高天原にある卑弥呼の墓
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魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
鴨族の聖地が高天原。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 金剛山の向こうから神々はやって来たというのが奈良の人の認識
少なくとも高天原は、金剛山の向こう側にあるんじゃないか? 白鳳地震の津波で四国壊滅し、海の無い金剛山を超えた奈良に遷都した
倭は四国のこと
だから倭大國魂神社(延喜式)が四国にある
高天原は剣山 剣山の麓に天椅立(あまのはしだて)神社
波爾移麻比弥(はにやまひめ)神社
弥都波能売神社(みつはのめのかみ)
そして伊邪那美神社
こんな偶然あるのかって話 >>222
>金剛山の向こうから神々はやって来たというのが奈良の人の認識
島根県では邪馬台国出雲説が有力だというのとかわらないレベルだ。 >>222
>金剛山の向こうから神々はやって来たというのが奈良の人の認識
創作はダメ。 邪馬台国出雲説は無理だが卑弥呼は出雲系。
今日はえべっさんだが、事代主神の娘ヒメが7世紀に出雲族の象徴」蹈鞴(たたら)」と五十鈴をつけられた。
姫蹈鞴五十鈴媛なんて長ったらしい名前にされてすぐにヒミコとは分からないようにされた。 >>228
その話が仮に本当だとしても、女の子なら6歳くらいで恥ずかしいと思うであろうから、
改名後の「歳すでに長大」であったヒミコの話なので問題なし。
それより古事記で「ホトタタラ」と明言後にヒメ踏鞴に改名しました(ボソッ)なんて書かれてるが、
それなら最初からヒメ蹈鞴にすればいいのに、
「ホト」を強調しているのはヒメから来るヒミコの印象を遠ざけるためであろう。
というかこの説話自体が創作だろうけどね。
どこの世界に娘に陰部の名前を付ける親がいるのかと。
関東なら万子ちゃん、関西なら尾芽子ちゃん、九州なら簿々子ちゃんだろ。
免許更新の時に名前呼ばれたら死にたくなるほど恥ずかしいだろうな。
天皇家の史書である古事記は前王権への嫌がらせまたは侮蔑心から大物主関連にホト説話をわざと組み込んでるね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>229
>「ホト」を強調しているのはヒメから来るヒミコの印象を遠ざけるためであろう。
>というかこの説話自体が創作だろうけどね。
それは恣意的だね。 イスケヨリ姫は博多湾の倭王であるイザナギの孫である大山祇の末裔。
大山祇の娘は、天照の孫で筑紫の日向で倭王に即位した邇邇芸の妃となった木花咲耶姫だ。
息子は溝杭耳といい、名前からして筑紫の王族なのだが、愛媛の三島神社に祭られている。
大阪でも三島神社に祭られている。
京都では賀茂神社、奈良では登美神社に祭られている。
この三島溝杭耳こそが瀬戸内を拠点に関西方面を開拓した張本人だが、そこに天照の孫の饒速日がやって来る。
三島溝杭耳の孫のナガスネ彦は妹を饒速日に娶らせている。
そこにさらに筑紫から神武が来て、ナガスネ彦は怒る。
「なぜ次々に天神の子がやって来て人の土地を取るのか」
饒速日と神武は同族であることを互いに確認すると、従わなかったナガスネ彦を排除してしまう。
その姪のイスケヨリ姫が神武の妃となり、2代目の天皇が生まれる。
つまりイスケヨリ姫は父方も母方もイザナギの末裔という家系である。
ちなみに卑弥呼とは全く関係ない。 >>231
恣意的もなにも歳長大の時点で名前がヒメである事には変わりない。 >>232
>ちなみに卑弥呼とは全く関係ない
4世紀前半の崇神から数十年前のトヨはトヨ津媛以外におらず、
其の3世代前のヒミコに近い名前はヒメ(踏鞴五十鈴)しかいない。
トヨ津媛は「国宝」中平銘鉄刀の保持者和邇氏の祖なので考古学的根拠もある。
博多湾の倭王などというレベルの低い話はやめてくれ、質が下がる。 畿内と筑紫が別なら、畿内の歴史書に名前がなくてなんの不思議があろうか。 >>235
なにがわからないのかな。
百歩譲ってホトという名前が本当だったとしても、
恥ずかしいのでヒメに変えたわけだろ。
それがヒミコだと言ってるわけだが。 >>236
どこの歴史書にも名前のないのに何で九州に魏志に書かれた王がいたと照明できるの? >>237
>それがヒミコだと言ってるわけだが。
卑弥呼の関係ないだろ >>238
記紀に名前がない倭王なんていくらでもいる。
帥升とか倭の五王とか。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>239
主張や感想文はイイからあんたなりに考えた対抗軸を持ってこい。 >>240
>記紀に名前がない倭王なんていくらでもいる。
>帥升とか倭の五王とか。
記紀にいるだろ。
だから古代天皇を100歳超えさせて時代を大きくずらしてるのさ。
倭の五王も記と紀で時代が微妙に違うだろ。
誰か分からないように潤色してるのさ。
センスがねぇな、おまえw >>243
>倭の五王も記と紀で時代が微妙に違うだろ。
勝手に決めつけているだけで、実は根拠がない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>244
博多湾にいた倭国王などと勝手に決めつけているのはおまえ。
何も根拠がない。 金印は博多湾で出土した。
どこに倭王がいたかは明白だ。 >>247
本物ならね。
弥生時代中期から墳墓で他地域を圧倒するのは出雲。
博多など屁でもない。
そしてBC2世紀からBC4世紀にかけて、
出雲から近畿・中部に銅鐸が拡散する。
https://static.wixstatic.com/media/349e69_a4a19c65278749c8b6ae6e0288ab35ed~mv2.png/v1/fill/w_371,h_461,al_c,q_80,usm_0.66_1.00_0.01/349e69_a4a19c65278749c8b6ae6e0288ab35ed~mv2.webp
海の向こうで始皇帝という男が超大国「秦」を建国した時期だ。
その防衛対策としての王都の畿内移転だろう。
博多など防人の土地、そんな場所に王のいる都はない。
カッペが自惚れるな。 その後で倭国の中心地は筑紫となり、銅矛銅鏡文化が銅鐸文化を駆逐してしまう。
出雲や、その流れをくむ鴨一族は歴史の中では傍系となってしまうのだよ。
そして記紀にはそれを裏付ける出雲の国譲りが記録されている。
これを受けて紀元1世紀頃に筑紫に伊都王権が成立した。
神武と卑弥呼が同年代なら、神武の年代はさらにその後なわけだから、出雲はすでに筑紫の傘下なのだよ。
わかったか。 墳墓で圧倒する=限られた労働力を土盛に浪費している
つまり征服されたばかりの場所だよ。
反抗する力を無くすための労働ね。
江戸時代は参勤交代させてたでしょ。 >>248
そもそも神武が卑弥呼と同じ3世紀と言っていなかったか?
なぜ畿内遷都が紀元前になるんだよ。
自分で言っていることが矛盾していないか?
畿内説でありながら畿内への遷都に言及したことは評価するけどね。
結論は間違っている。 キナイコシは畿内なんてどうでもいいからな。
南岸を倭人に支配されていたら困るだけ。
日本だってどうでもいいから金印なんて偽物でいいわけだ。 >>251
>墳墓で圧倒する=限られた労働力を土盛に浪費している
>つまり征服されたばかりの場所だよ。
バカだね!
征服地で労働力を動員組織化したら、反乱の原因になるぞw
大墳墓というのは王のお膝元に各地から人員を徴発して作るものだ
各地から労働力を引きはがしてこそ、国力を削ぐことができる
九州はまともな大墳丘墓一つ作れなかった弱小地域
九州説はそれをごまかすために、筋の通らない詭弁の言い訳を量産しているww >>253
こんなところに「キナイコシ」ww
半島系工作員は恨の感情が原動力だから無駄にシツコイw >>250
>神武と卑弥呼が同年代なら、神武の年代はさらにその後なわけだから、出雲はすでに筑紫の傘下なのだよ。
わかったか。
なにを訳わからんこと言ってるのかw
筑紫なんて雑魚なんだから引っ込めw >>252
>そもそも神武が卑弥呼と同じ3世紀と言っていなかったか?
>なぜ畿内遷都が紀元前になるんだよ。
畿内遷都は神武よりはるか以前の銅鐸時代の話し。
筑紫なんて何も関係ないので黙っててくれ。
自分で言っていることが矛盾していないか? >>258
神武は大和にあった王権への婿入り。
神武が来た時には大和にはすでに王権があった。
出雲系銅鐸祭祀の神(鴨)王朝で場所は高天原(金剛山)
神武は事代主神の娘ヒメの元に通える位置である御所市柏原に宮を構えた。
記紀にある「天皇」なる称号は7世紀に出来た。 私の説の主旨は、
・崇神天皇4世紀前半として「国宝」中平銘鉄刀の保持者・和邇氏系図から導き出される3世紀後半のトヨとはトヨ津媛、
卑弥呼とはヒメ(踏鞴五十鈴)媛である
・ヒメ(踏鞴五十鈴)媛はじめ鴨(神)族の墓は高天原にあり、日本最古の高天彦神社境内に奴婢(土蜘蛛)とともに径百余歩の塚に埋葬されている
・後漢書東夷伝の倭国王帥升とはヒメ(踏鞴五十鈴)から約5世代前のスサノオであり、記紀はスサノオの後漢・安帝への謁見要請、つまり土下座という屈辱的史実を覆い隠すために大きく時代を変え、その結果神武127歳などとなった
・神武東征紀とは女王国時代を隠ぺいするために意図的に武勇伝を強調し男王国に見せかけたもの、
そして天皇・皇后という新称号は魏志に書かれた真の女王を隠ぺいするための物である
先日、大変高名な考古学者の方にお手紙を差し上げたところ、返信のおハガキをいただきました。
その御主旨は「あなたの説は近代以降の文献史学による記紀批判がなされていない」というものでした。
先代旧事本紀についても同じであるというご意見でした。
前期古墳の特徴が山稜にあることは考古学的にもほぼ鉄則なのにも関わらず、
大和盆地においてはほとんどの人が平地の纏向古墳群に意識を引き付けられ、誰も大和盆地の山稜・高天原(御所市高天)に注目してこなかったのが実情ではないでしょうか。
そこにもし「神話の世界などありはしない」などとの意識が根底にあるのならば、トロイアを顕現させたH・シュリーマンの否定にもつながるのではないかなどと素人ながらに思ったりします。
「近代以降の文献史学による記紀批判」とはむしろ批判という名を借りた記紀からの「逃避」ではなかろうかとも思います。 各論があっているのに、肝心の卑弥呼の比定が強引で誤っているという珍しいパターン ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>262
強引でなく間違っていない卑弥呼の比定をどうぞ。
全員論破してやるから遠慮なく言え。 >>267
崇神時代まで生きたモモソ媛のオカンがなんでヒミコやねんw
な、この程度のヤツばっかりw >>269
取り上げられてるから時代を大きくずらしてるのだよ。
その結果、神武127歳などというトンデモになった。 >>268
>崇神時代まで生きたモモソ媛のオカン
崇神時代が邪馬台国の時代だからばっちりだろ?
モモソヒメが生殖可能年齢で崇神時代を生きている時点で
記紀の系譜は造作が見られる
モモソヒメと崇神は、ともに孝霊天皇の子供で姉弟
孝霊と孝元が兄弟で同世代
開化は孝元の息子で崇神とはいとこ >>271
>崇神時代が邪馬台国の時代だからばっちりだろ?
どうして?
百済の武寧王墓の金石文からも応神天皇390年は確実、そして神功皇后が4世紀後半。
その3世代あたり前の崇神が邪馬台国時代になるわけはない。
トヨの時代が終わった頃に崇神の台頭であろう。
また崇神墓は古事記の記述からも、
また大王墓にふさわしいその威容からも行燈山古墳で間違いなかろう。
ならばその時期は4世紀初頭から前半。
やはり崇神は邪馬台国時代ではない。 >>272
>その3世代あたり前の崇神が邪馬台国時代になるわけはない。
記紀の系譜では6世代
記紀の神武紀の「土蜘蛛」という単語一つを大仰に持ち上げるくせに
記紀の記述を平気で改竄する左側スロープ君であったww 現代中国語でのピンインでの表記
卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1
(俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1)
今のところ卑弥呼の発音に関して日本側の古事記表記の比桃@(Bǐ miē hòu)、
比売后〈Bǐ mài hòu〉以外には類似する名称は存在しない。
ビミホなんて人は古代日本にいない。
考えられるのは「hi」、つまりヒミ、ヒム、ヒメに関わる名前。
ならば
ひめこ(日女子、姫子) - 駒澤大学教授の三木太郎の説。
ひめこ(比梼q、比売子) - 古事記における音読み表現
ひみか・ひむか(日向) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
ひみか・ひむか(日向) - 原田大六、古田武彦が唱え説。
このあたりになりアマテラスの別名ヒルメであるという安本説は音韻的にも消える。
さようなら。
そしてヒメ、ヒムなら候補はいる。
崇神天皇4世紀前から6世代前、すなわち2世紀末、
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛と日向賀牟度美良姫 ( ひむかのかむとみらひめ )だ。
この二人以外に卑弥呼候補はいない。
この二人が住んだのは葛城である。
したがって邪馬台国は葛城である。 >>273
>記紀の系譜では6世代
記紀の系譜ではさかのぼること9世代。
先代旧事本紀の物部や鴨の系譜では6世代。
記紀の記述を平気で改竄してるのはおまえ。 >>275
>記紀の系譜ではさかのぼること9世代。
>先代旧事本紀の物部や鴨の系譜では6世代。
>記紀の記述を平気で改竄してるのはおまえ。
崇神 垂仁 景行 ヤマトタケル 仲哀 応神 で6世代
これが記紀の系譜だ
>>275は捏造野郎ww
皇統譜一つまともに読めないやつが、エラそうにしているのが本当に嗤えるww >>280
アホ。
記紀が時代を引き延ばそうとしてることは誰にでも分る。
おまえはまさか神武から17代履中天皇まで父子継承が続いたとでも思ってるのか?
普通に兄弟継承や従兄弟継承もあった。
記紀では崇神の2世代前の吉備津彦が四道将軍になってる事からもそれが分る。
崇神の2世代前なら崇神30歳として吉備津彦は70歳となるからな。
時系列としては先代旧事本紀の方がはるかに正しい。 あと新唐書では神功皇后は 開化天皇の曽孫女とある。
世代差が分かったかな、アホの>>280 君。 >>281
>アホ。
>記紀が時代を引き延ばそうとしてることは誰にでも分る。
>おまえはまさか神武から17代履中天皇まで父子継承が続いたとでも思ってるのか?
そういう根拠の怪しい話じゃなくて、
「記紀に実際に書かれている系譜」という事実ベースの話だ
>>281は論点をごまかして逃げようとする卑怯者ww
左側スロープ君はいつもこれww >>282
>あと新唐書では神功皇后は 開化天皇の曽孫女とある。
新唐書の記述が正しいと信じているのか?ww
新唐書は日本からもたらされた情報の不正確な孫引きに過ぎないんだぞ?wwwww
1060年、11世紀成立の別国の史書に、日本古代のより正確な情報があると考える辺りで
もう間抜けすぎるww
まあ、情報の正しい読み方、メディアリテラシーが根本からおかしいから、
こんなバカな主張がドヤ顔でできるんだろうなwwww >>283
>そういう根拠の怪しい話じゃなくて、
>「記紀に実際に書かれている系譜」という事実ベースの話だ
ならば神武127歳が正しいのか?
記紀が何らかの強い意図で時代を大きく引き伸ばそうとしてることは明らか。
10代崇神天皇を30歳と仮定して吉備津彦は2世代前になり70歳という事になる。
70歳を四道将軍にすることはあり得ない。
この点だけみても記紀は無理に世代数を引き延ばしてることが分かる。 >>284
国宝中平銘鉄刀の保持者和邇氏の系譜に卑弥呼とトヨがいるという仮説が成り立つ。
和邇氏の祖・孝昭天皇のお母さんがトヨ津媛だ。
その3世代前にヒメ(踏鞴五十鈴)媛がいる。
高齢の卑弥呼のあと男王が立ち、そして13歳のトヨが王だから
卑弥呼とトヨの世代差は3世代くらいであろう。
ならば、
トヨとはトヨ津媛、
ヒミコとはヒメ(踏鞴五十鈴)媛ではないかという仮説が成り立つ。
その仮説を証明するには二人が住んだ葛城に径百余歩の奴婢が埋葬された塚があればいい。
ある。
おまえはかつての哀れな天動説者なんだよ。
見よ、天動説者は誰も名前を残していないだろ。
それが君の運命だ。 「新唐書の記述が正しいと信じているのか?」
と言ってるやつが、
記紀の崇神から神武まで9世代という記述が正しいと言ってるわけだ。
大笑いだw 阿南市に蛭子神社がたくさんあるから
ヒルコは阿南の小島のことだろう
マンガ家の蛭子は阿南の隣町出身 >>285
>70歳を四道将軍にすることはあり得ない。
つまり、考霊から崇神まで直系父子相続ではないんだよ
系譜研究から、孝霊と孝元が兄弟
開化が孝元の子供、崇神が孝霊の子供で、開化と崇神が従兄弟同士という推定もある
この系譜関係だと、吉備津彦は考霊の子だから、崇神の兄で同世代ということになり
四道将軍として適任の年齢となる wiki「高天原」より
古典作品では、『蜻蛉日記』にて『夢ばかり見てしばかりにまどひつつ明くるぞ遅き天の戸ざしは(203-05下)』という和歌があり、
さらにこれに続く和歌として『さもこそは葛城山に馴れたらめただ一言や限りなりける(203-07下)』とあることから、
天岩戸が葛城山にあったとする理解は遅くとも平安時代まで遡ることが解る。
鎌倉時代の『三流抄』には『太神・・・大和国葛城山高間原天岩戸ニ閉籠リ玉フ』とあり、
また能の葛城や代主などの舞台もこの地とされることから、
中世における高天原の所在地は葛城山付近と理解されていたと考えられる。
最終的には江戸時代初頭まで、新井白石が常陸国説を唱えるまでは、
この地が高天原史跡だと考えられていたらしい。
つまりごく普通に高天原は大和葛城だと認識されていたことが分かります。
そこに径百余歩の奴婢(土蜘蛛)が埋葬された塚がある。
何も難しい事はなかった。
高天原が九州にあるなどと言う説は近年に出来たもの。
それに依拠してる邪馬台国九州説などはいかに底が浅いのかが分かります。
「ふるさと自慢田舎っぺ演歌歌手」の下手な歌の様なものでしょう。 >>294
あと11代垂仁は崇神の子ではないだろうね。
考古学的にも行燈山古墳が崇神であり、
12代景行が渋谷向山、
その間の11代垂仁の墳墓が不明、
これは垂仁が崇神の子ではない事を意味すると思われる。 そうするとI崇神の母親イカガノシコメは誰の子を産んだのか。
F孝霊の子を産んだのか。
纏向=磯城では、
イカガノシコメ-イカガノシコオというヒメヒコの前に
ウツシコメ−ウツシコオというヒメヒコがいる。
箸墓古墳は山代や交野に近親古墳、五塚原や雷塚がある。
箸墓古墳被葬者は、
義理父が山代国造の祖・長溝であり、
息子が交野連のタベノスクネであるイカガノシコオであろう。 高天原は半島でしょう
農耕技術を持って日本の筑紫つまり福岡県のクシフルタケに天下り弥生文化をもたらして倭人の王になったのでしょう >>299
>でしょう
>でしょう
でしょうなら何だって言えるわな。
(例)
そもそも日本人はユダヤ人と同祖であり、
宇宙人がUFOに乗って創ったの「でしょう」。 高天原は沖ノ島だと思う。
だからこそ国家的祭祀が長く行われてきたのだろう。
本来は天津神(海の神、対馬海峡の支配者)としての称号がアマテラスだったのだろう。
それが博多湾沿岸を征服して高祖山に陣取ったのが天孫降臨だな。 >>299
百済スレ見てくると良いよ
文化も文明もが半島から南下してきた証拠は今のところ一つもないどころか、実は縄文人に征服されてた 高天原が半島だとしたら、百済でも新羅でも高句麗でもなく、任那だな
記紀によると仲哀天皇の枕元に、高天原を治めているはずの天照大神が立ち、渡海攻撃を進言し、神功皇后がこれを実行した
その結果、新羅、百済、高句麗の3国が征服されたとある
この3国の手前にあるはずの任那にまったく触れてないのは、そこがまさに高天原だからだろう 高天原は半島のプヨ
日本弥生文化のプロトタイプがここにある >>305
魏志韓伝の記述と松菊里などの遺跡群の炭素年代測定の結果によって半島はY染色体O2b1をもつ縄文人が征服したことが確定した >>172
崇神が祀らせた倭大国魂神
倭大国魂神社は徳島県美馬(みま)に鎮座
崇神が美馬に居たのは確実 佐原真さんの編年では朝鮮銅鐸は最古ではない。
おそらく出雲あたりから派生したのであろう。
もうなんでもかんでも半島由来にする説は時代遅れなのが分からないのか。
まぁ朝鮮人たちが書き込んでるのであろうが。 新羅の4代目王・南解次次雄が自分の娘婿にしたのが、後に4代目王になる倭人の昔脱解。
昔脱解は韓国語で「ソクタレ ソコタレ」
一方、古事記には神功皇后が屈服した新羅王の門に住之江大神(住吉大神)を祀ったとある。
南解次次雄はナカツツノオと読める。
南解次次雄(ナカツツノオ)から昔(ソコ)へ、
つまりナカツツノオからソコツツノオへと、住吉さんの華麗なリレーというわけだ。 >>309
嘘から始まるこじつけトンスルファンタジーにはゲボが出る
昔脱解はハングル読みでソク・タルヘ
そもそも箱を自ら「解」いて「脱」出したことに因み脱解と名付けたのだから漢文読みでシィ・トォージェ以外の音は当たるわけがない >>310
> 箱を自ら「解」いて「脱」出したことに因み脱解と名付けたのだから漢文読み
なるほど、納得した。 >>310
>ファンタジーにはゲボが出る
ファンタジーではなく古事記に書かれてる話。
>そもそも箱を自ら「解」いて「脱」出したことに因み脱解と名付けたのだから漢文読みでシィ・トォージェ以外の音は当たるわけがない
いや漢文は関係ない。
百濟を漢文で読んでも意味がないのと同じ。
あと>>312での自演はやめてくれ。 >>304
韓国の慶州や馬山に大量の布留式土器が出土し、
倭人の大量移住が想定される(熊谷公男)
したがって、4世紀に神功皇后が屈服した新羅王の門に住之江大神を祀った話は信憑性がある。
ただし三韓征伐のうち高句麗は別、あれは404年の倭軍の帯方界侵入の事であろう。
おそらく応神天皇の時期。
誉田八幡の国宝である鮮卑族の鞍もその証拠。
任那と高天原は全然関係ない。 >>313
漢字でしか意味が通じないんだからシイナントカだろ >>314
神功皇后が屈服したってトンスル解釈がウンコ臭くて話にならん >>315
意味でなく音韻の話。
「解」いて「脱」出したことに因み脱解ではなく、
姓である昔(ソク ソコ)の話。
「底」筒男命(ソコツツノオ)しかいない。 >>317
だからアホかよw
朝鮮半島は日本の万葉仮名のように漢字を借用する文化はなかったんだから、漢字の名前は全て漢文読み
脱解にもトヘというちゃんとした朝鮮音がついている
そもそも古朝鮮語の解明はそもそも不可能と分かってることだし
脱をタルで解をヘと発音するのは朝鮮総督府指定教科書からの読み方なんだから
民族的願望がなけりゃ誰だって一発でコジツケと分かる つまり昔をソクと発音するのもハングル読みもしくはウリグル読みなんだからコジツケってことな >>314
誉田八幡は自社サイトでハッキリと金銅透彫鞍金具は百済職人の作と明言してる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています