明治維新後の徳川家について語る
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
明治維新から現代に至るまでの徳川家について語りましょう。 >>523
徳川御三家の中で一番格下の水戸徳川家だけは
徳川将軍家宗家を継ぐことは許されなかったのに
水戸徳川家の慶喜が幕臣達の猛反対を押し切って
将軍になったのが幕府にとって厄になってしまったね >>526
家慶が一橋家に後継含みで入れたからだろう。 馬鹿は自分の知ってることを話したいだけだからアンカ付けても会話が成り立っていない >>530
普通にできる。
徳川恒孝も近衛忠Wも養子で家督相続した。 >>526
>幕臣達の猛反対を押し切って
再三断るも幕臣たちに請われて就いたのに、何を言っているのだ 骨折れ候故、(中略)天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候 >>530
養子縁組みは目的関係なしに出来るよ。そもそも家督相続なんて公式な制度じゃないから自称だよw 名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 >>530
犯罪者が名前を変えるためだけに養子縁組するケースだってあるのに、名家の家督継ぐ目的なら普通にOKだろ。 >>526
徳川将軍宗家を尾張徳川家からは一度も継げなかったから
尾張藩は江戸幕府にかなり猜疑心と不満を持ってたらしい スレチだけど近衛文麿の嫡男文隆が亡き後、
なぜ次女温子の次男細川護Wを養子にしたの?
島津家に嫁いだ長女の子は最初から候補者外? スレチだけど近衛文麿の嫡男文隆が亡き後、
なぜ次女温子の次男細川護Wを養子にしたの?
島津家に嫁いだ長女の子は最初から候補者外? >>539
島津宗家を継がないといけないのに
何でわざわざ養子になって近衛家を継がなきゃないないの?
ばか? >>539
近衛家の場合は、娘婿の細川護貞が文麿の首相秘書官を務めてたからその縁とか?
島津家は男子が1人しかいなくて、そもそも養子に出せなかった事情もあると思う。
それより会津松平家を松平恆雄ではなく弟の保男が家督を相続したり。
徳川慶喜家の家督をなぜか七男の慶久が相続したりとよく分からない。 >>540
なんかムカつくなコイツ
仏罰当たって死ね!
南無妙法蓮華経 その疑問より、なんで文麿の後を弟の通隆が継がなかったのかの方が謎
長男になんかあったら女系の孫ではなく、次男が継ぐのが定石だと思う 松平恒雄は長男が生まれた時に上司だった小村壽太郎に命名について相談した。
小村が提案した名前を恒雄「気に入りません」と拒否、それに対して小村が「だったら一郎でも次郎でもつけとけば良いじゃないか」と言って名前が決まった。 >>539
近衛家久公卿に第3代薩摩藩主・島津綱貴の長女亀姫が嫁いで正室になってたり
第4代薩摩藩主・島津吉貴の娘満君が継室となったりと
鎌倉時代を始めとする薩摩島津家と京都公家社会最高峰の家格を有する近衛家とは
ずっと特別な関係だから細川家の嫡男が養子になろうと関係ないよ
太政大臣近衛基Xの長女で江戸幕府6代将軍徳川家宣の正室に嫁いだ天英院X子が
第5代薩摩藩主・島津継豊の継室となる第5代将軍徳川綱吉の養女竹姫の
島津家輿入れの段取り取り持ったぐらい島津家徳川家近衛家は特別な関係なんだよ 徳川恒孝(徳川宗家当主:1963年)
近衞忠W(近衞家当主:1965年)
2人とももう50年以上当主やってるんだな。 近衛家は細川家から養子を迎えるまで当主不在だったんだな 本来はこのスレで論じられるべき話が別スレで場外乱闘して白熱してるのでコピペしました。
0050 日本@名無史さん 2019/03/25 16:14:59
>>41
現在の徳川家
宗家→次期当主に跡継ぎなし
尾張家→鍋島の血筋の人が養子になったのは良いにしても、跡継ぎがどうなるか
紀州家→半分断絶してるようなもの
水戸家→まだ大丈夫
慶喜家→一昨年断絶
御三卿もほとんどが途絶えそうな状態
0051 日本@名無史さん 2019/03/25 17:29:18
馬鹿だよ
お前みたいな犬猫の類が心配することないってw
徳川宗家は当主が健在で息子がまだ50代。これからだって何とかなる。
尾張も紀州も水戸も問題なし。
徳川公爵家(慶喜の家)は徳川家とは関係ない。慶喜は家督を田安家の当主に譲り、
別家を立てたが、その家の宗教は皇室に配慮して神道とした。
墓は家代々の墓でなく公立の墓地を選んだ。
祖先を祀ることは一切していないのだ。
もともとは水戸家だが将軍家に養子に入ったときに関係は絶えた。
だから宗家とも水戸家とも何の関係もない。 0052 日本@名無史さん 2019/03/25 18:25:42
>>51
一つ一つ流れと関係ない的外れなこと書いてて笑うw
この方、相当頭が悪いらしい
0053 日本@名無史さん 2019/03/25 19:51:05
>>52
犬や猫の類に口なし
覚えておくんだな家畜 0055 日本@名無史さん 2019/03/25 20:41:37
>>51
お前バカなの?
次期当主が50代だからどうにかなるっていのはまずよくわからん。
徳川公爵家(慶喜の家)は徳川家とは関係ない。
ちょっと何を言ってるのかわからない。
尾張も紀州も水戸も問題なし。
紀州家は当代で断絶が確定してるし、
墓は家代々の墓でなく公立の墓地を選んだ。
祖先を祀ることは一切していないのだ。
神道云々は慶喜個人の墓の話で、慶喜家が神道となったわけではないんだか。アホなの?
最後の養子云々の話はもう意味不明。
0056 日本@名無史さん 2019/03/25 21:15:42
>>55
お前、詩人か?w
何が書いてあるのか分からない。
ひとりよがりにいい加減なこと書いてちゃ駄目だよ。
少しだけ分かるのは、お前が徳川宗家の断絶が心配で仕方ないらしいこと。
それなら徳川さんの家に行って「お宅は跡継ぎが50歳越えてるらしいが、ダイジョブですか。
そろそろ何とかしなさい。お家が絶えますよ。」と言って来いボケ 0057 日本@名無史さん 2019/03/25 22:30:50
>>56
>>ひとりよがりにいい加減なこと書いてちゃ駄目だよ。
自分で自覚があるんなら直せ
まず、事実誤認しまくってるので訂正してるだけなんだか?
何書いてあるのかわからないのはお前が読解力のない馬鹿なだけ
>>55のどこをどう読んで徳川宗家の断絶が心配で仕方がないと読み取ったのか知らんが、こちらは明らかな事実を提示したまで
0058 日本@名無史さん 2019/03/25 22:49:15
50代の跡継ぎのおっさんがこれから頑張って子をつくるのか、養子をとるのか、
子をつくらず養子もとらず絶家になるのか、なんて誰にも分からないだろ。
>次期当主が50代だからどうにかなるっていのはまずよくわからん。
どうにかなるかも知れないしならないかも知れない。しかし、そんなこと当事者でもない
他人が議論してたって仕方ないだろ。
お前は50過ぎじゃもう駄目だ、徳川宗家は絶家確実と思ってるのだろうが、お前みたいな犬猫が
他家のことまで心配しなくていいんだよ。勝手に決めるな。てめえの心配してろボケ
>神道云々は慶喜個人の墓の話で、慶喜家が神道となったわけではないんだか。アホなの?
当主が神道を選択すればその家は神道だろ。慶喜が初代の家で初代当主の慶喜が神道と
したんだから神道の家だよ。
あと、慶喜の公爵家は徳川一門ではない。
慶喜は自ら徳川との関係を一切絶ち、謹慎状態のまま生涯を終えたのだ。
事実を提示したまでとか嘘言うな。自分の考えを言ってるだけじゃないか。
犬猫の考えなんか聞かされたって困るんだよ、徳川さんもこのスレの住民も。
いい加減にしろ糞が 0059 日本@名無史さん 2019/03/25 23:31:31
>>58
最初に言っておくが徳川宗家の相続についてはもちろん関係ないから、
養子を迎えて継がせようが、絶やそうが自分の関知するところではないからそこは別にいい。
>>当主が神道を選択すればその家は神道だろ。慶喜が初代の家で初代当主の慶喜が神道と
したんだから神道の家だよ。
上でも言ったが、あくまで慶喜個人の墓を神道式にしたというだけであって、
家が神道となった訳ではないと何度言えばわかるんだ。
ついでに言っておくが、慶喜は晩年息子の慶久に家督を譲って隠居してるので当主でもない。
>>あと、慶喜の公爵家は徳川一門ではない。
慶喜は自ら徳川との関係を一切絶ち、謹慎状態のまま生涯を終えたのだ。
完全な事実誤認。何を根拠に徳川一門ではないとさっきから喚いているのか。
一生謹慎状態のまま生涯を終えた公爵ですか?凄いですね。理論崩壊してるの気づいてる?
慶喜は娘たちを徳川宗家の家達の元へ預けて養育して東京の学校に通わせていたのに何言ってんの?
慶喜の謹慎自体も明治2年に明治天皇によって解かれ、さらに公爵に授爵されているため、
一生謹慎状態のまま生涯は終えてないし、趣味三昧で遊んで暮らして生涯を終えてる。
>>自分の考えを言ってるだけじゃないか。
自己紹介してるの? コピペ以上。皆さんはどちらの意見に賛同ですか?
私は難しくてよく分かりませんw 低能どものゴミみたいな煽り合いをコピペしに来るなよカス 秩父宮妃勢津子は帰国子女で
サッチャーから「wonderful!」と言われるほどのクィーンズ・イングリッシュだった。 >>559
サッチャーは平民階級だったからな
学生時代に訛りを矯正したぐらいだし 大正天皇の皇后が、長男昭和天皇の御妃選びで意見を採用されなかったから
次男秩父宮の御妃選びはやる気満々で、勢津子が選ばれた
会津家の分家で華族でもない節子をよく探し出したものだ >>561
法的に華族に属さないだけで
事実上華族みたいなものだから 事実上華族みたいなものだったら、伯父の養女として結婚する必要がない
詭弁 >>563
形式と実質の違い分かる?
実質は華族も同然だったが、法的には平民だったから形式を整えただけのこと。
そもそも平民は妃選びの候補にすら入らないが、
松平節子の名が上がったのは法的にはともかく、家柄が華族に連なる一族と見做されてたからに他ならない。 そもそも華族というのも法令上の地位だから
「事実上皇族のようなもの」なんてのがいないのと同様に「事実上華族のようなもの」なんているわけがない
「事実」と「実質」を互換的に使ってる点から推測すると
知識を系統立てて理解するのが苦手で自分のあやふやなイメージだけでテキトーに発言しちゃうタイプなのだろう >>566
法的な華族の定義は爵位を有する当人だけに限られ、その配偶者や家族などは法的には華族ではない。
しかし、華族令の運用においては広い意味で一族(家族)としての「華族」として遇されていた。 そもそも何故そんなに勢津子妃の秩父宮との結婚に疑問を差し挟むのか意味不明
会津松平家が気に食わないのか、節子の族籍が平民だったのが気に食わないのか知らんが、
よくもまあ当時の皇族会議で満場一致で承認され、天皇の勅許も得て成婚したのに何をガタガタ言ったのかね。 日本の華族制度ってヨーロッパの貴族制度(特にイギリス)を参考にしてたのにだいぶヨーロッパとは違うんだな イギリス貴族の公爵はDukeだけど日本の公爵はPrinceと英訳でなってるのは大陸(フランスやドイツ)を参考にしたんだろうか?
同じPrinceでも日本語訳では大公だったり公爵だったり侯爵だったりするからから難しい
英語では全く同じなのにモナコ大公やモナコ公と訳されたりリヒテンシュタイン公やリヒテンシュタイン侯と訳されるなど
ドイツではDukeの方がPrinceより格上だったりとにかく複雑でよく分からなくなる ヨーロッパの爵位はローマ起源だったりフランク王国起源だったり、歴史的経緯がいろいろあってややこしい。
さらに国ごとでも違うから。Princeはローマ帝国のprinceps(第一人者:オクタヴィアヌスの称号でおなじみ)に
由来して王と同様の君主号として使われた。モナコ公とかはこれ。公だったり大公だったりするのはイギリスを
勝手に大英帝国と呼んでるのと同じで深い意味はない。Dukeはローマ帝国のdux(指揮官)由来でローマ帝国が
周辺の部族と手を組むときにその部族の長に与えたことから中世には領主の称号として使われた。
日本の華族制度は古代中国の五等爵(公・侯・伯・子・男)を持ってきて格付けに使っただけで深い考えは無いだろう。
考える必要が無いもん。ちなみにヨーロッパの爵位は女が継ぐこともできるので女男爵とかもいる。そんなことは
考えもしないで古代中国の男爵を持ってきたから変な感じになってしまった。 リヒテンシュタインは侯、
モナコも侯が正しいと思います。
大公は絶対におかしいと思います。 そもそもスレチだった。反省しました。失礼しました。 >>567
当主と同じ戸籍に入ってる者も華族だぞ
分家すると平民 モナコ公国の大公レーニエ3世の長女カロリーヌ王女のアンドレア王子 >>464
血がある程度遠くなってるからだよ
戦後間もない時期まで日本中いとこ婚は結構あったでしょ 明治維新後、藤原姓の諸家が近衛と九条と名乗ったのだから、
徳川も宗家以外は尾張とか田安と名乗ればよかったのにな >>579
藤原姓の諸家が近衛と九条と名乗ったのは鎌倉時代からじゃなかったっけ? >>579
家達を千駄ヶ谷公、義親を尾張侯、達孝を田安伯なんて呼ばれ方はしてたけどね 藤原姓近衛
源姓田安
同列でなにもおかしくないのに、バカが噛みついてきて困る >>586
まともに言い返せないなら黙ってれば?
バカなんだからさw >>588
まともに言い返せないなら黙ってれば?
バカなんだからさw >>589-590
いわゆる御三卿の苗字は飽くまでもコ川
田安一橋などは古文書学で言うところの宛所のようなもの
田安と名乗れと言うのは前田は加賀、島津は薩摩、伊達は仙臺、毛利は長門と名乗れと言うようなもので到底取り上げるに足らない妄説
無教養低学歴の知的障害者が軽々しく口を開くな
分際を弁えろ >>592
自分が言われて悔しかった言葉をそのまま鸚鵡返しとは芸がない上に余程悔しかったんだな
反論できるならしてみなよ
知識も知恵も足りない知的障害者君 明治維新後の徳川宗家ってそんなに資産があるイメージが無い。 徳川家には家康以来、徳川将軍家が代々保有してきた
貴重な宝物や骨董品、白眉の美術品などを多数所持してるから
徳川記念財団や徳川美術館、徳川ミュージアムや徳川黎明館など
江戸時代以来、資産価値が付かないほどの膨大な宝物類を持ってるよ 実際宗家には無いんだよ
江戸東京博物館でのなんとか展でも、尾張家みたいなすげえ宝物はなかった
恒孝さんも残ってないと言っている 133日本@名無史さん2018/09/25(火) 20:30:01.34
上にも出てるけど、徳川宗家の遺産が戦争で消失してしまったのは惜しいな、現在の財団の遺産はあまりぱっとしないし
しかし戦前の宗家も裕福だけど、紀州家ほどの資産はなかったらしい わが命旦夕に迫るといへども、将軍斯くおはしませば
天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民
艱難することあらんには、誰にても其の任に代らるべし
天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり
たとへ他人天下の政務を執たりとも四海安穏にして
万人その仁恵を蒙らば元より
家康が本意にしていささかも恨みに思うことなし 。
徳川家康 元和2年(1616年)4月16日
死期が迫る中で側近達に家康が語った遺訓 >>599
そう考えると
尾張家、近衛家、細川家あたりの遺産はすごい >>591
尾張殿、紀伊殿と呼んでも常陸殿とは呼ばれないな水戸は
常陸の半分くらいだった所領は
水府殿はあったけど、甲府や駿府にあやかったが公式な府では無いよね?
尾州・紀州は一般的だが常州はあまり使わない
因みに上州屋は茨城県出身の創業者、常州屋と考えたが簡単にした >>603
一応訂正入れる
水戸は水戸殿と呼ばれてるぞ
殿様の名前より藩の名前での呼称なのだろう
https://i.imgur.com/5Bh8eaC.jpg 明治に藩が置かれるまで「藩の名前」なんてものはない
尾張殿、紀伊殿、水戸殿というのは当主の呼称
殿が付けられるのは当然御三家御三卿くらいのもの
居所の名で呼ぶというのは武家においては格式の一種となっていたと思われる
徳川実紀などの記録類では御三家の当主は常に居所名+官名で呼ばれる(尾張大納言殿、紀伊中納言殿、水戸宰相殿など)
嫡子の場合はコ川右兵衞督殿、コ川常陸介殿、コ川左衞門督殿などと呼ばれる
御三卿は參議まではコ川右衞門督殿、コ川刑部卿殿、コ川宮内卿殿などと呼ばれ、中納言以上になると田安大納言殿、一橋中納言殿などと呼ばれる
(これから推すと御三家の嫡子も中納言以上では尾張中納言殿などと呼ばれたか)
加賀家も參議までは(つまり歴代のほとんどが)松平加賀守と呼び捨て、中納言以上になると加賀中納言の公称を許されたと見られる
その他の武家はほとんど苗字+○○守とのみ呼ばれる
尚同じ人物でも領知判物・朱印状では居所名+官名、領知目録では苗字+○○守と宛名が変わる
判物では秋田侍從、目録では佐竹右京大夫の如し
大名同士の信書では薩摩中將殿、長門少將殿などと宛名書きしていた
勿論これらは侍從以上の武家のみの話
ちなみに居所名は適当ではなく決まりきっていたようで既述のように佐竹は久保田ではなく秋田とされ、藤堂は伊勢でも安濃津でもなく伊賀少將殿と宛名書きされる
越前という称から減知の際に福井の称に落とされ、更に公儀からの養子を迎えて越前に戻った越前家のような例もある
(更にちなみにそれまで福居と書かれていた福井の用字が定まったのはこのときの宛名書きが決め手だったようだ) >>605
>ちなみに居所名は適当ではなく決まりきっていたようで既述のように佐竹は久保田ではなく秋田とされ、藤堂は伊勢でも安濃津でもなく伊賀少將殿と宛名書きされる
それ国主としての扱いってことではないの? 居所名は別に国持に限ったものではないし国持だからと言って国名を冠するわけではない
奥羽の国持は仙臺、秋田、盛岡、米澤などとなるし有馬は筑後ではなく久留米(一国一円領知でないことも関係するのだろうが)
必ずしも城地名ではないことは秋田の例を見てもわかるしご存知会津は若松中將ではなく会津中將 会津もそうだけど秋田は飛鳥時代の「齶田(あぎた)』にさかのぼる古い地名だから久保田や若松とは重みが違うんでは。 >>608
無知ゆえに馬鹿丸出しなことを口走ってしまった為に低学歴だということがバレて悔しそうだな低学歴君 >無知ゆえに馬鹿丸出しなことを口走ってしまった為に低学歴だということがバレて悔しそうだな低学歴君
さすが高学歴、普通には見られない日本語だ 新札は渋沢栄一ですな
慶喜の家来で弟昭武と欧州視察
慶喜が構想していた事を実現した人物
松戸戸定邸で色々と画策したんでしょうな >>612
馬鹿が馬鹿にされるのは当たり前なんだからそんなに悔しがるなよ
低学歴君が>>579>>584のような意味不明で無知低能丸出しなことを言い出したことから始まった流れだよ
スレ違いなどと言えた義理かね
そもそも日本史板で近代史スレ自体が板違いじゃないか >>614
>>144で徳川家について語るスレにしますって立てた人らしき人が言ってる >またこいつか
>スレチ粘着
を見て、自覚があって反応しちゃう高学歴>>614 あの流れでアンカも付けずに誰に言ってるつもりだったの?
そろそろ>>591に反論してほしいんだけど
まともに言い返せないなら黙ってれば?
バカなんだからさw >>617
徳川が何家あったのか考慮しないバカ
田安が加賀や薩摩や長門と同じような領地名だと思って並列してる高学歴さんに
バカ呼ばわりされちゃいました
でいいか? 徳川家達と新5000円札の肖像になる津田梅子はいとこ同士 >>618
領地名ではなく一貫して居所名と言っているのだが知能が低すぎて理解できないのかな
そこからして既に反論になっていない
居所の名を以て貴人又はその家を呼ぶ、もしくは文書の宛所とすることは古代からずっと行われている用法であり
そうした慣習の延長として武家の場合はそれが居城や領国の名となったのは至極当然のこと
書札礼などの背景となる知識に乏しいから外形のみを見て公家の家名と加賀薩摩などを異なるものとでも考えたのだろうが
語るに落ちるというべきかお里が知れるというべきか
また偉そうなことを言ってた割りに徳川が何家もあるから田安にしろなどという浅い理由で失笑を禁じ得ない
松平は大名だけで数十家、旗本も含めれば100家以上あったし、島津氏は分家家臣も含めれば10家前後が華族になっている
おまえの主張がごもっともなものであるならば松平諸家も屋敷地の名を取って苗字を改め、島津諸家も玉里、重富、垂水などと改めなければならないわけだが
士族となった松平苗字や島津苗字の家は改めなくてよいのか?
平民が松平や島津どころか徳川を名乗り始めることもあり得た時代であったということについてどう考えるの?
その中で御三卿のみが徳川を捨てなければならない必然性があるのか?
考えが浅く歴史的背景や同時代の諸々の事例を参照する能力もないから論の射程も短い
経もなければ緯もない糸クズのように吹けば飛ぶような愚論
そもそも歴史上の事象に対して「こうだったらいいのにな」なんていう主観的な感想なんて誰も求めていないんだよ
無知低能の思いつきに価値なんてあるわけないのに何を勘違いして発言する資格があると思っちゃったの? 子供部屋おっさんて何だ?
反論できなくて意味不明なことを口走るしか能がないのか知的障害者
そんなに知能が低いのに恥ずかしくて自殺したくならないのか? 子供部屋おじさんとは (コドモベヤオジサンとは)
子供部屋おじさんとは、実家の子供部屋で暮らす成人男性の事である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています