明治維新後の徳川家について語る
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明治維新から現代に至るまでの徳川家について語りましょう。 >>136
別にスレチじゃないし、現代に至るまでって>>1に書いてあるが?
ウザいとか言ってないで自分から話題出せば良いいと思うが。 上の方でバカにされてるけど肥後細川家は血統的には本当に馬の骨だぞ
最近じゃ藤孝の父親が細川家と縁がない可能性が高くなってきているから
徳川宗家20代は現当主の実家筋からなんとか養子とれないですかね >>137
日本史板なんだよ
意味わかる?
本来なら近代史板にあるべきスレ、板違い まったく本当に治安の悪いスレになってしまった!
こんなスレ立ててしまった自分の愚かさを反省しています! 最初から読んでみるとアレな人が一人でちょくちょく暴れてるしなw 慶喜隠居後、幼年の家達が駿府城主となり、貴族院議長となり、
家正が貴族院議長となりどうたらというスレなんだろ >>141
反省した結果、これより維新後ではなく「徳川家について語る」スレにします。 家康が生まれとき父の広忠は17歳
まあこの当時珍しいことじゃないけど >>134
同じ徳川の分家から養嗣子を迎えれば良いんじゃない?
家康嫡流自体、五代で途絶えているし >>146
その分家自体もすでに断絶しそうな家も多いし、養子に取れそうな人もほとんどいないのが実情なんだろう。 松戸徳川家はなぜ分家が認められたんだ?
昭武は水戸家の隠居でよかった
他に似たような立場の家はないでしょ >>148
家斉の子供たちで現代まで残ってるのは松平斉民(確堂)の子孫のみ >>149
廃藩置県後の明治16年(1883年)、最後の水戸藩主・徳川昭武は家督を先代(長兄)慶篤の遺児・篤敬に譲り、別邸を松戸に営んだ。
その後に昭武がもうけた実子の武定が、明治25年(1892年)に子爵を授爵したことで、新たな華族家として松戸徳川家が創設された。
武定の跡は、昭武の兄土屋挙直の外孫の博武が婿養子となって継いだ。
要は授爵したから分家が創設された。他に似たような例だと徳川慶喜家とか。 江戸時代から微妙だった清水家は明治期以降も微妙だった
もとは伯爵だった 清水家は借金で破産しそうになったり、当主が禁固刑に処せられたり、華族としての体面を維持できず爵位返上といいところがない。 幕末の老中板倉勝静は松平定信の孫で徳川吉宗の玄孫にあたる 織田さんとこみたいに、フリーのコピーライターが一番良いかも知れない。 徳川家の中でも紀州家の没落が一番ひどいかも、逆に現在の徳川家の中で裕福なのが尾張家らしい。 水戸家の若様はツイッターでおっぱいおっぱい書いてた。 宗家には慶喜系で「宗家分家」って所もあったからそれが今どうなっているか?だなw 家達家が断絶したら次は水戸家が
本家を名乗ることになるのかな 徳川家の子孫って案外繁栄してないな。
企業グループのオーナーで政財界にも影響力持ってる影の将軍みたいなのじゃないのな。 >>162
それはない
江戸幕府最後の将軍になった徳川慶喜の徳川慶喜家は
直系子孫の徳川慶朝さんはサラリーカメラマンになったけど
嫌になって放浪カメラマンみたいなことしてたけど
去年ガンで亡くなくなる前に自分の代で家を終わらすみたなことを
言ってたらしいし 尾張家は義親のおかげで遺産の散逸は免れて美術館や事業を展開して割と裕福に暮らしてるけど、義崇氏に後継があるのか不明。
この点、水戸家は安泰。というより徳川家で一番子孫繁栄してるの水戸家、藩祖徳川頼房の男系で続いてるし、現在の徳川宗家も水戸家の血統(こちらは断絶確定だけど)。 尾張家と水戸家は地元民から「オラが殿様」と親しまれてる様だが、
紀州家は年貢取り立て厳しくて地元民からは今ひとつ親しまれてないらしい
地元から愛されてないと、ヤケおこして断絶に至り易いんだろうか >>169
細川頼有ー頼長ー持有ー常有ー元有ー三淵晴員ー細川藤孝(幽斎)だから同じことじゃない? >>171
元有と晴員の親子関係が疑問視されている >>168
本当に苛政だったのは水戸だろ。これが天狗党のテロ虐殺なんでもありの大暴走の一つの背景になってる。
松平の会津藩も苛政で有名。戊辰戦争時には、領民の支持は皆無だったそうな。
不思議なことに、苛政だった藩ほど、大正昭和になってから「オラが殿様」意識が高まるという逆説がある。
俺は、脛に傷持つ身だった旧士族が、明治以降、教師になって「都合のいい郷土史教材」を創って全力で洗脳したからじゃないかと思っている。 多分?水戸は昔を語る際に殿様の方を見ないとどうしても「天狗or諸生」の話になるからって感じでは?と 関係ないけど皇室の男系子孫って臣籍降下したの含めたら現在1000万人ぐらいになるのかな? 徳川の子孫の残り具合が壊滅的なのだから、そんなにいるわけない。
自称仮冒なら徳川自体が源氏だし。 徳川家から他家へ養子に入った家系の方が子孫残ってそう。
紀州系から養子に入った佐竹家があるけど、徳川家の中だと紀州系はほとんど残ってないかも。水戸の系統が圧倒的。 徳川家の話ができないヤツしかいないんだな
系図バカばかり >>179
系図バカおじさん毎度ご苦労様、暇なのw 徳川家斉の頃は政治は退廃し、国防ではロシアなどの脅威が迫る中で経済だけはすごい良かったらしいな
でも家斉が死んで水野忠邦が老中になった途端、緊縮政策や庶民の娯楽を禁止して一気に不景気になった 自覚があるから反応しちゃうところが低脳の証なんだがな >>179
なんかムカつくなコイツ
仏罰当たって死ね!
南無妙法蓮華経 安政・文久・慶応の幕末の改革ってあまり知られてないよね
享保・寛政・天保は有名だけど >>182
自覚があるから反応しちゃうところが低脳の証なんだがな >>173
〜だったそうな
〜と思っている
何とも頼りない意見だな >>184
徳川吉宗→有能
田沼意次→有能
松平定信→無能
水野忠邦→無能 徳川慶喜って元勲やほとんどの元老たちより長生きしてるんだな、明治天皇よりも長生きした 家斉や家慶がペリー来航後も健在だったら幕府は続いていたよ。 >>165
徳川義崇さんはつい最近探検バクモンに出てて
息子がおりますって言ってたよ 最近、「一農民に落ちぶれた水戸徳川家」というのを
民放某局でやってたな 家康は将軍家尾張徳川家紀伊徳川家の格下の家格に水戸徳川家は設定したからね >>190
江戸城で暮らさなかったのが大きいのじゃ 【風VS火土水、気象戦】 日本が風船爆弾を飛ばすと、アメリカは焼夷弾と人工地震津波兵器でやり返した
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1538444502/l50
ジャップ必読! 元米安全保障局員から東電社長への手紙、決死の告発! 徳川 斉正(とくがわ なりまさ、1958年3月29日 - )は水戸徳川家15代当主。財団法人水府明徳会会長理事→公益財団法人徳川ミュージアム理事長。東京海上日動火災保険株式会社執行役員。
第14代当主徳川圀斉の長男。
慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部、慶應義塾高等学校を経て、1980年に慶應義塾大学商学部を卒業し、当時の東京海上火災保険株式会社に入社。
同社に勤務しつつ、徳川ミュージアム理事長のほか、水戸藩開藩400年記念事業推進委員会会長、公益財団法人水戸育英会総裁、公益財団法人三徳庵理事、公益財団法人山階鳥類研究所理事などを務める。 >>198
幕末は幼児奥方将軍、早死にだらけじゃん〜 バカ連呼キチガイが住みついてるな
いちいち反応しててアホみたい >>204
自覚があるから反応しちゃうところが低脳の証なんだがな >>195
最近だと水戸徳川家はそれほど格下でもなく尾張家や紀州家とほぼ同格だった説もある 二代光圀が実質28万石で従三位参議だったのに、それはないでしょ
初代頼房は正三位権中納言、家格を落とした 徳川慶喜は晩年車を運転して事故ったことがあるらしい。
明治以降は趣味に没頭するお気楽な隠居生活。 敢えて政治その他に口を出さないお利口さんだったんだろ
公爵になって別家を立てるまでは家達家の隠居だったから、当主に気をつかっていた >>210
あくまで説ねw
ウィキペディアで悪いけど以下、コピペ
大納言を極官とする尾張家・紀州家から見ると、水戸家はその一段下の官位である権中納言にすぎず、石高が低かったことなどから知行的に負担を与えられた。尾張家・紀州家より「格下の家柄」とするのが一般の認識であるが、
水戸家の領地は江戸に近く、また常陸国は延喜式における大国かつ親王任国であること、支家の中に高松藩12万石という徳川御連枝の中では破格の禄高の家系(高松松平家)があり、他にも3つの支藩が存在するなどの事情を考慮すると、
総合的には上位とされる2家と同等であるとの説も存在する。 >>209
歴史学者は事実を書き換えて捏造する癖があるからなぁ
何でも権威ずけたがる日本史系学者はヒドイもんなのは有名 >>213
水戸家は常陸国の国主ではなかったし、こじつけもいいところ
幕末、高松藩は縁戚の彦根藩側だった 水戸黄門は個人的には東野黄門が一番、特に初期。話が毎回バリエーションに富んでるし飽きない、なにより黄門様の威厳がすごい。
この人の黄門見てからは里見黄門が助さんにしか見えなくなった。 大体権力の座から落ちた者は、牛や鬼に落とされたり祟り神になったりしたもんだが、徳川は上手く切り抜けたな 恭順してる慶喜を不当に裁くのは、欧米列強から非難されるから
徳川といっても尾張などは維新軍側だったし >>217
佐野浅夫と石坂浩二は影がうすいなw
やはり東野英治郎と西村晃のインパクトが強すぎたのか >>217
「黄門様は月形龍之介以外ありえない。東野黄門など下品で見るに耐えない」
・・といった文を40年ほど前に読んだ記憶がある >>195
家康の子なのに養子に出されて結城秀康という名にされ
秀忠より長兄の立場なのに将軍にも継がせて貰えず
徳川の名もさえも名乗ることを禁じられた越前松平家の立場はどうなるんだ(怒 >>217
初期の東野黄門は殺陣の動きがキレッキレで驚いた。何気に強かったし。
60代であれだけ動けるのは凄いと思ったけど、引退する最後のほうはセリフもほとんどなく初期の頃の黄門は見る影がなくて残念だった。歳だからしょうがないけど。 犬公方は永遠に教科書で晒し者にされるんだな。笑える 武田黄門はガチの黒歴史だな、武田鉄矢が水戸黄門のコスプレをしてる風にしか見えなかったw 初代黄門は悪役にキレたりすると「黙れ!!」って言ってたけど、2代黄門あたりから「だまらっしゃい!」に変わる >>209
明治以降は逆転して、尾張・紀州は侯爵
水戸は朝廷寄りだったため、徳川宗家や慶喜家と並び公爵に列す >>223
結城秀康はその名のとおり常陸国結城家の養子。
だが結城領主だった約十年間はほとんど徳川家康に付き従っていて
領地にはあまりいなかった。
そのせいか結城市民にはおらが殿様感は乏しい。
なお越前松平家も後年断絶していてオットセイ将軍の子供を殿様に迎えている。 秀康は家康に出生を疑われ4歳まで認知されなかったからな
信康の説得で認知された後もすぐに養子に出されてしまった
家康は出生の疑いのある秀康を将軍継嗣から締め出していた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています