歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ47
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歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 乃木大将は明治帝に殉じて自裁、妻静子もお供させた
かねて夫と共にとは聞いていたが、いざ「今日だ」と聞かされると静子はうろたえたと言う
それはそうだろう、かわいそう >>383
役務の種類としては将官だが呼び方として将軍と呼ぶのは普通
某有名アニメのレビル将軍というのも同様で、将官だが将軍と呼ばれてる
もちろん同格の将官が多数いるのだから征夷大将軍みたいに権威や権力が大きいわけではない 日本人ではなぜ哲学が発達しなかったのでしょうか?
大陸では観念や実在についての考察が進み、西洋のイデア論やインドの諸哲学や中国や韓国などの性理学が生まれました
形而上学の誕生です
ところが日本にはついに形而上学が発生しませんでした
菜畑遺跡では韓半島から農耕が3000年前に伝わっていたにも関わらずです
哲学どころか文字さえなく暦もなく算術もありませんした
王仁博士が学問伝えるまでは倭人はトンデモない未開の低知能な土人集団だったといえましょう
今でも日本人を観察すると形而上学に弱い民族に思えます
金融や法律、数学や物理やITなどの高度な知的レベルにふさわしい民族ではないと思います
この島国で哲学が生まれなかった事と関連があると思います >>385
そうだね。海軍で将官を纏めて提督と言うのと同じだね。 黄金聖闘士は12宮に住んでるんですか?
それとも毎日出勤してるんですか?
(´・ω・`) >>390
作者ですらいじると怒られるのが漫画。
以前、浦沢直樹が「YAWARA」の豪華版かなんか出す時、
気に入らないコマを少し修正したら「お前に何の権利があって修正しているんだ」ってファンから怒られたんだぜ 漫画の世界だけではないぞ
長嶋監督が「3」をつけた時,ファンのための永久欠番だぞ。とテレビでドヤ顔で話してた莫迦がいた 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>391
版画新しくなるごとに、修正で意味不明になってゆく、ガラスの仮面。 >>386
貴方は相当な教養教育を受けた人であると推察します。
これだけの教育を受けても韓国で学ぶと貴方のような歪んだ価値観になる事に薄ら寒い思いがします 松井石根大将も将軍と呼べるのでしょうか?
南京大虐殺の真偽はわかりませんが、少なくとも松井大将はきちんとした人物であり、虐殺を指揮したとは思えません
指揮してなくとも兵士が虐殺行為をしたとすれば、トップもしくは管理職の責任は出てくると思いますが、果たしてそれが死刑相当だったのかどうかは疑問があります
みなさん、どう思われますか? 「南京入城後の慰霊祭のときに私は皆を集めて泣きながら怒った
兵の暴行によって皇威の輝きを汚してしまった
ところが皆は私の言を笑った
ある師団長のごときは普通のことですよとさえ言った
‥その私がこうして死刑になることによって、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省を与えるという意味では嬉しいことである
せっかくのことであるから、このまま往生したい」
ー松井石根 >>398
泣かせる台詞だよな
松井大将は本物の男だよ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 南京どころか支那人なんて根絶しておいた方が良かったのにな 学が無いの剥き出しで気がひけるのですが
昔の偉い人の姓と名の間に挟まる〇〇守とか〇〇頭とか〇〇介とかは何と言うもので如何に決まるのでしょうか?
戦国とかの乱世では名乗り放題だったのは何となくわかりますが 平氏の時代や江戸期には決まりがあったのでしょうか?
松平容保は熊本に縁がなさそうだし 熊本の細川家も越中には関わりがなさそうだし
乱世以外でも好きに名乗って良かったのでしょうか? あれは朝廷で任命してもらう官職名
平安時代には官職に実態があるので、○○守とかは国司として仕事して朝廷に規定額の税を納入しなくてはならない
室町時代頃になると朝廷の官職の大半は形骸化してるが、格の低い官以外は朝廷の任命なしに名乗ることはできないし、武士(など幕臣)なら、幕府の斡旋なしに任命されることはできない
16世紀に入ってすぐぐらいからか、幕府の斡旋なしに直接朝廷に頼んで官職を買うことが広まった
それとは別に、朝廷の任命なしの自称もあるが、自称は格が低くて尊ばれていないらしい
江戸時代には幕府の斡旋で朝廷から任命される規定がある(ただし、旧来と違って官職の定員がなくなった) >>404
そこに入るのは仮名(けみょう)と言います。仮名が官職の場合は受領名(ずりょうめい)、太郎とか三郎とかだと
排行名(はいこうめい)と言います。官職を勝手に使うのを百官名(ひゃっかんめい)という。そして官職のようで
官職でない東百官もあります。これは一説に平将門が授けた官職であると言われてますが俺は違うだろうと思ってます。
東百官には頼母とか数馬とか源内とか左内とか、他にもいっぱいあり。
松平容保の肥後守は会津松平家の藩祖保科正之以来の慣例です。江戸時代はそういう慣例に従うのが多い。
御三家の尾張と紀州は大納言で水戸は中納言とか。 官職名を元にした仮名もたしかに広く使われてるんだけど、仮名とは別に、正式の官職名も使うよ
大岡越前守とかは仮名じゃなく官職だよね
406の下側2行分は仮名ではなく官職でしょ あぁ、そうですね。諱を呼ぶ代わりに官職で呼び、官職が無い場合は仮名(通称)で呼ぶ。
仮名には排行名と百官名と官職を勝手に名乗る受領名とある、ということらしい。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 皆様有難うございます。昔は義務と権利を伴った官職だったけど時代が降り義務も権利も伴わず慣例に従うと言うことで良いのでしょうか? >>410
まぁそうです。でも江戸時代は幕府が仲介するから他の人が使ってる間は使えないということはあった。
あと吉良上野介が悪役になったおかげで上野介は誰も使わず、幕末の小栗上野介が唯一の例外かな。
小栗は傑物でそういうのは全く気にしなかったとか。 >>411
有難うございます 江戸時代はそれなりに秩序があったんですね
小栗忠順は上野介の前は豊後守だったようですが 何故変えたのでしょうか?守から介では昇進っぽくない気もしますが上野は豊後よりかなり上なのかな?
同時代だと阿部正外あたりを憚ったのでしょうか? すみません 名乗りを変えるのは珍しくないのですね スルーして下さい
なんら自分の人生に関わりないし 歴史を読む上でも然程重要とは思えないのに何か気になって^^: 韓流ドラマ(ファンなんです)の時代ものを見ていると
やはり官職名で呼んでいますね
日本と共通点が多くて興味深いです
文化や法律と共に大陸から伝わった習慣なんでしょうか >>412
上野と上総と常陸は親王任国といって親王が守を務めることになってます。皇族の名誉職でもあり
収入源でもあります。だから介が事実上のトップです。そういう訳でこの3国は格が高いとみなされます。
>>414
実名を憚る文化は広く見られますが日本でいつからあるのかを明らかにするような資料はないと思います。
日本が縄文時代だった頃の中国には既にあったのは間違いないのでおそらくそれが伝わってきた可能性が
高いとは思います。儒教の開祖孔子は紀元前5世紀くらいの人ですが氏は孔、諱は丘、字は仲尼と伝わって
います。諱は大和言葉で「いみな」と読んで「忌み名」という意味になります。字は「あざな」と読んで諱の代わりに
呼ぶための名前です。諱の「丘」は頭が少し盛り上がっていたのにちなみ、字の「仲尼」は巫女だった母親が
尼丘に祈って授かった子だからと言われています。 >>404
東百官。
勝手に言ってる、今風にいうと中二病的 日本の王家は中世に入ってから乞食になって官位の売買で生計を立てるようになりましたが庶民は現在の金額でいくらで官位を購入出来たのでしょうか
外国人(日本人ではない人)は官位を買う事が許されましたか 首相をはじめとする日本の閣僚はアメリカの後ろで太鼓を叩くことしか能がない。
アメリカの圧力に屈してきたのはこれまでの歴史を見れば一目瞭然である。
日本は、サンフランシスコ講和条約が発効されて主権を回復したといいながら、その後も米軍基地を押し付けられているし、日本はアメリカに対して、「ノー」とは言えない。
日米安保条約しかり、日米地位協定しかり、在日米軍駐留経費を日本の国税(血税)を使って負担する「思いやり予算」しかり。
日米安保条約には、「日本が在日米軍の駐留経費を負担する義務はない」と書かれているのに、日本は在日米軍の駐留経費を自国で負担するために年間2000億円も払っている。
「義務」ではないから、「思いやり予算」と揶揄されているわけだが、この事実は多くの日本国民がよく分かっていない。
これらを見れば、日本という国が「対米従属(対米隷属)」なのは明らかであり、いかに主体性のない国なのかがよく分かる。
日本はアメリカの「下請け国家」と言っても過言ではなく、主権国家(独立国家)としての体を成していない。 >>411
いや、幕府が朝廷に奏請する武士官職は定員なし(=重複可能)という制度が江戸時代初期に作られてる
幕府内の格式管理ルールで誰にどの官職を認めるかを決めてただけ
>>415
もうひとつ、関東のいくつかの国々は鎌倉時代に幕府の権限で国司を決めることができる枠があった。関東御分国っての。
だから幕府有力者の格式が高い人が国司だったんだけど、家康が頼朝を尊敬してて鎌倉時代の制度を尊んだ影響で江戸幕府の元では関東の国司の地位が実際の(朝廷内での)格式以上に尊ばれてたのではないかと 皆様懇切丁寧に教えて頂き有難うございます
東百官も百官名も初めて知りました 歴史というより時代物を読むのが好きなのですが「肥後め」とか「備中は怪しからん」とか出て来るたびにモヤモヤしてました
無銭乗車の符丁が薩摩守になったのは平忠度にちなんだ事だそうですが無銭乗車(籠?)はそんなに昔からあったのでしょうか?無銭乗車が問題になった時代では水野忠徳の方が有名な気がするのですが >>422
ちょっと、ちょっと、無賃乗車なんて鉄道ができてからのことですよ
近代になってからの人が、薩摩守忠度にちなんだ駄洒落を言っただけ
あと、姓名で呼ぶのは失礼だとしてはばかられる感覚は今でも一部残ってるでしょ
父母や上役を名前やら苗字で呼ばないよね 江戸時代の文章をみると御座候などと出てきますが
当時の人は変な言葉遣いだと思わなかったのでしょうか
口語でもなく古語でもない奇妙な文語です >>389
マジレスするとアテナや教皇による召集がない限りあそこ行かないぞ。 >>424
今はすたれてしまった書き方だから、今の感覚で変だと思ってるだけだろ
口語だとか古語だとかも今の学校教育でおせーてもらった概念で言ってるんだろう
近現代の口語文だとか、平安の昔に倣ったしっかりした古文を学校教育のなかった江戸時代の人に求めるのが酷というもんだ
彼らも一生懸命書いてたんだからその意を汲まないとしょうがねぇだろよ >>423
ええ そうなんです 鉄道が敷かれた後の話なら 平忠度より水野忠徳かなと思っただけです
平忠度は都落ちの際の歌を託すエピとか一ノ谷戦死の際のエピとか本当かどうかは別にして好きなキャラなんだけど
歴史に残した足跡や 鉄道が敷かれてからの期間から言えば水野の方がただのりとして有名だったんじゃないのかなと思い不思議に思っただけです 平忠度がただ乗りになったのは狂言とか歌舞伎とかなんかそんな演目があったのではなかったっけ 水野何某なんてのは歴史家じゃあるまいし知らないという人が多いと思うよ
庶民には源平合戦の芝居やら読み物の方がおなじみだ >>423
タダ乗りを薩摩守と言ったのは、遅くとも江戸時代にはもうあったよ 質問に無賃乗車とあったからね
江戸時代の駕籠や駄馬、船に車輪は無い
無賃乗「車」であれば近代の言葉
江戸以来の駄洒落を近代化したんだろう オレ大阪そだちだけど子どもの頃に見たのは大判焼きだけだったな。いまは回転焼きと御座候しか見ないけど 北方四島のうち、国後、択捉は日本の領土ではない。
その証拠に日本は第二次世界大戦で敗れた後、1951年にサンフランシスコ講和条約を締結したが、そのサンフランシスコ講和条約の条文に「千島列島を放棄する」と書かれている。
当時の吉田茂首相は、サンフランシスコ講和条約の受諾演説で「国後と択捉は千島南部」と発言しているし外務省の西村条約局長も国会で「国後と択捉は千島列島に含まれる」と発言している。
千島列島に含まれる国後と択捉は、当時の吉田茂首相がサンフランシスコ講和条約に調印した時点で日本は放棄したことになる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 質問です。
山川の日本史教科書には
マッチなどが切符制、米は配給制と書かれていますが
ネットで調べると
配給制の具体的な方法として切符制や通帳制があるように思えます。
どのように理解したらいいのでしょうか? 配給を行う手法として配給切符や米穀通帳が在ったんざんしょ 滝口武者は位階でいうとどのくらいの者が担ったのでしょうか?
平将門は滝口から衛府の佐や尉への出世を望んだそうなので、それ以下のようですが 日本人は背が低いことで有名です
江戸時代の人たちは身長が140センチという話を聞いて驚きました
まるで土人のピグミー族のようです
食生活が貧しかったのでしょうが彼らは自らの食べ物の栄養価が低い事に気がつかなかったのでしょうか? >>442
令外でも中納言や参議、検非違使などは相当する位階がありますよね? 丁未の乱で大連=物部守屋が失脚した際には次の大連が任命されず大連が廃止されたのに、
大化の改新で大臣=蘇我蝦夷が失脚した際にはすぐ次の大臣が任命されて千年以上続いたのは、何故? >>443
西南戰爭の薩軍司令部は180とかが多かった >>443
食料事情の関係で前時代より身長の平均が低かったらしいとは言うな
逆に言えば、ヨーロッパだって近代化する前は身長の平均が近代以後の平均より低かったのではないかな 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 沖縄は1879年3月27日に日本の明治政府が軍隊を動員して併合するまで琉球王国という日本の主権が及ばない異国だった。
日本政府は領土問題でよく「日本固有の領土」という言い方をするが、国語辞典の大辞泉には「固有」とは「本来持っていること」「本来備わっていること」、「本来」とは「もともとそうであること」とあり、「領土」とは「国家の統治権が及ぶ区域」と記載されている。
国語辞典に記載されている言葉の定義をもとに考えると、沖縄は本来(もともと)日本の統治権が及ばない区域だったから日本固有の領土とは言えないことになる。
さらに言えば、その沖縄には尖閣諸島も含まれると説明する日本政府の理屈からすると、沖縄自体が日本固有の領土でないのは前述した通り歴史が証明しているわけだから尖閣諸島も日本固有の領土ではないということになる。 >>446
乙巳の変で蘇我入鹿が殺されたときに大臣制も終わっている
孝徳天皇の即位後に
左大臣・阿倍倉麻呂、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂
が任じられているのは蘇我氏が世襲していた大臣制とは別の新制度 臨済宗の京都五山や鎌倉五山の開山者には栄西(建仁寺)や蘭渓道隆(建長寺)、
無学祖元(円覚寺)、夢想疎石(天龍寺、相国寺)、など錚々たる歴史上の有名人が
揃っていますが、五山の更に上の「別格」として扱われた南禅寺の開山者は無関普門でさほど有名じゃないのはなぜですか?
南禅寺自体は有名ですし、格式も最高レベルだったのですから開山者の無関普門も有名になりそうなものですけれど・・ >>441
風と雲と虹とでは、従八位下に任官だった。 >>453
法皇による勅願寺であるところ、その格式五山の比にあらず
住職に無関普門を据ゑたるのみ >>456
それだと督(かみ)・佐(すけ)・尉(じょう)・志(さかん)の志になるから下っ端でもないなと思ったけど
滝口武者から右兵衛佐になりたかったけど少志どまりだったということか。 現代でも佐とか復活して欲しいですよね
1000万円で守を名乗れるなら出す人いるかもしれません >>458
言葉足らずでした
社会的ステータスとして1000万円ほど宮内庁に献金すると守や佐が名乗れるというような制度なら買う人いると思います
社長たるもの守でないと恥ずかしいとか社長的ステータスになれば相当なお金が集まるかと 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>459
皇室に売官させるのは如何かと
昔は食うや食わずで仕方なかった面があるが >>458
戦国時代の売官だって、官位発行の手数料がバカ高いのと格式が足りないときに追加手数料がかかるだけで、
無審査で何でも任命してた訳じゃないぞ
当時でも無茶な申請は却下してたしな
今風に言うなら、勲章の発行、つまり受勲の手数料を高くするのと
手数料を何倍か払ったら勲位をひとつ上げるのを導入するような感じと思いねえ
ところで、佐 の官位なら軍の大佐中佐少佐が現代の佐官ではないかな
復活するまでもない >>455
無関さんが積極的に開山したわけじゃないってこと? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >畿内人はむしろ特殊な日本人で、周辺群こそ平均的な日本人である(埴原和)
>関東出土の縄文人骨の多くは頑丈で、西日本出土の人骨は小さい(小片保)
>東日本では動物性食料資源の捕獲や調理のための道具が発達し、西日本では植物性食料資源を利用するための道具が多い(赤沢威)
>実は本州を縦断して巨大なトレンチが掘られているのである。それは新幹線と高速道路の工事である。その工事に引っかかった(縄文時代の)遺跡を数えても、
>東日本は西日本に比べて圧倒的に多いのだ(佐原真)
・第1、第2判別関数による府県を単位集団とする比較(男性)
近畿→身長の割に肩幅が狭く、頭長の割に顔高が大きい。
南九州→身長や顔高に比べて肩幅や頭長が大きく、がっしりとしている。
近畿人の特徴は朝鮮半島に現在住んでいる人々の特徴と概ね一致する
(『日本人はるかな旅』より、長野県看護大学教授の多賀谷昭先生)
比上肢長という体に対する腕の長さの比と足の長さの比をみると、アイヌ、東北人、畿内人の順に長い。
つまり、アイヌの人たちが一番腕や脚が長く、畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。
朝鮮半島の人々も畿内人と同じように腕や脚が比較的短いことがわかりました。
(松村博文・札幌医科大学教授・兵庫県出身) >>463
無関、積極なるか消極なるか知らず
唯、住職の法名高きを以て寺院を評点するは後世の人の爲すところ
開基の法皇将軍達在りて、豈、其の盡力を等閑視せむ哉 乙巳の変と大化の改新は別物なの?
大化の改新のなかの一つのできごとら乙巳の変があるの? 主にスポーツ用品などの研究や開発を手がけるクロステクノロジーラボ(福島県会津若松市)などは27日、
外部からの電気を利用せずに水を水素と酸素に分解する特殊な炭素素材を開発したと発表した。
この素材は貴金属を使わず、少量の炭素と負極になるアルミなどを用い、製造費用も抑えられるとしている。
同社は、スポーツ用品販売大手ゼビオホールディングスのグループ企業にあたる。 入鹿暗殺の変事の後、大化の改新と呼ばれる体制刷新と改革が行われた >>467
権力を独占する蘇我氏を排除する乙巳の変をきっかけに始まる一連の政治的改革の総称が大化の改新。
大政奉還と明治維新の関係と同じく別物だ。 >>471
改革の総称が大化の改新。大化の改新と乙巳の変は別物です。
>>472
佐村河内守とか居たね。 位階で従と下ばかりになってしまったのはなぜですか? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>475
誰のこと?将門のことなら、それは、官位相当と言うもの。 >>470 >>474
大化の改新という言葉自体、最近の教科書では使われていないんじゃなかったっけ
改新の詔自体が出されていなかった可能性が高いとかで
行われたのは蘇我宗家の排斥(これにより蘇我氏を外戚としない中大兄皇子が立太子)
のみであって蘇我入鹿の誅殺、蘇我蝦夷の自害による蘇我宗家の排斥のことを
乙巳の変と呼ぶようになった 改新の詔が作られたのは700年頃という鑑定が出てしまったからな >>478
誰というか戦国〜江戸時代あたりです
従五位下とか従四位下、従三位ばかりを目にします
ウィキで正四位を見ても鎌倉時代から明治まで誰も授与されていないようですし
何か正とか上を憚る風潮になったのでしょうか 位とか、そういうものは関係ない、
実際は、それ(位)以上の人物もいると書いてない?
五位でも八位・・・何でも良い、
超越しているとか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています