平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2
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『説文解字(後漢)』にて咫=八寸
漢尺=十寸=約23センチ 寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後
平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528537360 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 このスレ、まだやるの?
平原1号墓出土鏡が八咫鏡ってことはないってのはもう、さんざんやったじゃないか このスレ、まだやるの?
平原1号墓出土鏡が八咫鏡ってことはもう、さんざんやったじゃないか 平原の方格規矩鏡が国産ってのは
本当に確定なのか?
畿〇説の大御所先生が言ったから
というのじゃなくて
その根拠を説明できる人いるかい?
>この遅さなら聞ける 一番の専門家が鑑定して、それを疑うなら議論の共通基盤は何一つ持てないから無駄だよ
柳田先生は九州の編年の専門家
専門家だから当然九州説なんかは支持していないが、畿内説の大御所というポジションでもない
その柳田先生の鑑定で、鋳上がりの悪さなどから仿製鏡と判定されてる >>7
いやべつに
その根拠を簡潔に説明してって言ってるだけ
形?
材質?
銘文?
純粋な学問的興味 >鋳上がりの悪さ
それは科学的にどの程度の悪さなの?
魏の洛陽は董卓が焼き払って
復興期の銅鏡生産は笑止レベルだったわけだけど
それと科学的に比べてどの程度の悪さとか、
学術的な話が聞きたい。 >一番の専門家が鑑定して、それを疑うなら議論の共通基盤は何一つ持てないから無駄だよ
超スローなスレで
学術的な根拠呈示マダー?w 鉛同位体比でも、仿製鏡という結論になるそうだ
柳田先生の判断基準ではないけれど、これで十分だろう
「平原鏡から三角縁神獣鏡へ」 新井宏
http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/113hirabaru.pdf >>11
仿製鏡であるという根拠が、
超大型内行花文鏡を代表とする仿製鏡と組成が似ているから、
ということだろ?
じゃあ、
超大型内行花文鏡を代表とする仿製鏡
とやらが、
九州説者の一部が言っているように、
中国からの青銅器を溶かして作ったものであるなら、
そもそも仿製鏡であるかどうかを、
鉛同位体比では判定不可能、ということになる。
鉛同位体比で判定するなら、
銅鐸はどうなんだという話とも繋がる。 3世紀以前に日本で青銅原料が採掘されていた証拠がないのだから、
原料の全ては舶載
なのになんで
原料をもって舶載か仿製か議論できるのか? >>14
一緒に作成された可能性はわかるかもね
平原は全部同じじゃなかったよ
詳しい事は忘れたけど
個人的には楽浪産の可能性もあるかも、と思う
>>9
私もそれは疑問に思ってたよ
ちょっと曖昧だよね
実際の中国出土鏡の写真とか、統計とか無いし、柳田さんの主観でしかないから
中国では引き出しに入れられたままの鏡も沢山あるらしいし(by柳田)
日本の研究者も限られた鏡しか実見できてないのでは?と思った 平原の方格規矩鏡が国産ってのは
本当に確定なのか?
畿〇説の大御所先生が言ったから
というのじゃなくて
その根拠を説明できる人いるかい?
>この遅さなら聞ける >>16
原料では舶載か仿製かはわからないでしょ?
いつ作られたか(いつの時代の舶載青銅器を溶かして作られたか)の判断はできるかもしれません。
形式についても、
董卓によって破壊された洛陽にて
銅鏡製作が再開されたばかりのものは
漢代の銅鏡を見ながらの習作が多いというのは専門家も周知しているところで、
逆に
形状がつたないからこそ、魏の鏡、とも言えるわけですな。 まあ、実際に最近、平原の方格規矩が中国製であることを示唆する研究成果が発表されてる
ただし、中国製と見なす場合の根拠は、三角縁との製作技術の共通性だから、
平原の方格規矩を中国製と見なすなら、三角縁も中国製と見なすことになる
さらに、製作技術の特徴からは三角縁よりも古く位置付けることにもなる
よって、平原の方格規矩が中国製であったとしても、卑弥呼の鏡にはなり得ない、というオチ ん?
どちらも中国製だったら、
三角縁は4世紀だから
平原のは3世紀になって
まさに卑弥呼の鏡になるよね 三角縁を中国製としたら景初と正始の紀年銘を持つので卑弥呼の鏡として確定 >>21
平原の方格規矩鏡が国産という根拠が知りたい >>22
確定しないじゃん
3世紀遺跡から全然でないんだから。 三角縁が3世紀鏡で伝世とするなら、
北部九州の漢鏡も伝世で、北部九州の全ての年代が繰り上がってしまう。
三角縁が遺跡の実年代とするなら、
4世紀にバイナラwww 卑弥呼の朝貢239
銅鏡百枚
重臣に配る→重臣が無くなる3世紀後半
3世紀のうちには大半が副葬
ごく一部が4世紀以降に >>24
・製作から副葬にタイムラグがあるのは普通のこと
・兵庫県の権現山51号墳で布留0併行の土器と供伴、3世紀に遡るのは確実
・中国製とした場合、4世紀に景初、正始の年号を入れる意味がない >>19
その共通性?がちょっと知識が無くわからないのだが
技術は平原からの流れとは聞いたがね
三角は殆どが4世紀以降の墓からだから、明らかに平原とは時代が違う鏡
平原と三角は同位体比は同じじゃなかったと思うが… 他の鏡と外型を共有してるとの指摘
三角縁が平原の鏡の流れというのはガセ
三角縁が4世紀だというのは30年前までの年代観
固執してるのは某統計学者とその信者 >>27
権現山51号墳は出土した都月型特殊器台埴輪から布留1式新段階ぐらいだよ
4世紀前半の墓だね ・製作から副葬にタイムラグがあるのは普通のこと
はい、北部九州の王墓群の年代が全て更新されましたー
・中国製とした場合、4世紀に景初、正始の年号を入れる意味がない
邪馬台国が勝者となった場合
その立役者の卑弥呼様の華々しい外交記念年の景初、正始の年号を入れるのが
なによりの忠誠心ですねー >>29
まぁ、三角も古いのは3世紀の物もあると思うが、卑弥呼が貰った鏡は3世紀前半の鏡になるから、三角の出土状況ではちょっと厳しいかと思う
紀年鏡は全て4世紀以降の墓からなんだよね
三角は確か大分のが古いと記憶にあるが… >>29
ありがとう
平原の方が古いから、技術的に平原からの流れというのはその事だね >>30
都月型は箸墓でも出土
権現山51号も箸墓も特殊壺の特徴を色濃く残す特殊壺形埴輪を供伴しており、都月型でも古相
箸墓は周濠最下層および外堤内から布留0出土で築造時期確定 >>35
良心を持たない連続句読点には理解できないだろうなw 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>29
>三角縁が4世紀だというのは30年前までの年代観
この30年、エセ学者が詐欺まがいの年代比定を繰り返し、妄想を繰り広げてきたということだ。 >>37
ちょっと調べてみた
文様では箸墓の後発と思われる要素はあるが
、土器編年は布留0みたいだね
三角の同笵関係,京都府の椿井大塚山古墳,岡山県の備前車塚古墳出土鏡との関連で4世紀前半との説もある
鏡の並行関係も考えて、総合的には布留0後半、箸墓の後の3世紀末あたりでは?
そうなると、三角は製作されてすぐに副葬の可能性が高いかな 土器や埴輪は古墳築造時のものなので古墳の年代観に直結する
椿井とかの三角縁は編年上では複数の段階のものが混じって副葬されてるから
古墳の築造は副葬鏡中の最新段階と見なされるが
三角縁の製作開始年代は古墳築造よりも遡ることになる >>49
>三角縁の製作開始年代は古墳築造よりも遡ることになる
年代詐欺 古墳の築造を埴輪等で見るか
副葬品で見るかは古墳ごとに統一されてないだろ?
お互いを独立に評価して矛盾がないという研究成果とか見たことないわ。 じゃ
全部の古墳の築造年代比定の根拠をあげてくれい >>51
まだ矛盾があるのは事実
土器編年の年代については学者により幅があるが、各地の土器の並行関係はかなり研究が進んでいる
が、間違いはあるかもしれない
久住さんも結構つっこまれてたりするしね
年代については〜あたりとしか今は言えない 矛盾つーか、古墳の築造年代観が争点になる場合は大抵が資料不足
良好な埴輪や土器がたくさんあればほぼ確定だけど
数が少ないと出土状況が問題になる
副葬品はある程度の品目が必要
棺や埋葬施設の構造では年代の幅が広くて特定しづらい >>16
>一緒に作成された可能性はわかるかもね
>平原は全部同じじゃなかったよ
>詳しい事は忘れたけど
忘れた、じゃなくて確認しなよ
>>11に示されている新井氏の論文でも、鉛同位体比は確認できるんだから >>57
調べたい人が調べればいいんじゃない?
詳しい事を説明する義務は無いよ
調べて、せれは違うと思うなら意見してほしいとは思うけど まあ、平原1号墓出土鏡の方格規矩鏡が仿製鏡だと判断できる一番簡単な理由は
同笵鏡が多数あるから、だけどね
大陸で出土の銅鏡は、同笵鏡のあるものがほぼないそうだ >>59
ちとそれも怪しくなってきてるが…
中国出土の鏡の研究待ち 倭鏡こそ古墳時代後期にならないと同笵製作しないだろ そうやって皇室所縁の鏡の権威に擦り寄ろうとするのがせこいんだよ 伊勢神宮の物と比べるのがいいのだが見せないんだろ
もし違うものなら伊勢神宮の方が形代だろうな 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 記紀は天孫ニニギが八咫の鏡を携えて筑紫に降臨したと主張しているから、矛盾はない。 しかし、北部九州に八咫鏡があったとする地元の伝承や説話が一切ない
現在、ご神体として八咫鏡を祭る神社も一つもない
記紀の日向三代の物語に、天降り後に八咫鏡は一切出てこない
八世紀に編纂された記紀に八咫鏡が書いてあるからといって、
三世紀の北部九州に八咫鏡が存在したとする理由にはならない ニニギはアマテラスから八咫の鏡を授かって筑紫に降臨した。
記紀の神代の巻のハイライトのひとつ、天孫降臨のシーンである。 >>69
>ニニギはアマテラスから八咫の鏡を授かって筑紫に降臨した。
>記紀の神代の巻のハイライトのひとつ、天孫降臨のシーンである。
その後、崇神天皇のところまで、八咫鏡は一切出てこない
そして、高天原で八咫鏡に先に立って造った鏡とされる日像鏡・日矛鏡が、
九州ではなく和歌山の日前神宮・國懸神宮にあるし、奈良盆地の鏡作神社にも
八咫鏡の試作品とされる鏡が伝世されている
これらから考えると、畿内の地でヤマト王権成立の頃に八咫鏡が鋳造され、
それが伝世し神話化し、後付で記紀に説話が載せられたと考える方が合理的 神武は筑紫から八咫の鏡を持ち出していない。
大和に入った時は天羽羽矢を身柄を明らかにするためにニギハヤヒに提示している。
おそらく崇神や景行の時代に八咫の鏡が畿内に持ち込まれたのだろう。 和歌山の日前宮、國懸宮は伊都郡にあるんだよね。
筑紫の伊都から八咫の鏡を持ってきましたと言わんばかりの地名だよ。
持ってきたから、当然筑紫には今現在はないんだよ。
まあ、辺津宮あたりに1枚くらい残っているかもしれないけど。
記紀も筑紫から大和に王権が移ったとしているわけで、なんの矛盾もないな。
なんの理由もなく、ヤマト王権がその起源を筑紫とする建国譚を作ったと考える方が不合理だよ。
実際に筑紫の伊都から八咫の鏡と呼べる超大型鏡が出土してしまったからね。
キナイコシがそれにきちんとした説明をつけない限り、伊都が倭国の王都であったことは否定できないよ。 >>70
理由もなしに「合理的」って笑えるよな
アホだろ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>78
>伊都のオハバリだぞ?
と書いてある場合は、「いと」ではなく「いつ」と読む
古事記に出てくる伊都国は「伊斗村」であって、「伊都」は全て「いつ」と読ませている あと、記紀の伊都国関係で気になるのが、伊都々比古
垂仁紀の都怒我阿羅斯等来朝記事で、穴門辺りにいて、自分が王だといったのが伊都々比古
まあ、名前をそのまま読めば「伊都」の彦だから、伊都国関係者に見えるけれど、いたのが
北部九州ではなく穴門で本州側になる 門司と下関を分ける意味はないな。
そこは実質的に九州北部だよ。 史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想
咫を円周を測るのに使っている例はない 漢書での「咫」の字の使用全例
長尺有咫
石砮長尺有咫
尺有咫で、18寸
八寸曰咫
張晏曰:「八寸曰咫。」
咫は8寸
豈其與水爭咫尺之地哉?
奉咫尺之書
但日夜望咫尺之地
履咫尺之難
臣聞天威不違顏咫尺
且盲不見咫尺
咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喻輕率也。
咫尺は、それ「あるいは長さ咫あるいは長さ尺」を簡単に言うもので、比喩である
咫を円周を測るのに使っている例はない 三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない 平原1号墓出土鏡を、円周が八咫だから、八咫の鏡という人がいるが、
咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で
咫を長さを表すのに使っている例は、石砮や矢の長さで「尺有咫」という慣用句的な
決まった表現で18寸を表す場合だけで、基本的には「咫尺」で「わずかな長さ」を
比喩的に表す熟語でしか使わない
平原1号墓が卑弥呼の頃であることを想定するならば、その時代に「咫」で
具体的な長さを測ることはない
したがって、平原1号墓出土鏡が円周が八咫であると認識されることもないし
八咫鏡と呼ばれることも、考えられることもない
しかも、破鏡供献されているので、千年以上後になって、発掘され復元されるまで
その間、その周囲の長さが知られることもない
この鏡が八咫鏡の語源となることもない
つまり、どうやっても平原1号墓出土鏡は八咫鏡とは無縁の鏡である ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています