江戸幕府が存続してたらどういう社会になっていたか
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>>78
明治維新(1868年)は世界で最もうまくソフトランディングに成功した革命又は市民戦争と評価され
ているよ!
同時期に他の国で起こった革命又は市民戦争と比べて見れば分かる。
例えば、アメリカの「南北戦争(American Civil War)」(1861〜1865)は農業を産業基盤とする
南部州と工業を基盤とする北部州の争いだったが、参戦兵士数は400万人で、戦死者は62万人、
うち北軍が36万人、南軍が26万人に達した。
一方、明治維新では戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い→江戸城開城→上野彰義隊戦争→会津戦争
→五稜郭の戦い、1868〜1869)での全戦死者数は1万人以下だ。
今の平和な日本の善悪の基準、価値判断に基づいて150年前の革命、市民戦争を裁断すると、
評価が偏ることになるよ。 旗本美濃部家は3000石取りの大身だったが、子孫は貧乏長屋住まいをしていた落語の古今亭志ん生だな
三千石でも無役、のんびりし過ぎて学問もしてなかったんだろう もしも幕府が今も存続していたら‥
IR推進法趣旨説明
担当老中 水野北海道守
賭場を含めましたるよろづ遊び場を整ふるをめぐり、平成二十二年発足致しましたる参与連盟が種々工夫を凝らし来りて、平成二十八年師走にはよろづ遊山区画を整ふる御定書も発布致し居り候間‥ >>82
口汚い罵倒ではなく(ここは North Korea じゃないんだから)、まっとうなレスを書き込んでよ。 夫れ>>82は己を返り見ずして他人を罵倒す
其の心根救い難き僻者也
御上を恐れぬ所業罰せざる可らずんば入牢申附
平成三十戊戌閏八月町奉行大岡桑内竜田越前
仍て件の如し 池田因幡守、そのほう30万石の分際でありながら議員1名に固執するとは僭越であろう 因幡を知行としたる石破帯刀、安倍大老の跡目を襲はんとて幕閣への工作を開始せりとぞ
御味方を背後より斬りつけんとするこれまでの所業を覚えたる幕臣多しとは聞くが如何なる仕儀とならんや
大奥の年寄野田と共に我が身を嘆き、他日を期して歌舞伎芝居もかくやと思はす睨みを利かすか 台風十三号はただいま天領大島の東方にあって
上総大多喜方面に進行中です
大河内家中のかたがたは早鐘に注意してください 天領とは如何なる物言ひか
幕領なるぞ
先般不穏の僻事を記せしとて出板を差止られしSF讀物に然様なる記述有り
曰く、幕府の命運尽きて領地を失ふ!
其等の土地は暫時天皇領に組入らる
人民此れを誇りて天領、天領と呼びたりと
‥天皇領を貴ぶ心根は真事と云へど、幕府政権を蔑ろにする事甚しき僻事也
公武合体の世に楔を打ち込まんとする危険讀物で有りけり 五輪開催に備えて志士を募集します
志士を希望される江戸町民の皆さんは
奉行所HPまでメールをお送りください 将軍家が国家元首、大老が首相、老中・奉行が閣僚となっていただろう。
列侯会議と庶民会議の二院制になっていた。
皇室と公卿は京都に在住して、官位の授与・文化政策を担っていただろう。 >>90
江戸幕府は譜代大名しか政治参加できなかったんだよ
大老も老中も譜代だった
容堂や春嶽が目指した新体制ではこれを見直し
天皇を国家元首とし、徳川慶喜を議長とする議会を開いて
外様大名を含む全藩主を議員とするという案だった
譜代の特権をなくした時点で江戸幕府とは異なるものだった 幕府はいわば軍政
民主化しろーとアメリカさまにぶっ叩かれて、民主化 元禄の後からは人口横ばい
その前は寒冷期で寛永元禄飢饉があっても1世紀で人口1.5倍増
僻地でも無理に米作って、沼地荒地を農地転用し続けて、有史以降最も身長が低くなり、150年以上経った維新前でようやく1割増
トンでもねーと思ったが、産業革命が遅れる分だけ可住面積当たり人口密度は低く収まり、人口ピラミッドも今よりは幾分健全になっているだろうな >>91
そんなことはない。
和親条約の時には大名どころか藩士、一般町民にまで意見具申を許してるし、
現に吉原の幇間何がしという町人の意見書まで残っている
通商条約の時点でも一定の石高以上の藩にもれなく意見させている。
2回諮問して、2回目に薩摩も土佐も賛成に転じて反対したのは水戸尾張のみ
慶喜が将軍位につく慶応2年頃になると、全国の諸大名の推戴を受けて就任という形に
こだわるようになるから、薩摩藩あたりより政治参加を許容する範囲ははるかに広くなってる 江戸の町人の意見は、黒船に乗り込んで酒食の接待を為し、相手が酔いつぶれたところでなで斬りにする
そう言う勇ましいものだったそうだ 江戸時代から匿名掲示板みたいなことをパブリックコメントに投書するやつもいたんだな >>94、>>95、>>96
大名・幕臣・町人への諮問は、時の老中・阿部正弘の個人的見識と行政手腕によるもので、
江戸幕府の組織的体質から発したものではなかった。
その証拠に、阿部の急死(多分、過労による)直後に大老になった井伊直弼は強権政治を
行ない、反対派を弾圧している(安政の大獄)。 >>99
修正:(誤)”行政手腕” ➜ (正)”政治手腕” >>99
阿部が卒去してからもやってるよ
2回目の諮問は井伊直弼の時代だし
あと「井伊直弼の強権政治」と言われてるものはやや誤解を含む >>101
強権政治の実態を覆い隠すために、諮問の形だけ真似て阿部の政治を引き継ぐふりをしただけ
だろう。
2回目の諮問から何か新しい具体的な政策が出て来たの? >>102
それはあなたの妄想にすぎません。
事実、雄藩は全て諮問に応じ、しかも1回目の諮問では多くの反対意見が出ています。
それが薩摩、土佐藩などが次第に賛成に転じたことで2回目には水戸、尾張のみになった。 決定は全て老中評議にかけないとならないので、
井伊直弼個人の独裁にはなり得ないんだよなあ
井伊個人も「間部詮勝が優勢で意見が全く通らない
もう辞職したい」とこぼしてるほどだし
幕府政治は何事も合議制で稟議が必要なスタイル 今と似た社会になると思う。
合議制で評議重視。積み上げ型。 >>85
>>87
池田とも大河内とも言わない
どちらも松平 長州朝鮮族の作った明治政府というのは日本人を家畜のようにコキ使うことで
支配層のみが豊かになった
だから支配層側か、海外に売られたり戦争に駆り出された庶民側かの立ち位置で評価は真逆になるだろう
英国にしたって海賊が奪った金で物が買えて豊かになって産業革命に繋がった
アフリカの何もないところで産業革命が起こりようもない
結局のところ「悪が栄える」というのが明治だが
それは江戸時代に育まれた日本人の資質があってこその話で
戦国時代の次が明治時代だったら近代化は容易に進まなかったと思う 「胡麻と百姓は搾れば搾るほどよく取れる」by徳川家康
「百姓は生かさぬように殺さぬように」by徳川家康
江戸時代も庶民は奴隷だったわけだが >>109
前者は、徳川吉宗時代の勘定奉行・神尾春央の言葉 贅沢禁止令のお陰でおしゃれの文化が生まれたんですよ 外からは見えない着物の裏地に贅沢をしたことなら、それがすなわち御洒落文化の誕生であるとはちと大袈裟だろう
上に政策あれば下に対策ありとの中国人一般ピープルと同じく、規制を受ける側のしたたかさを示しては居ようが 今の日本政府は解散(自滅っぽい)ことしそうだから今のうちに天皇王朝の準備しといた方がよいみたいだよ 日銀の異次元の金融緩和というのは自爆目的だよな
止めても続けても破綻しかない、やってはならないものだった
それを承知でやってしまったのだから
これからとんでもないことをしようとしている
徳川は国民のため、国益のための政治を行ったが
明治以降の異物どもによる政治というのは一貫して自分たちへの利益誘導のみで
そのおこぼれが庶民にも漏れてきて全体的に豊かになったというのはあるが
怖いのは神社朝鮮人どもは、国民や国益や国の将来などまるで眼中に無いこと
これからどうする気だよ寄生虫ども >>徳川は国民のため、国益のための政治を行ったが
徳川の世の言葉に胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る、というものがありますが…
百姓は国民ではないですかね >>118
神君の「百姓共をば死なぬように生きぬよう」の方がよろしかったですか? 江戸幕府が存続してたら
江戸時代が現在まで続いてるわけで・・・・ 徳川幕府の長所は、天領地域では年貢=租税が安かったことだね。
財政、統治という点では優れた政治組織だったと思う。
そうでないと約270年も続かないよね。
問題は封建制や身分社会だったということ。 徳川が戦国時代の次に明治維新みたいに全国の廃藩を成し遂げて成功してたら江戸幕府のまま近代化出来たかな 廃藩置県と産業革命により武家のブラック化が進む
外様への普請強制から幕府負担になって、出費抑制のため武家の大規模リストラが始まる
出勤日は1勤1休から4勤1休→半ドン+週休に、労働時間/日は4〜6時間から8時間以上へ
下級武家の副業は内職から工場労働になり過労死続出
町人商人の上司オーナーにブチ切れて無礼打ち→切腹者続出
お家断絶で娘は吉原、奥方は夜鷹
女衒に二束三文で買い叩かれる箱入り娘と奥方の悲劇は瓦版と浄瑠璃の定番となる >>123
アメリカと戦争してなくても戦後は国連指導のもと世界的に民主化の動き
世襲の軍事政権はどこも潰れている >>117
>>119
百姓と胡麻の油なんていつの時代の創作だよ
財の余らぬように不足なきようにだって柔軟に統治しろということに過ぎない >>125
近代国家を作るとなると、今まで民間に任せてた部分(司法、町村行政、徴税)
は国家負担になるし、軍事費も増大するから租税率はどのみち上がった
明治国家だろうが江戸幕府近代だろうがあまり変わりはない
ただ、政権の志向性はだいぶ違いそうだが
中国も共産党が山賊、国民党が腐敗というのはやっぱりDNA的なものがある >>129
胡麻と百姓略が創作というのが探しても出てこなかったのでよろしければソースお願いします
まあ天領の税は諸藩よりも軽かったみたいですが >>125
明治政府の滅茶苦茶な富国強兵やらなければ税金は安くすむからな
江戸幕府が続いていたら外征もせず、貧富の差も広がらないから第二次世界対戦も
東アジアは無関係で好景気を謳歌していたかもしれない まあどっちにしろ国境策定を巡ってロシアとは事を構えてただろうけどね
実際文化露寇では戦闘が起こってるし(約一世紀後の日露戦争とは異なり一方的にボコられて終わりだったけど) おれなんか農家の次男に生まれて、
江戸へ流れて無宿人、餓死してたろうな 江戸幕府の存続の条件をどうするかによっても変わってくるだろうな
将軍は誰なのか、雄藩との折衝はどうするのか、列強との交渉にはどうあたるのか等々 それはもはや幕府ではない
慶喜の次以降、並の人物が大君になったら、もたない そんな世襲君主あるあるで何を指摘した気になってるんだ 世襲君主だってさw
>>136を見られないひとかな >>136 遅かれ早かれ明治維新以上の革命で倒されそうで怖い 抑えても燻り続ける攘夷派が脅威になり続ける
彼らの大義名分が薄まる組織表でなければダメだね NHKの歴史ヒストリアを見てたら、越前の橋本左内が若くして未来を構想してた
独立を保つために満州あたりや朝鮮を併せ持つ必要がある
将来は盟主の元、国々が同盟をすることになろう‥
先ずは、将軍継嗣に一番賢そうな一橋慶喜を持ってくる事を画策、障碍となる大老井伊直弼の失脚を目指したらバレてしまって斬首されてしまった >>137
スレタイからは外れてしまうにせよ
「幕府」以外を想定してはならない必然的な理由でもあるのか? スレタイに沿わずに自由に好き勝手に書いてたら
ほーかいだな >>142
>障碍となる大老井伊直弼の失脚を目指したらバレてしまって斬首されてしまった
福澤諭吉が明治維新後も政府に入ろうとせず、生涯民間で活動し続けたのは、
適塾同門の左内のこの悲劇を目の当たりにしたからかな?
下手に政治に関わると碌なことがないと考えた?
共に大阪の適塾で学び、英才と讃えられた同い年の福澤諭吉と橋本左内
福澤諭吉(1834〜1901)
橋本左内(1834〜1859)
左内は1859年に井伊直弼の安政の大獄に連座して斬首されたが、片や、諭吉はその前年(1858)
に江戸に出て、慶応義塾の前身の洋学塾を開き、以後40年あまりにわたって近代日本のために
数多くの人材を育成し、著述や新聞発行等によって国民を啓蒙し、指導し、日本社会の進むべき
道筋を照らし続けた。
対照的な人生だったね。
素晴らしい才能を持ちながら、若くして非業の死を遂げた左内が本当にかわいそうだ! >>143-144
1だけど「江戸幕府」を厳密に定義した上でスレ立てしたわけじゃないから徳川政権であれば別に構わない 安政の大獄で連座した者は100名を数えるが、そのうち死んでしまったのは斬罪7名、切腹1名、獄死6名である
橋本左内は井伊大老に取って大変な危険人物なので死刑となったが、同じく大獄で捕まっていた吉田松陰はとても死罪になるような嫌疑ではなかった
ところが本人が問われてもいない老中暗殺の企てを自分のほうから滔々としゃべって見せたので、ならなくてもよい死罪になってしまった >>147
何となく井伊直弼を擁護しようとの気配が感じられるレスだが、客観的に見て、己の権力を維持し、
徳川幕府を延命させるために吉田松陰と橋本左内という日本の近代化の先まで見通していた二人
の若い天才的学者をはじめ、梅田雲浜、頼三樹三郎など多くの若い志士を殺した罪は時代に逆行
する悪逆非道との非難は免れないだろう。 江戸時代は九州と四国と本州と北海道が
橋やトンネルで繋がってなかっただろうから
九州から本州、四国から本州、北海道から本州に行ける者がかなり少なくなっていたと思う
そもそも江戸時代に生きていた人間は
九州、四国、本州、北海道に日本が分かれていた事を知っていた者はかなり少なそう 九州四国の大名は、参勤交代時は大坂まで船、大坂から江戸まで陸路
北前船が物資を運搬
紀伊国屋文左衛門 今、大河ドラマをみていると、西郷どんは京都、江戸、長州、鹿児島とめまぐるしく移動している
ありゃ薩摩の蒸気船(軍艦)に乗って移動しているのか 橋本左内は越前藩の一藩士。
彼一人で大老を失脚させることなど無理な話しだ。
大老失脚は越前藩主松平春嶽や水戸藩主徳川斉昭、薩摩藩士島津斉彬らが画策したことなんだろう。
結果左内一身に背負わされたことなんじゃない? 殿様のバックアップを受けて企画立案と関係各位との交渉を行っていた志士は多い
左内、西郷、大久保、桂etc トピック
主権 天皇及び大君 主権=天皇大権の内容と主権代行者との関係
皇室 主権者の再生産に関する諸制度
貴族 堂上と諸大名にまつわる諸制度
統帥 軍隊の編制等に関する諸制度
国民 権利と義務 身分制度
議会 立法権 選挙権と被選挙権
政府 執行権及び行政各部の諸制度
司法 司法権及び裁判制度
財政 予算・会計にまつわる議会と政府の関係
地方 禁裏及び公儀御料、大名領分、公家寺社旗本知行所の自治権と秩禄
これらトピックがタイムラインに応じてどう変化していくか 大君は英語でTycoonと言うが、これはTyphoon(台風)の影響があるな 皇族とか貴族とか身分の制度は近世的なものが大分持ち越されるだろうね
皇室典範的な皇族制度とか旧来の家格を無視した華族(爵位)制度とか
ただ名目上は帝国となりそうだから親王は大臣の上座になりそうだし
被差別民も名目上ながらも平民化しそう
陪臣や庶民からの役職取り立ては激化するだろう
ただし新華族の取り立てはかなり厳しくなりそう(閣僚級になってやっと男爵とか) >>157
×皇室典範的な皇族制度とか旧来の家格を無視した華族(爵位)制度とか
○皇室典範的な皇族制度とか旧来の家格を無視した華族(爵位)制度とかはなさそう 幕府が政府なんだって。徳川公儀下の政府なんだって。
明治の御代に突如、政府が樹立した訳ではない。 逆説的に明治維新とやらのおかげで、日本は近代化した、と言いたいのだろうけど、
社会構造についてはそんなに変わらなかったと思われる。一朝一夕で変わるものではない。 >>155
真面目に考えたら近世という時代を総括しつつ近代化の過程を再検討していかなきゃならなさそう 明治維新がなく、江戸幕府が存続していたら、日本は「清」のようになっていたと思う。
日本幕府軍は、士官や将校は武士出身で兵卒は百姓や町人という帝政ロシア軍みたいな
編成の軍隊にになっていただろう。
そして、極東に進出してきた西洋列強の近代的軍隊と戦って敗れ、植民地にされるか、少なくとも
国土の一部をもぎ取られていただろう。ちょうど清国のように。
史実では、 「清」は”眠れる獅子”と畏敬されていたが、日清戦争で近代化国民国家日本に敗れ、
国全体の前近代的実態が暴露された。
日本は明治維新によって近代国民国家に脱皮したのがその後の国家発展の礎となった。 >>164
(誤)近代化国民国家 ➡ (正)近代国民国家 有能な人材を登用する制度がない
幕府直臣以外は活躍できない 明治維新をどの観点から見るかによって、単なる権力の争奪戦と考える(>>168)少数派の
人たちもいれば、日本を封建体制から近代国民国家へと変革した革命と捉える多数派の
人たちもいる。
両者が議論して合意を得ることは困難のようなので、世界の色々な情報を漁ってみよう。
先ず、同時期に起こった他国の内戦(市民戦争)と比較しよう。
@日本の明治維新(戊辰戦争含む。1868年〜69年)とアメリカ合衆国の南北戦争(1861年
〜65年)との比較:
アメリカの「南北戦争(American Civil War)」(1861〜1865)は農業を産業基盤とする南部州と
工業を基盤とする北部州の争いだったが、参戦兵士数は400万人で、戦死者は62万人、うち
北軍が36万人、南軍が26万人に達した。
一方、明治維新では戊辰戦争(鳥羽伏見の戦い→江戸城開城→上野彰義隊戦争→会津戦争
→五稜郭の戦い、1868〜1869)での全戦死者数は1万人以下だ。
・日本の尊王攘夷派 ⇔ アメリカの北軍(合衆国連邦)
・日本の佐幕派 ⇔ アメリカの南軍(南部連合)
明治維新は世界でも最もうまくソフトランディングに成功した革命又は市民戦争の一つといえる。 >>168
藩閥政治も問題あるけど
一応日本で優秀な人材を起用してたから藩閥として成り立ち機能した 幕末の幕府ほど身分を超えて有能な人材を登用したところは当時他にない
その点諸藩の方がむしろ因循
元々小禄の旗本や御家人層(惣領・伜や厄介も含む)から勘定・代官・右筆職域を経由した布衣以上の高官への登用は珍しくないし
そもそも養子や御家人株の取得による幕臣身分の獲得がそれほど難しくないことは周知
幕末になると外国方や海陸軍での登用がドラスティックに増加している
寛政年間で5200家ほどの旗本がそこから50年程で6000家にまで増加
御家人だと1万数千家から2万にまで増えている
人物を挙げれば小禄旗本からだと勝海舟
御家人からだと川路聖謨、井上清直、榎本武揚
幕臣以外からだと緒方洪庵、大村益次郎、福沢諭吉、西周、津田真道、加藤弘之、渋沢栄一、大鳥圭介、前島密などが登用されている 代官というと悪代官というのがお芝居での定番だが、実際は布政の模範として人格・識見の確かな人物をあてていたという
また、幕府にも優秀な人材は数多く、外国情報の分析や条約交渉なんかでも活躍してた
(岩瀬忠震とか)
ただ、旗本は役立たずになってしまったということで、伝習隊というフランス仕込みの幕府歩兵を養成した 前にもあったけど
天領での徳川幕府の年貢=租税は安い
つまり安い税金では列強諸国と対抗出来る軍事力は整備出来なかったということ >>171
幕府による人材登用の例として挙げてよいのは、幕府の方針に賛同して幕府のために、又は
日本のために歴史的功績を上げたり、歴史に残る貢献をした人物だけだろう。
この基準に照らしてみると、大阪の適塾関係者(緒方洪庵、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介)
、特に緒方、大村、福沢の3人は日本史に残る不朽の功績を残した人たちだが、幕府との関係
で見ると、ほんの一時期、幕府の組織に身を置いただけで、すぐに幕府から離れている。
この偉人たちを幕府による人材登用の例として挙げるのはふさわしくないと思う。
>>171で名前の上がっている他の偉人たちも同様にその生涯をきちんと調べる必要がある。 >>175
「幕府側の」人材登用の話で、何故「登用される側の」主観的な「賛同」だの「生涯」だのを後知恵的に考慮する必要があるのか?
君が言っているのは、求人側の人事政策を評価する為には、応募側が主観的に、しかも生涯に亘ってどう考えていたかを基準にしなければならない、という完全にナンセンスな主張だ
幕府が存続していたとしても結局その人物たちは幕府をほっぽりだしていたであろう、とでも必然的に想定できると言うのかね?
挙げた中で幕府で非常勤の立場だったのは大村だけで
緒方洪庵は法眼奥医師という高官(布衣以上御役人)として死んでいるし
福澤も江戸開城まで御目見以上の身分の幕臣(旗本)
大鳥は言わずもがな
そもそも「歴史的功績」などと称して恣意的個人的主観的な基準を恥ずかしげもなく適用し、適塾関係者以外を安易に排除できる神経がおぞましい
君に必要なのは恥を知ること、判断の平衡を獲得し知識不足を解消する為に謙虚に学習することだ
まず江戸幕府について少しは勉強しなさい ここは学問板なんだからもう少し冷静に書き込めばいいと思うよ
5ちゃんの古い伝統といえばそれまでだけど 薩長が攘夷を叫んで英国に喧嘩を売るなど過激に突出するのを見て、佐賀が佐幕派となったことが大きかった
佐賀の武力には薩長も迂闊に手は出せなくなったのだ
こうして日本史は徳川による政治改革と近代化へと舵を切ったのだった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています