神武・倭国の連合東遷説
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神武・倭国の連合東遷説とは 神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。 東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。 【連合東遷説の定義その1】 定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 >>450 意見をありがとうございます。以下は私の意見です。 ● 岩戸隠れ=皆既日食の件 この説は私も疑問に思っています。岩戸隠れは、須佐之男命が出雲に向かう若い時の出来事で、天照大御神(卑弥呼)が亡くなった時と年代が合わないと考えています。 天照大御神と卑弥呼には、多くの共通点があることは、安本美典など他の方も述べているので省略します。 天照大御神の父母の伊邪那岐・伊邪那美の名が魏志倭人伝に登場するクニ名から、1文字ずつ採った名であることを見つけていて、天照大御神と卑弥呼が同じ時代に生きたことや、跡を継いだ人物が共に女性であることの根拠は大きいと考えています。 ● 狗奴国との決着の戦いの件 神武東征が行われたのは、晋への「最後の遣使」265年頃の後と考えていて、魏志倭人伝に記されていないことは、矛盾がありません。 また、最近の研究では、破鏡が弥生後期終末の熊本平野・大野川流域の住居跡から多く見つかっています。 これは終末期のこの戦いに参加した兵が、家族との別れに親子夫婦の絆として持参した破鏡が、あわただしい中で紛失したものと考えています。 同じ地域に鉄鏃が多く出ることと、古墳時代になると破鏡が全く出土しないことが、戦いのあったことを示唆しています。 >>453 破鏡の出土分布図を貼り忘れたので追加します。 「破鏡の伝世と副葬−選考事例の観察から−(辻田淳一郎)」より 破鏡分布図(弥生時代後期〜終末期) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu57.jpg >>454 中国で皆既日食が見れただけで、日本列島上空では皆既日食にはなってないと言うのは、国立天文台の計算で揺るがない事実 卑弥呼の前の男王が日向三代なら、神武東征が倭国大乱の影響になる(大乱そのものは筑紫における政権交代)。 その後に天照のモデルとなる卑弥呼の時代があり、八咫の鏡が伊都で作られた。 だか、記紀では日向三代の祖が天照であり、これは考古学的にも難しすぎる(そんな時代に大型鏡を製作する技術はない)。 やはり天照は複数の年代の複数の人物が習合された結果だろう。 天照(海を照らす)が対馬海峡の海洋王なら、天照像の成立に日食の件も影響はあっただろう。 >>453 仮に欠史八代の天皇をいなかったとしても、4世紀の14代仲哀天皇が6代になり、265年ではやはり時代が合わないし 21代雄略天皇が5世紀の人物であることからも、やはり辻褄が合わない。 神武天皇が宮を構えた、橿原遺跡の歴史ももっと古いので、その点でも、九州邪馬台国連合の東征は現実味に欠ける。 そもそも欠史八代の天皇の実在性を明確に否定できる証拠もないけどね。 本論文の結果からすると,西暦247 年3 月24 日の日食は北九州でも深食である.とくに北九州市や北九州沿岸の島で は皆既であった可能性がある。 北九州市も皆既だな 石川から福島にかけて皆既日食が見られたんじゃなかったかな? >>464 それは248年9月5日かな >>463 は247年3月24日だろ >>460 >仮に欠史八代の天皇をいなかったとしても、4世紀の14代仲哀天皇が6代になり、265年ではやはり時代が合わないし 21代雄略天皇が5世紀の人物であることからも、やはり辻褄が合わない。 意味がよくわかりません。 >>神武天皇が宮を構えた、橿原遺跡の歴史ももっと古いので、その点でも、九州邪馬台国連合の東征は現実味に欠ける。 橿原遺跡は、縄文時代から奈良時代までにわたる各時代の遺跡群とウィキペディアは記しています。 橿原宮に近いが、記紀の記述から解釈した、神武が紀元前660年即位説は多くの人が否定しています。 遺跡から神武に結び付くものは何も出ていません。 大和王権が確立する古墳時代に入る前の纏向遺跡が現在、東遷の有無についての焦点です。 >>441 に自らの過ちを認める度量があるかが気になるところ 国生み研究の続きです。 山川町の天神社での「もがり」を終えた伊邪那美命の遺体は、近くの高越山頂に運ばれ葬られたと思われます。 その根拠は @ 山頂には伊邪那美命の神陵と伝わる遺跡がある。 A 山頂の高越寺の修験の人たちが、神陵をお守りしている。 B 「火神、死せる時成る」神々に8柱の山神が登場する。伊邪那美命を山頂に運ぶ際、活躍した山神と考える。 C 高越山は岡山県井原市にもう一つあり、結ぶと比婆山に結ばれている。 D 比婆山は後に伊邪那岐が吉備開拓の中で設けた陵と思われる。近くの二つの吾妻山が指し示している。 G 比婆山、阿波の高越山を結ぶ中間には、二つの竜王山があり、後の竜王こと豊玉彦が訪ね残したのだろう。 H 阿波の高越山の真北には、那岐山があり伊邪那岐は吉備で伊邪那美の陵の場所を探して登ったのだろう。 I 阿波の吉野川市付近にある古い神社は、多くが高越山に向いておかれている。 J 瀬戸内海地方で見つかる、笑顔の分銅形土製品は、伊邪那美を記憶したものではないだろうか? 比婆山と高越山の関係 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu58.jpg >>431-432 その和歌こそが淤能碁呂島が九州であったことを証明している アジマサの島があるというがアジマサ=檳榔は福岡が北限で瀬戸内海には生えていない これにより記紀の記述が大和朝廷が九州王朝時代を隠蔽していることがはっきり分かってしまう >>345 、>>347-348 参照 卑弥呼共立の倭國は、前漢の頃から変わらず北部九州。 倭國の乱は、後漢時代に倭を代表していた玄界灘側の王家(天孫族)と、新興勢力であった有明海側の王家(熊襲)との騒乱。 有明海側の有利で和平の手打ちしたため、祭祀王(卑弥呼)は有明海側が擁立した。 しかし王が博多湾沿岸(伊都)に移り本家の有明海沿岸が手薄になったので、そちら(狗奴国)で王を名乗るものが現れた(卑弥弓呼)。 その頃、一足早く大和に東征していた玄界灘勢力の一派(饒速日)が纒向に大型建物の祭祀施設を建てていた。 敗者となった玄界灘勢力の本体(神武)が大和に落ち延びて合流した。 これが、リアルな2世紀末の歴史。 >>475 その過剰反応が事実であることを如実に物語っていますね キミはなぜ自分の嘘がすぐバレるか分かってないんですねw >>476 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 思い込みからの先走り。 誇大妄想と被害妄想の錯綜。 隣の国から密入国してきた人たちの孫と極めて類似性が高い。 真実を広く流布されたら困る畿内インチキ野郎が発狂してて草w >>479 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの? マルチスレッドコピペが卑しいという君の独自の価値観がどこにでも通用すると思っている無能w そもそも各スレの趣旨に沿って貼られたならマルチとさえ言えないわけだがそんなこともわからない無能w >>476 > その過剰反応が事実であることを如実に物語っていますね 誰も過剰反応していないのに、突如として見えない敵と戦い出す無能っぷり。 > キミはなぜ自分の嘘がすぐバレるか分かってないんですねw 誰も何も言ってないのに、突如として反論し出す無能っぷり。 お前が無能だと罵られてるのは内容ではなくマナーの問題な。 >>481 無能と言われて無能と返す芸の無さに呆れるわwww >>482 いや誰一人としてお前の言い分に同意してないわけだが お前が一人でどう喚こうがお前が無能の敗者であるという事実は覆らんよw >>483 ブーメラン命中して慌てふためく無能乙w >>484 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(二度目) >>485 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(三度目) >>486 >そもそも各スレの趣旨に沿って貼られたならマルチとさえ言えないわけだがそんなこともわからない無能w ↑ 読めないの?w >>453 実在がはっきりしている天皇の平均在位年から延長線を引いたグラフを見ると、神武は280年〜290年頃になる 東征は台与の末期かその次くらいじゃないかな 意見をありがとうございます。 およその時代を知るには、このグラフは分かりやすくて良いと思います。 図から見ると神武天皇(=280〜290は)予想した退位年と思われます。 即位年については、いろいろな意見が出ていて、具体的には277年を想定しています。 根拠は @ 神武東征隊は各地に鷹の山名や〇尾山の山名を残し、自分たちは神の遣い鳥と認識していたように見える。 A 神武は鳥見山に天神を祀り大孝を申し上げた。この鳥は、出発地の朝倉の鳥見山の地名移動とされている。 B 日本書紀は辛酉年の1月1日に即位したと記されているが、辛ではないが277年は鳥年である。 C 神武は奈良に入った後、宮殿を建てたり、后を娶るなどして、あえてこの酉年を待っていたように見える。 D 寅年に出発したと記していて、まる7年をかけたことになる。 先に天孫降臨は7年をかけた南九州の灌漑稲作を普及する遠征だったことが、南九州の〇〇丘と〇〇岡という名の経路の名付で解けている。 神武は初めから、これに倣い7年をかけ酉年の1月1日に遷都の完了を計画していたと思われる。 >>489 >>486 ムキになってないで自分の読解力の無さと先走った妄想を反省して詫びれば済む話 >>481 Wikiからの引用 マルチポストがマナー違反とされるのは、以下のような理由による 回答が複数のコミュニティーに分散してしまい、知識の集積という1コミュニティーの目的にそぐわない。 ネット資源(サーバーや回線の能力)とて無限ではない。同じ内容の記事をばら撒くのは資源の無駄遣いといえる。 その問題に関心のある人は類似した複数のコミュニティーに参加して新規投稿をチェックしていることが多いが、あちこちの同じ投稿に対してそれが本当に目新しい内容かを峻別しなければならなくなる。 他のコミュニティーで付けられた回答を知らずに同内容の回答を付けてしまったり、他のコミュニティーですでに解決したことを知らずに検討を続けたり、善意の回答者の労力が無駄になる。 この場所だけでは質問が解決するか不安であるという不信感を表明することと、結果としては同じである。 こうしたことから、回答をする意欲を失わせたり、不快な気分にさせてしまう場合がある。 失礼にならない方法 しかしながら、どうしても早く回答が欲しい時や、多様な回答を得たい時、そのコミュニティでは回答が得られそうにない場合などにマルチポストを行なう場合もありえる。 その場合、少なくとも以下のことを書き加えた上で文章を投稿することが望ましい。 マルチポストしていることを明記する。 他にマルチポストしたページ(サイト)のURLを明示する。(回答者が回答を書き込む前に、すでに同一内容の返答がないか等を確認できるようにするため。ただし質問掲示板の多くは類似する事柄を話題とする他の掲示板へのリンクを張る事自体、ルール違反、マナー違反とされる場合がほとんどである) マルチポストに至った経緯(すなわち理由)を説明する。 問題が解決した場合はマルチポストした全てのページに問題解決の報告を行う。 応神天皇元年を390年と考え、そこからの平均在位を計算できる。 平均在位と言っても短すぎるのも長すぎるのも、 正確な数値が出ないと思われるので、 30代を基準に25代〜35代をランダムに採って見た。 ・25代平均 応神天皇390年〜39代弘文天皇没672年 11,28年 ・28代平均 応神天皇390年〜42代文武天皇没707年 11,32年 ・30代平均 応神天皇390年〜44代元正天皇没724年 11,13年 ・33代平均 応神天皇390年〜47代淳仁天皇没764年 11,33年 ・35代平均 応神天皇390年〜49代光仁天皇没781年 11,17年 11年弱が平均在位。 さらに古くなると若干在位が短くなると考え、 「11年」で計算してみる。 ただし神功皇后は確実な一代と見なし、15代遡ってみる。 11年×15代=165年。 応神天皇390年ー165年=225年。 神武元年は3世紀前半。 卑弥呼の時代である。 すなわち大和は邪馬台国ではない。 邪馬台国スレでも欠史八代スレでも使えるソースを両方に貼るのはマルチとは言わない バカには分からんのだろうな >>496 Wikiからの引用 マルチポストがマナー違反とされるのは、以下のような理由による 回答が複数のコミュニティーに分散してしまい、知識の集積という1コミュニティーの目的にそぐわない。 ネット資源(サーバーや回線の能力)とて無限ではない。同じ内容の記事をばら撒くのは資源の無駄遣いといえる。 その問題に関心のある人は類似した複数のコミュニティーに参加して新規投稿をチェックしていることが多いが、あちこちの同じ投稿に対してそれが本当に目新しい内容かを峻別しなければならなくなる。 他のコミュニティーで付けられた回答を知らずに同内容の回答を付けてしまったり、他のコミュニティーですでに解決したことを知らずに検討を続けたり、善意の回答者の労力が無駄になる。 この場所だけでは質問が解決するか不安であるという不信感を表明することと、結果としては同じである。 こうしたことから、回答をする意欲を失わせたり、不快な気分にさせてしまう場合がある。 失礼にならない方法 しかしながら、どうしても早く回答が欲しい時や、多様な回答を得たい時、そのコミュニティでは回答が得られそうにない場合などにマルチポストを行なう場合もありえる。 その場合、少なくとも以下のことを書き加えた上で文章を投稿することが望ましい。 マルチポストしていることを明記する。 他にマルチポストしたページ(サイト)のURLを明示する。(回答者が回答を書き込む前に、すでに同一内容の返答がないか等を確認できるようにするため。ただし質問掲示板の多くは類似する事柄を話題とする他の掲示板へのリンクを張る事自体、ルール違反、マナー違反とされる場合がほとんどである) マルチポストに至った経緯(すなわち理由)を説明する。 問題が解決した場合はマルチポストした全てのページに問題解決の報告を行う。 >>497 君が文意を理解できないバカなのはよくわかった 似たテーマを扱うスレが多すぎかな。 邪馬台国も欠史八代も金印も神武も、極めて近接した年代の事象を扱っているし、登場人物が被っている。 >>496 さっさと詫びてキチガイ荒らしを退場させてくれ もとはと言えばあんたが勘違いして噛み付いたのが始まりなんだから >>471 コレを見るとやはり卑弥呼の時代にはまだ九州が中心だったんだろうな 神武東征は台与かその後というのもその通り >>471 実在天皇のグラフの線は意外ときれいなんだな これなら延長線で逆算してもそう大きな誤差は無いと考えられる とぼけてないで悪かったものは悪かったと認めなさいよ。 >>471 神武東征は卑弥呼以降、か。 これは畿内説にとっては致命的だな。 必死に言いがかりをつけるのもよく分かる。 ,..-‐‐―‐‐-..、 ,-'´ `‐、 ,i' `i、 ,l l、 ,|._ _.|、 〈_``ー=== ╋ ===‐'´_〉 l ``ー-.、____ ,...-‐'´.l ┌――――――――――――― ヽ、_| `ー' / `ー' |_,ノ | >>471 がご迷惑をおかけして / `‐、_ `ニ' ノ \ < たいへん申し訳ございません。 i'´ 、 |``r===r'´| ,___ヽ_ .| 邪馬壱建設 .| i、  ̄\/ ̄ | ╋ | └――――――――――――― |、 |、 □ .[工]├‐‐‐ュ┘ |、 ヽ、. □ ./ / ヽ、 ヽ―‐┌┐―‐'i / `<´.ゝ―└┘―く´``y ヽ、_) ┐ (_,.ノ | | | | ,! .l、 | .| | | .`lー--‐'^ー--‐'l´ ,-‐'´ | `ー-、 (. ! ) `ー--'´`ー^ー'´`‐--‐ >>505 論点はそこじゃないんだけどなw てか猿芝居って美味しいの? >>471 で惨敗した畿内キチが荒らしてるのか やはり畿内説はクズばかりだな >>507 もう506で謝罪してんだから去ってくれよ >>508 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(四度目) >>509 誠意が感じられないから受け入れられないニダ / ̄\ .| | /\_+_/\ >>474 が思い込みから糞レスをしてしまい、 |_l | l_| ご利用の皆様には大変ご迷惑を ヽ.|=ロ=|/ おかけしております。 .| | | .|_|_| (_|_) (株)くすを建設 >>510 自分の敵は一人だけだと思いこんでるようだぞ それ統失の症状なんだけどな 畿内論者がこれほど発狂するってことは>>471 の指摘は相当痛いんだな >>515 お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能 ↑ 読めないの?(五度目) 欠史八代スレじゃ誰も邪魔してないのを見りゃ単にキチガイ荒らしが 「お前は無能だから理解力がないんだろうが、俺様が貶してるのはマルチスレッドコピペという卑しい行為であって、内容には一切触れていないという事実をしっかり理解しろよ無能」 を主張してるに過ぎなって理解できると思うんだが・・・ 畿内説はもうスレを荒らすことでしか対抗できないのですね おかわいそうに・・・ ,. < ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ > 、 / ヽ _ 畿内説を否定したいあまり 〈彡 Y彡三ミ;, マルチポストを指摘くださいました皆々様を {\ \|_ \>ー 、 ト三三ニ:}畿内説の盲信者と決めつけ 人{ >、,___.>、/三 ヾ\ |わ三彡;!罵詈雑言を並べ立ててしまったことを /./ トミ;,_ Y/ \>ノー〜=- "深くお詫び申し上げます V / /!  ̄ ̄ ゝ | / _ 以後、発言には十分注意を払いますので し/'┴──----─''| ン}\-ヾ彡 このあたりでお許し願えませんでしょうか? ヾ、___ノー'''` ピタッと荒らしが止まったな 謝ったら撤退するとか行儀の良い荒らしっているんだなw >>523 ただただ>>471 が興奮しすぎただけだったからな 国生み研究の続きです。 山川町の天神社での「もがり」を終えた伊邪那美命の遺体は、近くの高越山頂に運ばれ葬られたと思われます。 その根拠は @ 山頂には伊邪那美命の神陵と伝わる遺跡がある。 A 山頂の高越寺の修験の人たちが、神陵を今もお守りしている。 B 「火神、死せる時成る」神々に8柱の山神が登場する。伊邪那美命を山頂に運ぶ際、活躍した山神と考える。 C 高越山は岡山県井原市にもう一つあり、結ぶと比婆山に結ばれている。 D 比婆山は後に伊邪那岐が吉備開拓の中で設けた陵と思われる。近くの二つの吾妻山が指し示している。 G 比婆山、阿波の高越山を結ぶ中間には、二つの竜王山があり、後の竜王こと豊玉彦が訪ね残したのだろう。 H 阿波の高越山の真北には、那岐山があり伊邪那岐は吉備で伊邪那美の陵の場所を探して登ったのだろう。 I 阿波の吉野川市付近にある古い神社は、多くが高越山に向いておかれている。 J 瀬戸内海地方で見つかる、かわいい笑顔の分銅形土製品は、伊邪那美を記憶したものではないだろうか? 比婆山と高越山の関係 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu58.jpg 最愛の妻・伊邪那美を亡くした伊邪那岐の悲しみは大きく、国生みの夢を追う気力も失せていたでしょう。 どのように再起したのでしょう。 @ 伊邪那美が言った「我が夫のために、戻るよう黄泉の神に掛け合ってみる」の言葉を信じひたすら待っていた。 A ついに待ちきれず、遺体のある高越山にわずかな供をつれて訪ね登ることとした。 B 雷のような泣沢女たちが取り付く遺体は、蛆がたかる姿となっていた。 C 火傷のある姿に「どうぞ私を見ないでください」と言っていたのに見てしまった。 D 伊邪那岐は、驚き帰る際に「もう縁を切りましょう」「お前には負けないつもりだ」とも言った E いつまでも「悲しみ慕ったのは、私が弱虫だった」と分かったのです。強く生きていく宣言だった。 F もがりの平野、山川町に下れば弱虫に戻ってしまうと考えた伊邪那岐は、反対に下りる決断をした。 G 再起の方法は「高越山」を越えることだった。 伊邪那岐の伊邪那岐からの逃避の道は、高越山から阿南への約60kmに及ぶ山岳行だった。 出所: https://www.youtube.com/watch?v=MPz5ZYhDV1I に逃避の伝承と関係する地名が残されている報告がある。 その他の根拠 @ 阿波忌部氏を継ぐ三木家が、今も美馬市木屋平の絶壁の上にあり、家裏からは高越山からの逃避の尾根道が見える。 三木家の家裏からの風景 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu59.jpg 逃避の尾根を遺すため、代々ここに住んだのだろう。 A 山を下り終え那賀川に出たところの那賀町仁宇には、竜王山が残されていて、豊玉彦が訪ね残したと思われる。 逃避の道 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu60.jpg B 那賀川の河口には、青木・橘の地名が残り、ここで最初の禊が行われたと思われる。近くには小戸神社が残る。 阿南にある小戸神社 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu61.JPG C 禊の場所を古事記は 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と記す。阿波岐原と阿波の文字を当てている。 D 天照大御神、月読神、須佐之男命は別途、山川町から呼び寄せられていて、ここで再会したのだろ。 E 近くに天照大御神生誕の地の伝承が残る、賀志波比売神社がある。 >>529 どう見ても人里から隔離された土蜘蛛の住処からの風景。 遠くから日々羨望の眼差しで眺めていたのだろうな。 ホワイトケープさん、君はえらく阿波を言ってるが、何が言いたいの? @阿波 >>531 君はえらく阿波を言ってるが、何が言いたいの? 私は「神武・倭国の連合東遷説」です。 神武は、小集団が宮崎から船で奈良に向かった出来事と考える人がいます。 そうではなく、倭国の官である彌彌が北部九州の人たちと、力を合わせた行った遷都と考えています。 これは、天照大神の強い国造りの意思を引き継いだもので、その実現に向けて代々が努力した歴史を刻んでいます。 天照大御神の強い国造りの意思は、国生みの中で阿波に生まれ吉備で育った幼い中の経験に基づくと考えています。 そのような経緯を知っていただきたく、調べてきた国生みを報告しています。 >>533 >そうではなく、倭国の官である彌彌 その倭国はどこにあるの? その中心はどこ? >北部九州の人たちと、力を合わせた行った遷都と考えています。 どこへ遷都したの? あの辺境の海の無い、湿地帯の奈良盆地? >これは、天照大神の強い国造りの意思を引き継いだもので、 その天照大神はどこにいたの? その王宮はどこにあったの? >国生みの中で阿波に生まれ吉備で育った幼い中の経験に基づくと考えています。 なんでそんなにあちこち移動しているの? その理由は? @阿波 >>471 横軸が天皇の代数になってるけど、神武以来、整然とした男系一系になっているのは、 記紀編纂時に相当の編集や創作を加えたからだ。 実際は継体(第26代)以前は王朝交代しまくりだし、男系でなくヒメヒコ制。 兄弟だったものを父子にしたり、ヒメミコを皇女にしたりと、 本当のところはどうだったかは、記紀をいくら読んでも分からない。 名前、先祖、血縁関係、根拠地、主要な業績に、史実の僅かな痕跡を辛うじて探せるくらいだ。 なので継体以後の直線を、そのままの傾きで継体以前に外挿するのは不適切で、 あまり意味がない。 >>533 質問があったので答えたのみです。 議論がしません。 >>536 >議論がしません。 だったら、ここにスレ立てずにブログにするべき。 ここはレスをやりとりする場だよ。 @阿波 >>536 >議論がしません。 ちなみに、>>534 も質問なんだが? @阿波 『ヒメヒコ制』と『通い婚』の伝統は継体以後も日本人のDNAに強固に擦りこまれており、 推古天皇と聖徳太子は明らかな『ヒメヒコ制』の復活だし、 『通い婚』については実に平安時代になってさえも続いている。 そう考えれば、3世紀頃の日本に『男系1系』によるマスキュリンな父子権力承継などあろうはずがなく、 どこへ行っても『ヒメヒコ』と『通い婚』の世界だと考える必要がある。 しかも王朝交代を繰り返してゴチャゴチャ。 例えば記紀に記された神武東征では、神武自身が呪術っぽいことをやってるんだが、 実際は記紀編纂時に消された『神武=ヒコ』に対する『ヒメ』が呪術をやっていたのだろう。 とは言え、本拠地の九州を捨てて奈良盆地に大軍団で移住するなど現実的にあり得るはずもなく、 実際は九州から追い出された海賊か山賊の類が、河内平野に上陸したところ地元の豪族にさんざんに打ちのめされ、 その後熊野からの裏口を通って奈良盆地の片隅にひっそりと住み着いたとか、良くてその程度のことだったのだろう。 悪ければ出自が九州であるというだけの、ただの流浪の移住者だ。 古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や、水銀朱の原料の辰砂原石などが大量に出土した阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡。 辰砂原石などの発見で、水銀朱の生産、利用時期が1500年以上さかのぼることが明らかになった。 また、水銀朱の生産拠点だったとされる竪穴住居跡や、祭祀に使っていたとみられている円形配石遺構など、縄文社会の解明に大きな役割を果たす。 @阿波 阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。 「石棒」 石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。 縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県 にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。 この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、 その一大製作遺跡であると考えられている。 @阿波 石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、紅簾片岩の露頭が確認でき、 この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡・滋賀県米原町磯山城遺跡の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。 また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末〜弥生時代前期初頭の土器型式で2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、 三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とほぼ一致することが確認された。さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、 近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、在地の人々による積極的な関与があったと考察される。 @阿波 伊邪那岐は伊邪那美から逃げおおせ、禊をして伊都国に帰ってしまうのでしょうか。それではいかにも薄情です。 再起の国生みは吉備でした。後の卑弥呼・天照大神など三貴子を連れて吉備に向かいました。 その根拠 @ 古事記は「然ありて後、還ります時、吉備児島を生みき。・・・次に小豆島を生みき。・・・次に大島を生みき・・」と記す。 A この「還ります時」は阿波から戻る時と考えられる。 B 帰還の経路としては、小豆島は経路と逆になるが吉備上陸後、伊邪那美の陵の候補地を訪ね巡ったためと考えた。 C 高越山の真北にある小豆島の皇踏山、那岐山が候補になり、けっきょく比婆山に伊邪那美の陵がつくられたと考える。 D 本拠地は備中の国分寺跡付近と想定した。児島の浜にある龍王山から、点々と続く龍王山が国分寺跡の南の龍王山につながる。 E 神武東征隊が吉備に長くとどまったのは、吉備に足跡があり倭国が統治していたためと考える。 F 天照大御神の強い統治意欲は、この吉備での成長が大きく影響したと考える。 G 「豊葦原の千秋長五百の水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ。」と述べている。 北九州にあった卑弥呼なき後の邪馬台国を 朝鮮半島から来た天孫族が征服して現地の姫と結ばれて子供が生まれたのが天孫降臨 その首長がニニギで後に東征してヤマト王朝を建てそれが後の天皇家になったんだろ 手塚治虫の火の鳥にもそう描いてある >>545 こんどはこっちでヒトモドキが鳴いてんのかよwww 火の鳥はファンタジーだよ。 少なくとも、卑弥呼の後にニニギでは、その後の年代が詰まりすぎて無理。 国生みからの帰還の状況 伊邪那岐は三貴子を連れて伊都国に帰還し、天照大御神(卑弥呼)が女王になった。 @ 古事記は吉備からの帰還経路に、吉備児島、小豆島、大島(周防大島)、女島(姫島)、知詞島(五島列島)、両児島(男女群島)を生んだ記している。 A 伊都国帰還に五島列島と男女群島は行き過ぎなので、別な意味合いが込めれていると思われる。 B 帰還しての禊は、今津湾の小戸大神宮前の浜で今一度行ったと考える。 C 伊邪那岐・伊邪那美の子供から統一倭国の王を選ぶことは、別天つ神五柱の話し合いで決められていたので、伊邪那岐の命で天照大御神が即位した。 D 天照大御神は五柱の会合を主導した、高御産巣日神の勧めもあり、内陸の朝倉に都を定めた。 E 次図は記述に登場した吉備児島から五島列島を結んだもので、内陸の朝倉付近を通過させている。 F 朝倉遷都は帰還時に決まっていたか? 帰還後に島々を名付けたかもしれない。 帰還の経路で生んだ島々 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu62.jpg >>547 ニニギ以前の出来事であるはずの、出雲の大国主の国造りと国譲りの行き場がなくなるしな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる