@ 山頂には伊邪那美命の神陵と伝わる遺跡がある。 A 山頂の高越寺の修験の人たちが、神陵を今もお守りしている。 B 「火神、死せる時成る」神々に8柱の山神が登場する。伊邪那美命を山頂に運ぶ際、活躍した山神と考える。 C 高越山は岡山県井原市にもう一つあり、結ぶと比婆山に結ばれている。 D 比婆山は後に伊邪那岐が吉備開拓の中で設けた陵と思われる。近くの二つの吾妻山が指し示している。 G 比婆山、阿波の高越山を結ぶ中間には、二つの竜王山があり、後の竜王こと豊玉彦が訪ね残したのだろう。 H 阿波の高越山の真北には、那岐山があり伊邪那岐は吉備で伊邪那美の陵の場所を探して登ったのだろう。 I 阿波の吉野川市付近にある古い神社は、多くが高越山に向いておかれている。 J 瀬戸内海地方で見つかる、かわいい笑顔の分銅形土製品は、伊邪那美を記憶したものではないだろうか?
@ 伊邪那美が言った「我が夫のために、戻るよう黄泉の神に掛け合ってみる」の言葉を信じひたすら待っていた。 A ついに待ちきれず、遺体のある高越山にわずかな供をつれて訪ね登ることとした。 B 雷のような泣沢女たちが取り付く遺体は、蛆がたかる姿となっていた。 C 火傷のある姿に「どうぞ私を見ないでください」と言っていたのに見てしまった。 D 伊邪那岐は、驚き帰る際に「もう縁を切りましょう」「お前には負けないつもりだ」とも言った E いつまでも「悲しみ慕ったのは、私が弱虫だった」と分かったのです。強く生きていく宣言だった。 F もがりの平野、山川町に下れば弱虫に戻ってしまうと考えた伊邪那岐は、反対に下りる決断をした。 G 再起の方法は「高越山」を越えることだった。 0528ホワイトケープ2019/02/23(土) 09:24:17.35 伊邪那岐の伊邪那岐からの逃避の道は、高越山から阿南への約60kmに及ぶ山岳行だった。 出所: https://www.youtube.com/watch?v=MPz5ZYhDV1I に逃避の伝承と関係する地名が残されている報告がある。 その他の根拠
C 禊の場所を古事記は 「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と記す。阿波岐原と阿波の文字を当てている。 D 天照大御神、月読神、須佐之男命は別途、山川町から呼び寄せられていて、ここで再会したのだろ。 E 近くに天照大御神生誕の地の伝承が残る、賀志波比売神社がある。 0529ホワイトケープ2019/02/23(土) 09:29:05.86>>528 修正 再掲
その根拠 @ 古事記は「然ありて後、還ります時、吉備児島を生みき。・・・次に小豆島を生みき。・・・次に大島を生みき・・」と記す。 A この「還ります時」は阿波から戻る時と考えられる。 B 帰還の経路としては、小豆島は経路と逆になるが吉備上陸後、伊邪那美の陵の候補地を訪ね巡ったためと考えた。 C 高越山の真北にある小豆島の皇踏山、那岐山が候補になり、けっきょく比婆山に伊邪那美の陵がつくられたと考える。 D 本拠地は備中の国分寺跡付近と想定した。児島の浜にある龍王山から、点々と続く龍王山が国分寺跡の南の龍王山につながる。 E 神武東征隊が吉備に長くとどまったのは、吉備に足跡があり倭国が統治していたためと考える。 F 天照大御神の強い統治意欲は、この吉備での成長が大きく影響したと考える。 G 「豊葦原の千秋長五百の水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命の知らす国ぞ。」と述べている。 0545日本@名無史さん2019/03/03(日) 18:11:16.76 北九州にあった卑弥呼なき後の邪馬台国を 朝鮮半島から来た天孫族が征服して現地の姫と結ばれて子供が生まれたのが天孫降臨 その首長がニニギで後に東征してヤマト王朝を建てそれが後の天皇家になったんだろ 手塚治虫の火の鳥にもそう描いてある 0546日本@名無史さん2019/03/03(日) 18:43:30.06>>545 こんどはこっちでヒトモドキが鳴いてんのかよwww 0547日本@名無史さん2019/03/03(日) 20:04:12.45 火の鳥はファンタジーだよ。 少なくとも、卑弥呼の後にニニギでは、その後の年代が詰まりすぎて無理。 0548ホワイトケープ2019/03/14(木) 17:22:42.90 国生みからの帰還の状況 伊邪那岐は三貴子を連れて伊都国に帰還し、天照大御神(卑弥呼)が女王になった。
@ 古事記は吉備からの帰還経路に、吉備児島、小豆島、大島(周防大島)、女島(姫島)、知詞島(五島列島)、両児島(男女群島)を生んだ記している。 A 伊都国帰還に五島列島と男女群島は行き過ぎなので、別な意味合いが込めれていると思われる。 B 帰還しての禊は、今津湾の小戸大神宮前の浜で今一度行ったと考える。 C 伊邪那岐・伊邪那美の子供から統一倭国の王を選ぶことは、別天つ神五柱の話し合いで決められていたので、伊邪那岐の命で天照大御神が即位した。 D 天照大御神は五柱の会合を主導した、高御産巣日神の勧めもあり、内陸の朝倉に都を定めた。 E 次図は記述に登場した吉備児島から五島列島を結んだもので、内陸の朝倉付近を通過させている。 F 朝倉遷都は帰還時に決まっていたか? 帰還後に島々を名付けたかもしれない。
@ 朝倉の西に旧夜須町があり、間を小石原川が南下していて天の安河の伝承がのこる。 A 須佐之男命と天の安河を中に置き誓うの会話を行っていて、天の安河は小川でも筑後川のような大河でもないと思われる。 B 小石原川の状況は往古と異なるが、両岸で対峙し会話に適した、中河川であるのは今と変わらないであろう。 C 伊都国からやってきた須佐之男が小石原川の西岸、朝倉に都を置いた天照大御神が東岸に立ったすれば、地形はあってくる。 D その後の誓約で、書紀の一書は天真名井の三ヵ所を掘ったと記していて、天真名井が石清水でなく井戸であることが分かる。 E 小石原川の下流、筑後川と合流する付近は、今も地下水の水位が高く掘ればすぐに水が沸く地域で、当時の河原を掘ったと思われる。 F 三ヵ所の河原井戸に、男子グループ、女子グループ、無人と分けて配置し、いずれを当てたかといった誓約を想像する。 G 子の養子縁組は計画されたもので、相手との持ち物交換は、どんな結果になろうとも天照大御神に男子を授けための配慮であろう。 H 須佐之男が伊都国から、「山川悉くに動み、国土皆震りき。」と大げさにやってきたのは、この養子縁組を、国の人たちに公とする計らいであろう。
@ 朝倉市の妙見川筋は堀が深く、左岸が崖となっているので、探したが岩穴らしきものは見当たらなかった。 A 考えて見れば、か細い女性が岩を動かし戸のように塞ぐことは不可能である。 B 神武東征に登場する磐舟が丈夫な船の表現であれば、石屋戸も丈夫な建物と想定できる。 C 神々が集い、石屋戸の前で天照大御神を誘いだす饗宴を開く。 D 饗宴に天の香山からくさぐさの植物を採っているが、その香山は朝倉市把木の高山と伝わる。 E 高山の西麓の塚原に小さな志賀神社があり、そこの秋祭りでは氏子全員が神事の後、宮座にて酒を酌み交わす行事が伝わる。 F この神事が石屋戸前の饗宴の名残りの伝承であれば、「石屋戸」は丈夫な建屋でもなく、天照大御神の堅い閉じこもりの心を表現した言葉と思われる。 G 女王を無理やり引き出すこともできず、知恵を絞った作戦で自分から出てくるよう仕向け、出てきた後ろに布刀玉命が尻くめ縄を渡した。 H 天照大御神の名は石屋戸から出て堅い心が解け、高天原が明るくなったことによる名付けと考える。