伊都国東遷スレ 10
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1、魏志にある邪馬台国は「ヤマト」であり、倭王権の基礎となった。
2、ただし、その女王、「ヒミコ(日巫女)」とは伊都国の関係者である。
3、平原一号墓の巫女王は、東遷前の先代のものであり、銅鏡による太陽祭祀を主宰する「日巫女」の墓として、最もふさわしい。
<ポイント>
・記紀の伝承がおおむね歴史的事実の反映であることが視野に入ってくる
・唐古、鍵と纏向の間にある文化的断絶(銅鐸祭祀断絶と銅鏡祭祀開始)を伊都国勢力の進入から説明できる
柳田康雄先生の考え方(仮説)に基本的に一致しています。
<参考 URL >
歴史秘話ヒストリア 「女王卑弥呼はどこから来た?」
http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/204.html
柳田康雄 「伊都国を掘る」2000年
http://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784479840541
柳田康雄 「 弥生王権論 伊都国からヤマト国へ」 2016年
http://www.city.itoshima.lg.jp/m043/010/040/070/030/kankotosyo.html 「おまえ」とひらがな書きで無礼な二人称を使い、
掲示板ではむしろ珍しい必ず句点「。」を付ける書き方
そして、自分の矛楯を指摘されると無用な中傷に走る
まあ同じ人じゃないというならそういうことにしといてもいいけど、
それだけ九州説、伊都国説には性格破綻者が多いってことだな
ザラコク
伊都くず
お鏡さん
「キナイコシ」
連続句読点
これを5人というのと同じなんだろうけどw 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. まあ、態度が悪く議論する能力がない人間という点で一致していれば、
区別する必要もないがね このスレのスレ主はお鏡さんだろ?ww
キウス
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. このままグダグダで終わるも嫌ので、きっちり整理しておきましょう。FAQ30の件です。
「以」「已」の通用があったのは、下記二点の実例があります。
1. 魏志 今権以死、託孤於諸葛恪 (第二十一傅嘏傳)
2. 百衲本の「陸績伝」にある「従今巳去」の「巳」が、古本では「以」につくられている
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/kohon.htm
内藤湖南も藤堂明保も二文字を通用させて魏志倭人伝を読んでいます。藤堂明保監修の倭国伝では、下記通りに訳しています。
「使者の張政が到着した時は、卑弥呼はもう死んでいて、大規模に直径百余歩の塚を作っていた」
これのどこが「時系列を逆転させた解釈」なのか私には意味不明の指摘としか言いようがありません。
「すでに」と意味をとる以上、「張政が到着した時は、卑弥呼はもう死んでいた」のです。
張政が正始八年に到着したとは限らないとの指摘ですが、例えそうであったとしても、倭国の救援の依頼に対応して、張政を派遣している以上、
長くても翌年ぐらいまでの話で、その時点で卑弥呼は死んでいた、ということになります。
ここまでの話は、下記HPにまずまずまとまっていると思います。
https://blogs.yahoo.co.jp/kuwx1167/37759141.html では、「以」を「已」と通用させること自体が「特殊な解釈」で、「以」は、「因」の意味に解することが通常である、という主張はどうでしょうか?
私はこれも大きな間違いと思います。 「以」を「已」の通用が決して特殊なものでないことは、すでに示しました。
では、「因」の意味に解することは、どうでしょうか? 私は、これは漢文文法上の解釈に問題がある読みだと思います。
FAQ30では、「因」の例に解すべき用例として下記三つが例示されています。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書) 「彪以疾罷」(後漢書楊彪)
そして、これらの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」と読むのが順当ありますが、これらの3つ例文と「卑弥呼以死大作冢」とは、全く構造が違うからです。
これらの3つの例では、「以」が導く句を抜いても、そのまま主語術語の関係が維持されています。
「田豐 見誅」「騭 免」「彪 罷」
田豐は誅殺され、歩騭と楊彪は、罷免されていますね。 対して卑弥呼はどうでしょうか?
「卑弥呼 大作冢」
もちろん、卑弥呼が冢を作ったわけではありません。文の構成が、3つの例示のある「(主格)以(原因)→(結果)」と読みと、「卑弥呼以死大作冢」とは、文の構造が違います。つまり「因」の意味では取れないということです。
以上、FAQ30への反論でした。
箸墓の年代観と無理に合わせようとして、いかにももっともらしく間違ってことが書かれてますね。
*****
岡上メモ:流れないように記録しておきます。 勝手にいちゃもんを付けに来て、勝手に論破されて、それなのに勝利宣言ww ヒストリア、最後の方ひどいもんでしたね。
師升が近畿で銅鐸文化圏とか、伊勢遺跡で卑弥呼共立とか。
まぁちょっと、この程度でホッとした気持ちもなくはないですね。
柳田ー寺澤先生の線で、もう決まりと思うんですけど、
その辺の判断ができない編集というのがよくわかりました。 ウソガ ∧_∧⌒∧_∧
バレルニダ /<#`д´> <`д´#> 、ヤバイニダ
(∧_∧ ) ( ∧_∧ノ
ソース < #`д>∧_∧д´#>
ナイニダ (O (^< と_ O) 感情的ニ
ノ ) )`( ノ ( ( 受ケ入レラレナイニダ
(__)_) | O |,__)_)
(__|__)
|
\ __ /
_ (m) _ピコーン
|ミ|
/ `´ \ 日本ガ悪イニ決マッテルニダ!
∧_∧⌒∧_∧
/<丶`∀´> <`∀´ > 、
(∧_∧ ) ( ∧_∧ノ
< `∀>∧_∧∀´ >.
(O (^< と_ O)
ノ ) )`( ノ ( (
〈__フ__フ| O |,__〉_〉.
〈__|__〉 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜のだろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「が妥当」と逃げまどう
それがキナイコシ(主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
別名も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量がない
そして追い詰められると様々なスレを渡り歩いて逃げ回るスタイル 邪馬台国は伊都国でいいが
東遷したのは邪馬台国でなく倭国九州連合であり
その首長は邪馬台国の王では無い >>522
それでは魏志倭人伝の記述に反することになるから却下 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン(猿芝居ではカモ先生)
海人族スレでは摂津チョン
などスレ毎の呼称も存在する
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹いて
様々なスレを逃げ回り、あらためて妄想を書きなぐる _人人人人人人人人人人人人人人人_
> チョンコロがいるぞ殺せ!! <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
倭人
三 ( ´・ω)
三 ー(‐∪─→
三 / ̄ ̄ ̄ 》  ̄\
三三 | ナウマン象U ・ | 死にたくないニダ!!!
三 と| ι| | 三┏<;`Д´ >┛
三 /_∧∨ ̄ ̄/_∧U 三 ┛ ┓ | []_]∧∧
| | |/ 支\
| ( `ハ´) < 餌の時間アル
| ヽ( つと)
|ブリ || (ヽ ) ) ( ̄◎
| ブリッ )し'し' |~~~|
| ⊆=⊇  ̄゛
 ̄ ̄ ̄| | ̄ ̄ ̄ ̄
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ホルホルホル ♪ ̄ ̄ ̄; :  ̄ ̄|
|. ∧_,,∧ .人. |
| <ヽ`∀´> (__) .....|
|:::(つ= ) \ /:::::::|
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待ちわびたニダ♪ 何の根拠もなく「存在が証明できないのだ。」とうめき
妄想フルスロットルで「〜だろう。」と断定したがる
識者らに追い詰められると「〜が妥当。」などとホラを吹いて逃げまどう
しばらくすると記憶喪失で再び同じ思い込みを延々とコピペする
それが キ ナ イ コ シ (主に邪馬台国・神代関連スレでの呼び名)
蔑称も多くあり、半島関連スレでは無能ヒトモドキと呼ばれ
高天原スレではカマチョン、海人族スレでは摂津チョンコ
最近では奥山と呼ばれることもしばしば
特徴としては思い込みが強く、他説を聞き入れる耳がなく
また聞き止める度量もない
そして追い詰められるとテキトーなホラを吹き、様々なスレを逃げ回る
そして突如として別キャラでネチネチと書き殴ることも少なくない
しばらくすると記憶喪失を発動させて懲りずに妄想を書きなぐるが、読解力に乏しく、
また思考に一貫性がないのでアルツハイマーの可能性が高い >>536
平原1号墓に先行する平原5号墓をどうして無視するの?
平原5号墓にも大柱が存在するし、二の鳥居はむしろ、5号墓および5号墓の大柱と正対している
平原5号墓の大柱の指す向きは1号墓の指す向きとは関係ない方向を指している
そして、1号墓と大柱の延長には10月20日線とか言う前に異形建物と呼ばれる小さな建物跡がある
https://i.imgur.com/2USE18b.gif
この「墳丘墓+大柱+小建物」のセットは、吉野ヶ里遺跡北墳丘墓でもセットで存在する
吉野ヶ里遺跡ではこの「墳丘墓+大柱+祀堂」の指す直線は南北に近い方向で日の出の向きとは無関係
そして、吉野ヶ里遺跡ではこの方向にかつて南墳丘墓と呼ばれた祭壇がある
https://i.imgur.com/onevOje.jpg
と、ここまで書いてきたところで、1の鳥居、2の鳥居と呼ばれているものは、
5号墓に対する異形建物でよいことに気づいた
まあ、思い付きを文にまとめたところで、歴史の真実には迫れないよw >>537
レスありがとう。
的外れの批評というのは、そんなに嬉しくもないですけど。
まぁ論考はマイペースでやってますんで。 伊都国、怡土村、これが「いと」と読むのは確定なんだっけ?「いつ」「いつ(ち)」という可能性はないの? .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. >543
仲哀天皇紀に伊覩県主、五十迹手の話があるから、伊覩の表記が古いとすると、
やっぱり「いと」「いつ」が古い読みかな?
「怡土」になったのは、恐らく和銅六年の好字令からで、
本来的な読みで「いつち」というのは無さそう。 伊都
伊豆
和泉
出雲
伊勢
イs
イz
この共通性ブキミ (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。
言い換えれば伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国。 諸国の一つという部分が、魏志倭人伝にないお前の願望。 >>553
文盲過ぎる
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。 徳川家康は江戸を治めて、同時に全国を支配した。
大率は伊都を治めて、同時に対馬海峡を支配した。 伊都の大率が女王国(福岡県)の北方である対馬海峡を検察し、対馬や壱岐などいく先々で皆が大率に平伏している様子を郡使が目撃したのだろうね。
女王国の南側はというと、狗奴国(熊本県)と対立する軍事地域だったので、郡使は話だけ聞いて詳しくはない。
福岡から西や東はわざわざ行く価値もなかったので、詳細不明で済ませたわけだ。 >>557
一大率は女王国の北限に勤務
業務内容は伊都国を含む諸国の監督 伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない
原文
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”
和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。
結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。
よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。
女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。
倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。
「刺史」・・・地方を検察する官僚
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職 >>559
常治伊都國の誤読ですな。
伊都國で執務していた、が正解です。
>>560
正解 >>561
理由なしで「オレ様正解」って馬鹿の見本を展示中 伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
反論したけりゃ感情論抜きで明確な根拠を示さねばならない
原文
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”
和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。
結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。
よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。 >>563
言い張っても無駄。
常治伊都國の誤読ですな。
伊都國で執務していた、が正解です。 >>564
言い張ってるのはお前だけだぞ糸チョンコwww >>565
違う違う認めないと駄々をこねているのはお前だけだぞ、キナイコシ >>567
伊都国に関する魏志倭人伝の解釈は↓で正解だよ
反論したけりゃ明確な根拠を示さねばならない
原文
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”
和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。
根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
統治されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國の一つ。
結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を統治しているということ。
よって伊都ファンや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても伊都国は女王国にはなり得ない。 伊都国の内情
原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
書き下し文:
”官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。
千余戸有り。
世王有り。
皆女王国に統属す。
郡使往来し常に駐する所。”
現代文:
官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。
(人口は)千余戸ある。
代々の王がいる。
みな女王国に従属している。
(帯方)郡の使者が往来し、常に留まる所である。
解説:
三国志の記述では前節が後節に掛かっているので、
女王国に従属している「皆」は爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指す。
つまり、伊都国の王も役人も住民も女王国の臣民である証明である。
また三国志における魏代の刺史は官と同義であるため、すでに伊都国には爾支という官が務めているのだから
魏の刺史(=官)と同等の一大率は伊都国の役人でないことは明白。
つまり、一大率は女王国か直属の役人であり、伊都国には属していない証明である。
結論:
よって伊都キチや糸チョン、キナイチョンが屁理屈を並べても
伊都国は女王国ではなく、女王国に従属する諸国の一つであり、
一大率は伊都国には存在せず、女王国の北限で伊都国を監視する女王国の役人である。 >>569
意味不明な勝手ルール
そもそも、前から後ろにかからない文章ってなんだ?
中国人が返り点打ちながら読んでいるとでも思っているのか?
キナイコシが漢文を読めない無能だと露見したレスw 自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
女王国よりも北と書かれているのに、北部と曲解詐欺
諸国がこれを恐れると書かれているのに、伊都国から常に動かないという、矛盾ゴリ押し詐欺
刺史の本来の姿は、首都から派遣されて諸国を検察して回ることが主目的だったし、倭人伝にもそう書かれているのに、それを吟味することなくチェリーピック詐欺 自女王國以北で論点になるのは、女王国が含まれるか含まれないかであって、
女王国よりも北方にある諸国はどちらにせよ含まれる。 >>570
反論があるなら指摘は具体的に
相手の投稿のどの箇所の何をどういう理由で批判してるか書かないと
今のままでは、ただのヤジ
>>574
相変わらず、>>572とかには反論せずに、
他愛もないレスだけチェリーピックして絡んで誤魔化してんだな惨めなキナイコシ 伊都国には官(中央から任命される支配官)の爾支が既にいるから、刺史も支配官だとバッティングしてしまう。
だからこの場合の有如刺史とは、刺史本来の検察官としての機能のことであって、書かれている業務内容もそうなっている。
中国での刺史は600石程度の地方官に過ぎず、常に伊都国を治めているのなら、刺史の機能上、他の諸国は無関係でこれを恐れる必要はない。
刺史が首都の伊都に常設オフィスを構えて(=常治伊都國)、そこから北の諸国を検察して回る本来の検察官として機能しているからこそ諸国がこれを恐れるのであって、
じゃあ伊都国より北の諸国ってどこよとなると、壱岐対馬のたった2つの監視態勢の説明のためにここまで字数は使わんだろうから、
それだと狗邪韓国などと中心とした投馬国のことになるじゃん、だから反日キナイコシは気が触れたように間違いだらけコピペを連打して精神の安定を何とか保とうとしているのだった。 >>575
>相変わらず、>>572とかには反論せずに、
? >>572って馬鹿だろ?
誰も話しかけてるのか他人に理解できない文章書いてるから相手にされないだけ >>578
そうだね。
だから、常治伊都國と刺史と若干異なる部分を説明している。 >>573など根本的な間違いに答えられないキナイコシw長文ご講釈の出だしから間違ってるじゃんw 三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ
「刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた」
つまり、刺史は地方にとどまっているわけではない。
本拠地は都に置かれていた。
倭国の場合、伊都に大率がおかれ北方を検察して畏怖されており、刺史のようだと書かれている。 >>581
歪曲はダメ
そんなこと書いてないじゃね? 伊都国を政治的に支配してたら、如州牧と書くだろ。機内腰はバカだなぁ。 >>583
誰と話をしようとしてるのか不明で、内容も意味不明
コミュ障のひと? この内容で理解出来ないのが、バカの証拠だよ。刺史と州牧の差を考えろよ 無能&無知が理解できるように書き直すと
伊都国についての原文:
「官日爾支 副日泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐」
伊都国についての書き下し文:
”官は爾支、副(官)は泄謨觚、柄渠觚。千余戸有り。世王有り。皆女王國に統属す。郡使往来し常に駐する所。”
伊都国についての現代文:
官は爾支、副官は泄謨觚と柄渠觚である。(人口は)千余戸ある。代々の王がいる。(これらは)みな女王国に従属している。(帯方)郡の使者が往来し、常に留まる所である。
一大率についての原文:
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
一大率についての書き下し文:
”女王國より以北に一大率を置き特に検察す。諸國は之れを畏れ憚る。常に伊都國を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”
一大率についての現代文:
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。(一大率とは魏の)官と同職のようである。
解説:
まず、三国志の漢文は前節が後節に掛かるので、
女王國に従属している「皆」は爾支、泄謨觚、柄渠觚、千余戸の民、王を指しているので、伊都国の王も役人も住民も女王国の臣民である。
そして、諸國が畏れているのは一大率の事であり、伊都國は前節の諸國の一つである。
また、三国志における魏代の刺史は官と同義なので、
伊都国には爾支という官が存在している=官と同職の一大率は伊都国の役人ではなく、外部監察官である。
結論:
伊都キチや糸クズ、キナイコシがいかに駄々をこねで強弁しようとも、
伊都国は女王国に従属する諸国の一つであり、女王国にはなりえないのは明白であり、
一大率は伊都国には存在せず、女王国の北限で伊都国を監視する女王国の役人である。 まぁ伊都国は女王国ではないにせよ、貿易入管を一手に担う国として、倭国にとって重要であることに変わりはないわな。 >>585
まったく反論できない九州説って
そこまで無能なの? >>588
理解力のなさとマトモな教育をしてくれなかった親を恨んで生きていきなよ >>589
そんなふうに、まったく反論できなくなって
相手を口不汚く罵るだけになったら
九州説は死んだってこと
皆にわかるんだよ
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