神武・倭国の連合東遷説
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神武・倭国の連合東遷説とは 神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。 東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。 【連合東遷説の定義その1】 定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>313 ホワイトケープ >天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている ここで突然現れる、吉備・九州の無理筋。 @阿波 >>313 ホワイトケープ >天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている 吉備や九州へ行ったのは吉備忌部や筑紫忌部たちなんだよ。 @阿波 315日本@名無史さん2018/12/18(火) 15:30:50.74 >>313 ホワイトケープ >天照大御神(卑弥呼)も阿波の生まれではあるが、伊邪那美の死によって、吉備を経て九州に戻っている ここで突然現れる、吉備・九州の無理筋。 @阿波 ホワイトケープの意見 いろいろな意見があるのは比定しません。合意は出ないので討論はしません。 阿波の方なら、高越山に伊邪那美の神陵があるのはご存知と思います。 邪馬台国に固執するより、国生みをもっとアピールすることが大事なように思います。 邪馬台国の主張に特別な意義を感じているなら、ごめんなさい。 >>317 >邪馬台国に固執するより、 邪馬台国に「特別な意義」は持っていませんが、魏志倭人伝の記述が倭国(阿波)の事というだけ。 >国生みをもっとアピールすることが大事なように思います。 国生みは邪馬台国が始まりです。 @阿波 国産み神話は福岡県那珂川周辺 記紀に載らない国産みの祖先は福岡県田川大分県日田 福岡県と合併する前の小倉県 小倉県も調べるとなかなか面白い >>319 妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 国生みの話題となったので、おのころ島について少し。 1、博多湾から国生みに向かった伊邪那岐、伊邪那美は、別々な船で出発したと思われる。 2、志賀海神社には綿津見三神が祀られているので、三神の船団で分かれて進んだと考えた。 3、第一団は、日本海を進み本州を一周した。 4、第二団は、瀬戸内海を進んだ伊邪那岐の船団と思われる。 5、第三団は、四国沖を進んだ伊邪那美の船団と思われる。 6、伊邪那岐は距離が短く、淡路島東にある沼島で伊邪那美を待ち受けた。 7、距離のある伊邪那美は遅れてやってきて、迎え出た伊邪那岐との再会に感激しと思われる。 8、沼島の上立神岩が天の御柱に見立てところで、伊邪那岐は航路と同じく左回りした。 9、そして伊邪那美が右回りしたと記すのは、航路の経路を示唆したものと考える。 10、積極的な伊邪那美は、うれしさのあまり先にプロポーズしてしまった。 日本の神話と言っているけど、 本当は日本の話ではないんだよ どこそこで生まれたとか、 そういうのも嘘 >>325 博多湾は、「其山有丹」で論外の話だってば。 @阿波 古事記は二神の結婚の段で次のように記している。 『次に淡島を生みき。こも亦、子の例には入れざりき。』 次のように考えた。 1、この淡島は、和歌山市加太の淡島神社の淡島神で、水蛭子と同じ不遇の子とする説がある。 2、私は徳島の吉野川中流にある、日本最大の「中の島」である、現在の善入寺島を淡島と比定した。 3、伊邪那岐・伊邪那美は、水が得やすいこの島をまず開拓し始めた。 4、徳島の特産の穀物も植えた。 5、ところが、雨が少し多いと吉野川が増水し開拓地は水につかり土が流れてしまった。 6、島はすぐに水がつくことから、水の泡のようだと自虐して「淡島」と呼んだのだろう。 7、そこに植えた特産の穀物も、粟(あわ)と呼ぶようになった。 8.ついにこの島の開拓をあきらめ、神々のいる高天原にもどり相談をした。 9、神々には開拓を続けてくれることが大事で、失敗の原因は何でもよかった。 10、やり直しのできることを、失敗の原因とした。 11、「女先に言へるによりて良からず、また還り降りて改めて言へ。」 12、二人は、次に淡路島にもどり、南あわじ市のおのころ島神社がある島を改めて回った。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、 角と耳がありイノシシの顔だ。 http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html . 延喜式に掲載されている神武天皇をご祭神とする神社はただひとつ 阿波は鈴川山に鎮座した樫原大明神ただ一社 奈良県橿原神宮は明治建立のばったもん 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、 中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。 そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、 石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、 石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。 ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、 木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。 石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも 伝わっていないのだ。 それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の 耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。 オール木製で。 しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も 日本の最古水田には一切伝わっていない。 日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと 言っているのと同じレヴェルの話である。 ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も 経ってからの事で、やはり木製であった。 石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ 永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 記紀は、一書を含めて全て淡路州をまず生んだとしている。 次のように考えた。 1、伊邪那岐・伊邪那美の二人は高天原から戻り、南あわじ市の「おのころ島神社」付近に上陸した。 2、おのころ島を改めて回りなおすと、諭鶴羽山の谷水を利用した開拓を開始した。 3、麓の神代浦壁や神代社家などの地名は、その名残かもしれない。 4、しかし、諭鶴羽山(608m)は低く、谷も浅く、海岸まで10数kmしかない。 5、日本有数の灌漑用池が密集している地区で、当時も水に難儀したものと思われる。 6、日本書紀は、淡路州の結果が不満足で、「吾恥島」だと自虐的に記している。 7、つぎの土地に移ったのだろう。 8、淡路島の鉄遺跡、五斗長垣内や舟木遺跡は、邪馬台国時代には終わっている。 9、伊邪那岐・伊邪那美の国生みで、瀬戸内海東部の情勢が安定し、鉄工房は各地に拡散したと考えた。 >>334 なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。 考古学的にもデタラメ。 >>334 なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。 考古学的にもデタラメ。 指摘ありがとうございます。 考古学のプロではないので、誤りがあるかもしれません。 具体的に指摘の内容を説明していただければ助かります。 自分なりに、誤りとわかれば修正したいと思います。 できるだけ詳しく、お願いします。 >>337 淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。 そもそも銅矛文化圏(九州北部)の伝承と考えられる。 おのころ島は接頭語や助詞の違いを考慮すると、博多湾の能古島のことと考えられる。 かなり飛躍があるかもしれないが、イザナギらによる博多湾沿岸の倭国建国譚と解釈できる。 国生み神話では、九州北部の周辺の島ばかり小さい島が多く登場し、名称に「天の」とついている。 イザナギらの天津国は、この九州北部の島々(あまつくに=海の国)と考えられる。 記紀への収載に際して、西日本の各地を追加されたのだろう。 >>338 >淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。 【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。 この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。 また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。 一つは「大己貴命 木造彫刻立像」 二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」 三つ目が「二品家政所 下文 」 四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。 この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。 八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。 出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。 大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。 大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。 オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。 オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。 コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。 平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。 @阿波 【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR 気になる材料を羅列してみると、 渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、 ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。 弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、 その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。 最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で 始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。 複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から 稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>337 淡路島より前に「矛で」「おのころ島」を作ったとある。 >334 なんでも畿内中心にしか考えられないのは頭がおかしいぞ。考古学的にもデタラメ。 337は、考古学的反論でないので、334の方と違うようですね。 >337 歴史書を読んだ意見の相違のようなので、議論はしません。あしからず。 淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系 淡路島にいた勢力は瀬戸内海を東進してきた北部九州の海人勢力 弥生期の鉄製ヤス出土 淡路で近畿初 https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201803/0011093126.shtml >エックス線写真で分析した結果、先端から約1・5センチ下方に「かえし」が見られた。 >ヤスや釣り針にかえしをつくるには高度な技術が必要といい、鉄器製造が盛んだった九州などから持ち込まれた可能性がある。 >弥生期の鉄製ヤスや釣り針は、山陰や九州北部で出土する例が多い。 >愛媛大東アジア古代鉄文化研究センターの村上恭通センター長は >「山陰は九州から鉄製漁具を受け入れ、漁民が鉄器の交易を促進した」と分析。 >今回の発見で、漁具が日本海側だけでなく「瀬戸内側を伝わって来た可能性もある」と指摘する。 近江にも製鉄遺構が見られるが、近江には3世紀までに北部九州の海人族である安曇が進出しており、 これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる https://biwako-genryu.shiga.jp/?page_id=603 > 安曇川周辺には、このアドやアマに関連する地名が数多く見られる。 安曇川町上古賀の「天川」や中央1丁目の「雨ヶ森」、新旭町安井川の「安曇」や > 太田の「安曇連(あづみむらじ)」に関する社寺と「阿曇比羅夫(あづみひら ふ)」の墓、今津町南浜の「天川」などである。 > そして、これらに福井県若狭町の「海士坂(あまさか)」や県境の「天増川(あますがわ)」をつなぐと、若狭湾方面から饗庭野を経由して安曇川流域付近に > 住みついた安曇海人の軌跡を示しているとみられている。 > また、移住の時期は弥生時代から始まって、3世紀以前に安曇川のデルタ一帯に定住したが、6世紀には当地域から姿を消したものと推測されている。 > > しかし、この軌跡は安曇川の中流域から上流域まで延長できるようである。 朽木地域では荒川に「雨乞いの淵」が、支流の北川には、野尻の上野に「天ノ阪」が、 > 下市に「あまんさか」が川に面してある。 また、京都市左京区百井の集落東方には天ヶ森(標高812m)があり、百井峠の南南東には天ヶ岳(標高788m)が > 安曇川の源流を見下ろすようにそびえている。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】 もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。 筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父 ↓ ↓ ↓ 近江→尾張→纏向 ↓ 宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内 【九州北部勢力による倭国の拡大】 紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現 →日本海沿岸の土器が博多湾へ流入 1世紀に銅矛などが拡散 2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征 →瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入 2世紀末に銅戈が大阪湾上陸 →3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入 3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入 →畿内から布留式土器が博多湾へ流入 支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ 淤能碁呂島については、仁徳天皇御製と伝わる和歌に檳榔の島が出てくることから、檳榔が自生しない瀬戸内海ではないことが分かる 檳榔の自生北限は福岡県である http://zenyamaren.org/yamaren20-027.html > この口語訳は「古事記(講談社学術文庫)」によると以下のとおりになります。 > 『(おしてるや)難波の崎から、出で立って、わが領有する国をながめると、淡島や島、また檳榔の島も見える。佐気都島も見える。』 > 注釈には「おしてるや」は難波の枕詞、「淡島はイザナミ・イザナギの二神が国産みの最初に産んだとされる産み損じの島」であり、 > オノゴロ島は「神話上の島」、檳榔の島は「空想上の島」であるらしい、さけつ島も「実在の島ではあるまい」としています。 > 檳榔とはビロウの古名であり、ビロウは熱帯性のヤシ科の植物なので、南九州や四国太平洋岸には自生していても、 > 淡路島周辺の瀬戸内海には見ることができない植物です。これがネックとなり淡路島周辺のどこを見た風景なのかわからなくなってしまい、 > 結果「オノゴロ島」も「淡島」も「さけつ島」も全て「実在ではない島」となってしまっています。 > ところが、この詩がそもそも淡路島から見て詠われたものではないと仮定して、淤能碁呂嶋候補と言われている島の中から、 > 自生ビロウが存在する島に絞って考えてみると、以外にこの詩のなぞが解けてくるのです。 > 淤能碁呂島候補でビロウが自生している島とは、唯一『小呂島』しかありません。 つまりは海洋民族国家である天津国(海の国)すなわち倭国が筑紫を起点に日本海ルートと瀬戸内ルートで西日本を席巻したのが弥生後期の列島の姿であり、その中でも富と権力を思いのままにしたのが筑紫の日向の伊都に眠る卑弥呼であったのだろう。 檳榔が南国の植物であることからも分かるように、ビロウ祭祀は南海系の文化 ゴホウラ貝などを南西諸島と交易していた海人が持ってきたと考えると>>342 、343と符合する それが皇室の重要な祭事で重視されているというのも、皇室が海人の出自であると考えれば妥当だろう http://zenyamaren.org/yamaren20-027.html >なぜ、ビロウが手掛かりになるのかというと、このビロウという植物の古代天皇制から現在の天皇家にいたる祭祀上の特殊な位置づけがあるからです。 >まず第一に、古代天皇制においてビロウは「最も神聖な植物」とされたということです。 >皇族の中でも特に高貴なものに許された乗りものに、ビロウ毛の牛車というものがあります。屋根材をビロウの葉で覆っているものだそうです。 >なぜこのような牛車が高貴なものしか許されなかったのか? >おそらくそれは、天皇の即位式である大嘗祭に由来しているのではないだろうかと思われます。大嘗祭においては、天皇として即位する >儀式のため百子帳という小屋を建て、そこが天皇になるための禊の場となるのだそうです。 >この百子帳の屋根材は、なんと今でもビロウの葉でなくてはならないのです。 >ビロウ毛の牛車とは、おそらくこの百子帳を日常にアレンジしたものであろうと思われます。 >ならば、その使用は天皇にごく近い血筋をもったものしか許されなかったことは、想像に難くありません。 >>347 の続き >第二に、ビロウは古代から続く信仰のシンボルでもあった可能性があるということです。 >折口信夫によると、ビロウの葉は風を起こす呪具であり、扇の元となったといいます。風は航海や海戦にとって、命を左右する自然現象です。 >古代において、呪術と科学は同じですから、ビロウの葉はシャーマンにとって風をあやつることができる(とみせることができる)、 >重要なアイテムだったのです。 >また、吉野祐子によるとビロウの葉は扇の原型でもあるが、幹は男根の象徴であり、蛇信仰のシンボルでもあったといいます。 >実にビロウは、日本の風土と信仰に深く根ざす植物でもあるのです。 >そもそも、ビロウ祭祀を行っていたのは、南方から流入した系統の民族であり、沖縄・南西諸島のには必ずビロウが自生しています。 >宮崎県の天孫降臨伝説が残る青島は、まさに北半球最大のビロウ自生地であり、青島神社の元宮は縄文時代からの遺物が発掘されます。 >古代天皇制に南方の習俗・祭祀が取り入れられているのは、古墳時代の遺物からもゴホウラガイの腕輪などからも推測されますが、 >山幸彦・海幸彦伝説の起源を考える上でもとても興味深いのです。 > >さて、このようなビロウが沖ノ島や小呂島に自生しているのは、どんな意味があるのでしょうか?沖ノ島は4世紀から9世紀までつづいた >天皇家による古代祭祀が行われた場所として、当然祭祀目的で持ち込まれたことが推測できます。 >なぜなら、沖ノ島のビロウは海岸からは遠い崖の上に自生しているので、とうてい海流による自然分布とは考えられえないからです。 >このことは、総合地球環境学研究所の秋道尚彌名誉教授が沖ノ島世界遺産関連の論文の中で指摘しています。 沖ノ島の檳榔が自生ではなく持ち込まれたものであるというのも重要ポイント そこが皇室にとっての重要祭祀の地であったことの裏付けとなる 倭国とは対馬海峡の海洋国家。 だが筑紫は本拠地ではなく、倭王ニニギは宗像氏族に守られて筑紫の日向つまり伊都国に赴任した。 どこから来たのか? 記紀には高天原とあるが、それがどこかはわからない。 だがアマテラスを祭る国家祭祀が行われていた場所が対馬海峡の中にある。 世界遺産にも指定された沖ノ島だ。 ここが高天原の有力候補だろう。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか 経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、 佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、 日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、 朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。 このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。 この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で 比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。 ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。 日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。 倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。 有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。 しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。 その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。 敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。 これが、リアルな2世紀末の歴史。 >>342 淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系 淡路島にいた勢力は瀬戸内海を東進してきた北部九州の海人勢力 舟木遺跡の情報ありがとうございました。 淡路島の五斗長垣内や舟木遺跡が大阪湾でなく西を向いた位置にあることから、近畿の勢力がわざわざ淡路島に鉄工房をつくったのではなく、瀬戸内海をやってきた人たちが つくった遺跡との意見は、これまでネットでも見られました。 伊邪那岐・伊邪那美がやってくる前に、加茂族に代表される北部九州の人たちが、戦乱をのがれ海人の力を借りて瀬戸内海をやってきたのではと考えました。 やってきた人たちは、農地の開墾や漁業など生活に鉄道具は欠かせない時代となっていたので、力をあわせて中心に近い淡路島に鉄工房をつくったのではないでしょうか。 ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた . >>342 >淡路島の製鉄遺跡の技術は九州系 淡路島は倭国(阿波)の数ある島の一つ と、何度言えばw 鍛冶遺跡も同前。 @阿波 神武天皇という漢風諡号じゃなくて神倭伊波礼毘古命という和風諡号を日本人は使うべき >>343 近江にも製鉄遺構が見られるが、近江には3世紀までに北部九州の海人族である安曇が進出しており、 これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる 「安曇海人の軌跡」の情報ありがとうございます。 最近は安曇の検討も進み、ネットで知られてきましたが、まだ知らない情報でした。 私は、海神・豊玉彦を調べている中で、渥美半島の白浜から三河湾の白浜、豊田市の白浜、津島市の白浜の経路をたぐり、二つの稲部を経て琵琶湖を渡り高島市の白浜につづく、日本の中央部を横断する道を探し当てました。 豊玉彦が銚子の砥石などを舞鶴の火明命の地に運ぶ道ではないかと考えました。 改めて高島市付近をみると、鴨稲荷古墳が見つかりました。加茂族も無関係ではなさそうです。 高島市を見下ろす位置に稲荷山があり、訊ねたことがあります。もしかしたら東征を終えた豊受大神は丹後に身を引いた前後に、この高島を訪ねているかもしれないと考えています。 海神・豊玉彦が国造りに貢献したことの感謝に出向いたのでしょう。この部分は私の古代ロマンです。 >>343 >これも淡路島同様に九州の海人の遺跡だとわかる 九州には、倭国(阿波)の海人族(忌部)のような部族は認められない。 @阿波 矛でかき混ぜは鳴門の渦潮を表してる 高天原は渦潮が見える山 いにしえの人々の気持ち、ロマンが感じられないセンスのない答えはいらない 高天原は海と大空が繋がるところ 美しい大海大空が見れるところ 天命を感じることができるところ 私は淡島粟島は九州の淡海にあった島が発祥と見ている 数ある福岡のあわ島神社も創建が不明な所もある 朝倉日向の淡島、川崎の淡島 古遠賀潟や多くの河川が埋めたてられた土地になってしまったから 淡海のイメージが伝わらないだけ 万葉集の淡海にヒントがあると思う 万葉集の淡島は阿波志摩という表記がある 阿波のどこか 徳島の善入寺島は古くから粟島と呼ばれてる 淡島は善入寺島のことだろう 淡島(粟島・善入寺島)の増水、淡路島の渇水で失敗した、伊邪那岐・伊邪那美の開拓は次に愛媛(伊予)に進んだと思われる。 理由は、 古事記では2番目、日本書記本文では3番目に国生みしたと記している。 神生みでは建築の神々を最初に生んでいて、石土毘古(いわつちびこ)神が石鎚山に祀られている。 伊予は「伊予二名州(いよのふたなしま)」と記しているが、この二名の解釈がいろいろ出ている。 A、古く四国は東西に「伊国」「予国」と二つあった説。 B、四国は「面四つあり」と記していて男女二つのペアに分かれているため、二名とした説。 C、二名とは伊予と愛媛とする説 ホワイトケープの考え 1、二名とは伊予開拓の神の名である、伊予津彦、伊予津姫のことと考えた。 2、伊予津彦は伊予開拓時代の伊邪那岐で、伊予津姫は同じく愛媛開拓時代の伊邪那美の当時の名と考える。 3、伊予は伊都国の伊で土地を広げる意味、伊都国の将来を預ける意味があると考える。 4、愛媛の名は、伊邪那美の元名あるいは、伊予時代の愛称と考える。 >>364 >淡島は善入寺島のことだろう そうだね。 あの辺り一帯は「忌部の郷」だから。 国の始まりだったのだろう。 @阿波 >>370 日本@名無史さん2019/01/20(日) 01:31:36.57 伊予にフタナという地名があったんじゃないの? 愛媛県に3か所ありますネ @ 佐多岬半島の中程の伊予灘に面する二名津。 A 宇和島市三間町の二名駅、二名小学校、二名郵便局。もともとは二名の字があったのでしょう。 B 久万高原町の二名川、字の二名。 二名津を訪ねてみましたが、古代との結びつきを感じさせるものはありませんでした。 やはりここは、二つの名前と考えた方が良いように思います。 伊邪那岐・伊邪那美の国生みという名の開拓は、愛媛から讃岐に進んだと思われる。 「伊予国は愛媛といひ、讃岐国は飯依比古といひ、粟国は大宣都比売といひ、・・・」 とあるからの推定。 1、主に讃岐平野西部の丸亀・善通寺・琴平・三豊付近の開拓にあたったと考える。 2、善通寺市の旧練兵場遺跡群は、吉野ケ里遺跡に匹敵する大きな遺跡で。近隣集落の中心都市の様相を示す。 3、詫間町の先半島にある紫雲出山の高地性集落は、ここにやってくる船を待ち受け迎えていた施設と考える。 4、この付近には竜王山が二つもあり、後の竜王こと豊玉彦が国生みの跡を訪ね、国生みの足跡としたと考えている。 古代の名前で伊がつけば ほぼ渡来系と思ってよし 山陰山陽九州越えて四国か かなり難しいような >>376 名前:日本@名無史さん 2019/01/24(木) 17:14:29.61 >古代の名前で伊がつけば >ほぼ渡来系と思ってよし 以前からなんとなくそのように感じてましたが、 「伊」のルーツはどのあたりだったのでしょうねえ?? 伊?それが判れば何でも解決するわ 出雲?五十猛? 伊大氏?加邪?糸島?五十島? 五十は、イズともイトウとも? 伊邪那岐、伊邪那美の国生みは、愛媛・讃岐を経て阿波に戻ってきたと思われます。 その経路は定かでないが、弘法大師ゆかりの雲辺寺近くの竜王山付近を越えたと考えます。 雲辺寺の展望台からは竜王山が良く見えます。廟が竜王山方向を向いています。 弘法大師ゆかりの寺(48か所)は、多くが国生みなど建国とかかわりの多い箇所に見つかります。 阿波に入った二人は、淡島の失敗を繰り返さないよう、今度は川上から開拓を始めています。 伊邪那美を祀る神社が、川上から三社並んでいます。 @ 天椅立神社 徳島県東みよし町昼間 吉野川北岸にあり、この付近から耕作地が広がる。 A 伊射那美神社 徳島県美馬市美馬町中島 B 伊射那美神社 徳島県美馬市穴吹町三島 長女の天照大御神は、南岸の加茂神社付近で誕生したか幼少期を過ごしたかもしれない。 加茂神社付近から山に入った先に、日ノ丸山があり関係する伝承が残る。 >>379 >伊邪那美を祀る神社が、川上から三社並んでいます。 伊邪那美の陵墓は、高越山山頂奥の院。 それら三社は麓へ分社したものだろう。 @阿波 阿波開拓の中で伊邪那美は亡くなったと思われます。 徳島県美馬市穴吹町三島の伊射那美神社を宮としていたころと思います。 謎はいくつもありますが、亡くなった場所についての調査結果と考えです。 @ 伊邪那美が亡くなった事故があったところは、熊野の「花の窟」付近と考えます。 A 阿波から一時的に七里御浜に沿う海岸段丘の内側を流れる産田川沿いの開拓にやってきたときの事故と思われる。 B ここは、水を得やすい開拓適地である。 C 産田神社には伊邪那美と死の原因とされる迦具土神が同時に祀っている。 D 3人姉弟の末の須佐之男のみをつれてやってきていたと考える。 E 須佐之男命は出雲の熊野大社に祀られていて、熊野と関係が深い。 F 「土俗この神の魂を祭るには、花の時には花を以て祭る、また鼓吹、幡旗を用て歌い舞うて祭る」と紀は花の窟に葬ったと記す。 G 花の窟がある山は竜宮山の名がある。後の竜王こと豊玉彦がやってきて、国生みの足跡に残したのだろう。 H 伊邪那岐は一緒でなかった。このとき伊邪那岐は西摂の開拓を行っていたと思われる。猪名川上流にもう一つの竜宮山がある。 阿波開拓の中で亡くなった伊邪那美の死の原因は何だったのでしょう。 記紀はか火之迦具土神の出産事故のごとく記しているが? @ 火が関係することは間違いないと思われます。 A 亡くなった後、駈け付けた伊邪那岐に「我を見たまひそ」と、顔を見ることを拒んでいることから、恐れ多いことながら火傷の事故と考えます。 B 衣に火が付いたか、寝所の建物に火が付いた事故と考えます。それも夜の事故かもしれません。火之加具土神の別名が火之夜芸速男神だからです。 C さあ大変です。七里御浜から阿波に向けて速舟が出たでしょう。「熊野の諸手船」です。 D 遅れて伊邪那美も阿波に運ばれます。潮岬を回り御坊の日ノ岬付近から紀伊水道付近を渡り、阿波を経て吉野川を遡ります。 E 約220km、到着は翌日か翌々日になったと思われます。看病したのは彌都波能売神かもしれません。彌都(水)と波からの連想です。火傷の手当ては水で冷やすことが大事です。 F 必死の看病も甲斐なく亡くなりました。 熊野の「花の窟」付近で火傷を負った伊邪那美を、阿波に船で運んだことが、祭りとして残されていた。 熊野速玉大社の御船祭りに、この大事故の痕跡を見ることができる。 @ 熊野速玉大社には伊邪那岐と伊邪那美が祀られている。 A 御船祭りは、伊邪那美が神幸船で熊野川を1kmほど遡った川中の御船島に渡り、再び社殿に戻ってくる祭事である。 B この祭事は伊邪那美が無事に戻ってくることを願う祭事である。 B 9艘の早船による競争や「諸手船」の上で「ハリハリ踊り」などが行われる。 C 船の先頭には、赤い頭巾を長くたらし、赤い衣に黒い帯を締めた男が、「ハリハリセ」と言いながら舳先で踊る。時には前方を指さすしぐさをする。 D 「ハリハリセ」は「速く、速くせー」に聞こえる。この男こそ伊邪那美命を阿波に運ぶ船の指揮を執っている加具土神の姿であろう。 E 神宝館には神輿が乗った神幸船が残る。その神幸船には、船を漕ぐ櫂を持った稚児像が乗せられる。須佐之男命が必死に船を漕ぐ様子である。 F 須佐之男命が泣き虫で、母親思いに育ったのは、この時の記憶によると思われる。 G このように事故が祭りとして残ったのは、伊邪那岐が伊邪那美と別れを決断した時、速玉之男と事解之男に事故を残すよう命じたためと思われる。 熊野で亡くなった伊邪那美命は、阿波に運ばれて吉野川市の高越山の頂に葬られたと思われる。 その「もがり」の地は麓の山川町と推測した。 @ 遺体は熊野から早船で、美馬市穴吹町三島にある、当時の宮、伊射那美神社にはこばれた。 A 猪名川から駆けつけた伊邪那岐は、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つけにかへつるかも」と、怒りのままに加具土神を斬ってしまう。 B その血は湯津石村に走りついたと記す。その湯津石村は下流にある、岩津と湯立のことと思われる。吉野川をはさんだ2地点である。 C 2地点の中間は舟戸で、船で運ばれた遺体はここから、近くの小高い山にある「天神社」に運ばれた。ここが「もがり」の場所となった。 D 40mほどの石段を上った「天神社」は今も荘厳な雰囲気がのこる。伊邪那岐は近くの天皇原の仮宮から「もがり」に通ったのだろう。 E この小さな山川町の扇状地が、もがりの平野となった。各地から伊邪那美の死を悲しみ集まり涙を流しただろう。 F 3人の子供たちは、天神社の反対の丘から、見送ったかもしれない。 G 扇状地には、住吉や春日など後に活躍する人の姓が残る。扇状地の東と西に忌部山があり、天神社を差しはさみ記録している。 >>1 神武東遷と魏志倭人伝では時代が合わないので論外 >>390 神武東遷と魏志倭人伝では時代が合わないので論外 意見で言っている意味が、今ひとつわかりません。 魏志倭人伝は卑弥呼(天照大御神)が亡くなる前後のことが書かれています。 神武東征は卑弥呼(天照大御神)が亡くなって、台与(豊受大神)の時代に行われたと考えています。 これを時代が合わないと表現しているのですか? はたまた同じ3世紀の出来事なので同じ時代と表現しているのですか? 卑弥呼の前の男王70〜80年が後漢代に相当する筑紫の日向三代だ。 倭国大乱で神武らが畿内へ敗退し、九州に卑弥呼、大和に饒速日王権と神武らの小部族がいた。 天皇の年齢が過大に見積もられているのを修正すれば、神武東征は2〜3世紀にかけてになる。 >>392 そもそも卑弥呼がアマテラスだというのが間違い 仮にそうだとしたら、記紀にもっと詳しく邪馬台国のことが書かれてるはずだが 実際には神功皇后の章に、他と文体の違う注釈として、魏書に倭国の女王が魏に朝貢したとの記述がある。とだけ書かれている。 >>394 古代の寿命が盛られてるのは、意図的な捏造ではないよ。 魏志倭人伝でも 邪馬台国の住人は、皆百歳、或いは80歳や90歳である。と書かれていたり 当時の倭国には暦の概念はなくただ春に植えて、秋に収穫する。と書かれている。 3世紀の日本に太陰暦による一年の概念がまだ導入されてなかったことは、魏志倭人伝が証明している。 古代の日本では春から夏の植物の生育の時期で一歳、秋の刈り入れから冬が終わるまででまた一歳と 1年で2つ齢をとるように数えていたことが、結構容易に推測できる。 古代天皇の年齢が高齢すぎるから嘘だとすると、邪馬台国自体も嘘だと言うのと変わらない。 どこかの医大の先生が、縄文人の人骨の鑑定を行った事があるが、12歳未満の子供の例を除外すると 3/4は70代まで生きていたことが確認されている。 縄文時代だと乳幼児の生存率は低くなってしまうが、十分に成長した個体は、今とあまり変わらない寿命だったのよ。 だからこそ、欠史八代を架空ではなく実在として現実的な年齢を仮定すると、神武は2世紀末の倭国大乱の時代の人物になるんだよ。 そして神武が去った後の倭の王都である筑紫の日向で共立されたのが卑弥呼であったのだろう。 >>396 魏使は見るからに50歳の男が、オレは100歳だと言うのを信じたんだよな >>396 自分が矛盾したことを言ってるの分かってる? >>398 寧ろ百歳代がゴロゴロいたとしたら、世界史レベルのミステリー。 邪馬台国の場所なんかよりもよっぽど重要 >>401 見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年 「其人寿考 或百年或八九十年」 人々は寿命が長く、ある人は百歳、ある人は八、九十歳までも生きる。(藤堂明保「倭国伝」) →集団のうち何人かは長老がいたんだね 縄文時代に半数以上の人々が七十代まで生きていたんだから、しごく当たり前の状況 伊邪那岐は、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つけにかへつるかも」と、怒りのままに加具土神を斬ってしまった。 伊邪那美命の死の責任をとった加具土神だが、無実と思われる根拠。 @ 加具土神は伊邪那美命による神生みの中の1神であって、伊邪那美命の出産ではなかった。 A 伊邪那美命は火の事故で亡くなったと思われるが、加具土神自身の過失ではないと思われる。 B 加具土神の過失なら、加具土神の姿と思われる御船祭の船の舳先で活躍する伝承は残らなかったであろう。 C 熊野の産田神社では伊邪那美命と火之加具土神が同時に祀られている。過失責任があればこのようなことはあり得ない。 D 加具土神は埴山姫をめとって和久産巣日神をすでに生んでいた。成人した男性であったことを一書(第二)二記している。 E 和久産巣日神は後の豊受大神(台与)を生んだと記している。先祖に罪のある人の末裔が女王になれるはずがない。 F 高天原は加具土神に罪がない中、伊邪那岐に殺されたことを知っていたと思われる。 G 須佐之男命と和久産巣日神は幼馴染だったと思われる。罪のない加具土神の子であることを知っていて、和久産巣日神の孫との間に豊受大神をもうけた。 H 天照大御神が亡くなった後、男王たち国中不服の時、豊受大神(台与)が選ばれ国中が収まったのも、これらの経緯が知られていたためと考える。 >>404 其人寿考だから、稀に長寿がいるという解釈はおかしい。 >>407 「其人寿考」の解釈としては 何人かがご長寿というわけではない。 例えば「其人很高」と書けば、その集団は背が高いとなる。 これを「集団の何人かは背が高い」とは解釈しないのと同じで 「其人寿考」は集団としての邪馬台国の特徴を書いているので 大多数はご長寿だったと受け取るのが正しい解釈。 縄文期の乳幼児を除いた3/4が70代まで生きているが 80〜100というのはかなり特異なご長寿大国であり 医療の発達していない3世紀では、これは当たり前のことではないし 同じ先生の研究でも弥生人も70代までは生きていた形跡はあるが 80〜100というのは稀に見るレアケースだとされている。 結局、邪馬台国で寿命を盛られていたか、2倍説かが妥当となる。 大体70歳まで生きてるんなら集団として長寿だろ 平均がそうなら中には80〜100歳の長老がいておかしくはない >>409 80〜100歳が稀にいるか、皆その程度まで生きるかは、雲泥の差。 魏志倭人伝の書き表し方は後者だと言うだけ。 そもそも魏志倭人伝では、邪馬台国には暦がない。と、ハッキリ書かれている。 暦がないのに歳がわかるとはこれ如何に? 普通よりもご長寿大国であった記述と合わせて考えれば、独自の年齢の数え方があったとしか言いようがない。 それも魏志倭人伝にヒントを求めると、同じ文から求められる。 其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀 春に耕作して一歳。秋に収穫して一歳。 太陰暦も太陽暦もない1700年前の出来事なんだよ。 354日や、365日、384日で一年が過ぎて、一つ歳を取るという概念がまだなかった時代に、今の年期の常識は捨てなきゃね? >>410 言わんとしてることは十分理解できるが、当時の大陸だって30代半ばまで生きてる人は普通にいたわけで、同年代の倭人を見たんならことさら「其人寿考」とは書かないんじゃないか? >>410 >暦がないのに歳がわかるとはこれ如何に? これ判断したのは魏使だから >其俗不知正歳四節 但計春耕秋収 為年紀 >春に耕作して一歳。秋に収穫して一歳。 誤読 >>412 太陰暦を使ってない事は、魏使の勝手判断ではないよ? 年齢にしても当人らに聞くか、対応した倭国の接待役に聞いたはずだよ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる