(田川)邪馬台国福岡説(みやま志賀島)
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
資料の多い九州
邪馬台国卑弥呼や倭人について語ろう >>525
細石神社は無関係だろう
太閤検地の時には既に社殿も残ってないほど荒廃しきっていたんだから >>526
それは金印ネタの傍証であって、クシフルネタとは無関係なのでは? >>509>>512>>513マジか
これが本当の本物真実なら
国の始まり日本書紀は福岡で決まりやん 邇邇芸の国見の詔
「此処は韓国に向ひ、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直さす国、夕日の日照る国なり。かれ、此処はいと吉き地」
宮崎県では韓国は見えない。
対馬海峡を挟んで朝鮮半島の対岸にあり、東に福岡平野、西に糸島平野を望む高祖山なら合致する。
後漢書は対馬海峡が倭国としていて、王都はその南岸の倭奴国。
魏志倭人伝では伊都国が倭の王都。
記紀は筑紫の日向の高千穂宮が王家の王城であったと伝える。
全て一貫している。 またニュース速報+に九州北部の古代史スレたってるぞ
ちょっと行ってくる 真偽不明のネタに妄想を積み上げてドヤ顔するのが九州説メンタリティ 高祖山は東西に弥生王墓が密集し、考古学的にも倭国王権の発祥の地、稲作文化の伝来地。 玄界灘側の筑紫平野の海岸線は最大で800メートルも内陸だったらしいから、水稲は筑後平野の方がやり易いではあるな >>538
現存する最古の「博多古図」(約800年前)から推測される約1,800年前の海岸線がこれらしい
画像サイズが大きいが地名が読めるギリギリまで縮小してある
参考までに
博多古図
https://i.imgur.com/EI1K3Tr.jpg
博多古図から推測される1,800年前の海岸線
https://i.imgur.com/lePABFm.jpg >>539
なるほど、そうだったのか。
海岸線は、かなり内陸にあったんだ。いろいろ考えなおさなくちゃならんな。 >>540
横だけど、
実際の海岸線はそれよりはもう少し陸地が広くなりそう
糸島は調査で志摩と繋がっていたのがわかっているので、そちらの地図を調べてください
福岡市の方は住吉神社あたりまでが海岸線だったと識者から聞きました
飛行場の西や東から遺跡が出てるから、そのあたりは陸地だけど、海岸線はすぐ近くだったみたいだね >>541
糸島は、前原沖で南北が繋がっていたのかもしれんね。
繋がっていたといっても、天橋立みたいな状況だったんではないかな。
ともあれ、東西両方から内湾が前原沖まで、入り込んでいたとみてよいのではないかな >>542
糸島はボーリング調査したみたいです
福岡市の西側は藤崎遺跡や西新町遺跡のあたりが港町でしょうか 志賀島神社を見ればわかりそうなもん
ちょっとレベルが違う気がする
海側を向いた鳥居がなんともロマンテック
航海にでる舟を見送りながら無事を祈ったのだろう
素敵すぐる 帰ってくる船から見ると
「お帰り」感があるだろうね そりゃそうだろうな
なんせ、いと島というくらいだから、島だったことは明白だわな。 イト島という島がもともとあって
陸と繋がったので「イトシマ」という地区名になって
そのご「イト」と「シマ」に分かれたって話でしょ >>539なかなか見れないお宝史料をありがとう
画像は保存しとかんとね
藤崎遺跡や西新町遺跡のあたりも独立した島
小戸神社から姪浜・愛宕山のあたりも独立した島 「淡海(あふみ) 早良平野北部の汽水湖を復元可視化してみるテスト」
でぐぐると地図がみれるよ はずかしながら言ってみたいのですが
倭人伝のルートは、大分小倉→田川伊田なんだと思ってます
素敵な志賀島神社を話題にしましたが
それでも自分は伊都は田川の伊田か糸田と
思えて仕方ないんです
何度倭人伝読んでも ニギハヤヒとニニギは兄弟で福岡県鞍手町新北(にぎた)出身だと思う。
この二人が東征したんじゃないだろうか。
イワレビコは名前にイワレが入ってるから畿内の名前に思える。 そりゃ、大和に移動してから磐余彦と名前を変えたのだから。 一大率って何?関所みたいな感じ誰か教えて
最初は一大卒に見えて一ツ橋大卒と勘違いした 邪馬台国の高位の官職名だよ。
百済の官制にも同じのがある。
魏志倭人伝では伊都に置かれ、女王国(伊都)から北(対馬海峡)を巡視していた。
水戸黄門みたいな感じかな?
官有十六品。
長曰左平、次大率、次恩率、次徳率、次杆率、次奈率、次將徳:服紫帶、次施徳:p帶、次固徳:赤帶、次李徳:青帶、對徳以下皆黄帶、次文督、次武督、次佐軍、次振武、次剋虞、皆用白帶。
(隋書 東夷 百濟) 率と帥は意味も発音も同じとされている。
つまり大率、帥升、太宰帥はいずれも同じ意味。
帥升は倭王とされているが、倭王が自分で洛陽まで行くわけもなく、王に次ぐナンバーツーが行ったのかもしれない。 ぼーっとした時に考えるときがあります
古代の人達は、日々をどうやって過ごしていたのだろうと
スマホもないテレビもない文字すらあったのかもわからない
食料を求めることだけに走り回ってたのかな
投げ槍や弓矢も練習したのかな
うつろい行く山の色や自然の植物、渡り鳥や鹿や動物たち
私達が想像する以上に観察してたかも
そんな人達が手作りの船で海を渡ったんだよ
向こう岸に行けば殺されたかもしれないのに
なんて勇気があるんだろう
本当に素晴らしい、敬意をはらわずにいられないよ
今の私には夜のメキシコだって怖いのに >>564
言語学研究によれば平安時代の会話スピードは現在の0.74倍。
古代となればさらに語彙も少なくスローだったと推察される。
現在人からするとスロー再生のような会話をする古代人
一方、古代人からすると二倍速再生のような会話をする現代人
これはボキャブラリーによる脳のクロックアップ現象と言われ、語彙量の増加に比例して時間を長く感じるという生理現象。
つまり、古代人の体感する一時間は現代人の体感する一時間よりも確実に短かったという傍証である。
古代人の活動時間が日の出から日没とすると一日の活動時間は約13時間であり、この13時間は現代人の体感スピードで言えば6時間半となる。
一日なんてあっという間に過ぎていたであろう。 >>565
非常に興味深い話だけど、>>564の論点とはちょっと違う気が・・・ 実際にどうなんだろう
現代で誰か手漕ぎの舟で対馬や韓国に渡米した人いるの?
大学生あたりでチャレンジしたグループとかいないかなあ >>567
手漕ぎは聞いたことないな
帆船や水上バイクで博多湾から渡韓した人は地元ニュースで見たことあるけど >>567
五島列島辺りから出航すれば壱岐をすっ飛ばして対馬に行けるだろうね。 @阿波 またニュース速報+に糸島の倭人の硯スレ立ってる
http://n2ch.net/r/-/newsplus/1550649478/?guid=ON&rc=59
糸島の歴史は古い、倭人伝に書かれるずっと前から
栄えていたと妄想する私には興味深いスレ 言いたいことは とりあえず書いた・・・
∧∧
< `∀´ > 質問されても
.O┬O 答えられないし
( .∩.| ソースもないから
キーコー ι| |j::...
∪:::::: とりまチャリで逃げるニダ >>580
なにより女が最高
さすが卑弥呼様がお生まれあそばれた地 >>581
中洲いくと最高だと思うが、他の地域じゃ別にって感じがする 天高原(あまのたかはら)は田川の香春(かわら)町か
香春町の弥生時代
弥生時代は紀元前400年頃から紀元後250年頃までを言います。
この頃は香春町でも遺跡の数が一機に増加し
五徳畑ヶ田遺跡、ミノ・大熊遺跡、宮原遺跡、岩原遺跡、上高野遺跡、一本松遺跡
などから集落跡や墓地が見つかり多量の甕、高坏等の土器や磨製石斧、石戈、石鏃等の石器が出土しています。
宮原遺跡は、「長生宜子」銘大型内行花文鏡をはじめ4つの青銅鏡を出土した石棺墓群墓もあります。
浦松古坊遺跡では弥生後期から終末期にかけての石棺墓、土壙墓合わせて20基確認されています。
近隣は、川崎町公門原遺跡や田川市桐ヶ丘遺跡、その後に続くと思われる出現期古墳の田川市位登古墳があります。
前方後円墳に大型の箱式石棺を採用し内行花文鏡を副葬してます。
ちなみに宮原遺跡は日本最古の前方後円墳と見られています。 田川郡香春町の旧石器時代
田川地方に人々が生活し始めた初現は後期旧石器時代で約3万4千年前に始まり
香春町では約2万2千年前頃の遺跡が見つかっています。
五徳畑ヶ田遺跡で瀬戸内技法の影響を受けた横長剥片素材で一側縁加工のナイフ形石器と湯無田遺跡出土の細石刃が発見されています。
香春町の縄文時代
縄文時代は今から1万3千年前頃に土器が作られ始めた頃から稲作が始まる2400年前までの間を言います。
香春町で1番古いもので早期の押型文土器が見つかっていますが、
湯無田遺跡から縄文時代中期の船元式土器が集中して出土しています。
五徳畑ヶ田遺跡からは後期の三万田式土器片や晩期の広田式土器片、打製石斧が多量に出土しています。
注口土器や土偶なども出土しています
また、二の岳遺跡にて黒曜石石鏃が1点発見されています。 科学ニューススレから
(6): しじみ ★ 01/21(月)18:22 ID:CAP_USER(1/2) AAS
■『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』、日本神話、考古学資料などを、
総合的に統計学的手法で分析すれば、
99.9%の確率で、邪馬台国は福岡県にあったことが言える。
■和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」
白鳥庫吉(1865〜1942年)は、明治期の東京帝国大学(現在の東京大学)を
代表する東洋史学者であった。
白鳥は1910年に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、『魏志倭人伝』の「卑弥呼(ひみこ)」に
関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」に関する記事内容とを比較している。
そして、この二つの記事内容について「その状態の酷似すること、何人もこれを否認するあたわざるべし」と述べている。
白鳥庫吉の見解を受け継ぎ、それを「邪馬台国東遷説」という形で大きく発展させたのは、
東京大学の哲学者・和辻哲郎(1889〜1960年)であった。
和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」は『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊)のなかに見える。
「邪馬台国東遷説」というのは、邪馬台国は九州に存在し、のちにその勢力を受け継ぐものが東遷して「大和朝廷(やまとちょうてい)」に
なったとする説である。
和辻哲郎氏(1889−1960年)
和辻哲郎や、その説を受け継ぐ人たちの「邪馬台国東遷説」の要点をまとめれば、次のようになる。
(1) 卑弥呼のことが神話化し、伝承化したものが天照大御神である。
(2) 九州にあった邪馬台国が、本州の大和に移動した。神武天皇の東征伝承は、その間の事情を伝えるものとみられる。
和辻哲郎は述べる。『古事記』『日本書紀』の伝える「神武東征」の物語の「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説に基づくものであろう、と。
(3) 九州から大和へ移動した時期は、3世紀の後半から、西暦300年前後にかけてのころであろう。 科学ニューススレ続き
■年代論的根拠
和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」にはその後、
年代的根拠がさらに詳しく与えられるようになってきている。
■天照大御神のいた場所
「卑弥呼=天照大御神」とすれば、天照大御神のいた場所が、邪馬台国であることになる。
邪馬台国についての手掛かりを『古事記』『日本書紀』のなかに、たどることができることになる。
『古事記』『日本書紀』は天照大御神のいた場所を「高天の原(たかまのはら)」と記す。
「高天の原」は、どこだろう。
いま『古事記』の上巻、いわゆる神話の巻を取り上げる。
『古事記』上巻には「筑紫(つくし)」「日向(ひむか)」「胸形(むなかた)」など、
現実的に場所の特定できる地名が現れる。
その地名の統計をとる。
その結果を図示すれば、図3のようになる。圧倒的に多いのが、
「九州地方」と「山陰地方」の地名である。
『古事記』の主要なテーマは「九州地方」の勢力と、
大国主(おおくにぬし)の命(みよ)が治める出雲を中心とする「山陰地方」の勢力との対立図式といえる。
いわゆる「出雲の国譲(くにゆず)り」伝承が中心的なテーマといえる。
「高天の原」と重なり合うのは、この「九州地方」、特に北九州地方である。
画像リンク[jpg]:tawayama.net 科学ニューススレ続き
■「平塚川添遺跡」の出現
『古事記』『日本書紀』によれば、高天の原には「天の安の河(あめのやすのかわ)」という河が流れていた。
天照大御神と、その弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とがこの河を中において談判をしたり、
神々が「天の安の河」の河原で、会議を開いたりしている。
九州の地図をみれば、
現在でも北九州のほぼ中央に「夜須」という地名がある。
この北九州の「夜須」の地名は、『日本書紀』や『万葉集』では「安」の字が当てられている。
筑後川の支流の小石原川は、
「夜須川」とも呼ばれる。そして1992年に朝倉市(当時は甘木市といった)を流れる夜須川のすぐ近くから、
弥生時代後期の大環濠集落跡として「平塚川添遺跡」が出現した。
考古学者の佐原真氏は当時この平塚川添遺跡を「学術的には吉野ケ里に匹敵する遺跡」(朝日新聞)と述べている。
外部リンク:ironna.jp
★1が立った日付2019/01/01(火) 00:05:54.36
前スレ 2chスレ:scienceplus
続く) 肥後熊本の邪馬台国王卑弥呼(漢系天照大神)と、福岡田川に勢力を張っていた奴国王(新羅系スサノオ)とが、
大もめにもめて倭国大乱が起こり、甘木朝倉筑前町吉野ヶ里辺りが戦場になった。
そして最後は、夜須川をはさんで談判し、休戦協定に持ち込んだのだろう。 >>590
えー、出雲と出雲大社のこと知らないの?? 森羅というのは、半島系の正しき発音じゃなかったかな >>593
古朝鮮語のデータがほとんどないのに「正しい発音」なんあて分かるわけがない >>594
朝鮮起源説の盲信者がよくやるパターンだね。 みんなは万葉集の手持女王の歌を読んで違和感を感じないのだろうか?
テジカラ、イワトと読まれているのを
古事記の天岩戸と同じ表現がなされているのに。
古事記が出来上がる前に河内王は亡くなり
手持女王は、この歌を読んでいる
1度は手持女王の歌を読んでみてほしい そうなんでしょうね
でも文字として残ってるのは万葉集の歌が最古となりませんか 旧唐書に
倭国は、古(いにしえ) の倭の奴国也
日本国は、倭国の別種也
他のスレは倭人伝ばかりだけど
この一文は強烈だよね 倭種ではなく、倭国の別種ということは国家として元は同じということだよな >>605
日本国は倭国の別種
倭国は元 委奴国
委奴国は後に委国と奴国に分離
委国=倭国? 大和に向かった神武が筑紫にいた日向王家の分家にあたるのだろうな。
平原で見つからなかった内行花文鏡の破片を手に、故郷の筑紫を思いながら亡くなったのだろう。 >>607
>大和に向かった神武が
ハハハハ 神武はんは、山の中でジメジメした不便な所は嫌いなんだよ。 そんなところへわざわざ好き好んで行かないよ。 @阿波 >>193
>くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
[木毛]で、ウツギって読むんだけど、どこがクシフルの訛なのかさっぱり分からん >>587
>筑後川の支流の小石原川は、
>「夜須川」とも呼ばれる。
滋賀県守山市の伊勢遺跡は琵琶湖に流れ込む野洲川の流域の遺跡
こっちの方が、神々の集まった天安之河原にふさわしいようにも思う >>610
なんでそんな古いレスにレスしているんだ。 >>610フルとは
古代朝鮮語で神が降り立つ場所って意味だよ
ソウル(ソフル=ソブル=脊振山)も同じ語源に近い
瀬織津姫=セオリ・ツヒメ=脊振津姫
あり得ませんかねぇ? >>614
お前の言う古代朝鮮語ってのは誰が何を元に解読したものなんだ?
三国史記以前の朝鮮語の記録なんて日本書紀に断片的に見れるだけで実態が残っていないのだから解明不能な言語のはずなんだが? >>615
>>614の無能チョンコは>>613のリクエストに応じて出てきてくれたんだから、もっと丁寧にイビってあげなきゃダメだよ 私は九州倭人と韓国カヤ文明は
繋がっていたと思うよ
韓国の博物館の鉄鎧や金の首飾りや金の王冠は
九州の出土品とそっくりだよ
私は日本人ですけどね
ちなみに東京霞ヶ関から書いております。 >>617
韓半島の中南部は倭人が支配してたんだから当然だろ 古朝鮮語ネタとDNAネタは100%チョンコの妄想ってこと 君が代だいは 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけの娘、あれはや あれこそは 我君のみふねかや
こけのむすめ
これについて詳しくわかる文献とかありますか? ひょっとしたら
苔のむすまで〜ではなくて、
こけのむすめ
が正しいのでは?と思いまして。 3UOIjCl0(1/3) AAS
>>14
遣唐使、遣隋使が長安や洛陽で必死で買い揃えてたのが専門書ではなく向こうではやってた小説らしい
向こうの知識人階級の間では以外だったようで「日本人は小説好きだ」と記録に残されているほどだ これは余談ですが、
2013年『古墳墓碑:池田仁三・著』と言う本が発行され、
画像処理により志賀島から掘り出された金印の側面に、
金印受領者と思われる奴国王『常根津日子命(とこねつひこのみこと)』
と言う名前が刻まれていることが発見・報告されました。
これは、第3代・安寧天皇の第2皇子の名前であり、
福岡県堺の佐賀県・一貴山銚子塚古墳がその皇子の墓と言われています。
この『常根津日子命(とこねつひこのみこと)』の生存は西暦20〜66年となっており、
金印が授与された西暦57年と良く符合するという。
尚、この本には、古墳の積み石等の画像処理により、
今まで不明とされてきた沢山の古墳被葬者の名前を読み出して報告しています。
古墳に興味のある方はご一覧ください。
然し、『古墳墓碑』が発行されてから3年以上経っているのに、
この本はいまだに学会で取り上げられないので、
真偽の程、ちょっと不審に思っている所です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています