歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ47
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歴史学博士らがあらゆる質問に即答するスレ46
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1530453710/ 頭蓋計測8項目に基づく縄文人からのマハラノビス距離
朝鮮15.8 畿内10.2 九州9.7 関東7.6 東北6.1 沖縄3.7 アイヌ2.8 日本政府は「沖縄県の尖閣諸島は日本固有の領土」と言うが、なぜか「沖縄は日本固有の領土」とは言わない。
日本政府は過去に一度も「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがない。
日本政府がなぜ「沖縄は日本固有の領土」と言えないかというと、沖縄はかつて琉球王国という日本の主権(統治権)が及ばない異国(独立国)だったから。
皮肉なことに沖縄が日本固有の領土でないことは1879年に日本政府が軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで日本政府自らが証明してしまった。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 明治政府が一方的に琉球王国を解体して琉球藩にしたのは1872年のこと。
その時点で琉球は外務省の管轄下に置かれていた。
その後、1873年に内務省ができ、翌年の1874年に琉球は内務省に移管されたというのが歴史的事実。
一時的にせよ外務省の管轄下にあったのは琉球だけで、その他の諸藩は当時、大蔵省の管轄下にあった。
1871年の廃藩置県で明治政府が琉球にだけ廃藩置県ができなかったのは、当時の琉球は藩どころか日本の領土ですらなかったから。
1872年に明治政府が廃藩置県とは真逆に琉球を藩に変えたのは、後々、「琉球にだけ廃藩置県をやっていないじゃないか!」と国内外から追及されることを恐れていたから。
つまり、明治政府が行った琉球藩設置というのは国家の統治機構の改変という実質的な意味はなく、形式的な変更にすぎなかったというのが歴史の真実である。
沖縄が日本固有の領土でないことは沖縄の前身である琉球王国に日本の統治権が及んでいなかったことで証明されている。 以上、沖縄くんの妄言コピペでした。
皆さん、無視してください。 「固有の領土」という言葉は国家の政治的主張にすぎないから日本政府に「沖縄が日本固有の領土であるという法的根拠を示せるか?」と質問してもだれも答えられない。
もちろん首相も官房長官も外務大臣も防衛大臣も答えられない。
国際法に固有の領土に関する条文など存在しないから日本政府の閣僚が、沖縄は日本固有の領土であると主張できる法的根拠を示せるわけがない。 ヤクザ史とか風俗営業史って
なんで教科書に載ってないの?
(´・ω・`) 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本政府は「尖閣諸島に領土問題は存在しない」と主張しているが、その一方で日本政府は「東京や京都、大阪などを日本固有の領土と言わないのは東京や京都、大阪には領土問題が存在しないから」とも説明している。
東京や京都、大阪には領土問題が存在しないから、それらの地域を「日本固有の領土」と言わないというのなら、「尖閣諸島に領土問題は存在しない」と主張する日本政府が「尖閣諸島は日本固有の領土」と主張するのは明らかに矛盾している。 じゃあ、お薬を出しておきますね。
はい、次の方〜。 ふ〜い 随分待たされたワイ
あの、先生‥
九州は熊襲、隼人のクニ
出雲や吉備もヤマトとは敵対しておりました
東日本は蝦夷の天下
ですから到底、ヤマトンチュウの固有の領土とは言えません もっと遡れば、日本列島は縄文人のものでした
近畿の政権とは何ですか、ありゃ全く渡来人の風貌をしております
列島の隅っこの方には縄文人の形質が残っているようですが
そういうトーホグの秋田美人だとか、沖縄の濃い顔、ここらへんが縄文人の正統
日本列島固有の民族です
‥‥センセ、お薬お願いします 今、志村けんのバカ殿見ているけど昔の殿様はほんとうに顔を真っ白にしてたの? 馬鹿殿って具体的に誰のイメージなんだろ?
戦国大名?守護大名?江戸時代の藩主?
天皇?公卿?
でも天皇や公卿に殿は変だから、やっぱり大名か藩主かな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 馬鹿殿
参勤交代しない
城持ち、天守あり
妻子なし
取り潰しだな 志村けんのコントだろ
実録モデル小説みたいに考えることねーべ
天皇だとか‥おま‥アーニ考えてだか >>732
前田藩、黒田藩、
江戸時代には多かった、長い期間だったからどの藩もいる
戦国時代だと周囲に攻められて滅亡 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>737
戦国時代だと、滅ぼされる前に家臣が追放する
滅ぶまで当主を続けるのはバカ殿ではない。
もっとましな人材が容易に得られるようなバカではないから代役を見つけられない >>736
藩主だろうなとは思ってたけど、志村の公家言葉や
白塗りお歯黒はかなり公家っぽいやん 江戸に入っても御家取りつぶしになりそうな殿様なら家臣による「主君押し込め」はあった
家臣皆が禄を失うような案件には自衛の力が働く
倒産必至なら社長を取り換えるようなもの
主君を隠居部屋に押し込めて次の殿様を擁立する
志村けんはスターだからそんな目には合わないが 馬鹿殿と見なされる基準は現代のものとは大違いだけどな
家臣の奏上を全部認可して、「そうせい」と言うのが常だからと「そうせい侯」と呼ばれた藩主は、現代視点なら馬鹿殿って事になるが、当時としては平均より良い君主だしな
むしろ自分から率先して動く君主の方が問題視されがち。 元寇ってなんで防塁が厳重な北九州にのみ上陸しようとしたのですか?
東北と九州からの挟撃や九州にしても南や西から上陸させて防衛線の裏を突くとかできなかったのでしょうか? 元寇の時代にそんな詳細な地図があって
軍隊配置が予想できたと思う? >>744
船を作ることも含めて航海担当は高麗なので北九州行きの実績しかないので
東北は無理です。渤海あたりは秋田城に来てるけど。
>>741
>前田か黒田が有望なのか
前田利常は幕府から加賀百万石を守るためにうつけを演じていたと言われている。
バカ殿ではない。 白塗りはバカ殿メイクっぽいけど、江戸時代の大名なら白塗りする事もありそう
今じゃお稚児行列に参加する時ぐらいかもしれんが >>745
地図が無いところを攻めてみょうと思った理由が知りたいな? バカ殿様のイメージを真面目に考察すると桶狭間の戦いで信長に殺された今川義元が京文化に
ズッポリ染まって白粉にお歯黒の能無しとしてイメージされてきたのがそのまま反映されたものと思う。
近年は義元が能無しで敗れるべくして敗れたのではなく、たまたま運が悪くて頓死したとみなされているので
今川義元がバカ殿と思うのは間違いだがな。義元の息子氏真も父の仇を取ることもなく蹴鞠ばかりで
家を滅ぼしたからバカ殿といえばバカ殿だな。ついでに思い出したけど中国地方の大大名大内義隆も
前半生は名君だったが尼子氏との決戦に敗れて養嗣子晴持を失ってからは文弱して「束帯姿で牛車に
乗るなど貴族趣味を持っていたと言われる。」ということなので白粉も塗ってたかもしれない。結局義隆は
家臣の陶晴賢のクーデターで殺された。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>748
”詳細”な地図はないが
三国の昔から東の島国に何やら勇ましい民族が居ることはわかってる >>749
近年ってわけではなく、昔から今川義元は「東海一の弓取り」「駿遠三の太守」などと評価されてる 古い地図だと日本は九州から南へ南へと陸地が伸びてゆくように描かれるのが目立つ
これだとこんにちの東北地方を攻めようとすれば南洋の方まで回りこまなきゃならないな 元寇の頃には貿易もかなり頻繁に行われて特産品も把握してるし
日本を攻めるメリットも当然あったんだろう >>749
その氏真だって、「こんな馬鹿殿を上に置いてたら滅亡する、追い出してマシな党首を立てようぜ」と考える家臣がでない程度にはマトモだったんだぞ
逃げ出した家来衆は多いけどさ
逃げたヤツの多くは外様で普代は逃げるヤツは少なかっただろ(追放の主体は普代が普通で外様は関与しないからか?) >>755
あの時点では今川は既に風前の灯で氏真を替えてももどうにもならんから沈みかけた船から
逃げ出す鼠のよろしくみんな逃げ出したと思うけど。ただね、俺は、バカ殿といえばバカ殿だけど
最後まで生き延びたことは評価してる。 日本政府は140年前の1879年3月27日に琉球王国を武力併合しているから安倍内閣の閣僚は口が裂けても「沖縄は日本固有の領土」とは言えない。
仮にそのような発言をする閣僚が現れたら、「ではなぜ沖縄の前身である琉球王国を武力併合したのか?」と追及されて、その閣僚は沖縄県民に謝罪しなければならず、対応次第では辞任に追い込まれることになる。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>746
確かに対馬 壱岐と経由しないとたどり着かないレベルの航海技術では無理そうですね >>744
日本は山が多い、
海岸線が平野部のところでないと上陸してもだれもいないし、食料も調達できない
岩場だと接岸もできない 今の上陸作戦でも、大軍を一斉に上陸させられるところは限られているから、
大抵は強襲上陸を想定して海兵隊を組織しているからな。
奇襲上陸がうまくいったのは朝鮮戦争の時の仁川上陸作戦くらいじゃないの? >>762
オマハビーチでは危うく負けそうになっただろう?
大抵上陸する場所は読まれているからな。 資料不足で答えが出るわけないから、それを良いことにしていつまでもグダグダ言って居られる >>764
邪馬台国ネタは江戸時代から続く伝統産業になっているからww
これで儲けている奴は結構いるしなww このスレでもしばしば話題になりますが
「武士の起源」を論じる前提として「武士」の定義って学会ではどのように定めてるんでしょうか?
例えば以下の人々は武士とされるんでしょうか?
坂上田村麻呂:
藤原利仁:
平高望の子ら:
平将門:
源満仲:
或いはこれらの子孫で誰もがガチ武士認定されてる最初の人があれば教えて下さい そこまでご存知ならわざわざこんな所でお尋ねにならなくても… 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>769
浅学なりに知ってる名前を上げてみただけでアホかと思われるのは承知なんですが、
この手の議論に興味はあれどもついてけなくて・・・学会や歴史学博士らの認識を教えてほしいです <武士の起源>
〇平安貴族が一族の者を自らを護る警護兵とし、武官として任官させた者、およびその子孫
平家や源氏は天皇家の警護兵
〇地方の墾田地主から豪族化し、中央貴族と結びつき任官した者
〇地方鎮撫のため下った貴族が土着したもの ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 そもそも今宣伝されている武士道は新渡戸稲造が徳川時代後期の
極端な事例を集めて作ったほら話に
限りなく近いからな。
ただ徳川時代後期には新渡戸稲造の話みたいなことを真面目にやろうとした
人がかなりいたのは間違いない。
またそれが格好良いと考える人が大勢いたのも間違いはない。 琉球舞踊は日本固有の舞踊ではない。
その証拠に琉球舞踊は日本の主権が及ばなかった琉球王国時代に琉球で行われていた舞踊であって、当時の日本では誰一人として琉球舞踊を踊る人はいなかった。
このように琉球舞踊が日本固有の舞踊でないことは歴史が証明している。 >>772
>平家や源氏は天皇家の警護兵
清和源氏の初代源経基は武蔵介として関東に下り色々あった末に平将門が謀反を企てたと訴えた。
実際には冤罪だったがのちに将門が本当に謀反を起こして成敗された後で功績があったとみなされて
出征の糸口とした。二代満仲は武将として名高いが摂関家と結んで勢力を伸ばた。こんな感じで
天皇家の警護兵ではないです。
平氏の方もいくつもある平氏の中で武家になったのは高望王の子孫だけ。高望王は上総介として
関東に下りそのまま現地に残って子供達を関東各地に入植させて平氏の地盤とした。高望王の
三男平良将の子が平将門です。将門は若い時に京に上って滝口武者を務め、検非違使の佐に
なりたかったけどなれなかった。これも天皇家の警護兵ではないです。 >>778
それと摂関家は自分を守る武力として多田満仲のような武将と結びついたわけだから
一族の者を武士にしたというのも違います。 平氏は檀ノ浦で滅亡したとありますが、滅亡の定義は何なのでしょう?
桓武天皇の血を引く武士団が平氏ですが、あの戦いで傍系も含めて全部死んだのですか?
何をもって滅亡と見なすのでしょう? 壇ノ浦で滅亡したのは平氏じゃなく「平家」だと思う
より正確には平安末期に源平藤橘をまんま名乗る奴がどんどん少なくなって
その中で依怙地に平家名乗りしてた輩が全滅したというか「処分」されたというか
ちなみに滅亡したのは桓武平氏の傍流・伊勢平氏な、桓武平氏全部が全滅したわけじゃない
桓武平氏の血脈自体は何よりも北条氏(坂東平氏)の方に思いっきり残ってるわけで
源氏名乗りも頼朝・実朝以降一気に減ったし(なお足利氏や新田氏)
源平藤橘の名前をまんま名乗れた時代の最後の徒花だったって感じかな
仮に伊勢平氏に生き残りが多少あったとしても、いずれは別の苗字に変えてたと思う >>782
数ある平氏の中で清盛とその仲間たちを特に平家と呼びます。壇ノ浦で滅んだのはこの平家です。
「平家にあらずば人にあらず」と言った平時忠は清盛の嫁の弟で平姓だけど清盛の家とは別の平氏です。
つまり清盛と同じ血筋だけでなくその仲間も平家一門というわけです。この平家は壇ノ浦で滅んだけど
清盛の弟頼盛は頼朝に降参して生き延びました。だから全滅したわけではありません。滅んだというのは
政治を動かすような勢力としては滅んだということです。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 日本人と沖縄人は異人種であり異民族である。
その証拠に生粋の沖縄人で日本人に多い鈴木、佐藤、斉藤、伊藤、加藤、渡辺、山本、田中、高橋といった名字の人は一人もいない。
逆に、生粋の日本人で沖縄人に多い比嘉、具志堅、渡嘉敷、瑞慶覧、久手堅、護得久、志堅原、和宇慶、阿波根といった名字の人は一人もいない。 畿内人と朝鮮半島の人々は北方アジア的な寒冷地適応型の体の特徴を持っている。沖縄とアイヌの人は似ている。それから東北人はアイヌに近い特徴を示す。
松村博文・札幌医科大学教授 白村江の戦いのあとの唐って本当に九州を占領してたの? >>791
日本書紀に667年唐の将軍が熊津都督府の日本人捕虜を筑紫都督府へ連れてきた、という記事がある。
熊津都督府は唐が旧百済に設置した。都督府は中国の役所だから筑紫都督府をそのままに受け取れば
唐が北九州に置いたと考えられる。そう考える人は唐が九州を支配していた証拠と言うだろう。
しかし唐や新羅の記録に筑紫都督府が出てこないのでそういう事実はなかったと考えられる。
書紀の筑紫都督府は軍政機関の唐名として太宰府の前身をみやびに表現したものと解釈して、要は
半島にあった熊津都督府から太宰府(の前身)へ送ってきたという事である、と思われる。であれば唐が
九州を支配していたという事実はなかったと思われます。
ちなみに日本で唐名を美称として使う例には水戸黄門の黄門とか平相国(平清盛)とか「宰相殿の空弁当」で
有名な毛利宰相とかいっぱいあります。皇太子を東宮と呼ぶのもそうだな。例に挙げたのは官職ばかりだけど。 散々既出でしょうが教えてください。
「国造」は、
「クニノミヤツコ」なのですか、それとも
「クニノミヤッコ」なのですか?
「国の宮つ子」
「国の御奴」
ググっても良くわかりませぬ。 ミヤツコですがそれをどう解釈すべきかはわかりません。wikipediaには「御奴」または「御家つ子」の
意味とされると書いてあるけど。 >>794
ありがとうございます。
年来の疑問でした。 なぜ家康は関ヶ原後に上杉家を滅ぼさなかったのですか? >>793
こくぞうって読む場合もあるけど、あれは何や? 何やって、音読みやろ
支那語の発音読み
日本語に訳して言えば、みやつこ >>799
「日本」と書いてヤマトと読むこともあればニホンと読む場合もあるのと同じ。
つまり大和言葉と単純に訓読みしたのとの差。 数年前、皇族が嫁いだ時はほぼ出雲国造をいずもこくぞうって読んでたと思う 日本は第2次世界大戦で敗れたにもかかわらず、日本政府はこの結果を認めず「北方領土を返せ」とロシアに主張している。
しかし、日本政府のこの主張は無効である。
その証拠に旧敵国条項とされる国連憲章107条には「第2次大戦の結果は変更できない」と記されていて、日本は国連憲章に署名し、批准したわけだから、いまさら「北方領土を返せ」と主張するのは間違っている。 >>801
沖縄では日本のことを「ヤマト(大和)」と呼ぶ人が多い。
日本人のことを「ヤマトゥンチュ(大和人)」とも呼ぶ。
一方で、沖縄では自分たちのことを「ウチナーンチュ(沖縄人)」と言う。
ウチナーンチュ(沖縄人)はエスニックアイデンティティーにおいてヤマトゥンチュ(日本人)とは違うと思っている人が多いからこのように区別している。
また、沖縄では東京の政府のことを今でも「日本政府」と呼ぶ人が多い。
なぜかというと、1972年まで沖縄には琉球政府があって、当時のウチナーンチュ(沖縄人)にとって政府といえば琉球政府のことで、東京の「日本政府」と区別していたから。
その名残からか今でも沖縄では50代後半の世代を中心に「日本政府」と呼ぶ人が多い。 >>807
奄美諸島、沖縄諸島、小笠原諸島は返還されたよ >>809
奄美諸島、沖縄諸島、小笠原諸島の返還は施政権の返還であって領土の返還ではない。 >>804
読み方が分からない古語は便宜的に音読みする習慣はあるな
前近代のかな表記では小さい文字を使わないから、読み方は分かりにくい
みやつこ がミヤツコなのかミヤッコなのか、はたまたミャツコなりミャッコなのか調べるのは困難だろう 質問です
1万人とかそのぐらいの中から1人きめる
その1人が100人かあつまって、1万人の後援者は無視して勝手に何をどう考えてどう結論出したかは内緒のまま
いろんな物事を決定とかしちゃう。公にはできない軍事秘密も全部この100人のみがしってるが後援者1万人は知らない
実際に正しいことをやってるかどうかすらよくわからんというレベル
暴走もなんでも可能
みたいな現状の議会の仕組みのことを何て言ってますか? >>813
衆愚政かな。なんで日本史板で訊くのか判らんが。 衆愚制とはちょっと違うと思う
バカな政治家選んでめちゃくちゃやりまくる意味合いだと思う
全部の世界が共通して同じ現象だからそれとまた違うでしょ 代表者を選ぶという間接民主制の仕組みで政治家の仕事の内容の評価がないで放置するのは衆愚政で間違いなかろう。 >>812
まつげ(目つ毛)、かみつけ(上毛 こうづけ 上野)、しもつけ(下毛 下野)、などの言葉を知らないのか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています