高天原にある卑弥呼の墓
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 奴婢埋葬痕跡って、葛城にもないよね
しかも墳丘すら無い 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>121
墳丘も奴婢埋葬痕跡もあります。
まずヒミコが誰なのかから論考してますので、
私の話には基礎があります。
みっともない箸バカ古墳とは全然違いますw 高天原から北九州へニニギノミコトが行かれたとき道案内したのが伊勢の猿田彦だった。
高天原が近畿や宮崎だとよく言われるが、近畿や宮崎から北九州へ行くのに伊勢の者が
道案内するのはおかしいだろう。
天照大御神様が天岩戸にお隠れになったときお出しする相談をしたのが長野戸隠の思兼命
だった。
高天原が近畿や宮崎だとしてそこに長野の戸隠からわざわざ相談しに行くだろうか。
私は高天原は飛騨高山だと思う。
高天原はタカアマハラ、タカアマが高山になった。(高山が武将の名という説は間違い)
また、天皇御即位には飛騨の一位の木で出来た釈が使われる。 高天原はなにわ〜堺かもね〜
海に面した高台にある原、正に上町台地〜にぴったりなネーミング >>126
高天原がなにわ〜堺だとして、ニニギノミコト
が、なにわ〜堺から北九州に行くとき、なぜ伊勢
に住んでるものが道案内したのか説明してくれ。 >>125
高天原は御所市高天。
新井白石が常陸説を出す江戸時代まで普通にそう認識されていた。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>125
高天原も天岩戸も伊勢も徳島の話。 @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>128
常陸を含む日高見国の国王は高天原である飛騨王国が任命していた。
日高見は飛騨上とも書く。
国王が天孫族だったことで新井白石は勘違いしたのだろう。 >>134
>国王が天孫族だったことで新井白石は勘違いしたのだろう。
ならば邪馬台国も飛騨だと言えばいいのに新井白石はそんな事言ってないでしょ。
新井白石は邪馬台国は北部九州だと言った、
そして高天原は常陸だと言った。
これは「邪馬台国も高天原も大和ではない」という事を強調したかっただけ。
つまり焦点ずらし。
邪馬台国も高天原も大和であれば古代中国への臣従関係を意味する。
国学者としては耐えられない史実だ。
だから邪馬台国も高天原も大和であると確証を得てのち、
邪馬台国も高天原も大和ではないと言ったのだ。 >>135
>「邪馬台国も高天原も大和ではない」という事を強調したかっただけ。
>邪馬台国も高天原も大和であれば古代中国への臣従関係を意味する。
>だから邪馬台国も高天原も大和であると確証を得てのち、
邪馬台国も高天原も大和ではないと言ったのだ。
これみんなあなたの妄想でしょ。それともなにか根拠があるの? >>136
>これみんなあなたの妄想でしょ。それともなにか根拠があるの?
新井白石は高天原が常陸と言ってのち、
何か詳しい説明などを論じてない。
ただ常陸だと言っただけ。
ただ大和葛城から焦点をそらしたかった以外に理由はない。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 正式名称は磯上乃古事記
海の無い長野、奈良は関係のない話
蚊帳の外 >>137
新井白石が書いた高天原が出ている古事通4巻と古事通2に全て目を通しているわけで
ないから断定はできないが、新井白石は、
常陸国に「多珂(たか)」という地名があった。
上古の言葉で「あま」といえば海のことである。播羅(はら)もまた上古の言葉である。
古語にいう『多訶阿麻能播羅(たかあまのはら)』は、多珂(たか)の海上にあった
地ということになる。
というだけで常陸が高天原だと公言しているようだ。
これでは新井白石の判断力を疑ってしまう。 >>139
国生みとは、高天原が全国を統一するために諸国を支配下にしていった話。
海をかき回したら島が出来たというのは神話上の話。
よって高天原が海の近くにある必要はない。
ちなみに高天原飛騨国の王子イザナギと出雲国の姫イザナギは政略結婚。 国生みの初めはおのころ島、すなわち博多湾の能古島。
ここがイザナギが最初に獲得した国土であり、倭国創建の地、弥生文化発祥の地。 天長2年(825年)に空海が「磯輪上乃秀真国之阿波国也」
(しわがみのほつまのくにこれあわくになり)と断定した文章が
太龍寺に残ってるから古事記は四国が舞台だろうね 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >磯上乃古事記
の「磯上乃」は「古」の枕詞。
>磯輪上乃秀真国之阿波国也
の「磯輪上乃」は「渦潮上の」という意味。
「磯上乃」と「磯輪上乃」とは違うのだよ。 ニニギノミコトは九州防衛のため高天原から北九州に降りた。高い所から降りたので
北九州はヤマノフモト縮めてヤマトと言った。
ニギハヤヒは都を移動する準備に高天原から近畿に降りた。それで近畿もヤマトと
言った。
タテミカヅチは国王になるため高天原から日高見国に降りた。それで日高見国も
ヤマトと言った。
魏の人間が北九州に行って、ヤマトの都はどこか、と聞いたら高天原を教えるだろう。
不弥国から水行20日で投馬国、水行10日陸行1月で邪馬台国だが、
投馬国が但馬国で、そこから水行10日で越前、陸行1月で飛騨国である。
飛騨国は高天原であるとどうじにいわゆる邪馬台国でもありうる。 倭とは倭大國魂神社(延喜式)がある美馬(ミマ)を中心とした四国のこと
崇神天皇の諡号 ミマキイリヒコ
簡単な話 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>147
その話には少しも出雲が入ってない、やり直し。 >>141
>古語にいう『多訶阿麻能播羅(たかあまのはら)』は、多珂(たか)の海上にあった
地ということになる。
というだけで常陸が高天原だと公言しているようだ。
これでは新井白石の判断力を疑ってしまう。<
なんでそんなたわいない説を述べたのか。
国学者として、
邪馬台国=大和
高天原=金剛山(高天台 御所市高天)
とは言えなかった。
大和朝廷と中国との臣従関係を認めてしまう事になるからだ。
だからわざと邪馬台国=九州、高天原=常陸などと言って焦点ぼかしをした。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>140
磯の字はあとから置き換え
万葉集に海の歌が多いのは四国が舞台だから
奈良には海はありません 延喜式の伊射奈美神社は美馬
大嘗祭の三木家も美馬
高天原は美馬にある剣山 記紀の国生みで女神の名は四国だけ
四国が女王国であることを匂わせてる 記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。 国生みのかき混ぜは鳴門の渦を表してる
そして淡路島
失敗作オノコロは鳴門淡路島周辺の小島 記紀の国生みは博多湾から始まらない。
豚骨ラーメン以外に何もない場所から始まるわけなかろう。 >>159
オノコロはまぐわいの場所で聖地だから失敗ではない、
失敗はヒルコな。
西宮あたりに流れ着いたんだろう。 かき混ぜたのは矛だろ。
銅矛文化圏の伝説なんだよ。
畿内は銅鐸文化圏。 まあ、国産み神話がもともとは淡路島近辺のものってのは通説になってるよな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>158
>国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置され・・・・
九州北部沿岸の島?『記』の記す下記クニ生み大八島(日本列島)8島のうちどれどれが、
九州北部沿岸の島だったとおっしゃるのか?
淡道之穂之狭別島
伊予之二名島
隠伎之三子島(天之忍許呂別)
筑紫島
伊伎島(天比登都柱)
津島(天之狭手依比売)
佐度島
大倭豊秋津島(天御虚空豊秋津根別)
西日本全体の地名に拡大され再配置されたのは、どれどれのことか?
再配置などせずとも、当初から佐度島以外は西日本では?
これら8島が8世紀当時の『記』編纂者の認識していた倭国範囲だっただけでは?
淡路島に付かぬ冠詞(a,the ?)ならぬ接頭辞「天」付き別名島だけが、
天津神支配領域説も首肯できないな。 播磨灘
国産む話し
磐余あり
屋島のいわれ
大八島なり
神武さんは讃岐うどん食べてから東征しました? ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>167
原典ではおそらく天津国、つまり対馬海峡だけの国生みだったんだよ。
後漢書では倭の北限は狗邪韓国、南限は倭奴国とある。
その後で大和が再編集した時に西日本を追加した。 >>148
ミマキイリヒコは徳島美馬から名付けられたとの説だが、任那の城との説、
築紫の水沼との説、都城の三山城との説もある。 >>150
新井白石の常陸高天原説は、大和朝廷と中国との臣従関係を認めてしまう事に
ならないようにと考えたという説は、新井白石の説と同様に根拠薄弱。
新井家は常陸国下妻城に仕えていたこともあり、常陸説を唱えた大きな理由と考えられる。 >>154
三木家の祖である忌部氏が初めて歴史に登場するのは飛騨の一部である美濃。
むしろ飛騨が高天原である根拠である。 四国のあんな山奥に天皇家の最重要お抱え業者(三木家)を作る意味は何?
素直に解釈すれば四国の山奥が天皇家のルーツ 大嘗祭は服だけでなく食事も四国が用意することになってる
海産物なんか伊勢や若狭湾のほうが近くて新鮮なのにかかわらず
遠くの四国から取り寄せるんだよね
ヤマトは四国にあったと言ってるようなもんだ 三木家てあねこうじなんたらやな(わえのやってた信長の野望で真っ先に滅亡してたわ?
なんでも阿波なんやね(ぼーよみ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 飛騨にリャンメン怪人あり!
和邇さんとの興亡これ如何に? 高天原は屋島の高地集落やった!
南無八幡大菩薩予想当てさせたまえ(与一風 >>172
大田田根子が見つかった場所は美努(ミノ)
美馬の西隣は三野(ミノ)
美馬の東隣は大田
揃いすぎてる >>174
>新井白石の常陸高天原説は、大和朝廷と中国との臣従関係を認めてしまう事に
>ならないようにと考えたという説は、新井白石の説と同様に根拠薄弱。
という君の意見こそ根拠薄弱。
新井白石が常陸説を唱えるまでは普通に金剛山・高天台が高天原だと考えられていた。
新井白石は何かの思惑で常陸説を唱えたわけだ。
>新井家は常陸国下妻城に仕えていたこともあり、常陸説を唱えた大きな理由と考えられる。
ふるさと自慢が根底にあったという事だな。
やはり大和から常陸に持って行ったことが明白。 >>166
卑弥呼の墓が高天原にあるというのは新しい説だからな。
まともな反論は食らっていない。
わしの場合は卑弥呼が誰なのか明白にしてるので基礎がある。
卑弥呼が誰なのか明白に出来ず、
ただ円部が150mだと言うだけの箸墓と言う馬鹿説はやがて淘汰されていくだろう。 >>183
>大田田根子が見つかった場所は美努(ミノ)
見つかったとは何だ、意味分からん。
大田田根子は陶邑、おそらく今の堺市上神谷(にわだに)
昔は神の古語のミワ、つまりミワ谷と呼ばれた。
近くに庭代台という地名もある。
神(ミワ)の依り代を意味するのであろう。
大神神社のミワにも通じる。 日本書紀だと陶邑だったな
大田の母は三島溝杭姫
大田の東隣に美馬市穴吹町三島 筑紫から瀬戸内海を東征して来た三島の神の末裔ですね。
本貫地は愛媛の三島神社です。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ふもとに延喜式の伊邪那美神社がある
全国で唯一つだよ 徳島の式内社50社のうち19社に古事記神話の神名がついている
奈良は286社のうち3社、島根は187社のうち0
古事記は阿波での出来事を記録したもの >>176-178
阿波忌部・・・麻木綿を朝廷に納める
讃岐忌部・・・竹や盾を朝廷に納める
紀伊忌部・・・木材を朝廷に納める
築紫忌部伊勢忌部・・・鍛冶品を朝廷に納める
このように忌部氏は職人集団であり各地に分散して朝廷にものを納めていた。
朝廷にものを納めているからといってそこが高天原とは言えないことがわかるだろう。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>183
阿波には三木家の忌部の荒妙の他に、絹妙という天皇即位式の時に着る衣装が
「飛騨から来た」という言い伝えがある。
高天原は飛騨で決まりだろう。 >>185
白石は、1716年「古史通」の中で、中国との臣従関係を否定することになる高天原
常陸説を出した。
一方で、同じ1716年「古史通或問」の中で、中国との臣従関係を肯定することになる
邪馬台国畿内説を出した。
これは貴方の主張を真っ向から否定することになるのではないのか。
邪馬台国論争は現在でも盛んなように、邪馬台国九州説を取ることは高天原常陸説を
取るより簡単なことだ。
中国との臣従関係を否定することが第一であるなら、当然、高天原常陸説とともに
邪馬台国九州説を取ったはず。
晩年、白石は国之事調書で邪馬台国を九州に変えてはいるが。 政略結婚した飛騨のイザナギと出雲のイザナミは、天照大御神や須佐之男を生んだ後
離婚し、イザナミは出雲へ帰った。
須佐之男は悲しみ、泣きわめき、暴れ回った。
不憫に思ったイザナギは、縁りを戻そうと、須佐之男とともに出雲へ行き、
イザナミに会ったが、イザナミは鬼の様相でイザナギを追い払った。
これがいわゆる黄泉の国の話である。
須佐之男は出雲に置いていった。
須佐之男は母から飛騨の悪口を聞かされ反感を持つようになった。
須佐之男は、出雲の国王になった時、飛騨から日本列島の実権を奪おうと考えた。
先ず、須佐之男は(当時加賀を含む)越前を侵略した。
越前がある越国は飛騨とは強固な友好国であり、天照大御神は弟が攻めてきたと
知り大変お怒りになった。
越前には九頭竜川が流れ、川を遡った隣国が天照大御神が住む飛騨である。
九頭竜川の九頭の頭が9ということは、頭と頭の間が8、つまり八岐ということであり、
八岐大蛇伝説とはこの時の越前侵略のことである。
越前は弥生時代の鉄器出土数が全国一であり、大蛇の尻尾から鉄の剣が出てきた
というのは越前から鉄器を奪ったことを意味する。 >>196
一生一度の儀式で着るアラタエは特別なの
出入り業者は当然自分たちの近くに作ります 天照大御神は精神的におかしくなり床に臥されてしまった。
これが神話では天岩戸にお隠れになったとなる。
信濃戸隠の思兼命が中心となり対応を協議し、まずはアメノウズメを須佐之男の
元へ遣わし、ハニートラップにかけて暗殺した。
これがいわゆるアメノウズメの裸踊りである。
須佐之男のあとを継いだ息子大国主は能登を含む越中越後を侵略した。
このことは多くの神社の社伝として残っている。
ここで、出雲は貴重な輸出源勾玉の原料である越後で産する翡翠を手に入れた。
出雲は熊本福岡から越後出羽までを支配する大国となり日本列島の支配者となった。
飛騨は、ついに、出雲と本格的に戦争をすることを決断し、タテミカヅチを越国に送った。
大国主の子で母は越後の妾で越国の主で越後に住むタテミナカタは交戦した。
タテミナカタは、信濃の上田、富士見、、諏訪と敗走した。
これがいわゆるタテミカズチとタテミナカタの相撲である。
記紀では相撲は出雲で行われたとされているが違う。
越後で行われたから信濃に逃げたのである。
この後タテミカズチは出雲まで一気に攻め入り大国主は降伏した。
これがいわゆる出雲の国譲りである。
実際は国をお返ししたというべきである。 >>200
>白石は、1716年「古史通」の中で、中国との臣従関係を否定することになる高天原
常陸説を出した。
一方で、同じ1716年「古史通或問」の中で、中国との臣従関係を肯定することになる
邪馬台国畿内説を出した。
これは貴方の主張を真っ向から否定することになるのではないのか。<
いやならないよ。
まず第一に最も隠したかった事、それは帥升=スサノオの土下座。
それゆえ、スサノオのいた高天原が大和のあってはまずい。
だから常陸などとわざと潤色した。
その後、さらに邪馬台国自体を九州とし、
邪馬台国論争を創作した。
この「論争を創作」というのがポイント。
論争してくれてるうちは古代大和朝廷や天皇の朝貢という史実が決定しない。
その決定しないという情況を永遠に続かせようとしたのだろう。
これは天才の発想だ。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>178
三木家に対してのアラタエの要請は
命令口調ではなくお願い文書
これが何を意味するのかってこと 記紀は白村江の敗戦を受けて唐に対する土下座朝貢外交(遣唐使)を行う中で編纂されたから、朝貢を隠すためとかなんとかいう言い訳は成り立たないんだってば。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 三木家のアラタエって7世紀ころからみたいだし、そんな古いものではないでしょ。
「天皇・皇后」という新名称ができて以降の物だろ。 葛城も欠史八代に焦点を据えたスレにすればもっと面白いのに 先日、大変高名な考古学者の方にお手紙を差し上げたところ、返信のおハガキをいただきました。
その御主旨は「あなたの説は近代以降の文献史学による記紀批判がなされていない」というものでした。
先代旧事本紀についても同じであるというご意見でした。
まぁ早い話が神武やニギハヤヒなどの実在を簡単に言ってくれるなということでしょう。
しかるに崇神天皇4世紀前半がおおよそ確定的である事から考えるに、
大和盆地で土師器や古墳造営が始まる大変革期の庄内0期が最新編年で2世紀末にくるようなので、
ならばプレ崇神というべきか崇神以前の王権を想定はできるはず。
しかもおおよそ崇神から庄内0期まで120年として世代で言えば6世代、
記紀は崇神以前を親子継承として9世代ですが、
先代旧事本紀の鴨や物部の系図では6世代。
先代旧事本紀の鴨や物部の系図は考古学とぴたり符合するわけで、
先代旧事本紀という史書の信憑性がむしろ高くなってるのではないでしょうか。
また考古学者では森浩一さん、文献史学者では上田正昭さんなど先代旧事本紀の重要性や復権を言われていた方もおられたわけで、
私は素人ですがなにも臆することなく神武やニギハヤヒなどの実在を言い続けたいと思ってます。
また前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、
大和盆地においてはほとんどの人が平地の纏向古墳群に意識を引き付けられ、
誰も大和盆地の山稜・高天原(御所市高天)に注目してこなかったのが実情ではないでしょうか。
もし「神話の世界などありはしない」などとの意識が根底にあるのならば、
トロイアを顕現させたH・シュリーマンの否定にもつながるのではないかなどと素人ながらに思ったりします。
「近代以降の文献史学による記紀批判」とはむしろ記紀からの逃避ではなかろうかとも思います。 >>211
当時、天皇なんて称号はない。
欠史8代と言われる彼等ではなく、本当の王とは大物主の系譜。
偶然だな、今日はえべっさん。
卑弥呼とはえべっさん(事代主)の娘だよ。
事代主
┣━━━━━━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)媛━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>208
>記紀は白村江の敗戦を受けて唐に対する土下座朝貢外交(遣唐使)を行う中で編纂
あのな、使者を派遣することと、王自ら渡海して土下座することは全然意味が違う。
日本という国の成り立ちが王(神)の土下座からはじまるなんてそんな屈辱的な事はあるまい。 >>212
概ね主旨には賛同します。
ただし、高天原は海の向こうであり、大和ではありません。
卑弥呼も大和とは関係ありません。
大和の古王権は先代旧事本紀にある通りであり、卑弥呼が介入する余地はありません。 >>215
古代において王とは漢皇帝が冊封するものであったことは自明の理です。 >>217
建前はそうでも、漢土の封王と、化外の地からの朝貢に対しての王号とは
やはり対等のものではないよ
一緒くたにしてはダメ >>216
>高天原は海の向こうであり、大和ではありません。
>卑弥呼も大和とは関係ありません。
それは単にあなたの希望を声高に主張してるだけ。
わしは>>1で卑弥呼は誰か、そして径百余歩の奴婢が埋葬されてる塚も明示している。
対抗軸としてあなたが何か出してこなければ反論にもならない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 新井白石が高天原常陸説を出すまで、
中世の文献などから高天原が大和葛城と認識されていたのは事実である。
高天原が海の向こうにあるとか九州にあるとか全く意味がない。
邪馬台国九州説は九州のどこにあったか分からない高天原にいたアマテラスが卑弥呼だというのだから、
もはや虚説である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています