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平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)2
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0001日本@名無史さん
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2018/09/01(土) 19:23:27.49
『説文解字(後漢)』にて咫=八寸

漢尺=十寸=約23センチ  寸=約2.3センチ
咫=八寸=2.3×8=18.4センチ
八咫=18.4×8=147.2センチ前後

平原のは円周長146センチ=八咫の鏡(世界最大)
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1528537360
0089日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:09:19.34
邪馬台国の時代を含む大陸史書の全例検索をしても、
「咫」が長さの単位として使われている例が、事実上ない
「尺有咫」という決まり文句中で使われる例はあるが、
そのたびに「八寸曰咫」という注が付き、当時、既に「咫」が
実用される長さの単位ではなかったことが分かる

その状態で、「何かを測った」「何を測ってもいい」と主張すること自体が
意味を持たないんだよ
0090日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:09:52.34
大きい鏡という意味の普通名詞ではない、と考える限り
八咫鏡の「本物」は誰が何と言おうと、伊勢の神宮の御神体の鏡だ

そして、その八咫鏡は見てはいけない鏡なので、実見記録はないがその入れ物については実見記録がある

八咫鏡は遷宮の際に、御桶代に入れた上で御船代に載せて、移動するが
「そのオケの大きさが平原の鏡と一致する」と主張する伊都国説の人がいる

しかし、神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に 「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されているそうだ

また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、 その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸としている。

この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう

どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない

八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな

本物の伊勢の八咫鏡と、平原1号墓出土鏡は大きさが異なることが明らかであり、
その意味で平原遺跡出土の大型内行花文鏡は記紀において八咫鏡と呼ばれる鏡ではない
0091日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:10:26.51
>八咫鏡は一尺六寸三分(49センチほど)と記載がある。

>>90をよく読んで
それ、八咫鏡の大きさじゃなくて、御樋代の大きさだよ
八咫鏡そのものは誰も見てはいけないから、大きさも測った人はいない

この御樋代の大きさから、八咫鏡の大きさを想定している人が多いけれど、
その中にさらに黄金鑵があって、八咫鏡はその中に入っている
黄金鑵の内径が9寸という話

平原出土鏡は入らないでしょ?

『皇太神宮儀式帳』は、遷宮のときに新しく用意する御道具が記載されていて
黄金鑵は遷宮のたびに作ったりしないから、載っていない

原本引用しておくから確認してみて
『皇太神宮儀式帳』
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0016.html

御樋代一具 深一尺四寸 内八寸三分 
      径2尺   内一尺六寸三分

『延喜式』は電子テキストで参照できる
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/000008.html

樋代一具。正宮料。高二尺一寸。深一尺四寸。内径一尺六寸三分。外径二尺。
0092日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:11:33.37
そもそもウィキペディアの「八咫鏡」のページの
説文解字の解釈が大間違いだったからな

咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也
(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、「周を計る尺度」なり)

「周を計る尺度」が誤訳もいいとこ
「周(の時代)の尺である」が正しいのは、説文解字の注釈まで
ちゃんと読めば確認できる

既にこの部分はさすがに修正されてるね
っていうか、5ちゃんねるの議論を経て修正されてるww
0093日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:15:28.77
説文解字の「咫」は、清代の注釈 清代 段玉裁《說文解字注》を載せていて、
それに拠ると以下のとおり

周尺也。
通典引白虎通曰。夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
 按奄字未詳。疑是手之誤字。
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。
別周制之異乎古也。王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步。
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。
 葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。
鄭意八寸爲尺。周末始有之。與許說異。然許亦曰諸侯力政。
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。則其說亦未嘗不合也。
左傳。天威不違顏咫尺。咫尺並言。不云二尺也。
國語、列子皆言其長尺有咫。亦不言其長二尺也。是可證周未嘗八寸爲尺矣。
0094日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:15:49.15
周尺也。  
周尺である

夏法日。日數十也。日無不照。尺所度無不極。故以十寸爲尺。
夏王朝の法は「日」で、太陽の数が10なので、10寸を尺とした

殷法十二月。言一歲之中無所不成。故以十二寸爲尺。
殷王朝の法は「十二月」で、1年が十二月なので、12寸を尺とした

周據地而生。地者、陰也。以婦人爲法。婦人大率奄八寸。故以八寸爲尺。
周王朝は地によりて生じた、地は陰であり、それで婦人を法とした
婦人の奄を広げると8寸になるので、8寸を尺とした

 按奄字未詳。疑是手之誤字。
 奄の字はよく分からない、手の誤字ではないかと疑う
0095日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:17:01.16
上文曰十寸爲尺。此及夫字下云周制八寸爲尺。

ここまで述べてきた文で見るように、十寸で尺となる
ここに及び、その字、これより下では、周制(周の制度)では、八寸を尺としたという話だ
0096日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:17:31.41
別周制之異乎古也。

周代の制度でも古い時代とは異なる別の制度があった
0097日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:18:05.81
王制曰。古者以周尺八尺爲步。今以周尺六尺四寸爲步

王制(礼記の一篇)によれば、古くは周尺の八尺を歩としていた
今は、周尺の六尺四寸が歩である
0098日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:18:40.39
鄭注曰。周尺之數未之詳聞。案禮制。周猶以十寸爲尺。

鄭注では、周尺の数(長さ、寸の数)はいまだに詳しいことははっきりしない。
礼制の(記述)から考えて、周(の制度で)も、なお十寸で尺としていたようだ(と鄭注に書いてある)
0099日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:18:53.93
>>88
>咫=8寸という長さの単位ではあっても、史記から後漢書の範囲で

円周率の代わりですね。
π/4を0.8で近似していたのです。
それ以外には、0.8に新たな単位を設定する合理的理由が見当たりません。
後世の鯨尺と同じです。
0100日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:18:59.66
鄭注は、後漢の鄭玄(じようげん)が経書に施した古典の注釈。また,その経書。じょうちゅう。
孔子の「礼制」による既成の秩序維持の考え方は周王朝期の礼制に依拠している
後漢の鄭玄は古文経の『周官』を中心として『儀礼』と『小戴礼記』を三礼として総合的に解釈する体系的な礼学を構築した
その書物が「鄭注」で、この部分はその内容の紹介
0101日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:19:29.43
葢六國時多變亂法度。或言周尺八寸。以步㪅爲八。八八六十四寸。

考えてみるに、春秋戦国時代には、変乱法度が多かった。
(周尺も十寸だったとしたが)六国時代(一応は周代)には、あるいは周尺は八寸だったとも言う
歩を以てさらに八をなす ハッパ六十四である
0102日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:20:04.28
鄭意八寸爲尺。周末始有之。
與許說異。然許亦曰諸侯力政。

鄭注の(鄭玄の、としてもよいが)意味するところは、八寸で尺と為すということだ
周末にこれ(一尺八寸)が始まった
異なる説も当然成り立ちうる
そうではあっても、またいうことには、
諸侯(六国の王)が(王制、礼制ではない)力政を行っている
0103日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:20:23.91
周末というのは、周朝の威が衰えた六国(春秋戦国)時代のこと
力政についてもう少し解説
史記の秦本紀に、「周室微,諸侯力政,爭相併」とある
周室(周の宮室)微え(おとろえ、衰微し)、諸侯力政、相併せるを爭う 
互いに併呑しようと争っていた
この力政に、力政:用武力征伐。という注が付いていて、力政とは、武力を用いて征伐すること、とある
0104日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:20:54.03
分爲七國。田𤲮異畮。車涂異軌。律令異法。

(周朝が衰え、天下が)(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙の)七国を為す
田のうねは畮を異にする(七国の国ごとに異なる)
車の涂(みち)は軌を異にす(七国の国ごとに異なる)
律令も、国ごとに異なる法令を使っていた
0105日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 16:59:06.02
>>91
記載が無い物をあったと断定するのはどうか?

内宮も度々火事になっているみたいだし、鏡もはじめからそのままの状態かどうか?もわからない

黄金〜の記載はかなり後世の遷宮での記述なので注意
0106日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:00:41.68
伊勢のヤタの鏡は謎なので、これをどうこう言ってもまぁ、意味がないな
0107日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:42:21.64
律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。その他訴訟法や民事法も。)に相当する
公定尺は、令で定められることになる
律令の方が国ごとに異なるということは、公定尺の長さも異なることになる
0108日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:43:35.60
則其說亦未嘗不合也。

則ちその説くところ、また、未だ嘗て合わざらずなり。

結局は周代の尺が10寸と8寸の両方あって説くところが合わないという話になる
0109日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:45:23.48
左傳。天威不違顏咫尺。

左伝には、「天(子の)威(徳)、(龍)顔を違らざること咫尺」と書いてある

左伝は、左氏春秋伝のこと 左丘明の作と伝えられる「春秋」の注釈書
左氏伝 僖公九年に「天威不違顏咫尺」とあることの引用
天威は、天子の威徳、顔は天子の顔(竜顔)、顔を違らざるは天子の顔近くで恐れ多い様子をいう
天威不違顏咫尺は、「天威咫尺」「天顔咫尺」という四字熟語のもとネタ
この部分は、単に「咫尺」の用例
0110日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:46:36.89
咫尺並言。不云二尺也。

咫尺を並べて言う。二尺と云わざるなり。

咫尺を並べて言うということは、区別があるということ
だから、二尺とは言わない
この部分全体が、説文解字の「咫」の「周尺也」の注な訳だが
「周尺=咫」ではないことが分かる
0111日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:48:05.24
國語、列子皆言其長尺有咫。

國語、列子皆、その長さ尺有咫と言う。

「国語」でも、「列子」でも、みんな、その長さ尺有咫という使い方をしている


『国語』は、21巻から成る国別の春秋時代史で、
『春秋左氏伝』の著者とされる魯の左丘明の編纂といわれている
『列子』は春秋戦国時代の人、列禦寇の著書とされる道家の文献

国語には「石砮其長尺有咫」、列子には「其劍長尺有咫」という表現がある
0112日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:49:02.06
亦不言其長二尺也。

またその長さ、二尺と言わざるなり。

(天威咫尺で二尺と言わなかったように)また、二尺とは言っていない

「左伝」でも「国語」でも「列子」でも、咫と尺を並べて使っていても、
二尺とはしていない
0113日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:50:35.58
是可證周未嘗八寸爲尺矣。

是れ、周未だ嘗て八寸を尺と爲さざる證なるべし。

こうしたことは、周の時代にいまだかつて八寸を尺と
したことはないという証と見てよいだろう

咫と尺はあくまで区別されている
説文解字では、咫の項に「中婦人手長八寸,謂之咫。周尺也。从尺只聲。」とある
これだけだと、「咫」の長さは婦人の手の大きさの八寸で
かつ、周尺の長さ(=八寸)のように読める
0114日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:52:31.30
しかし、段玉裁の《說文解字注》を見ると、周代でも尺は10寸であり、咫の八寸とは区別されていたことが分かる

周代には、春秋戦国時代も含まれる
段玉裁の《說文解字注》でいう六国時だ
この時期には、各国の制度が度量衡も含めばらばらになった

それで、周代の尺の長さが10寸なのか8寸なのか混乱し、分からなくなっていた
それで、秦の始皇帝による度量衡の統一が必要だった訳だ
0115日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:53:58.72
その際に咫は、もともと身体尺だったことから、統一公定尺の体系には入れられなかった

さらに、咫は使いどころがほぼない
八寸の言い換えで、八寸を咫という以外に使い道がない

7寸や9寸は、寸で示すしかないのだから、8寸も寸で示せば、もう咫の使いどころはない
0116日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:55:27.22
そうして、咫が「咫尺の書」などの決まった言い方でしか使われなくなって
それから、3世紀までには400年くらい時間が経っている

ここまできちんと把握すれば
円周が八咫になるように作ったとか、円周を測ったら八咫だったとかいうのは、
時代背景を考えれば意味がない

昭和の時代に思いついた人がいるってだけの単なる憶測だよ
0117日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:59:44.80
皇統と無縁の八咫鏡の例が記紀に書かれている

日本書紀 巻第十四
大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連連、未詳何姓人奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。

小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係

つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ
単に大鏡を意味する普通名詞としての「八咫鏡」があり、そのうち
皇室の権威とともに伝世し、伊勢神宮のご神宝・ご神体となったものが、
三種の神器の一つとして固有名詞化した訳だ

それ以前の大鏡を普通名詞として「八咫鏡」と呼ぶのは自由だが、
普通名詞としての「八咫鏡」は当然皇位の象徴ではないし、王権の所在を示すものでもない

5枚もあって破鏡されているものを、王位の証と考えるのは牽強付会にすぎる
0118日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 17:59:58.22
>>115
>さらに、咫は使いどころがほぼない
>八寸の言い換えで、八寸を咫という以外に使い道がない

円周の近似値という使い方がある。
6でも7でもなく8寸だけに新たな呼称が与えられた理由を説明しろよ。
0119日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:00:34.02
また、皇統と無関係の「八尺瓊勾玉」も日本書紀に出てくる

日本書紀 巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇

昔丹波國桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。
是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有「八尺瓊勾玉」。
因以獻之。是玉今有石上~宮也。

もともとは、「八咫鏡」も「八尺瓊勾玉」も普通名詞として、
三種の神器以外にも使われていたことが分かる
0120日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:01:40.76
6枚以上あって、それでは困るから卑弥呼の死をきっかけに一枚だけ残して割ったんだろう。
皇位の象徴がたくさんあったら困るからね。
むしろ破鏡の必然性があったことになる。
0121日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:02:06.04
剣、勾玉、鏡のセットは大王家の独占物じゃないよ
普通の豪族の古墳でも出ている
山口の赤妻古墳とかね

畿内では大王墓は発掘できないand/or盗掘済みで、出てないってだけだよ
0122日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:02:32.39
山梨県の笛吹市平林2号墳でも揃ってるね
自分でもちょっとググってごらんよ
普通の特に目立たない古墳でも、結構揃いで出てるよ

つまり、日本の大王家(皇統)は、倭国・日本の総本家であって、
絶対者としての支配者ではなく、葬送祭祀の副葬品も一般の首長層と共有してるってことだ

平原1号墓を、副葬品だけで王墓と主張するのはピント外れなんだよ

そもそも伊都国に邪馬台国を持ってきたら、邪馬台国七万餘戸も満たせないし
平原1号墓も径百歩に合わない

本当に無理な屁理屈、アクロバティック解釈を重ねないと通らない説は、
正しくないと判断するのが当然
0123日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:04:07.87
>>120
>むしろ破鏡の必然性があったことになる。

破鏡の必然性ww
皇室の「八咫鏡」は破鏡されていないから、別の文化だなw

当然、平原遺跡は皇統とは無縁の地方首長の家族墓地に過ぎない
0124日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:12:49.53
>>120
>6枚以上あって、それでは困るから

勝手に見つかってもいない「6枚目」を想定するところが、
捏造体質の九州説のやり方そのものだね

>それでは困るから

紀伊の日前神宮・國懸神宮ご神体の日像鏡・日矛鏡は、「八咫鏡」の前に
作った同型鏡という伝承があるね
また、大和の鏡作神社のご神鏡も「八咫鏡」の前に作った試作品で、
うまく作れなかったもの、という伝承がある

同型鏡があるのはかまわないみたいだよ?
それで困ることはない

「八咫鏡」の権威は、皇位とともに伝世することで付与されたもので、
最初から「八咫鏡」ありきで王位が決まった訳ではない
0125日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:39:03.01
>>123
>皇室の「八咫鏡」は破鏡されていないから、別の文化だなw

残された最後の一枚なんだよ。
0126日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:39:55.82
>>124
>「八咫鏡」の権威は、皇位とともに伝世することで付与されたもので、
>最初から「八咫鏡」ありきで王位が決まった訳ではない

じゃあ、平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいよな。
キナイコシは自己矛盾しているだろ。
0127日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 18:40:20.29
【八咫鏡】

平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。

内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡はニニギら日向王家の象徴であるが、それが日向峠のある高祖山周辺にあったことで、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。

石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記では、沖ノ島辺津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、辺津宮、伊都に5枚で、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、顛末は記録されていない(上記のいずれかと重複している可能性がある)。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 23:11:56.34
現実から眼を背けて悦に入ったじいさんこそ歴史から逃げてるじゃんか
実証性がまるでない妄想はチラシの裏にでも書いてたら?
0131日本@名無史さん
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2018/10/10(水) 23:15:45.22
伊都クズは歴史学のなんたるかを全く理解してないんだから、実証とか求めるだけ無駄だよ
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/10(水) 23:36:46.23
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
0136日本@名無史さん
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2018/10/11(木) 09:15:35.17
バカか証明できるのは数学だけだ。
それ以外の分野は全て仮説の検証にすぎん。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 18:57:13.22
>>125
>残された最後の一枚なんだよ。

勝手に見つかってもいない「6枚目」を想定するところが、
捏造体質の九州説のやり方そのものだね
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:02:52.55
>>126
>じゃあ、平原遺跡の鏡も八咫の鏡でいいよな。

残念ながらそうはいかない

「八咫鏡」という語は、記紀が初出であり、それ以前どこまで遡れるかは定かではない
皇室の三種の神器が「八咫鏡」と呼ばれるようになったのは、かなり後代の後付とみるのが
考古学的出土遺物との関係から考えると、妥当となる

3世紀(九州説の言い分を認めたとして、おそらく実際は2世紀)に破鏡されて、
墳丘内にばら撒かれて忘れられた平原1号墓のガラパゴス大鏡が「八咫鏡」と
呼ばれた可能性は最初からない

>キナイコシは自己矛盾しているだろ。

平原1号墓出土鏡を「八咫鏡」だと「言い出した」のが、昭和の憶測に過ぎないってのを
早く理解できるようになるといいね

伊都クズ「キナイコシ」はまあ、なんでも脳内改変するから、矛盾を矛盾だと理解できないんだよ
0139日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 19:04:26.20
>>136
>それ以外の分野は全て仮説の検証にすぎん。

その「仮説の検証」すらできない、妄想・憶測は科学じゃないってことだよww
平原1号墓が卑弥呼の墓だとか
平原1号墓出土鏡が「八咫鏡」だとかww
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:43:39.48
>>139
文献内容から考察すれば、現在出土している鏡の中では可能性が高い、というところだろうね

何より八葉紐座が平原鏡のみ、というのが気になるねぇ

それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/11(木) 22:54:51.13
>>140
>それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな

そうだね。
籠神社の鏡は天孫ニギハヤヒのものだったと伝えられている。
卑弥呼の先代の倭王であったろう三雲南小路も内行花文鏡だし、こちらはもう一人の天孫であるニニギのものだろう。
倭王の象徴が内行花文鏡であるのは間違いない。
すると、平原遺跡に眠る女王も倭王卑弥呼ということになる。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 16:39:17.56
>>140
>何より八葉紐座が平原鏡のみ、というのが気になるねぇ
>それと、やはり籠神社の鏡が内行花文鏡だった事が大きいかな

籠神社の連弧文鏡が柿蔕8つになってないから、つながりはないって見ればいいんだろ?
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 17:51:21.60
籠神社の方が古い様式。
前漢と後漢。
平原遺跡のはそれより新しい、魏代のもの。
100年単位で時代が違うから、様式の差があって当然。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 19:19:46.44
>>144
>前漢と後漢。

あのぉ、平原1号墓出土鏡のたった二枚の舶載鏡は
16号鏡 18.8センチ 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡 漢鏡5期 後漢鏡
17号鏡 16.5センチ 四螭二朱雀龍虎鏡 虺龍鏡  漢鏡3期 前漢鏡
で、まったく年代的には同じなんですが、それは?
0146日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/17(水) 20:04:05.02
それは古い倭奴国の権威を継承している証として墓に入れたんだよ。
でもそれとは別に、最新最大の内行花文鏡も、入れてあるわけだよ。
それぞれの鏡は意味があるんだよ。
0148147
垢版 |
2018/10/18(木) 17:14:21.56
すまん。>>145だね
0149日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 18:33:35.25
籠神社の鏡は、ニギハヤヒが天照大神から授かった十種の神宝の一部とされている。
天照大神(海洋王)が出雲の大国主(陸上王)を倒してから、最初にあめつち(海洋と大地)の統一王となったのが、天照大神の孫であるニギハヤヒである。
その称号は先代旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命であり、天照と国照の二つが含まれている。
その象徴である籠神社の鏡は前漢と後漢の内行花文鏡であり、これが倭王の証であったのだろう。
同じく天照大神の孫であるニニギの王権とみられる伊都国(筑紫の日向)の日向三代の王墓(三雲南小路など)も、内行花文鏡が副葬されている。
この伝統は3世紀の平原遺跡において、世界最大の内行花文鏡である八咫の鏡として頂点を迎える。
本来は漢の皇帝から倭王の証として下賜されていた鏡が、漢の滅亡後に卑弥呼政権下で国産化され、今日の天皇家の象徴である三種の神器に継承されている(そのままの鏡ではないらしいが)。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 21:25:14.11
いつからあったかわからないものは、歴史の研究には使えない
0153日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 21:57:26.02
中国のよくわからん畑から農民が見つけたと言われる骨董市で売買された銅鏡?
0154日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 21:59:33.12
>>152
由緒がはっきりしていてきちんと保管されていたものよりも、土の中から掘り出したものの方がいいと?
バカだろ
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/18(木) 22:16:07.10
>>154
その由緒とやらもいつから存在していたのかわからないんだぜ?
バカだろ?
0157日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 17:43:07.60
>>148
>でもそれとは別に、最新最大の内行花文鏡も、入れてあるわけだよ。

まあ作った瞬間には最新かもしれないが、仿製鏡だから年代はまったくあてにならないよ
残りの鏡も全部仿製鏡だし

平原1号墓は2世紀の伊都国の第二家系の盟主墳だよ
倭国王墓ではない
伊都国王(首長)墓の可能性はワンチャンあるけど
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 17:45:18.46
>>155
>その由緒とやらもいつから存在していたのかわからないんだぜ?

籠神社の国宝の『籠名神社祝部氏係図』と『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』も
額面通りの古書ではないそうだしな
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/19(金) 18:41:07.54
>>157
>平原1号墓は2世紀の伊都国の第二家系の盟主墳だよ

伊都国にある王墓は倭王だし、平原遺跡は伊都国のそれまでの(三雲などの)王墓とは別系統だし、平原遺跡は3世紀以降だし。
いろいろ間違いすぎ。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 16:36:02.09
>>159
>伊都国にある王墓は倭王だし、

これが間違い
伊都国の王ではあっても、倭王ではない

>平原遺跡は伊都国のそれまでの(三雲などの)王墓とは別系統だし、

それを第二家系と表現してるんだが?
古墳時代に入っても、三雲遺跡群と曽根遺跡群には、平行して累代的な古墳の造墓が見られる

>平原遺跡は3世紀以降だし。

平原遺跡とまとめるなよww
最初に5号墓が造られて、次に厚葬墓である1号墓と2号墓
さらにその次の世代の、3・4号墓が累代的に造られている
3.4号墓が古墳ではなく、方形集溝墓であることから、平原1号墓は古墳時代開始より2世代前の墓

2世紀後半が相当だよ

>いろいろ間違いすぎ。

>>159がな
平原遺跡とまとめて論じるやつは、情報量が足りない
情報を仕入れる能力が欠けた情弱だ
当然判断も古いまま思考停止している
0161日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/20(土) 17:30:29.32
>>160
>伊都国の王ではあっても、倭王ではない

根拠なし

>それを第二家系と表現してるんだが?

じゃあ平原遺跡は第三家系かな?
別にそれで構わないよ。

>3.4号墓が古墳ではなく、方形集溝墓であることから、平原1号墓は古墳時代開始より2世代前の墓

古墳時代は畿内の勝手な定義だろ
副葬品からは、平原遺跡一号墓を2世紀に繰り上げることは不可能
0162日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:09:37.50
>>161
>根拠なし

それが逆なんだよ
3世紀の伊都国に倭国王墓があるとする方が根拠がない
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:11:41.79
>>161
>じゃあ平原遺跡は第三家系かな?
>別にそれで構わないよ。

ほら、また知識が決定的に欠けているのが露呈している
曽根遺跡群は、平原遺跡を含み、平原遺跡が一番古いんだよ
曽根遺跡群の第二家系が、平原遺跡の家系そのもの

こんなんで、平原1号墓を倭王の墓だとか卑弥呼の墓だとか言うんだから大笑いだって言うの!
0164日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/21(日) 17:17:12.49
>>161
>古墳時代は畿内の勝手な定義だろ

何を血迷っているんだ?
奴国は那珂八万古墳から、伊都国は端山古墳から古墳時代に入っているだろ?
曽根遺跡群ではワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳が古墳時代
畿内説云々はまったく関係ない

>副葬品からは、平原遺跡一号墓を2世紀に繰り上げることは不可能

その最大の根拠の耳璫の括れだけでは、魏晋代にならないって教えてやっただろww
0166名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!
垢版 |
2018/10/22(月) 09:52:16.19
>>165
>後出しジャンケン?

どこが?
平原1号墓と平原遺跡の区別もついていないのはそっちの責任だろ?

曽根遺跡群が平原遺跡とワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳を含む遺跡群だってのは
このあたりの古代史を論じるなら常識の部類だぞ?
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/22(月) 14:46:33.02
>>166
そのことの意味づけが不明確な以上、だから何なんだという話だよ。
重箱の隅をつついても、何も出てこないよ。
君の意見はいつも最後は妄想で補完しているから、無価値なんだよ。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 09:55:09.30
>>167
>君の意見はいつも最後は妄想で補完しているから、無価値なんだよ。

どこが妄想だか、具体的に指摘してごらん?

まあ、平原1号墓と、平原遺跡全体、さらには曽根遺跡群という大きな広がりを
意識すらしていない、知識がまったくない人には無理かなw
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 12:02:00.04
意識高い系は、自意識過剰とも言う。
要するに、おまえは病気。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/23(火) 14:05:13.28
>>169
>意識高い系は、自意識過剰とも言う。
>要するに、おまえは病気。

具体的な論点で一切反論ができなくなると、
個人的な中傷に走るww

とても分かりやすいな

そして、九州説なのに平原5号墓も曽根遺跡群も知らない人から意識高い系と言われても
失笑しか出てこない

するってぇと、>>169は意識低い系で知識も十分にないのに、
「九州説が正しいんだー」って信じ込んじゃってるんだ

もっと、知識を増やしてみたら、考えが変わるかもよ?ww
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:01:40.14
そうだね
平原1号はまさに共立女王卑弥呼の墓にふさわしいな
0172日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 20:04:30.67
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0173日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 21:27:53.94
そうだね
平原1号はまさに共立女王卑弥呼の墓にふさわしいな
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/27(土) 22:17:06.16
投馬国は半島南部だろ
いまさらなにを言ってるんだ?

そこに首都があるなら韓人の国家

九州側に首都が有るならそういうこと

右も左も必死過ぎて爆笑www
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/28(日) 01:29:08.25
倭国の首都は九州北部であり、そこを含む地域が邪馬台国
投馬国は宮崎
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/29(月) 09:56:27.31
>>174
>投馬国は半島南部だろ
>いまさらなにを言ってるんだ?

これを書き込む人の知能が本気で心配になる
旅程の途中で、どうして移動の起点が振り出しに戻るのか、まともに説明できていない
というか、説明できる方がおかしい
そんな書き方は、大陸史書にはない
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 23:16:59.89
>>177
これを書き込む人の知能が本気で心配になる
旅程の途中で、どうして里程から突然全てが日程になるのか、まともに説明できていない
というか、説明できる方がおかしい
そんな書き方は、大陸史書にはない

里程は漢代の里程ダヨーーーーンwww(当時の橋頭保・狗邪韓国 は半島南岸

日程は魏代の日程ダヨーーーーンwww(当時のもっと広い投馬国は半島南岸
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 23:19:47.73
つまり

北部九州倭人倭

鉄素材を求めて

漢代には半島南岸狗邪韓国の狗邪族と血縁を深めて

鉄鉄鉄鉄鉄

鉄入手ルート(現代だと石油ルート

を求めて

勢力拡大して

魏代には投馬国をつくったのだなあ
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 23:21:54.76
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/30(火) 23:31:07.83
>>180
大国主のが最初期ってこと?
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 00:02:30.42
>>178
投馬国は狗邪韓国を中心とした半島南岸ですよ
水行20日が7000里なんですよ。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 13:06:57.78
>>182
>投馬国は狗邪韓国を中心とした半島南岸ですよ
>水行20日が7000里なんですよ。

そういうインチキ読みだから九州説はダメなんだって
行程の途中で、起点が振り出しに戻る書き方なんてどこにもないだろ?

一例だけでここにあるって言張るのはただの循環論法で何の根拠にもならない
0185日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 16:04:21.96
>>184
>行程の途中で、起点が振り出しに戻る書き方なんてどこにもないだろ?

日程と里程をつなげて読む方がおかしい。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 17:07:31.39
>>185
>日程と里程をつなげて読む方がおかしい。

おかしいと思うのは>>185の個人的感想以上のものではない

魏志倭人伝には
自女王國以北、其戸數「道里」可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
と書かれており、旅程は「道里」が示されているのであって、
里程でも日程でもよい

と書くと、どうせ日程は道「里」ではないと言いたがるだろうけれど
 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。

日数で「道里」を表現するのも普通のこと

そして「水行=沿岸航行」では距離は測れない(歩測も使えない)ので、水行部分は
日程で表してあるだけ

短里なんてないんだよ
0187日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 18:14:35.43
最後の一行が言いたいだけの屁理屈
これだから畿内説は信頼をなくす
0188日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/31(水) 19:51:15.97
>>187
>最後の一行が言いたいだけの屁理屈

どこが屁理屈なのか、具体的に論点を絞って指摘して
そうしたらきちんと説明するから

それができないなら
「短里は捏造」
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