歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ47
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ここは日本史板なので、日本史の全時代が対象として可です。
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前スレ
歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 前スレの「大王」の読みですが
記紀の古い写本のルビから考えると、漢語っぽいものも基本的に訓読みだと思います。
「皇子」は「ミコ」でしょうし。
音読みするのは後の時代の便宜的なものでしょう。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ちょっと前のNHKの特集で橋本左内が欧米勢力に対抗するために朝鮮や満州を併合すべしって唱えてたらしいのですが
そういう欧米勢力に対抗するために大陸に進出すべしって説を最初に唱えだしたのは誰なんでしょうか? 佐内がそういうことを書いたのは二十歳そこそこか十代のうちじゃなかったかな
優秀な人だったから、お勉強したことを元にぐーんと理論構築してしまうんだろうね
後に石原莞爾も世の行く末を考えて「世界最終戦争」の構想から、実際に満洲を取る満州事変を起こしたが 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >5世紀には稲荷山古墳出土鉄剣銘文・江田船山古墳出土鉄刀銘文のように
>仮借が通例であって訓読みは確立していないとして、「武 = タケル」からの比定を批判する説もある
この説だと「治天下大王」は「ちてんかだいわう」と読んでいたってこと? ワカタケルは倭語なのだから音訳するしかないとすれば獲加多支鹵となる
倭語でもその意味を汲み取って漢訳しようとなれば幼武となる
後者の場合、ヨウブと読むのは有り得る
しかし>>2が言うように古いルビ様のものの書き方からして訓読みをしていたのが伺える
渡来人ならまだしも、倭人は古くから倭語のように読み下していたのではあるまいか
I am a boyという外国語をアイ・アム・ア・ボーイと音読みするのではなく、われはをのこなりと訓じていたと 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 前スレ995を投稿しましたが、再掲します
「稲荷山古墳から出土した鉄剣の「ワカタケル大王」ですが、
この銘文の「大王」を「おおきみ」と読んでいたのか、「だいおう」と読んでいたのかどちらでしょう?
また、そう考える理由を教えて下さい」
引き続き回答をしてくださった方ありがとうございます 2019年から2020年にかけての約1年半の間に起こること
・天皇陛下の代替わり(改元)
今回の代替わりは退位(譲位)によるもので約200年ぶり
日本における最高の儀式である退位礼や即位礼、大嘗祭も行われる
・東京オリンピック
世界的なビッグイベントであり、東京を主会場として行われるのは約50年ぶり
世界中の超一流アスリートが東京に集まってしのぎを削る
・消費税の増税
日本国民全体へ現実的な影響を与える政治的政策
わずか1年半ほどの間に全く違う分野でこれほど大きな出来事が続くのはなかなかすごくないですか?
戦後日本で一番くらいの濃密な1年半じゃないですかね? すみません、教えてください。
ネットで織田信長が明智光秀に送った手紙の中に、
「もっと直臣を雇うように云々。有能な部下ばかり集めると寝首を掻かれる云々」
と言った内容の物が有ったとの記述を見ましたが、検索しても詳細が分かりません。
この内容の手紙は現存するのでしょうか?
また信用できる資料なのでしょうか?
お教えください。 >>16
>ネットで織田信長が明智光秀に送った手紙の中に
その当時、ネットで手紙は送れなかった 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >「もっと直臣を雇うように云々。有能な部下ばかり集めると寝首を掻かれる云々」
佐久間信盛への折檻状に家臣を雇えという件はあるけどなぁ…
つーても折檻状自体信長公記に書いてあるだけだが 正倉院の宝物には何故、
金貨や銀貨が無いの?
(´・ω・`) >>22
聖武天皇の愛用品とか大仏の開眼供養で使った物だから貨幣はない。 -= 彡 ⌒ ミ
-=と(´・ω・`) ようこそ ここへ〜
-=/ と_ノ
-=_//⌒ソ
◎◎ ◎◎
彡⌒ ミ ≡=-
(´・ω・`)┐≡=- 遊ぼーよパラダイス
と´_,ノ゙ヾ.≡=-
(´ ヽ、 \≡=-
◎◎\__)≡=-
◎◎ 聖武天皇の愛用品が正倉院に保管されてたのは有名だけど、
聖武天皇以外の歴代天皇の愛用品もどこかには保管されてるんじゃないのですか?
全部が全部ではなくても、それなりには保管されてそうなもんなんですが、
歴史展や宝物展みたいなのに出てこないですよね
その辺はどうなっているのでしょう? 相続されたり形見分けで贈られたりしてるうちに四散してしまいます。聖武天皇の場合は
光明皇后が正倉院にまとめて仕舞い込んだおかげでそのまま残ったわけです。 雄略天皇つまり獲加多支鹵大王は百済と関係のあるそうです
オホハツセノワカタケルの「ハツセ」からそれは分かります
古代中国語で百済はpeak-tzyeiで韓語ではpaek-jeになります
ゼミの先生から聞いた話ですが「ハツセ」を泊瀬と書くのは「百済」の「百」の音を「泊」で書き「済」を「瀬」と書いたことから来ているそうです
「オホハツセノワカタケル」は百済国の官位を持っている武という意味で百済から官位を与えられた人なのかもしれません 国境線は戦争によって変わるものだし、領土というものは歴史のある時点からその国の領土になったのであって、地球が誕生したときに国家が存在していたわけではない。
だから世界中のどこの地域ももともとは無主の地だったわけで、ゆえに「固有の領土」という地域はそもそも存在しない。
日本政府がよく使う「固有の領土」という言葉は歴史用語ではなく国家の政治的主張にすぎない。
もちろん国際法にも「固有の領土」という言葉は存在しないわけだから、「固有の領土」という言葉を使って国際社会に訴えたところで意味がないし、国際社会にはまったく通じない。
日本政府はこのことを全然分かっていない。 >>26
以後の歴代天皇の宝物も正倉院には多く保存されてます
正倉院の宝物のうち、聖武天皇のものは一部で、大半はそれ以後の天皇のものです ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 日本政府は「沖縄県の尖閣諸島は日本固有の領土」と言うが、なぜか「沖縄は日本固有の領土」とは言わない。
日本政府は過去に一度も「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがない。
日本政府がなぜ「沖縄は日本固有の領土」と言えないかというと、沖縄はかつて琉球王国という日本の主権(統治権)が及ばない異国(独立国)だったから。
皮肉なことに沖縄が日本固有の領土でないことは1879年に日本政府が軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで日本政府自らが証明してしまった。 >>36
>過去に一度も「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがない。
佐藤栄作が言ってる >>34
不鮮明ですし、以前にもおっしゃる方がいたように前後の文脈がないと判断しづらいことが多いです。
なんの文章かわからないので、お答えする上での面白みも乏しいです。 江戸時代後期〜農地解放までの農民の階層について質問です。
あるサイトでは、江戸後期の地主:自作:小作の割合が15:25:60されています。
また、農地解放時に出てくる「地主」の割合も、調停委員割合や農地数(延べ数であることを割り引いても)から見て、
2〜3割は居ることになります。
地主と言えば、土地だけで生活できる人や富農・大農といった金持ち・富裕層を指すと思うのですが、
江戸後期の15%や、農地解放時の2〜3割という数字は、しっくりこないのですが
どういうことか教えてください。 戦時中の統制経済について。
物資が配給制になり、奢侈品が規制され、自由な経済活動が禁止された時期に、
特に流通・小売り・飲食などの消費者向けの日常物品を扱う人はどうしていたのですか?
大商社から小商店主・行商・兼業の商人に至るまで、多くいたと思うのですが、
統制経済では普通に商売はできないですよね?
統制経済のもとで、商人はどうやって商売で稼いでいたのか?
また、工業農業の生産に国民が総動員されるなかで、商人は今までも職業を全員が認められたのか?
認められない場合、どうしたのか?
教科書では書いて無いので、教えてください。 >江戸後期の15%や、農地解放時の2〜3割という数字は、しっくりこない
多いはずだと考えているのか、もっと少ないはずだと考えているのか分かんないし、
あるサイトとか出所不明の数字の羅列で不満を口にされてもなぁ…
農地解放って二十世紀の話だよね?新地租の間違い?
旧貢租にせよ新地租にせよ、学問的な批判に耐えうる統計データなんか誰が集計したの?
抽出した文章でかなり開きがあると思うけどなぁそれ
戦後の混乱期でも明治初頭でも、中央は兎も角、僻地の数字なんか… >>41
このサイトで割合が出てました。
http://kakeizunotobira.denshishosekidaio.com/2016/04/11/post-93/
農地改革のwikiには、
>最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。
延べ数ですが、直感より相当多いので質問しました。 「歴史とは何の定義を持って歴史というか考えたことがあるか。>>1よ。
今までの私ならば人間が移り変わっていた過去を示すものだと思っていた。
歴史学とはかくあるべき、歴史学者である私達はそれを信じて毎日を費やしてきた。
ここに一つの仮定を、もうけてみようではないか。
過去から現代へと至る道が、唯一無二の、一つの道では無いとしたら、どうか。
バカバカしいと思うのならば、道が唯一無二のものであるという論証を、お前にできるかな?
歴史とはなんだろうな・・・人類変遷の記録か?
違うな、それは単に、ある時刻に起きた事象の記録に過ぎないのだよ。それは歴史ではない。」
「時の流れとは不可逆なものとして存在するのではなく、可逆な概念であることを理解するのだ。」
>>1「可逆だって?じゃあ歴史は繰り返されるということなのかよ」
「そうではない。歴史は不可逆な概念なのだ。
その差は微細にして多大であることを知れ。
その違いに気付いた私は、ある場所へおもむく決心をした・・・。
歴史は繰り返さぬ・・・だが時の流れは可逆であるのだからな。
この手紙を読んでいるころは、私は貴様の前から姿をくらましているだろう。
だがそれは、私自身の死を意味するモノではない・・・・。 日本政府は2013年4月28日に主権回復の式典を開催したが、このとき、安倍首相は「サンフランシスコ講和条約が発効された1952年4月28日に日本は完全に主権を回復した」と国会で発言している。
しかし、日本は形式的には主権を回復したが、実質的にはまだ完全には主権を回復できていない。
その理由は以下の通り。
1.安倍首相が「主権回復の日」の式典が開催された翌日にロシアに行き、北方領土の返還を求めている。
2.東京、埼玉、神奈川、静岡、山梨、長野、群馬、栃木、新潟の上空約5000mまでは米軍の管制空域である。
3.岩国基地がある山口県の上空も米軍の管制空域である。
4.日本の領土(民間地域)に米軍機が墜落、または機体の一部が落下しても日本の警察は現場検証すらできない。
5.嘉手納、横須賀の住民が爆音訴訟を起こしても、日本の裁判所は米軍に対して訓練の飛行禁止を命じられない。
サンフランシスコ講和条約が発効された1952年4月28日は日本が主権を回復した日どころか、逆に対米従属を決めた日であると言える。 >>37
沖縄が日本固有の領土であるという法的根拠はない。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>44
昭和44年2月6日の予算委員会で、川崎寛治委員からの質問に対し、時の首相・佐藤栄作は
「いまお答えいたしましたように、沖繩は日本固有の領土でありますし、また、ここに
住んでおる百万の同胞、これは沖繩県民といわれ、同胞といわれしておりますが、みんな
日本人であります」と回答している。 韓国と同じように沖縄も独立するべきです
沖縄市民が立ち上がれば韓国の人達も同情して経済支援すると思います
同じ植民地支配を経験した間柄ですから 今、日本戸籍を持っていて本土に住んでいる沖縄出身者はどうなるの
日本人と沖縄人の線をどこに引くの >>48
日本政府の公式見解ではなく佐藤栄作の個人的見解にすぎない。
佐藤栄作は琉球史を勉強したことがないし、そもそも「固有の領土」の定義も分かっていない。
琉球大学名誉教授で琉球史の第一人者である西里喜氏や高良倉吉氏は「琉球王国を前身に持つ沖縄を日本固有の領土と思っている人は琉球史を勉強したことがない人」とはっきり言っている。 <昭和天皇は米軍による沖縄の長期占領を望んでいた>
戦後の1946年、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わって天皇が政治に介入できなくなったにもかかわらず、その翌年の1947年に、昭和天皇は政治に介入した事実がある。
当時、昭和天皇は宮内庁御用掛を務めていた寺崎英成に「米軍による沖縄の長期占領を望む」という自身の希望を伝え、その天皇のメッセージがGHQの政治顧問だったウィリアム・シーボルトを介して米国国務省にも伝わっていているが、
サンフランシスコ講和条約第3条により北緯30度以南が米国施政権下に置かれたことは、まさに昭和天皇の望みが見事に叶えられたものといえる。
昭和天皇が米国に伝えたとされる「天皇メッセージ」の原文は雑誌「世界」(岩波書店、1979年4月号)で詳しく取り上げられていて、後に「分割された領土」という書名で岩波現代文庫からも発行されている。
「分割された領土」(岩波現代文庫)
https://www.iwanami....KS/60/X/6000910.html
昭和天皇は沖縄がもともと琉球王国という独立国で日本固有の領土でなかったことをよく知っていたから、その沖縄を外国に譲渡することになんのためらいもなかったといわれている。 >>49
韓国が同情で支援するって本気で言ってるの?
> 同じ植民地支配を経験した間柄ですから
これだけが根拠? 北方四島のうち、国後、択捉は日本の領土ではない。
その証拠に日本は第二次世界大戦で敗れた後、1951年にサンフランシスコ講和条約を締結したが、そのサンフランシスコ講和条約の条文に「千島列島を放棄する」と書かれている。
当時の吉田茂首相は、サンフランシスコ講和条約の受諾演説で「国後と択捉は千島南部」と発言しているし外務省の西村条約局長も国会で「国後と択捉は千島列島に含まれる」と発言している。
千島列島に含まれる国後と択捉は、当時の吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約に調印した時点で日本は放棄したことになる。 139年前の1879年3月27日に日本政府が軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合した歴史的事実を挙げて、
「武力併合して以降、『我が国固有の領土』と言えるなら、どこかの国が日本を武力併合したら、その瞬間からその国は『日本は我が国固有の領土』と言えることになるが、そのとき、日本政府はその国の主張を認めるのか?」と外務省に聞いてみたが、だれも答えられなかった。
139年前の日本政府が軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したのは歴史的事実。
琉球王国が日本の領土だったなら日本政府が軍隊を動員して武力併合するわけがないし、併合する必要もない。
沖縄が日本固有の領土でないことは皮肉なことに日本政府自らが軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで見事に証明してしまった。 >>51
首相の予算委員会答弁は個人的見解ではないでしょう
>「固有の領土」の定義も分かっていない。
「固有の領土」は国際法上意味がないんじゃなかったでしたっけ?
西里喜とは誰ですか?
西里喜行氏のこととしても、この方は…
高良倉吉氏の言葉を引用しておきます
「復帰後のこの45年間、沖縄と本土の相互認識は、日米安保・米軍沖縄基地問題という衝立を挟む関係にのみ終始してきたのだろうか。
沖縄の人びとと本土の人びととの交流は様々なレベルにおいて、量的・質的に拡大し続け、彼我の相互理解は格段に進んだ。」
「現在の沖縄は、日本の一員として「本土の諸地方との同等化」が急速に進行している。」 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>57
明治政府は1871年(明治4年)に全国一斉に廃藩置県を行い、全国の諸藩は藩から県に変わったが、琉球に対しては廃藩置県ができなかった。
なぜ明治政府が琉球に対してだけ廃藩置県ができなかったのかというと、当時の琉球は藩どころか日本の領土ですらなかったからである。
それどころか明治政府は1871年(明治4年)に廃藩置県を行っておきながら、逆に琉球に対してはその翌年の1872年(明治5年)に琉球国から琉球藩に変えている。
ただし、これは国家の統治機構の改変を伴うものではなく、単なる名称変更という形式的な変更にすぎなかったのは言うまでもない。
廃藩置県後の全国の各県は大蔵省の管轄下にあったが、明治政府が琉球だけを外務省の管轄下に置いたという歴史的事実は、まさに日本政府にとって触れられたくない不都合な真実である。
当時の琉球が日本の統治権が及ばない帰属未確定地であり、日本の領土でなかったことは歴史が証明しており、故にその琉球を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。 琉球王国が独立国だったことは日本政府が認めている。
その証拠に沖縄県公文書館、沖縄県立博物館、那覇市歴史博物館のホームページには「かつての沖縄は、琉球国王の治める独立国であり」などと書かれているが、
日本政府はこれに対して沖縄県や那覇市に一度も抗議したことがない。
琉球王国が独立国でなかったなら日本政府は沖縄県や那覇市に抗議するはずだが、
一度も抗議したことがないということは日本政府が「かつての沖縄は、琉球国王の治める独立国であり」などとホームページに書いた沖縄県公文書館や沖縄県立博物館や那覇市歴史博物館の主張を認めている証拠である。
よってその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。 江戸時代は平均寿命が40歳前後だったようです。
そうなると親の早世に直面した子供が少なくなかったと思いますが、そういう子供はどのように生きていったのでしょうか。 本郷和人も新聞のコラムで勘違いしてたけど
幼児死亡率が低いから平均年齢が下がってるだけで
40、50になれば皆死んでるわけじゃないよ >>63
乳幼児の死亡率が「高い」の間違いでないかい? 【日本の神は韓国起源】古代出雲は渡来人が大半だった
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20181118-OYT1T50055.html?from=ytop_top
鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、
鳥取県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。
大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。 国後島・択捉島辺りまでなら何かイメージ的に日本っぽいから
返還していただきたいという論理はロシアには通じませんか?
(´・ω・`) 古代出雲国と現在の島根県は同一ではない。
古代出雲国をどの範囲で考えるかによる。場合によっては、新潟の出雲崎まで古代出雲国だったという論もある。
ともあれ、出雲が新羅人の国だったことはよくしられていること。
出雲大社に祀られている大国主命も新羅人で、出雲神殿に鎮座ましますお顔の方向も西方の新羅国だ。 いわゆる出雲の国譲り神話と今回の青谷事案は、
おおむね同時期に起こった可能性がでてきたな、、、 出羽の語源が出雲の端だから出羽(いずは)と聞いた事がある
であれば新潟あたりまで出雲というのはわからないでもない スサノオ尊は韓国起源です
江原道の神様でした
日本に五穀を携えて渡来していきました
韓半島から日本に文明をもたらしたのでしょう 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>72
>出羽の語源が出雲の端だから出羽(いずは)と聞いた事がある
出羽(でわ)は、平安時代以前は 伊テ波(いでは)と書かれた。
矢羽に使う鷹の羽を産したことから、または越後から出てる出端(いではし)から、と言われている。
出雲では無いです。 ちなみに出羽という地名の始まりは庄内地方あたりを指す出羽郡だ。
その頃置賜郡や最上郡は陸奥国だった。
出羽郡が国に昇格した少しあとに置賜郡と最上郡も編入された。
それより北はもっとあとに蝦夷征伐が進んでから編入された。 >>69
ロシアは北方領土返す気満々だよ。
でも、現状では返還された途端、それらに米軍基地が作られるから嫌がってるだけ。
日米同盟を解消すればすぐに帰ってくるよ。ありえないけど。 昭和の朝日新聞だな。
未だに日教組や全共の教師は言ってそう…
事実は、二島を即時返還、後は日本次第。
米がこれにいちゃもんをつけてきて、二島返還で平和条約を結ぶなら沖縄は返さないと言い出した。
日本は沖縄のために北方領土問題を塩漬けに。
ゴルバチョフが政権末期に円欲しさでこの問題を蒸し返したが、これも米の横槍でぽしゃった。
二島にせよ四島にせよ、返ってくるかどうかは米次第。
で、今の米大統領は、アレなわけだw 日本人は戦争の敗北を受け入れるべきです
北方領土は日本の領土と主張することは出来ません
沖縄も日本の領土ではありません
韓国は日本から解放されましたけども今でも日本の右翼勢力は何の反省もなく独島を日本に併合しようと目論んでいます
日本人は敗戦の時に放棄した領土を取り戻すような事を続けていますけども今すぐやめなければいけない
日本が1960年代に再度奪った沖縄は日本から分離解放されなければいけません
それが敗戦の結果を受け入れるという事です
敗戦の時に放棄した独島やその他の島は日本のものではありません 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 高校の山川の日本史の教科書には平成太上天皇って書いてあるけどなんで平成上皇じゃないの? 平城太上天皇のことでしょ
薬子の変は最近は平城太上天皇の変というようになったんだね >>84
でもさ白河 堀川 鳥羽とかは上皇なのに平城天皇だけなぜ略さないの? >80
>ロシア政府の人間が言ってるんだよ
朝日新聞が昭和の頃から布教している嘘なのも事実だけどね。
あと、ロシアの人が言ってたで連想したのだが。
小学生レベルの計算もできない、左翼系出版社が好んで使う「十五年戦争」
中国人がこれを言うのは聞いたことがないが、何年か前、研究者とのテロップ付きで、
ロシア人がこれを口にしたのは驚いた。
旧社会党系議員の子息が局内で好き勝手やってるNHKが勝手に意訳したのかもしれんけどw 豊臣秀吉の太閤検地から農民と武士の線引きをはっきりさせたと
通説になっていますが、
中世以前では農民と武士(領主は除く)の身分は曖昧だったのですか?
武士も普段は農業していたのですか? 農民が駆り出されて戦をしてた
農閑期しか戦ができなかった >>89
博士じゃないし、通説とやらも不勉強だけど
「たとえ建前上ではあっても農業専従者を確定させます(つまり農民)」って意思表示を行政組合のトップがした事で、建前的に出稼ぎ足軽くらいしか出来なくなるって事
それまでの"武士"は 農業もやってる
とはいえ、身分制としての武士と農民が分離していたと言われる江戸時代になっても農耕に携わる武士や、武士になる農民もいた 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>89
中世っつっても鎌倉時代までは兵農分離に近かったのが南北朝の頃から雑兵の大量動員が始まって農民兵が出てきた感じだね
本格的な農民動員は応仁以後かな?
秀吉のときに非農民を(武士とか、その下人とか)農村に住ませないように命令があって兵農分離を強制された(徹底できてはいないらしい) >>91
このスレに博士らしき人が来ることはほとんどなくなって、いまの回答してる人は大半が一般人だし、いいんでない?
質問スレに統合するべきと言う意見が何度も出て、それでもタイトル詐欺状態の博士スレとして続いてるのが現状 信西が崇徳院・藤原頼長を追い落とそうとして保元の乱が勃発したように、平治の乱も信西が藤原信頼・源義朝を追い落とそうとして勃発したのかな >>93
逆じゃないの?
鎌倉時代というと、平時は、武士も在郷で、家臣と一緒に所領を耕したり開墾したり。
招集がかかると、普段は田んぼ耕してたり馬曳いてたりする農民同然の家臣を連れて、参戦。
遅い時代の薩摩の郷士みたいな感じで。
段々と、御家人→大名の支配規模の身長にともなって、城砦の規模の拡大、戦闘員の城砦の常駐、城下町の集住が進んで、
戦闘員も従卒も専門化してくる。農民を駆り出すのは、精々、普請と荷駄くらいになって、すんなり、兵農分離。 武士が在郷なのはたしかだけど、戦場に引き連れていくのは少数の側近だけで、その多くは戦闘に参加すらしない
そして、農民は動員しない
農民を動員しないんだから兵農分離だ 家の敷地を耕して自分で食べるのに足りない分を補うためだけどね。 タイムスクープハンターで野武士みたいな回があったな 副家知事って、どういう役職なのでしょうか?
よろしくお願いいたします。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 日本の中世神話には国土創生のときに天照大神が第六天魔王と契約を交わした話や、ビシュヌ神の臍から蓮華の花が咲いて梵天王が生まれる話などがあって非常に興味深く面白いです。
これらの話は平安末期から鎌倉時代に産まれたものであり、非常に強くインド化されています。
平安末期の日本神話が密教のインド思想の影響下にあるのと同じく、奈良時代の記紀の日本神話は中国の五行思想の影響下にありました。
純粋な日本神話は伝わっていないと考えた方が良いと思います。
巷では何故記紀の神話が純粋な日本神話だと思われているのでしょうか? 中世日本では魔王といえば天狗を指すのが当たり前でした。太平記には仁和寺の天狗評定の話があり、天下の乱れは天狗の仕業とされています。
後白河院が日本一の大天狗と言われている事から平安時代末期には天狗の概念があったと思われます。
しかしながら記紀には天狗は全く出てきません。
天狗という存在はいつ一体どのように生まれたのでしょうか? >>104
黄泉の国から帰ったイザナギが汚れを洗い流すために禊をして三貴紳が生まれるとか日本古来の思想であって
五行説とは関係ないですけどね。陰陽説なら太陽と太陰(月)との二つになるところにスサノヲも加えて三つに
なってるし。 >>93←こいつ馬鹿すぎだろ
>>中世っつっても鎌倉時代までは兵農分離に近かったのが南北朝の頃から雑兵の大量動員が始まって農民兵が出てきた感じだね
こんな認識とか
歴史にわかどころか、偏差値40すらねーだろ。
全くちがーし。 なんなの?
歴史博士板って、えふらんみたいな馬鹿が、嘘八百のでたらめ教える板なんか? 関東武士団の大前提は開発領主
鎌倉武士の御家人は土地を介在した主従関係なのに、兵農分離だ?
こいつ頭いかれてんだろ馬鹿過ぎて。
室町も、守護大名家に連なる家臣団の、
国人から土豪、地侍まで全て全て在郷領主層で、
常時大地主と流通を兼ね、それらの権益守るために武装化し、その武装化の正統性を
守護大名家から主従関係結ぶことで証明していた。
土地すらてない奴なんか戦国以前は武士じゃねえよボケが
戦国以降、信長が秀吉のような出自不詳の土地すらない奴等を専業傭兵化してったまでで。
>>93みてえな中二病レベルにすら満たしてない糞バカ低能が、適当な糞見解垂れ流してんじゃねえよ 中世の武士は、「弓馬の道」という家業を、つまり軍事を専門にする専業兵士で、
まあ農業経営も兼業してはいるけど、農民ではない
あえて言うなら兵農分離状態の軍に近い
未分離の軍は中世後期というか南北朝以後の、特に戦国時代ごろまでの特徴
鎌倉時代の武士を農民兵とか言ってるのは時代遅れのロートルだろ >>105
もともとは古代中国で不吉な流れ星を天狗と呼んだらしいです。狗は犬のことだから天駆ける犬というわけです。
隕石は時に爆発して大音響を発するのでこれを犬の咆哮と考えたらしいです。
日本書紀にも舒明天皇の時に轟音を伴う流れ星が人々を驚かせ、唐帰りの僧が天狗であると言ったという
記事があるらしいです。しかし天狗という用語は定着することなく忘れられました。
平安時代になり密教系の星辰・星宿信仰とか修験道のような山岳信仰とかとないまぜになって妖怪としての
天狗が生まれたらしい。だから天狗は修験道の装束を着てることが多い。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>110
じゃあ、なんで、武士が武装・従軍をやめて農耕だけで生計をたてるようになることを「帰農」というのか?
高度成長期後半くらいからはサラリーマンやめて農家始めることも言うようになったけれど、元来、武家が農家になることだけを指していた。
商工民や僧籍や公家が農家始めたことろで帰農とは言わなかった。単に゜帰農といだけで元武家の農家ということを指していた。 >>110
お前て頭悪すぎじゃね?
軍事を専門の専業武士wwwww
足軽だけの話してんのか?
なんで農業営んでたら農兵になんだ?
大前提が大地主たる開発領主で、
その土地の権利やそこからの作物など物流の利権を守るために武装化し、
その正統性を主従関係で認めてもらって、初めて武士と成してる
土地もない単なる武装した人殺しを専業なら武士なら、
盗賊も海賊も和光も任侠もみんな武士だな
まー戦国時代になったらこいつらを積極的に傭兵化した秀吉などにより皆武士になったが。
お前、まじロムってろよ糞えふらん野郎が 代表例の分かりますい関東武士団で、
土地もたず、農業営まず、人殺しの傭兵家業だけしてた武家を一家でもいいからだせやなら? 世界初の土地台帳(Domesday Book、土地登記簿) は、1086年の英国であるとか「帳簿の世界史」文春文庫34頁に書いてあるんだけど、どう見ても嘘くさいよな
なにこの西洋史しか知らないお馬鹿著者 >>114
お前の考える武士像は前世紀の遺物
武士は軍事貴族、中央たる律令政府からの土着化に始まるんだ
中央の貴族と地方豪族との混血だよ >>117
お前がほざく軍事貴族は守護大名のような一部の話で、
守護大名なんて武士じゃない。あれは似非貴族
それにその軍事貴族が武士たる定義なら、
江戸の武士は99パーセント武士の定義ににはてはまらない。
確かにそうだよ。江戸の武士はお前の定義に当てはめるなら、戦国以前は土地すら持てない非人レベルの出自ばかりだからな。
そもそも地頭やらの国人クラスも普通に大地主だけどな。 ポエムと酒宴と縁起担ぎに開け食てたお公家さんが、田舎に行ったら、急に母衣かむって馬を操り弓を引て刀で人を切るような運動性能、いきなしを発揮でるのか? >>118
日本人は新渡戸稲造に騙されすぎているのではないかねぇ。
新渡戸稲造は幕末の頃の極端な事例だけを紹介して
武士道と言っていたのではないかねぇ。
実像は時代がさかのぼればさかのぼるほど、大阪の入れ墨公務員みたいな
感覚だったのでないの? >>120
江戸の武士はそれまでの旧武士層の大地主層と違って、土地を持てなかった秀吉のような非人層がこぞって傭兵化して江戸の武士となったため、
江戸初期はまさに半グレ輩レベルが江戸武士だよ
なにせ蜂須賀や九鬼、村上やらとリアル海賊や山賊の半グレや893レベルが大名貴下の武士団だからな。
幕末、長州が奇形隊設立して身分問わず部隊作り、薩摩は漁師や工人の威勢のいい奴等を募り、そいつらに士族身分乱発して与えて戦争さしてるし、
幕府は弾左衛門や新門辰五郎を配下にして、任侠やら火消、職人の入れ墨だらけを将軍警護に当たらせてるからな。
幕末でこれで、戦国時代は秀吉のような非人レベルが傭兵化して大量に武士に雇用され、旧名門在地領主層を根こそぎ滅亡させてった。
秀吉の関東征伐なんて本当に酷い。
それから、江戸武士は糞底辺のど貧困だから、江戸中期以降は、輩というより、本当に小作人とかわらぬ生活レベルの困窮家庭だからな。
だからこそ藩の奴隷化が着実に進んで、謀反などない切腹マシーンが朱子学洗脳とともに出来上がった。
藩の奴隷化政策を、勝手に武士道という言葉に入れ替えて美化しただけを誰も気付いていないだけ。 >>118
軍事貴族の代表格が「源平橘藤」
各地の地方豪族がその子孫を婿取りしてでも武士になろうとした、軍事貴族の大御所たちだ
(その4名以前にも軍事貴族はいたが、血族的に軍事貴族として残るとこまでは行かなかった)
守護大名はその中のごく一部に過ぎない。
>>119
南北朝時代頃までは軍事に力を入れてる武闘派の貴族も残ってた。まあ鎌倉時代に入ってからは武闘派であることを貴族の恥と考える貴族が主流になってたけどな
>>120
新渡戸の紹介する武士像の大半は空想上の架空武士だろ 夢殿の救世観音像は何故、
あんなにブサイクなの?
(´・ω・`) 素人の質問で申し訳ありませんが
平氏は征夷大将軍になれないと以前聞いたことがあります。
これは平氏自体が潜在的に身分が低く認定されているからなのでしょうか? 平氏がなれないわけじゃない
自称平氏の信長はなろうと思えばなれたからな >>121
>なにせ蜂須賀や九鬼、村上やらとリアル海賊や
村上はリアル海賊だけど元をたどれば村上源氏。河内源氏庶流の村上氏という説のほうが有力だけど。
>>125
平家が政治の中枢を担っていた頃は源氏なんて最高でも正四位止まりで源頼政が唯一人従三位になって
源三位と称された。平氏の方が低いなんて大間違いです。平氏は征夷大将軍になれないというのも俗説です。 源氏は渡来人の軍事貴族の末裔だから征夷大将軍になれました >>127
源氏庶流wwwww
なんだ庶流てwwwww
家系図上は
秀吉は藤原北家
徳川は藤原から源氏に
蜂須賀も河内源氏だ馬鹿がwwwww
さらに弾家も手吏頭として清和源氏の流れとなってんだが。
さらには弾家は長州征伐に幕府から直々に参戦要望あり、その功で弾家は武士に取り立てwwwww
江戸の武士はこんなんがデフォ >>芸州戦線では被差別民が部隊として組織され長州藩の指揮下に参加しており、幕府側でも弾左衛門の配下の被差別民が参加していた。
>>後に幕府はこの時の功績をたたえ、弾左衛門とその配下を士分に取り立てた。
>>また長州藩としては組織として機能したことに安堵したという記録がある。
長州征伐 土地を介在していない江戸の武士は、腕力や威勢だけで戦国時代から武士を登用してきた展開
そりゃそうだ。他者から奪うことが目的の集団と化して、そこから派生した江戸武士は、そりゃ家柄や出自より腕力が正当化され、横領強奪から地位を確立した集団だもん、秀吉や蜂須賀みたいなんだらけになるわな。
かたや旧封建時代の戦国以前は、土地を介在にした、大地主の自衛権や利権の保証から武装化 を正当化されし在郷のリーダーとしての武士化。
当時大地主クラスの土地を持てるものは、家柄や出にかなり比例するため、n*t質はかなり保たれていた。
しかし、戦国時代により、江戸武士の土地すら持てなかった輩に全て壊され、奪われた サヨクか?
左翼系の思想では地下(じげ)が力をつけて成り上がって武士が台頭する方が理想的で、朝廷貴族が武士の源流だと困るんだから、サヨクこそ軍事貴族という概念には反対するだろうに。 左翼の階級闘争史観では、貴族に搾取された地方領主が抵抗して武士になったという認識だった
軍事貴族という概念が定着して今では流石に時代遅れになったが 左翼も糞もねんだよ
くだらねえ主観フィルターなんか知らねえよ
事実の中世の在地の武士化の流れ話てんだよ 武士の起源は在地じゃなく貴族
それは別として、開発領主ってのも大規模開墾ができる大資本の持ち主が発祥で、一般農民の成り上がりじゃないぞ
大寺社か国司郡司あたりじゃない限り永年私財たるべき本格的な墾田は開けない
耕作者がいなくなって荒れた耕地の再開発は一代限りの私有しか認められてなくて、用水路など灌漑設備まで作らないと荘園とすることができないんだから、
多くの人を動員して働かせることができる有力者以外が開発荘園を拓くのはほぼ不可能だ 期限の話なんかしてねーよ
それにお前みたいな馬鹿は田堵すら知らねんだから、いい加減ロムってろや >>138
田堵が鎌倉時代に関東での開発領主になっていったのはかなり濃厚だろうな 古代には王家と奴婢たちの階級闘争があった。奴婢は被差別階級として窮乏のもとでしいたげられていた。古代社会の矛盾は王家の支配体制を崩壊させたが、次の社会を作ったのは奴婢たちではなかった。それは中間階級的な新興の支配階級つまり地主たる武士階級であった。
そのため古代の階級闘争は封建社会にも武士と農民という形で受け継がれた。農民は窮乏のもとでしいたげられた。
封建体制は後進的な日本においては明治維新まで存続し続けた。
そして封建社会を倒し次の社会を作った主体もまた農奴ではなかった。それは天皇及び旧封建領主旧貴族たちからなる旧勢力と近世に勃興した富裕層の町人階級の末裔つまり商工ブルジョワジー達の連合政権であった。
産業革命進展により武士と農民の階級闘争は資本家と労働者の階級闘争へと変化していった
昭和の軍人たちは終わりなき階級闘争を止めるべく、右翼的空気の中にあって元老や財閥といった反動勢力に対するクーデターを図ったが、巨悪旧勢力の代表である天皇ヒロヒトによって阻止された
階級闘争による社会の矛盾はやがて日本を太平洋戦争へと走らせる事となった
日本の敗戦ののちもヒロヒトはマッカーサーに命乞いをして存続し、旧勢力は自民党・経団連となって未だこの島国の政権を握っている
武士と農民の階級闘争は未だ資本主義社会の矛盾として存続しているである 国宝とか文化財に指定されてる衣服ってありますか?
着物とかありそうですが、検索しても「人間国宝」の着物を作る人しかひっかからず
服は後世まで残らないものなんでしょうか 国宝の琉球王国関係資料、熊野新宮大社や旧阿須賀神社の古神宝の中に衣服があります
古神宝の国宝は他にもあるかもしれませんが 正倉院御物の中に聖武天皇が着用した袈裟があったと思う。厳密には国宝指定されてないらしいけど。 >>142
>服は後世まで残らないものなんでしょうか
中宮寺の天寿国繡帳は飛鳥時代の刺繍だけどごく一部しか残ってないと言われてます。
布地は適切に保存しないと残りにくいのは確かです。聖武天皇の袈裟は正倉院に納められたおかげで
残ったけどそれでも一部が欠けてます。 wikipediaで調べた国宝指定されている服
古神宝類(袿5領)(鶴岡八幡宮)
七条刺納袈裟・刺納衣(伝教大師将来)(延暦寺)
犍陀穀糸袈裟・横被(教王護国寺)
延暦寺と教王護国寺のはそれぞれ最澄と空海が唐から持ち帰った袈裟だそうです。 >>143-146
みなさんくわしくありがとうございました!
けん陀穀糸袈裟などあなりボロボロですねぇ >>141
1950年代のマルクス主義史観ですか? >>138-139
その田堵の起源が豪族くずれだといってるのだが
一般農民が自力で開墾して田堵に成長したとか、寝言みたいなもの
開発費をどこから捻出できるんだよ、と 力を持ってたのに自分が天皇に取って代わろうとする奴が現れなかったのが奇跡
というかそれが日本人の気質なんだろうか 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>151
イスラム帝国時代のスルタンとカリフの関係みたいに、他国にも例はあるよ
カリフが廃止されたのは外来侵略者のモンゴル帝国に支配されたからだ
モンゴルが侵略してなかったら、近代になるまでカリフが存続してただろう 天皇がなんとなくえらいってのだけ伝わって神道の哲学的なポイントとか
ほとんどの人が知らない状態ってのがすごいよね
おみくじの引き方しか習わないという >>153
イスラムは未だにお祈りとかラマダンとか守ってるから日本人以上にまじめだな
>>154
信長は武装した仏教徒を駆逐して歪みを矯正してたような気もするがね >>152
じゃあ日本の稲作はどこから伝わったんだ?
大陸や朝鮮半島じゃないとしたら コピペに反応するなよ
このコピペ厨の説では沿海州
でも実際には沿海州から伝わったのは粟
稲作に先行して沿海州から粟作が伝わったから土器や農具は沿海州のが近い >>153
めぐりめぐって、今では王様を追い出したヨーロッパの国は
たいてい大統領と首相を分けているよな。
あの中国でさえ、国家主席と首相を分けているし、
ロシアでもそうだww
アメリカみたいにある種すっきりした大統領制の国は今では
少数派だよな。 稲作の起源は韓半島です
大韓民国の扶餘郡に弥生文化の雛形となった遺跡がありました
松菊里遺跡といいます
弥生文化は松菊里文化の派生ですから稲作は韓半島から日本に伝えられていったのです >>125
平氏は太政大臣出してるから、精々従四位下相当の征夷大将軍なんかに頓着しない >>159
アメリカはヨーロッパでないことをまず理解しようよ。
そもそもローマ法王に取って代わろうとした奴がヘンリー8世ぐらいじぇね 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>157
おまえ国語力ゼロの高卒か?w
コピペは中国からの伝来はあり得ないと言ってるだけで、朝鮮からは否定していないぞ。
むしろ稲作は朝鮮からの伝来で間違いないと言っているんだよ。
>>160
30点
松菊里より菜畑の方が古いんだわ。
朝鮮半島最古の水田はBC11Cのオクキョン遺跡。
それに、伝えられたんじゃなくて、こちらが半島からパクったが正しいの。
最古水田菜畑の人々は朝鮮土器を一つも作っていないから。
搬入した朝鮮無文土器の壺が一点出土しただけ。 恐らく稲作が日本に渡った真相はこうです
大昔に韓半島からいくつかの部族の青年たちが故郷を捨てて海を渡りました
彼らは北九州にたどり着いてそこで原住民たちを征服して王や貴族になりました
亡くなった後もその功績は延々と讃えられて日本の神々となり子孫たちは天皇や貴族になりました
これが天孫降臨神話です >>165
じゃあ何で朝鮮土器で弥生時代が幕開けしてないの?
最古水田菜畑の人々は朝鮮土器を一つも作ってないぞ。 沿海州から大集団が日本へ移住したほうがもっと根拠ないだろ
その後の日本史でも渤海国までまともに交流がない >>167
来てから増えただけだ低知能。
飛鳥時代には沿海州からちょくちょく来てた記録もあるし。
朝鮮半島とは生活土器も整合しないし、遺骨の形質も整合しない。
アウトですわw >>160
神功皇后が三韓征伐で新羅に上陸したときに伝えたんだろ きっと普段から低知能と言われて続けて染み付いてるんだろう。 ググれば出る情報でイキる低脳チンパンがケンカ腰ですいません どこの低能なんだ?
はやく頭の病院に行って来たほうが良いぞ
老婆はネットで調べなくても知っている、
専門的な本や書なども読んでいないし、家にもない
・・・・・・なぜ知っている?詳しいんだと思う? >>173
聞いたこともないから出典かなんか説明がないと誰も答えないだろう。 >>174
平日の昼間から5chに書き込んでるようなクソゴミ無職だからだろ、生きてる価値ないから死んだ方がいいよ >>175
出典は「獄裏乃夢」(明治22年刊)
抑、愛知縣士族相原尚褧君は其父を相原仙友(舊名を七郎兵衛と稱す)氏と云々ひ
舊名古屋藩主コ川慶勝公の副家知事を勤め家祿百五十石役祿五十石都合二百石を領し
云々 華族の家令なら家知事って呼び方もありそうだけど、副とはいえ尾張家の
家令にしちゃ家格が低いな 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 加賀前田の陪臣だと、庭に姫リンゴやミカン植えて現金化 wikipediaによれば「仙友は名古屋藩主徳川慶勝に副家知事として仕える200石(小納戸詰家禄150石・
役禄50石)取りの武士であった」というから側用人かねぇ。 ちなみに既に調べたかもしれないけど知事は県知事・知県事・知藩事といった用例があって
県や藩の事を知る(司る)という意味になるので家知事は家の事を司る家令と想像される。 安倍首相の爺さんも昭和の妖怪と呼ばれる海千山千の政治家だったようですが、
安倍さんが今政治家をやめたとして、政治家としての名声、ネームバリューは
爺さんを超えてますか?まだ超えてませんか?
このまま続ければ行く行くは日本の首相として在職最長記録を樹立するそうだし、
憲法改正いかんによって爺さん超えはほぼ確実でしょうけれど 政治や社会の主流ではないので歴史教科書に載ることはないだろうけれど、
知名度が抜群だったり、ある種の大物感が突出してたり、影響力がある人物で
歴史教科書と一緒に授業で使う資料集(教科書よりも情報量が多い副読本)に
名前が載りそうなのはどんな人物ですか?
例えば池田大作や大川隆法、ナベツネ、A猪木、タモリ、堀江、池上彰、田原総一朗、
小室哲哉、田岡一雄、秋元康、宮崎駿、橋下徹、小保方、カズ、野茂、あたりは
将来の歴史授業の資料集や副読本の昭和〜平成のページに名前が出てくると思いますか? >>186
じゃあどんな人物の名前が資料集や副読本に載るでしょうか? 安倍総理は衆愚政治家のファシストとして名前が乗ると思います
彼は日本の平和主義と人権を破壊した反動的政治家です 黒澤明や手塚治虫、宮崎駿は教科書の方の昭和平成の文化史のところで載るかもね
ノーベル賞受賞者は人数が増えすぎて全員は載らないだろうけど、iPS細胞の山中教授は
載るんじゃないかな
村上春樹もノーベル文学賞を受賞すれば載るんじゃないかな
教科書には載らないけど資料集の方には載る人って難しいな >>168
朝鮮のほうがはるかに多いだろ
まあ当時は高句麗が沿海州にも勢力を伸ばしていたから
高句麗からの移民という意味ならわかるが >>192
生活土器レベルでの高句麗系土器がどこにあるの?
いいか、山陰から九州北部までの間で北方モンゴロイド形質を帯びた渡来系弥生人骨が
数千体も出てるんだぞ。
4C後半の秦氏に始まる朝鮮帰化人時代になるまでに、日本人口は300万人ほどになっていた。
現日本人の基層になっているのは縄文人と渡来系弥生人である。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 江戸時代の統治や為政は天皇から将軍に委任され、将軍から老中や大老に委任される二重の委任体制だったと言えるのですか?
一部の将軍を除き、基本は老中による合議制だったらしいので 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>195
将軍は老中に任せるけど自分の意思を通すことはできるのでどうかなぁ。田沼意次は自分を信任する
将軍家治が臨終の床で自分を罷免したと政敵から言い渡された時にそんなことはありえないと思いつつも
将軍の言葉に否を唱えることはできないと唯々諾々と従った。家治が死んだ以上政敵による捏造であることを
証明することは不可能なので。 >>178
並の会社だと、社長室長って、係長級かそのもう一つ下だからなあ。
社長=藩主、部長=年寄、課長=評定衆、係長=番頭、組頭、平社員=平士、
みたいな感じか。家知事とか側用人とかいうのが、会社でいうと秘書的な、社長室付みたいなもので、
200石10人扶持くらいならまあ妥当なところだろ。 加賀前田家の家令は、万石超えの元年寄家で男爵位の人間が就いてる
この場合"副"ってのが微妙だけど 江戸時代の一般庶民らは将軍の代替わり、天皇の代替わり、改元に対して
それぞれどのような感慨、あるいは生活の影響があったのでしょうか? >>197
鎌倉時代の途中からも天皇が将軍に委任、将軍が執権に委任っていう
二重委任体制で江戸時代と基本は同じと言えるのですか?
源氏将軍以降の宮将軍なんかは完全に形式だけですもんね >>200
そんなの関係ねぇ、そんなの関係ねぇ
『小島よしお』
大国男児、大物主・・・なんかと同じような感じだったんじゃないの?
そういう人々(存在)がいたと書いてあるし、少し調べてみて ウォーターボーイズの話?
海(水)神の真似〜物まね〜模倣〜・・・・・。 >>200
年号が変わるし、大忙しとかいう、当時のカレンダー屋の番頭の日記が残っている 浅野内匠頭が松の廊下ではなくて城外で斬りつけても切腹ですよね 本当の話
『そんなの関係ねぇ、そんなの関係ねぇ』
画像を調べてみたほうが良い、グーグルでも何でも良いから おまえら一度、飛鳥昭雄先生の話を聞いて来い!
馬鹿者どもが! 真性デムパなマンガ書いてた「あすかあきお」センセか 前に武士の兼業農家でもめていたけど、
忍者も半農半忍が多かったんだっけ? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 「角川新版日本史辞典」
ほうきのくに 伯耆国の項目で、
古代、山陽道の一国。
と説明がありますが、山陰道ではなくて山陽道だったことがあったのですか? なぜ韓国人は世界中の歴史学者とは違う認識で国民を教育してるの?
韓国教科書・日本は韓国が作った Part1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543309682/
韓国人に聞いて驚きました
韓国の教科書では、韓国人が日本人を教育しいまの日本国を作らせた事になってます
韓国の歴史学者は阿呆なんですか? 韓国の教科書は世界標準です
韓国の義務教育は日本の過去の犯罪を隠蔽するような事は無いです
日本の学校教育は知りませんけどネトウヨが多いですから学校では右翼的な日本中心主義の教科書が使われていると思います
日本の歴史はベトナムと変わらない後進国の物語です
これは学ぶ意味の無いものですし不道徳な作り話の塊です
江戸しぐさなどは有名な安倍政権の嘘です >>200
五公五民で毟り取った年貢は、ほとんどが江戸での接待贈答合戦に消耗されていた。
将軍の代替わりなんてのは江戸城の年寄の入れ替えがあるから、より一層、まいない合戦が活発になる。
その費用捻出のために、例年の年貢に加えて別途の徴収が有って、庶民にはいい迷惑。 >>205
本来なら、その場で斬首か、形状にしょっぴいて打ち首のところを、大名の屋敷に預けたうえで切腹なので、すんごい温情措置。
赤穂藩士からすると、殿様なのに庭先での切腹にすんげえ不満だったというけれど。
無論、大名・旗本・その家臣の、私闘やそのための武器使用も禁止なので、切腹どころか、斬首刑ものですよ。 大名に斬首は無い。形状に引き出すのも無い。嘘ばかり書くな。
切腹が妥当だけど大名だから座敷で行うのが普通。
勅使(天皇の使い)を出迎える大事な儀式を汚された綱吉の私怨が入ってる。
だから十分な取り調べをしないで即日切腹となった。
マザコン綱吉が生母桂昌院に従二位をくださいと天皇におねだりして
OKの使者をお迎えする儀式だったから余計に怒った。 事実関係に争いはないし
本人も自白してたからな
動機にくむべき点はあるが、まあ処刑相当だろ ・このまま時代が続けば明治以降のいくつかの元号を統合して、例えば明治維新〜敗戦までで
1つの時代になったりするかもしれません
そういうのは所謂「時代区分」ってやつですよね?
では、考古学、古代、中世、近世、近代、現代っていう区分はなんて呼ぶのですか?
・このまま時代が続けば、時代区分が増えていくことになります
その時、上記の古代とか中世、近代っていうのも再編成されると思います
どれだけ時代区分が増えても、考古学、古代、中世、近世、近代、現代の中で
割り振りされるのでしょうか?それとも、なにか新しい言葉(概念)が新設される
のでしょうか?前近代、後近代とか古近代とか新近代とか・・・これも例えばですが >>217
島原の乱の原因になった大名が打ち首と聞いたことあるが。
切腹も内匠頭と後に同じようなことをした二人だけらしいが。
>>218
動機にくむべき点なんて後世の創作ではないものが何かあるのか? >>例えば明治維新〜敗戦までで1つの時代になったりするかもしれません
これは実際に可能性が高いと思うのですが、「明治維新」「明治政府」といった最重要レベルの
言葉に「明治」が付けられているので、全く違う時代名が付けられると変な感じになると思います
ですので、明治維新〜敗戦までが「明治時代」になるっていう可能性はどうでしょうか? >>221
すでに明治維新から終戦までが近代でそれ以降が現代です。
>>219
逆に細分する方向だと思います。もともとはヨーロッパの近代の人が古代・中世・近代というザックリした
三区分を提唱した。そのまま日本に適用すると江戸時代が中世になって、うまく扱えないので近世と
呼ぶことにした。逆輸入的に欧米でも近世に相当する時代区分を採用するようになった。そもそも三区分と
いうのがザックリすぎて不適当だった。
一方でWW2あたりから後はそれまでと区分したいということもあって現代を導入した。
考古学は地下や水中の遺跡を調査して遺物を研究する学問の名称です。歴史学は元々文献が研究
対象でした。過去の文献を調べて過去の歴史を研究するのが歴史学なので遺跡を掘ることはしません。
だから文献が無い時代は先史時代と呼ばれます。
ナポレオンの >>222
>ナポレオンの
消し忘れた。ナポレオンがエジプト遠征に学者たちを同行させてピラミッドやなんかを調査させた
のが考古学の始まりに近いのかな?これでロゼッタストーンを見つめて、のちにヒエログリフが解読されたのが
エジプト学の始まりなんだけど。 >>217
「無い」を否定する反証は、一例あれば十分だから、一例あげておくか。
徳川時代がいいか?
寛永15年、徳川家光の時代に、天草一揆の叱責で、従五位下四万石肥前島原領主松倉勝家が斬首刑にされてる。 >>220,224
確かに板倉勝家という例外がいた。「無い」は言い過ぎでした。失礼。 明治維新から敗戦までの時代は帝国主義時代です
アジアの隣国を見下して戦争に走った愚かな時代でした >>224
室町時代の例が知りたいな。戦国時代じゃない時代の。 日本の建築物ですが貧相な物が多すぎではないでしょうか?
大陸で使われていたレンガやアスファルトやコンクリートは日本では19世紀にいたるまで存在すら知られず木と草と紙と土で家屋が作られ続けました
窓ガラスに至っては昭和になってからの普及だそうです
世界的にも日本は家屋建築の最後進国であったと思われます
現在でも日本の家は断熱が考慮されず外国人が驚くほど夏は暑く冬は寒いです
ロシア人はいわゆる北方領土や樺太を天国のように暖かい地域といっているそうです
ところが日本人は江戸時代に千島列島の駐屯軍が凍死する程でした
倭人が北海道に移住できなかったのは建築技術の遅れが原因だと思われますし、そのような貧弱な家屋技術では歴史的に千島列島が日本の領土だったとは言えません 室町時代は江戸時代と比べて常在戦場のかんじだから、大名が処罰されるときは討伐戦争なんだよな
戦場で、降伏するか戦死するか斬首って感じか。平和裏に捕らえられて処罰ってことはない
戦場だと首を取られる事例はいくらか存在すると思うが…… >>231
質問を装って日本を貶める内容のコピペ
過去にも見たことがある。
それなりに練り込まれた文面だと思うよ >>229
なんで>>224はわざわざ「徳川時代がいいか?」なんて大見得切ったんだろう? >>222
ヨーロッパのウェストファリア条約の後〜産業革命の前ってまさしく、現代と中世の間のどっちにも分類しがたい時代だけれど、
江戸時代なんて中世その者なのにな 物凄く庶民的な質問ですが・・・
昔にも老齢や脳の病気などで足腰が弱ったり片麻痺になったりする人は数多いたと思います。
床に穴を開けただけのトイレや段差が大きい玄関などは全くバリアフリーを考えていないですし、車椅子が無ければ移動すら難しいですが、昔の人は体が衰えたらどうやって生活したのでしょうか? >>236
そんな状態になったら余程の金持ちでないと生きていけません。
手足や耳目の不具合くらいだったら乞食とか門付けとかそれなりに稼ぐ方法はあるけど。 >>235
江戸時代だって中世と近代の間の要素が多いから近世と呼ばれてるのだが >>238
勝手に寝たきりに近いような状態を想定してしまったけどそちらの想定と違ってたらすみません。 >>238
いや、そこまで衰弱してるのを想定してないです。病気や衰弱してなくても老人は足腰弱るでしょ?現代でも老人は和式便所は避けがちです。
今は様式や多目的トイレがあるけど、昔はそんな人の日常生活はどうだったのかなぁと。
あと、城の天守閣とかは段差が急だけど、老藩主はどうしてたのか気になる。城によっては天守閣の神に定期的にお参りしなくてはいけなかったみたいだし。
寝たきりが死までのカウントダウンってのは普通に想像できてます。 >>241
トイレについては尿瓶やお丸があるので行かないでも済みます。処理してくれる家人か使用人は
要るけど。歩けない人は歩かないで座ってるか寝てるかするしかない。先立つものがあればだけど。
天守は基本的に殿様が登る所じゃないです。姫路城は確かに殿様が登ることになってるけど。
天守は敵が攻めてきた時に最後に追い詰められて殿様が自害する場所なので、殿様が立ち入るのは
不吉とされてます。信長や秀吉は豪華な御殿にしてるけど。例外です。殿様は普通は本丸御殿に
住んでますが、お城が山の上で登るのが辛い殿様は平地に御殿を建ててそこで暮らします。 平城京に都があった時代→奈良時代
平安京に都があった時代→なぜ京都時代じゃなくて平安時代なんでしょ?
時代名の命名の仕方が不自然に感じます
また、天皇の御所と将軍が執務する花の御所が両方京都にあった室町時代は
なぜ京都時代にならずに、花の御所の所在地から室町時代と命名されたのでしょう?
鎌倉時代、室町時代、安土桃山時代、江戸時代と天皇の御所の場所ではなく、
その時代時代の実際の政治の中心地が時代名になっています
この理屈で行くと、将来遷都された場合、東京に都が置かれていた期間を
「東京時代」となるか、もしくは国会議事堂の所在地、首相官邸の所在地が
時代名になる可能性もあるでしょうか? >>242
説明を付け忘れた。一般に天守閣と呼んでますが歴史用語としては天守が正しいので意識して
使い分けてください。現在の建築の名称として天守閣と付けてる場合は天守閣で正しいです。 >>243
秀吉が大坂を拠点に全国支配した時代の名前が桃山時代。桃山ってのは伏見のことで、廃城になった跡地に植えた桃にちなむ名前。
大坂時代なのに伏見、ましてや廃城より後につけられた好打一名の桃屋まで読んでる不自然さと比べたら、平安時代の呼び名程度は不自然じゃないよ
それに、奈良時代の名前の奈良ってのは奈良県のことではなくむしろ平城京の異名から来てるから、おかしいわけではない、はず。 継体(体制を継ぐ)天皇は福井県の豪族
奈良大阪の皇族を二十年戦争で殺戮して、朝廷を奪った
これにより
朝鮮出自の王権は途絶えて、北陸土着日本人による統治が始まった 朝鮮からわたってきたという事は皇室のご先祖様は殷王朝か。
悪くはないな。 >>222
近代とか現代とかの区切りは「時代区分」とは別でしょう
時代区分は平安時代とか鎌倉時代とか室町時代とかそういうの
明治以降は一世一元でいち元号ごとに時代区分になっているけれど、
何らかのタイミングによって複数の元号を統合した時代区分になると
思われます
その点で明治維新〜太平洋戦争敗戦までがひとつの時代になる
可能性はかなり高いと思うのです >>236
忍者が母親の介護をするために辞職したって記録もあるから、家族で面倒を見てたんだろう 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>241
老藩主なんかあんまり居ないよ。とっとと隠居してた。30代か40代前半でリタイヤ。
天守閣に登る殿様なんてあんまり居ないよ。一国一城で、城持ち大名の方が少数派。
城があっても、天守閣を建てなかった城、天守閣を失っ城があったりする。
そもそも、城の高いところには見張りが時々行くくらいで、殿様は滅多に行かない。
殿様が住んでたり政務を執ったりしているのは低層部の屋敷。 >>245
秀吉は大坂城に常駐してたわけでないしなあ。
京、伏見、大坂を行ったり来たり。 >>255
その往来範囲のなかで、秀吉が根拠地と見なしていたと考えられるのはどこかという考察から根拠地大坂説が出てきたんだよ 天下人秀吉には大坂城、聚楽第、伏見城の象徴的根拠地があるからな〜 >>252
間諜や特殊工作員の異動を正確に記載するような、のどかな時代があったものですかね? >>257
その三者(他には重要拠点といいうるものはない)のなかで、目的があって設置した出張所っぽいものを除くと最後に大坂が残るとか
伏見も聚楽第も朝廷との折衝とかの目的で設置しただけっぽく。
対するに大坂は、諸々の状況を見るに、「豊臣氏の根拠地」的に扱ったと考えざるをえない。
辞世の句でも天下を治めていた時代のことを「浪速のこと」と呼んでるぐらいだし、豊臣政権としての根拠地は大坂以外に考えられない。伏見や聚楽第ではなく。 >>250
>その点で明治維新〜太平洋戦争敗戦までがひとつの時代になる
>可能性はかなり高いと思うのです
その時代のことは既に近代と呼んでいるし、あえて違う用語で呼ぶなら大日本帝国時代でしょう。 >>261
ただし明治政府の初期は大日本帝国じゃないので用語として不適切になるから近代と呼ぶのが一番ふさわしい。 日米通商条約からあるので江戸末期からで被る。
室町御所も室町時代の開始より後に作られたから 憲法の制定に伴っての大日本帝国かと思ってたけど江戸幕府が使い始めたのかぁ。
なるほど。 秀吉は亡くなるまで大名への号令は伏見から行っていた
伏見城は政務を行う公的な存在
大坂城は私的存在
秀吉亡き後は大坂城で政務が執られることになるのだが、安土・桃山時代が信長・秀吉時代のことであれば、秀吉没後は実質、徳川時代への移行時期で、豊臣氏の影は薄くなっていたと歴史家によって見られるのだろう 日本の戦後、高度成長期などが現代から近代になるのは政治体制や社会の大きな変革があった後ですか?
大きな変革がなく延々と現状が続けば、いつまで経っても現代のまま?
何がきっかけで近代とか現代の時代区分が、変わるのでしょう? >>268
現代から近代って、なんでさかのぼってるの? 22世紀くらいになっても、20世紀時分のことを現代って呼んでるのってことだろ >>268
ヨーロッパではWW2の終戦を境に戦後体制が現代とする従来の解釈に対して、東欧革命を境として
ヨーロッパ統合に向かう流れが現代とする解釈が出てるらしい。
日本の場合は戦後のアメリカべったり体制が今のところ何も変わらないので変更の必要がないです。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>268
もともとヨーロッパで市民革命や産業革命を経て「近代化」した人々が新しい時代が来たとして近代と
言い出した。その波を受けて日本でも開国して欧米列強に並ぶことを目指したのが明治維新から
終戦までの近代日本です。そして敗戦して占領軍によって民主化させられたのが日本の戦後体制であり
現代です。この枠組みを変えるような大きな変革がないとずっと現代です。 あえてこのくらいの変革があったら時代区分も変わるだろうというのを提案してみる。
例えばアメリカがアメリカ ファーストを推し進め孤立主義に戻り世界の警察も辞めて、日本が再軍備して
核兵器も持ち、アメリカにも対等に否と言えるようになる。 >>271
内閣制度の変更とかくらいでは変わらない? >>273
枠組みの変革が無ければ、上で誰かも言ってたように22世紀になっても敗戦以降ずっと現代のまま? >>275
政教分離規定がなくなったり、文民統制規定がなくなるくらいではどう? >>278
社民党政権の時に海外では戦後初の左翼政権と騒いだけど結局何も変わらなかった。
仮に大統領制になっても国民の心に天皇がある限り対して変わらんのではないかなぁ。
>>280
そうなるとかなり民主主義に対する挑戦だと思うけど。 歴史はあらかじめ想定しておくようなものではないものなぁ
実際、時が経てば歴史の区分の仕方はすっかり変わって、馴染みのない言葉によるものになっているかも知れない >>281
これは俺個人の意見だから他の人の意見もよろしく。 例えば、昭和前期(敗戦前)の頃の歴史家はどういう区分を言っていたんだろうな そのころは時代区分の用語としての「現代」などは使っていなかったような気がする
明治以降は近代だと言って済ませていたんじゃないかな 連投スマン
「近代的」という言葉はもともと最先端のものだって指すものだったし
英語ではmodernと言うんだろう 仮定の話だけど、もしこれから封建社会になった場合、その封建社会が現代で戦後民主主義の時代が近代になるんだよね?
そして、その社会変革は進歩とか開明ではなく復古と呼ばれるんだよね? 自民党が憲法改正を目指してるけど、天皇を象徴から元首に明解に変えた場合どうなるのか?
大日本帝国憲法と同じように、立憲君主で主権の総覧者だけど、実際には政治にあまり口を出さない、みたいな立場 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>266
そんなん、信長も安土は私的な城みたいなもんだったろ
全国(的)支配に関与する政務のときは京都に出てたじゃん
それでも時代名に安土とつけてる >>288
福沢諭吉が遣米使節の一員としてアメリカへ行き、初代大統領の子孫はどうしているのかと尋ねたら誰もそんなことは知らないと答えた
世襲に頼らず、入れ札で大統領を互選する民主共和制の極致を見て感心したという
その後、日本でも幕府が瓦解して西欧列強に伍する国を作らねばならないことになった
ところが、合衆国のような政体を取るのではなく、古代平安京の時代よろしく「王政復古」をやると相成った
福沢は、えぇっ復古なんだぁと思ったかも知れないね >>288
その封建社会が現代で戦後民主主義の時代が近代になるんだよね?
なんかすげー胸熱 人類の理想、社会進化の究極とされた共産主義、社会主義がボロ切れのように捨てられたんだから、何があるか分からんよね >>289
それだけだと不十分。その後再軍備してアメリカと対等な立場に立つとかならその時点に遡って
画期とするのはやぶさかでない。
>>288
>その封建社会が現代で戦後民主主義の時代が近代になるんだよね?
たぶんその封建社会が現代になるけど戦後民主主義の時代は別の用語を作るんじゃないかな。 >>294
日本は最も成功した社会主義国と呼ばれてるようだが。 日米安保の時代とか
その後富国強兵策により条約改正、解消を実現 >>296
それは一億総中流などと言われた時代の言葉だろうな
今は随分格差も広がり、そんなことを言う人も居なくなった 国や社会が科学技術や進歩などを否定して、ビートニクスを標榜した場合、
そのビートニクスの時代が現代で、科学技術の恩恵にあずかった戦後や平成が近代になるのですか?
また、そのビートニクスの時代は進歩や開明ではなく、復古と呼ばれるのでしょうか?
それとも退化? 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 成功した社会主義国なら在日差別など無いはずだが?
ヘイトが飛び交うこんな島国が成功した社会主義国のわけないだろう! >>300
古代ローマで育まれた文明の数々が帝国の滅亡とともに失われて暗黒の中世に突入した
そういう歴史は実際あるのよ >>304
それは進歩や開明ではなく、復古でもなく、退化になるのですか?それとも暗黒? 歴史の神様も進歩や開明、復古、退化なんていう文科系に特化した考えで仕事やってないと思う 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>305
文明国である西ローマ帝国が蛮族ゲルマン人の侵入で滅亡した。侵入したゲルマン人は
ヨーロッパ各地に自分たちの国を作って互いに覇を競う。北アフリカに勢力を伸ばしたイスラムは
イベリア半島(スペイン・ポルトガル)を征服する。どう見ても復古でも開明でも進歩でもない。 天皇が象徴から国家元首に戻ったら、
第二の王政復古の大号令がなされるの? >>236
盗賊に捕まった母親が子供を置き去りにして逃亡した話を賞賛するような世界・平安時代
自分さえよければ他人はどうでもいい
自分の子供でも見殺しにする
家が穢れるという理由から重病の親を野に捨てる修羅の世界・平安京
人情もクソもない
ろくなもんじゃない 昔の人の心を知っているというような書き方だが、どうかな 仁徳陵の発掘が間も無く始まります
天皇が韓半島からの渡来者であることが分かるでしょう >>309
現行憲法下の天皇が国家元首でないなら国家元首の条件って何だ? >>312
もう終わったよ
端っこをちょっと掘って 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>313
日本国憲法はGHQが天皇は元首ではないことを明示するために「象徴」という新しい概念を導入したのに、
何言ってんの?GHQは日本を民主化するために天皇制廃止の予定だったけど残した方が国家運営に
都合が良いことを理解して残すことにした。しかし天皇が元首では日本を民主化したことにならないので
天皇を元首ではない何かに定義する必要があった。そこで「象徴」という言葉が出てきた。「象徴」が
どんなものかはその時点では何も決まってなかったけど。 >>317
そいつの相手をするなよ
「象徴」「天皇」でNGすりゃサクッと消える >>317
だから「元首」の条件と天皇がどう外れるのかを説明しろよ。 『この紋所が目に入らぬか!』
水戸黄門、いまの茨城県の話なの? それと、なぜガンダム、アニメ(不明)の話ばかりなのか?なんだよ
『茨の園』 まさか・・・・本当に・・・・何かのネタなのかな?
数年前の、とあるスレ
CRこーもんちゃま?と言ってる人がいたり ガーベラ・テトラ
ガーベラというのは植物じゃなかった? 本当は仏教(由来、関係)の話なんだよ
というレスもあったような >>319
仏教ではなくキリスト教の話だよ。
ローマ法王が王様に戴冠して国家元首が決まるんだよ。だから西洋社会からみれば全て「自称元首
」でしかない 遣隋使と遣唐使
日本に与えた影響が大きいのはどっち? 遣隋使って日本が初めて中国に外交使節団を派遣したという歴史的意義以上のものはないだろう
遣唐使は中国のさまざまな文化を輸入してる 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>327
日本から最初という表現には疑問符が付くな
日本列島からだと邪馬台国やら「倭の五王」の朝貢が先行するし、邪馬台国以前に奴国の朝貢があったんだから、最初とは言えない。
また、日本と名乗っての朝貢は遣唐使になって以後のことだから遣隋使は含まれない。
いずれにせよ、日本国内への影響は遣唐使の方が上だろうって点は同意だが。
遣隋使の国内への影響といわれているシロモノって、のちに遣唐使船に同乗して帰ってきた後に影響を与えてるわけだから、遣隋使単独の影響ではなく遣唐使と合同での影響とも言えそうな…… 日本列島からであっても日本国からではないね
「日本」という名称がまだ使われてなかったというなら大和朝廷ね。「大和朝廷」も使われてないなら天皇陛下
「天皇」も難癖つけるなら・・(あと適当に。。
>>327に歴史的意義があると書いてあるじゃん
比べると日米和親条約と日米通商条約のどっちが影響がでかいのかって話と通じる >>323
ゼランフィスもサイサリスもデンドロビウムも全部お花。
>>325
その理屈なら昭和21年の時点で自称元首じゃない国家元首ってどれだけいたんだ? ゼロでも問題ないよ
キリスト教を信じてない人で世界は回っているから 現行憲法下の天皇も他国の元首も自称元首でしかないなら天皇は元首ではないって理屈は天皇も含めた世界中の元首が元首ではないということ以外では通らない。
だがアメリカフランスと言った大統領が政治的機能を持っている国はもちろんの事ドイツやイスラエルのように象徴でしかない大統領も国家元首である事は疑いがない。
では「日本の天皇だけ特別に元首ではない」などと言うことが有り得るのか。 江戸時代の朝廷は存在感が希薄でありましたが、改元などの「時を司る」権能を有してました
江戸時代は頻繁に改元されていましたが、現在のような情報伝達手段がない時代に、
地方の町村まで改元の情報がきちんと伝わり、社会が回っていたのでしょうか?
ある町村では改元の情報が伝わるのが遅く、しばらく古い元号を使い続けていたって事例はないのでしょうか? 元寇と秀吉の朝鮮出兵は「他国を侵略しようとした行為で二度に渡って行われたが
失敗した」という部分で共通点が多いと思います
・元寇によって受けた日本側の被害、失敗したことによる元側の被害
・朝鮮出兵によって受けた朝鮮側の被害、失敗したことによる日本側の被害
これらの被害の大きさを不等号で表すとどうなりますかね? >>334
元治二年四月七日、改元ありて慶応と改めらる
岡山のある庄屋の五月三日日記に早くも改元の記事あり
禁裏向きより御公儀へ報せあらば、各藩江戸屋敷へ御達し有るは必定ならん
藩江戸屋敷より国元へ届きし知らせは大庄屋より各村々へ回覧さる
庄屋より五人組の頭へ、各百姓へと伝達さるものなり
町人へは名主を通して承知を図るなり
各人作る帳面、証文他の文書に年月日を書き付くる要ありて、年号は必須であればなり 逆に言えば朝廷から幕府、各藩と連絡して岡山の庄屋に伝わるまで一月掛かったということでもあるな。
その間は古い元号を使ってたことになる。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>317
元首の主な役割が象徴なんだけれどねえ。 >>339
「天皇の国事行為」とされるものと一般的な国家元首の役割/仕事が、かなり重なってるしな >>341
私見だと、元寇での被害は日本の被害と現の被害は大差がない(被害の絶対量は元が大きいが国力の差も同様に大きいので国力への影響は同程度)
秀吉の朝鮮出兵はそれより大きな被害が出てるが、特に朝鮮の側に出た被害が大きいと思う
結局は(朝鮮以外では)どの国も政権転覆をもたらしたので(朝鮮だけは中国への服属にとどまって転覆はしてない)五十歩百歩とも言えるかもしれない >>341
俺の私見では間に挟まって朝鮮出兵では主戦場だった朝鮮の被害が一番大きいと思う。
思うだけでソースは無いが。 人口の大幅減少とか耕地荒廃とか色々と深刻な影響が出てるはずだしな、朝鮮
ところで元寇の時の高麗(朝鮮の前の王朝)の被害も相当なはずなんだけど質問者の意識にはのぼってなさげだね 何故戦場になったぐらいで被害が甚大だと思えるんだ?w
朝鮮人は壱岐・対馬の島民を虐殺していったが,日本人にそういう風習は無いので無害
高麗・南宋の遺民を殺処分できた元の独り勝ち 戦国時代後半期の風習で、敵対者は降伏しない限り殺す(降伏したら捕虜として連れ去る、のちたいていは転売)事が普通だったし、
戦争前半から中盤頃にあったトラブルが元だかで現地人の対日感情がストップ安、ものすごい敵意があったことから住民総出での抵抗が普遍化してた。
その結果、攻め込んだ日本側の被害も甚大だがそれ以上に現地人被害も大きく、人口激減する地域が多く出た。
戦場で地元民が抵抗したら拉致・転売するのは当時の日本でも一般的な風習だ 明の将軍と小西だか三成だかがまとめた和平を秀吉にきちんと伝えなかったために秀吉は朝鮮の違約と判断、
罰として住民の虐殺自体を目的としたのが二度目の派兵。
と聞いたことがある。 双方の担当者が敵が降伏したと言って上に報告して和約を結ぼうとしたから始めから無理があった。
明は秀吉の降伏文書(偽書)を受けて「秀吉を日本国王に封じる」という国書を送った。これを見た
秀吉は明が降伏したと聞いていたのに話が違うと怒った。この時の国書は普通なら破られるところだが
秀吉は何故か堀尾吉晴に下げ渡した。吉晴はこれが見事な作だと思って持ち帰り家宝にした。
おかげで現存している。
この戦争について『明史』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、
百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は
終息した。」と総評する[注 9]。
ということは秀吉が死ななかったら明には勝算なしか。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 大坂冬の陣で徳川勢は寒さと飢えに苦しめられましたが、
普通に城下町で寒さと飢えを凌げば良かったんじゃないですか?
(´・ω・`) 豊臣秀吉は韓半島の大虐殺者です
16世紀最大のジェノシストを讃える日本の歴史家は人権犯罪者です モンゴルの大英雄チンギス・カンは4000万人を殺したけどw
秀吉の比じゃない人数だな どこの雑魚なんだ?
大陸から渡来してきて〜再び、三度・・・・????
半島や大陸に進出したというのが本当の話みたいだよ 世界の虐殺者ランキング
第1位 毛沢東(中国) 6000万人
第2位 ヨシフ・スターリン(ソ連) 2000万人
第3位 アドルフ・ヒトラー(ドイツ第三帝国) 1100万人
第4位 ポル・ポト(カンボジア) 300万人
第5位 レオポルト2世(ベルギー)200万人
第5位 エンヴェル・パシャ(トルコ) 200万人
で、秀吉は? とあるターゲットを叩かせるためのプロパガンダ?
というのがあるとか、ないとか言ってる人がいたり・・・、
本当のような気がするんだけど 『AKIRA』という作品を観てみて
グーグルで良いから画像を検索してみるとか
進化論? 瓦礫の山の大将みたいなセリフ
『お山の大将』
猿山のボスとか、テレビなどでもやっていたり あらら…発狂しちゃった
そりゃ宗主国の英雄様が大量殺戮とかとても受け入れられないな mike oldfield『let there be light』
この曲を聴いて、観てみて
『AKIRA』(アキラ)のテーマ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 疫病本多という髪型の語源はなんですか? 髪型が並んでるところに一つ変な名前があってびっくりしました >>364
本多髷という流行のスタイルがあってそれのいくつもあるバリエーションの一つらしい。
http://www.kamiyui.net/?p=251
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E9%AB%B7
「中期になれば、月代は狭くなって鬢を油で整えるようになり、さらに髷や鬢に様々な工夫がされるように
なります。病的な雰囲気を持つ「疫病本多」というスタイルも好まれるようになりました。」
http://www.phantaporta.com/2018/01/mage.html#toc--_3
文化が爛熟すると中性的になったり男女あべこべになったり奇天烈なスタイルが流行るものです。 >>365
ちなみに助六弁当でおなじみの歌舞伎の助六は頭に紫の鉢巻きを締めて粋に決めてますが
あれも病鉢巻きと言って病気の時に締めるものです。 ありがとうございます
今でいうヤンデレとかのヤンに近いみたいですねw 中国の西安で発見された唐代の墓誌があります
西暦678年のものと推測されています
禰軍墓誌といいます
ここに日本餘という言葉が登場します
この日本餘とは文面から扶餘勇(Buyeo Yong)のことを指しているのは明白です
扶餘は日本でした なぜ下半島人は日本や中国の歴史を仮冒しようとするのか
半万年の歴史を持つのだから堂々と自信を持って自らの歴史の素晴らしさだけを語っていればいい
わざわざ他国の歴史に介入し仮冒しようとするのは自の歴史が嘘で塗り固めたものであると
自ら証明しているようなものだ アホみたいな質問ですか、現代で将軍になることは出来ますか?
出来ないなら、法的根拠は何でしょうか? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>370
自衛隊法。君には無理だが陸将にはなれるよ >>372
自衛隊法に将軍に関する規定あるのですか!? >>373
横レスだけど将軍は軍人の階級だから現在の日本では自衛隊しかない。(一応自衛隊は軍隊ではないことにはなってるけど)
あなたが想定したのが征夷大将軍の事なら現在は根拠となる法が存在しないから誰もなれない。
あえて言えば勝手に名乗るのは自由だけどね。 葦原金次郎も自分で名乗ってたらそう呼ばれる様になったしね >>370
>法的根拠は何でしょうか?
法的根拠がないということが法的根拠だ 乃木希典なんかも乃木将軍って呼ばれますね
正式な将軍だったんでしょうか?
軍の司令官=将軍ってことですか? 君の考える将軍はどんな?
征夷大将軍しかいないと勘違いしてない? 乃木希典の階級は陸軍大将
将軍は、昔風になぞらえて言っているだけ
内閣総理大臣は正式職名だが、首相は昔風の俗称であるみたいなもの 明治に陸軍が創設されて以降は大将・中将・少将をまとめて将軍だ。
明治維新以前でも征夷大将軍以外に鎮守府将軍とか近衛大将とか近衛少将とか
将軍職はいっぱいある。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 乃木大将は明治帝に殉じて自裁、妻静子もお供させた
かねて夫と共にとは聞いていたが、いざ「今日だ」と聞かされると静子はうろたえたと言う
それはそうだろう、かわいそう >>383
役務の種類としては将官だが呼び方として将軍と呼ぶのは普通
某有名アニメのレビル将軍というのも同様で、将官だが将軍と呼ばれてる
もちろん同格の将官が多数いるのだから征夷大将軍みたいに権威や権力が大きいわけではない 日本人ではなぜ哲学が発達しなかったのでしょうか?
大陸では観念や実在についての考察が進み、西洋のイデア論やインドの諸哲学や中国や韓国などの性理学が生まれました
形而上学の誕生です
ところが日本にはついに形而上学が発生しませんでした
菜畑遺跡では韓半島から農耕が3000年前に伝わっていたにも関わらずです
哲学どころか文字さえなく暦もなく算術もありませんした
王仁博士が学問伝えるまでは倭人はトンデモない未開の低知能な土人集団だったといえましょう
今でも日本人を観察すると形而上学に弱い民族に思えます
金融や法律、数学や物理やITなどの高度な知的レベルにふさわしい民族ではないと思います
この島国で哲学が生まれなかった事と関連があると思います >>385
そうだね。海軍で将官を纏めて提督と言うのと同じだね。 黄金聖闘士は12宮に住んでるんですか?
それとも毎日出勤してるんですか?
(´・ω・`) >>390
作者ですらいじると怒られるのが漫画。
以前、浦沢直樹が「YAWARA」の豪華版かなんか出す時、
気に入らないコマを少し修正したら「お前に何の権利があって修正しているんだ」ってファンから怒られたんだぜ 漫画の世界だけではないぞ
長嶋監督が「3」をつけた時,ファンのための永久欠番だぞ。とテレビでドヤ顔で話してた莫迦がいた 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>391
版画新しくなるごとに、修正で意味不明になってゆく、ガラスの仮面。 >>386
貴方は相当な教養教育を受けた人であると推察します。
これだけの教育を受けても韓国で学ぶと貴方のような歪んだ価値観になる事に薄ら寒い思いがします 松井石根大将も将軍と呼べるのでしょうか?
南京大虐殺の真偽はわかりませんが、少なくとも松井大将はきちんとした人物であり、虐殺を指揮したとは思えません
指揮してなくとも兵士が虐殺行為をしたとすれば、トップもしくは管理職の責任は出てくると思いますが、果たしてそれが死刑相当だったのかどうかは疑問があります
みなさん、どう思われますか? 「南京入城後の慰霊祭のときに私は皆を集めて泣きながら怒った
兵の暴行によって皇威の輝きを汚してしまった
ところが皆は私の言を笑った
ある師団長のごときは普通のことですよとさえ言った
‥その私がこうして死刑になることによって、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省を与えるという意味では嬉しいことである
せっかくのことであるから、このまま往生したい」
ー松井石根 >>398
泣かせる台詞だよな
松井大将は本物の男だよ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 南京どころか支那人なんて根絶しておいた方が良かったのにな 学が無いの剥き出しで気がひけるのですが
昔の偉い人の姓と名の間に挟まる〇〇守とか〇〇頭とか〇〇介とかは何と言うもので如何に決まるのでしょうか?
戦国とかの乱世では名乗り放題だったのは何となくわかりますが 平氏の時代や江戸期には決まりがあったのでしょうか?
松平容保は熊本に縁がなさそうだし 熊本の細川家も越中には関わりがなさそうだし
乱世以外でも好きに名乗って良かったのでしょうか? あれは朝廷で任命してもらう官職名
平安時代には官職に実態があるので、○○守とかは国司として仕事して朝廷に規定額の税を納入しなくてはならない
室町時代頃になると朝廷の官職の大半は形骸化してるが、格の低い官以外は朝廷の任命なしに名乗ることはできないし、武士(など幕臣)なら、幕府の斡旋なしに任命されることはできない
16世紀に入ってすぐぐらいからか、幕府の斡旋なしに直接朝廷に頼んで官職を買うことが広まった
それとは別に、朝廷の任命なしの自称もあるが、自称は格が低くて尊ばれていないらしい
江戸時代には幕府の斡旋で朝廷から任命される規定がある(ただし、旧来と違って官職の定員がなくなった) >>404
そこに入るのは仮名(けみょう)と言います。仮名が官職の場合は受領名(ずりょうめい)、太郎とか三郎とかだと
排行名(はいこうめい)と言います。官職を勝手に使うのを百官名(ひゃっかんめい)という。そして官職のようで
官職でない東百官もあります。これは一説に平将門が授けた官職であると言われてますが俺は違うだろうと思ってます。
東百官には頼母とか数馬とか源内とか左内とか、他にもいっぱいあり。
松平容保の肥後守は会津松平家の藩祖保科正之以来の慣例です。江戸時代はそういう慣例に従うのが多い。
御三家の尾張と紀州は大納言で水戸は中納言とか。 官職名を元にした仮名もたしかに広く使われてるんだけど、仮名とは別に、正式の官職名も使うよ
大岡越前守とかは仮名じゃなく官職だよね
406の下側2行分は仮名ではなく官職でしょ あぁ、そうですね。諱を呼ぶ代わりに官職で呼び、官職が無い場合は仮名(通称)で呼ぶ。
仮名には排行名と百官名と官職を勝手に名乗る受領名とある、ということらしい。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 皆様有難うございます。昔は義務と権利を伴った官職だったけど時代が降り義務も権利も伴わず慣例に従うと言うことで良いのでしょうか? >>410
まぁそうです。でも江戸時代は幕府が仲介するから他の人が使ってる間は使えないということはあった。
あと吉良上野介が悪役になったおかげで上野介は誰も使わず、幕末の小栗上野介が唯一の例外かな。
小栗は傑物でそういうのは全く気にしなかったとか。 >>411
有難うございます 江戸時代はそれなりに秩序があったんですね
小栗忠順は上野介の前は豊後守だったようですが 何故変えたのでしょうか?守から介では昇進っぽくない気もしますが上野は豊後よりかなり上なのかな?
同時代だと阿部正外あたりを憚ったのでしょうか? すみません 名乗りを変えるのは珍しくないのですね スルーして下さい
なんら自分の人生に関わりないし 歴史を読む上でも然程重要とは思えないのに何か気になって^^: 韓流ドラマ(ファンなんです)の時代ものを見ていると
やはり官職名で呼んでいますね
日本と共通点が多くて興味深いです
文化や法律と共に大陸から伝わった習慣なんでしょうか >>412
上野と上総と常陸は親王任国といって親王が守を務めることになってます。皇族の名誉職でもあり
収入源でもあります。だから介が事実上のトップです。そういう訳でこの3国は格が高いとみなされます。
>>414
実名を憚る文化は広く見られますが日本でいつからあるのかを明らかにするような資料はないと思います。
日本が縄文時代だった頃の中国には既にあったのは間違いないのでおそらくそれが伝わってきた可能性が
高いとは思います。儒教の開祖孔子は紀元前5世紀くらいの人ですが氏は孔、諱は丘、字は仲尼と伝わって
います。諱は大和言葉で「いみな」と読んで「忌み名」という意味になります。字は「あざな」と読んで諱の代わりに
呼ぶための名前です。諱の「丘」は頭が少し盛り上がっていたのにちなみ、字の「仲尼」は巫女だった母親が
尼丘に祈って授かった子だからと言われています。 >>404
東百官。
勝手に言ってる、今風にいうと中二病的 日本の王家は中世に入ってから乞食になって官位の売買で生計を立てるようになりましたが庶民は現在の金額でいくらで官位を購入出来たのでしょうか
外国人(日本人ではない人)は官位を買う事が許されましたか 首相をはじめとする日本の閣僚はアメリカの後ろで太鼓を叩くことしか能がない。
アメリカの圧力に屈してきたのはこれまでの歴史を見れば一目瞭然である。
日本は、サンフランシスコ講和条約が発効されて主権を回復したといいながら、その後も米軍基地を押し付けられているし、日本はアメリカに対して、「ノー」とは言えない。
日米安保条約しかり、日米地位協定しかり、在日米軍駐留経費を日本の国税(血税)を使って負担する「思いやり予算」しかり。
日米安保条約には、「日本が在日米軍の駐留経費を負担する義務はない」と書かれているのに、日本は在日米軍の駐留経費を自国で負担するために年間2000億円も払っている。
「義務」ではないから、「思いやり予算」と揶揄されているわけだが、この事実は多くの日本国民がよく分かっていない。
これらを見れば、日本という国が「対米従属(対米隷属)」なのは明らかであり、いかに主体性のない国なのかがよく分かる。
日本はアメリカの「下請け国家」と言っても過言ではなく、主権国家(独立国家)としての体を成していない。 >>411
いや、幕府が朝廷に奏請する武士官職は定員なし(=重複可能)という制度が江戸時代初期に作られてる
幕府内の格式管理ルールで誰にどの官職を認めるかを決めてただけ
>>415
もうひとつ、関東のいくつかの国々は鎌倉時代に幕府の権限で国司を決めることができる枠があった。関東御分国っての。
だから幕府有力者の格式が高い人が国司だったんだけど、家康が頼朝を尊敬してて鎌倉時代の制度を尊んだ影響で江戸幕府の元では関東の国司の地位が実際の(朝廷内での)格式以上に尊ばれてたのではないかと 皆様懇切丁寧に教えて頂き有難うございます
東百官も百官名も初めて知りました 歴史というより時代物を読むのが好きなのですが「肥後め」とか「備中は怪しからん」とか出て来るたびにモヤモヤしてました
無銭乗車の符丁が薩摩守になったのは平忠度にちなんだ事だそうですが無銭乗車(籠?)はそんなに昔からあったのでしょうか?無銭乗車が問題になった時代では水野忠徳の方が有名な気がするのですが >>422
ちょっと、ちょっと、無賃乗車なんて鉄道ができてからのことですよ
近代になってからの人が、薩摩守忠度にちなんだ駄洒落を言っただけ
あと、姓名で呼ぶのは失礼だとしてはばかられる感覚は今でも一部残ってるでしょ
父母や上役を名前やら苗字で呼ばないよね 江戸時代の文章をみると御座候などと出てきますが
当時の人は変な言葉遣いだと思わなかったのでしょうか
口語でもなく古語でもない奇妙な文語です >>389
マジレスするとアテナや教皇による召集がない限りあそこ行かないぞ。 >>424
今はすたれてしまった書き方だから、今の感覚で変だと思ってるだけだろ
口語だとか古語だとかも今の学校教育でおせーてもらった概念で言ってるんだろう
近現代の口語文だとか、平安の昔に倣ったしっかりした古文を学校教育のなかった江戸時代の人に求めるのが酷というもんだ
彼らも一生懸命書いてたんだからその意を汲まないとしょうがねぇだろよ >>423
ええ そうなんです 鉄道が敷かれた後の話なら 平忠度より水野忠徳かなと思っただけです
平忠度は都落ちの際の歌を託すエピとか一ノ谷戦死の際のエピとか本当かどうかは別にして好きなキャラなんだけど
歴史に残した足跡や 鉄道が敷かれてからの期間から言えば水野の方がただのりとして有名だったんじゃないのかなと思い不思議に思っただけです 平忠度がただ乗りになったのは狂言とか歌舞伎とかなんかそんな演目があったのではなかったっけ 水野何某なんてのは歴史家じゃあるまいし知らないという人が多いと思うよ
庶民には源平合戦の芝居やら読み物の方がおなじみだ >>423
タダ乗りを薩摩守と言ったのは、遅くとも江戸時代にはもうあったよ 質問に無賃乗車とあったからね
江戸時代の駕籠や駄馬、船に車輪は無い
無賃乗「車」であれば近代の言葉
江戸以来の駄洒落を近代化したんだろう オレ大阪そだちだけど子どもの頃に見たのは大判焼きだけだったな。いまは回転焼きと御座候しか見ないけど 北方四島のうち、国後、択捉は日本の領土ではない。
その証拠に日本は第二次世界大戦で敗れた後、1951年にサンフランシスコ講和条約を締結したが、そのサンフランシスコ講和条約の条文に「千島列島を放棄する」と書かれている。
当時の吉田茂首相は、サンフランシスコ講和条約の受諾演説で「国後と択捉は千島南部」と発言しているし外務省の西村条約局長も国会で「国後と択捉は千島列島に含まれる」と発言している。
千島列島に含まれる国後と択捉は、当時の吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約に調印した時点で日本は放棄したことになる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 質問です。
山川の日本史教科書には
マッチなどが切符制、米は配給制と書かれていますが
ネットで調べると
配給制の具体的な方法として切符制や通帳制があるように思えます。
どのように理解したらいいのでしょうか? 配給を行う手法として配給切符や米穀通帳が在ったんざんしょ 滝口武者は位階でいうとどのくらいの者が担ったのでしょうか?
平将門は滝口から衛府の佐や尉への出世を望んだそうなので、それ以下のようですが 日本人は背が低いことで有名です
江戸時代の人たちは身長が140センチという話を聞いて驚きました
まるで土人のピグミー族のようです
食生活が貧しかったのでしょうが彼らは自らの食べ物の栄養価が低い事に気がつかなかったのでしょうか? >>442
令外でも中納言や参議、検非違使などは相当する位階がありますよね? 丁未の乱で大連=物部守屋が失脚した際には次の大連が任命されず大連が廃止されたのに、
大化の改新で大臣=蘇我蝦夷が失脚した際にはすぐ次の大臣が任命されて千年以上続いたのは、何故? >>443
西南戰爭の薩軍司令部は180とかが多かった >>443
食料事情の関係で前時代より身長の平均が低かったらしいとは言うな
逆に言えば、ヨーロッパだって近代化する前は身長の平均が近代以後の平均より低かったのではないかな 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 沖縄は1879年3月27日に日本の明治政府が軍隊を動員して併合するまで琉球王国という日本の主権が及ばない異国だった。
日本政府は領土問題でよく「日本固有の領土」という言い方をするが、国語辞典の大辞泉には「固有」とは「本来持っていること」「本来備わっていること」、「本来」とは「もともとそうであること」とあり、「領土」とは「国家の統治権が及ぶ区域」と記載されている。
国語辞典に記載されている言葉の定義をもとに考えると、沖縄は本来(もともと)日本の統治権が及ばない区域だったから日本固有の領土とは言えないことになる。
さらに言えば、その沖縄には尖閣諸島も含まれると説明する日本政府の理屈からすると、沖縄自体が日本固有の領土でないのは前述した通り歴史が証明しているわけだから尖閣諸島も日本固有の領土ではないということになる。 >>446
乙巳の変で蘇我入鹿が殺されたときに大臣制も終わっている
孝徳天皇の即位後に
左大臣・阿倍倉麻呂、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂
が任じられているのは蘇我氏が世襲していた大臣制とは別の新制度 臨済宗の京都五山や鎌倉五山の開山者には栄西(建仁寺)や蘭渓道隆(建長寺)、
無学祖元(円覚寺)、夢想疎石(天龍寺、相国寺)、など錚々たる歴史上の有名人が
揃っていますが、五山の更に上の「別格」として扱われた南禅寺の開山者は無関普門でさほど有名じゃないのはなぜですか?
南禅寺自体は有名ですし、格式も最高レベルだったのですから開山者の無関普門も有名になりそうなものですけれど・・ >>441
風と雲と虹とでは、従八位下に任官だった。 >>453
法皇による勅願寺であるところ、その格式五山の比にあらず
住職に無関普門を据ゑたるのみ >>456
それだと督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)の志になるから下っ端でもないなと思ったけど
滝口武者から右兵衛佐になりたかったけど少志どまりだったということか。 現代でも佐とか復活して欲しいですよね
1000万円で守を名乗れるなら出す人いるかもしれません >>458
言葉足らずでした
社会的ステータスとして1000万円ほど宮内庁に献金すると守や佐が名乗れるというような制度なら買う人いると思います
社長たるもの守でないと恥ずかしいとか社長的ステータスになれば相当なお金が集まるかと 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>459
皇室に売官させるのは如何かと
昔は食うや食わずで仕方なかった面があるが >>458
戦国時代の売官だって、官位発行の手数料がバカ高いのと格式が足りないときに追加手数料がかかるだけで、
無審査で何でも任命してた訳じゃないぞ
当時でも無茶な申請は却下してたしな
今風に言うなら、勲章の発行、つまり受勲の手数料を高くするのと
手数料を何倍か払ったら勲位をひとつ上げるのを導入するような感じと思いねえ
ところで、佐 の官位なら軍の大佐中佐少佐が現代の佐官ではないかな
復活するまでもない >>455
無関さんが積極的に開山したわけじゃないってこと? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >畿内人はむしろ特殊な日本人で、周辺群こそ平均的な日本人である(埴原和)
>関東出土の縄文人骨の多くは頑丈で、西日本出土の人骨は小さい(小片保)
>東日本では動物性食料資源の捕獲や調理のための道具が発達し、西日本では植物性食料資源を利用するための道具が多い(赤沢威)
>実は本州を縦断して巨大なトレンチが掘られているのである。それは新幹線と高速道路の工事である。その工事に引っかかった(縄文時代の)遺跡を数えても、
>東日本は西日本に比べて圧倒的に多いのだ(佐原真)
・第1、第2判別関数による府県を単位集団とする比較(男性)
近畿→身長の割に肩幅が狭く、頭長の割に顔高が大きい。
南九州→身長や顔高に比べて肩幅や頭長が大きく、がっしりとしている。
近畿人の特徴は朝鮮半島に現在住んでいる人々の特徴と概ね一致する
(『日本人はるかな旅』より、長野県看護大学教授の多賀谷昭先生)
比上肢長という体に対する腕の長さの比と足の長さの比をみると、アイヌ、東北人、畿内人の順に長い。
つまり、アイヌの人たちが一番腕や脚が長く、畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。
朝鮮半島の人々も畿内人と同じように腕や脚が比較的短いことがわかりました。
(松村博文・札幌医科大学教授・兵庫県出身) >>463
無関、積極なるか消極なるか知らず
唯、住職の法名高きを以て寺院を評点するは後世の人の爲すところ
開基の法皇将軍達在りて、豈、其の盡力を等閑視せむ哉 乙巳の変と大化の改新は別物なの?
大化の改新のなかの一つのできごとら乙巳の変があるの? 主にスポーツ用品などの研究や開発を手がけるクロステクノロジーラボ(福島県会津若松市)などは27日、
外部からの電気を利用せずに水を水素と酸素に分解する特殊な炭素素材を開発したと発表した。
この素材は貴金属を使わず、少量の炭素と負極になるアルミなどを用い、製造費用も抑えられるとしている。
同社は、スポーツ用品販売大手ゼビオホールディングスのグループ企業にあたる。 入鹿暗殺の変事の後、大化の改新と呼ばれる体制刷新と改革が行われた >>467
権力を独占する蘇我氏を排除する乙巳の変をきっかけに始まる一連の政治的改革の総称が大化の改新。
大政奉還と明治維新の関係と同じく別物だ。 >>471
改革の総称が大化の改新。大化の改新と乙巳の変は別物です。
>>472
佐村河内守とか居たね。 位階で従と下ばかりになってしまったのはなぜですか? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>475
誰のこと?将門のことなら、それは、官位相当と言うもの。 >>470 >>474
大化の改新という言葉自体、最近の教科書では使われていないんじゃなかったっけ
改新の詔自体が出されていなかった可能性が高いとかで
行われたのは蘇我宗家の排斥(これにより蘇我氏を外戚としない中大兄皇子が立太子)
のみであって蘇我入鹿の誅殺、蘇我蝦夷の自害による蘇我宗家の排斥のことを
乙巳の変と呼ぶようになった 改新の詔が作られたのは700年頃という鑑定が出てしまったからな >>478
誰というか戦国〜江戸時代あたりです
従五位下とか従四位下、従三位ばかりを目にします
ウィキで正四位を見ても鎌倉時代から明治まで誰も授与されていないようですし
何か正とか上を憚る風潮になったのでしょうか 位とか、そういうものは関係ない、
実際は、それ(位)以上の人物もいると書いてない?
五位でも八位・・・何でも良い、
超越しているとか 『自分で自分を褒めたい』
本当は、この言葉の元祖のような存在がいた・・・・
みたいな話
自作自演、自画自賛?? 某氏のところを読んでみた?
天帝より授かり・・・、
日神、日霊を降ろし・・・・・みたいな事が書いてあったり 『神階』
>中世以降は吉田家も〜〜〜〜〜〜神階を発行するようになった。
>当初は天皇の勅許の下に発行されていたが、
>のちに吉田家が独自に発行するようになった。
『聖化 日神 日霊 津』この人物は? >>481
国司大名の姉小路氏、北畠氏、江戸時代では、
水戸徳川家、越前松平家、彦根井伊氏、
加賀前田氏とかいっぱいいるだろ。 >>481
宮中武官の例にならい、大名に与える位階は從四位下、従五位下とされた
従三位は将軍嫡孫、御三家、御三卿、将軍家外戚としての加賀藩主など ウリスト教、ウリスト教だと言ってる人がいたり、
それとも他の話なのかな?
『百済 赤 平家』『聖徳太子 平家』『聖徳太子 ペルシャ』 >>489
ありがとうございます
徳川幕府がそう決めたからと言うことで良いですかね これも凄い話
ゾロアスター教、教徒というのがあるでしょ、
どう考えても日本人ではない人々ばかり
むかーし大陸のほうから渡ってきた人々がいて、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その後、当時の日本人?(実際は日本もないし、日本人はいなかったんだけど、)
と結婚している
どう見ても日本人にしか見えない・・・・・・んだけど、実際は ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 大化改新は教科書にのっています。
改新虚構論はほぼ崩壊しましたしね。
改新の詔もオリジナルのものがかなり改変されて日本書紀にのせられたというのが通説です。 浄土真宗の開祖は親鸞で有名ですし、その後低迷してた浄土真宗を盛り返して
信者数を増やした中興の祖である蓮如も有名です
曹洞宗の開祖は道元で有名ですし、その後低迷してた曹洞宗を盛り返して
信者数を増やした中興の祖である瑩山紹瑾は有名ではありません
一般的には全然知られていませんし、ちょっとした歴史好きの間でも知らない人はかなり多いと思います
この差は一体何なのでしょうか?瑩山紹瑾が「雇われ社長」的な存在ならいざ知らず、
実際にいろんな改革をしたり布教活動をして低迷していた曹洞宗を興隆させた人物であり、
曹洞宗では道元を「高祖」、瑩山紹瑾を「太祖」としており、両者をともに宗祖的な存在に位置づけているようです
また、瑩山紹瑾が行った曹洞宗の改革から日本の葬式仏教の原型が始まったとも言われており、
その意味で日本の仏教に与えた影響も非常に大きいものがあったと思われます
浄土真宗は日本最大の仏教宗派ですが、宗教法人単位で見た時は曹洞宗が日本最大であり、曹洞宗は巨大教団だと言えます
さまざまな史実からみて瑩山紹瑾がなぜこんなに有名でないのか不思議な気がします
どなたか何かしらの見解を聞かせて頂ければ幸いです >>497
実際のところ、蓮如が活動する前の浄土真宗は零細な宗派だった
親鸞に至っては、実在したかどうか、そのものすら疑われていたんだよ
架空の開祖と思われていたぐらいなんだ。本当の開祖は蓮如ではないか、とな。 言われてみればそうですね。
蓮如にはやはり東西本願寺合わせた巨大さと
一向一揆が大きな影響を与えたことがあるように思います。
宗派の祖以外の一般的知名度は高くはないでしょう。
平安以降の教科書レベルでは
円仁、円珍、源信、貞慶、明恵、忍性、叡尊、重源、日親、臨済の何人か、天海、隠元、良寛、黙雷くらいです。
確かにこのあたりと比べて瑩山紹瑾の知名度の低さは不思議な気がします。
覚鑁もそうなんでしょうけどね。 国家主権とは
1 国民および領土、領海、領空を統治する国家の権力。
2 国家が他国からの干渉を受けずに独自の意思決定を行う権利。
日本は他国(米国)から千渉され、自国の上空を自由に飛ベない空域がある。
例えば、東京の横田にラプコンという管制空域があるが、東京、埼玉、神奈川、静岡、山梨、群馬、栃木、長野、新潟の上空5000メートルまでは米軍の許可がなければ日本の民間機は通れないことになっている。
だから羽田空港から西ヘ飛び立つ飛行機はすべて千葉の房総半島の上空を通らなければならないし、西日本から羽田空港に着陸する飛行機も、その管制空域を避けなければならないから房総半島を迂回しなければならない。
国家の最高法規といわれる日本国憲法の上に米国から押し付けられた日米地位協定があるので、日本の首都圏上空は他国の軍隊が優先的に使用しているのが実態である。
これでは日本は完全に主権を回復したとはいえないどころか、日本は「アメリカの属国」あるいは「アメリカの下請け国家」そのものであるとさえいえる。 1979年5月31日付の読売新聞の社説に尖閣諸島の領土問題に関する興味深いことが書かれている。
当時の読売新聞の社説には尖閣諸島の領有権について日中両国による「棚上げ合意」が存在することが書かれていて、「これを順守するのが筋道である」とも書かれている。
その読売新聞が、2013年1月26日付の社説では次のように書いている。
「尖閣諸島は日本固有の領土であり、領土問題は存在しない。日本政府の立場を堅持することが肝要なのに、気がかりな点がある。
山口氏が訪中前、香港のテレビ局に対し『将来の知恵に任せることは一つの賢明な判断だ』と述べ、『棚上げ論』に言及したことだ。
山口氏は習氏らとの会談では触れなかったが、看過できない発言だ。棚上げ論は、中国の長年の主張である。
先に訪中した鳩山元首相は、尖閣諸島を『係争地だ』と述べた。領有権問題の存在を認めたことなどから、中国の主要紙が大きく取り上げた。中国に利用されていることが分からないのだろうか。
国益を忘れた言動は百害あって一利なしである」
このように読売新聞は、尖閣諸島の領土問題に関して「棚上げ合意が存在する」ことを1979年5月31日付の社説で主張していたにもかかわらず、
2013年1月26日付の社説では「尖閣諸島は日本固有の領土であり、領土問題は存在しない」と手のひらを返すような社論を展開している。
先日、読売新聞の読者センターに電話して、この矛盾を指摘してみたところ、読売新聞の社員は何一つ反論できなかった。 >>499
信長と戦った本願寺の顕如もかなり有名かと かくも浄土真宗の歴史については広く知られているのだが、曹洞宗の事など一般の者はろくに知らないものだ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >日本の葬式仏教の原型が始まったとも言われており
伝聞推量でなく史実認定されない限り無理ですねw
『源氏物語』の作者でなく藤原定家が有名でない点が怪しからんと言ってもねぇ と同じこと 歴史はさっぱり詳しく無くてここではROMか質問する側だけの私の曹洞宗のイメージは曹洞宗の中で完結してる感じかな
勿論布教もしてるんだろうし改革もして葬儀をする事で社会とも切れてる訳ではないのだろうけど
為政者に取り入って五山だ何だとハクを付けたり政治顧問になったり 逆に門徒を組織して為政者と対立したり和歌や作庭で名を売ったり外国から豆持ち込んだりとかしてなくて
教義以外での社会との接し方が薄い感じがする
それは禅宗の有り様として悪くない気もするけど只管打座なんだろうし 蓮如上人といえば加賀ですが
あの近辺は関西弁の強い地域ですよね
やはり京都との繋がりが深いのでしょうか
関東との繋がりの深い新潟の言葉が
関東弁の亜流なのと同じように感じられます 歴史文献が人気強化で多すぎて、5chでも近現代まで終わらないというようじゃ歴史
学習のバランスが悪いと思わない? 人気とは誰かが強化するものなのか
5ちゃんねるでは古代からすすんで近現代史まで修了することが義務化されているのか >>曹洞宗のイメージは曹洞宗の中で完結してる感じかな
案外こういうのが大きいのかもね かつて皇統が「大覚寺統」と「持明院統」に割れた時がありましたが、
現在の皇太子と秋篠宮の系統を「○○統」「○○統」って呼ぶことはできるのですか? 曹洞宗は恐山や秋葉三尺坊や大雄山みたいに
密教系かと思ったら曹洞宗という寺もあり
臨済宗とはカラーが全く違ってて興味深いです 曹洞宗は日本人の行動様式に影響を与えた点でかなりのものなのに、
なぜか空気のようなものになっているよな。
道元さんからして、下手をすれば業績が忘れ去られそうになっているからな。
自分のことは自分でやれとか、掃除をきちんとしろとか
道元さんが言い出したことなのにな。
アレかな、曹洞宗は宗教の規模の割りに観光名所が少ないし、
禅問答的なコントも臨済宗にとられているからな。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 曹洞宗は京都に本山を置いてなかったから垢抜けなかったんじゃないかな?
門跡寺院を1つか2つ持っとけば話は違っていただろう
明治維新のあと総持寺を東京近郊に移したのは経営判断として正しかったのかもしれない >>505
おっしゃるとおり西行を忘れてました。そう言えば慈円も忘れてましたね。
今どき吉田兼好という方もいらっしゃるのですね。
太原雪斎は臨済の何人かに含めても、というか教科書には出てこないですね。 こういう宗教ネタの専用スレってないのかな?
興味あるんだ 歴史的な宗教ネタは興味ある
歴史的にも大きな意味あるし 浄土真宗の本山だって戦国時代初期に焼き払われてから秀吉時代に本願寺(後の西本願寺)ができるまで何十年かは京都に本山をおいてなかったぞ
それに京都にあった旧本願寺が本山だった期間はわずかだ、事実上の開祖(要するに真宗本願寺派の開祖)である蓮如の時代に焼かれてるんだし、
蓮如の活動の大半がそれより以後のことだからな 日本の城で、自然の湿地に囲まれていて接近が困難な難攻な城ってあったの? 本を読んでいて、山県有朋に関する内容で「山県は国民の人気がなかった」という
趣旨を何度も読んだことがある
山県はそこまで国民の人気がなかったのか
現代でいえば誰に当たるのか
菅直人みたいな感じかな
鳩山もあれだったけど、「ルーピー」とか言ってネタにするには面白い総理だったし 領主の城だと政庁を兼ねてるから不便な場所に作ることが異常なんだよな
詰めの城とか、政庁ではない戦争用の城だと山上とか不便な場所に作ることもあるんだけど。てか、戦国時代の城として知られてるヤツの多くが山城だしなあ
湿地に囲まれてるような低地の城だと、備中高松城やら鳥取城などが水攻めされたような感じでの水攻めが強く懸念される気がする
実際に水攻めされたことで知られてる城が湿地にあったかどうかまでは知らないけど、普通の平地の城より以上に水攻めの危険が大きそうな気がする 趣旨を何度も読んだことがある
異常なんだよな
気がする
あったかどうかまでは知らないけど
そうな気がする
↑ 文盲かコイツ >>528
趣旨はオレのと違うぞ別人だ。似てるからとか言って一緒にするな 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>514
皇太子殿下の系統は断絶するのでありえません。
仮に雅子様に親王がお産まれになった場合は秋篠宮殿下の皇位継承はなくなります 多文化共生社会に天皇制は不要です
愛子天皇を最後に男系相続を終わらせれば右翼も納得して天皇制が終わると思います ぱよちょんにしてみたら天皇制廃止して欲しくて堪らんのだろうなw さすがにこのスレには右翼はいないだろうけど安倍政権の取り巻きの日本会議は右翼の巣窟 もれ(仮)が、
いないと言っているんだから、いないんだよ
テレビ、メディア〜マスコミ?、
ハッタリとか、そういうのばかりでしょ 「wwwwwwwwwwwwwwwwww」大爆笑という意味らしいんだけど
大爆笑だろうと言っているんだよ ぱよぱよちょーんはクリスマスもアベガーやってんの? 称徳天皇を最後に天武統が終わり,女系も継ながず,朝鮮の血筋を入れた天智統の桓武帝を参考にすれば
左翼も納得して天皇制を称讃すると思います 既得権益層、特権階級じゃない人で安倍政権を支持するのってパープーだろ 左翼はクリスマスを祝ってはいけません。ハッピーホリデーと言いなさい いい年して太鼓叩いたら政権変わると思ってるパヨさんw 大覚寺統の大覚寺とか持明院統の持明院って何ですか?
その系統の皇族がいらっしゃった寺院や御所の名前?
それともいらっしゃった土地の名前? >>542
現代と奈良時代の相似していますが
例えば女性皇族ばかり生まれる。仏教(道鏡・創価)が政治に対し強い。荘園(貧富の差)等々
次の平安(死刑存置・藤原氏全盛)の世の前触れになりますでしょうか? ローソクデモこそが至高
起源は半島だからロイヤリティを払えよ? 安倍陛下万歳、ボーナスアップ、株価上昇、貧乏人は貧しさをエンジョイしろ! >>549
大覚寺は真言宗大覚寺派大本山で時代劇の撮影によく使われる。元は嵯峨天皇の離宮だった。
鎌倉時代に後宇多法皇が再興し、ここで院政も行ったことから後宇多法皇の父亀山法皇の血統を
大覚寺統と呼ぶ。
持明院は鎮守府将軍藤原基頼が邸宅に建立した持仏堂に始まる。基頼の子通基は持明院を
拡充して安楽光院という寺院にし、家号を持明院とした。その邸宅は持明院殿と呼ばれる。
鎌倉時代の承久の乱の結果天皇になった後堀河天皇(10歳)は父守貞親王を太上天皇とし院政を
任せた。守貞親王は御高倉院と名乗り後堀河天皇の生母持明院棟子の実家である持明院殿で
院政を布き持明院宮と呼ばれた。守貞親王の系統が断絶した後も度々持明院統の御所となったので
持明院統と呼ぶ、らしい。 >>552
京都の大覚寺は知ってる
大覚寺統の大覚寺は京都の大覚寺から来てるの? >>554
サンクスです
自分の推測がだいたい合ってましたね >>532
優先順位が繰り下がるだけで継承権が消滅するわけじゃないでしょ
世襲宮家みたいな状態ではないの 熊襲も蝦夷も山岳民族じゃないと思う
日本で山岳民族が消滅したのはいつ頃?
なぜすぐに吸収されたの? 現在の皇統をあえて両統迭立風にいうと
千代田統と赤坂統みたいな感じ? >>558
差別されて社会的に排斥されて移住させられて
河原者などと呼ばれるようになった
強制的に同化を強いるこの島国の為政者のやり口は
昔から変わらない 両統迭立というのは、ふたつの皇統から交互に天皇を出すというものだ
つまり、仮に秋篠宮の子孫から天皇が出たあとで現皇太子の子孫からも天皇が出るという事態が起こらないかぎり迭立ではない
現行法のもとでは迭立は起こらないようになっているんだよ >>561
もちろんわかっていますが、仮に○○統って名付ける時に
現在ならどんな感じの名前が付くのかなってことです
住まいの場所でいうなら千代田統と赤坂統かなって 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>562
そうはならないという前提があるのにそんなことを考えてもしょうがないだろう。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 質問です
富岡製糸場は機織りまでやってたの?
それとも、あくまで糸をつくるまで? ちょっと教えて
近隣の神社の鳥居を計測して回りたい。
で柱幅などメジャー、直尺や差金で測れるものはよいのだけど、
高さや高いところの幅などはどうやって測るのが普通なのでしょうか。
レーザー距離計は安価なのはあるですがうまく測れません。ご存知の方がいましたらよろしくお願いします >>567
製糸場だから製糸までです。生糸は重要な輸出品になりました。 >>569
あ、やっぱりそうですよね
確認的な質問でしたが、どうもありがとうございました >>568
晴れた日に、自分と鳥居の影を測ればいんじゃねぃ?
自分の身長は知っているだろうから後は比を計算すれば良い。 >>571
当然に、宮司さん、氏子さん、行政担当課には伝えてあります。 >>572
ありがとうございます。やってみますね。
しかし意外と境内の地面は平でなく、大抵の参道は石敷きで他より数センチ高いです。
石仏など手が届く場合は直尺と差金2つで測っていますが、鳥居はレーザーで上面の高さが測れない。
そもそも鳥居はどこを測ればよいか。どなたか大学や博物館等で鳥居の調査をしたことがある方に、どこを測ったかとその理由をお聞きしたいです。 計測方法すら定まってないやつに計測許可出すんか
適当にも程があるな 鳥居なんて資金力で簡単に大きさ変わるのに、測って意味あるの? >>576
庚申塔や狛犬を調査したものは結構あるのだが、鳥居を調査したものが少なくてね‥。どうやって高さを測れば良いか専門家に聞こう思ってね ミリ単位の精度に拘るなら、ガラス製の尺を鳥居に沿わせて写真でも撮ったら? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>578
>>579
なるほど!そうします。
どのみち土面から測るのでmm単位までは要らないですが誤差は10mmぐらいまでにしたいです。
>>581
いまどきの狛犬はほとんど中国製と聞きます。まさか鳥居は石工さんの手作りでしょうから、作った人に聞くのはもっともな話しです。石工さんからさまざまな話しも聞けるかもしれませんね。
ただ石造物の測定や銘文読みや調査は、カードの作成という目的もありますが、調査を実施した人々の記憶・知識に残すというメリットもあります。
発掘調査を業者へ出してしまうことが多くなった昨今ですが、発掘を自分の手で行うことが報告書をさいごまで仕上げるモチベーションになっているのではないかと思うこともあります。 狛犬が中国産なんじゃなくて石材が中国産なんでは?
最近の石像はコンピュータ制御の機械彫りで
まったく同じものを量産できるらしいな 1950年代くらいまでは麦飯や雑穀は白米よりずっと安かったのに
いつから価格が逆転したの? 江戸時代旗本に源を名乗る家があったと何処かで聞いたことがあるんですがご存知の方いませんか?
本姓ではなく苗字としてです 白村江の戦いって負けるの前提でわざと派遣した戦争なのかね
だとしたら天智天皇は極悪人だな 日本史学における論点や説がまとまってる本が知りたいです。よろしくお願いします。 なんで大族の出てで大臣みたいな高位のものなに、蘇我蝦夷は蝦夷みたいな禍々しい名前なの?
外国なら、アフリカ遠征での凱旋記念で綽名されたスキピオ・アフリカヌスとか、
父親が敵将テムジン・ウゲに対して戦勝した記念で出征中に生まれた子につけたジンギスカンの幼名のテムジンとか、
あるけれど、蘇我氏は経済が持ち分で、軍事にはあんまり関わってなかったから、蝦夷征伐に出たりもしてないのに。 >>591
悪くて強いものの名をつけて、あやかった、厄除けにした、との説
実は蝦夷、入鹿は死後に中大兄により付けられてしまったものとの説
推測しかない 蝦夷の父は馬子だし現代人の感覚で考えてはいかん。
小野妹子だって男だぞ。 >>591
基本的に>>592さんの言うとおりだけど、それに追加で
時代が古くなればなるほど、本名は伝わりにくくなる。
蘇我入鹿や蝦夷の本名も周りの人はほとんどわからなかったのでは
ないかな? 現代でもほんの2代前(じいちゃんばあちゃん世代)で
田舎暮らしだとけっこう野生生物の名前つけた人(女性含む)多いぞ
生命力をもらうとかそんなのだろ(適当
現代人ですらなくごく狭い自分一匹の感覚でしか無い >>591
通しで並べると、稲・馬・蝦夷・鹿だね
蝦夷だけ少し毛色が違う気はする
けみょうとじつみょうみたいなもんだったんかな? この四人はじつみょうが伝わってないのでけみょうしかわからない、とか? 干支をつけた名前はかなり多いですし、鮪とか鯨もいます。
ネーミングセンスが違うとしかいいようがありません。
確か糞という名もあったと思います。魔物が近づかないよう祈りをこめた名とか。 >>595
失脚したとはいえ、さすがに大臣にまで上り詰めていて、名前が残らんなんてあるんかいな?
しかも、蘇我氏は大化の改新て入鹿が失脚して謀殺されたとはいえ大族で、直後に類縁の蘇我倉山田石川麻呂が大臣に任じられてる 山田は領地から来てる。のちの名字みたいなもん。蘇我の倉山田の石川麻呂と分解できる。
倉がどこから来るのかはわからんが親父も倉麻呂なんだよね。 >>601
>名字みたいなもん
苗字に直すのを忘れた。 人麻呂、清麻呂など男子の名をつくる接尾辞
元は身分の上下に関わりなく使われた一人称
元NHKアナウンサー登坂淳一の愛称 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 小野妹子の子が毛人、東大寺建立に活躍した佐伯今毛人
ともに「エミシ」と読み、後者は「今蝦夷」という表記もあるようです。
「蝦夷」は中大兄がつけた悪い名というのは
当時の名をちゃんと調べもしない、単なる思いつきではないでしょうか。
人麻呂が失脚して「猿」と改名されたという説もそうですが
先に申したように干支の動物を付けた名はいくらでもありますから。 旧暦7月の異称のうちの1つの相月(あいづき、しょうげつ、そうげつ)の由来を教えてください。
よろしくお願いします。 浄土真宗の開祖は親鸞、二世は孫、三世はひ孫ですが、親鸞の子供はどういう扱いなのでしょうか?
開祖や二世、三世などを決定付けたのは三世の覚如ですが、自分の爺ちゃんは飛ばしたのですか?
それとも何か妥当な理由があるのでしょうか? >>610
結構、間が抜けてますやん
親鸞@ −−善鸞ーー如信A
|
−覚信尼−−覚恵−−覚如B−−従覚−−善如C− 善鸞は布教で関東に下り邪教に染まって親鸞から義絶された。一緒に下った如信は陸奥国で布教を続けた。
親鸞の死後、親鸞の末娘覚信尼とその子覚恵は陸奥国の如信に大谷廟堂の法灯を継ぐことを要請した。
だから如信が二世ということになる。如信はその後も陸奥で活動を続けた。親鸞の祥月忌の為に上洛した時に
覚恵・覚如はともに親鸞の教えを学んだ。覚如にしてみたら父覚恵から教わったわけではない。 >>603
もうちょっと後の時代、聖武天皇の時代、藤原四兄弟公卿の四男は、麻呂 って名前だけど。 【日本の起源】韓国古墳から埴輪が出土。古代日本は韓国による征服王朝だったことが明らかに
https://www.recordchina.co.jp/b674700-s0-c30-d0144.html
2018年12月26日、韓国の東亜日報は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀頃)を代表する遺物、
人物埴輪(はにわ)が出土したと報じた。
人物埴輪の形は鳥取県で出土したものに類似しているといい、
発掘調査を行っている全羅南道文化観光財団の全羅南道文化財研究所は「古代日韓関係史の
研究における新たな契機になる」と評している。 >>610,612
浄土真宗が始まった頃の仏教界には世襲という概念はなくて、法門の継承は血統ではなく師匠から弟子というのが基本だった。
だから当初の浄土真宗では親鸞の後継者は子孫ではなく弟子であり、当初の浄土真宗の本流は高田派だったと思われる。
本願寺の原型は親鸞の墓所を祀る大谷廟堂で、当初は寺院という形態ではなかった模様。
大谷廟堂を寺院として確立させた覚如が親鸞を初代、如信を2代目として本願寺の門流を作り上げたことではじまってるが、氏がどのような考えから代を数えたのかはよく分からない。 >>614-615
韓国に日本の豪族も住んでたって事だろ
日本の埴輪に先行する古い時代じゃなくて平行するんだから、韓国から渡ってきたとか考えられないだろ 浄土真宗の教義では何故神道のお祭りが駄目で
クリスマスはOKなのでしょうか?
親鸞聖人がそう言い残したのでしょうか? 頼むべき本尊は阿弥陀一佛なりと云へども、先祖の廟所として神祇へ拝するを妨ぐるにもあらず
真宗寺院に於いてキリスト生誕祭を行ふ事なしと聞く
在家の門徒、固よりいい加減なれば知らず 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 結論として、浄土真宗開祖親鸞と中興の祖蓮如の二人は有名だが、
覚如の役割もかなり大きかったと思われるし、覚如の名前がもっと知れ渡って
いとも不思議ではないと思った
親鸞と蓮如は一般的にも有名だが、覚如は一般的には知られていないね
門徒だが、自分も最近まで知らなかった 浄土真宗を教団として成立させたのは覚如だと言えるかも 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>627
高田派の原型の方に真宗の教団がすでに成立してたでしょ? 覚如の後はみな◯如になっているから影響力はでかいね
真宗本願寺派だけかも知れんけどね 皇室の◯仁、浄土真宗の◯如、みたいな伝統って他にも何かありますか? >>632
蜷川新右衛門が蜷川虎三の先祖であることは有名。 左右両撃ちの二刀流で鳴らした武蔵もまた蜷川新右衛門の末裔であった >>634
そういうのは通字と言います。武家社会では偉い人の諱から一文字拝領することがあります。
これを偏諱(かたいみな)と言います。その場合、偏諱を下にするのは失礼なのでそれを上にして
通字を下にします。鎌倉時代の足利氏は代々北条得宗家から偏諱をもらって
通字の「氏」は下にしていた。毛利家も大内氏とかから偏諱をもらって通字の「元」は下にしていた。
興元とか隆元とか輝元とか。元就は次男だったから偏諱を貰うことがなかったので「元」が上にくる。
足利将軍家の義◯。初代の尊氏までは代々◯氏なんだけどね。
毛利家の◯元。一番有名な元就は次男なんで例外。
他にも伊達氏の「宗」とか、今川氏の「氏」とか武田氏の「信」とかいっぱいあります。 >>638
サンクスです
634の例では○の方が偏諱、仁や如が通字ってことですね 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>639
>634の例では○の方が偏諱
その例はどっちも偏諱じゃないです。皇族は一番偉いので誰かから貰うということは無いんじゃないかなぁ。
断言はできないけど。偏諱の例は例えば江戸幕府の四代将軍家綱から弟である綱吉へ「綱」。五代将軍綱吉から
紀州藩の庶子吉宗へ「吉」。これらの例では綱吉も吉宗も家を継ぐ立場じゃないし御三家は通字がないから綱吉の
「吉」も吉宗の「宗」も誰かが選んだものです。 兄弟と言っても主従関係でもあるから、あるじたる家綱から臣である綱吉へ、だったのでは。
綱吉から吉宗の方は確実に主従関係ですよね
元就も興元の弟ではあるけど家臣として偏諱「元」をあたえられてたのでは?
朝倉氏も当主だけ二文字目が景でそれ以外の一門衆は一文字目が景ですけど、これも偏諱として与えられてたんじゃないの?
今川氏親の氏は伊勢長氏が烏帽子親になったことに起因するもので元々の通字ではなかったと思います >>642
>兄弟と言っても主従関係でもあるから、あるじたる家綱から臣である綱吉へ、だったのでは。
あ、もちろんその通りです。その他もご指摘通りかと思います。 1943年にエジプトのカイロで行われたカイロ会談でアメリカのルーズベルト大統領は蒋介石に対して「琉球を返す」と約束しているが、第二次世界大戦の敗戦国である日本が受諾したポツダム宣言第8条には「カイロ宣言の条項は履行されるべき。
又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に極限されなければならない」と書かれている。日本は「カイロ宣言の条項は履行されるべき」と書かれているポツダム宣言を受け入れているし、
そのポツダム宣言第8条には「日本の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に極限されなければならない」と書かれていて「日本の主権は沖縄にも及ぶ」とは書かれていない。
戦後、アメリカが日本に返したのは施政権であって、ポツダム宣言を見てもわかるようにアメリカをはじめとする連合国は沖縄に対する日本の領有権を認めていなかった。
この事実が証明しているように沖縄にはいまだに日本の主権が及んでいないことが分かる。 >>641
将軍家は一番偉いので誰かから貰うということは出来無くなり
新しく?通字を上にして下の字を偏諱用に使ったんじゃないかなぁ?
>>645
中華民国総統・陳水扁は、インタビューの中で中華人民共和国がカイロ宣言を根拠に台湾の領有を主張していることに対して、同宣言は
・時間と日付が記されていない
・3首脳のいずれも署名がなく、事後による追認もなく、授権もない
・そもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎない
と発言している 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>646
徳川将軍家の通字は家で、綱吉と吉宗と慶喜は通字を使ってないね。秀忠もか、四人かな >>646
徳川将軍家の通字は「家」です。家康の前は清康・広忠だから家康にちなんでます。秀忠・綱吉・吉宗・慶喜は例外です。
綱吉と吉宗は前に書いた通り。慶喜はああいう状況での急な継承だったので。秀忠は秀吉から貰った偏諱です。
「忠」は祖父広忠から採ったと言われてます。豊臣と敵対した時に改名しても良さそうなものだけどそうはしなかった。
ちなみに秀忠の兄結城秀康の「秀」も同じく秀吉からです。 >>634のようなケースに何か専門的な名前って付いてるのですか? >>650
いや。そこから改名しなかった理由だよ。将軍職就任に絡んで改名した例が6代家宣。綱吉の弟で
ライバルに当たる綱重の子で元は家綱の偏諱をもらって綱豊と名乗っていた。紆余曲折の末に綱吉が
後継に決めたので家宣に改めた。それと14代家茂。この人も元は家慶からもらって徳川慶福だったけど
家定の後継と決まって家茂と改めた。
綱吉は元々将軍家光の子だから家綱に何かあれば自分が継ぐと思ってただろうから改名しないのも
不思議はない。吉宗は綱吉を敬愛していたので改名しなかったとされている。 >>652
将軍になったときの年令じゃないの?
後継となったときの年令が高い(元服からあとの年数が多い)と改名しないとか? >>657
綱豊が将軍世子として西の丸に入り家宣と改名した時が43歳で、将軍就任の時が48歳だからそれはない。
将軍在任3年で死んだ。 そもそも前将軍がすでに亡くなってるとか
危篤状態とかで偏諱もらえなかったんじゃないの?(鼻ホジ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 すみません。改めてお願いします。
曾祖父の代に苗字が変わっている家系です。
丁稚奉公先の苗字に変わっていますが、養子になったり丁稚先の娘と婚姻してはいません。
この時代は苗字を替えるのは自由だったのでしょうか? >>662
何年頃でしょうか?
明治の苗字必称義務令で名乗りを許されたとか勝手に名乗ったとか?
そんな昔ではない? この時代とはどの時代なのか
養子縁組をしていないとどうして断言できるのか 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>659
家宣は実父が徳川綱重だし、養父は5代将軍・徳川綱吉で
実父も養父も「家」の文字はつかず
祖父の3代将軍家光、叔父の4代将軍家綱はすでに死亡しており
偏諱を与える者はいなかったが綱豊から家宣に改名している >>668
徳川将軍で「家」が付かないのは4人いる
将軍になったら「家」が付く名前にする必要はないが
将軍になったときに「家」が付く名に改名した者は2人いる(家宣、家茂)
このうち家茂は将軍家定の死後養子のため
(建前上、生前に養子入りしたことにしている
養父にならったとすることもできるが
家茂の場合、実父も養父も家がつかない 669の最終行を訂正
>家茂の場合、実父も養父も家がつかない
家宣の場合、実父も養父も家がつかない だから「家」は通字だろ
家宣が綱豊のままなら、徳川将軍の諱から永遠に「家」はつかなくなる >>646
1870年代まで琉球はどこの国にも属していなかった。
その証拠に1873年に日本と清国の間で琉球の帰属問題が話し合われている。
明治政府の副島種臣外務卿が北京に出向いて琉球の帰属問題について清国と交渉していたという歴史的事実があるのが動かぬ証拠。
1879年の明治政府による琉球併合まで沖縄の前身である琉球が日本の領土でなかったことは紛れもない事実である。
よってその琉球を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。
http://ryukyushimpo....mn/entry-473512.html じゃあ今まで受け取った日本国の税金を全部返金してもらおうか ちなみに当時の琉球人は日本に併合してくれとは頼んでない。 沖縄に多い名字ベスト10
1位 比嘉
2位 金城
3位 大城
4位 宮城
5位 上原
6位 新垣
7位 島袋
8位 宮里
9位 玉城
10位 知念
沖縄で一番多い名字は比嘉。
沖縄で比嘉という名字はどこの学校にもクラスに3人ぐらいはいるし、一学年で20人ぐらいいる。
金城という名字も比嘉と同じぐらい多い。
新垣、島袋、宮里、玉城、知念なども一学年に5人以上はいる。
一方、佐藤、斉藤、伊藤、加藤、遠藤、後藤、工藤、藤田、藤井、藤本、藤野、藤原、藤川のような日本本土に多い名字は本土からの移住者、転勤族、あるいは改姓組や結婚して名字が変わった人などを除いて沖縄には一人もいない。
沖縄は琉球王国時代、日本の主権が及ばない独立国であり、藤原氏の影響も受けていないので名字に「藤」が入る人はいない。 昭和40年代〜50年代前半、沖縄返還の前後、本土に働きに出てくる人が急増していた時分に、
結構な数の琉球風の苗字を和風なものに変更する申し出が家裁に出されて、かなりの割合で認められていた。
明治のときの琉球処分・本土編入の際には、姓とか名乗頭を姓にする例が多かったけれど、家名や大和名乗とかで
和風の苗字を使っていたというと、割合すんなりと、通ったという。 19世紀後半まで沖縄には日本文化の影響はほとんどなかった。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 今は戸籍上の名前を変えるのはかなり難しいからな。
養子縁組とか結婚以外では、お坊さんになるのが一番手っ取り
ばやいな。 沖縄はもともと琉球王国が統治していたから日本固有の領土ではない。 >>681
>今は戸籍上の名前を変えるのはかなり難しいからな。
でも代々江川太郎左衛門を名乗っているなんて場合は変更できるらしい。
この前TVで戸籍も変えるんですと言ってる人がいたよ。 名を変えるのではない
質問は姓が変わったとある
これはできぬことだぞ >>678を受けてのレスかと思ったらそっちかい。
そっちは質問者が投げっぱなしでいなくなっちゃったからなぁ。 院政が始まっても摂家は残り
五家に分裂しても幕末まで存続できたのはなぜですか?
鷹司家は2度も断絶の危機を乗り越えてて特異に見えます 日本政府は明らかに沖縄領有権論争から逃げている。
それは法的根拠が曖昧であり万が一論争に敗北したときは沖縄施政権を喪失するからである。
仮に論争の決着が着かなくとも論争が沖縄市民の政治的意識を高め独立運動につながるからだ。
元来南国的で愚昧な能天気さ持っている沖縄市民を如何に啓発していくかが今後の政治運動の課題となる。
日本的エスノセントリズムの打破は日本人の根拠なき文化的優越心を挫くことから始まる。
封建主義と人権軽視とマイノリティに対する無意味な差別に確実に勝利するため、市民は力を合わせて現政権を打倒していかねばならない。
市民が政府に対して声を上げることが重要だ。
ネトウヨの妨害に負けず沖縄で戦う市民への側面擁護を粛粛と進めていくべきであろう。 >>687
摂家の存続を望む人が多かったから残ったんだろ >>678
沖縄戦で戸籍原本、別の所に保管していた戸籍副本、共に焼けてしまった例がある
聞き取り、申し出により戸籍を再製するしかなく、そのときに比嘉から青山、内田、吉田、広山、吉村などに改姓した地域はあるんだが >>687
摂関政治から院政への移行は蘇我蝦夷・入鹿親子を排除した時のようなクーデターによるものではなく
摂関家を外戚としない後三条天皇と白河天皇が即位したことによる。外戚ではないので関白であっても
天皇に強い影響力を持てなかった。そこで白河天皇は摂関家を外戚としない堀川天皇に早めに譲位して
上皇として政治的影響力を残すことにした。そんな感じで平和裡に摂関家の力が弱められて行ったので
もはや摂関家は除くべき敵ではなくなった。そうなると「昨日の敵は今日の友」、摂関家も朝廷をともに
維持運営していく仲間となるわけです。 >>682
うそぉん。17世紀の頭から鹿児島・島津藩の支藩だったじゃん。
藩王の世子は鹿児島に抑留。
鹿児島から遣わされた島津の家来が常駐して、砂糖の栽培から移出から、明国清国へ挨拶で持っていく手土産の品目や数量から指定して返礼でもらってきた土産の接収から、
明国清国との交易で売ってくるもの買ってくるものから、一々、指示してたじゃん。 琉球王尚寧が島津家久に連行されて江戸に上って謁見しとるやないか
ホンマにチョンは歴史知らんな >>690
それもあるけれど、アメリカ占領期の沖縄出身者の扱いが、自国民扱いだったり、定住外国人扱いだったり、中途半端だった。
定住外国人→帰化の扱いで、当時の指針に、日本社会に順応しやすい氏を名乗らせるというものがあって、琉球風・唐風の苗字から
鹿児島以北にありふれた苗字への変更を自ら申し出ると、割と簡単に認められていた。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>694
帰化であれば確かに、どこの国からの人であろうと、極く一般的な日本風の姓にさせていたものだった
今は欧米風の姓でもそれをカタカナという日本文字にするだけでOKとなっているが Mike Havenaarというオランダ人(日本生まれ日本育ち)は帰化して、ハーフナー マイクとしてサッカー日本代表になった 帰化は、日本戸籍を新製するのだから姓名も新しく定めることができる
アメリカ施政権下の沖縄から本土へ来た人はなぜかそういう理由で新しい姓となった人があるのだろう
(戦災による戸籍再製の人も別にある)
そういうことでなくて、元々日本人扱いなのに姓を変えるのは余程特別な場合でないとできるものではない
色魔(しかま)という姓の人が改姓を認められたとかは聞いたことがあるが
ドイツではヒトラーという姓の人は戦後改姓してしまったとか
Durumpfというドイツ人がアメリカに移民で渡った際には、姓を英語に翻訳してトランプにした 翻訳といえば日本語のローマ字表記のヘボン式のヘボンとオードリー・ヘップバーンのヘップバーンは同じらしいな。 >>692
この人は通称「沖縄くん」といい、歴史についても国際法についても全く無知なうえ、日本語能力も極めて怪しいです。
反論されてもほとんど再反論できずに逃亡し、ほとぼりが冷めると、同じことを書きます。
反論しても無駄ですし、放置してください。 院政が始まった頃には摂関家側にも事情があって政治責任を十分に分担できないから院政を歓迎してたんだろ
のち、摂関家で内紛っぽい争いがあって当主と仲が悪い関白忠通が保元の乱で天皇方だったことで摂関家当主が敗退し、領地の一部削減や氏長者の任命権を失ったことなど、乱の戦後処理によって摂関家の力が削減されている
さらに、治承寿永の内乱(要するに鎌倉幕府の始まり)の過程で摂関家の分裂が勃発して更に弱体化してる
平和的に弱体化しただけではなく、戦乱の影響が少なくない >>692
琉球王国の誕生=1429年
島津の琉球侵攻=1609年
島津が琉球王国を侵攻する180年も前から琉球王国は存在していた。
だからその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土ではない。
残念でした。 >>693
琉球史を知らないのはヤマトゥンチュ。
島津による琉球侵攻から180年も前から琉球王国があったことを知らないんじゃ琉球史を語る資格はない。 日本政府にとって触れられたくない不都合な真実
日本政府による琉球併合=1879年
日本政府による沖縄県設置=1879年
日本政府による尖閣諸島の沖縄県への編入=1895年
この時系列を見れば明らかで、明治政府は琉球を併合して沖縄県を設置しなければ、「尖閣諸島は日本の領土」と主張できなかった。
なぜなら琉球王国は日本の主権が及ばない独立国だったから。 日本政府は1879年3月27日に軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合しているから安倍内閣の閣僚は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。
事実、歴代内閣で「沖縄は日本固有の領土」と発言した閣僚は一人もいない。
もし仮にそのような発言をする閣僚が現れたら、「ではなぜ沖縄の前身である琉球王国を武力併合したのか?」と追及されて、その閣僚は我々沖縄県民に謝罪しなければならず、対応次第では辞任に追い込まれることになる。 琉球王国が独立国だったことは日本政府が認めている。
その証拠に沖縄県のホームページには「かつての沖縄は、琉球国王の治める独立国であり」 と書かれているが、日本政府はこれに対して沖縄県に一度も抗議したことがない。
琉球王国が独立国でなかったなら日本政府は沖縄県に抗議するはずだが、一度も抗議したことがないということは日本政府が沖縄県の主張を認めている証拠である。
よってその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。 日本政府は沖縄人を日本民族と決めつけているが、これには民族学的根拠は何一つない。
日本政府が琉球民族に関する研究や調査を行った事実もない。
そもそも民族の帰属に関する問題は日本政府の専権事項ではない。
民族の帰属問題が日本政府の専権事項だというなら憲法13条で保障されている「幸福追求権」の一部とされる自己決定権を日本政府自らが侵していることになる。
しかも政治家は民族学者ではないから民族学に関しては素人である。
民族学の素人である政治家が民族問題を語ったところで何ら説得力はない。
それどころか日本政府は「民族」の定義、あるいは「日本民族」の定義すら説明できない。
にもかかわらず沖縄人を日本民族と決めつけているから実に滑稽極まりない。
日本政府が「沖縄人は先住民族」と決めた国連の勧告を受け入れたくないのは、民族差別を理由に基地問題を追及されることを恐れているからである。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. なぜ、「水戸黄門」御一行は、沖縄へ行かなかったか?
【佐藤優VS飯島勲】救国対談!飯島勲「リーダーの掟」特別編(2)
佐藤 今、沖縄では基地問題というレベルじゃなくなってきていて、日本からの分離独立を訴える人が出てきています。
時代劇の「水戸黄門」は、日本中旅行していますけど、沖縄にだけは一度も行っていないんです。
当時の沖縄の人は「この紋所が目に入らぬか」って印籠を出しても三つ葉葵の紋を知らないし、琉球空手の達人が助さん、格さんに負けるわけがないからドラマの筋が成り立たない(笑)。
これだけなら笑い話なんですが、一方で沖縄には江戸の権力、京都の朝廷、つまり天皇の権威が通じないということ、日本の政府への帰属意識がなかったという意味でもあります。
だから、基地問題で差別されているという感覚が強まると分離独立へ向かう危険性が出てくる。
実際、東シナ海のガス田を中国と分け合うような形を取れば不可能じゃない。
(プレジデント 2011年8.29号より)
上に引用したのはプレジデント2011年8月29日号での佐藤優氏と飯島勲氏の対談だが、当時の沖縄の人たちが日本政府への帰属意識がなく、沖縄には天皇の権威が通じなかったことが、水戸黄門の笑い話を例に挙げて面白おかしく解説されている。
権力や権威に媚びないウチナーンチュならではの話を沖縄出身の母親を持つ佐藤優氏がユーモアたっぷりに語ってくれた。
まさに、あっぱれ! 日本は1952年4月28日にアメリカから主権を回復したことになっているが、実は、日本の主権回復は沖縄をアメリカに差し出すことが条件だった。
サンフランシスコ講和会議で、吉田茂首相が沖縄をアメリカに譲渡することに同意している。
<サンフランシスコ講和条約第3条>
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、
孀婦(そふ)岩の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。
条文に明記された領域について、将来的に国連信託統治制度(国連憲章第12章)の対象としアメリカの施政権下に置くという提案があった場合には、領土権を有する日本はこの提案に同意する。この場合には、国連憲章第79条により、信託統治協定と総会の承認を必要とする。 薩摩は琉球がアメリカ、フランス、オランダと結んだ国際条約の締結に介入できなかったし、阻止することもできなかった。
徳川幕府もしかり。
欧米諸国が琉球と国際条約を結んだという事実は欧米諸国が琉球が主権国家で外交権を有していることを認めていたから。
もちろん外交権を有していた琉球が薩摩の領土であったわけがなく、徳川幕府の領土であったわけでもない。
アメリカ議会が1855年3月9日に琉米修好条約を批准し、同日、第14代大統領のフランクリン・ピアースが同条約の批准を公布して琉球王国を独立国と認めているのがその証拠である。
よってその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。 「固有の領土」という言葉は国家の政治的主張にすぎないから日本政府に「沖縄が日本固有の領土であるという法的根拠を示せるか?」と質問してもだれも答えられない。
もちろん首相も官房長官も外務大臣も防衛大臣も答えられない。
国際法に固有の領土に関する条文など存在しないから日本政府の閣僚が、沖縄は日本固有の領土であると主張できる法的根拠を示せるわけがない。 約20万年前にアフリカで誕生した原生人類が日本に渡ったのは約3万8000年前とされている。
日本列島や琉球諸島に渡ってきた人類は大きく分けて以下の3つのルートがある。
1.朝鮮半島から対馬を通り九州へ渡った「対馬ルート」
2.台湾から南西諸島を北上する「沖縄ルート」
3.ユーラシア大陸の北側からサハリンを経由する「北海道ルート」
本土の日本人は朝鮮半島から渡った「対馬ルート」が大半で、南の台湾から南西諸島を北上してきた沖縄人とは明らかに民族が異なる。 外務省の説明によると、日本が併合した地域は日本固有の領土に含まれないとのこと。
日本が併合した地域が日本固有の領土に含まれるなら、かつて日本が併合した朝鮮半島は日本固有の領土ということになるから、さすがに外務省はこの点は否定している。
事実、日本政府は「朝鮮半島は日本固有の領土」と主張していない。
沖縄も琉球王国時代に日本が併合した地域だから日本政府は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。 以上の沖縄くんの主張は全て論破されています。
皆さん信用しないでください。相手にもしないでください。 頭蓋計測8項目に基づく縄文人からのマハラノビス距離
朝鮮15.8 畿内10.2 九州9.7 関東7.6 東北6.1 沖縄3.7 アイヌ2.8 日本政府は「沖縄県の尖閣諸島は日本固有の領土」と言うが、なぜか「沖縄は日本固有の領土」とは言わない。
日本政府は過去に一度も「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがない。
日本政府がなぜ「沖縄は日本固有の領土」と言えないかというと、沖縄はかつて琉球王国という日本の主権(統治権)が及ばない異国(独立国)だったから。
皮肉なことに沖縄が日本固有の領土でないことは1879年に日本政府が軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで日本政府自らが証明してしまった。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 明治政府が一方的に琉球王国を解体して琉球藩にしたのは1872年のこと。
その時点で琉球は外務省の管轄下に置かれていた。
その後、1873年に内務省ができ、翌年の1874年に琉球は内務省に移管されたというのが歴史的事実。
一時的にせよ外務省の管轄下にあったのは琉球だけで、その他の諸藩は当時、大蔵省の管轄下にあった。
1871年の廃藩置県で明治政府が琉球にだけ廃藩置県ができなかったのは、当時の琉球は藩どころか日本の領土ですらなかったから。
1872年に明治政府が廃藩置県とは真逆に琉球を藩に変えたのは、後々、「琉球にだけ廃藩置県をやっていないじゃないか!」と国内外から追及されることを恐れていたから。
つまり、明治政府が行った琉球藩設置というのは国家の統治機構の改変という実質的な意味はなく、形式的な変更にすぎなかったというのが歴史の真実である。
沖縄が日本固有の領土でないことは沖縄の前身である琉球王国に日本の統治権が及んでいなかったことで証明されている。 以上、沖縄くんの妄言コピペでした。
皆さん、無視してください。 「固有の領土」という言葉は国家の政治的主張にすぎないから日本政府に「沖縄が日本固有の領土であるという法的根拠を示せるか?」と質問してもだれも答えられない。
もちろん首相も官房長官も外務大臣も防衛大臣も答えられない。
国際法に固有の領土に関する条文など存在しないから日本政府の閣僚が、沖縄は日本固有の領土であると主張できる法的根拠を示せるわけがない。 ヤクザ史とか風俗営業史って
なんで教科書に載ってないの?
(´・ω・`) 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本政府は「尖閣諸島に領土問題は存在しない」と主張しているが、その一方で日本政府は「東京や京都、大阪などを日本固有の領土と言わないのは東京や京都、大阪には領土問題が存在しないから」とも説明している。
東京や京都、大阪には領土問題が存在しないから、それらの地域を「日本固有の領土」と言わないというのなら、「尖閣諸島に領土問題は存在しない」と主張する日本政府が「尖閣諸島は日本固有の領土」と主張するのは明らかに矛盾している。 じゃあ、お薬を出しておきますね。
はい、次の方〜。 ふ〜い 随分待たされたワイ
あの、先生‥
九州は熊襲、隼人のクニ
出雲や吉備もヤマトとは敵対しておりました
東日本は蝦夷の天下
ですから到底、ヤマトンチュウの固有の領土とは言えません もっと遡れば、日本列島は縄文人のものでした
近畿の政権とは何ですか、ありゃ全く渡来人の風貌をしております
列島の隅っこの方には縄文人の形質が残っているようですが
そういうトーホグの秋田美人だとか、沖縄の濃い顔、ここらへんが縄文人の正統
日本列島固有の民族です
‥‥センセ、お薬お願いします 今、志村けんのバカ殿見ているけど昔の殿様はほんとうに顔を真っ白にしてたの? 馬鹿殿って具体的に誰のイメージなんだろ?
戦国大名?守護大名?江戸時代の藩主?
天皇?公卿?
でも天皇や公卿に殿は変だから、やっぱり大名か藩主かな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 馬鹿殿
参勤交代しない
城持ち、天守あり
妻子なし
取り潰しだな 志村けんのコントだろ
実録モデル小説みたいに考えることねーべ
天皇だとか‥おま‥アーニ考えてだか >>732
前田藩、黒田藩、
江戸時代には多かった、長い期間だったからどの藩もいる
戦国時代だと周囲に攻められて滅亡 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>737
戦国時代だと、滅ぼされる前に家臣が追放する
滅ぶまで当主を続けるのはバカ殿ではない。
もっとましな人材が容易に得られるようなバカではないから代役を見つけられない >>736
藩主だろうなとは思ってたけど、志村の公家言葉や
白塗りお歯黒はかなり公家っぽいやん 江戸に入っても御家取りつぶしになりそうな殿様なら家臣による「主君押し込め」はあった
家臣皆が禄を失うような案件には自衛の力が働く
倒産必至なら社長を取り換えるようなもの
主君を隠居部屋に押し込めて次の殿様を擁立する
志村けんはスターだからそんな目には合わないが 馬鹿殿と見なされる基準は現代のものとは大違いだけどな
家臣の奏上を全部認可して、「そうせい」と言うのが常だからと「そうせい侯」と呼ばれた藩主は、現代視点なら馬鹿殿って事になるが、当時としては平均より良い君主だしな
むしろ自分から率先して動く君主の方が問題視されがち。 元寇ってなんで防塁が厳重な北九州にのみ上陸しようとしたのですか?
東北と九州からの挟撃や九州にしても南や西から上陸させて防衛線の裏を突くとかできなかったのでしょうか? 元寇の時代にそんな詳細な地図があって
軍隊配置が予想できたと思う? >>744
船を作ることも含めて航海担当は高麗なので北九州行きの実績しかないので
東北は無理です。渤海あたりは秋田城に来てるけど。
>>741
>前田か黒田が有望なのか
前田利常は幕府から加賀百万石を守るためにうつけを演じていたと言われている。
バカ殿ではない。 白塗りはバカ殿メイクっぽいけど、江戸時代の大名なら白塗りする事もありそう
今じゃお稚児行列に参加する時ぐらいかもしれんが >>745
地図が無いところを攻めてみょうと思った理由が知りたいな? バカ殿様のイメージを真面目に考察すると桶狭間の戦いで信長に殺された今川義元が京文化に
ズッポリ染まって白粉にお歯黒の能無しとしてイメージされてきたのがそのまま反映されたものと思う。
近年は義元が能無しで敗れるべくして敗れたのではなく、たまたま運が悪くて頓死したとみなされているので
今川義元がバカ殿と思うのは間違いだがな。義元の息子氏真も父の仇を取ることもなく蹴鞠ばかりで
家を滅ぼしたからバカ殿といえばバカ殿だな。ついでに思い出したけど中国地方の大大名大内義隆も
前半生は名君だったが尼子氏との決戦に敗れて養嗣子晴持を失ってからは文弱して「束帯姿で牛車に
乗るなど貴族趣味を持っていたと言われる。」ということなので白粉も塗ってたかもしれない。結局義隆は
家臣の陶晴賢のクーデターで殺された。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>748
”詳細”な地図はないが
三国の昔から東の島国に何やら勇ましい民族が居ることはわかってる >>749
近年ってわけではなく、昔から今川義元は「東海一の弓取り」「駿遠三の太守」などと評価されてる 古い地図だと日本は九州から南へ南へと陸地が伸びてゆくように描かれるのが目立つ
これだとこんにちの東北地方を攻めようとすれば南洋の方まで回りこまなきゃならないな 元寇の頃には貿易もかなり頻繁に行われて特産品も把握してるし
日本を攻めるメリットも当然あったんだろう >>749
その氏真だって、「こんな馬鹿殿を上に置いてたら滅亡する、追い出してマシな党首を立てようぜ」と考える家臣がでない程度にはマトモだったんだぞ
逃げ出した家来衆は多いけどさ
逃げたヤツの多くは外様で普代は逃げるヤツは少なかっただろ(追放の主体は普代が普通で外様は関与しないからか?) >>755
あの時点では今川は既に風前の灯で氏真を替えてももどうにもならんから沈みかけた船から
逃げ出す鼠のよろしくみんな逃げ出したと思うけど。ただね、俺は、バカ殿といえばバカ殿だけど
最後まで生き延びたことは評価してる。 日本政府は140年前の1879年3月27日に琉球王国を武力併合しているから安倍内閣の閣僚は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。
仮にそのような発言をする閣僚が現れたら、「ではなぜ沖縄の前身である琉球王国を武力併合したのか?」と追及されて、その閣僚は沖縄県民に謝罪しなければならず、対応次第では辞任に追い込まれることになる。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>746
確かに対馬 壱岐と経由しないとたどり着かないレベルの航海技術では無理そうですね >>744
日本は山が多い、
海岸線が平野部のところでないと上陸してもだれもいないし、食料も調達できない
岩場だと接岸もできない 今の上陸作戦でも、大軍を一斉に上陸させられるところは限られているから、
大抵は強襲上陸を想定して海兵隊を組織しているからな。
奇襲上陸がうまくいったのは朝鮮戦争の時の仁川上陸作戦くらいじゃないの? >>762
オマハビーチでは危うく負けそうになっただろう?
大抵上陸する場所は読まれているからな。 資料不足で答えが出るわけないから、それを良いことにしていつまでもグダグダ言って居られる >>764
邪馬台国ネタは江戸時代から続く伝統産業になっているからww
これで儲けている奴は結構いるしなww このスレでもしばしば話題になりますが
「武士の起源」を論じる前提として「武士」の定義って学会ではどのように定めてるんでしょうか?
例えば以下の人々は武士とされるんでしょうか?
坂上田村麻呂:
藤原利仁:
平高望の子ら:
平将門:
源満仲:
或いはこれらの子孫で誰もがガチ武士認定されてる最初の人があれば教えて下さい そこまでご存知ならわざわざこんな所でお尋ねにならなくても… 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>769
浅学なりに知ってる名前を上げてみただけでアホかと思われるのは承知なんですが、
この手の議論に興味はあれどもついてけなくて・・・学会や歴史学博士らの認識を教えてほしいです <武士の起源>
〇平安貴族が一族の者を自らを護る警護兵とし、武官として任官させた者、およびその子孫
平家や源氏は天皇家の警護兵
〇地方の墾田地主から豪族化し、中央貴族と結びつき任官した者
〇地方鎮撫のため下った貴族が土着したもの ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 そもそも今宣伝されている武士道は新渡戸稲造が徳川時代後期の
極端な事例を集めて作ったほら話に
限りなく近いからな。
ただ徳川時代後期には新渡戸稲造の話みたいなことを真面目にやろうとした
人がかなりいたのは間違いない。
またそれが格好良いと考える人が大勢いたのも間違いはない。 琉球舞踊は日本固有の舞踊ではない。
その証拠に琉球舞踊は日本の主権が及ばなかった琉球王国時代に琉球で行われていた舞踊であって、当時の日本では誰一人として琉球舞踊を踊る人はいなかった。
このように琉球舞踊が日本固有の舞踊でないことは歴史が証明している。 >>772
>平家や源氏は天皇家の警護兵
清和源氏の初代源経基は武蔵介として関東に下り色々あった末に平将門が謀反を企てたと訴えた。
実際には冤罪だったがのちに将門が本当に謀反を起こして成敗された後で功績があったとみなされて
出征の糸口とした。二代満仲は武将として名高いが摂関家と結んで勢力を伸ばた。こんな感じで
天皇家の警護兵ではないです。
平氏の方もいくつもある平氏の中で武家になったのは高望王の子孫だけ。高望王は上総介として
関東に下りそのまま現地に残って子供達を関東各地に入植させて平氏の地盤とした。高望王の
三男平良将の子が平将門です。将門は若い時に京に上って滝口武者を務め、検非違使の佐に
なりたかったけどなれなかった。これも天皇家の警護兵ではないです。 >>778
それと摂関家は自分を守る武力として多田満仲のような武将と結びついたわけだから
一族の者を武士にしたというのも違います。 平氏は檀ノ浦で滅亡したとありますが、滅亡の定義は何なのでしょう?
桓武天皇の血を引く武士団が平氏ですが、あの戦いで傍系も含めて全部死んだのですか?
何をもって滅亡と見なすのでしょう? 壇ノ浦で滅亡したのは平氏じゃなく「平家」だと思う
より正確には平安末期に源平藤橘をまんま名乗る奴がどんどん少なくなって
その中で依怙地に平家名乗りしてた輩が全滅したというか「処分」されたというか
ちなみに滅亡したのは桓武平氏の傍流・伊勢平氏な、桓武平氏全部が全滅したわけじゃない
桓武平氏の血脈自体は何よりも北条氏(坂東平氏)の方に思いっきり残ってるわけで
源氏名乗りも頼朝・実朝以降一気に減ったし(なお足利氏や新田氏)
源平藤橘の名前をまんま名乗れた時代の最後の徒花だったって感じかな
仮に伊勢平氏に生き残りが多少あったとしても、いずれは別の苗字に変えてたと思う >>782
数ある平氏の中で清盛とその仲間たちを特に平家と呼びます。壇ノ浦で滅んだのはこの平家です。
「平家にあらずば人にあらず」と言った平時忠は清盛の嫁の弟で平姓だけど清盛の家とは別の平氏です。
つまり清盛と同じ血筋だけでなくその仲間も平家一門というわけです。この平家は壇ノ浦で滅んだけど
清盛の弟頼盛は頼朝に降参して生き延びました。だから全滅したわけではありません。滅んだというのは
政治を動かすような勢力としては滅んだということです。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 日本人と沖縄人は異人種であり異民族である。
その証拠に生粋の沖縄人で日本人に多い鈴木、佐藤、斉藤、伊藤、加藤、渡辺、山本、田中、高橋といった名字の人は一人もいない。
逆に、生粋の日本人で沖縄人に多い比嘉、具志堅、渡嘉敷、瑞慶覧、久手堅、護得久、志堅原、和宇慶、阿波根といった名字の人は一人もいない。 畿内人と朝鮮半島の人々は北方アジア的な寒冷地適応型の体の特徴を持っている。沖縄とアイヌの人は似ている。それから東北人はアイヌに近い特徴を示す。
松村博文・札幌医科大学教授 白村江の戦いのあとの唐って本当に九州を占領してたの? >>791
日本書紀に667年唐の将軍が熊津都督府の日本人捕虜を筑紫都督府へ連れてきた、という記事がある。
熊津都督府は唐が旧百済に設置した。都督府は中国の役所だから筑紫都督府をそのままに受け取れば
唐が北九州に置いたと考えられる。そう考える人は唐が九州を支配していた証拠と言うだろう。
しかし唐や新羅の記録に筑紫都督府が出てこないのでそういう事実はなかったと考えられる。
書紀の筑紫都督府は軍政機関の唐名として太宰府の前身をみやびに表現したものと解釈して、要は
半島にあった熊津都督府から太宰府(の前身)へ送ってきたという事である、と思われる。であれば唐が
九州を支配していたという事実はなかったと思われます。
ちなみに日本で唐名を美称として使う例には水戸黄門の黄門とか平相国(平清盛)とか「宰相殿の空弁当」で
有名な毛利宰相とかいっぱいあります。皇太子を東宮と呼ぶのもそうだな。例に挙げたのは官職ばかりだけど。 散々既出でしょうが教えてください。
「国造」は、
「クニノミヤツコ」なのですか、それとも
「クニノミヤッコ」なのですか?
「国の宮つ子」
「国の御奴」
ググっても良くわかりませぬ。 ミヤツコですがそれをどう解釈すべきかはわかりません。wikipediaには「御奴」または「御家つ子」の
意味とされると書いてあるけど。 >>794
ありがとうございます。
年来の疑問でした。 なぜ家康は関ヶ原後に上杉家を滅ぼさなかったのですか? >>793
こくぞうって読む場合もあるけど、あれは何や? 何やって、音読みやろ
支那語の発音読み
日本語に訳して言えば、みやつこ >>799
「日本」と書いてヤマトと読むこともあればニホンと読む場合もあるのと同じ。
つまり大和言葉と単純に訓読みしたのとの差。 数年前、皇族が嫁いだ時はほぼ出雲国造をいずもこくぞうって読んでたと思う 日本は第2次世界大戦で敗れたにもかかわらず、日本政府はこの結果を認めず「北方領土を返せ」とロシアに主張している。
しかし、日本政府のこの主張は無効である。
その証拠に旧敵国条項とされる国連憲章107条には「第2次大戦の結果は変更できない」と記されていて、日本は国連憲章に署名し、批准したわけだから、いまさら「北方領土を返せ」と主張するのは間違っている。 >>801
沖縄では日本のことを「ヤマト(大和)」と呼ぶ人が多い。
日本人のことを「ヤマトゥンチュ(大和人)」とも呼ぶ。
一方で、沖縄では自分たちのことを「ウチナーンチュ(沖縄人)」と言う。
ウチナーンチュ(沖縄人)はエスニックアイデンティティーにおいてヤマトゥンチュ(日本人)とは違うと思っている人が多いからこのように区別している。
また、沖縄では東京の政府のことを今でも「日本政府」と呼ぶ人が多い。
なぜかというと、1972年まで沖縄には琉球政府があって、当時のウチナーンチュ(沖縄人)にとって政府といえば琉球政府のことで、東京の「日本政府」と区別していたから。
その名残からか今でも沖縄では50代後半の世代を中心に「日本政府」と呼ぶ人が多い。 >>807
奄美諸島、沖縄諸島、小笠原諸島は返還されたよ >>809
奄美諸島、沖縄諸島、小笠原諸島の返還は施政権の返還であって領土の返還ではない。 >>804
読み方が分からない古語は便宜的に音読みする習慣はあるな
前近代のかな表記では小さい文字を使わないから、読み方は分かりにくい
みやつこ がミヤツコなのかミヤッコなのか、はたまたミャツコなりミャッコなのか調べるのは困難だろう 質問です
1万人とかそのぐらいの中から1人きめる
その1人が100人かあつまって、1万人の後援者は無視して勝手に何をどう考えてどう結論出したかは内緒のまま
いろんな物事を決定とかしちゃう。公にはできない軍事秘密も全部この100人のみがしってるが後援者1万人は知らない
実際に正しいことをやってるかどうかすらよくわからんというレベル
暴走もなんでも可能
みたいな現状の議会の仕組みのことを何て言ってますか? >>813
衆愚政かな。なんで日本史板で訊くのか判らんが。 衆愚制とはちょっと違うと思う
バカな政治家選んでめちゃくちゃやりまくる意味合いだと思う
全部の世界が共通して同じ現象だからそれとまた違うでしょ 代表者を選ぶという間接民主制の仕組みで政治家の仕事の内容の評価がないで放置するのは衆愚政で間違いなかろう。 >>812
まつげ(目つ毛)、かみつけ(上毛 こうづけ 上野)、しもつけ(下毛 下野)、などの言葉を知らないのか >>811
千島、歯舞。色丹も施政権だけでも返してよ >>816
これだと衆愚政が間接民主制の一種みたいだから訂正。代表者の行為を評価する仕組みがないのは
そういう仕組みを求めない大衆も含めて衆愚と呼ばざるを得んだろう。質問者が「現状の議会「と言ってるのが
どこの議会なのか判らんが。 代議制だろう。今の議会が多かれ少なかれそうだ(日本のも含め)
完全秘密は能力次第 >>817
古語は読み方が分からないから音読みする、のではなくて、古語の内読み方が分からない物は音読みで代用せざるをえない
その3点はどれも反証になってない 元寇ってなんで海の先の日本まで攻めてきたんですか?
南宋と交易してたといっても同盟国じゃないしそれくらいで攻め込むほどの理由になる? >>825
樺太にも兵1万を派遣して征服しているぐらいだからな
領土欲が強いと単純に考えた方が納得がいく 秋月俊幸の津軽海峡を封鎖した異国船ってタイトルの著書で文化露寇の時に松前道広がロシアに寝返ったというデマがあったって書いてあるけどそもそもこの時の松前家は梁川に転封されてたのになんでそんなデマが流れたの? 平安期辺りに関東や東北に荘園管理等で派遣された武士達は左遷だったのでしょうか? >>830
基地外によると中国人がいたwという話だよ、
それが先住民で・・・・誰々に討伐されたとか お前たちの話を聞いている(読んでいる)と
大爆笑なんだよ 基地外、池沼の創作w
中華(日本の先住民だという設定)が住んでいて・・・、
そこに・・・・。 また『ドクター・ゲロ』?
漫画やアニメ、ゲーム(超時空設定)の話? 脳(ドクター・ゲロ)のような神がいるでしょ、
それが討伐命令を出し・・・という話みたいだよ
中華(日本の先住民)を倒したとか なぜ、そんなに詳しいんだ?と言われても・・・
たしか、そういう話(創作)じゃなかった?
中華=日本の先住民
それと脳のような神などがいて・・・中華(日本の先住民)を討伐??
何やらみたいな 王仁(中華)さんが〜何やら〜と言ってる人もいたでしょ、
ドクター・ゲロ(脳などの系統)に討伐されたとか オモイカネ?の系統がいて、
ワニ(中華)さんなどを倒すみたいな話じゃなかった? これがインターネットは出てこないので
お願いします
888あなたの1票は無駄になりました2018/04/06(金) 12:40:55.83ID:qlwbCUCb0
>>・845
応天門の変の時、門柱の根元に埋められてた物は何? どらごんぼーる?
主人公のような人々(中華)も日本の先住民、
あとワニさん(中華)なども日本の先住民・・・・、 wikiで良いから読んでみて、この辺りw
『オモイカネ』(高皇産霊尊の子とされる)〜『アマテラス』 wikiで良いから『アマテラス』掲載されている画
どらごんぼーるの主人公のような人物がいたりしない?
先住民という話でしょ? >>829
荘園は私有地なので左遷か否かという議論にならない
気に入らない奴を遠ざけたりダメな奴を出世コースから外した、という意味で左遷を捉えるなら事情は様々でしょうが、
荘官になって財力を持ち評価を上げた者もあるだろうし、喜ぶ人も多かったのでは >>829
あと任命する方だってちゃんと管理してもらわないと収入が減ったり、誰かに取られたり、領民と紛争起こしたりしてして面倒なことになるから、期待をもって任命してると思うけどね あの‥‥ホントにすぐ答えてもらえたんで、
調子に乗ってもう一問。
エロネタのつもりではありませんので、
あらかじめ。
現代のように、石鹸が普及していなかった
江戸期などは、男性は女性をクンニリングス
したのでしょうか? 臭気的にキツいのではと
思います。
浮世絵(春画)でも、自分が見た限りでは、
そういう図には当たりませんでした。
こういう性技は、やはり歴史的に新しいのか、
どなたか知見はありませんか。 隠語大辞典
【あひなめ】
相舐。男女互にその陰部を舐め合ふこと。 >>851
「その結果噂が噂を呼んで情報の乏しい本土では、松前藩の前藩主道広がロシア側に寝返って蝦夷地が
ロシア人に占領され、箱館奉行羽太もロシア人の捕虜になったというデマさえ流布したほどであった。」
何故かというと十分な情報が無いからいい加減なデマが流れる。そういうデマを流す方も信じる方も
幕府が蝦夷地を直轄にしたとか知らんわけだ。 >>853
ちなみにモリソン号事件に当たって不十分な情報をもとに幕府の対応を非難した高野長英と渡辺崋山は
蛮社の獄を招いた。知識人ですらそうなんだから一般人はなおさらだ。 >>850
そういやそうですね
洗ってないのは
キツそうだが
真面目な議論の中に放り込んですいません
(ふざけてるつもりではないです) 0075 おさかなくわえた名無しさん 2019/01/18 23:47:55
朝廷と幕府が並存してて、朝廷には天皇に上皇、摂政関白のどちらかがいて、
幕府には将軍に執権、ついでに得宗なんてものまでいた鎌倉時代って
日本の長い歴史の中でも異質な時代だったと思う
権力構造が一番複雑な時代じゃないですか? >>803
でもそもそも関が原の発端は上杉討伐じゃないですか? >>859
上杉討伐という餌で石田三成に味方する諸大名を除くことが出来て最早徳川の天下が
見えてんだから降参して味方になる上杉だの毛利だのを滅ぼす必要は無くなった。
忠犬にして使った方が役に立つ。実際大坂の陣では上杉が活躍してるでしょ。 あの頃はまだ三成倒してもまだ豊臣は健在
加藤福島も三成憎しで味方になってくれたけど次は分からない
島津は?毛利は?
上杉を討伐すれば明日は我が身と思う大名も出てくるだろう
さらにいざ戦になれば小牧長久手みたいなことが逆に起きるかもしれない
なのでまず上杉を許し戦争状態を終わらすのが上策だったのではないだろうか そもそも関ヶ原の戦場で活躍した大名の多くが豊臣恩顧の大名だったこともあって主犯は三成で豊臣家は関係ないとの体裁をとらざるを得なかったのが徳川にとって逆境 三成の目論見は兼続経由で上杉動かして数年間関東でどんちゃかさせて、その間家康の影響力を殺ぐことだったんで……。
上杉がサクッと和平を飲んで、慌てた三成側が反徳川集めても1日で撃破されて(余りに慌てすぎで、集めた中に小早川のような親徳川も混じってたり)、
戦後も「石田治部や大谷刑部らの暴走、上杉や豊臣恩顧はそそのかされただけ」という体裁を整える必要があったから……。
それでも上杉に対しては4分の1までがっつり減封、越後・会津放逐の上米沢へ、という部分で、それ以上はオーバーキルでむしろ反感買う可能性あったっしょ。 なるほど
みなさんご意見ありがとうございました
上杉にはまあ適当な処置はしたということなんですね >>864
上杉を滅ぼすとなればそれなりの時間もかかるから家康としては自分の寿命も心配になるしねぇ。 >>863
家康も短期決戦を望んではいたものの関ヶ原で決戦する予定ではなく、
もう少し長く戦い続けるつもりでいたみたいで、
その本戦に間に合うようにスケジュールたてて秀忠に徳川家の本軍を率いさせてたら、
家康のもとにいた豊富恩顧の反三成大名らが奮闘しすぎて関ヶ原で決戦を急がざるを得なくなったんだよな
予定外の早期決戦のせいで徳川本軍が未着で活躍できなかった 福島池田黒田ら東軍先発隊は軍監である本多井伊(及び家康)に逐一指示を仰いで行動しており
岐阜城攻めもその指示で行われていて想定外の事態は発生してない いわゆる権力構造や政府機構が一番複雑だった時代は鎌倉中期頃じゃないですか?
朝廷と幕府が併存し、朝廷には天皇がいて、天皇の権力を代行する上皇がいたり、
天皇権力の代行や補佐をする摂政や関白のどちらかがいた
幕府には天皇から政権を委任された(形式上の)将軍がいて、その将軍を補佐する
実権者たる執権がいて、執権の人事を握る北条家家督者の得宗がいた
ややこしすぎる >>867
横だが
>>866にレスを付けているのかな?
>>866が書いているのは、主君「押込」の構造等の著者が関ケ原関連で四半世紀言い続けていることだよ。
誰も明確に否定していないことを枝葉末節で否定できるというなら、興味があるから君の主張をここで開陳してくれないだろうか。
もちろん、著書を読んで論者の意図を正確に把握したうえでね。
>>867だけだと、話が全く噛み合っていない。 思えば鳥居元忠を殺した島津も家康は許してるんだよね
大名を潰すって大変だったんだね 薩摩みたいな僻地にこだわる必要がなかったからな
時間と労力の無駄 沖縄はもともと琉球王国が統治していた場所だから日本固有の領土ではない。 家康の出馬延期を聞かされた福島らが家康家臣と相談のうえ岐阜攻撃を開始したこととか、
27日?に岐阜落城を聞いた家康が江戸を出立したのはさらに3日後の9月1日なこととか、
「そっちに行くまで待ってろ」と家康に言われた諸将がぴたりと進軍を止めたこととかかな ・初代琉球国王は源氏。つまり神武天皇の男系子孫
・沖縄島民は縄文人のDNAを持っている。つまり日本人 まあ縄文人は大陸から来てるわけで結局沖縄人は大陸由来ということに まあ日本列島は大陸から分かれてるわけで結局日本列島は大陸由来ということに 古代中世社会の年号は文献から当てはめたものだから、
本当にその時間があったかどうかは怪しくないですか?
西暦を基準に捉えたとしても、飛鳥天平時代とかは4、50年ズレてるかもしれないし
てか、西暦も本当に今2019年かどうかも怪しくないですか?
(´・ω・`) 文献とは言っても、その年号のついた各種文書も残ってるし、多くの文書で干支も併記されてるから、たいていのは問題ない
さすがに、逸年号はたいてい紛い物だけどな 誰かが書いた文献を当てはめるのでは当てにならない
神の預言を記したものである聖書にはかなわない
聖書研究では神による天地創造は6000年前である
キリスト生誕からは2019年である
間違いない 西暦も飛ばされてずれたりはしてない。
元年とキリスト生誕年がずれてるだけ >>881
>てか、西暦も本当に今2019年かどうかも怪しくないですか?
西暦は昔の人がキリストの生まれた年と想定した年を基準として決定された。今では4年ずれてると
考えられているが既に出来上がっている西暦の枠組みを変更することはしないから今年が西暦2019年で
あることは揺るぎない。キリストが生まれたのは紀元前4年とされてるけどね。それだって確実ではないので
そのうちあれは間違いだったということになるかもしれない。
摂氏という温度の単位は水の凝固点を0度同じく水の沸点を100度として決められた。これを使っていろんな
研究をしたら理論上-273.15℃で全ての物質が凍りつくという結果が出た。これを絶対零度として摂氏の
基準点をずらしたのが絶対温度である。絶対温度で言うと水の凝固点は273.15度であり水の沸点は
373.15度となる。摂氏と絶対温度は基準点が違うだけ。ちなみに絶対温度の単位はケルビン(K)を使う。
西暦もそういうことだ。 キリストと絶対零度は実在しますか?(理論上の話ではなくて) キリストという呼び名はあとからつけられたもので生前の名前ではないが、実在人物。
絶対零度は、物質として存在するわけではないとはいえ、実態のある存在。空想上の概念ではなく、実態がある 太陽を中心とした日本列島の温度の微妙すぎる分布図自体が謎すぎるのに
(気流などに原因を当てはめてるけど)
地球規模、宇宙規模だと不可解すぎる温度バランス図出来上がってしまいそう いや簡単に言うと温度を下げるにはより低い温度の物で冷却する必要があるけど絶対零度より低い温度は存在しないから
絶対零度を実現することはできない。できたと思った瞬間に周りから熱が移動してきて絶対零度ではなくなるから。
だから絶対零度は理論上の概念です。 >>888
神の子が実在するとか心の病を疑うレベルだな,君は。 いや彼が言ってるのはあくまでのちにキリストと呼ばれたナザレ人イエスの実在でしょ。
イエスが神の子か狂信者かは別として。 小保方女史は実在視されていますがSTAP細胞はありますか? 金ヶ崎の退き口の後朝倉浅井連合は信長を京に抑えつけたまま美濃侵攻って出来なかったものなの?
将軍義昭とももう対立してた頃だよね。 >>897
信長が敦賀に侵攻したのが4月25日で、京に到着したのが4月30日岐阜に戻ったのが5月9日というから
”京に押さえつけておく”なんてことは到底出来てないだろう。朝倉義景は1568年に嫡男阿君丸が死んで
政治に関心をなくしたと言われている。金ヶ崎の2年前だな。 絶対零度。
温度は、物質の熱振動をもとにして規定されているので、下限が存在する。それは、熱振動(原子の振動)が小さくなり、エネルギーが最低になった状態である。
この時に決まる下限温度が絶対零度である。古典力学では、エネルギーが最低の状態とは、原子の振動が完全に止まった状態である。
ただし量子力学では、不確定性原理のため、原子の振動が止まることはなく、エネルギーが最低の状態でも零点振動をしている。
熱力学第三法則によれば、ある温度(0 Kよりも大きい温度)をもった物質を、有限回の操作で絶対零度に移行させることはできない。 大軍動かすにゃ大義名分必要だしな。
ましてや幕府のために(一応)動いている信長を一方的に敵にするこたできめぇ。
そもそも、信長からして若狭守護の武田元明を助ける名目で越前に入ったので、
むしろそれで信長を京に縛り付けたら、今度は朝倉の不忠が真正面から問われる。
そうでなくても将軍義昭と朝倉の仲は最悪だったのだし。信長と以上に仲悪かった筈。 俺が朝倉だったら将軍でも誰にでも書状書きまくるけどな
だってじっとしてたら確実に織田が来るんだし 信長は将軍の奉公衆を吸収した、明智光秀もその中の1人だったと聞きました
が、それはどういう流れで吸収したのでしょうか?
義昭の命令?ヘッドハンティング?奉公衆が自ずから?
またどれくらいの規模でそこから織田軍団内で出世した人は(明智以外で)いますか? 四大公害病についてなのですが、
水俣病と新潟水俣病の原因はメチル水銀とのこと。
メチル水銀を取り扱う工場が、チッソ水俣工場と、昭和電工鹿瀬工場だけとは思えないのですが、
なぜこの2か所で極めて深刻な水銀汚染が発生したのでしょうか?
他の水銀を取り扱う工場はどうやって被害発生を防いだのか?
なぜ、この二つの工場だけ水銀を垂れ流したのか?
それこそチッソや昭和電工だって工場はここだけではないはずなのに。
同様にイタイイタイ病の原因は神岡鉱山から産出される閃亜鉛鉱に含まれるカドミウムとのこと。
閃亜鉛鉱を産出している鉱山は他にもあるのに、なぜこの流域に深刻なカドミウム汚染が
発生したのでしょうか?
他の鉱山と神岡鉱山とでは何が違ったのでしょうか? 海外で、祖先を調べる遺伝子検査やって結果が来たんだけど、
私の常染色体の内訳が日本人93%、韓国人3.8%、モンゴル人0.9%、中国人0.3%、その他2%だった。
検査が正確なら、1600〜1700年代に朝鮮人との混血があったようなんだが、鎖国中に朝鮮人と交わる機会はあったんだろうか?
モンゴルとも交流なんてありましたか? 慶長の役のあたりでたくさん連れ帰ったのと混血したのかもね
モンゴルは元寇の時に帰れなかった人が残留しててもおかしくないのでは? >>906
明智は細川の家来
細川は将軍に近いので明智も自然と将軍に接触
将軍が織田と関わるようになると、パイプ役になる
そこで織田に見込まれて引き抜かれる
大体こういう流れかと
まあ引き抜くと言うのは実態であって、建前としては将軍の家臣同士力を合わせて頑張ろうね、
みたいな感じだったのでは >>909
ああ、元寇を忘れていた。
その可能性はありますね。
朝鮮出兵で朝鮮人を連れ帰ったというのは初めて知ったが、混血した可能性はありますね。
完全な日本人だと思ってたので残念です。 豊臣家の蔵入り地ってどうして無くなったんでしょう?
和泉、摂津、河内以外の豊臣家直轄領というと各大名の
領地に「蔵入り地」なるものが設定されてて、例えば三十万石の
大名だと八万石くらいが蔵入れ地になってたみたいです。
関ヶ原後の論功行賞で蔵入れ地がなんとなく廃止されて
しまったみたいですが、どうして廃止されたんでしょう? >>912
天皇も若干朝鮮人なので気にしないでいいですよ >>912
その時に日本に来た人はみんな溶け込んで日本人化してると思います。磁器の製法をもたらした李参平とか
赤穂浪士武林唯七の祖父の孟二寛とか。孟二寛は孟子の子孫だそうですよ。 つまり日本人と言うのは中国と朝鮮の混合物なんですよ >>913
家康が東軍諸大名への恩賞として配ったからです。家康は名目上豊臣家に代わって
反逆者を討伐したので恩賞は豊臣の領地から配るのは当然でしょう。実際のところは
豊臣の財力を奪わないと自分が天下を治めることができないからですが。 >>916
元気づけられますね。
孟二寛の血が入ってたらええなぁ。
モンゴルに関しては元寇のときに先祖が強姦でもされたんじゃないかと思いますわw >>908
>日本人93%
この日本人って何だ
日本人もどこかからやってきた人達が混じり合ってるもんだろう >>920
そう言われればたしかにな、、
俺はjapanese、korean、mongolianというのを日本語訳しただけだよ
どんな基準で分けてるのかは分からんが。 江戸時代末の各藩借金は、明治政府、明治地方政府は踏み倒したの? >>921
1万年くらい前から列島に住んでる色んな人種の遺伝子をjapaneseで総称してるんだよ 1万年くらい前には韓国どころか無人だった朝鮮半島に遺伝子があるん?
「中国」は鮮卑・蒙古・突厥・満洲の色んな人種だけど >>923
1万年前よりもずっと後の弥生時代には、大陸からの血が大量に入ってきている
それはどうなるのよ >>922
その通り藩との借金で明治政府とは関係ないというスタンス 日本列島の遺伝子の由来がどうこういうのは島国で複雑でないからだろう
イギリスもノルマンの征服後、富裕層はノルマンばかりになってしまったが庶民はケルト、ドイツ系で
それほど複雑でない
マダガスカルがどうなのはよく知らない
朝鮮半島は北と西から北方や中国系、南から日本系が流入しているから遺伝子は無茶苦茶なはず
中国もあちこち四方八方から流入して遺伝子は複雑だろ
インドは流入してくる場所がアフガンとの峠だけだから複雑でない、日本と似ているかも ノルマンとケルトとドイツ系がいるのに、なんで「それほど複雑でない」なんだ?
しかもケルトの前にはストーンヘンジを作った正体不明の民族がいた
インドはインダス文明の民族と、その後に入ってきたアーリア系がいる
それに南インドのドラヴィタ系。彼らはインダス文明の民族とのつながりを願っているようだが
「複雑」と「複雑でない」に二分したい単純思考の持ち主プププw まあモンゴル人にレイプされたということだろう
0.9%というのが絶妙だな 武家官位って名目上の任命権者って天皇ですよね?
江戸城で将軍から
「恐れ多くも帝からそなたを○○守に任ずるという勅が下った、謹んで受けよ」みたいな感じで任命されたの? 日本列島に古くから居た人達、縄文人と呼ばれる人達はアイヌだとか沖縄なんかに特徴的な濃い顔の人達だった
しかし、今は中国、朝鮮、満州、モンゴルなどのしょうゆ顔と呼ばれる人達とそっくりの顔は日本に多い
これくらい弥生時代以降の混血は大きい
海を越えてどしどし流入してきている
それに、もともとの縄文人にしても、もっと古い時代に、樺太やら半島やらからやってきたモンゴロイド発生以前の古いアジア人だ
もともと、現生人類はアフリカから出て世界中に移動、拡散してきたんだから、動き回るのが基本
どこか島国で最初から人類が居たわけではない
普通、今の日本人のDNAを調べるというと、アジアの広い範囲の人達の型が出てくる
華南から台湾、フィリピン、ポリネシアに及ぶ南方の人達
中国、朝鮮、満州、蒙古、チベット、シベリア方面の人達
これらのどこらへんと似ているかを調べる
調べるといろいろ混合はしているけれど、まぁこの人はこっちの型が優勢かなどとするのが普通 沖縄は縄文人から弥生人へ進化できず停滞した。だから沖縄史では縄文時代から鎌倉時代(源為朝子による建国)へ飛ぶ
アイヌは征服民族。後からやってきた第二弾(北方から同じ弾)とでも言うべきもの >>911
明智は元々、美濃の土岐氏の分家
光秀が若かった頃に攻め滅ぼされて流浪してて、義昭が越前にいた頃に仕官した。
義昭に仕えようとした頃に、義昭に随伴してた細川藤孝に斡旋を頼んだときにはじめて細川と接触したんじゃないの。
藤孝は泉州の守護してた細川氏支流の家系(ただし、実子ではなく養子)なんで、義昭との接点はあったけど明智との接点はなかったと思う >>922
版籍奉還の代価みたいな感じで借金を政府で引き受けたはず
ただし、大幅に棒引きして返したはず
なんせ引き受けた借金の総額が政府の年間予算で何年分とか言うレベル
>>930
幕府が朝廷に申し込んだ場合以外は任命できなかったはず
逆に幕府から申し入れた分は拒否することなく任命するのが普通 >>937
後醍醐天皇は公家中心の古い体制に戻そうとした。尊氏は自分を支持する武士たちが武士中心の体制を
望む声に答える必要があった。武士の世である鎌倉時代を経て武士たちが公家中心の世なんて我慢できる
わけがない。 足利高氏は後醍醐天皇をなぜ叛逆後も慕っていたのでしょうか?
当時武家と公家の区別はあったのでしょうか >>940
逆に聞くけど慕ってたの?それと武家と公家の区別がなかったとどうして思うの? お前が質問してどうすんだよw
それと護良や北畠は公家か >>942
護良親王は皇族で北畠顕家は公家だろう。戦国時代の北畠・一条・姉小路は公家大名と括られてる。 憲法の一条に
「天皇の地位は『国民の総意』にもとづく」
とあんだが、この「国民の総意」が実際に確認されたことはない。
だから、今のテンコロは正式には「天皇ではない」。
今回はきっちりと確認しろよ、市民の総意を。
何のための憲法だ。天皇制を認めている市民は少ない。
そもそも今のの糞ジャップの人権的後進性は、天皇制を残したことが原因。
テンコロの交代は、天皇制を潰す最大のチャンス。
ここで天皇制を潰さないと、
またジャップは何十年も辛酸をなめ続けることになるぞ、馬鹿が。
この機会に天皇制を潰せなかったら、愛子天皇で男系を終わらせて、最後にするしかないな。 >>944
最近は「人権ガー」といって人権を軽侮する輩が増えてきて、
中国ロシアのように、人権を主張するよりも国(安倍自民)に従うことが大事
国(安倍自民)に反対するやつは日本人じゃないという人権軽視の風潮があるが、
別に天皇とは無関係
君主制があるイギリスやスウェーデン、オランダのほうが人権が発達している >>944
とりあえず通報しました
公安からマークされてください >>945
じっさいアベガーと言っている連中は朝鮮人に扇動されているしな。
マジで安倍総理は外国では朝鮮と中国以外、いや朝鮮でも文大統領と代えてくれとの
ギャグが飛んでいるくらい海外では人気があるのだけどな。
あれは朝鮮人の工作だよ。 国民 … 国籍を持っている
市民 … 不法滞在者を含む在日
これ豆な。しれっと言葉替えしとる 征夷大将軍が皇族で,戦国時代の公家大名が南北朝時代の話だとさ
バカだね >>949
お前が >>940 の質問に回答してやれよ >>937
後醍醐政権では、支持層の特殊性やら財源の特性もあって、さまざまな制度変更、改革があった。
20分の1税とかね
従来は公家しか就任できなかった職に武士を任命したり、新しい職を作って武士と公家を混ぜて就任させたりする例も多かった。
その辺の事情から、公家の間でも多くの不満があって、京都を含め全国各地で叛乱が発生してたんだよね、有力な公家が主導する叛乱は未然に鎮圧されたけどさ。
そんな混乱の中で、有力じゃない武士は後ろ盾/庇護者を求めて尊氏を頼るようになり、派閥ができた
尊氏が新しく地盤とするようになっていた関東での叛乱が特に大規模だったので、その鎮圧には将軍職が必要と思った尊氏が将軍職を求めたのに対し、
尊氏を征夷大将軍に任命すると幕府が再結成されてしまうと恐れた後醍醐帝が渋ったのが仲違いの始まり
征夷大将軍じゃなく征東将軍に任じられた尊氏が反乱を鎮めた際、このまま素直に京都に戻れば粛正されてしまうと実弟が進言して関東に留まったことで両者は戦争状態になった
尊氏としては、情勢が許さなかったのでやむなく自衛のために戦ったという意識があったんだろうね 何故質問者に自問自答するよう求められなきゃいけないんだよw >>938
>>951
ありがとうございます
武家よりむしろ公家が暴れて世を乱していたとは知りませんでした
そういう背景があったのかと勉強になりました >>25
> -= 彡 ⌒ ミ
> -=と(´・ω・`) ようこそ ここへ〜
> -=/ と_ノ
> -=_//⌒ソ
> ◎◎ ◎◎
♪クッククック
と続くのかと思った。 >>30
> 日本政府がよく使う「固有の領土」という言葉は歴史用語ではなく国家の政治的主張にすぎない。
当たり前だろ。
日本政府は歴史の講義をしてるんじゃないぞ。 >>953
違う。武家ではなく足利家が天皇家(大覚寺統)に従っていた
@後醍醐天皇の偏諱「尊」の字を使い続けた
A高氏追討に際しては出家して赦免を求めた
B後醍醐天皇の皇子・成良親王を皇太子に冊立した
C後醍醐天皇の菩提を弔うために巨費を投じて天龍寺・安国寺を建立した
D正平一統で北朝(持明院統)を廃し,三種の神器も進呈した >>957
なるほど、武家も公家も暴れていた所に足利が天皇のために働いたというわけか >>957
一休さんのお寺は将軍様のお爺ちゃんが建てた寺だったのか。
それにしては貧乏寺だな。 与謝蕪村の
朝霜や 室の揚屋の 納豆汁
って句がんなんで後世にまで残ってるの?
冬場にフーゾクでオールナイトして朝飯に納豆汁出された
ってことだろ、そんなに良い句なのか? 今は売春は違法だが、昔はそんなことはなかった
冷え込む朝、室津の宿で出された納豆入りの味噌汁で二人して暖を取る
旅情と情愛がない交ぜになった趣と申しましょうか 徹夜で残業して寒い朝に腐った豆汁を食するという売春婦の悲哀がよく出た
悲しい句ですね 与謝蕪村は後半生、京都に住んで遊郭の島原でお抱え俳諧師となり
遊女たちに手習いや俳句を教えていた
この句が詠まれたのは与謝蕪村60歳の時で
本当に室の遊女相手にオールナイトだったかどうかは分からんが
(職場の島原の話ではないので念のため)
とにかく遊郭で俳句の先生をしてるくらいなので艶っぽいのもある
与謝蕪村は画家でもあり各地で遊女の絵なども描いているので
もともとそういう世界が好きだったのだろうと思うが >>962
現代の価値判断を過去に適用するというアレですね
わかります >>964
当時も女から見れば遊女は悲惨な身の上だったと思う
ただし男はそう思わなかっただろうね
良い着物を着て良いものを食べて
毎晩客に抱かれて快楽の淵まで連れて行ってもらう
遊女は俺に抱かれて喜んでると大金はたいて満足する
今だって風俗に通う男は風俗嬢は俺に抱かれて可哀想なんて思うわけないから 今の風俗嬢は大金稼ぐ自分の意思やん
昔の遊女は親に売られたからお金も貰えへんよ。親の借金返すだけ >>967
今の風俗は生活苦のシングルマザーが多い 教科書等、代表的な書物は整合性がとれている部分だけであり
ほとんどは推測の域を出ない、というもの 真偽の程が怪しい 化学はそれがない 生きているうちは当然、死んでも通用し続ける安心すら胸に保有できる >>969
シナチョン風俗は本番やらせることで、自国より効率的な稼げるから、
強制送還されても指紋を薬品で荒らしてギゾウパスポートで再入国してくる。 >>971
また童貞ネトウヨかw
今は日本国内の風俗で本番行為やらせたら逮捕だよ >>972
バーカ、赤坂の韓国デリへルや五反田のシナエステはなんなんだ。
本番デフォで荒稼ぎだ。警視庁の内偵を共産系や社民系の気違い弁護士が、
令状のない捜査は向こうとかほざいて邪魔するから、摘発が進まない。
お掛けで梅毒が蔓延。シナチョンはぴるが処方箋なしで町の薬局で買えるから、
日本に持ち込んで避妊なしでほんばんするからな。
梅毒で鼻がとれたり脳をやられるのはお前ら反日左翼げんていにしてくれ。 悲しいな
韓国の悪口を言う前にジャップの屑さを自覚するべき コロンブスの米洲到達から7年で日本に梅毒上陸だからな。どんだけスケベエなんよ >>975
韓国デリへルの経営者は歌舞伎町のカラオケ館で射殺された様な
在日ヤクザか本国の韓国マフィアの在日のケツ持ち。
韓国から売春婦を輸出するときも整形サイボーグに仕立てるのも韓国マフィア。
なぜかって言うと、日本では禁止されている手法で整形してる。
客層の助平爺自体売国左翼だろ。菅直人、ビーチ前川、米山とか。 >>976
それは、スペイン人だろ。行く先々で原住民の女とやりまくって、
メスチゾなんてエスニックグループ作り出したのはスペイン人。 >>975
シナチョン風俗の客は左翼爺とオヤジが多い。
韓国クラブの日本人客は他の飲み屋より弁護士の比率が高い。
TBS、毎日新聞、テレ朝、朝日新聞の本体及び子会社社員は、
赤坂の韓国デリへルや五反田有楽街のシナエステで領収書貰って
経費で落としている。そういうところで偽名の店名で
領収書貰って使う目的なんて限定されている。
反日マスゴミ本体ではないが、テレ朝やTBSの仕事よくやる制作会社は
会社としては中小企業だから、税務申告では個人の税理士に外注するが、
知合いの税理士が見る人か見れば恥ずかしいとこの領収書とわかる領収書で
経費処理してるとクスクスしてた。
ヘイトスピーチやるくらいの右翼は糞食い土人やゴキブリも食材にすると、
シナチョンの食習慣を不潔と嫌い同じ場所に居ることすら嫌うから、
シナチョン売春婦の唾液やマン汁が体につく様な場所にはそもそも行かない。 サイコパスの中野信子って自分もサイコの自覚があるのだろうな
そうでないとサイコパスのことに関心が行かない
本郷和人との本で(戦国武将の、、)、本郷に歯の浮くようなお世辞を言っている
こういう思ってもいないことことを平気で言うのがサイコパスと自分の本で言っている ヨーロッパの城だと城内に礼拝堂、聖堂があったりするけど
日本の城で城内に祠や神棚ではなくて寺や神社(住職がいる・いたレベル)ってあったの? 世襲と選挙の違いはありますが、ザクッとしたところ、
今のベネズエラは南北朝時代みたいなもんですか? ベネズエラは中ロの後押しを受けた現政権vsアメリカの後押しによる暫定政権の構図だが
北朝は武家(足利)の後押しによる傀儡政権みたいなもんかも知れないが、南朝は‥その同じ足利の力を借りて自ら政権奪取してた 歴史学と言うか、庶民の生活の話なのですが・・・
うちの先祖で、父親無しで育った人がいて、戸籍にも母親しか記載されていない人物がいるんですね。
昔にシングルマザーって珍しいなと思ってたんですが、今日親戚の最長老がたまたまその戸籍を見る機会があって、「この人知っとる!オシ(発話障害)やったわ!」と発言しました。
そこでよぎったのが、発話出来ないから両親の留守中に強姦的な目にあって、妊娠してるのも発覚が遅れて、一人産み育てたのかなぁと言う推測。
昔は結構そういう事態ってあったのでしょうか、また、望まぬ妊娠の場合、昔はどのように処理していたのでしょうか?
あと、やはり戸籍に父親が無いのは特殊な事情の可能性が濃いでしょうか? 私生児だろ。妾の子(婚外子)で父親が認知しないってザラじゃないの? >>989
妾って華族とか金持ちの世界の話じゃないの?一般庶民、しかも30世帯ほどの小さな村で妾囲うような人いたのかな・・・
あと、親戚の長老ですら父親は一切知らないって言うんですよ。妾なら、認知はしてなくても男は出入りしませんかね? オシと言うのは耳が聞こえないから言葉をしゃべれないと言うのが普通だ
ちょいと前までの刑法ではオシの犯罪は罪一等を減ずる規定があった
聴覚障害があれば精神遅滞を生ずるからと見られていたのである
そうとは限らないということで近時、その規定はなくなったのだが、昔はそういうことも多かっただろう
そのような身の上の人の場合、付け込まれて望まぬ妊娠に至ったということも考えられる
本人の固より知らない相手であれば、誰であるかわからないままになるだろう
妊娠中絶も機を失すればできなくなる
かわいそうな身の上を、親戚縁者、周囲の人たちの援助もあって囲っていたのであらうか 無論、本人の望んだ妊娠であったことも考えられる
周囲が問うても恥ずかしがるばかりで決して相手を明かさぬ秘めたる恋心のあつたのやも知れぬ
歳月の戸張の彼方で最早良うは分からぬ昔日の事だ 結局正解は既に持っているようだし,障礙者の子孫自慢だったか? >>993
これ、これ、さう云ふ物云ひはやめなさい 日本政府は沖縄がアメリカ統治下にあったときから一度もアメリカに対して「沖縄は日本固有の領土」と主張しなかった。
なぜならアメリカは1854年7月11日に沖縄の前身である琉球王国と琉米修好条約を結んでいるし、同条約は翌年の1855年3月9日にアメリカ議会で批准され、
さらに同日、第14代大統領のフランクリン・ピアースが同条約を全米に公布して琉球王国が独立国であることを認めたという歴史的事実があるから。
このようにアメリカは沖縄の前身である琉球王国と国際条約を結び、議会において琉球王国を独立国と認めたという経緯があるから、日本政府はアメリカに対して「沖縄は日本固有の領土」と主張できなかった。 琉球王国(中山王国)は北山王国と南山王国を軍事的に屈服させることで
沖縄本島を統一した。
さらに、琉球王国は八重山諸島の独立勢力を軍事的に征服することで版図に組み込んだ。
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