順序は認め、地名や遺跡の存在から比定地を考える」
「距離と方角はあてにならないと考えている」
あてにならない部分は、まったく採らないからチェリーピッキングには当たらない
比定地は、きちんと検証可能な情報をもとに行う それだけのこと<

wwの投稿の嘘つき騙しは、もう説明しておいた。
それだけの事。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:49:06.29
>>645
>お前バカなんだからもう書きこむなよ
ただのあーいえばじょうゆうじゃんお前w><

お前ら大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しがバレているバカなんだから、
もう書きこむなよ。
ただのあーいえばじょうゆうじゃん、お前らw。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:49:47.43
>>656
「おらが村一番」根性の、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説や、
「戦前の萬世一系皇国史観」信仰で、九州憎しの批判しか出来ないバカは、
頭悪い。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:49:48.19
>>100
やっとまともなレス。わかります。
九州説のキチ早く消えないかな。
バカだから消えなそう↓
0108日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:50:18.34
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。

見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。

神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

また久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。

牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:50:21.49
>>657
>残念でした 纏向では倉庫が未発見<

石床がなければ、「宮室樓觀」ではないね。
という事は、倉庫?。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:51:02.22
>>659
>根拠 つ「大陸史書での地理・旅程記事は、現在地を起点として
     方角、距離、到着地の順で記すのが基本
     次の行程は、先の到着地を現在地(起点)として記される」 <

陳寿は、原則として、
「出発説明、途中の説明、到着の記載。付加説明」の形で、行程を書いている。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:51:11.73
畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によって大和朝廷が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した大和朝廷の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:51:34.41
>>662
>「北部九州(2世紀までの倭国中枢であった、私の言う「イト倭国」勢力)」が倭国の中心だったのに、その2世紀末に纒向で卑弥呼が即位するのか?
ならば畿内説は東遷説でいいよな?<

どっちにしても、「南≠東」に拠って、×。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:52:12.96
九州説消えた?どうかもう書きこまないで。

気持ち悪い。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:52:14.45
>>667
>イト倭国が終了しただろ? 東遷ムリだよな <

伊都国に関係なく、「東遷説」も「南≠東」に拠って無理だよ。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:52:28.68
かつてなにわの大坂城の地にあった生國魂神社。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したという謂れが残っている。

畿内征伐の際に真っ先になにわは制圧されたんだろう。

魏志倭人伝当時は既に、邪馬台国卑弥呼、大和朝廷に支配されていたと思われる。

卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼。

魏志倭人伝当時の邪馬台国の南の狗奴国は、河内と和泉だろう。

狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦。
武埴安彦の祖父、河内青玉繋だろうな。

神功皇后、応神のエピソードは、
尾張出雲吉備を中心とした邪馬台国体制(初期の大和朝廷)に対するクーデターだな。

大和朝廷に虐げられていた九州北部、畿内、関東の先住民が手を結び立ち上がったんだろう。
かつてのクナ国体制側の反撃とも言える。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:52:54.03
>>677
邪馬台国大和説と阿波倭国説は、「南≠東」に拠って、
本物のバカだということがよくわかる。

もう少し冷静に正確に分析しなよ 。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:53:10.17
一人のキチがいるから一回全員でスル―しない?

このまま放置した方がいいよ
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:53:39.38
>>683
>倭王は大倭の王だよ 本当にバカだな<

「大倭」は倭国の地方の市を監督する役人の呼称だよ。
本当にバカだな。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:53:40.18
>>109
石床とかトンデモが毎度笑える
0121日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:54:12.18
>>684
>九州の倭はないよ。。。ただの出島<

大和に倭国はないよ。
ただの「倭國から別れた別種の旧小国」。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:54:23.97
三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し大和朝廷を作ったんだな。

あま市など東海地方には石作神社が散見される

石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。

近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか?
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:54:34.27
なんか他のスレのレスに反論してるっぽいな

九州説マジ基地。キモすぎ。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:54:46.60
>>688
「南≠東」に反論を諦めたんなら、大和説は終了だな。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:55:26.98
>>691
そもそも大和に「列島を治めてたあと」なんて、
考古学的にも、文献的にも、歴史的にもひとつもないんだよ。
そこらへん理解した方がいい。

>倭国=大倭国=大和です。100パーセント完全に当時の奈良だよ<

大倭は、倭国の地方の市を監督する役人であり、
「南≠東」に拠って、倭国は100%完全に大和ではありません。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:55:42.33
>>123
よほど悔しかったレスにそのまま言葉変えてるっぽい
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:56:01.75
>>695
大和マンセ―?してるの?、
ほとんど今の大和人の田舎っぺだろ?、 
ここでも?。
0128日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:56:16.57
やっぱりシラ、白が重要なキーワードな気がする
しら、おしらさま、白日、天白、しらぬひ、 石徹白イトシロ

おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布

白澤、人面の牛、牛妻

白も牛と繋がってくる

新羅も本来はシラ

白根か、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:56:40.88
>>696
>伊都にあった倭国が東遷したんだろ?
違う国なら名前も違うはず。
倭国女王卑弥呼の王都が纒向なら、筑紫から大和に遷都したことになる。<

「南≠東」だから、×。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:56:48.92
パクリレスかよwww九州説www
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:57:19.10
>>698
だから大和は、ただの
「倭国の別種の旧小国で、倭国の地方の市を監督する大倭職の国」
だって。

この田舎っぺども 。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:58:04.46
>>699
>こういうこと 「そして倭国王たるイト国王は2世紀の末、・・・・平原遺跡一号墳丘墓をもって終わりを告げるのである」寺澤<

そうか。そういう事だったのか。
寺澤は、
「南→東」などの嘘つき騙しだけではなく、
弥生銀座の繁栄や「大道」の存在や、その後の伊都国の阿毎氏の発展を、
完全に隠蔽する・・・・詐欺師であったのか。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:59:17.94
>>725





 大和説はひたすら




0134日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 22:59:34.24
倭国=大倭国=大和です。100パーセント完全に当時の奈良だよ

これが悔しかったんだねwwwww なんとなくわかったwwwww
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 23:00:21.65
>>740
バレないと思ってるんだろうが、
「南→東」などの嘘つき騙しや、
「萬世一系皇国史観大和説」を隠蔽するなんてウソを、
平気でつき続ける大和説者って、
どう見ても、脳の異常だな。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 23:00:58.95
>>741
大和説者って、
「南→東」や、
「戦前の萬世一系皇国史観の殺人テロ戦争」礼賛なんて、
バカすぎ。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 23:01:11.38
バカにバカと伝えたら受け入れられなくて壊れちゃったってやつじゃないかな?

かわいそう九州説。思う存分レスしたら明日病院行けよ。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 23:01:39.30
>>742
>日本成立させたんだkら小国じゃないでしょ...。<

大和が日本国を名乗ったには、ようやく隋の開皇末の事なの。
それまでは、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったの。

>小国は九州でしょ。。倭国=大和国だよ。本当に馬鹿なのか<

「南≠東」だから、「倭國≠大和」なんだよ。
本当に・・・・なのか?。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 23:02:03.84
マジで危ない九州説
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 23:02:16.89
杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。

出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。

猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。

その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。

猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。 凄い偶然。

更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。

サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、倭人の彦神クナトの神の子。
倭人と出雲族の同盟の証。
月夜見にして大国主、狗奴国の卑弥弓呼。日見彦。
国津神はクナの神々のことかな。
スクナヒコナ、素クナ彦名も関係あるのかな、倭人の王かもね。
伊勢湾は倭国大乱で犠牲になった神々の鎮魂の場所
0141日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:02:47.83
>>743
>日本成立させたんだから小国じゃないでしょ...。
小国は九州でしょ。。一度も九州が過去も昔も日本中に勢力が及んだことないじゃん<

倭国は「正北抵新羅」だから九州であり。
その倭國が「自昔・・・東征毛人五十五國」をしたの。

>倭国=大和国だよ。本当に馬鹿なのか<

「南≠東」に拠って、倭国⊃大和国だよ。
本当に・・・・馬鹿なのかい?。
0142日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:03:31.62
ヤマタノオロチ族と伊勢神宮外宮の風宮の神との関係が気になるな。

級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。

丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。

伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。

畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。

伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
0143日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:03:34.39
>>744
大和説者は、大和に「萬世一系」の、日本を収めた勢力があったと思い込みたいんだね。

残念だけど、大和が白村江で負けた九州倭国を併合吸収継承したのは、
701年なんだよ。
地理的にもただの「倭国の地方の市を監督する大倭國の旧小国」であった場所だよ。
0144日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:04:15.34
>>745
>東西を征服してるんだから、倭王武がいたのは中央だ
西のはての九州じゃないよ<

唐会要は、(日本国伝ではなく)倭国伝で、
倭国の位置を「正北抵新羅」と説明していたから、
倭国の位置が九州であり、
倭王武の上表文では、九州では「自昔」から既に「服属していた」という説明であったから、
倭王武は九州にいた事になるの。
0145日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:04:26.19
バカ九州説の基地を見守るスレに変わりました

悔しかったレスに思う存分コメントさせてあげましょう
0146日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:04:48.74
アマタラシ系はどうなったんだろう
少なくとも聖徳太子の時代迄は存在したはずだが

息長タラシ系はどうなったんだろう
最後は大津皇子かな
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
金烏臨西舎 鼓声催短命 
泉路無賓主 此夕離家向

にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも
0147日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:05:06.58
>>747
頭では分かっているが,
大和人は大和に、
過去に日本を収めた力があったと思い込みたいのです。
白村江までは、一度もないけどw。
0148日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:05:26.41
龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。

祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。

天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと
0149日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:05:56.12
>>749
単純に大和は、地理的に大陸からの文化の受け入れるのには遠すぎて、
九州から見れば毛人勢力からの防波堤だっただけ。

真実はわかってるが、大和説唱えるのが唯一のみじめなプライドであり、
戦前の「萬世一系の殺人テロ戦争の皇国史観」、
という結論先にありきの・・・・アホなのです。
わかってください。彼らはバカな田舎っぺです。
0150日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:06:11.57
ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり

大空をわたる月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を蓋になさっている。

天武朝では、月は嫌われていたのかな

桜井市のホームページにも載っている
桜井市にこの歌の碑もあるな

天武はよっぽど月や鳥が嫌いだったんだろうな
朱鳥なんて血塗れの鳥を連想するし
0151日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:06:36.93
>>750
>大和朝廷成立したの畿内だし、今の日本に連綿と続いてる根拠と証拠しかないけどねw<

大和朝廷も畿内もも、白村江の前まではほぼなかったし、
それまでは、大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であったのです。
0152日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:06:50.14
気持ち悪いwwwww
0153日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:06:51.72
真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨

白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな

天津、霧、鴨
天津、アマタラシ、
霧は切り、
そんなことないと思うが、アマタラシ系を切ったのは鴨?
0154日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:07:30.52
郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れは興味深い

五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
吉田神道は、宝暦騒動の頃に、朝廷を中心とした、天下太平国家安全を祝う祭りの性格を、一地方の単なる春祭りの神楽に移行され、五行舞を五段神楽に改められた。
0155日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:07:32.80
>>751
自分が中立なら、はっきり言いますよ。

倭国が大和なわけないだろ笑。
倭国はそのまま九州倭国だわ。
0156日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:08:35.60
>>151

元レスのがあってないか?w そんなに悔しかったのか丸パクリコメントwwww
0157日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:09:37.88
石徹白、イトシロがかなり重要な場所と認識されていたのが分かる

理由は何なんだろう
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 23:10:19.52
>>155

かわいそうに....
壊れたんだねえ... ご愁傷様....
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/07/12(木) 23:12:27.71
>>155
他人に迷惑かける前に明日病院行ってきなよ
なんかあわれで涙出る
0160日本@名無史さん
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2018/07/12(木) 23:15:38.27
>>753
>そう思い込みたいのはわかるが
倭国はそのまま和の国、大和だよ笑<

これ×ね。
「大和」という文言は、倭國の地方の市を監督する「大倭」國から来たようなの。
つまりm「大倭→大和」という漢字の造作。
その原点は、古事記の欠史八代の内の4人に「大倭」の役職名が冠せられていた事。
大和は、「大倭」職の後裔である、という事を誇ったの。
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