歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ47
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歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 人麻呂、清麻呂など男子の名をつくる接尾辞
元は身分の上下に関わりなく使われた一人称
元NHKアナウンサー登坂淳一の愛称 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 小野妹子の子が毛人、東大寺建立に活躍した佐伯今毛人
ともに「エミシ」と読み、後者は「今蝦夷」という表記もあるようです。
「蝦夷」は中大兄がつけた悪い名というのは
当時の名をちゃんと調べもしない、単なる思いつきではないでしょうか。
人麻呂が失脚して「猿」と改名されたという説もそうですが
先に申したように干支の動物を付けた名はいくらでもありますから。 旧暦7月の異称のうちの1つの相月(あいづき、しょうげつ、そうげつ)の由来を教えてください。
よろしくお願いします。 浄土真宗の開祖は親鸞、二世は孫、三世はひ孫ですが、親鸞の子供はどういう扱いなのでしょうか?
開祖や二世、三世などを決定付けたのは三世の覚如ですが、自分の爺ちゃんは飛ばしたのですか?
それとも何か妥当な理由があるのでしょうか? >>610
結構、間が抜けてますやん
親鸞@ −−善鸞ーー如信A
|
−覚信尼−−覚恵−−覚如B−−従覚−−善如C− 善鸞は布教で関東に下り邪教に染まって親鸞から義絶された。一緒に下った如信は陸奥国で布教を続けた。
親鸞の死後、親鸞の末娘覚信尼とその子覚恵は陸奥国の如信に大谷廟堂の法灯を継ぐことを要請した。
だから如信が二世ということになる。如信はその後も陸奥で活動を続けた。親鸞の祥月忌の為に上洛した時に
覚恵・覚如はともに親鸞の教えを学んだ。覚如にしてみたら父覚恵から教わったわけではない。 >>603
もうちょっと後の時代、聖武天皇の時代、藤原四兄弟公卿の四男は、麻呂 って名前だけど。 【日本の起源】韓国古墳から埴輪が出土。古代日本は韓国による征服王朝だったことが明らかに
https://www.recordchina.co.jp/b674700-s0-c30-d0144.html
2018年12月26日、韓国の東亜日報は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時代(3世紀中頃〜7世紀頃)を代表する遺物、
人物埴輪(はにわ)が出土したと報じた。
人物埴輪の形は鳥取県で出土したものに類似しているといい、
発掘調査を行っている全羅南道文化観光財団の全羅南道文化財研究所は「古代日韓関係史の
研究における新たな契機になる」と評している。 >>610,612
浄土真宗が始まった頃の仏教界には世襲という概念はなくて、法門の継承は血統ではなく師匠から弟子というのが基本だった。
だから当初の浄土真宗では親鸞の後継者は子孫ではなく弟子であり、当初の浄土真宗の本流は高田派だったと思われる。
本願寺の原型は親鸞の墓所を祀る大谷廟堂で、当初は寺院という形態ではなかった模様。
大谷廟堂を寺院として確立させた覚如が親鸞を初代、如信を2代目として本願寺の門流を作り上げたことではじまってるが、氏がどのような考えから代を数えたのかはよく分からない。 >>614-615
韓国に日本の豪族も住んでたって事だろ
日本の埴輪に先行する古い時代じゃなくて平行するんだから、韓国から渡ってきたとか考えられないだろ 浄土真宗の教義では何故神道のお祭りが駄目で
クリスマスはOKなのでしょうか?
親鸞聖人がそう言い残したのでしょうか? 頼むべき本尊は阿弥陀一佛なりと云へども、先祖の廟所として神祇へ拝するを妨ぐるにもあらず
真宗寺院に於いてキリスト生誕祭を行ふ事なしと聞く
在家の門徒、固よりいい加減なれば知らず 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 結論として、浄土真宗開祖親鸞と中興の祖蓮如の二人は有名だが、
覚如の役割もかなり大きかったと思われるし、覚如の名前がもっと知れ渡って
いとも不思議ではないと思った
親鸞と蓮如は一般的にも有名だが、覚如は一般的には知られていないね
門徒だが、自分も最近まで知らなかった 浄土真宗を教団として成立させたのは覚如だと言えるかも 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>627
高田派の原型の方に真宗の教団がすでに成立してたでしょ? 覚如の後はみな◯如になっているから影響力はでかいね
真宗本願寺派だけかも知れんけどね 皇室の◯仁、浄土真宗の◯如、みたいな伝統って他にも何かありますか? >>632
蜷川新右衛門が蜷川虎三の先祖であることは有名。 左右両撃ちの二刀流で鳴らした武蔵もまた蜷川新右衛門の末裔であった >>634
そういうのは通字と言います。武家社会では偉い人の諱から一文字拝領することがあります。
これを偏諱(かたいみな)と言います。その場合、偏諱を下にするのは失礼なのでそれを上にして
通字を下にします。鎌倉時代の足利氏は代々北条得宗家から偏諱をもらって
通字の「氏」は下にしていた。毛利家も大内氏とかから偏諱をもらって通字の「元」は下にしていた。
興元とか隆元とか輝元とか。元就は次男だったから偏諱を貰うことがなかったので「元」が上にくる。
足利将軍家の義◯。初代の尊氏までは代々◯氏なんだけどね。
毛利家の◯元。一番有名な元就は次男なんで例外。
他にも伊達氏の「宗」とか、今川氏の「氏」とか武田氏の「信」とかいっぱいあります。 >>638
サンクスです
634の例では○の方が偏諱、仁や如が通字ってことですね 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>639
>634の例では○の方が偏諱
その例はどっちも偏諱じゃないです。皇族は一番偉いので誰かから貰うということは無いんじゃないかなぁ。
断言はできないけど。偏諱の例は例えば江戸幕府の四代将軍家綱から弟である綱吉へ「綱」。五代将軍綱吉から
紀州藩の庶子吉宗へ「吉」。これらの例では綱吉も吉宗も家を継ぐ立場じゃないし御三家は通字がないから綱吉の
「吉」も吉宗の「宗」も誰かが選んだものです。 兄弟と言っても主従関係でもあるから、あるじたる家綱から臣である綱吉へ、だったのでは。
綱吉から吉宗の方は確実に主従関係ですよね
元就も興元の弟ではあるけど家臣として偏諱「元」をあたえられてたのでは?
朝倉氏も当主だけ二文字目が景でそれ以外の一門衆は一文字目が景ですけど、これも偏諱として与えられてたんじゃないの?
今川氏親の氏は伊勢長氏が烏帽子親になったことに起因するもので元々の通字ではなかったと思います >>642
>兄弟と言っても主従関係でもあるから、あるじたる家綱から臣である綱吉へ、だったのでは。
あ、もちろんその通りです。その他もご指摘通りかと思います。 1943年にエジプトのカイロで行われたカイロ会談でアメリカのルーズベルト大統領は蒋介石に対して「琉球を返す」と約束しているが、第二次世界大戦の敗戦国である日本が受諾したポツダム宣言第8条には「カイロ宣言の条項は履行されるべき。
又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に極限されなければならない」と書かれている。日本は「カイロ宣言の条項は履行されるべき」と書かれているポツダム宣言を受け入れているし、
そのポツダム宣言第8条には「日本の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に極限されなければならない」と書かれていて「日本の主権は沖縄にも及ぶ」とは書かれていない。
戦後、アメリカが日本に返したのは施政権であって、ポツダム宣言を見てもわかるようにアメリカをはじめとする連合国は沖縄に対する日本の領有権を認めていなかった。
この事実が証明しているように沖縄にはいまだに日本の主権が及んでいないことが分かる。 >>641
将軍家は一番偉いので誰かから貰うということは出来無くなり
新しく?通字を上にして下の字を偏諱用に使ったんじゃないかなぁ?
>>645
中華民国総統・陳水扁は、インタビューの中で中華人民共和国がカイロ宣言を根拠に台湾の領有を主張していることに対して、同宣言は
・時間と日付が記されていない
・3首脳のいずれも署名がなく、事後による追認もなく、授権もない
・そもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎない
と発言している 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>646
徳川将軍家の通字は家で、綱吉と吉宗と慶喜は通字を使ってないね。秀忠もか、四人かな >>646
徳川将軍家の通字は「家」です。家康の前は清康・広忠だから家康にちなんでます。秀忠・綱吉・吉宗・慶喜は例外です。
綱吉と吉宗は前に書いた通り。慶喜はああいう状況での急な継承だったので。秀忠は秀吉から貰った偏諱です。
「忠」は祖父広忠から採ったと言われてます。豊臣と敵対した時に改名しても良さそうなものだけどそうはしなかった。
ちなみに秀忠の兄結城秀康の「秀」も同じく秀吉からです。 >>634のようなケースに何か専門的な名前って付いてるのですか? >>650
いや。そこから改名しなかった理由だよ。将軍職就任に絡んで改名した例が6代家宣。綱吉の弟で
ライバルに当たる綱重の子で元は家綱の偏諱をもらって綱豊と名乗っていた。紆余曲折の末に綱吉が
後継に決めたので家宣に改めた。それと14代家茂。この人も元は家慶からもらって徳川慶福だったけど
家定の後継と決まって家茂と改めた。
綱吉は元々将軍家光の子だから家綱に何かあれば自分が継ぐと思ってただろうから改名しないのも
不思議はない。吉宗は綱吉を敬愛していたので改名しなかったとされている。 >>652
将軍になったときの年令じゃないの?
後継となったときの年令が高い(元服からあとの年数が多い)と改名しないとか? >>657
綱豊が将軍世子として西の丸に入り家宣と改名した時が43歳で、将軍就任の時が48歳だからそれはない。
将軍在任3年で死んだ。 そもそも前将軍がすでに亡くなってるとか
危篤状態とかで偏諱もらえなかったんじゃないの?(鼻ホジ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 すみません。改めてお願いします。
曾祖父の代に苗字が変わっている家系です。
丁稚奉公先の苗字に変わっていますが、養子になったり丁稚先の娘と婚姻してはいません。
この時代は苗字を替えるのは自由だったのでしょうか? >>662
何年頃でしょうか?
明治の苗字必称義務令で名乗りを許されたとか勝手に名乗ったとか?
そんな昔ではない? この時代とはどの時代なのか
養子縁組をしていないとどうして断言できるのか 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>659
家宣は実父が徳川綱重だし、養父は5代将軍・徳川綱吉で
実父も養父も「家」の文字はつかず
祖父の3代将軍家光、叔父の4代将軍家綱はすでに死亡しており
偏諱を与える者はいなかったが綱豊から家宣に改名している >>668
徳川将軍で「家」が付かないのは4人いる
将軍になったら「家」が付く名前にする必要はないが
将軍になったときに「家」が付く名に改名した者は2人いる(家宣、家茂)
このうち家茂は将軍家定の死後養子のため
(建前上、生前に養子入りしたことにしている
養父にならったとすることもできるが
家茂の場合、実父も養父も家がつかない 669の最終行を訂正
>家茂の場合、実父も養父も家がつかない
家宣の場合、実父も養父も家がつかない だから「家」は通字だろ
家宣が綱豊のままなら、徳川将軍の諱から永遠に「家」はつかなくなる >>646
1870年代まで琉球はどこの国にも属していなかった。
その証拠に1873年に日本と清国の間で琉球の帰属問題が話し合われている。
明治政府の副島種臣外務卿が北京に出向いて琉球の帰属問題について清国と交渉していたという歴史的事実があるのが動かぬ証拠。
1879年の明治政府による琉球併合まで沖縄の前身である琉球が日本の領土でなかったことは紛れもない事実である。
よってその琉球を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土とは言えない。
http://ryukyushimpo....mn/entry-473512.html じゃあ今まで受け取った日本国の税金を全部返金してもらおうか ちなみに当時の琉球人は日本に併合してくれとは頼んでない。 沖縄に多い名字ベスト10
1位 比嘉
2位 金城
3位 大城
4位 宮城
5位 上原
6位 新垣
7位 島袋
8位 宮里
9位 玉城
10位 知念
沖縄で一番多い名字は比嘉。
沖縄で比嘉という名字はどこの学校にもクラスに3人ぐらいはいるし、一学年で20人ぐらいいる。
金城という名字も比嘉と同じぐらい多い。
新垣、島袋、宮里、玉城、知念なども一学年に5人以上はいる。
一方、佐藤、斉藤、伊藤、加藤、遠藤、後藤、工藤、藤田、藤井、藤本、藤野、藤原、藤川のような日本本土に多い名字は本土からの移住者、転勤族、あるいは改姓組や結婚して名字が変わった人などを除いて沖縄には一人もいない。
沖縄は琉球王国時代、日本の主権が及ばない独立国であり、藤原氏の影響も受けていないので名字に「藤」が入る人はいない。 昭和40年代〜50年代前半、沖縄返還の前後、本土に働きに出てくる人が急増していた時分に、
結構な数の琉球風の苗字を和風なものに変更する申し出が家裁に出されて、かなりの割合で認められていた。
明治のときの琉球処分・本土編入の際には、姓とか名乗頭を姓にする例が多かったけれど、家名や大和名乗とかで
和風の苗字を使っていたというと、割合すんなりと、通ったという。 19世紀後半まで沖縄には日本文化の影響はほとんどなかった。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 今は戸籍上の名前を変えるのはかなり難しいからな。
養子縁組とか結婚以外では、お坊さんになるのが一番手っ取り
ばやいな。 沖縄はもともと琉球王国が統治していたから日本固有の領土ではない。 >>681
>今は戸籍上の名前を変えるのはかなり難しいからな。
でも代々江川太郎左衛門を名乗っているなんて場合は変更できるらしい。
この前TVで戸籍も変えるんですと言ってる人がいたよ。 名を変えるのではない
質問は姓が変わったとある
これはできぬことだぞ >>678を受けてのレスかと思ったらそっちかい。
そっちは質問者が投げっぱなしでいなくなっちゃったからなぁ。 院政が始まっても摂家は残り
五家に分裂しても幕末まで存続できたのはなぜですか?
鷹司家は2度も断絶の危機を乗り越えてて特異に見えます 日本政府は明らかに沖縄領有権論争から逃げている。
それは法的根拠が曖昧であり万が一論争に敗北したときは沖縄施政権を喪失するからである。
仮に論争の決着が着かなくとも論争が沖縄市民の政治的意識を高め独立運動につながるからだ。
元来南国的で愚昧な能天気さ持っている沖縄市民を如何に啓発していくかが今後の政治運動の課題となる。
日本的エスノセントリズムの打破は日本人の根拠なき文化的優越心を挫くことから始まる。
封建主義と人権軽視とマイノリティに対する無意味な差別に確実に勝利するため、市民は力を合わせて現政権を打倒していかねばならない。
市民が政府に対して声を上げることが重要だ。
ネトウヨの妨害に負けず沖縄で戦う市民への側面擁護を粛粛と進めていくべきであろう。 >>687
摂家の存続を望む人が多かったから残ったんだろ >>678
沖縄戦で戸籍原本、別の所に保管していた戸籍副本、共に焼けてしまった例がある
聞き取り、申し出により戸籍を再製するしかなく、そのときに比嘉から青山、内田、吉田、広山、吉村などに改姓した地域はあるんだが >>687
摂関政治から院政への移行は蘇我蝦夷・入鹿親子を排除した時のようなクーデターによるものではなく
摂関家を外戚としない後三条天皇と白河天皇が即位したことによる。外戚ではないので関白であっても
天皇に強い影響力を持てなかった。そこで白河天皇は摂関家を外戚としない堀川天皇に早めに譲位して
上皇として政治的影響力を残すことにした。そんな感じで平和裡に摂関家の力が弱められて行ったので
もはや摂関家は除くべき敵ではなくなった。そうなると「昨日の敵は今日の友」、摂関家も朝廷をともに
維持運営していく仲間となるわけです。 >>682
うそぉん。17世紀の頭から鹿児島・島津藩の支藩だったじゃん。
藩王の世子は鹿児島に抑留。
鹿児島から遣わされた島津の家来が常駐して、砂糖の栽培から移出から、明国清国へ挨拶で持っていく手土産の品目や数量から指定して返礼でもらってきた土産の接収から、
明国清国との交易で売ってくるもの買ってくるものから、一々、指示してたじゃん。 琉球王尚寧が島津家久に連行されて江戸に上って謁見しとるやないか
ホンマにチョンは歴史知らんな >>690
それもあるけれど、アメリカ占領期の沖縄出身者の扱いが、自国民扱いだったり、定住外国人扱いだったり、中途半端だった。
定住外国人→帰化の扱いで、当時の指針に、日本社会に順応しやすい氏を名乗らせるというものがあって、琉球風・唐風の苗字から
鹿児島以北にありふれた苗字への変更を自ら申し出ると、割と簡単に認められていた。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>694
帰化であれば確かに、どこの国からの人であろうと、極く一般的な日本風の姓にさせていたものだった
今は欧米風の姓でもそれをカタカナという日本文字にするだけでOKとなっているが Mike Havenaarというオランダ人(日本生まれ日本育ち)は帰化して、ハーフナー マイクとしてサッカー日本代表になった 帰化は、日本戸籍を新製するのだから姓名も新しく定めることができる
アメリカ施政権下の沖縄から本土へ来た人はなぜかそういう理由で新しい姓となった人があるのだろう
(戦災による戸籍再製の人も別にある)
そういうことでなくて、元々日本人扱いなのに姓を変えるのは余程特別な場合でないとできるものではない
色魔(しかま)という姓の人が改姓を認められたとかは聞いたことがあるが
ドイツではヒトラーという姓の人は戦後改姓してしまったとか
Durumpfというドイツ人がアメリカに移民で渡った際には、姓を英語に翻訳してトランプにした 翻訳といえば日本語のローマ字表記のヘボン式のヘボンとオードリー・ヘップバーンのヘップバーンは同じらしいな。 >>692
この人は通称「沖縄くん」といい、歴史についても国際法についても全く無知なうえ、日本語能力も極めて怪しいです。
反論されてもほとんど再反論できずに逃亡し、ほとぼりが冷めると、同じことを書きます。
反論しても無駄ですし、放置してください。 院政が始まった頃には摂関家側にも事情があって政治責任を十分に分担できないから院政を歓迎してたんだろ
のち、摂関家で内紛っぽい争いがあって当主と仲が悪い関白忠通が保元の乱で天皇方だったことで摂関家当主が敗退し、領地の一部削減や氏長者の任命権を失ったことなど、乱の戦後処理によって摂関家の力が削減されている
さらに、治承寿永の内乱(要するに鎌倉幕府の始まり)の過程で摂関家の分裂が勃発して更に弱体化してる
平和的に弱体化しただけではなく、戦乱の影響が少なくない >>692
琉球王国の誕生=1429年
島津の琉球侵攻=1609年
島津が琉球王国を侵攻する180年も前から琉球王国は存在していた。
だからその琉球王国を前身に持つ現在の沖縄は日本固有の領土ではない。
残念でした。 >>693
琉球史を知らないのはヤマトゥンチュ。
島津による琉球侵攻から180年も前から琉球王国があったことを知らないんじゃ琉球史を語る資格はない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています