神武・倭国の連合東遷説
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神武・倭国の連合東遷説とは 神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。 東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。 【連合東遷説の定義その1】 定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 >>106 >長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 龍についての情報、ありがとうございます。 勉強になります。 豊玉彦命を突然、竜王の名で呼ぶことはないと思われ、その背景に龍についての古い文化があり、 それが文字とともに当時、すでに伝わってきていたのかもしれないと考えました、 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >邪馬台国東遷説 その1より >262 :日本@名無史さん:2013/06/01(土) 20:27:25.05 畿内説は妄想だが、東遷説はそれ以上に酷いトンデモ 軍事的に100%ありえない 母国の支配が及んでない地域に遠征軍を派遣して何年間も過ごし遥か離れた場所にある適地を攻略できたことなど人類史上1度もない 日本だけでなく世界中探してもない 補給路を断たれて囲まれたら全滅するから東遷説を主張してるやつらはこのあえりないことをどうやって乗り越えたか絶対に答えようとしない 東遷説をトンデモと表現する方が時々見えるが、記紀は神武が最後まで生き残ったので、神武の記述が多い。 他の兄弟の部隊の行動は省くか、よく伝わっていなかった可能性があります。 上記では軍事的に100%ありえないとしている。 そんなことはありません。 日本書紀では吉備に3年とどまり兵器や糧食を蓄えたと記している。 吉備は国生みの際、伊邪那美が亡くなると伊邪那岐が向かった開拓地で倭国の一部だったと思われます。 兵站のことは十分に計画しています。 取り囲まれないよう、丹波も熊野、四国も事前に遠征してこと向けしていたことが、同名同種の山の記録で見えています。 世界に前例のない東遷をやってのけているのです。 豊受大神の高天原を捨て、女王の位も捨てた覚悟を思いやってください。 ひたすら国を想い、身を捨て天照大御神に仕えています。 大宰府天満宮に残る「翰苑」では、「 臺与幼歯方諧衆望」と記しています。 臺與(だいよ)は幼歯(ようし)にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 記紀にあるのはそもそも東遷ではなく東征ですよ。 あと、神武が出発したのは高天原ではなく、筑紫です。 高天原から筑紫へはニニギの代で遷都しています。 >邪馬台国東遷説 その2より >908 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN >>902 ・日本列島は地殻変動によって陸地が大陸から切り離され島になったのであって、イザナギとイザナミが創り出したのではない ・死後の世界も高天原とかいう天上界も存在しない ・ヤマタノオロチのような頭が8つもある生物は地球上に存在しない ・白兎は人間の言葉を話さない 記紀をそのまま信用したい人は信用すればいい おれは信憑性のない神話より現代科学を信用する 連合東遷説とやや外れるが述べる。 記紀は神話として記しているが、記述の中に科学があると考える。 因幡の白兎は、大陸から伝わった伝承ではないことを発見した。 白兎の形をした波を、白兎海岸で見つけた。 白兎海岸の西端に気多の岬がある。 その岬の先80mに淤岐ノ島があって、白兎は隠岐の島から鰐の背伝いで渡ってきたのではない。 気多の岬と淤岐ノ島間の水面下に、テーブル条の岩群れがあって、それを鰐と言っているようだ。 沖からやってきた波は、淤岐ノ島で左右にわかれ、岬側を進んだ波はうねりのまま、岬で跳ね返され岩群れの上を越えて砂浜の海岸に進んでいた。 淤岐ノ島で砂浜側に進んだ波は、白波がたった状態で浜に進んでいた。 そこへ、岬側からの波があたり、波頭が後ろ側に倒れ、兎の耳の形に見えた。 二つの波が、水面下の岩群れの上で干渉し、白兎の形に見える自然現象だった。 このことが、因幡の白兎誕生のきっかけだった。 1800年ほど前の自然現象が、運が良ければ今も見ることができる。 是非、この感動を味わってほしい。歴史研究は感動があるから楽しい! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 イザナギとイザナミが国土を作ったというのは、征服して領土を獲得したという意味だよ。 何しろ使った道具が武器である矛だからね。 銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島から国産みが始まる。 >>114 レスありがとうございます。 いろいろな意見があって良いので、否定するわけではないですが、私の意見を述べます。 古事記の「国土の修理固成」の段に登場する矛は、イザナキ、イザナミが国生みにのため、船の航海で使用する櫂を神々から賜ったことを、当時の矛にたとえた表現と考えています。 出発地が博多湾であることは、同意見です。 具体的出発地は、小呂島(おろのしま)・能古島(のこのしま)を結んだ先が指し示す室見川河口と考えています。 出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 >>115 >出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 ここは面白いね。 しかし能古島からは実際に矛も出土するから、櫂云々は蛇足だと思う。 >>115 面白いと思っていただきありがとうございます。 伊邪那岐。伊邪那美の名が、魏志倭人伝のクニ名から一文字とり、「別天つ神五柱」の神が名付けた名前と定義1で発表しています。 5柱の神々が話し合った場所は、志賀島の志賀海神社と考えています。 伊都国が最初なので、伊都国が格順が1位のクニで、邪馬台国は2位です。 これについて、次の発表をしています。 http://www.zenyamaren.org/yamaren20-054.pdf 興味があれば読んでください。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 神武天皇より前の神話はとりあえず世界の成り立ちと 皇室の由来について適当な辻褄合わせの説明ではないのかな? 出雲とか日向みたいな地名が出ているものはともかく 国産みみたいな神話の中にどれだけ歴史上の出来事が読み取れる んでしょう??神話の神々は実在した人物なのですか? 神武天皇から欠史八代はあくまでも天皇家の開祖についての 伝承で、四道将軍の派遣についての記述がある崇神天皇から 事実上の初代天皇じゃないのかな。景行天皇の時代になると 東国征伐の記事も現れる。蝦夷はそれまで一度も王化に従った ことがなかった。神武が「残りのわざわいは根強いが畿内(うちつ くに)は平穏だ…とりあえず、宮殿を建てよう」と言っている 時点ではまだ大和政権の支配域は奈良盆地の外を出ていないはず。 「日本は旧(もと)小国で倭国の地を併せたり」という中国の記事 からすると、神武・倭国の連合東遷説には大いに疑問ありです。 >>120 実在しているよ、普通の一般人というの? だから認識できない 「本当に、この人が神なの?(だったの?)」みたいな感じ こういう作品なども、ほとんど同じでしょ 『ボーボボ』・・・その他、 だから「神」を知っている人がいるという意味 探偵eyeというドラマがあったでしょ? 主人公が出てきて、なぜか「りん、りん」と言っていたり、 妹の子供の名前と同じ 主人公の名前も、 某ゲーム内に作成したキャラ名と同じ、 妹ではなくモレ(仮)が作成したキャラなんだけど あと、もれ(仮)の本当の名前・・・ 『松傾』 こういう名前の家 松の木の立てられている写真、 キュウリの葉、葱の華などが写っている写真も持っていたり これが家:兄弟妹(5月15日生まれ) ↓ 一般人なので名前などは書かないけど、 兄弟の弟のほうと結婚した もれ(仮)の家も一般人なんだけど 『もののけ姫』? 左目を射られた生物がいるでしょ、 神様?だと言っていたり そういう話じゃなかった? 『ハーン』 (小泉八雲)という人物がいるでしょ、wikiなどを読んでみて 左目が何やらと書いてない? 家に凄い刀(謎の刀、剣?)が飾ってあって、 銀という名前だったかな〜・・・、という親戚がいたという話も同じだし 伊達郡、東北地方(日本の東北)のほうに住んでいた事があるとも言っていたし、 アイヌ、エミシ(不明)関係? 川俣町が何やらとか よく考えてみると、おかしな話 百済から渡ってきた鏡、鏡の精。 この鏡を私(不明)だと思って、祀りなさいという話じゃなかった? それにしても、どういう話なんだろう 『雲外鏡』『紫の鏡』とか >>120 いろいろな考えがあってもよいのですが、ずいぶん古い観念の記紀の理解と思われます。 罵倒がはびこるこの掲示板の世界でも、研究は日々進んでいて少しずつ前進していると考えています。 私の研究では古代人は、文字が不自由な中でも大事な国の成り立ちを記録する工夫をしていたことが分かりました。 日本書紀が記す多くの一書もその一つです。 別天つ神五柱の神々の名づけの工夫もその痕跡です。 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場するクニから一文字づつ採って名付けていたこともその一つです。 日本に多くある、同名・同種の山の配置もその工夫の跡です。 地名にも工夫の跡が見られます。 考古学は記紀を無視して日本の成り立ちを描くことは不可能ながら、記紀の神代を証明することは可能と考えます。 AIに先を越されて、がっかりしないよう日本人の手で日本誕生の経緯を解明したいものです。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . > 邪馬台国東遷説 その2より 967 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN 歴史が書かれた文献を信用しないのなら、歴史の検証なんてしようがない。 大体神話は内容を検証するのではなく、書かれた背景を検証するものなのは言うまでもない事。 重要なのは国生みが淡路島を念頭に描いてあるという事実で、イザナギイザナミがSEXする事じゃないw 968 :日本@名無史さん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN いずれにせよ日本書紀で邪馬台国東遷説は証明できないよ むしろ、考古学的成果から銅鐸文化圏と剣鉾文化圏とかで検討した方が賢明だ (ちょっと古いかな) >967 が述べるように記紀の記述をまず信用しないと、歴史の検討なんて成り立たないでしょう。 >968 が述べるように記紀の記述から邪馬台国東遷説を証明することはできません。 最近は、邪馬台国東遷とか伊都国東遷と個別のクニの東遷を議論しているが、北部九州にあった倭国が東遷し、大倭、大和となったので倭国の東遷のレベルで考えたい。 記紀は神武が倭国の伊都国王を継ぐものなので、倭国東遷を当然のこととして改まって記述せず、最後まで生き残った神武の逸話を主体に記述したものと思われます。 アー タノシーデスネー 長江の鬲wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RCL54jcK9b5z4Aih.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 邪馬台国東遷説」その3より 次の指摘があったので答えます。 15 :日本@名無史さん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN 邪馬台国東遷についてはいくつか考慮点が有る。最初に @ 東遷が有ったか否かだが、有ったとするならば A それは何時ごろ有ったか、 B 東遷する前の邪馬台 国はどの辺りに有ったか、 C どこへ東遷したのか、 D 東遷した根本的な理由は なぜだったか、 E 東遷のやり方はどんなやり方だったか、 E 東遷を推し進めた立役者はどんな人だったか、 このような疑問を解決していただきたい。 答え @ 倭国の都・邪馬台を奈良に遷した遷都があった。 A 台与が最後の遣使を行った265年の数年後、7年を要した遷都で、277年の酉年に神武が即位した。 B 東遷前の都は、現在の朝倉市にあった。旧上座郡、下座郡で高天原と称していた。 C 奈良県橿原市に、宮を置いた。 D いろいろな理由があったと思われるが、日本列島の領域を認識したうえで、中央に都をおく必要があった。 E 倭国各地から兵を募り神武兄弟の4部隊が、海上、陸所を進んだ。 西日本を隈なく言向けしてしてから奈良に入った。 F 神武兄弟と台与(豊受大神)が相談して、高天原の遷都を決めた。 高天原からはニニギが筑紫に遷都したんだよ。 神武は筑紫から大和に移動した。 記紀をもっときちんと読もうよ。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 邪馬台国東遷説」その3より 次の意見がありました。 >210 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN 熊本の阿蘇周辺の鉄鍛冶集落からの出土鉄器は鉄鏃に偏りすぎている 鉄剣、耕地開発のための鉄器が少なすぎる この状況は鉄鍛冶技術をもつ他の地域が、九州内での戦争に備え阿蘇周辺での製造が想定できる 私の意見 これはよく分析していると思います。 神武東征の高城隊は、狗奴国と決着の戦いをやっていて、勝利し次の大分での戦いに備えて阿蘇周辺で武器の準備をした考えています。 弓での戦いを想定し鉄鏃を多く製作したのでしょう。耕地作業の鉄器が少ないのは納得できます。 最後の一行の分析は、よく想定したと感心します。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>141 >邪馬台国との決戦に備えた狗奴国の鍛治 レスありがとうございます。 当然でてくる意見と考えます。 ところが、この遺跡群が神武東征軍の痕跡とする根拠があります。 東征隊は自分たちが神の遣い鳥と認識していたようで、足跡に鳥の尾をイメージした〇尾という地名を残していました。 調べると鉄遺跡名に狩尾遺跡、小倉付近には高津尾遺跡が見つかります。 有名な西弥護面遺跡は住宅地になっていて、遺跡は残っていませんが、その近くに高尾野入り口の地名があります。 狩尾遺跡付近で鉄原料のリモナイトを採掘した山の名が天神山といわれていました。 今は採掘し終わって平地になっています。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>143 鳥をトーテムとするのは当時の倭のほとんどの部族が行なっていたので、根拠としては低いかと思います。 >>145 東征隊は東征の足跡を、高尾山や多くの〇尾山で記録していて、〇尾の地名づけも一連の行動と考えています。 下図はその足跡記録です。 図28 高尾山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu28.jpg >>147 >>148 高尾山は、全国に高雄山・鷹尾山を含めて56あります。 西日本のたかお山は神武東征、東日本は日本武尊東征の足跡でした。 二つの東征は一連の建国の事業と認識していたことが分かります。 東京の高尾山は、横浜インタ付近の高尾山から繋がり、山梨の高尾山に続いています。 北陸に進んだ部隊の足跡で、福井の大野で終わっています。 秋田の高尾山は、酒田の鷹尾山との組み合わせで鳥海山を差しはさんでいます。 二つの東征で、日本列島が鳥の海となった認識を残したものと考えています。 神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。 >>150 神武は東京経由で秋田まで東征したのではないのかな。。。 日本武尊東征については、いろいろな説があります。 このスレッドと外れるので、深入りしません。 >>151 >秋田まで東征したのではないのかな 秋田まで東征したのなら津軽までいってる可能性大 平安時代の藤原保則が蝦夷討伐で 878年に東北出羽国の秋田柵で俘囚(帰属した蝦夷)たちが秋田柵城司に対して大規模な反乱を起してる 秋田柵城が焼かれて出羽に駐留していた朝廷の派遣軍勢では対応できないほどの反乱規模になってる 蝦夷の東北社会は集落が散財して大きな権力集中の見られないことが特徴とされてたが この秋田柵での反乱では米代川や八郎潟流域に及ぶ蝦夷住民勢力が大規模な行動を起こし 雄物川以北を蝦夷達の占有地とすることを朝廷側に強く要求。 朝廷から出羽権守として派遣された藤原保則は鎮守将軍小野春風とともに 軍事威圧を背景にして説得し、その策によってようやく蝦夷達による秋田柵の反乱の鎮圧に成功し 藤原保則の日記に 「これによって津軽より渡島(北海道)に至るまで、雑種の夷人、帰付せざるもの、皆ことごとく同化さす。」と記されてる。 >>152 >>151 >秋田まで東征したのではないのかな >>150 への呼びかけの誤りでは? 畿内を開拓した神である三島溝杭耳が、八咫烏に化けて筑紫から来た神武を助けに来たそうだ。 三島溝杭耳が筑紫からの尖兵であったことがよくわかる話だな。 三島溝杭耳の息子が、うっかり神武と戦ってしまって後に成敗された長髄彦であり、三島溝杭耳の孫が、神武の妃となるイスケヨリ姫である。 賀茂建角身命は三島溝咋耳命、陶津耳命の別名を持ち饒速日尊と同世代のようである。 伝承をまとめると以下のようになっている。 賀茂角身命一族は日向高千穂に住んでいたが、建角身命の代に神武東征の際、日向の山中で高皇産霊神からの天啓を受け、 神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導した。 これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を得た。 神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居したが、綏靖天皇に召しだされた。 妻は神伊可古夜日女で、氷上町の神野社に祭られている。 彼女との間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社に祀られ、その子賀茂別雷神は京都上賀茂神社に祀られている。 <賀茂始祖伝より> 賀茂建角身命が日向国の曾の峰(そのたけ)に降臨し、八咫烏に化身して神武天皇の東征を導いた後、奈良の葛木を経て、 山城国久我から鴨川をさかのぼって、現在の上賀茂神社がある愛宕郡の賀茂に移住してきたといわれる。 妻 伊可古夜日売(イカコヤヒメ)との間には、玉依日子(タマヨリヒコ)と玉依日売(タマヨリヒメ)が授けられた。 玉依日子は、後に、賀茂県主となる 玉依日売は、瀬見の小川で遊んでいたところに丹塗りの矢が流れてきたを拾い、床の間に飾っていたところ、懐妊したといわれる 生まれた男の子が成人した日、賀茂建角身命が、盛大な宴会を開き、「父親と思う者に盃を飲ませよ」と言ったところ、盃を天に向けて、天上に昇っていったといわれる。賀茂建角身命は、その子を「賀茂別雷大神」と名付けた。 丹塗りの矢は、火雷神(ホノイカズチノカミ)だったといわれる <山城国風土記逸文> 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 > 邪馬台国東遷説 その3より >214 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN この阿蘇周辺鍛冶遺跡の後に熊本県下ではもっとも早く、宇土半島の付け根、熊本平野の南端に畿内型の前方後円墳が造られ始めるんだよな そして、熊本市城南町、球磨〜南九州に分布する免田式土器が消滅する >220 :日本@名無史さん:2013/08/09(金) NY:AN:NY.AN 熊本も菊池川流域飛んで宇土半島はもとから北部九州の物流範囲だな 上記二つの見解は、神武・倭国の連合東遷説と符合します。 下図は定義12で載せた画像で、倭国は宇土地名で熊本平野の狗奴国を取り囲んでいました。 北部九州に残る祭礼「くんち」の分布と一致します。 図21 九州の宇都・宇土・鵜戸地名 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu21.jpg 宇土のの地名は、糸島市の日向峠の麓にある宇土に始まると思われます。 宇土半島付け根の畿内型前方後円墳は、連合東遷に参加した人が、東遷後奈良から故郷に戻り一帯を支配した人の墳墓と想定します。 北部九州や宮崎の古墳も皆、東遷から戻った人による築造と考えます。 庄内式土器が北部九州から東遷とともに、畿内に伝わったのか、 東遷から帰還した人が畿内から持ち帰り九州に伝えたのか結論は出たのでしょうか? >>160 その地図で宇土のある地域は 景行征西地域と全く一致する。 息長氏は宇土半島に領地があったという。 葦北国造の日羅 琳聖太子も一時期葦北にいて周防で領地をもったという。 やはり景行天皇の説話部分は息長氏かもしれんな。 宇土ウドではなく継体天皇に繋がる、オオド大々杼の原義にあるのかもしれん。 阿蘇のピンク色の凝結凝灰岩の輸出先とも関係があろう。 また宇の音がuではなくwの音写のつもりなら 倭の字音とも重なる。本来の倭国の範囲が示されていることになる。 >>161 >>162 >>163 意見やコメントありがとうございます。 魏志倭人伝が記す旁国の位置が定まらないのは、倭国領域が狗奴国を囲んでいて、山都町や宇城、宇土市、天草、島原などを想定していなかったためかと思われます。 「遠絶にして、つまびらかにできない」と言っているのは、このことかも知れません。 破鏡をご存知ですか。銅鏡を割った破片で、縁をナイフ状に後加工したものや穿孔したものが、墳墓からだけでなく住居跡や田んぼからも見つかります。 弥生後期の遺跡から出土する、神武東征由来の遺物です。 次は破鏡の分布図で、図40は弥生後期〜終末期の分布、図41は古墳時代前期の分布図です。「破鏡の伝世と副葬ー穿孔事例の観察からー」辻田淳一郎から借りています。 図40(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu40.jpg 図41(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu41.jpg 、 熊本平野、大分大野川流域の状況が特徴的です。 ほとんどが集落域からの出土ですが、弥生終末期にのみ見られ、古墳時代には全く見られなくなります。 当然なことで、神武東征が九州を発つ前に狗奴国や大分の従わないクニとの決着の戦いの痕跡だからです。 福岡平野で募られた兵は、家族との長い別れに、親子兄弟、妻とも家族の絆として鏡を分け持って出発したのです。 家族の証明はこの割れた鏡が合わさることでしか、確認できない時代です。 出征兵の親は、待てど帰らぬなか亡くなっていき、鏡とともに副葬されました。 兵たちは落とさないよう穴をあけ首にかけていたが、戦闘の中で田んぼに落とすこともありました。 突然の出立に、置き忘れることもあったでしょう。 妻や子は、小さなかけらをもって後を追いかけました。 鏡種を調べると、内行花文鏡と方格規矩神獣鏡が多く、三角縁神獣鏡は一面もありませんでした。 三角縁が東征後の鏡であることは明らかです。 東征を卑弥呼の前とする説がありますが、その時代にはこのような痕跡は全く見つかりません。 九州の三角縁神獣鏡は古墳から出土し、奈良から帰還した兵が持ち帰ったものと思われます。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 > 邪馬台国東遷説 その3より 751 :日本@名無史さん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN 何度か書いているが、畿内説は元々自生説で、邪馬台国の候補地は 唐古・鍵遺跡だった。 その邪馬台国の唐古・鍵の人々が纏向を建設し移ったというわけ。 移った年代もわかるというものだろう。 その期待を受けて、唐古・鍵遺跡では100回を超える発掘調査が行われた。 いつか、何か出てくるという期待は、今の纏向に似ている、しかし、吉野ヶ里遺跡が発掘された頃、ついにあきらめられた。 理由は簡単、石器しか出てこないのだ。王のような存在も認められない。 環濠集落という名前は吉野ヶ里遺跡も唐古・鍵も同じで、一見、同じような 集落という印象があるが、実体は全く違う。 唐古・鍵がだめだというわけで、年代を100年ほど繰り上げて纏向が浮上した。1995年頃のこと。 近畿の弥生遺跡についての研究結果 近畿地方には、唐古・鍵遺跡だけでなく、近江の伊勢遺跡、稲部遺跡、摂津の東奈良遺跡、泉南の池上・曽根遺跡など大きな遺跡があります。 これらの遺跡は、北九州から戦乱を逃れたやってきた人たちが開拓したものと思います。 その代表的な人たちが加茂、賀茂と呼ばれた人たちで、瀬戸内海東部にはこの地名が多く見つかります。 図42(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu42.jpg その開拓のさなかに、伊邪那岐・伊邪那美が国生みでやってきます。 伊邪那岐はこれらの開拓地を訪ねめぐっていると思われます。 その痕跡が、後の海神、あるいは龍王と呼ばれる豊玉彦が残した竜王山です。 図43(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu43.jpg 奈良の唐古・鍵遺跡の真東に龍王山が見つかります。近江や摂津の遺跡の源流域にも竜王山が見つかります。 水利権を公的なものにするためでした。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 > 邪馬台国東遷説 その3より 865 :日本@名無史さん:2013/08/24(土) NY:AN:NY.AN 倭面土國は、邪馬台国の可能性も高いと思う。 それは、倭人伝の「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。 乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼」から来ている。 いわゆる倭国の大乱の70年か80年前が、帥升が後漢に朝貢した西暦107年と合い、男子の王が帥升を意味していると考えられるからである。 また、そのように考えることにより、倭国王・帥升が築いたあるいは支配した三十カ国あまりの王の跡継ぎを巡る争いが、倭国の大乱であり、その王に なった卑弥呼が巫女的な女王でありながら、魏から倭王と呼ばれ、三十カ国あまりを支配していた理由がわかるからである。 伊都国の王が代々女王国に統属していたというのもこれで理解できるし、官が置かれ、一大率が置かれていたことも理解できる。 私ホワイトケープの意見 >865 の意見に私も近い考えです。 倭国乱を光和年間(西暦177〜184)とすると、倭国王の帥升が後漢に朝貢した西暦107年は、倭国乱の前70〜77年となります。 77年ころ「別天つ神五柱」の神々が話し合い、伊都国宗家の男子と奴国王の娘、すなわち伊邪那岐と伊邪那美が結婚し天照大御神(卑弥呼)が生まれ、統一倭国王に共立されているる。 このことから、神世七代の初代・国之常立神は卑弥呼から7代前、天皇の一代、10〜11年説に従えば70〜77年になり朝貢した倭国王・帥升と一致する。 帥升を記紀に登場する人物比定は諸説あるが、神世七代の初代・国之常立神である可能性が高い。 記紀に7代も昔の系譜が記されたのは、初代倭国王の功績が大きいので、その系譜が大事にされ、記憶されていたためと考える。 代々の伊都国王の系譜である。 図45 系譜_伊邪那岐・伊邪那美(http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu45.jpg 図46 系譜_神武 (http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu46.jpg 神代七代は、早良などの福岡側の王墓の人物の方が年代観が合うような気がするな。 伊都はヒコホホデミ(山幸)や木花咲耶姫など、日向三代との関係がうかがえるからね。 帥升はニニギかその前かわからないけども。 >>173 レスありがとうございます。 「神世七代」が伊都国王の系譜である根拠に次があります。 7代にあたる伊邪那岐が迦具土神を切った剣の名を古事記は「天之尾羽張(あめのおはばり)」亦の名は「伊都之尾羽張(いつのおはばり)」と記していて伊邪那岐が天族(海人族)のクニ、伊都国の七代に当たることがわかります。 奴国王の墳墓、須玖岡本遺跡から出土した漢鏡が、伊都国の三雲南小路遺跡出土の漢鏡より鏡種年代が古く、奴国王が帥升より古い時代に活躍したと思われます。 それが西暦57年に後漢から賜った「漢倭奴国王」の金印と考えます。 このことが、伊都国・邪馬台国連合と奴国・不弥国連合の戦になるきっかけになったと考えます。 結局、伊都国が覇権争いに勝ったことになります。 それって出雲の国譲り。 その結果に成立した伊都国の王権が日向三代でしょ。 それ以外には覇権争いの記録はないでしょ。 あ、日向三代の海幸山幸の争いがあるか。 >175 レスありがとうございます。 出雲国譲りも覇権争い、山幸彦・海幸彦の争いも覇権争いですが時代が違います。 出雲国を建てたのは、伊邪那岐・伊邪那美の子、須佐之男なので、伊邪那岐の前の時代の神世七代の時代の覇権争いではありません。 山幸彦・海幸彦も伊邪那岐の末裔なので時代が異なります。 伊邪那岐含めた神世七代は倭国乱の時代で、その名の通り覇権争いです。 イザナギの時代が戦乱の時代とは書いてないよ? 出雲の国譲りは明確に戦乱でいいだろうけど。 そもそもその年代観だと、神武がかなり後になってしまう。 >>176 イザナギの時代が戦乱の時代とは書いてないよ? 出雲の国譲りは明確に戦乱でいいだろうけど。 そもそもその年代観だと、神武がかなり後になってしまう。 伊邪那岐・伊邪那美の名が魏志倭人伝に登場するクニの名から、一文字づつ採った名であることを定義1で述べたことがあります。 表1 伊邪那美岐とクニ名・クニ代表の対応 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy01.jpg 倭国乱を収束するために「別天つ神五柱」が話し合って決めた名前なので戦乱の終わりの時の名前です。 倭国乱が水争いのような、河川ごとの争いでなく、博多湾沿岸国を中心にした北部九州の覇権争いと思われます。 北部九州の広範囲に、当時の甕棺から多くの武器が出土するのは、争いの痕跡といえます。 神武は伊佐那岐・伊邪那美の末裔なので、東征があったのは豊受大神(台与)の最後に晋に遣使した265年ころから後にあったと理解するのが、多くの出来事の前後関係があってきます。 年代をシミユレーションした結果は次の通りです。 図37 連合東遷関係者の年代シミュレーション http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu37.JPG アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2Rivcaei8JbT38AGR4dOfx7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 > 邪馬台国東遷説 その4より >34 :日本@名無史さん:2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN なんかの雑誌で、考古学の先生の意見を見たけど 考古学的に見て、神武東遷の形跡って、ないらしいぞ。 そんな首都が移動した大規模な移動の形跡はないらしい。 ただし、だからといって、記紀にある神武東遷を完全否定しているのではなくて なぜ、あう言う記述になったのか考えましょうよという感じ。 あれは何を意味するのかって。 私の反論 >なんかの雑誌で、考古学の先生の意見を見たけど 考古学的に見て、神武東遷の形跡って、ないらしいぞ。 そんなことはない。考古学的な東征・東遷の形跡はいっぱいある。 鏡、破鏡など出土地の時間変化を見ると、弥生の終末期に九州から大和に短年度で移動したことが分かる。 考古学者の論文を読むと、その変化が読み取れるにかかわらず学会的に、神武東征の視点で検討すると異端の目で見られてしまうため、 言い出せないジレンマが読み取れる。 >ただし、だからといって、記紀にある神武東遷を完全否定しているのではなくてなぜ、あう言う記述になったのか考えましょうよという感じ。 >あれは何を意味するのかって。 もし考古学者に上記ような考えが残っているならば、多く残る伝承や地名の移動などあらゆることに、アンテナを張って歴史を研究しているはずである。 論文の中にひとかけらも、言及していないのは異常としか言えない。 地元に神武東征の伝承が残りながら、その地の歴史資料館の説明に神武東征が登場しない。 このような束縛された研究、あるいは考古学は日本の大きな時間の損失になっていると考える。 新石器の誤りと同じように、後にどれだけの論文や発掘資料の説明の修正が生まれるか計り知れない。 神武は落ち武者みたいなもの 神武が離れても、倭の王都は筑紫の日向のまま そこで卑弥呼が共立された 101:名無しさん@1周年[] 投稿日:2018/10/23(火) 21:07:19.18 ID:VqEDfgY70 >>76 あのね出雲が凄い国、絶大な影響力を持った国だったら 中華帝国の正史である魏書魏志倭人伝や隋書倭国伝 それに朝鮮の新羅本紀や百済本紀、高句麗本紀に出てくるんだけど 塵の如く倭国倭人関連で出雲らしき記述が全く出てこないんだけど 創作されたファンタジーに妄想を膨らませるのはいいけど 現代になってさえ未開人と変らない幼児性を伴った精神構造なんだよなぁ 高度なIQを持ったアインシュタインの宗教に関した語録で 「宗教のない科学はかたわ、科学のない宗教は盲目」ってのがあるけど 置き換えると 「宗教のない科学はかたわ、客観的事実のない神社宗教は盲目」ってなるね 古代も現代も変らない比率で盲目的な未開人が存在するのが恐ろしい 721名無しさん@1周年2018/10/24(水) 16:20:52.92ID:u/wiOi+0O >>659 史実性が全く無いスサノオは 偽造された歴史経緯が侵入された古事記や日本書紀に 後世の人間を真実から目を背けさす為に >>101 でも言われる様に 御伽噺のように神話として記述されただけだから 中国の重要な古代神学教理書である九天神章経を 急ごしらえの大和政権の役人は勉強して 日本神話を考え出した古事記日本書紀を書き上げたし 日本神話の重要な部分の経緯なんて 九天神章経からパクって宇宙創造神の別天津神などをこしらうたからね ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . 今のところ実在した可能性が高いと言われているのが 第10代崇神天皇でしょう?その崇神天皇が生きていた時代が 二説あって3世紀半ば頃と4世紀初め頃。崩御年の干支を どう解釈するかでだいたい60年の開きがある。崇神より前 に9人の天皇が実在したとすれば、その初代(神武天皇)が いくらなんでも248年頃に亡くなったとされるヒミコより 後の人物とは考えにくい。遅くともヒミコと同時代か少し前の 人物のはずであり、この大和政権の創始者が治めていた場所と 邪馬台国の場所が必ず一致するとも断言できない。 日本古来の神々は古事記では天之御中主神から豊雲野神まで 配偶神を持たない独神であったとか、日本書紀では国常立尊 以下三神は男神であったと言われるように、男神と女神のペアでは なかった。国常立尊が天鏡尊を産み…、沫蕩尊が伊弉諾尊を産んだと いうように男神が代々男神を産んだというのが本来の伝承である。 ところで天皇はヒトであるから有性生殖によらないで跡継ぎを作る ことはできない。そのため中国古典を利用して神世七代なるものに よって男神と性行為が可能となる女神を造り出す必要があったのであろう。 213神も仏も名無しさん2018/07/02(月) 01:54:11.71ID:eCXJHK2T 神世七代の解釈は、たぶん天と地の形成と人の姿をした 男女の神(人間の先祖?)が生れるまでの過程ということで 学者の意見は一致してるだろう。 >>186 を参考にすると、まず、天と地が混沌としていた中に 萌え上がる葦の芽のような創造の力(ウマシアシカビヒコジ) が生まれ、それが空高く立ち昇って天(アメノトコタチ)と大地 (クニノトコタチ)とを生じ、ここで湿潤な雲(トヨクモノ)が 大地を覆い潤すことで、性別ある生き物が自然発生できる土壌ができた。 まず、最初の生物は泥から生まれた、あるいは泥のように不定形で (ウヒヂコ、スヒヂコ)、これに体が芽生え(ツノグヒ、イクグヒ)、 生殖器が発達し(オホトノヂ、オホトノベ)、顔立ちが整って恥じらう 気持ちも生まれ(オモダル、カシコネ)、そうして、いざない合う人間 の男女(イザナギ、イザナミ)が生れたと解釈するなら、 古事記作者も当時の人なりに生命の発生と進化を考えていたということになる。 まあ、大昔恐竜がいたとか知らなかっただろうけどね。 ん?どういうことかな。 天皇家より前に日本列島を支配した王たちが何人もいて、 古事記や日本書紀の作者が彼らに神々の名前をつけて神話化した 可能性はひょっとしたらあるかもしれないが、王たちの本名や事績は 亡失、抹消されたはずだ。 アマテラスやツクヨミを天皇家が歴史の表に登場する前に実在した人物たちだ と言ってみたところで、彼らの本名や日本列島における事績は記紀をいくら読んでも 復元できない。天之御中主王とか国之常立王、高御産巣日王みたいな天の中心や国土、 万物を産みだす力を表す名前の人物なんて実在したはずがない。 オホトノヂ、オホトノベのように男性器や女性器の名前を付けられた、もしくはそれを自称した 貴人なんてのも実在したんだろうか? (オホトノヂ、オホトノベの本来の意味は生殖器、あるいはその機能でなく家での生活に関するもの という説もあり、ツノグヒ、イクグヒも棒状の杙で境界を表すという説もある。しかし、 その類の神名の意味の神を羅列するなら、初めて夫婦になった男女神、イザナギ・イザナミ より前でなく国産み・神産みのときで十分であろう。記紀を書いた人たちは人間の男女 の姿形をした夫婦の神を作りだす必要があった。イザナギ・イザナミより前の男女神は、それ ぞれ生き物のオス、メスの性質や特徴を表す神であり、その特徴だけでは人間の夫婦が完成しない。) 私が思うに、自然科学を知らなかった時代、神を想定して物事を説明した古代人の 「科学」であって「古代史」の代用だということ。古代史の代用と書いたのは記紀には 大和政権より前の縄文時代や弥生時代をありのままに書いていないからである。 新井白石は「神とは人のことであり、身分の高い人の尊称である」、そして神話は何らか の史実を反映をしているのはないかと言ったそうだが、聖書の創造神ほどでないにしても 神話の神々は明らかに常人の能力を超えている。目や鼻を洗ったり誓約をすることで子どもを 口から何人も産みだしたり、高い空の上から山の峰に降臨しても木っ端微塵にならなかったり、海 と陸地を行き来してサメと子どもを作ったり、神とは「人間にできないことができる者」という要素 が必ず含まれていると考えられる。そこを無視すべきではない。 神が実在しなくても理屈が通ればいちおう自然科学や歴史の代わりになるのであり、歴史の勝者 である大和政権の人々が自分たちの都合で神話伝承を改竄するのもごく自然なことだろう。 先祖の時代では作り話であった神話も玄孫の代には本当にあった出来事になっているんだろうな。 訂正 自然科学を知らなかった時代の前に「神話とは」が抜けていました 私が思うに、神話とは自然科学を知らなかった時代、神を想定して物事を説明した古代人の 「科学」であって「古代史」の代用だということ。 そもそも、神という解釈が明治以降の観念であり、本来は王の伝記ダロ 天皇家が歴史の表に出てくるって、いつからを想定している? >>190 王の伝記と言えばそうだが、武家政権下の影の薄かった時代は ともかく、飛鳥時代や平安時代に天皇家が日本の支配者であって、 武士や庶民がその権威に服したのは史実じゃん。聖武天皇や 後白河天皇が架空の人物だったとでも言うの?いくらなんでも 明治になって天皇が誕生したというのは酷いでしょう。 もちろん天皇号じたい後世作られたものだし、古代の大王や 彼らの家族がどんな名前の人物だったのかはほとんど分からない。 それを承知で当時の人物を〇〇天皇とか△△命、✕✕媛と呼んでいる。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww https://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww https://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 で、私がいつからを想定してるかというと >>184 ぐらいの古墳が作られた時代から。ひょっとしたら もう少し後かもしれない。大和政権が海外から来た征服王朝なのか、 一豪族がのし上がって日本各地を統一していったのか、邪馬台国が 東遷したのか、記紀とか嘘八百で7世紀に朝鮮の王朝に征服されて できたのか今となっては分からないし、 今の天皇のおよそ70代ほど前の先祖の神武天皇が西暦何世紀の人物か は主張する人によっては三百年ぐらいの開きがあって、天皇家を開祖 とする大和政権の「萌芽」をいつとするかは結論が出ない。 神武紀を読むあたり、神武天皇が奈良盆地より外を出て日本各地 を平定してまわったという記録は全くないし、欠史八代という事 績の書かれていない時代があるのは、崇神天皇より前の天皇家の 当主は(仮に実在したとして)日本列島の広域を支配しておらず、 日本列島の数ある豪族の一つに過ぎなかったからかもしれない。 それから ヒミコ=アマテラスで邪馬台国が発展して大和政権になったとか ヒミコ=ヤマトトビモモソヒメで大和政権の一時期が邪馬台国だ とか、4、5世紀の天皇は倭の五王のこの人物だいうのなら、 日本書紀はそのことを遠慮なく書けばよかったのになあと思う。 中国に朝貢したという記録がそんなに嫌だったのか。 紀元前660年の建国とかそんな大ぼら吹かなくていいだろ って言いたいですな。日本書紀の主張に寄り添うなら 天皇家は漢の光武帝から金印を貰った倭国の王とも、ヒミコや イヨの邪馬台国とも、倭の五王とも無関係と考えるしかない。 今の天皇のおよそ70代ほど前の先祖の神武天皇 ↓ 今の天皇のおよそ70「世」代ほど前の先祖の神武天皇 神武天皇がその通り今上天皇の71世代前の先祖だとするなら 西暦1世紀の建国になるだろう。しかし、 初代から履中まで17世代(およそ四百年に相当)も父子継承が順調にいく のは王家としてはきわめて珍しい。4、5人ぐらいは同世代間の継承を父子 継承と誤魔化して歴史を過去に延長しているかもしれない。 伽耶という要素を無視してはならないと思う。 特に金海大成洞遺跡の、武装、祭祀関係の出土物は、日本と見分けがつかないほどだ。 伽耶は、何らかの形で倭と深い関係にあった。 その上で、伽耶は馬という新しい要素を持っていた。 伽耶は神功/応神の「東征」に関係したのではないか? >>191 >それを承知で当時の人物を〇〇天皇とか△△命、✕✕媛と呼んでいる。 同様のことを、神武以前の世代にも当てはめればいいんだよ。 筑紫や出雲の王権のことも明記されているし、考古学的状況とも一致する。 高島宮(岡山) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%AE%AE 神武天皇が日向から大和国への東征途上で、吉備国に営んだとされる行宮である。 吉備高島宮、吉備高嶋宮(きびのたかしまのみや、きびたかしまぐう)とも呼ばれる。 『日本書紀』によると、太歳甲寅の年の10月5日に軍舟を率いて日向を出立し 大和へ向かう東征を開始した彦火火出見尊(後の神武天皇)は、豊後水道を通り 筑紫国、安芸国とを経て、翌年(乙卯年)3月6日、吉備国の高島の地に行宮を造って 3年間滞在し、その間に船舶や武器の準備、兵糧の備蓄を行った上で 戊午年2月11日に再び大和へ向かい出航したというが、この時の行宮が高島宮である。 神武天皇の即位は高島宮進発の3年後、辛酉年であるとされている。 『古事記』も大同小異の伝承を記すが、高島宮での滞在を8年間としている。 >>199 金海の伽耶が扶余系であった可能性は魏志倭人伝ではわからない。 伽耶の知見が開けたのは大成洞遺跡の発掘以降のことだ。 鳥取県倉吉市の上里神社に伝わる神武天皇由緒 「神倭天皇九州日向に発たれ東夷大和平定により(平定後) 山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給う。」 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p= 長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search ;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>202 鳥取県倉吉市の上里神社に伝わる神武天皇由緒 「神倭天皇九州日向に発たれ東夷大和平定により(平定後)山陽より(帰り)給いし際・・・神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給う。」 情報をありがとうございます。 (平定後)(帰り)は解釈で、末尾の「神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給う。」の記述から往途の可能性もありますね。 高城山に記録した経路では、倉敷に高城山があり遠征軍が倉敷に向かい、青谷上寺地で戦いがあったことが想定されます。 他場所では戦いの痕跡が少ないのに、秋里遺跡の焼けた住居跡など鳥取では戦いになったのでしょう。 国譲りは終わっているので、別な理由があるかもしれません。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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