神武・倭国の連合東遷説
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
神武・倭国の連合東遷説とは 神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。 東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。 【連合東遷説の定義その1】 定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 >>20 西都原にある男狭穂塚古墳は、大和で起きた狭穂彦の垂仁天皇への謀反に由来するのではと考えたりしています。 狭穂彦の妹・狭穂姫は垂仁天皇の后でもあったので、二人の間で葛藤し、垂仁天皇の膝枕中に涙をこぼし兄の謀反が知られてしまいます。 その後の結末は日本書紀にある通りです。 二人の兄弟愛を残すために、それでも謀反の罪ある故、大和でなく遠い宮崎に陵を造ったのではと思います。 西都原が皇統につながる故地であることを、知ったうえでの選択地だったと考えます。 >>22 投馬国の名残だよ。 そこにも分家があったんだ。 >>22 西都原は投馬国(都萬国)の聖地であり、神武東征の出発地でもあったと考えています。 >>24 神武の出発地は、倭国の都であった筑紫の日向の伊都クジフル山の高千穂宮。 >>25 ここで討論するつもりはありません。あしからず。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 図5 夜須町と大和郷の地名一致図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu05.jpg 邪馬台を「やまたい」と読むことが多いが、本来は「やまと」と思われる。ま た偶然、奈良に別な大和(やまと)が生まれることはないので、この神武・倭国 の連合東遷により倭国の都・邪馬台を奈良に遷し、大和になったことは十分に推 測できる。 【遷都の根拠】 @ 先に鏡味完二は、「九州と近畿とのあいだで地名の名づけがよく一致してい る。」と発表していた。安本美典はこの発表に興味を持ち、地図を開いて北九 州の夜須町と大和の国大和郷の地名の一致をみいだした。 図5は安本美典が発表した地名比較図で、地名を線で結んだ形が同じようで、 多くが同じ位置に名付けたことが分かる。これは倭国の都の高天原を、同じ 地形の奈良に移す遷都の意識が強かったことを示している。 A 日本書紀の神武の橿原即位の項で、次のように記述している。「だから古語に も、これを称して次のようにいう。『畝傍の橿原に、御殿の柱を大地の底の岩 にしっかりと立てて、高天原に千木高くそびえ、始めて天下を治められた天 皇』。」古語としているが、古くは橿原を新しい高天原と認識していたことを 記録している。 B 日本の国名は、倭・大倭・大和の変遷が見られ「大」の1文字の追加は、こ の連合の際が、最もふさわしい。南部九州の投馬国と北部九州の倭国との連 合であったので、新しい都を大倭とし「やまと」と呼ぶことに、神武兄弟と 豊受大神の話し合いで決まった。 C 東征の目的地・大倭に「ひのもとの大倭」と枕詞が付いたのは、兵たちを鼓 舞するためで東遷の最中である。「ひのもと」には山の向こう側の意が含まれ ているので、奈良で生まれたのでなく、生駒より西の領域で生まれたもので ある。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の 北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 図6 九州の高城山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu06.jpg 図7 九州の大きな鉄遺跡の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu07.jpg 図8 西日本の破鏡の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu08.jpg 【狗奴国との決着の戦いの根拠】 図1の九州のベクトル図では、神武が熊本平野を縦断し日向に戻っていたので、 決着の戦いがあったと思われた。 @ 図6は九州に残る高城山をプロットし結んだものである。南阿蘇に始まり高 千穂町を経て佐伯に到り、最後は苅田(かんだ)町で終わっている。神武・ 倭国の連合隊の1部隊が、狗奴国との戦いを決着させ、高千穂町に戻りその 後、日向からの神武隊と佐伯で合流し、北上した記録である。 A 図7は九州の大きな鉄遺跡を結んだもので、図6の高城山の経路とよく一致 している。 B 図8は西日本の弥生後期〜古墳前期の集落跡から見つかった、破鏡片の出土 地をプロットしたものである。 破鏡とは破砕された銅鏡片に穴開けや断面を鋭角に後加工したもので、考古 学では破棄や放棄された鏡の解釈であるが、本説では紛失した鏡と解釈して いる。 C 出征兵士の家族は、離れ離れになる家族の絆として分け持った鏡片が、戦い や食料自給の農作業で落としたか、うっかり忘れたものが現在、住居跡や田 んぼで見つかったと理解している。 D このような視点で分布図をみると、激しい戦いがあった河内、熊本平野南部、 大分・大野川流域に多く見つかり、紛失の理解で状況が一致する。 E 北部九州は分散的にみつかり出征兵士の親は、亡くなると帰還してきた子に、 誰の墓か分かるように副葬したのである。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 図9 九州の高倉山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu09.jpg 図10 九州の高塚山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu10.jpg 東遷を行うことは、これまで倭国を作り上げてきた先祖との別れでもある。豊受大神 はどんな別れをしたのか。 【豊受大神が薩摩に出向いた根拠】 @ 図9は九州にある高倉山をプロットしている。4山があり、朝倉付近の2山は 「麻底良山(まてらやま)」を指し挟んでいる。麻底良山は、アマテラスのアと スを抜いた名前で、豊受大神が高天原を去るにあたり、さし残したものと推測 する。 A 薩摩半島の2山はニニギが木花之佐久夜比売と出会った阿多を指し示していて、 ニニギに東遷の報告と加護を祈った痕跡である。薩摩川内市にはニニギの陵と される可愛山陵がある。この薩摩半島2山が麻底良山を指し示しているのは、 高天原との関係を記録したものである。 B 図10は九州の高塚山をプロットし結んだものである。朝倉を出発し豊受大神を 高塚山隊が警護しながら進んだ経路を記録している。戦いのあった熊本平野を 避けた経路である。 渡来渡来というけど、弥生人なんてのは4000年も5000年も前から徐々に形成されてきた 遺伝子だろ。そしてそいつらは西日本でずっと縄文文化やってたんだよ。そこに稲作という 新技術が渡来した。弥生人たちは縄文文化から弥生文化に移行した。こんだけの話しだ。 ノルマン人のアイスランド植民化みたいなのを知ってのち、あと知恵で根拠なく主張してる だけだろ。弥生人の遺伝的形成には画期などなく、長い期間をかけて混血されていったんだよ。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 図1 全国の高(鷹)取山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu01.jpg 図11 朝倉付近の三角域の拡大 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu11.jpg 画像1 槵触神社の高天原遥拝所 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga01.JPG 古代は上座郡(かみつあさくらぐん)、下座郡(しもつあさくらぐん)と呼んでいたが、 明治になって「じょうざぐん・げざぐん」の呼びになった。 【都(高天原)は上座郡・下座郡の根拠 その1】 @ 図1で九州のベクトルが、朝倉市付近に三角領域Tを形成していると案内した。 図11は、その三角域Tを拡大したもので、筑紫平野北部の扇状地形にある。 1辺は約10kmの大きさである。 A 高木・甘木・杷木の三点を結んだ概略領域が高天原である。この3地名の頭を取った (高・甘・把=高天原)は高天原を残そうとした古代人の工夫の痕跡である B 形成された三角域Tは、領域の左半分にあり、下座郡に該当する。この中央部に 三奈木の地名が残るのは、先人が残した工夫を解くヒントである。 C 古代の天皇・皇后が九州に下った際に留まっていて、ここ朝倉は天照大御神が 住んだ高天原と知っていた痕跡である。 ・景行天皇の熊襲討伐では、討伐の最後に筑後川対岸の浮羽にやってきて、食事を されたと日本書紀は記している。麻底良山の筑後川対岸に鷹取宮が残る。 ・仲哀天皇の熊襲征伐に同行した神功皇后は、天皇が亡くなられたあと熊襲征伐を 引き継ぎ、高天原に近い荷持田村(のとりたのふれ、現在地・朝倉市秋月野鳥)の 羽白熊鷲を討ちにやってきた。 ・斉明天皇は西征の際、麻底良山近くに朝倉橘広庭宮を建て遷った。ここで亡くなった。 D 扇状地奥の式内社・美奈宜神社は、羽白熊鷲を討てたのは天照大御神の助けが あったからと、神功皇后が創建したものである。美奈宜(みなぎ)の名は (高・甘・把=高天原)を知ったうえでの美奈宜である。 【都(高天原)は上座郡・下座郡の根拠 その2】 D 三角域右辺領域は、上座郡にあたるが、図11のように高倉山と高山(こうやま)を 結んだ線上に麻底良山がある。この山頂に天照大御神一族を祀る、式内社・麻底良布 神社がある。 E 福岡県には天照大御神を祀る式内社は3社あるが、そのうち2社が朝倉にあり、この 集中は高天原の痕跡である。 F 高山は、岩屋戸事件で天照大御神を招きだす真榊など、種々を求めた天の香山と されるのも痕跡である。 G 岩屋戸事件の場所は高山の麓の志賀神社と比定した。志賀神社がある塚原集落には、 神社で酒を酌み交わす祭りが残り、岩屋戸事件の内容と重なる。 H 甘木付近を流れる小石原川が別名、天の安の河とされるのも、高天原の痕跡である。 付近には現在はないが夜須町があった。 I 比定地糸島市の伊都国から須佐之男命がやってきて、小石原川を挟んで天照大神と 対峙したならば、対峙の方角や小石原川が高天原の境である状況が記紀記述と一致する。 J 小石原川は筑後川ほどの大河でなく、小川でもない。古代と地形は変わっているが 中河川であることは不変で、互いに川を挟んで30mほどの距離で対峙し、言葉を 交わしたとすると記述と整合する。 K 小石原川が筑後川と合流する付近には、多重環濠が残る平塚川添遺跡が見つかっている。 この付近は地下水位が浅く、天の安の河での対峙後、誓約のため天眞名井の3か所を 掘ったと記す日本書紀の記述とも一致する。 L 三角域中央を佐田川が流れている。上流の鳥屋山付近には佐田村があり、 本名・佐田彦とされる猿田彦神の出身地と比定した。高天原を出発した天孫降臨の 先遣隊が、猿田彦神に遭遇した八街は日田とする説があり、遭遇後のやり取りや 天孫降臨参加の記紀記述状況が一致する。 M ニニギは天孫降臨の際、高千穂町のくし触神社(くしふるじんじゃ)の裏手で、 高天原遥拝を行っている。遥拝した向きを碑の石積方角で計測したところ、 三角域Tの底辺部に向いていた。画像1は遥拝所風景。 定義8 魏志倭人伝の行程方角基準は、当時の倭人が使用した基準で、マイナス28度 偏向していた。 図12 クニの配置の偶然 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu12.jpg 図13 大山津見神の日本列島の認識 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu13.jpg 図14 魏使行程の方角記述の検証 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu14.jpg ここでは魏志倭人伝の方角・行程などから、卑弥呼が住んだ倭国の都(三角域T)の根拠を求める。 【方角偏向の根拠】 この偏向角度は夏至の日の出方角を東としたときの、南北線に相当し当時の倭人が、使用した基準である。 @ 図12はマイナス28度偏向した南北線で、魏志倭人伝に登場するクニを結んでいる。 この配置は偶然と思われるが一部意図的なものがある。 A 西側の第1南北線は、狗邪韓国・対馬国・壱岐国・末櫨国が高千穂峰までの直線で結ばれる。 ニニギは高千穂峰で「此地は韓国に向ひ、・・・」と詔し、この高千穂峰が特別な日の、 特別な方角にある山と認識していた。 B 東側の第2南北線は不弥国、邪馬台国、狗奴国、投馬国が、この偏向基準で結ばれる。 ニニギは投馬国の中心にある都萬神社位置を、特別な日の邪馬台国の南であることを 認識したうえで選んでいる。 C 第2南北線を北に伸ばすと沖ノ島に結ばれる。天照大御神は、須佐之男命との誓約で 成った多紀理毘売を、この奇跡の沖ノ島(胸形の奥津宮)に派遣していて、 この方角基準を知っていた。 D この基準は、大山津見神が国生みの時代に、日本列島の形を日の出方角基準で認識して生まれた。 図13は日本の大山の分布の一部で、日本の本州の屈曲点が富士山と認識している。 この富士山より西の海岸線は、夏至の日の出方角に平行だと記録している。 これを西に延長すると高千穂峰を経て、魏志倭人伝が記述する会稽・東冶に至る。魏志倭人伝は、 倭人が認識していた日本の形状の情報を得て、会稽・東冶を導き出していた。 E 富士山より東北の背骨を走る直線は、立春の日の出方角を基準とした南北線である。 【魏使上陸後行程における方角の検証】 F 図14は魏使が末櫨国(呼子港)から伊都国(細石神社)〜奴国(春日市岡本) 〜宇弥国(宇美町)〜邪馬台国(甘木)と進んだとして、マイナス28度 偏向した基準で魏志倭人伝が述べる方角が合致するか検証した結果である。 全て比定した地点で合致した。 定義9 魏使行程の里程は、1里=76.5mで記述している。 図15 周碑算経の概念 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu15.jpg 図16 渡海の千余里 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu16.jpg 図17 魏使の呼子港上陸後の経路想定図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu17.jpg 魏使行程の方角基準を定義したので、距離基準について定義する。長里説と短里説の 論争があるが、ここは短里説に該当する。 【距離基準の導き出し】 谷本茂が漢書「周碑算経(しゅうひさんけい)」の記述から求めた、千里=76.3〜76.9km(平均76.6km)の数値がある。 周碑算経は洛陽の南北二千里の間に80寸の3本の棒(周碑)を立て、夏至の正午の影の長さを測定した値を記述している。 図15に示したように、影の長さ(16,15,17寸)を直角三角形の高さ、周碑の高さ(80寸)を底辺としたタンジェント角を 求めることができる。太陽光線と北回帰線は平行とおけるので、この角度は図に示した、北回帰線と周碑の位置がつくる 地球の中心角θと相対角になり一致する。 地球を円と仮定すれば、この中心角θA、θB、θCから、北回帰線からの、周碑の位置A、B、Cまでのそれぞれの距離を 求めることができる。求めた距離の差A-B、C-Aの値が千里の距離となる。計算過程は省略し結果を記すと。 計算結果 A-B間が 76.70 km C-A間が 76.35 km 平均 76.5 km そこで平均値の76.5kmを、千里とした。 谷本茂の計算との違いは、谷本が極半径Rを6,357kmとしていて、 本説は極周長を40007.88kmと置いたことの違いである。 千里を76.5km、百里を7.65kmとして行程を検証すると、 行程の経路や計測方法が見えてくる。 【距離基準での有力比定地の検証結果】 @ 狗邪韓国〜対馬:図16のように狗邪韓国の比定地、金海の海岸から、対馬の海神神社前の浜までが 約千里である。ここから浅茅湾内は倭人が案内し小船越を越えた。 A 対馬〜壱岐:小船越〜壱岐の筒城浜までが約千里である。 B 壱岐〜末櫨国:筒城浜〜呼子港に進み上陸し陸行した。呼子港で魏使が下船し、船は唐津湾伝いに 伊都国に積み荷を運んでいた。伊都国の港までが約千里である。船の方角には変更があったので 方角を記載をしなかった。 C 末櫨国〜伊都国:魏使は呼子港から陸行し、伊都国の入り口(国境)までが魏志倭人伝が記す 500里である。 D 伊都国〜奴国:これも、飯場峠越の経路で早良に入り那珂川町を経由するルートである。 この国境、飯場峠までの100里を記述している。 E 奴国〜不弥国:熊野神社から宇美町中心の宇美八幡宮までの距離で、約100里である。 CDが国境までの距離だったが、ここでは国の中心間距離となっている。 これを東行と「行」の一文字を加えて区別している。 F 投馬国:これは伊都国または呼子港から水行10日の行程であった。 G 邪馬台国:「南邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」と「自郡至女王国万二千余里」 これは呼子上陸後の陸行が一月だった。帯方郡から一万二千余里の記述で、伊都国や 不弥国までの記述距離を合計し、一万二千余里から差引して邪馬台国までの余里を 算出するのは、途中の記述が国境までの距離なので合致しない。呼子港までの 水行10日の一万里を差し引いた、呼子港〜不弥国〜邪馬台国の二千余里(約153km) が適合する。 H 図17は、これまでの検証結果から想定した道路地図経路である。距離143km、 1867里が得られた。古代の道は曲がりくねっていたと思われ、 距離は二千余里に近づく。地図の邪馬台国の須川は、卑弥呼宮殿があったと 想定している集落である。 定義10 魏使行程の投馬国へ水行20日は、九州西岸では水行10日の航路である。 図18 投馬国へ水行10の航路図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu18.jpg 表2 投馬国航路の寄港地 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/hy02.jpg 【水行10日の根拠】 @ 図18は対馬から九州西岸を経て鹿児島湾内に続く、長崎鼻を結んだもので 附番J〜Sまでが水行10日の航路である。 A 帯方郡からが水行20日の航路になる。宮浦宮が終点なのは、日向・大隅・薩摩の 中心にあり、時の大王が何処にいても向かうのに便利な為と、佐多岬沖の外洋を 通らない安全な航路を選んだためである。 B 九州西岸の経路も安全な陸沿いや内海を通っている。 C この長崎鼻は寄港の浜に入る目印の岬に名付けたもので、表2のように近くには 見張りの山が名づけられている。 D 1日の平均漕航距離は54kmであった。 E 長島付近に二つある長崎鼻のうち、東側・黒之瀬戸付近にある長崎鼻は、 ニニギの天孫降臨を先導した猿田彦が、黒之瀬戸を渡海した時に名付けている。 この名は猿田彦の長い鼻に由来するかもしれない。 F 投馬国への航路は、ニニギの子・山幸彦が結婚した妃・豊玉媛の父・豊玉彦が 拓いた航路である。 G 対馬の浅茅湾には旧豊玉町があり豊玉彦が魏使を迎えたところである。 魏志は大官を卑狗(彦)と記している。 >>39 >A 帯方郡からが水行20日の航路になる。宮浦宮が終点なのは、日向・大隅・薩摩の > 中心にあり、時の大王が何処にいても向かうのに便利な為と、佐多岬沖の外洋を 地理に詳しくないのでお聞きします。 宮浦宮から都万への陸路は整備されているのでしょうか? >>40 >地理に詳しくないのでお聞きします。 >宮浦宮から都万への陸路は整備されているのでしょうか? レスありがとうございます。 次の定義11で天孫降臨したニニギが薩摩半島と大隅半島を巡った経路を、紹介したいと 考えていました。高千穂峰を逆「の」字型に巡った遠征です。 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg 大隅半島では、ニニギの遠征隊は福山町の狐ケ丘から惣陣が丘に進んでいます。当時の道の状況は ひどいものだったと思いますが、福山町の牧之原交差点付近から、鹿児島湾に下る道があり、 その出口に宮浦宮があることから、当時からこの道があったか新たに拓いて、出口に宮浦宮を 設けたと考えます。 ニニギがこの遠征で曽於の山中で難儀したことは、丘と岡の山の名付けで見えてきますが、航路が 出来たころには、道はかなり開けたと思います。 個人的には、ニニギの王都はあくまでも伊都なので、山幸の彦火火出見に負けた海幸が都万に都落ちしたルートなのかもしれないと考えています。 >>42 いろいろな考えがあって良いと考えていますので、討論はしません。 意見だけ申し述べると、南九州にはニニギ、山幸彦、海幸彦、神武などの伝承がたくさん残っていますので、これを無視して海幸彦逃避の経路と立証するのは大変困難と考えます。 伊都の細石神社は木花之佐久夜姫が祀られているので、伊都はニニギと関係が深いと考えています。 ニニギ、山幸彦、神武たちは、この航路や陸路で、頻繁に南九州と伊都国を往来していたと思われます。 それが、北部九州に残る「くんち」の神幸祭として残ったと思います。くんちは別名、お上り、お下りとも呼ばれ頻繁に行われたことが想像できます。 伊都国にあった一大卒の役で諸国を検察したものと考えます。 参考にしてください。 伊都の高祖宮(おそらく高千穂宮)の祭神が山幸こと彦火火出見です。 ニニギの王権を継承したなら、彦火火出見が伊都に残ったはずです。 宋史では、彦火火出見も彦渚も筑紫の日向宮にいたと書いてあります。 定義11 天孫降臨は薩摩・大隅を巡る、7年をかけた国造りの遠征であった。 図19 天孫降臨の経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu19.jpg 図20 天孫降臨の道の名づけ方法 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu20.jpg 【天孫降臨7年の根拠】 @ 図19は南九州に集中して見つかる〇〇丘という山と、〇〇岡という山に番号を付けて、結んだものである。 A 朝倉の高天原を出発したニニギは、阿蘇を越え高千穂町の国見ケ丘(図にないが附番1)で新しい国の国見を行った後、西都に向かい宮をおいた。 B 宮崎平野の灌漑稲作の目途が立つと、薩摩・大隅へ遠征をおこなった。 C 図19の21,22,23を結んだ直線を点線のように延長すると、高千穂峰横の虎ケ尾岡を経て39,40,41がつくる矢印で西都方向を指し示している。 D これはニニギが詔した、「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて・・・甚吉き地」の内容を大地に記録したものである。 E 附番2から始まる遠征は高千穂峰を周回する、逆「の」の字形に薩摩半島、大隅半島を経て八代海の獅子島にある黒崎丘で終わっている。 F 図19では丘と岡の区別を表示していないが、図20に示すよう「丘―岡―丘」というように丘と丘の間に岡を記録しその間が1年を有したと有年ケ岡で記録している。この遠征に7年をかけていた。 G 丘の中の一つ宇都丘の「宇都」と同名の宇都地名が、南九州に多く見つかり訪ね巡ると、灌漑稲作の水を得る川の最上流の田んぼがある集落と判明した。これは灌漑稲作普及のために水利権を取得するためであった。 H 高千穂峰にまず登ったのも、一帯の水利権確保の意味があったかも知れない。高千穂の名そのものが稲作である。灌漑稲作を普及させる投馬国の建国であった。 I 神武東征時に迂回した北九州で「岡水門」「岡田宮」と岡がつく地名を残したのは、天孫降臨に由来する。山に岡の名を名付けなかったのは天孫降臨と混同するからだった。 J ニニギが行った山への、丘(岡)という名の記録は、神武東征や日本武尊東征へと引き継がれ、さまざまに工夫した同名同種の山で、日本の古代を記録していた。 定義12 弥生終末期、九州には北部に倭国、中部に倭国に囲まれた狗奴国、景行天皇名付けの碩田国、九州南部に投馬国があった。 図21 九州の宇都・宇土・鵜戸地名 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu21.jpg 【倭国と投馬国領域の比定根拠】 図21は九州にある宇都・宇土・鵜戸地名の分布である。この分布から倭国・投馬国の領域を比定する。 @ 投馬国は南九州の日向、大隅半島、薩摩半島、種子島、屋久島、長島、甑島を含む領域である。日向地域と天孫降臨した地域の大隅・薩摩は、鵜戸と宇都で区別している。 A 九州島内の倭国は、星印の地域と、五島列島が含まれる。星印を結んだように熊本平野の狗奴国は倭国領域に囲まれていた。 B 九州北西部で盛んにおこなわれている神幸祭「くんち」は、熊本平野と投馬国の九州南部にはない。 C 投馬国のニニギ命、日子穂穂手見命(山幸彦)、ウガヤフキアエズ命は、魏志倭人伝が記す一大率で、星印を結んだような経路で諸国を検察していた。 D そのことが神幸祭「くんち」として残った。「くんち」は別名「おのぼり」「おくだり」と呼ばれていて、頻繁に倭国と投馬国を行き来している。 E 投馬国内は自国領内なので検察の必要がなかった。投馬国内の神幸祭は、天孫降臨のことを呼んだ「浜下り」の名で今も残る。 F 人吉は「くんち」が残ることから、投馬国でなく倭国の領域である。 G 景行天皇が筑紫に下った時、土蜘蛛と戦った大分の古い呼び名、碩田国(おおきたのくに)は、女王国に属していなかった。狗奴国と戦った高城山隊と、日向を出発した神武隊は合同で碩田国と戦った。 H 「うと」は伊都国の有力比定地、糸島市日向峠の麓にある「宇土」が元となった「うと」である。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義13 海神・豊玉彦は投馬国へのみならず、西日本各地へ航路を拓いていた。 図22 西日本の古代の航路図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu22.jpg 図23 古代の琉球列島航路図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu23.jpg 図22は豊玉彦が、西日本に拓いた航路である。 赤三角印は寄港地に入る目印の長崎鼻である。寄港の浜には白浜や、豊玉彦由来の豊浜や玉ノ浦などの名が当てられている。 【図から読み取れた航路】 @ 伊都国から最長の航路は、下関海峡を越え、四国西岸、四国沖、熊野沖、東海沖、房総沖を経る銚子に至る航路である。寄港地約28が見つかる。魏志倭人伝が記す航路で船行一年は、寄港地の数から船行一月の誤りである。 A 侏儒国は、遠賀川河口の白浜発〜(1)下関海峡を渡った先の豊浦〜(2)国東半島の長崎鼻付近〜(3)佐田岬半島の長崎鼻付近〜(4)宇和島の白浜の4航海、約230kmと想定する。 B 白浜山が小豆島、笠戸島、萩市の山中に見つかる。小豆島の白浜山を基点に指し示す銚子を黒歯国、鳥羽の菅島付近を裸国と比定した。 C 女王国に属しない、大分の碩田国(おおきたこく)を迂回する、宇和島から日向への航路があった。 D 瀬戸内海航路は姫路の白浜に至る。ここから日本最低高度の分水嶺を越える加古川・由良川を経由し、火明命が住む舞鶴の志楽への海路・陸路が拓かれていた。 E 舞鶴の志楽から日本海の航路が能登半島では陸路横断し、糸魚川から青木湖畔の白浜を経て安曇野にいたる海路・陸路の道が拓かれていた。 F 内陸横断の陸路があった。渥美半島の白浜〜吉良の白浜〜豊田市の白浜で矢作川を渡る〜津島市の白浜付近から木曽川など3川を渡る〜稲部市の竜ケ岳付近を越える〜近江の稲部遺跡を経る〜琵琶湖を渡り、高島市の白浜〜小浜へ山越え〜志楽と至る。 G その他、五島列島への航路、大村湾内の航路、琉球列島の航路があった。琉球列島航路は最西端の西表島の白浜に続く。図23は想定した航路図。 定義14 海神・豊玉彦は国生みを記録していた。 図24 西日本の龍(竜)王山の分布 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu24.jpg 図25 近畿の弥生遺跡と龍(竜)王山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu25.JPG 図26 近畿の弥生遺跡と龍(竜)王山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu26.jpg 連合東遷のまえ、弥生後期、伊邪那岐と伊邪那美は国生みという名の開拓を、四国・近畿・吉備周辺で行っていた。これを後に豊玉彦は龍(竜)王山の名付けで記録していた。 図24は国生みがあった四国・近畿・吉備に集中分布する龍(竜)王山である。 龍王とは竜宮城の主とされる海神・豊玉彦の事で、自分から龍王を名乗ることは無いので、ニニギか高天原が豊玉彦に、現地を訪ね国生みを記録させたと考えた。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >49 につづく 【龍(竜)王山分布から見える近畿の弥生】 @ 伊邪那美命が亡くなるまでは、二人は主に四国を拠点に活動し、そこで天照大御神など三貴子が誕生した。その間、近畿の弥生集落を巡り陣頭指揮にあたっていた。 A 図25は近畿の弥生集落の近くに見つかる龍(竜)王山である。 B 伊邪那美命は熊野の産田川沿いの開拓の最中、火の事故により亡くなった。 この時、伊邪那岐命は西摂の猪名川上流にいた。それぞれに竜宮山を置き、二人の所在地を記録していた。 C 伊邪那岐命は悲しみを乗り越え、四国を離れ吉備の開拓を行った。吉備に竜王山が多いは、その規模が大きいものだったと見える。 D 天照大御神(卑弥呼)はこの開拓の中で成長した。 「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国は、我が御子の知らす国ぞ」と述べた強い統治意欲はこの経験からと推測する。 E 国生みの後、須佐之男命が向かった出雲には龍(竜)王山が無い。 F 播磨、吉備西部・山口東部にも龍王山が無いのは、ここが国生みの空白地であった。播磨風土記で、後に大国主命や天日槍が登場することと符合する。 G 図26は四国の龍(竜)王山で阿波に多く見つかる。 H 熊野で亡くなった伊邪那美命は、阿波に運ばれて吉野川市の高越山に葬られた。那賀町にあるI竜王山はウジがわく伊邪那美の姿に衝撃を受け逃避した道、高越山から阿南に至る尾根道の里に出たところにある。 I 奈良盆地の弥生遺跡・唐子鍵遺跡の東には龍王山があり、伊邪那岐命はここにやってきたと思われる。 豊玉彦とは、もちろん豊国を治める王である。 豊国は志賀島から東、宇佐から西の、九州北部のことである。 竜宮城のモデルの1つは、関門海峡の断崖に張り付くように建てられた穴門豊浦宮である。 その起源は博多湾に浮かぶ志賀島にあり、ここに海神を祭る綿津見神社の総社である志賀海神神社がある。 天孫族が博多湾沿岸に侵入して伊都の都を建設することにより東の小倉方面に追いやられたが、豊玉姫などを輿入れさせることによる外戚として倭国の王家の一員であり続けた。 そもそも天孫族も海神も大山祇も、みなイザナギイザナミ夫婦の末裔である。 イザナギイザナミは、天沼矛で博多湾の小島である能古島(おのころ島)に最初の領土を獲得した国生み神話を持つ。 博多湾沿岸は、考古学的には銅鏡銅矛文化の中心地である。 ちなみに畿内は銅鐸文化、瀬戸内は銅剣文化である。 後に西日本も東日本も、福岡の銅鏡銅矛文化に塗りつぶされてしまう。 同時に、国生み神話の舞台も西日本全体に再配置される。 しかし、銅鏡銅矛文化の分布を見れば、倭国の中心が博多湾沿岸であったことは疑いようがない。 定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。 図27 神武東征の経路比定図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu27.JPG 図28 高尾山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu28.jpg 図29 六甲にある「たかお山」 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu29.JPG 図27は「高(鷹)山」のベクトル図に、主な高尾山を追記して、その位置をつなぎ連合東遷隊の経路を比定した図である。 図28は九州から続く高尾山の足跡を抜き出した図である。 【神武隊の経路】 図27、図28から見えてきた神武隊の経路を見てみる。 @ 記紀が記す神武隊は、瀬戸内海を船で進んでいるが、山陽道を進む陸上隊と連携しながら並行して進んでいた。それを遠賀郡水巻町に始まる、山陽道の高尾山の直列で記録していた。 A 山口市の高尾山付近は、日向や筑紫平野の人々が周防灘を渡って、東征隊に参加した集合地点となっていた。港の入り口に藤尾山を残した。 B 日本書記は安芸国の埃宮(えのみや)に着いたことを記している。その比定地、広島県府中町に残る多家神社埃宮付近に高尾山を残している。 C 吉備では戦いの準備を整えるため、しばらく留まったことを記している。これを赤穂に雄雌の雄を用いた高雄山を名付け、吉備の区切りとしている。また近くの播磨に入る峠に高取峠と名付けている。 D 図29は六甲山塊にある五つの高尾山・高雄山・鷹尾山である。中心にある高雄山は西からやってきた船隊と陸上隊の合流と区切りを記録している。その内の一隊は芦屋の鷹尾山に向かった。又一隊は丹波に遠征した記録と思われる。 E 鷹尾山が特別な名になっているのは、高城隊や高塚隊、丹波に向った隊が全員、生駒越えの決戦に向けて集合した場所の名づけである。 F 孔舎衛の戦いに敗れたあと、和歌山から熊野に迂回したことを記録している。 G 田辺の高尾山から先、中辺路を進んだ陸上隊と、海上を進んだ隊があったことを分岐の高尾山で記録している。 H 熊野山中を越え、宇陀に出た記紀の記録を、高尾山で記録している。 I 東遷の最後を井手町の高雄山と、宇治上神社付近の槙ノ尾山で記録している。 >>55 >定義15 記紀が記す神武東征は陸上隊と共に進んだ。 神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。 神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。 東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。 その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。 「西山谷2号墳」 http://awakouko.info/uploads/webphoto/photos/y00178y4da2b05f09c57.pdf#search=%27%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E8%B0%B7%E4%BA%8C%E5%8F%B7%E5%A2%B3%27 神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。 一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。 長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>56 レスありがとうございます。 東征に関しいろいろな説があることは承知しています。 討論すると果てなく続くので行いません。 阿波は古代に満ちたところで、吉野川流域には古社が多くあります。 出雲の神や、イザナギ・イザナミに関する多くの神が登場します。 国生みの地なので、後の神々などもそのことを知っていてイザナミを 弔うために訪ねていると思います。 >>57 >東征に関しいろいろな説があることは承知しています。 そうですね、確定はできていません。 あとは、地理・古神社・古地名等による状況証拠の積み上げでしょう。 >阿波は古代に満ちたところで、吉野川流域には古社が多くあります。 実は、吉野川だけではなく、鮎喰川・勝浦川・那賀川・海部川等、徳島県下の河川全般に古社が存在しています。 吉野川だけでは、記紀を説明しきれません。 @阿波 >>58 @阿波さんは、阿波への思い入れが強いようです。 私も阿波への思いが強いです。 何度も訪ねていますが、この春は著書の表紙のため、阿波市の瀬詰大橋付近からの 高越山を撮影に行きました。 伊邪那美といったら、高越山の神陵でしょう。 高越山の山頂に行ったときは、今も山伏のようなお坊さんが、神陵をお守りしているようで 感動しました。 伊邪那岐が、この高越山から阿南まで逃避したことは、邪馬台国阿波説の中で知りました。 >>59 >私も阿波への思いが強いです。 それにしては、>>1 で「阿波」は登場せず、西日本をまたにかけた壮大なストーリーを展開していますね。 >阿波市の瀬詰大橋付近からの 高越山を撮影に行きました。 シャープでいいアングルですね。 でも私はもうちょっと西からのどっしり感が好きです。 >伊邪那岐が、この高越山から阿南まで逃避したことは、邪馬台国阿波説の中で知りました。 その逃避行にまつわる地名が残ってるのが実に奇妙ですよね。 @阿波 >>60 >それにしては、>>1 で「阿波」は登場せず、西日本をまたにかけた壮大なストーリーを展開していますね。 >>1 は神武・倭の連合東遷説です。 伊佐那岐による阿波での国生み後、吉備を経て九州へ戻った後の出来事と考えています。阿波時代は東征の前の時代の出来事なので、直接登場していません。 >その逃避行にまつわる地名が残ってるのが実に奇妙ですよね。 @阿波 奇妙というより、伊邪那岐の逃避の出来事由来と考えています。 阿南に橘や青木も見つかります。小戸神社もありますネ。 ようやく逃げおうせた伊邪那岐が体を清めたくなるのは自然なことです。 国に戻って博多湾でもう一度、禊することも自然な行いと考えます。 忌部氏の直系にあたる、三木信夫さんの家を訪ねたことがあります。 その屋敷の裏が断崖絶壁で、高越山から伊邪那岐が逃避した尾根道が見える場所でした。 三木さんの先祖は、この逃避の尾根道を語り遺すため、この断崖の上に住むことに したと考えて一人で感動した思い出があります。 三木さんにこのことをお話しすると、うすうすは思っていたようで、若いときにその 尾根道を登ったことがあり、見えるほど急な道ではないと話されていました。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義16 高城山を残した部隊は、四国、山陰、丹波に遠征した部隊だった。 図30 高城山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu30.jpg 画像2 宇陀にある高城山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga02.JPG 図30は、九州を離れた高城山の部隊が、経路に残した高城山を結んでいる。九州を出発するにあたり、狗奴国と決着の戦いを行った高城隊は、最強の部隊と思われる。高城山に記録したその足跡をたどってみる。 【高城隊の経路】 @ 浜田市三隅町にある高城山から始まる足跡である。広島を経て四国の剣山近くに次の足跡がみつかる。四国西部も遠征し物部川を遡り、峠を越えて那賀町に進んだと思われる。峠には赤城尾山がある。 A 次は倉吉市の高城山に続いているが、伊邪那美命が葬られた高越山を指し挟んでいた。この連合東遷は伊邪那美命の国生みに始まる、建国の過程と認識していたかも知れない。一つひとつの高城山は、いろいろな意味を込めた名づけであることが分かる。 B 倉吉市の高城山近くには、多くの殺された骨が見つかった青谷上寺地遺跡や、焼けた当時の住居跡が見つかった秋里遺跡がある。両遺跡で破鏡が見つかっていて、激しい戦闘の中で紛失したものと考える。青谷町の南には木尾山を残している。 C 高城山の足跡も、高尾山の足跡と同じく、孔舎衛坂の戦いに負けて、和歌山に向かったことを記録している。 吉野川を遡って宇陀に進んだようにも見えるが、天川村山中に高城山と共に天狗倉山があり、本隊と別ルートで熊野を越えたかも知れない。 D 古事記では、宇陀の血原の戦いの記述に高城が登場する。 「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず」 血原の地名は2ヵ所残るが、その中の宇陀市室生区田口元上田口付近に高城山が見つかる。画像2が宇陀の高城山。 >>61 >伊佐那岐による阿波での国生み後、吉備を経て九州へ戻った後の出来事と考えています。 「九州へ戻った」? 誰が、何のために「戻る」のですか? 國生み神話は、忌部一族の開拓史を表しているんですよ。 @阿波 剣山でたくさん見つかった弥生人のミイラはどこ行ったんだろう >>64 >「九州へ戻った」? 誰が、何のために「戻る」のですか? 國生み神話は、忌部一族の開拓史を表しているんですよ。 @阿波 私が記紀を研究した結果の「国生みの概要(1,2,3)を挙げます。 @阿波さんの考えと全く違いますので、議論はしません。 質問であれば、補足説明します。 国生みの概略(1) 1、神々は、伊邪那岐命と伊邪那美命に、「この漂へる国を修め理り固め成せ。」と詔して、二人を天の浮橋から出発させた。この記紀の記述が、日本の歴史の記録の始まりである。 2、伊邪那岐と伊邪那美の名は、魏志倭人伝に登場する五つのクニ名から、一文字ずつ採った名である。 3、伊邪那美・岐の文字順は、当時のクニの格順になっていて、古事記が記す「別天つ神五柱」の記載順と対応している。 4、「別天つ五柱」は、魏志倭人伝が記す倭国乱を、収束させる話し合いのメンバーだった。 5、伊都国宗家の男子・伊邪那岐命と奴(那)国王の王女・伊邪那美を結婚させ、その子から統一倭国王に共立することは、話し合いで決まっていた。その王が、天照大御神(卑弥呼)である。 6、 話し合いは志賀島の志賀海神社で行われたと、推測した。 9、博多湾の小呂島と能古島で指し示す室見川河口が、二人の船の出発地と考えた。 10、伊邪那岐命は瀬戸内海を進み、伊邪那美命は四国の太平洋岸沿いに進み、二人は淡路島東岸にある沼島付近で再会したと考えた。 11、沼島にある上立神岩が、二人の結婚の場「天の御柱」と比定した。 12、始めて生んだ州とする淡島は、徳島平野の吉野川中流にある、日本最大の中の島、現在の善入寺島と考えた。 13、開拓に失敗した二人は、高天原の神々にアドバイスを受けに戻った。 国生みの概略(2) 14、次に取り組んだのは、淡路島の諭鶴羽川流域だったが、雨が少なく、ここも不満足な結果となった。 15、 淡路島北部で発見された、鍛冶工房跡の五斗長垣内遺跡は、二人がやってくる以前から、東進してきた周辺地域の人たちに、鉄農具などを供給するために築かれたものと考えた。 16、瀬戸内海東部に多く見つかる、高地性集落は倭国からやってくる船を迎えるために、待ち受けた場所と考えた。 17、近畿の大きな弥生遺跡付近には、龍(竜)王山が見つかり、これは後の龍王こと豊玉彦命が、国生みの跡地にやってきて国生みの事績を記録したものと考えた。 18、銅鐸は神武東征時、豊受大神が鏡を鋳造するため、邑々から拠出させたときに、邑人が隠匿したものと推測した。 19、淡路島の開拓の次に取り組んだのは、伊与二名州である。伊予は伊都国の将来を託した意味で、二名とは二人のことと考えた。「愛媛」は伊邪那美命の当時の愛称と推測した。 20、瀬戸内海東部に多く残る、加茂・賀茂の地名は、福岡平野の戦乱を逃れ人々が、東方に移動した痕跡と考えた。 21、二人は次に善通寺市付近の開拓を経て、先に失敗した吉野川流域の開拓に戻ってきた。 22、神生みは国生みが終わってからのできごとでなく、国生みという名の開拓の中で活躍した人への、尊称を与えたできごとと考える。 23、建築の神々、自然にまつわる神々、河口の神・山の神などは、このことで、技術や知識の次の世代への伝播が図られたと推測した。 24、伊邪那美命の死の事故があったのは、熊野の「花の窟」付近で、また伊邪那岐命は猪名川上流にいたことが、二つの竜宮山で記録されていた。 25、事故にあった伊邪那美命を、急ぎ徳島の吉野川上流の宮まで運ぶことになり、その様子が熊野速玉大社の御船祭として残されていることが分かった。 26、熊野諸手船に稚児像が乗せられることから、須佐之男命が伊邪那美命の事故に遭遇していたと推測した。 国生みの概略(3) 27、伊邪那美命の死の知らせを受け、伊邪那岐命は戻ってくると、迦具土神を斬ってしまうが、その血が流れ走りついた先は、伊邪那美命の殯の場所だった。 28、吉野川市山川町の天神社が、殯の行われた場所と推定した。その付近一帯に、殯を記録したと思われる地名が残されていた。 29、伊邪那美命の遺体は、近くの高越山に葬られたと推測した。 30、伊邪那岐命は伊邪那美命との最後の別れに、高越山に登るが、遺体の変化に驚き、自分がいつまでも妻を慕う弱虫だったことを悟り、強く生きることを決意した。 31、殯の地に戻れば弱虫に戻ると考え、反対の阿南に向けて尾根伝いに降りた。 32、木屋平に残る忌部氏直系の屋敷は、伊邪那岐命が降りた尾根道の反対の崖上にあり、この尾根を記録しようとした場所と考えた。 33、泣沢女に追われながら降りた逃避の道には、記紀が記す出来事に由来すると思われる、地名が残ることが分かった。 34、伊邪那岐命が禊した場所として記される、「橘の小門の阿波岐原」の橘や青木が阿南市にあり、禊の伝承があることが分かった。 35、禊の際に成ったとされる、天照大御神など三貴子は殯の里から阿南に呼び寄せられた、再会の場面と考えた。 36、伊邪那岐命は弱虫をはねのけ、次の開拓地吉備に進んだ。そこで伊邪那美命の陵の地を探した。 37、日本書記が記す、伊邪那美命を葬ったと記す比婆山は2ケ所あり、中国山地の比婆山は竜王山や井原市の高越山で、山川町の高越山と結ばれていた。 38、 吉備の開拓にめどをつけると、倭国に戻ることとした。 39、室見川河口の小戸神宮前の浜で禊した後、三貴子を紹介しそれぞれの今後の役割を示した。 >>66 >質問であれば、補足説明します。 質問 >5、伊都国宗家の男子・伊邪那岐命と奴(那)国王の王女・伊邪那美を結婚させ、その子から統一倭国王に共立することは、話し合いで決まっていた。その王が、天照大御神(卑弥呼)である。 まず、「伊都国」とはどこですか? @阿波 >>69 >まず、「伊都国」とはどこですか? @阿波 伊都国は有力比定地とされている、現在の糸島市と福岡市の西区を合わせた領域と考えています。 >>70 質問 「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」にある「伊都国宗家の男子・伊邪那岐命」が居た弥生時代後期末の集落遺跡はどれですか? @阿波 >>71 >質問 「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」にある「伊都国宗家の男子・伊邪那岐命」が居た弥生時代後期末の集落遺跡はどれですか? @阿波 当時、伊邪那岐が住んでいた集落を検討したことはありません。 >>72 >当時、伊邪那岐が住んでいた集落を検討したことはありません。 質問 別に喧嘩をするつもりはありませんが 伊邪那岐が住んでいた集落を検討せずに「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」とした理由はなんですか? @阿波 >>73 >質問 別に喧嘩をするつもりはありませんが 伊邪那岐が住んでいた集落を検討せずに「糸島市と福岡市の西区を合わせた領域」とした理由はなんですか? @阿波 伊邪那岐が伊都国の出自であることが判明すれば十分で、住んだ集落を特定する必要はないでしょう。 伊邪那岐の伊は伊都国の伊で、伊邪那岐の名の文字順が当時の対応するクニの格順で あることは前に述べたとおりです。 この伊都国の代表が「天之御中主神」なので、伊都国は海人(天)族の国であることが分かります。 先の比定領域には天神社が最も多く集中していて、天族の領域であることは、 石井好の研究「伊都国日向の宮」で述べていて支持できる内容です。 >>74 >伊邪那岐の伊は伊都国の伊で、伊邪那岐の名の文字順が当時の対応するクニの格順で >あることは前に述べたとおりです。 質問 伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波 >>74 >質問 伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波 次のように「伊邪那美岐」の文字は、魏志倭人伝に登場するクニ名から 1文字づつ採った名前なので、伊のみが四国の伊予から来たものではありません。 伊 伊都国 邪 邪馬台国 那 奴(那)国 美 不彌(宇美)国 岐 壱岐国 当時の倭国乱を収束させるために、「別天つ神五柱」が話し合って二人に 与えた名前と考えています。 >>76 >「伊邪那美岐」の文字は、魏志倭人伝に登場するクニ名から >1文字づつ採った名前なので 質問 「伊邪那美・岐」は記紀に登場する人物ですか、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として記紀と倭人伝を関連づけるには無理があると思いますか? @阿波 >>77 >質問 「伊邪那美・岐」は記紀に登場する人物ですか、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として記紀と倭人伝を関連づけるには無理があると思いますか? @阿波 魏志倭人伝は、卑弥呼(天照大御神)が年老いた239、248年頃、倭国に来た時点の 記述なので、卑弥呼(天照大御神)の父母・伊邪那岐、伊邪那美の記述が無くても不思議では ありません。わずかに伊都国には「世有王」と記すのが、伊邪那岐の痕跡でしょう。 本日は、もう寝ます。質問が出た場合は明日の回答になります。 いろいろ質問していただき、これを読んでくれている他の人に、参考になってくれている かもしれません。 ありがとうございます。 >>78 >卑弥呼(天照大御神)の父母・伊邪那岐、伊邪那美の記述が無くても不思議では >ありません。 質問 「卑弥呼(天照大御神)」も「別天つ神五柱」も、記紀に登場する人物ですが、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として「伊邪那美・岐」を考えるのであれば記紀のなかで考えるべきではないですか? 記紀の中で考えるならば、伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波 お話しぶった切りごめん 狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ? まあ御歓談あれ? >>80 >狗奴国は吉備から東征せしヤマト王権よ? 狗奴国の国力・財力を考えると、狗奴国は権力の元となる鉱物資源・海洋資源を持つ長国以外に無い。 @阿波 >>79 >質問 「卑弥呼(天照大御神)」も「別天つ神五柱」も、記紀に登場する人物ですが、魏志倭人伝には登場しません。 「1文字づつ採った名前」として「伊邪那美・岐」を考えるのであれば記紀のなかで考えるべきではないですか? 記紀の中で考えるならば、伊は「伊予の二名島」の阿波の「伊」では? @阿波> おはようございます。 >>76 で述べたように当時の倭国乱を収束させる神々の話し合いで、この名が生まれたと考えています。倭国乱は北部九州の土地争いと思われ、格順1位の伊都国が北部九州以外の国から1国のみ参加することは考えられません。 伊予の伊は伊都国に由来し、伊都国の将来を伊邪那岐・伊邪那美に預けた意味、または伊都国の地を広めた意味が予に込められていると考えています。 >>83 >伊予の伊は伊都国に由来し、 なんども書いていますが「伊都国」は記紀には登場しません。 だから、「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。 あなたは記紀と倭人伝をごちゃまぜに考えています。 記紀は倭人が書いた書物。 倭人伝は中国人が書いた書物。 「伊予の伊は伊都国に由来」する訳がありません。 @阿波 >>84 議論するつもりはありません。 伊邪那美・伊邪那岐の名前は古事記に登場します。 そして、その名前の文字が魏志倭人伝に登場するクニ名とつながったのです。 古事記と魏志倭人伝がリンクしたのです。 新井白石も本居宣長も古事記研究の中で発見できなかった事柄です。 この発見で、邪馬台国が実在した国であることが立証されました。 人の考えは修正できません。自分が納得した時変えられるだけです。 伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは 以上の通りで修正するつもりもありません。 定義17 高塚山を残した部隊は、出雲から戦闘に参加した。 図31 高塚山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu31.jpg 図32 出雲の高塚山 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu32.jpg 豊受大神の薩摩下りを警護した後の、高塚隊が残した高塚山の足跡をたどってみる。 図31、は九州を離れた高塚山の部隊が、経路に残した高塚山を結んでいる。 【高塚隊の経路】 @ 高塚隊は豊受大神を警護しながら、大神の生まれ里の安来までやってきたと思われる。出雲から戦隊に加わった足跡である。 A 安来付近の短い足跡は、別な意味を含ませている。図32はその考えられる意味を地図に表した。 ・出雲の造山古墳は古墳時代前期のもので、東遷後この高塚山の意味を知る人がここに戻り墓の位置としたと思われる。 ・二つの高塚山が指し示したものであれば、松江にある和久羅山が該当する。この山は豊受大神が和久産巣日神の須佐之男命を想う心を残した山である。 島根半島の和久王島との対で、須佐之男命の陵・黒山を指し示している。 ・二つの山で指し挟んだとすれば、豊受大神の生まれ里、宇賀荘である。 B 図31の点線で示したように、高城山でもあった伊邪那美命の墓標・高越山への指し示しがある。 C 潮岬にある高塚は灯台近くの、原始林の中に残る太陽祭祀跡である。高塚隊が残したもので、この位置が東遷先・橿原の南に位置していて意味があったと考える。 D 最終の高塚山は宇治を越えて、伏見の稲荷山付近にある。豊受大神を意識した位置である。最終の高塚山と一つ手前の高塚山は14kmしか離れていない。 E この二つで指し残したものがあるとすれば、纏向の天照御魂神社と考える。豊受大神が天照大御神の御魂をお連れして来て、新しい高天原をお見せしたところである。 >>85 >伊邪那岐の伊が伊予の伊と考えたなら、特に反対はしませんが、私の考えは >以上の通りで修正するつもりもありません。 倭国(阿波)に来たりして興味がある割に、本当の倭国(阿波)を知らない。 失望しました。 @阿波 定義18 高倉山は豊受大神が、天照大御神の御魂と共に東征隊を追い、影から応援し祈り、東遷した足跡である。 図33 高倉山に記録した経路 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu33.jpg 図34 慰霊の足跡 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu34.JPG 画像3 伏見稲荷の上社神蹟 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/ga03.JPG 図33は、豊受大神が東遷隊を追った経路に残した高倉山を結んでいる。 【豊受大神の経路】 @ 山口市付近に上陸し山陰に進んだように見える。 A いきなり山陽に戻ったのでなく、点線のように生まれ里の安来に寄ったと推測する。稲荷山が島根半島の和久王島付近から始まっている。 B 吉備付近に高倉山と稲荷山が多く見つかる。 東征隊は吉備で戦いの準備を進めたとあるので、豊受大神もしばらく留まったと思われる。戦のあった河内を避けて、淡路島に迂回した経路である。 C 図34のように淡路島の高倉山と、泉南と和歌山にある高倉山を結ぶと、それぞれ男神社と竈山を指し挟んでいる 孔舎衛坂の戦いで亡くなった五瀬命を慰霊する足跡である。 D 熊野で神武が萎えていたとき天照大御神の名の下、高倉下を使わして神剣・布都御魂を届け励ました。 E 東征隊が熊野山中で進退極まった時、八咫烏を派遣し熊野越えを成功させた。 F 宇陀の高倉山では、高倉下の案内で神武と再会し、神武を大王に推戴し東遷後の国造りを託した。 G 神武の橿原での即位には立ち会わなかった。 投馬国の勢力と北部倭国の勢力で争いになることを避け、摂津から丹後に身を引いた。 H その途中、橿原宮の真北にある稲荷山で、新しい高天原の安寧を祈り、南に向いて三度の伏拝を行った。下社神蹟・中社神蹟・上社神蹟(画像3)がのこる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 定義19 神武・倭国の連合東遷は計画の通り7年をかけ、酉年に神武は即位した。 図35 天皇代数と没年 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu35.JPG 図36 天皇代数と没年(拡大) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu36.jpg 図37 連合東遷関係者の年代シミュレーション http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu37.JPG 図35は横軸に天皇の代数を、縦軸に西暦をとり各代天皇の没年を表したものである。神武は第1代なので代数0を即位年と想定した。 問題は没年が不確かで空白とした、20代以下を遡る方法である。これまで平均在位年数を求める方法や、相関曲線を求める方法で推測がされてきた。 いずれも用いるデータ(代数)の範囲で結果は変化することである。 図36は空白部分を拡大した図である。少なくとも代数0と交わる点が、紀元前でないことが分かる。 目算では西暦200〜350年には収まりそうである。日本書記は辛酉の元日に即位した、と記していて先の西暦内では241年と301年が該当する。 【神武即位年の状況的根拠】 @ これまで定義してきたように、東遷は天照大御神(卑弥呼)が亡くなった後に、豊受大神と神武兄弟が行った。 A 卑弥呼が亡くなって男王の争いの後、豊受大神(台与)は13歳で女王となったので、250年ころ13歳であった。この13歳では東征を決断することは不可能である。晋への最後の遣使(265年)を行った、28歳の後なら決断が可能と考えられる。 B 豊受大神は東遷を行うにあたり、ニニギに東遷を行う報告のために薩摩に出向いている。ニニギが天孫降臨した年数が7年と知っていて、この神武・倭国の連合東遷も7年と計画したふしがある。 C 日本書紀では干支でできごとを記しているが、十干を省き十二支で見ると、高千穂宮での話し合いから、寅・卯・辰・巳・午・未・申と7年を掛け、翌年の酉の1月1日に即位している。 D 東征隊は山名に鷹を用いている。また鳥の尾をイメージした〇尾山を名付けてきた。 東征隊は自分たちが「神の遣いの鳥」という認識があったように見え、即位年を酉年と決めていたと思われる。 即位後、鳥見山に高皇産霊尊を祀った。 E 最後の遣使、265年以降の酉年は、277、289、301年が該当する。 F 一方、丹後国風土記逸文の奈具社では、豊受大神が和奈佐という老夫婦に請われて娘となっている。 豊受大神が丹後に身を引いたときは、まだ老夫婦から娘になるよう請われる年代であったことが分かる。 G 上記の酉年での豊受大神の歳は277年(40歳)、289年(52歳)、301年(64歳)となり、東征を追う旅ができる年齢と考え合わせれば、277年の神武即位の可能性が高い。 H 図37は277年神武即位として、登場人物の年齢をシミュレーションしたものである。姉・天照大御神の系譜の神武と弟・須佐之男命の系譜の伊須気余理比売が結婚しているので、年代がつながるか模擬している。 結果、神武をウガヤフキアエズと異母兄弟と比定し、年齢を若く想定すれば277年即位は可能である。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 定義20 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。 図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg 図38はこれまで、いろいろな根拠から見えてきた、建国の過程を図に表したものである。 【連合東遷説を要約】 1 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に記す5クニ名から、一文字ずつ採った名であることが分かり、この名づけ方法から倭国乱を収束させる話し合いがあったことが判明した。 2 梁書の「霊帝光和中、倭国乱」の記述から、伊邪那岐・伊邪那美による国生みは光和年間177〜189の189年頃に始まったとした。 3 国生みの中で生まれた天照大御神と、魏志倭人伝が記す卑弥呼は同時代に生きた女性で魏志倭人伝の記録と記紀の記録で共通点が多いことから同一人物と比定した。 4 天照大御神(卑弥呼)は国生みから戻ると、統一倭国の女王に共立され、都を邪馬台国に置いた。 5 天照大御神は孫のニニギを南九州に降らし、都萬国(投馬国)を建国させた。 6 天照大御神(卑弥呼)が亡くなると、須佐之男が建国した出雲国、ニニギが建国した都萬国から、それぞれ後継者が男王として立ったが纏まらず争いとなった。 7 そこで須佐之男命の娘・豊受大神(台与)が共立されて国中は収まった。 8 豊受大神が晋へ最後に遣使した数年後、都萬国の神武兄弟は、高天原に出向き豊受大神に倭国の東遷を建議し、神武・倭国による連合東遷が決まった。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 あと、お前たちの右翼の大物というのは何なんだ? 家に連れて来いと言っているんだよ 金魚のフンか何かだろ 9 このとき東遷先の地名を現在の都・邪馬台(やまと)からとり、連合の意味を含めた大倭と書く「やまと」とした。 10 北部九州の倭国各地から兵が集められ、一部はこれまで倭国と対立していた熊本平野の狗奴国や、大分の碩田国(おおきたこく)との決着をつけるため南下した。 11 神武も都萬国の兵を集めるなど戦いの準備のため、都萬国に戻って再出発した。 12 北部九州の倭国各地から遅れて集合した兵は、北九州の遠賀川周辺に移動し、東遷のための船を準備しながら、神武や狗奴国・碩田国で戦った隊を待った。 13 豊受大神は東遷の準備を高天原で進めたのち、都萬国に向かいニニギなど国をつくってきた先人に、東遷の報告と加護を祈願した。 14 東遷の部隊は大きくは神武兄弟の4人が率いる4隊であった。 15 北部九州の兵による本体と、南九州兵による神武隊は、山陽道を進み武器や食料の準備、山陰・四国、丹波遠征隊への補充・支援が行われたと思われる。 16 戦いの中心部隊は高城隊で、狗奴国・碩田国と戦って、海を渡り山陰に進んだ後、四国に渡り土佐から物部川を遡り阿波に進んだ。その後、鳥取、丹波へと転戦した。 17 総力を挙げて、生駒越えで奈良に入るべく、転戦の部隊は芦屋周辺に集合した。 18 春、浪速の渡りを行い一旦、竜田に向かったが道狭く孔舎衛坂での生駒越えを決行した。しかし迎えた長髄彦(ながすねひこ)との戦いに敗れた。 神武と豊受大神による連合東遷は、神武が橿原で即位し、豊受大神が退位後、丹後に身を引いたことで終わった。 図38 連合東遷による建国の過程図 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu38.jpg 【連合東遷説を要約3】 19 この時長兄の五瀬命は、流れ矢が肘にあたり倒れ、和歌山の竈山に葬られた。 20 東征隊は熊野に回り宇陀から奈良に入ることにしたが、熊野では嵐に遭遇し稲氷命、御毛沼命が亡くなった。 21 東征隊を追った豊受大神は、戦いが有った河内を避け淡路島に迂回し、和歌山に向かった。 22 豊受大神は五瀬命を竈山に慰霊し、熊野で苦戦する神武には神剣・布都御魂を届け励まし、熊野越えで進退極まった時は八咫烏を派遣した。 23 豊受大神と神武は宇陀の高倉山で再会し、このとき豊受大神は神武に東遷後の国造りを託した。 24 豊受大神は、お連れした天照大御神の御魂と共に橿原にはいり、新しい高天原をお見せし、加護を願った先人に報告と感謝を行った。天照御魂神社が残る。 25 その後、豊受大神は南九州出身の兵と北部九州出身の兵で、勢力争いが起きないよう摂津を経て丹波に身を引いた。 26 途中、伏見の稲荷山山頂の三峰から新しい国の安寧を祈った。 27 神武は橿原で即位した。 補足 神武兄弟の投馬国(都萬国)は、北部九州にある倭国クニグニの一員である。 【投馬国が倭国の一員である根拠】 1、 投馬国は天照大御神が派遣したニニギが建国したクニで、神武兄弟はその末裔である。 2、 魏志倭人伝では、投馬国に官・弥弥と副官・弥弥那利がいると記し、神武兄弟に王はおらず独立国ではなかった。 3、 ニニギの子に日高穂穂手見(ひこほほでみ)や神武の子に當芸志美美や建沼河耳など、ミミとつく名前が多い。 以上のことから、東征にあたり神武兄弟が当時にの倭国女王の台与(豊受大神)と相談し、倭のクニキグニの人たちと力を合わせるのは、自然な行動である。倭国の都・邪馬台(やまと)が奈良に遷り大倭となり、そして大和になったのはなんら矛盾がない。 筑紫の倭国は天照の孫の邇邇芸が建国した国で、その息子の代で海幸が国を追われて建国したのが都万国。 神武は筑紫の日向にいた山幸の孫。 魏志倭人伝では伊都国の官を禰宜と呼ぶ。 伊都の高祖宮の祭神は邇邇芸の息子の彦火火出見(山幸)である。 邪馬台(やまと)→大和 となったのは、邪馬台国東遷があったからと考える人は多い。 次は、邪馬台国東遷説その1からの抜粋である。そこに神武東征との関係の疑問が生まれる。 それの疑問に答えられるのは、この神武・倭国の連合東遷説かありません。 >邪馬台国東遷説その1 >200 :日本@名無史さん:2013/05/30(木) 21:47:17.26 邪馬台国東遷と神武東征とは違うものだと認識してるんですか?。一緒だと考 えるなら神武は邪馬台国の統領だったくらいは証明しないとねー。 それでも記紀を見る限り東征は有ったことになる。無ければ「おらが先祖の業 績」として東征話を書くわけは無いよね。書いた以上いつか、なんらかの東征 があって、その歴史の基に大和朝廷はできたと自慢しているわけだ。そこを皆 よおおおおおおくかんがえなよ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . >>106 >長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 龍についての情報、ありがとうございます。 勉強になります。 豊玉彦命を突然、竜王の名で呼ぶことはないと思われ、その背景に龍についての古い文化があり、 それが文字とともに当時、すでに伝わってきていたのかもしれないと考えました、 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >邪馬台国東遷説 その1より >262 :日本@名無史さん:2013/06/01(土) 20:27:25.05 畿内説は妄想だが、東遷説はそれ以上に酷いトンデモ 軍事的に100%ありえない 母国の支配が及んでない地域に遠征軍を派遣して何年間も過ごし遥か離れた場所にある適地を攻略できたことなど人類史上1度もない 日本だけでなく世界中探してもない 補給路を断たれて囲まれたら全滅するから東遷説を主張してるやつらはこのあえりないことをどうやって乗り越えたか絶対に答えようとしない 東遷説をトンデモと表現する方が時々見えるが、記紀は神武が最後まで生き残ったので、神武の記述が多い。 他の兄弟の部隊の行動は省くか、よく伝わっていなかった可能性があります。 上記では軍事的に100%ありえないとしている。 そんなことはありません。 日本書紀では吉備に3年とどまり兵器や糧食を蓄えたと記している。 吉備は国生みの際、伊邪那美が亡くなると伊邪那岐が向かった開拓地で倭国の一部だったと思われます。 兵站のことは十分に計画しています。 取り囲まれないよう、丹波も熊野、四国も事前に遠征してこと向けしていたことが、同名同種の山の記録で見えています。 世界に前例のない東遷をやってのけているのです。 豊受大神の高天原を捨て、女王の位も捨てた覚悟を思いやってください。 ひたすら国を想い、身を捨て天照大御神に仕えています。 大宰府天満宮に残る「翰苑」では、「 臺与幼歯方諧衆望」と記しています。 臺與(だいよ)は幼歯(ようし)にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 記紀にあるのはそもそも東遷ではなく東征ですよ。 あと、神武が出発したのは高天原ではなく、筑紫です。 高天原から筑紫へはニニギの代で遷都しています。 >邪馬台国東遷説 その2より >908 :日本@名無史さん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN >>902 ・日本列島は地殻変動によって陸地が大陸から切り離され島になったのであって、イザナギとイザナミが創り出したのではない ・死後の世界も高天原とかいう天上界も存在しない ・ヤマタノオロチのような頭が8つもある生物は地球上に存在しない ・白兎は人間の言葉を話さない 記紀をそのまま信用したい人は信用すればいい おれは信憑性のない神話より現代科学を信用する 連合東遷説とやや外れるが述べる。 記紀は神話として記しているが、記述の中に科学があると考える。 因幡の白兎は、大陸から伝わった伝承ではないことを発見した。 白兎の形をした波を、白兎海岸で見つけた。 白兎海岸の西端に気多の岬がある。 その岬の先80mに淤岐ノ島があって、白兎は隠岐の島から鰐の背伝いで渡ってきたのではない。 気多の岬と淤岐ノ島間の水面下に、テーブル条の岩群れがあって、それを鰐と言っているようだ。 沖からやってきた波は、淤岐ノ島で左右にわかれ、岬側を進んだ波はうねりのまま、岬で跳ね返され岩群れの上を越えて砂浜の海岸に進んでいた。 淤岐ノ島で砂浜側に進んだ波は、白波がたった状態で浜に進んでいた。 そこへ、岬側からの波があたり、波頭が後ろ側に倒れ、兎の耳の形に見えた。 二つの波が、水面下の岩群れの上で干渉し、白兎の形に見える自然現象だった。 このことが、因幡の白兎誕生のきっかけだった。 1800年ほど前の自然現象が、運が良ければ今も見ることができる。 是非、この感動を味わってほしい。歴史研究は感動があるから楽しい! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約6500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 イザナギとイザナミが国土を作ったというのは、征服して領土を獲得したという意味だよ。 何しろ使った道具が武器である矛だからね。 銅矛文化圏の中心である博多湾の能古島から国産みが始まる。 >>114 レスありがとうございます。 いろいろな意見があって良いので、否定するわけではないですが、私の意見を述べます。 古事記の「国土の修理固成」の段に登場する矛は、イザナキ、イザナミが国生みにのため、船の航海で使用する櫂を神々から賜ったことを、当時の矛にたとえた表現と考えています。 出発地が博多湾であることは、同意見です。 具体的出発地は、小呂島(おろのしま)・能古島(のこのしま)を結んだ先が指し示す室見川河口と考えています。 出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 >>115 >出発地と到着地に同じ名前を付けることはよくあります。おのころ島はこの2島を暗示的に名付けた名前と思っています。 ここは面白いね。 しかし能古島からは実際に矛も出土するから、櫂云々は蛇足だと思う。 >>115 面白いと思っていただきありがとうございます。 伊邪那岐。伊邪那美の名が、魏志倭人伝のクニ名から一文字とり、「別天つ神五柱」の神が名付けた名前と定義1で発表しています。 5柱の神々が話し合った場所は、志賀島の志賀海神社と考えています。 伊都国が最初なので、伊都国が格順が1位のクニで、邪馬台国は2位です。 これについて、次の発表をしています。 http://www.zenyamaren.org/yamaren20-054.pdf 興味があれば読んでください。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 神武天皇より前の神話はとりあえず世界の成り立ちと 皇室の由来について適当な辻褄合わせの説明ではないのかな? 出雲とか日向みたいな地名が出ているものはともかく 国産みみたいな神話の中にどれだけ歴史上の出来事が読み取れる んでしょう??神話の神々は実在した人物なのですか? 神武天皇から欠史八代はあくまでも天皇家の開祖についての 伝承で、四道将軍の派遣についての記述がある崇神天皇から 事実上の初代天皇じゃないのかな。景行天皇の時代になると 東国征伐の記事も現れる。蝦夷はそれまで一度も王化に従った ことがなかった。神武が「残りのわざわいは根強いが畿内(うちつ くに)は平穏だ…とりあえず、宮殿を建てよう」と言っている 時点ではまだ大和政権の支配域は奈良盆地の外を出ていないはず。 「日本は旧(もと)小国で倭国の地を併せたり」という中国の記事 からすると、神武・倭国の連合東遷説には大いに疑問ありです。 >>120 実在しているよ、普通の一般人というの? だから認識できない 「本当に、この人が神なの?(だったの?)」みたいな感じ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる