神武・倭国の連合東遷説
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神武・倭国の連合東遷説とは 神武と倭国が連合して東遷した説である。略して「連合東遷説」という。 東征にあたり投馬(都萬)国の神武兄弟は、まず邪馬台国にある倭国の都・高天原に出向き当時の倭国王・台与(豊受大神)と東征・東遷を諮り、邪馬台(やまと)を大和に遷すことを決めた。 【連合東遷説の定義その1】 定義の根拠は順次アップします。皆さんの豊富な知識で良い説になるよう応援してください。自分自身が納得できた意見であれば、定義の修正・追加をしていきたいと思います。 定義1 倭国の女王・卑弥呼は天照大御神。台与は豊受大神のことである。 定義2 台与こと豊受大神は、須佐之男命の娘で出雲の生まれである。 定義3 神武・倭国の連合東遷に、博多湾沿岸のクニグニが参加した。 定義4 倭国の都・邪馬台を、奈良に移した遷都があった。 定義5 神武・倭国の連合隊は、狗奴国との戦いを決着させて出発した。 定義6 豊受大神は東遷にあたり、薩摩に出向きニニギに別れの報告をした。 定義7 倭国の女王・卑弥呼が住んだ都(高天原)は、福岡県の旧上座郡・下座郡である。 ,. < ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ > 、 / ヽ _ 畿内説を否定したいあまり 〈彡 Y彡三ミ;, マルチポストを指摘くださいました皆々様を {\ \|_ \>ー 、 ト三三ニ:}畿内説の盲信者と決めつけ 人{ >、,___.>、/三 ヾ\ |わ三彡;!罵詈雑言を並べ立ててしまったことを /./ トミ;,_ Y/ \>ノー〜=- "深くお詫び申し上げます V / /!  ̄ ̄ ゝ | / _ 以後、発言には十分注意を払いますので し/'┴──----─''| ン}\-ヾ彡 このあたりでお許し願えませんでしょうか? ヾ、___ノー'''` ピタッと荒らしが止まったな 謝ったら撤退するとか行儀の良い荒らしっているんだなw >>523 ただただ>>471 が興奮しすぎただけだったからな 国生み研究の続きです。 山川町の天神社での「もがり」を終えた伊邪那美命の遺体は、近くの高越山頂に運ばれ葬られたと思われます。 その根拠は @ 山頂には伊邪那美命の神陵と伝わる遺跡がある。 A 山頂の高越寺の修験の人たちが、神陵を今もお守りしている。 B 「火神、死せる時成る」神々に8柱の山神が登場する。伊邪那美命を山頂に運ぶ際、活躍した山神と考える。 C 高越山は岡山県井原市にもう一つあり、結ぶと比婆山に結ばれている。 D 比婆山は後に伊邪那岐が吉備開拓の中で設けた陵と思われる。近くの二つの吾妻山が指し示している。 G 比婆山、阿波の高越山を結ぶ中間には、二つの竜王山があり、後の竜王こと豊玉彦が訪ね残したのだろう。 H 阿波の高越山の真北には、那岐山があり伊邪那岐は吉備で伊邪那美の陵の場所を探して登ったのだろう。 I 阿波の吉野川市付近にある古い神社は、多くが高越山に向いておかれている。 J 瀬戸内海地方で見つかる、かわいい笑顔の分銅形土製品は、伊邪那美を記憶したものではないだろうか? 比婆山と高越山の関係 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu58.jpg 最愛の妻・伊邪那美を亡くした伊邪那岐の悲しみは大きく、国生みの夢を追う気力も失せていたでしょう。 どのように再起したのでしょう。 @ 伊邪那美が言った「我が夫のために、戻るよう黄泉の神に掛け合ってみる」の言葉を信じひたすら待っていた。 A ついに待ちきれず、遺体のある高越山にわずかな供をつれて訪ね登ることとした。 B 雷のような泣沢女たちが取り付く遺体は、蛆がたかる姿となっていた。 C 火傷のある姿に「どうぞ私を見ないでください」と言っていたのに見てしまった。 D 伊邪那岐は、驚き帰る際に「もう縁を切りましょう」「お前には負けないつもりだ」とも言った E いつまでも「悲しみ慕ったのは、私が弱虫だった」と分かったのです。強く生きていく宣言だった。 F もがりの平野、山川町に下れば弱虫に戻ってしまうと考えた伊邪那岐は、反対に下りる決断をした。 G 再起の方法は「高越山」を越えることだった。 伊邪那岐の伊邪那岐からの逃避の道は、高越山から阿南への約60kmに及ぶ山岳行だった。 出所: https://www.youtube.com/watch?v=MPz5ZYhDV1I に逃避の伝承と関係する地名が残されている報告がある。 その他の根拠 @ 阿波忌部氏を継ぐ三木家が、今も美馬市木屋平の絶壁の上にあり、家裏からは高越山からの逃避の尾根道が見える。 三木家の家裏からの風景 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu59.jpg 逃避の尾根を遺すため、代々ここに住んだのだろう。 A 山を下り終え那賀川に出たところの那賀町仁宇には、竜王山が残されていて、豊玉彦が訪ね残したと思われる。 逃避の道 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu60.jpg B 那賀川の河口には、青木・橘の地名が残り、ここで最初の禊が行われたと思われる。近くには小戸神社が残る。 阿南にある小戸神社 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu61.JPG C 禊の場所を古事記は 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と記す。阿波岐原と阿波の文字を当てている。 D 天照大御神、月読神、須佐之男命は別途、山川町から呼び寄せられていて、ここで再会したのだろ。 E 近くに天照大御神生誕の地の伝承が残る、賀志波比売神社がある。 >>529 どう見ても人里から隔離された土蜘蛛の住処からの風景。 遠くから日々羨望の眼差しで眺めていたのだろうな。 ホワイトケープさん、君はえらく阿波を言ってるが、何が言いたいの? @阿波 >>531 君はえらく阿波を言ってるが、何が言いたいの? 私は「神武・倭国の連合東遷説」です。 神武は、小集団が宮崎から船で奈良に向かった出来事と考える人がいます。 そうではなく、倭国の官である彌彌が北部九州の人たちと、力を合わせた行った遷都と考えています。 これは、天照大神の強い国造りの意思を引き継いだもので、その実現に向けて代々が努力した歴史を刻んでいます。 天照大御神の強い国造りの意思は、国生みの中で阿波に生まれ吉備で育った幼い中の経験に基づくと考えています。 そのような経緯を知っていただきたく、調べてきた国生みを報告しています。 >>533 >そうではなく、倭国の官である彌彌 その倭国はどこにあるの? その中心はどこ? >北部九州の人たちと、力を合わせた行った遷都と考えています。 どこへ遷都したの? あの辺境の海の無い、湿地帯の奈良盆地? >これは、天照大神の強い国造りの意思を引き継いだもので、 その天照大神はどこにいたの? その王宮はどこにあったの? >国生みの中で阿波に生まれ吉備で育った幼い中の経験に基づくと考えています。 なんでそんなにあちこち移動しているの? その理由は? @阿波 >>471 横軸が天皇の代数になってるけど、神武以来、整然とした男系一系になっているのは、 記紀編纂時に相当の編集や創作を加えたからだ。 実際は継体(第26代)以前は王朝交代しまくりだし、男系でなくヒメヒコ制。 兄弟だったものを父子にしたり、ヒメミコを皇女にしたりと、 本当のところはどうだったかは、記紀をいくら読んでも分からない。 名前、先祖、血縁関係、根拠地、主要な業績に、史実の僅かな痕跡を辛うじて探せるくらいだ。 なので継体以後の直線を、そのままの傾きで継体以前に外挿するのは不適切で、 あまり意味がない。 >>533 質問があったので答えたのみです。 議論がしません。 >>536 >議論がしません。 だったら、ここにスレ立てずにブログにするべき。 ここはレスをやりとりする場だよ。 @阿波 >>536 >議論がしません。 ちなみに、>>534 も質問なんだが? @阿波 『ヒメヒコ制』と『通い婚』の伝統は継体以後も日本人のDNAに強固に擦りこまれており、 推古天皇と聖徳太子は明らかな『ヒメヒコ制』の復活だし、 『通い婚』については実に平安時代になってさえも続いている。 そう考えれば、3世紀頃の日本に『男系1系』によるマスキュリンな父子権力承継などあろうはずがなく、 どこへ行っても『ヒメヒコ』と『通い婚』の世界だと考える必要がある。 しかも王朝交代を繰り返してゴチャゴチャ。 例えば記紀に記された神武東征では、神武自身が呪術っぽいことをやってるんだが、 実際は記紀編纂時に消された『神武=ヒコ』に対する『ヒメ』が呪術をやっていたのだろう。 とは言え、本拠地の九州を捨てて奈良盆地に大軍団で移住するなど現実的にあり得るはずもなく、 実際は九州から追い出された海賊か山賊の類が、河内平野に上陸したところ地元の豪族にさんざんに打ちのめされ、 その後熊野からの裏口を通って奈良盆地の片隅にひっそりと住み着いたとか、良くてその程度のことだったのだろう。 悪ければ出自が九州であるというだけの、ただの流浪の移住者だ。 古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や、水銀朱の原料の辰砂原石などが大量に出土した阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡。 辰砂原石などの発見で、水銀朱の生産、利用時期が1500年以上さかのぼることが明らかになった。 また、水銀朱の生産拠点だったとされる竪穴住居跡や、祭祀に使っていたとみられている円形配石遺構など、縄文社会の解明に大きな役割を果たす。 @阿波 阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。 「石棒」 石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。 縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県 にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。 この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、 その一大製作遺跡であると考えられている。 @阿波 石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、紅簾片岩の露頭が確認でき、 この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡・滋賀県米原町磯山城遺跡の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。 また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末〜弥生時代前期初頭の土器型式で2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、 三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とほぼ一致することが確認された。さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、 近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、在地の人々による積極的な関与があったと考察される。 @阿波 伊邪那岐は伊邪那美から逃げおおせ、禊をして伊都国に帰ってしまうのでしょうか。それではいかにも薄情です。 再起の国生みは吉備でした。後の卑弥呼・天照大神など三貴子を連れて吉備に向かいました。 その根拠 @ 古事記は「然ありて後、還ります時、吉備児島を生みき。・・・次に小豆島を生みき。・・・次に大島を生みき・・」と記す。 A この「還ります時」は阿波から戻る時と考えられる。 B 帰還の経路としては、小豆島は経路と逆になるが吉備上陸後、伊邪那美の陵の候補地を訪ね巡ったためと考えた。 C 高越山の真北にある小豆島の皇踏山、那岐山が候補になり、けっきょく比婆山に伊邪那美の陵がつくられたと考える。 D 本拠地は備中の国分寺跡付近と想定した。児島の浜にある龍王山から、点々と続く龍王山が国分寺跡の南の龍王山につながる。 E 神武東征隊が吉備に長くとどまったのは、吉備に足跡があり倭国が統治していたためと考える。 F 天照大御神の強い統治意欲は、この吉備での成長が大きく影響したと考える。 G 「豊葦原の千秋長五百の水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ。」と述べている。 北九州にあった卑弥呼なき後の邪馬台国を 朝鮮半島から来た天孫族が征服して現地の姫と結ばれて子供が生まれたのが天孫降臨 その首長がニニギで後に東征してヤマト王朝を建てそれが後の天皇家になったんだろ 手塚治虫の火の鳥にもそう描いてある >>545 こんどはこっちでヒトモドキが鳴いてんのかよwww 火の鳥はファンタジーだよ。 少なくとも、卑弥呼の後にニニギでは、その後の年代が詰まりすぎて無理。 国生みからの帰還の状況 伊邪那岐は三貴子を連れて伊都国に帰還し、天照大御神(卑弥呼)が女王になった。 @ 古事記は吉備からの帰還経路に、吉備児島、小豆島、大島(周防大島)、女島(姫島)、知詞島(五島列島)、両児島(男女群島)を生んだ記している。 A 伊都国帰還に五島列島と男女群島は行き過ぎなので、別な意味合いが込めれていると思われる。 B 帰還しての禊は、今津湾の小戸大神宮前の浜で今一度行ったと考える。 C 伊邪那岐・伊邪那美の子供から統一倭国の王を選ぶことは、別天つ神五柱の話し合いで決められていたので、伊邪那岐の命で天照大御神が即位した。 D 天照大御神は五柱の会合を主導した、高御産巣日神の勧めもあり、内陸の朝倉に都を定めた。 E 次図は記述に登場した吉備児島から五島列島を結んだもので、内陸の朝倉付近を通過させている。 F 朝倉遷都は帰還時に決まっていたか? 帰還後に島々を名付けたかもしれない。 帰還の経路で生んだ島々 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu62.jpg >>547 ニニギ以前の出来事であるはずの、出雲の大国主の国造りと国譲りの行き場がなくなるしな。 >>547 >>1 からして何の根拠もないファンタジー >>552 >>1 からして何の根拠もないファンタジー 根拠はみな示しているが、現在の古代認識からすると神武・倭国の連合東遷説はファンタジーに見えるでしょう。 文字も不自由な時代、古代人は建国の記録をいろいろな工夫で残していました。 ファンタジーと肩付けずに解き明かすことが、現代を生きる者の使命と思います。 あまり話題になっていないが、山陰の安来に連合東遷の兵站基地と思われる弥生終末期の遺跡が見つかっています。 塩津丘陵遺跡群で、山陰の弥生都市(広瀬和夫)という論文が発表されています。添付。 驚くような内容で、私の考察では鳥取の青谷上寺地での戦いの兵を支える補給部隊の臨時の山上基地と思われます。 鳥取を取り巻くように、吉備山中にも同じような小坂向遺跡が見つかっています。 終末期の庄内式土器は、山陰の土器壁を削る技術が取り入れられて吉備で生まれた考えがあるが、そうではなくこの兵站基地で兵の食料準備や、基地で働く人の食事の効率を上げるために生まれたと考えます。 興味があればのぞいてみてください。 山陰の弥生都市 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu63.jpg 塩津丘陵遺跡群 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu64.jpg 小坂向遺跡 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu65.jpg >>553 日本書紀には、日向国の高千穂からの移動ルートがきちんと書いてある。 大雑把に書くと大分→福岡→広島、岡山→大阪→和歌山→三重→奈良の順 日本海側である島根県の遺跡を関連付けるのには無理がある。 想像するのは自由ではあるが、やはり根拠がないファンタジーだよ。 >>553 仮に倭国(邪馬台国=卑弥呼・壱与)が北九州だとしてだけど 魏志倭人伝の伊都国の説明にこんなことが書いてある 原文:傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯 訳文;文書や授けられた贈り物を伝送して女王のもとへ届けるが、数の違いや間違いは許されない。 文字が不自由だったというが、女王国では少なくとも支配層は文書でやり取りがされていたわけだ。 魏に朝貢するくらいだから、中国語はできたんだろう。漢の時代にも朝貢があったし 卑弥呼よりもっと前から中国語ができる知識層はそれなりにいたと考えた方がいい。 また女王国は南に位置する狗奴国の男王、卑弥弓呼素と戦争状態だったとも書かれている。 これらの記述から想像するに、九州の覇権争いは倭国=女王国=卑弥呼・壱与勢力が 九州南部の熊襲・隼人勢力に撃ち滅ぼされたとみた方が空想としても筋がいい。 だから日本書紀には邪馬台国や卑弥呼について碌な記述がない。 >>558 >また女王国は南に位置する狗奴国の男王、卑弥弓呼素と戦争状態だったとも書かれている。 不和だから緊張状態だけれど、戦い続けたわけではなさそうだ。 不審なのは、二人の王が似た名前だということだ。 むしろ、倭国の中の家督争いだったのではないか? だから壹與の時に乱が収まったのは、両者の共立によるものであり、滅ぼしたりというものではなかった。 そして、それについて畿内勢力は蚊帳の外だったのだろう。 >>560 魏志倭人伝をじっくり読むと戦争中だったとわかるよ。 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 説相攻撃状・・・「戦争状態だと説明した」という意味 ネーミングについては当時の名前が今の感覚と全然違うので 似通っているからと言って、即同族と捉える必要性はあまりないかな。 そもそも卑しいとか、王の名前に使う字じゃないでしょ? >>561 漢民族の人類における中華思想で漢民族住む地以外は 異民族の劣った四夷人種が住んでるとしたから 中国以外の四方の地に住む民族は全て蔑称で記録している >>562 漢民族と、 その他=ほとんど地球規模と言いたいんでしょ >>563 確かに漢民族単一で創り上げた哲学的な高度な文化文明は 多民族が関わって創り上げたオリエント文明や西洋文明を凌駕している >>561 なるほど、戦っていたかもしれない。 しかし名前があまりにも近いのは、同じ文化圏の勢力であった可能性を考慮するべきだ。 考古学的にも、福岡と熊本なら近いだろう。 少なくとも、大和まで一つの文化圏だと言い張る畿内説よりはマシ。 >>562 そうだね。 魏志倭人伝にしても中国の魏の時代の事を、中国の魏の時代の記録を元に中国人が書いてるんだしね。 なので「卑弥呼」と「卑弥弓呼素」の名前が似ているからといって 安直に同族扱いで推測するのは無理がある。 >>565 九州北部と南部じゃ似通ったネーミングがあったっておかしくはない。 が、だからと言って、即同族の家督争いだったというのは飛躍しすぎ。 九州内部の勢力争い以上の事は何も記録がない以上推測するしかないしね。 そして日本書紀に邪馬台国も、卑弥呼も碌に出てこない事から 逆に神武=ヤマト王権が、倭国(卑弥呼)勢力と 別の勢力であったから書く必要性がなかったと捉えた方が無難でもある。 前述の通り、邪馬台国では文書のやり取りが行われていたわけだから 神武=ヤマト王権につながっていたとしたら、もっとしっかりと 日本書紀にも記載があって然るべき。 仮に日本書紀の元となった旧辞、天皇記といった文献に記載があったとしても わざわざ自分たちのルーツの原点である天照大神を隠匿する方がおかしい。 >>565 もう一つレス >少なくとも、大和まで一つの文化圏だと言い張る畿内説よりはマシ。 少なくとも神武東征よりも、瓊瓊杵尊の天孫降臨よりも前の時代に 出雲の勢力は山陰、四国、近畿、三遠信、北陸、関東までは到達してたようだよ。 同族と決めつけるのも 同族ではないと決めつけるのも 両方安直 >>570 三段論法の大前提が成立してないのに、その上で小前提に進んで、結論を導き出してたら、なんの証明にもならない。 証明をしようとしても無理なことは百も承知で、可能性の高そうな推論をしているだけ。 出雲の影響力が広かったことは同意する。 しかし筑紫も畿内も、それだけの影響力を発揮できなかったのではないか。 弥生時代で最強の王国は出雲の国譲り前の出雲だったのではないか? 皇統に繋がらないにも関わらず記紀で重視されているのも、そのあたりに理由があるのか。 >>572 >弥生時代で最強の王国は出雲の国譲り前の出雲だったのではないか? 単なる出雲忌部に過ぎないよ。 国譲りも島根県は全く無関係だから。 @阿波 >>572 卑弥呼がアマテラスで、神武と連合して東遷したのどこが可能性が高いんだ? 根拠になりそうな記述なり遺物が何もないから、三段論法も成立してないファンタジーなのよ。 >>574 卑弥呼がアマテラスで、神武と連合して東遷したのどこが可能性が高いんだ? 根拠になりそうな記述なり遺物が何もないから、三段論法も成立してないファンタジーなのよ 伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場する5クニから一文字づつ採った名であることを無視しては検討があらぬ方向に向かうと思います。 伊 伊都国の伊 邪 邪馬台国の邪 那 奴(那)国の那 美 不彌(宇美)の美 岐 壱岐の岐 伊邪那岐夫婦は、邪馬台国があった時代に生きていたことが分かる。 二人は天照大御神を生んだと記紀は記している。 天照大神の系譜の神武が東征したと記紀は記している。 神武東征の伝承は各地に残る。 >伊邪那岐・伊邪那美の名が、魏志倭人伝に登場する5クニから一文字づつ採った名 ファンタジー そもそも、高天原神話がファンタジー仕立てなんだから、 一文字づつ取ったでいいんじゃないの。 倭人伝だって、狗とか、邪とか、卑とか、やたらでてくるけど、 今風に書けば、ダイ盧狗、タケ卑狗、卑典、みたいなノリだったんだからョ。 倭人伝ファンタジーを下敷きにして書き上げたのが、 高天原ファンタジーなんだから、一緒くたに見えるのは当然。 ちなみに、卑弥呼は天照大御神、張政は思兼神、帯方郡太守は高木神として再登場している。 >倭人伝ファンタジーを下敷きにして書き上げたのが ファンタジー 倭人伝は正確じゃないだけでファンタジーとはまた違うんだじゃないか? 都合が悪いと「記紀は恣意的ニダニダ」 斜め読みに成功すると「記紀にも書いてあるニダニダ」 ボコッ ウソツキは死んでも . ,.'彡'・グフォニダ! 治らねぇから半殺し ∧_∧';' ; .. ∧_∧ ∧∧/)、`二<ヽ;;゚`;;A´;;> ,;.゚. (´∀` ) 蹴っても (#゚Д゚/^)∴;'|;';.'/.;' '´。 ::;:,( つ 踏んでも と ´ //`W( ヽ(;;;((⌒ ̄ ̄ ̄_ ) ホラ吹くとか ( ノ`´// ヽ Y ノ''::;;;;::'''"´ ̄ヽ \ マゾかよwww (__)彡 〈フ_フ ドカッ\\ (__) 国生みから帰還し、女王となった天照大御神(卑弥呼)は朝倉に都をおいたと思われます。 朝倉が天照大御神が住んだ都としたとき、記紀が記す天の安河の誓約は地形と合致するのか検討してみました。 @ 朝倉の西に旧夜須町があり、間を小石原川が南下していて天の安河の伝承がのこる。 A 須佐之男命と天の安河を中に置き誓うの会話を行っていて、天の安河は小川でも筑後川のような大河でもないと思われる。 B 小石原川の状況は往古と異なるが、両岸で対峙し会話に適した、中河川であるのは今と変わらないであろう。 C 伊都国からやってきた須佐之男が小石原川の西岸、朝倉に都を置いた天照大御神が東岸に立ったすれば、地形はあってくる。 D その後の誓約で、書紀の一書は天真名井の三ヵ所を掘ったと記していて、天真名井が石清水でなく井戸であることが分かる。 E 小石原川の下流、筑後川と合流する付近は、今も地下水の水位が高く掘ればすぐに水が沸く地域で、当時の河原を掘ったと思われる。 F 三ヵ所の河原井戸に、男子グループ、女子グループ、無人と分けて配置し、いずれを当てたかといった誓約を想像する。 G 子の養子縁組は計画されたもので、相手との持ち物交換は、どんな結果になろうとも天照大御神に男子を授けための配慮であろう。 H 須佐之男が伊都国から、「山川悉くに動み、国土皆震りき。」と大げさにやってきたのは、この養子縁組を、国の人たちに公とする計らいであろう。 現在の小石原川(天の安河) http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu66.JPG >>585 魏志倭人伝に書いてあるのは、倭国にある邪馬台国の女王卑弥呼が魏に朝貢してきた事と、当時の倭国にあるいくつかの国の事くらいで 神武も天照大神も伊邪那岐、伊邪那美も出てこない。 そこを結びつけるのがファンタジー >>590 国産みは伊邪那岐、伊邪那美で天照大神は国産みに関係ない。 ファンタジーとしても作り込みが甘いと言わざるを得ない。 もう少しいろんな文献を精査して練り直しましょう。 勝さびに須佐之男命が高天原で暴れたので、天照大御神は天の石屋戸に隠れてしまった。 この天の石屋戸を現代の朝倉に探してみた。 @ 朝倉市の妙見川筋は堀が深く、左岸が崖となっているので、探したが岩穴らしきものは見当たらなかった。 A 考えて見れば、か細い女性が岩を動かし戸のように塞ぐことは不可能である。 B 神武東征に登場する磐舟が丈夫な船の表現であれば、石屋戸も丈夫な建物と想定できる。 C 神々が集い、石屋戸の前で天照大御神を誘いだす饗宴を開く。 D 饗宴に天の香山からくさぐさの植物を採っているが、その香山は朝倉市把木の高山と伝わる。 E 高山の西麓の塚原に小さな志賀神社があり、そこの秋祭りでは氏子全員が神事の後、宮座にて酒を酌み交わす行事が伝わる。 F この神事が石屋戸前の饗宴の名残りの伝承であれば、「石屋戸」は丈夫な建屋でもなく、天照大御神の堅い閉じこもりの心を表現した言葉と思われる。 G 女王を無理やり引き出すこともできず、知恵を絞った作戦で自分から出てくるよう仕向け、出てきた後ろに布刀玉命が尻くめ縄を渡した。 H 天照大御神の名は石屋戸から出て堅い心が解け、高天原が明るくなったことによる名付けと考える。 現在の杷木の志賀神社 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu67.jpg 志賀神社の伝承の看板 http://vbsoft.sub.jp/zuhyou/zu68.jpg 倭が日本列島を指してるなんて記述は古代文献に一つもない件 いろいろな人の研究から見えてきた事は 卑弥呼の時代に神武の子孫たちは投馬(薩摩のこと)を領地としてた さらに神武の兄は後に新羅の範ちゅうになるところに領地を持って治めていたがそこは神武の子孫が相続した 時代は下り白村江の倭国敗北により大和王朝が出来たが その王朝を作ったのは新羅にいた神武の子孫であろう 卑弥呼の正体は、崇神天皇の父方の大叔母だよ。 つまり、箸墓古墳の被葬者。 >>598 無い無い 箸墓は4世紀のホケノ山よりも造りが新しい 時系烈伝 天地開闢 から下って作ってます 神武天皇編作りました 目次 https://plaza.raku ten.co.jp/denkyu pikaso/diary/201911010002/ 歴史通り書いていってます 卑狗はヒコではなくイネないしイヌと呼び稲のこと 卑奴母離はヒナモリではなくイナモリと呼び稲守であろう なぜ稲というか稲穂が犬の尻尾に似てることから来てるようだ >>602 卑弥呼は本当は稲巫女のことでイミコと呼ばれていたのだろう 狗奴國はクナ国ではなくイナ国 これも本当は稲国の当て字であろう 稲国は伊那国であり元は九州だが落ちのびて長野が最後の地であろう 卑弥呼は太陽が隠れて霊力が落ち、 熊襲(久万曽)との戦いで負けたから殺されたんだろ? やっぱり日ノ巫女だったんじゃないか。 卑弥呼の時代に皆既日食になった地域は朝鮮半島南岸や石川、福島辺りなんだが 歴史編纂(まとめ) 編纂中 https://plaza.raku ten.co.jp/denkyu pikaso/diary/201911010002/ >>597 神武出立日向=伯耆説発見 神武東征は不比等の創作であった 2019-11-04 ttps://blog.goo.ne.jp/ysaino11jp/c/bb1d5b6625251de07c1e4b9c6bb6a018 . ◆中国の釜 中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。 釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ 釜 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた 商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2& ;ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E& ;aq=-1&oq=&ei=UTF-8 . 卑弥呼は魏志倭人伝に登場する3世紀の人物 神武大王は自称紀元前700年頃の妄想上の人物 無理 . 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、 中国では7000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。 その時代差、約5500年。 その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、 4000年前にはすでに戸建ての時代である。 商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には 瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。 縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。 中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 . 神武天皇が隠した日本の歴史。神話編 黄泉の国も岩戸神話も八岐大蛇退治も、古事記や日本書記の諷歌倒語により隠された。世界最長国、日本の作り方。 https://youtu.be/YLHWKrB8ncc ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる