箸墓古墳の被葬者
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気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
アホの>>1
アホの>>1 箸墓古墳の作製は紀元後374年だった可能性が、99.5パーセントあるな。。。 278mの前方後円墳の円墳部分だけをみて径百余歩(約150m)などとは実に馬鹿馬鹿しい。
ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。
だから強引に結びつけただけ。
そして放射性炭素測定で箸墓をAD240〜260年というトンデモないミスリードをしようとしている。
放射性炭素測定で20年幅なんて分るわけがない。
箸墓をヒミコの墓だという論者は箸墓の瀬戸内の強い要素など全く説明できない、
せいぜい卑弥呼共立に瀬戸内勢力が中心となったなどの屁理屈で逃げる。
彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
彼らは神話に耳を貸さない。
そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。
江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。
何も難しくない、日本の原点かつ聖地に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢も埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛であり、ヒミコの時代に土蜘蛛を征したのは日向から来た男・神武である。
https://goo.gl/maps/DocFtPTq6VJ2 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 箸墓古墳の被葬者は、乗馬軍団の娘の可能性が高いな。。。 乗馬軍団の馬は高句麗から、前方後円墳の作製の秘伝と一緒に、輸入していたのではないのかな。。。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 神武から崇神まで五世代とする説では、崇神と開化は従兄弟同士
孝霊と孝元は兄弟になる
記紀の系譜では、モモソヒメは崇神から見て3代前の天皇の皇女だが、
孝霊と孝元が同世代、開化が孝元の皇子、崇神が孝霊の皇子とすれば、
モモソヒメと崇神は姉弟の関係になる ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. ここは、人の話を聞数に好き勝手に書くスレだね
了解 古墳に埋葬されているのは俗に神と呼ばれるエイリアンの
直系子孫ないしエイリアンの遺伝子を引き継ぐ人種だろ ということは、高天原はガチ天上界で、例えば異星間航行宇宙船の中のできごとなんだね!
そこから、ニニギは降臨してくる、と こういう無駄スレが積もってるから、日本史板のほかのスレの人たちに
邪馬台国スレは頭おかしいって言われるんだよな 箸墓古墳の被葬者は天皇の娘、皇女であり、彦姫制の祭祀王を担った
倭迹迹日百襲姫命で問題ない
日本書紀にもそう書いてある
本来はヤマトの祭祀王だったが、それが全倭国の祭祀王として共立され
新しい前方後円墳祭祀が作られた訳だ
それが、魏志倭人伝では卑弥呼と記録されたってだけ 畿内説は確からしいことを並べたあと唐突な結論で終わる >>21
一皇女が女王などとは片腹痛いわw
あと崇神時代まで生きたモモソ媛が卑弥呼なわけがない。
崇神は4c前半(行燈山古墳)になることが決定。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 頭の悪い、インターネットの畿内説の宣伝係を、解雇すれば、こんなことにはならなかったのではないのかな。。。
368 名前:日本@名無史さん 2018/11/20(火) 12:16:29.54
纒向遺跡 見学拠点の建設延期
2018年11月20日(読売新聞・奈良支局)
◇桜井市、財政厳しく
◇地方交付税、台風復旧費など影響
>桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向まきむく遺跡で、
>2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。財政難が原因。
>整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
>松井正剛市長は取材に、「少ない予算で中途半端なものは作りたくない。
>5年ほど延期せざるを得ない」と話している。
ほう、5ちゃんの攻勢に、ついに桜井市も炎上・落城したか・・・。 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった 日本史板の、邪馬台国畿内説 part402は、破綻した畿内説の宣伝係員が作製した重複偽物スレッドなのだけれどもね。。。
今朝も、破綻した畿内説の宣伝係員が、ゴキブリが叩き潰されるようにして、論破されてしまっているな、、、 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 箸墓古墳の被葬者は邪馬台国と関係ない地方豪族の墓
これ定説 そんな初期古墳、天皇本人もしくは退位後の、じゃなきゃダメだよ。
嫁や娘、子なんて何十人居るよ? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 遺骨も出ていないのに、誰が被葬者なんていうのは無駄。
形だけの古墳だった。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 畿内説を宣伝している韓国人が、元気を失ってしまったな。。。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 畿内説を宣伝している韓国人が、元気を失ってしまい、邪馬台国畿内説を宣伝するためのスレッドを作製できなくなったのではないのかな。。。 畿内説を宣伝している韓国人が、元気を失ってしまい、邪馬台国畿内説を宣伝するためのスレッドを作製できなくなったので、少し、つまらないなw コピペ貼りの人もこういうスレには一日20回くらい巡回してくれればいいのにw 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 九州説にはあるんだから、にも、ってのはまちがってるだろう ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 箸墓古墳の被葬者は崇神(行燈山古墳)の前王か前々王。
墳形や特殊器台から考察するに瀬戸内と強い結びつきがあり、
山城の五塚原古墳、交野の雷塚古墳とも強く関わる。
それは崇神の叔父・イカガノシコオしかいない。
彼は姉のイカガノシコメとヒメヒコを形成してる事からも磯城の王であったことが分かる。
またイカガノシコオの妻である真木姫の父が山代国造の祖・長溝、
イカガノシコオと真木姫の子が交野連であるタベノスクネ。
上記、山城の五塚原古墳、交野の雷塚古墳と対応する。 韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。
705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな
955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので周の1尺は20cm弱
谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど 周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる
そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる
ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 >>73
>九州説にはあるんだから、にも、ってのはまちがってるだろう
で、その九州説の投馬国の比定地ってのが、
1.宮崎妻 一番まともだが、九州北部説では女王国以北を満たせない
2.大宰府付近 そんなところに5万戸の大国は入らない
3.半島南岸 頭おかしいとしか
てな具合だからなww
九州説は、説ではなく妄想のみw >>82
逆に近畿説が妄想じゃない例を上げてほしいな >>83
_、)ヘヘ)》`)`ミヽヽ、
_ィ、ルヘ》^`、,-‐ニ三ヽ-_=_-`ヽ、
_ノ^(()) ) (ヘルリヘ))ヘリリミ、彡/ノノヽ
(ルヘ((彡ミ《((〈))))ノソンン彡彡/ノ//)
((ヘ(、戈))ミ)ヾ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;彡シ彡/ノ
\弋ミ彡='゙;;;;;;;-‐─ァ::;;;;;;;彡≪ノシf/
ノ//´ ノ: :: ::::::::::::、;;;;;;{
〃´ 弋::::::::::::::::;;;;;;;ミ
〃ヘ、 ィ==- `ヽ:::::::::シ-、ミミ
/ l⌒ヽ `‐=-、 |!:::/⌒)戈、
l / __ `ー / (ノ/ヘミ
i {ヽ r-' ヽ, ・/ノ、。_ノ;;ミミ、
|、 rェェェェ、_ヽ / /)リ;;ミ<
ハ弋二ノ_/ / |!;;!:::::f、
(_ \__/^ ヘ_ノ/ ノ}:::}|ミリ
\...:::::........、シノ 〃リミ\
_, -‐‐´⌒{ }‐---‐'´ ミ /\
/::::::::::::::: Q 近畿説の裏付けは?::::::::::::\
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_/_ ヽ / 、 / _/_ 〃_/_ ヽ  ̄フ ─|/ヽ _/_ ヽヽ
/ _l / ) /ヘ / ─ / _l  ̄/ ̄ /| / / / \
(_ノ` し / し' / (_ (_ノ` ヽ (_ / | し / 、_/
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。 >>85
>>3のコピペじゃねぇかよ
無駄なことすんなカス ●渋谷向山 4c前半 景行
●行燈山 4c初〜前半 崇神
●箸墓 3c後半 ?
こういうわけだな。
つまり景行、崇神の前の、この土地(磯城)の王というわけだ。
簡単だ、崇神の叔父であるイカガノシコオ。
崇神の母であるイカガノシコメとヒメヒコを形成している、つまりヒコ=王であった。
景行、崇神の前なら、開化や孝元と言った「天皇」を連想するだろ。
ところが違う、「天皇」は7世紀に作られた称号。
「天皇」というイメージに引っ張られ過ぎるから分らなくなるのだよ。 10代天皇・崇神と大物主ではどちらの地位が上か。
大物主だ。
モモソ媛の亭主であった大物主が山に帰っている事でも分る。
山にあるは水源、水源とは王の住処。
その大物「主」を崇神は殺した。
崇神は大物主の怨霊が恐いから、鎮魂のために大神神社を建てた。
それでもまだ怨霊が恐いのか、手元にあった祭器(鏡)を放逐した。
その鏡は今も行き場所がなく、伊勢神宮境内を20年に一度、式年遷宮という形で彷徨う。
だから皇室は明治天皇になるまで1500年間、伊勢神宮を参拝できなかったのだ。 北朝鮮に支配され操つられている韓国政府が、完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。 退位の報告で今上天皇が神武天皇陵に行かれたが、本当のところあれは誰が埋葬されていそうなの? テキトーな天皇を割り当てた陵墓指定も問題だが、全国の古墳の大半が被葬者不明というのも、どうかと思う。
8世紀初頭の焚書と、明治の国家神道の押し付けと、戦後の記紀否定と、日本がいかに歴史を重んじない国か思い知らされる。 >>96
>全国の古墳の大半が被葬者不明というのも、どうかと思う。
そりゃ、全国へ散った「忌部はん」 達の墓なんだから、被葬者不明な訳だよ。
大王陵は倭国(阿波)の山稜にあるよ。 @阿波 少なくとも焚書は数度あった。
最も最近は明治の初めてかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています