箸墓古墳の被葬者
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気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
アホの>>1
アホの>>1 箸墓古墳の作製は紀元後374年だった可能性が、99.5パーセントあるな。。。 278mの前方後円墳の円墳部分だけをみて径百余歩(約150m)などとは実に馬鹿馬鹿しい。
ヒミコの墓は大和にあるはずだ、そして探したらこの部分しかなかった。
だから強引に結びつけただけ。
そして放射性炭素測定で箸墓をAD240〜260年というトンデモないミスリードをしようとしている。
放射性炭素測定で20年幅なんて分るわけがない。
箸墓をヒミコの墓だという論者は箸墓の瀬戸内の強い要素など全く説明できない、
せいぜい卑弥呼共立に瀬戸内勢力が中心となったなどの屁理屈で逃げる。
彼らは基本、神話というものを小バカにしている。
彼らは神話に耳を貸さない。
そういう自分が知的だと自惚れてさえいる。
江戸時代まで普通に高天原だと認識されていた場所に卑弥呼の墓はある。
何も難しくない、日本の原点かつ聖地に径百余歩の塚があり、
魏志倭人伝の記述通り奴婢も埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛であり、ヒミコの時代に土蜘蛛を征したのは日向から来た男・神武である。
https://goo.gl/maps/DocFtPTq6VJ2 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 箸墓古墳の被葬者は、乗馬軍団の娘の可能性が高いな。。。 乗馬軍団の馬は高句麗から、前方後円墳の作製の秘伝と一緒に、輸入していたのではないのかな。。。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 神武から崇神まで五世代とする説では、崇神と開化は従兄弟同士
孝霊と孝元は兄弟になる
記紀の系譜では、モモソヒメは崇神から見て3代前の天皇の皇女だが、
孝霊と孝元が同世代、開化が孝元の皇子、崇神が孝霊の皇子とすれば、
モモソヒメと崇神は姉弟の関係になる ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. ここは、人の話を聞数に好き勝手に書くスレだね
了解 古墳に埋葬されているのは俗に神と呼ばれるエイリアンの
直系子孫ないしエイリアンの遺伝子を引き継ぐ人種だろ ということは、高天原はガチ天上界で、例えば異星間航行宇宙船の中のできごとなんだね!
そこから、ニニギは降臨してくる、と こういう無駄スレが積もってるから、日本史板のほかのスレの人たちに
邪馬台国スレは頭おかしいって言われるんだよな 箸墓古墳の被葬者は天皇の娘、皇女であり、彦姫制の祭祀王を担った
倭迹迹日百襲姫命で問題ない
日本書紀にもそう書いてある
本来はヤマトの祭祀王だったが、それが全倭国の祭祀王として共立され
新しい前方後円墳祭祀が作られた訳だ
それが、魏志倭人伝では卑弥呼と記録されたってだけ 畿内説は確からしいことを並べたあと唐突な結論で終わる >>21
一皇女が女王などとは片腹痛いわw
あと崇神時代まで生きたモモソ媛が卑弥呼なわけがない。
崇神は4c前半(行燈山古墳)になることが決定。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 頭の悪い、インターネットの畿内説の宣伝係を、解雇すれば、こんなことにはならなかったのではないのかな。。。
368 名前:日本@名無史さん 2018/11/20(火) 12:16:29.54
纒向遺跡 見学拠点の建設延期
2018年11月20日(読売新聞・奈良支局)
◇桜井市、財政厳しく
◇地方交付税、台風復旧費など影響
>桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向まきむく遺跡で、
>2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。財政難が原因。
>整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
>松井正剛市長は取材に、「少ない予算で中途半端なものは作りたくない。
>5年ほど延期せざるを得ない」と話している。
ほう、5ちゃんの攻勢に、ついに桜井市も炎上・落城したか・・・。 畿内説を精力的に主導してきた学者達が、インターネットの公式ホームページで、事実上、敗北を宣言してしまった 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています