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♪邪馬台国ドンと来い!♪142
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0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 18:01:03.93
伊予の海人族の祖は、あるいは魏志倭人条に出て来る狗奴国の狗古智卑狗かもしれませんね。
伊予の河野氏の祖は河野越智彦と伝えられます。おそらくは同じく倭人条に出て来る邪馬台国を破って崩壊させたのは狗奴国。
後の支那の史書には狗奴国が「東」に有ると記載されているものもあります。
日向から瀬戸内海に進出するも、日本全土の統一には至らなかった狗奴国。
むろんのこと邪馬台国が「東遷」することもありませんでした。
瀬戸内海を「東進」したのは朝鮮半島南部の争乱を避けて九州北部に進出するも、そこの豪族たちの強さに恐れをなし
宇佐に居た邪馬台国の末裔=神夏磯姫と婚姻関係を結んだ半島の多羅国の王族たち、これが神功皇后、そしてその息子である応神天皇でしょう。
ちなみに彼らは現代のエベンキ朝鮮人とは全く無縁の、半島に居た「倭人」です。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/11(月) 22:57:47.43
適当なことを根拠もなく書くんじゃないよ。
伊予の海神の名前も系譜もきちんと伝承に残っているのだから、それを無視してはいけないよ。

【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。

その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/14(木) 10:10:56.31
>>343
連合を組んだという事実を示す史料(条約本文または事実を伝える文書)や伝承はありますか?
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/14(木) 12:25:18.66
んなもんあるわけ無いわ。
邪馬台国畿内説とやらを完全崩壊させた最大の戦犯こそ纒向やで。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/15(金) 13:12:14.14
>>359
大和朝廷が奈良に首都の建設を始めて古墳時代が始まる。
で、良いんだけど、文字は無いとして伝承は記紀にならないと困っちゃうんだよねw

これ、基本的には銅鐸地域がバックボーンのはずだけど、記紀ってこれが駄目なのな。
関東方面の影響か、銅鐸終了早かった出雲吉備とかの隆盛ってことかと・・・
あと、高句麗馬の移入に関して、朝廷主導のすごく重要な変化なのに変。
倭人伝に書いてあるのに、邪馬台国なんて、考古学課題なのかね?

よく箸墓とか出て来るけど、邪馬台国はローカル九州だから、
朝廷は、190年〜238で、邪馬台国と関係あっちゃいけないかもね。
考古立証として、地域性ある土器の集中。

邪馬台国は案外小さいから、半島からの青銅器の移動考えれば
日本海で遠賀川や 瀬戸内で中津、宇佐地域は 
邪馬台国なんて出来てないBCでも薄くは交流は有ったと思うね。

九州、本州の交流ですら、半島程度?の そこそこしかないのに、BC200位に届かないうちに
縄文 弥生の人的変化は相当濃い関係が有ったってのは相当無理の有る謎じゃないかな?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/15(金) 15:43:48.97
>>362
日本人じゃないんだろ
察してやれよ
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/15(金) 23:45:50.71
大和朝廷を建てたんが吉備の連中やとは言わんが、吉備の影響は相当に入っとるわな。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/16(土) 03:46:01.20
吉備と粟は影響が大きいよな
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/16(土) 07:14:08.51
>>367
弥生の大洪水で西日本の灌漑稲作が大打撃をうけ壊滅状態となったため、
その雑穀が主食となったようだよ。  @阿波
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/16(土) 23:44:53.92
博多の比恵遺跡は凄いね。
あとその近くの那珂八幡古墳だっけ?
関西とは関係ない、独特な形式の古墳だということが最近わかったという。
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/16(土) 23:51:34.44
突然前方後円墳が出現してる時点で近畿とはズブズブ
記事をよーく読み直してみような
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 15:06:34.91
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

3世紀中葉から後半にかけて日本列島各地で出現した前方後円墳は,弥生時代後期後葉の様々な地 域の交流の所産という考えが日本考古学界で広く受け入れられている。
しかし古墳の出現は首長間交流の所産であるのに対し,集落から出土する土器は一般庶民の生活を 反映している。したがって,両者の関係をそう単純には結びつけることはできない。
纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には 流入しない土器群がみられる。
前方後円墳で象 徴されるネットワークは恐らく大和が中心で,そしてそれは祭祀,あるいは政治的な意味合いも含めたネットワークであろう。
それに対して,畿内型(系)土器の拡散で象徴されるネットワークは大和や河内が必ずしも中心ではなく,場合によっては交易の所産である可能性も高い。
特に重要なのは, 福岡平野の比恵・那珂遺跡群で,一度畿内型土器が搬入され,模倣製作されたのち,在地の土器製作者がそれらを我流の技術で生産し,豊前,豊後の一部地域はもちろん,壱岐や遠く朝鮮半島南部に搬出するという現象である。
これは福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたことを示すものであろう。
中央(最高首長)の意思決定行為は内的に細分化・専門化されておらず(官僚機構の不在),支配能力が高くなく,したがって地方首長は自分の支配地域の維持運営にさまざまな責任を負っているため,地方は中央の意思とは別に,独自の行動をとることが可能である。
古墳出現期の福岡平野がまさに,独自の行動をとっている地方の実例である。古墳時代を国家段階と捉えた時期もかつてあったが,この研究の成果が示すように,少なくとも古墳時代初頭は国家段階にまったく達していないことが推測できるのである。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 16:01:51.31
テスト
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 16:05:30.70
>>373
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0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 19:40:46.56
>>372
厨坊のチラ裏に、大変貴重な論文をご提示いただき感謝です。
お勉強になります。

古墳時代以前の九州と関西との関係については、
銅鐸、青銅器によって異文化の可能性は示唆、明示されていますが
土器厨考古学の側からも、しっかり検証されていたことを知りました。

アラシの広鼻ブラック先生への質問が、馬鹿だったと、いまさらながらに思います。
レイシスト志向の、民族系考古学とか、有んのかな? 
勉強が足りませんでしたw

銅鐸時代までの、本州と九州は土器に見るように断絶とは違いますが、
半島南岸と同程度に外国という認識下に有ったように思います。

漢代から交流のあった、238年公孫氏、246年韓王朝の滅亡
これが、大陸外交フロントだった 筑紫を 張政が査察に入った
247年以降、管理下に置けなければならなかった事情だと思います。

247年〜400年の考古学は、土器よりも
前方後円墳に伴う高句麗型古墳の拡散、400年まででの甲斐関東への広がり
『牛馬の移入」 が主軸になるべきではないでしょうか?
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 19:42:48.89
>>375
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0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/17(日) 19:46:10.34
紀元前から半島南部は菜畑や板付、金隈と同族の農耕縄文人が征服し、大陸からは辰国と認識された。
根拠として挙げられるのが、半島最古の住居遺構である松菊里住居跡が日本の竪穴式住居の劣化コピーであること、と半島最古の水田遺構である麻田里の温帯ジャポニカ米。

寒さに弱い農耕縄文人を尻目に、半島の北緯36度線以北に流入した様々な民族が弥生人(元縄文人)国家である辰国と融和しながら形成されたのが馬韓・辰韓・弁韓・狗邪韓国。

倭人(元弥生人)の影響を受けなかったツングース系・穢族・プヨ族を併合して高句麗に、馬韓は百済に、辰韓と弁韓が併合して倭種の国として新羅に、狗邪韓国が倭人の国として伽耶を含む任那に移行。

原韓人とも言うべき百済は倭国本土に媚を売り続けたため反感を買い、唐と組み、中国化した新羅に絶滅させられ、高句麗も滅亡し、任那は本土に撤退、統一新羅に。

その新羅も高麗に滅ぼされ、民族としての倭種の国は半島から消滅。

高麗はモンゴル帝国の侵略を受けツングース系とモングル系のハイブリッド国家へと変貌を遂げ、現在に至る。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 09:40:01.17
>>3 摘要
南至投馬國 水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
(自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳)
次有 ー24国列記ー 此女王境界所盡
其南有 狗奴國 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里

『邪馬壹國』という国名の用例は、この文のみで歴史上の使用の全てである。
これは、240年魏の軍船による行軍で来日、卑弥呼女王宮で印綬した、
建中校尉梯儁による、地理及び女王国国勢の報告文である。
(自女王國以北〜は陳寿の補足説明、梯儁の報告はこれを無視した方が理解しやすい。

この時、梯儁が印綬の女王共立国の和名と国勢を参問して邪馬壹國と命名した国は
次有を21回も費やした列記21王国で尽き、これが全てである。(此女王境界所盡)
現代語誤訳 が、必要な漢文とは思えない。

問題の 南至投馬國 水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
は、梯儁による帯方郡起点の行軍日程を記した地理説明であるが、
この文脈として、自郡至女王國 萬二千餘里  に相当する。

文法として、南至投馬國が前文と直列関係に無いことは
里程と日程の違い、地名の都市と国の概念、からも明らかだが、
並立する南至投馬國と南至邪馬壹國が直列するか並列するかは、自明とは言えない。
そこで、陳寿の補足説明が生きる。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

其戸數道里可得略載された、投馬國は女王国以北
邪馬壹国は糸島半島早良福岡平野筑紫平野の21国の総称であるから、
投馬國は、海峡を隔てた半島南岸、謎の倭人国である。

韓伝における弁辰韓は雑居で詳細不明だったが、246年韓王朝滅亡で臣智以下の官制となった。
これにより240年の謎の倭人国投馬國に247年狗邪韓國=弁辰狗邪が含まれる、で妥当である。
投馬國も邪馬壹國も、240年梯儁の報告以外では使われていない国名なのである。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 10:21:36.19
謎の倭人国? 意味もなくそんなもん出すわけないだろ
投馬国は邪馬台国へのルート上にあったから出てくんだろうに
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 10:37:50.15
投馬国の方が遠い。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 10:49:53.81
>>379
魏が楽浪帯方郡を三代に渡る公孫氏から奪還したのは238年卑弥呼の朝貢の年である。
240年梯儁は、韓西岸の行軍も対馬渡海も 魏時で初の使譯であった。

この2年で馬韓の状況は多少知ったとして、韓南岸を見たのは初めてである。
この、魏時の使譯までには、謎だった、倭人地域のうち、使譯のルート中で見た
半島南岸倭人国 可5万戸を 投馬国 
筑紫 可7万戸 を邪馬台国と命名した。

>謎の倭人国? 意味もなくそんなもん出すわけないだろ
倭人伝 評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

史漢著 朝鮮両越
この朝鮮は、公孫氏の本地、遼東を意味する。
倭人伝評の魏世における爰及 東夷 は、韓南岸を含む倭地のことである。

倭人伝の意味は
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
である。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 11:04:56.79
>>380
自女王國以北 其戸數道里可得略載
を 無視すれば、どっちともとれるんで、それでもいい。

『おまえがそう思うんなら、そうなんだろ。 おまえの中ではな』 って、やつw
歴史屋や考古学では、都合が悪いものに蓋をする。 これは『蓋』で良い。

だからと言って、考古学的結果は
投馬国が、宮崎の都万や熊本や薩摩には、絶対ならない。
倭人伝は、魏時2回の使譯で行ってない土地は、伝説以外での説明はしていない。

老婆心だが、村おこしや予算取りの捏造なら、判るがw
倭人伝の邪馬台国とは無関係な穴掘りになるんじゃないのかな?
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 11:41:23.85
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 13:55:45.49
|∩`Д´) / '⌒☆魏志倭人伝を正しく読む というスレで文法を習って来たよ。

東行 至不彌國 百里=東へ行くこと百里で不彌國に至る。
この文は
東南 陸行五百里 到伊都國=東南に陸行五百里で伊都国に到着する。
という、247年の張政の行程。
伊都までの積算一万五百里の行程に添えた
伊都に隣接した100里の国、奴国、不彌國の 2国の紹介の一つ。 
この百里2件で、張政は、既に墓を見た女王の王宮ヘは向かっていない。

南 至投馬國 水行二十日=南の投馬國に至るには水行で20日である。
この文は、動詞の前に 至+地名 が有るので、
前文の地名から、直列で動的に繋がる文法にはなっていない。

さらに、後続文によって、邪馬壹國は21国から成る辰韓12国のような概念の国。
奴国がこの21国に含まれるから
奴国と邪馬台国は、同じ里程で示した行程文で直列する事は有り得ない。

問題は
南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月=
南に邪馬壹國 女王之所都に至るには、水行十日 と 陸行一月である。

そうだろうか?
21王国による共立女王の国、邪馬壹國へは水行十日で上陸した時、既に至っている。

至 邪馬壹國は 水行十日 さらに 女王之所都へは陸行一月
という、並立的な意味表現の文章ではないかと考える。

表現が子細な現代日本語に訳さず漢文素読だとどっちでも良い表現とも思えるけれど
テンプレが、倭人伝全文の♪ドン来いスレの皆様のご意見を伺いたい。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 14:41:30.67
あまり伝承も記録も残っていない辰国は縄文文化の国家だったのか
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 15:37:29.22
都という字には「全部で、トータルで」という意味もある
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 15:53:32.06
>>385
縄文人とか弥生人とか言うからややこしくなる
狩猟系倭人と農耕系倭人、海洋系倭人とかにしたほうが一般人の理解が広がると常々思う
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 20:53:57.07
>>387
縄文人といい弥生人といい決して一枚岩ではない
混生し棲み分けし協業していたという共通理解が必須
これが出来ない単細胞のひとにはややこしいだろうけれども
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:03:09.96
弥生人の扱いだけが隣国の民族願望なんかが入り込んで臭せぇ存在になってるだけだろ
渡来系弥生人は分かるが弥生系渡来人て何だよっていつも思う
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:21:25.39
>>390
中国系九州人
九州に住みついた帰化中国人?

九州系中国人
九州生まれの中国人?

確かにややこしいなw
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:27:22.75
こんな例もある

中華系台湾人=外省人=台湾居住の漢民族

台湾系中国人=本土に転居した台湾出身者
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:30:29.08
スレチだけど、
文献で結果が出てる、邪馬台国より
縄文弥生の方が面白いよね。

縄文から弥生の人類的、DNA変化が絶対に有るなら
おそらく、縄文遺伝子の劣化、男子が生まれないみたいな、
アマゾネス化みたいな変化が有ったと思うんだ。

縄文人成立は、大陸からの陸封でのガラパゴス化だが、
ガラパゴス化とは逆に、ろくに船も無い時代に、大量移民は有り得ない。
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 21:40:42.22
>>393
スレチだヴォケ
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 22:15:37.39
>>394
スレチ以前に会話が成立しえないレスというのは
アラシとなんら変わらないということを理解すべきだと思う。

まあ、アラシにレスする、あなたもアラシです、
と、言われればw 何度も反省している。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 22:49:58.10
>>384
不彌國までが張政で投馬國と邪馬臺國は梯雋ってことかなるほど

ってことは壹與と張政があったのは伊都国あたりでいいん?
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 23:02:42.50
卑弥呼と会ったのも伊都。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/18(月) 23:28:41.73
>>397
卑弥呼の墓は247年張政の場合、末蘆国から伊都の間に有った。
これは、糸島半島北西岸から、今宿以遠、早良付近までに有ったことになる。

240年の梯儁は、自郡至女王國 萬二千餘里 で、
女王宮は、古代山城であるとして、八女〜みやまの南麓で間違いない。
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 01:21:40.27
放射状に読むのはそう読もうと思えばできないこともないっていう程度。
直行式に読むのが普通なんだよ
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 02:43:13.61
>>399
どっちにしても近畿に辿り着ける可能性をまったく感じない
四国説や近畿説の人ってこの辺どう考えてるんだろうか
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 07:41:06.10
>>400
ベテラン去り、こういう初心者、また来る。

末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方市辺り)

↓【東南】100里

奴国(二万戸)(田川市辺り)

↓【東】100里

不弥国(千戸)(築上町辺り)

↓【南】 豊後水道 水行20日

投馬国(五万戸)(土佐宿毛市辺り)

↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は、陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察

女王・卑弥呼のおわす 【邪馬台国 阿波】 到着(七万戸)

↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)

女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。   @阿波
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 08:23:12.73
オッケー分かった
邪馬台国四国説 part2

縄文の「朱」生産拠点
阿南・加茂宮ノ前遺跡
国内最大、最古級
祭祀と居住一体出土
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や石きね300点以上や、
水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。
水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。
県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
石臼の大きいものは直径30センチ。石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、
関連した遺物の出土数は1000点以上に上った。
水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の石臼や石きねが見つかっているが、数十点にとどまる。
調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。
縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、
「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末〜後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。
今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。
県教委教育文化課は「調査研究を進めて広く展示公開し、徳島の歴史や文化財に興味を持ってもらえるような取り組みを進めたい」としている。
2019年(平成31年)2月19日 徳島新聞朝刊
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 10:30:31.50
オッケー分かった
邪馬台国四国説 part2

極めて重要な発見
同志社大学文学部・水ノ江和堂(かずとも)教授(考古学)の話
縄文時代の遺跡が東日本や九州に比べてかなり少ない中四国の状況を示す極めて重要な発見。当時の水銀朱の生産、利用状況や集落構造を総合的に確認できる遺跡は他に例がなく、
今後の研究につながる。遺構を切り取って復元などしてもらいたい。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 12:07:45.15
>>401
福津上陸で八木山を通るのは何故?
直方に行きたいなら宗像鞍手の唐津街道か、見坂峠から犬鳴川沿いに下ると考えるのが自然なんだけど。
八木山越えたいなら路程が短くなる箱崎上陸でも八木山経由で直方まで45kmくらい福間浜から八木山経由だと60kmくらいになるよ。
見坂、唐津街道どちらも30kmちょいで直方に着くけど。
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 12:18:14.61
>>406
>福津上陸で八木山を通るのは何故?

特に八木山峠にこだわりはないよ。  @阿波
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:42:19.56
これは違う


狗邪韓国
  │
対馬国
  │
一大国
  │
末廬国
   \
  伊都国
      \
      奴国─不弥国
            │
            │
        投馬国
            │
            │        
          邪馬台国
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:42:52.69
これだな



狗邪韓国
  │
対馬国
  │
一大国
  │
 末廬国──不弥国
 │ │\ \
 │ │ 奴国 \
 │ │    伊都国
 │ │
 │ │
 │ │
 │ │
 │ 邪馬台国
 │
 │
 │
 │
 │
 │
 │
投馬国
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:51:10.80
>>409
好き勝手に変えてはイカン。  @阿波
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:56:04.35
.         /| | ̄ ̄ ̄ ̄|  |\
      ./   | | //.     |  |//\
  ∧_|| // | | ∧_∧ |  |    ||_∧
 (´-ω||//  | | <#`Д´ |  | // ||ω-`)
  ( ⊃||/ /.:::|__∧_∧│ \ /||⊂ )
 ⊂_)||/     <>>410 >     \||(_⊃
    |\     (  O  )   /|
    |  \     u―u'   /  |
    ∧_∧|  | ̄ ̄ ̄ ̄|  |  ∧_∧
   (  -ω)|  |  ∧_∧|  | (ω-` )
    (   ⊃|  |∩(     )∩ | ⊂    )
   (_)_)|  |_(    )|  |/(__ (_)
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 13:58:05.55
從郡至倭 (狗邪韓国)
始度一海千餘里 (対馬国) 始ての海
又南渡一海千餘里(一大国) また南に海を渡る
又渡一海千餘里 (末廬国) また海を渡る
────────────────────ここから下は方角と距離だけが書かれてる
東南陸行五百里 (伊都国)  
東南至奴國百里 (奴国)
東行至不彌國百里 (不弥国)
南至投馬國(投馬国)
南至邪馬壹國 (邪馬台国)
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 14:13:53.10
>>412
>────────────────────ここから下は方角と距離だけが書かれ>てる

渡海行動じゃないからね。 陸行にいちいち、又などを付けないだけ。  @阿波
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 14:29:49.19
へへへ

南至投馬國、水行二十曰
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 14:57:25.32
>>414
>南至投馬國、水行二十曰

それがなにか?  @阿波
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 15:17:38.06
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、縄文時代後期(約4000?3000年前)の集落が見つかり、祭祀に使っていたとみられる円形配石遺構14基や住居跡、祭祀に使う道具類なども確認された。
円形配石遺構の発見は西日本で珍しく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めて。
縄文期の国内遺跡としては最多の水銀朱遺物が出土した。
https://youtu.be/42d6IG9OTnI
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 18:20:59.41
あわわ・・・ すごいな、阿波。 
青銅器、鉄器の時代区分変わるのかな?
てか、漢以前だと 阿波までどっから持ってくるんだよ?
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:24:50.95
>>348 文法つづき というか、>>2 振り出し。|∩`Д´) / '⌒☆

今 使譯 所通 三十國 從郡至倭
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓国 七千餘里
(動詞+過程+方角+到地名+里程)『到』で循海岸水行が終わった。

始度一海 千餘里 至對海國 (有千餘戸)
『始度』到から継続する(動詞+里程+至地名)

又南渡一海 千餘里 至一大国 (有三千許家)
『又』また渡海 (動詞+里程+至地名)

又渡一海 千餘里 至末廬国 (有四千餘戸)
『又』また渡海 (動詞+里程+至地名)

東南陸行 五百里 到伊都国 有千餘戸
『陸行』上陸した (動詞+里程+至地名)
・・・・・・・『到』247年の張政は伊都で用件が終わっている。 
 
東南 至奴國 百里 有二萬餘戸
(動詞無し 至地名+里程 行っていない。紹介のみ)

東行 至不彌國 百里 有千餘家
(動詞+至地名+里程 前文と里程が直列しない、行っていない奴国と並列)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
南 至投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
(至地名+動詞+日程 前文と直列しない。並列もしない。)
この一文は里程が日程に変わり、戸数の有も可に変わる。
つまり、後文に続く段落の始まりである。
つづく
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 20:31:38.31
つづき|∩`Д´) / '⌒
南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
(至地名+動詞+日程)前文と直列か並列か? の確定文法は無い。 
前段とは違い、一旅程の行程というよりは、地理的な簡易説明である。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
可得略載の主語は陳寿であるから、これは付加説明。
戸數道里の示された投馬國は女王国以北。

次有 ー21国列記ー 此女王境界所盡
卑弥呼に印綬した梯儁は、女王共立の21王国を参問し和語を漢字にした。
これが、女王国の境界を形成する全ての国である。

其南有 狗奴國 不屬女王 
その南は狗奴國 女王国には属さない。

南 至投馬國 水行二十日 南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
は 自郡至女王國 萬二千餘里 である。

補足 倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

が、中国で知られる、倭国の全貌だが、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
卑弥呼の国は、九州島北部二千里の周旋可五千餘里 程の小国でした。

邪馬台国と命名しましたが、247年の報告では、一代で終りそうなので、
女王国ってことで、良いんじゃないでしょうか?
これが、陳寿の倭人伝である。
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 21:49:08.37
女王国の東に海なら邪馬台国は九州か阿波(笑)しかないな。

又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里。

侏儒国は種子島だろう。
かなり小さい成人の骨が出ている。
それに女王国から四千餘里はちょうど種子島あたりで辻褄があう。
邪馬台国は貝交易で南はよく知ってたんだろう
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:27:58.37
阿波さんに聞きたいんだけど、吉野川河口のところの萩原1号墓が前方後円墳の原型になんのかな?
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 22:55:24.06
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。


女王の国の北側は掲載可能
その他の国は遠くてよく解らない

阿波説だと北側は山陰・山陽地方
九州説だと北側は九州北部
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:03:22.93
>>423
萩原2号墓ですね。 ちなみに、2号墓のほうが古いようです。
海陽町野江(旧海部郡)の寺山3号墳も萩原2号墓と同時期、同墓式のようです。 長国ですね。  @阿波
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/19(火) 23:10:31.72
>>424
>阿波説だと北側は山陰・山陽地方

倭人伝時代だと、山陰・山陽地方は時期尚早だろう。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」 は讃岐・吉備辺りのことと想定しています。  @阿波
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 00:28:41.38
邪馬台国ってもんが
いかに、屁タレな小国であったか? 
という話が、倭人伝であって

なんで、大和朝廷構成国で最強の阿波が、邪馬台国だよ?
てか、最初から文章で邪馬台国は九州だろ?

考古学? 発掘とか、要らんだろ?
税金の無駄遣いか?
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 06:42:21.99
>>427
>邪馬台国ってもんが
>いかに、屁タレな小国であったか? 
>という話が、倭人伝であって

なんでそう取るの? 理解できない。

>なんで、大和朝廷構成国で最強の阿波が、邪馬台国だよ?

倭国(阿波)は大和朝廷の「構成国」なんかじゃないよ。 8世紀遷都以降の「大和朝廷」そのもの。  勘違いしている。  @阿波

>てか、最初から文章で邪馬台国は九州だろ?

文章に「其山有丹」と明記ある、倭国(阿波)。 これ以上でも以下でもない。  @阿波
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 07:39:54.13
有千餘戸 (対馬国)
有三千許家(一大国)
有四千餘戸(末廬国)
有千餘戸(伊都国)
有二萬餘戸(奴国)
有千餘家(不弥国)
可五萬餘戸(投馬国)  
可七萬餘戸(邪馬台国)


はっきりしてる対馬と壱岐、1戸5人家族として人口を計算
有千餘戸 (対馬国) 5千人   現在3万人
有三千許家(一大国)1万5千人  現在3万人

これは現在と比較しても無意味かな?
対馬と壱岐、昔は両島とも特別に人口が多かったみたい
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 10:54:59.40
>>429
ウイキペディアの「縄文・弥生時代の日本の地域別遺跡数と推定人口(小山修三, 1978,1984年)」から弥生時代の九州の人口予想を見ると105,100人で全国合計でも594,900
なので魏志倭人伝の戸数=人数で考えた方が妥当かもです。奴国だけで九州の予想人口とほぼ同じですし。
大きく見せるために戸で書いたとか、そもそもでたらめってのもありですが。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:43:09.61
>>428
>文章に「其山有丹」と明記ある、倭国(阿波)。 これ以上でも以下でもない。

話が通じないのは、オッケー分かったw でいいけど
ホントに文章読む能力無いの?

出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
これは、倭国全体のどこがこれらの産地でも良い文章であって
邪馬台国を阿波という特定の地名 として読んでるとしても、
真珠 青玉 丹 も邪馬台国から出る必要は無いんだよ。

真珠=大村湾 青玉=糸魚川 丹=阿波
で、流通可能ならそれで オッケーw って話でしょ。

これ以上でも以下でも、この文が阿波を意味してると読む必然性が全くない。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 12:57:44.91
>>432
読解力云々というより盲信とはそういうものだと理解すべき。
完全に思い込んで疑念も持てなくなってるから各所でマヌケと罵られ続けてる。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 16:29:07.77
>>431
>なので魏志倭人伝の戸数=人数で考えた方が妥当かもです。奴国だけで九州の予想人口とほぼ同じですし。

予想人口があてにならないと疑えということだよ。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:19:37.66
>>432
>これは、倭国全体のどこがこれらの産地でも良い文章であって

そんなことはどこにも書かれていない。 ご都合自分勝手読み。 それを無い物ねだりのひがみ根性と言う。

>で、流通可能ならそれで オッケーw って話でしょ。

そんなことはどこにも書かれていない。 ご都合自分勝手読み。 それを無い物ねだりのひがみ根性と言う。

まず、そういう遺跡を見つけてから物言いしましょう。 物言う資格なし。  @阿波
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:50:35.46
>>425
二号墓の方だったか
ホケノ山古墳によく似てるらしいね
こっちが先かな
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 17:57:15.24
>>433
うん、知ってたw 
阿南・加茂宮ノ前遺跡 がすごいなぁ〜と思って・・・ 
阿波先生から何か聞けるかな? と。 会話が成立しなかったorz

本州四国でもBC200年から青銅は流通してるわけで
九州説の壱岐ルートとは別に、縄文海神の
土井が浜や宗像、沖ノ島〜対馬東岸〜釜山ルートが、有ったように思うんだ。
こっちは、出雲や隠岐、糸魚川の日本海ルートであって
九州上陸で陸路、瀬戸内海乗り換えは無い ←これで、阿波先生の話がトンチキに、、、

それと同様に、熊本〜長崎〜五島〜済州島も、これは黄海、長江直通も有り得る。
銅鐸の生産のメインは出雲より淡路、阿波阿南の可能性も高くなったんで

漢以前、BC200より前、の青銅や鉄器の発掘に期待しているんです。
なんか、阿南の場合は既に徐福より古い交流有るんじゃないの?
いきなり、鉄器の自前製鉄は無いでしょw 砂鉄だってよw・・・
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:04:38.50
>>437
>こっちが先かな

そう言われてるね。  @阿波
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:07:38.19
>>438
>銅鐸の生産のメインは出雲より淡路、阿波阿南の可能性も高くなったんで

勾玉もだよ。  @阿波
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:43:57.36
>>441
少なくとも、古墳に「朱」と「勾玉」が副葬されていれば、「忌部はん」 のお墓の印。  @阿波
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:48:44.93
繁殖期の婦人は一人一戸だよな。
それを踏まえて國大人皆四五婦、下戸或二三婦を読む。
一戸は子供合わせて3人ぐらいじゃないの?
邪馬台国で20万人ぐらいで男一人に4戸

20万人は多いな、違うかな?
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 18:50:12.78
>>440
勾玉って言うのも不思議だよね。

日本人というか、縄文人の証明みたいな?
なんで、あんなめんどくさい、もったいない? 磨き方なんだろう?

倭人伝の247年だと統一国家じゃないのに、勾玉や銅鏡が威信材だったのかな?
基本的には、九州本州四国でも濃密な連携統一の可能性は、
卑弥呼終了の247年から 馬の移入始めても倭の五王の400年まででだな。 

これが古代日本史の銅鐸や古墳で見ることのできる部分と魏志の共有であって
阿波先生説・・・ 700とかw 

天下御免の無効傷、ペッ、ペッ、記紀じゃ遅いよ。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:22:36.68
>>443
倭人伝側の都合としては、当然、三国志の規模が欲しいです。

印綬した同盟国、卑弥呼の国は、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
7万戸でした、という報告、これが倭人伝です。

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡

女王国は、これだけ、なんです。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:24:28.36
天照大神、則以八坂瓊之曲玉、浮寄於天眞名井、囓斷瓊端、而吹出氣噴之中化生神、號市杵嶋姫命、是居于遠瀛者也。

アマテラスは八坂瓊之曲玉を天眞名井に浮かべて洗い、勾玉の端を噛み切って噴き出すと、その中に神が生まれました。

勾玉から宗像三女神が生まれてた
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:27:34.63
>>444
>倭人伝の247年だと統一国家じゃないのに、勾玉や銅鏡が威信材だったのかな?

稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。

斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、

石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。

蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡

原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:29:31.58
徳島県で勾玉が出土された遺跡:稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。

井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、

新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。

出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、

当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。  @阿波
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:41:00.29
>>447
すまない。

できれば編年みたいな馬鹿基準じゃなく
西暦で時系列を示してくれないか?

ネットって言うのは、
日本の偏狭な学者の世界じゃなく
ただの、チラシの裏側なんだよ。

アタシは中韓で逮捕される気は無いしwww
ご都合主義は、要らない。

真実を誰でも解るように語って良いんだよwww
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 19:58:49.06
>>449
>できれば編年みたいな馬鹿基準じゃなく
>西暦で時系列を示してくれないか?

すまない。
君がなにか例示を出してくれないか?  @阿波
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 20:57:12.41
すまない。  話が通じる可能性をあきらめようと思う。 
アタシは現代の厨坊だから、先生を理解できないんだと思う。
聞ける話が無くて、とても残念だ。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 21:56:30.25
漢から唐でも、南北三月行の九州島は知ってたみたいだね。
でも、瀬戸内海の存在は裴世清の600年まで、中国人が知ってた可能性は無い。
文献的には、畿内説だの、阿波だの、最初から話になんないんだよ。

なんかあるの?
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:01:32.09
>>453
>でも、瀬戸内海の存在は裴世清の600年まで、中国人が知ってた可能性は無い。

だから、卑弥呼の時代は瀬戸内海は使い物ならなかった と、何度言えばw  @阿波
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:22:53.18
>>450
>何度言えばw  @阿波

何度言っても、もう、お断りです。
  ハ,,ハ.. ハ,,ハ ハ,,ハ.. ハ,,ハ
 ( ゚ω゚). ゚ω゚) ゚ω゚). ゚ω゚)   お断りします
 (っ  )っ  )っ  )っ  )っ   お断りします
  ( __フ__フ__フ__フ     お断りします
   (_/彡(_/彡(_/彡(_/彡ヒョヒョヒョヒョイ お断りします
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:24:10.82
対馬国 ├ 朝鮮と九州の間の島々
一大国 │

末廬国 │
伊都国 ├ 九州北部の沿岸部付近
奴国   │
不弥国 │

投馬国  ├ ??? 九州南部・四国の阿波・畿内 ???
邪馬台国│
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:37:28.43
>>457
対馬国 ├ 朝鮮と九州の間の島々
一大国 │
末廬国 │
伊都国 ├ 九州北部の沿岸部付近
奴国   │
不弥国 │
////////////////////////////////////
↑里程で示せる都市間の移動の説明


投馬国  ├ ??? 九州南部・四国の阿波・畿内 ???
邪馬台国│
////////////////////////////
↑馬韓54国、辰韓12国、弁辰韓12国、邪馬台国21国
みたいな、国という概念。

これが、行程で直列に繋がるということは無い。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 22:55:09.03
投馬国から邪馬台国の行程を里程で示すことは出来ない。
海峡の三千里、水行で10日ではある。
しかし、概念としての、国境には、移動距離は無い。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 23:53:56.92
阿波とか吉備とか出雲とか、でっかい連合国家が散在してたんだよ、3世紀の日本にはさ。
邪馬台国なんてのは、たまたま大陸に近い北部九州に有った、たかだか三十国(一国=せいぜい旧国の一郡程度)
の小連合国家が支那の史書に記録されただけにすぎんよ。
ヤマト朝廷の関係?有るわけないわ。記紀にも出て来んやないか。
ヤマト朝廷を造った勢力は半島から来た連中やろね。大仙陵古墳ちょっとだけ掘ってみ?
半島のつながりが濃いいうんがようわかる結果になるわ。そうは言うでもヤマト朝廷作ったんがアホチョンいうのとは違うで。
倭人や。対馬海峡の両岸におった連中を倭人いうたんやろし、言語も文化もよう似とったんちゃう?
半島か侵入して来た倭人が建てたんがヤマト朝廷やろな。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/20(水) 23:55:10.18
>>461
逆輸入文化説
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 00:21:35.31
逆輸入文化はあっただろうが、文明までとなると相当数の人口流入がないと無理だから関西弁マンの説は現実的ではないな
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 00:49:55.19
陸行一月

通常・・・
平地なら30km
山登りなら1km

治安が悪く道も整備されてなくて山あり谷ありと考え1日5km〜10kmとしよう
となると陸行一月の距離は150km〜300km
ちなみに九州の南北の距離は300km弱、ま〜これは直線距離だから実際に歩くとなったら更に長くなる
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 01:26:00.29
>>464
魏志倭人伝読んでないのか無能?
東夷の中でも倭国の治安はトップクラスや!
まして勅使を案内するのに獣道以下のところを進むわけねぇだろマヌケ
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 01:38:48.73
個人的な妄想なんだが、朝貢国を圧倒的な下等と見下せる中華朝は港から最短距離で都に案内するだろうけど、小国である倭国は大国からの勅使を素直に最短距離で案内するだろうか?
都を落とされたら終わりって考えたら場所が分からないように距離が掴めないように遠回りなんかして距離と時間を稼いでたと思うんだよな

末廬国を伊万里湾と仮定すると武雄に抜ける道が最短距離だけど、脊振山系を時計回りさせて筑後平野に案内したんじゃないかな
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 02:12:51.58
畿内だろうが九州だろうが、陸行1月は非現実的。
できる限り水行してから陸行するだろ。
陸行1日の誤りだよ。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 04:22:32.32
>>459
その場合の投馬国と邪馬台国の範囲を示して
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 07:03:15.16
>>467
>畿内だろうが九州だろうが、陸行1月は非現実的。

「陸行一月」
陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河

投馬国(土佐国宿毛) ➡ 魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 ➡ 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:37:12.35
>>445
やっとわかってきたぞ21カ国で7万というわけか!
伊都国あたりは含まず、奴国のみ含まれるのかな?
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:39:46.06
邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている

1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)

斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 08:46:26.16
正直、戸数は千単位だからもっとアバウトだと思ってたよ。
一集落で千人で数え対馬は一集落、壱岐は三集落みたいな感じかなと。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:18:50.87
>>472
今(魏時) 使譯(梯儁、張政) 所通 三十國
247年張政は主に行程を説明し、240年梯儁は印綬国の国勢を主に説明している。
【247年張政從郡至倭】
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到其北岸 狗邪韓國
↓― 始度一海千餘里
至對海國 有千餘戸
↓― 又 南渡一海千餘里 瀚海
至一大國 有三千許家
↓― 又 渡一海 千餘里
至末盧國 有四千餘戸
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸 丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
(以上動的な直列行程、里程合計、一万五百里)
東南 至奴國 百里 有二萬餘戸 ←到達地、伊都周辺の紹介
東行 至不彌國 百里 有千餘家
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【240年梯儁從郡至倭】
南至投馬国 水行二十日 可五萬餘戸 (←↓地理の概略)
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國
此女王境界所盡
(190年女王共立の 次有21王国 240年当時)
其南有 狗奴国 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

*不彌國伊都國末盧國は240年当時無かった或いは21王国のいずれかに含まれる地名
可七萬餘戸 の『可』は、21国トータルの意味を含む。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:27:12.82
中国人が書いた倭人伝を、倭人の都合でこねくり回しているうちに、北部九州お団子状態になってきたな。
これでは、糸口は見えなくなるばかり。
迷宮入り確定。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:32:18.44
300年かけて誰も答えに辿り着いてないんだから史料から読み解くことは不可能
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:39:10.53
>>477
そりゃ、トンデモなんだからそうなるわね。  @阿波
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:46:27.14
>>477
300年間、仲哀天皇・神功皇后記のパクリで解釈してきたからだよ。
パクリ解釈だと、糸島が伊都国になるが、そもそもそれが迷宮の入り口だったのさ。

唐津からは、松浦川に沿ってさかのぼり、脊振山系を南に迂回して、佐賀川上に伊都国、佐賀三根郡の目達原(吉野ヶ里一帯)に不彌国・・・、
そしてその南方に、投馬国(日向西都の都万)と邪馬台国(肥後熊本の邪馬嘉国)で、カンタン単純解決さ。
何事によらず、最初の一歩、それが最も肝心なのだよ。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:55:12.69
>>475
わかりやすいぞ。
これなら放射説もいけるな。

梯雋の行程は帯方郡からになんの?
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 11:57:53.66
>>480
その碌な遺跡のない唐津が、そもそも迷宮の入り口だったのさ。  @阿波
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:07:01.79
自郡至女王國、萬二千餘里。


平壌-釜山 520km
釜山-唐津 209km


唐津-熊本市 155km
唐津-鹿児島 322km
唐津-宮崎市 336km
唐津-徳島市 536km
唐津-桜井市 716km
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:16:47.36
自郡至女王國、萬二千餘里。

平壌-釜山 520km (狗邪韓国7000里・・・740m/里)
釜山-唐津 209km (渡る三海3000里・・・700m/里)

唐津-熊本市 155km(邪馬台国2000里・・・770m/里)
唐津-鹿児島 322km
唐津-宮崎市 336km
唐津-徳島市 536km
唐津-桜井市 716km
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:44:43.46
>>475 で、
卑弥呼の墓の話をしようか。 卑弥呼の墓を見たのは247年の張政。
行程
至末盧國  
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 
候補地はたったこれだけなんだ。

末盧國 
は、糸島半島北西岸、新町以北〜芥屋大門周辺
伊都國は、南東500里 だから必然的に今宿以遠で早良周辺。 
実は今津湾が
皆 臨津捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王
の 伊都の港ではないのかな?

では、何故僻地に入港したか
238年公孫氏を討った帯方郡は既に246年で、韓王朝を滅ぼしている。
日本はBC200辺りから青銅は持ち込んでいるから、公孫氏や韓とは友好関係に有ったはず。
魏の査察官、張政に主要軍港を見せたくなかったのではないか。

まあ、表向きは卑弥呼の墓に案内した、ということで良い。
張政は伊都に駐留させられて、壹與と難升米 為檄告喩之を終えた
のであるから、卑弥呼の墓はこの5百里間にある。

松浦半島や唐津、伊万里なんか行っちゃたら見つからんよwww
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 12:49:49.66
>>476
>中国人が書いた倭人伝を、倭人の都合でこねくり回しているうちに、北部九州お団子状態になってきたな。

郡使が福岡までしか来てなくて、その周りの国邑の話を聞きかじって記したのが魏志倭人伝だから、お団子状態でも仕方がない。
畿内なんて、全く眼中になかったんだよ。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:05:34.28
大陸における縄張りが日本列島にまで及んでいたんじゃなかろうか?

魏の連中は朝鮮経由で九州にたどり着く
呉の連中は朝鮮を経由せず一気に瀬戸内海に来る。広島に呉市があるでしょ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:07:34.68
>>488 の続き
春秋戦国時代から縄張りがあったんじゃね〜の?
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:09:18.65
瀬戸内海は狭いから、まわりに気がつかれずにいきなり通行するのは無理。
筑紫倭国(邪馬台国)が魏について、呉が肥後狗奴国を支援していた可能性は指摘されている。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:10:53.92
>>489
倭王はもともと呉の太伯の末裔を自称していたが、魏志倭人伝ではその記述が削除されている。
魏との関係がややこしくなるからだと考えられる。
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:31:45.16
    |┃三           
    |┃ ゼエゼエ
    |┃ ≡ .∧_∧  < 魏志倭人伝では
____.|ミ\_<ι`Д´> 。  削除されてるニダ
    |┃=_ >>492\ 
    |┃ ≡ ) 人 \ ガラッ


          トンスル飲んで寝とけウソツキ       
                     ∩ ∧_∧
                   ⊂⌒(∀`  )
                    `ヽ_っ⌒/⌒c
                       ⌒ ⌒
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:50:05.27
呉はだいたい織物技術者のことだと思うな
呉服(呉織)=クレハトリ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:51:49.14
>>495
それが通説だよな
0497日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 13:59:30.17
呉服神社縁起
「人皇第15代応神天皇の時代に、天皇は猪名津彦命(いなつひこのみこと)を中国の呉の国に派遣し、機織裁縫の工匠をお求めになります。
勅命を受けた猪名津彦命は久礼波(くれは)・久礼志(くれし)の二人を案内役として呉の国に赴き、呉王の許しを得て、呉服(くれはとり)・綾織(あやはとり)・兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)の4人を伴い日本へ戻ります。
途中、九州で胸形(宗像)明神(むなかたみょうじん)の望みにより、兄媛と弟媛は九州に留まり、呉服と綾織は摂津の国、武庫(むこ)の浦に至ります。
こうして日本に機織裁縫染色の技術が伝来しました。」
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 14:01:08.93
呉じゃなく越なんだけどヤマタノオロチに似た伝説はあることはある。
捜神記の祭蛇記という物語にクシ(奇)という少女が人身御供を求める大蛇を強い酒で酔わせ滅ぼしその功で越王の后になった。
伝説とともに越人が日本に来たのかはわからない
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 15:28:41.91
呉とは東晋の時のことかな。

晉書帝紀

義熈九年(413年)是歳、高句驪、倭國、及西南夷、銅頭大帥、並獻方物
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 16:14:13.33
日本に残る呉関係の物はほとんど百済だよ
百済人が呉の末裔を自称してたからね
漢字の呉音だって百済経由の百済音だし
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 16:16:00.95
応神天皇即位三七春二月戊午朔、遣阿知使主・都加使主於吳、令求縫工女。爰阿知使主等、渡高麗国、欲達于吳。〜吳王於是、與工女兄媛・弟媛・吳織・穴織四婦女。
高句麗が出てくる日本書紀とぴったり。
こんなところで日中の文献が一致するとは思わんかった
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 16:27:28.00
>>500
     (´・ω・`)
   /     `ヽ. おいチョンコ
  __/  ┃)) __i | 出された薬は
/ ヽ,,⌒)___(,,ノ\ ちゃんと飲めよ
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 19:15:39.83
卑弥呼の墓には興味無かったか?
では、漢字の国名の話をしようか?

南 至投馬國 水行二十日
南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡 其南有狗奴國 不屬女王

これらの国名は、240年将校の建中校尉梯儁の印綬行軍の際に
倭人から参問し、漢字にして記録した国名である。

魏時の使譯は240年と247年の二回であるから
中国人が、この時の和名の国名を漢字化するチャンスは他にない。

海峡の島名もだが、
投馬國 については、馬韓の向こうなので、表意文字だと思うが、
邪馬壹國 これは、同じ梯儁命名の邪馬國が存在するので、ここで見た女王の臺
これをランドマークとして、一代名称の女王国を邪馬臺国と命名したと考えられる。

この二つの国名が歴史上で使われたのは、残念ながら梯儁の記録だけである。
陳寿はこれを 倭人の女王国って、あったよねw で終らせた。
投馬國は後の、加羅任那、邪馬壹國は筑紫国となる。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 21:15:28.14
>>503
加羅任那は弁辰じゃないのかよ。

確かに弁辰と辰韓で4、5万戸とあるけどだな、
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/21(木) 22:06:59.42
>>502
百済とチョンはほぼ関係が無いぞ
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 01:45:50.02
有千餘戸 (対馬国)  5千人
有三千許家(一大国)  15千人

江戸時代の石高(1石は1人の人間を1年間養える米の量)
対馬 6千石
壱岐 1万8千石


対馬と壱岐は卑弥呼の時代、既に人口が飽和状態だったんだな
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 02:57:45.46
>>497 >>499 >>501
呉市の銘銘はそんなに遅いのか・・・・・
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 03:11:02.35
実際に応神天皇を頼って来日した機織り職人は秦氏で新羅から来てる事に注意
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:02:19.36
>>509
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。

この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。  @阿波
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:13:44.28
秦氏
『新撰姓氏録』によれば秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283年)百済から日本に帰化した弓月君(融通王)が祖とされるが、
その氏族伝承は9世紀後半に盛んになったものであって、真実性には疑問が呈せられている。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 08:26:08.35
都合が悪いことはなんでも「信憑性がない」「史実ではない」と叫べばいいと?
お前の言葉に信憑性がないよ。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:13:00.01
この4カ国は大きい
1戸5人として江戸時代の石高換算してみた

有二萬餘戸(奴国)  10万石
可五萬餘戸(投馬国)  25万石
可七萬餘戸(邪馬台国) 35万石
邪馬台国に対抗する南の大国(狗奴国)
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 09:52:37.95
投馬国は五万
邪馬台国は奴国二万を含む二十一ケ国で七万

九州で奴国を超える地域がどこかあればいいが
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 10:10:57.88
投馬国は宮崎平野。
西都原古墳群などがある。
地名としては都万(妻)。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 10:13:01.25
>>515
九州には黒田藩しかなかったといいたいんだな。貧乏学者め。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 10:21:26.63
>>509
『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。
この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。
この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。
このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。

この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。  

なにからなにまで倭国(阿波)。    @阿波
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 10:54:16.70
>>504
陳寿の記述にも時系列の影響は有る。

韓伝
「弁辰與辰韓雑居」弁韓と辰韓は、雑居してその状況は把握できていない。
弁辰は弁韓と辰韓を合わせて24国としたが、
246年韓王朝廃絶戦の後、辰韓12国として臣智以下の官を置く直轄領とした。

弁辰12国には、王政が残っているが、これは南岸倭人勢力が抑えきれてなかった為。
張政247年命名の狗邪韓國(韓のみ表意文字)は、韓伝の弁辰狗邪國と考えられる。

240年梯儁の記録時の状況として、魏の楽浪帯方占領は238年
240年梯儁が、南至 投馬國 水行二十日で命名した馬韓の南岸は246年に弁辰韓となる。

240年梯儁の命名、投馬國と邪馬壹國の国名は、歴史上他で利用されていない。
後の弁韓 加羅任那と筑紫ではある。

韓伝(魏)が12国か24国か把握しない状況で国の人口が、投馬國 可5万戸である。
邪馬台国も倭人の共立連合国の人口の確認方法はどうか?
女王属21王国の参問で、可7万戸とされた。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 13:30:02.53
>>519
すごいな、そうきたか!w
246年の前後の半島南部の情勢の変化を考えると辻褄は合うな。

でも誰もわかんねえぞコレ(涙目
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 14:50:36.00
>>520
不都合な真実に直結してる歴史なんだよね。(涙目
私達には戦後レジームなんてもんは見えないんだけど。
これ、5ちゃんのホントの事なんでも言っちゃう、歴史愛好家の話だからw
>>475
南至投馬国 水行二十日 可五萬餘戸 
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸
は、帯方郡起点の話だけど、放射読みか直列かは文法じゃ判らない。
でも、投馬国水行二十日が、女王之所都より遠いといけないんだけど、目をつぶるw
どっちでも良いよw って、ことでどうだろう?

この後の歴史は、邪馬台国論争自体にとっても、不都合なんだ。
邪馬台国は魏と友好関係を築き倭王となった。これが畿内か九州か?って論争でしょ?

ところが日本はこれ以降、BC200年から交流のあった公孫氏や韓王朝の滅亡を見て、
247年以降、魏との友好は深めていないし、魏もこの邪馬台国との友好関係を見放している。

280年に三国志を終結させながらも313年に四郡が撤退するのは、高句麗の台頭というのが歴史だけど、
350年代に、幽州刺史、楽浪候として中華貴族となる高句麗に対し、同時期には、246年韓王朝滅亡の
百済 新羅が、高句麗の蓋を開け朝貢、冊封の独立王国となる。

これを後援したのは広開土王、倭の五王に見るように日本、加羅任那であるし
この間で牛馬を移入、古代韓の繁栄は、500年以降も五経博士や仏教公伝に繋がり、
日本は保護関係から手を引き、663年白村江戦による利権放棄まで続いた。

この朝鮮半島の最も華々しい東亜古代史認識の何が逝かんのかは、
私達日本の子供にはサッパリ解らない。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 15:17:27.08
>>521
白村江大敗の戦争責任は、倭というクニのA級戦犯たちにあったらしい・・。
しかし、われわれ大和の人間には一切かかわりのねえことござんす・・・、だろ。
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 15:24:21.82
>>521
現在の朝鮮半島の社会は、
未だに4-5世紀ころの高句麗・百済・新羅の種族対立の残影をひっぱっているのだそうだ。
事あるごとにそれが顔をのぞかせるらしい。
このことを理解したうえで、過去現在未来を考えなくてはならないのではないか。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 18:12:29.51
大きくは間違っていないぞ。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 18:13:23.48
>>525
鈍いんだな
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 18:27:57.97
同じ朝鮮半島でも
扶余、穢、高句麗はエヴェンキ族
馬韓、百済は漢族
辰韓、弁韓、新羅は倭種
狗邪韓国、任那、伽耶は倭人
これだけの種族とそれぞれの文化があるのに
韓語、韓人、古代韓、韓王朝とひとくくりにするのは乱暴すぎる
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/22(金) 20:02:29.24
百済も新羅も扶余族だろ。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/23(土) 08:08:44.23
>>527
>同じ朝鮮半島でも
>扶余、穢、高句麗はエヴェンキ族
>馬韓、百済は漢族
>辰韓、弁韓、新羅は倭種
>狗邪韓国、任那、伽耶は倭人

ほー、倭種というのは倭人伝上のことだけかと思ってたが、じっさいにおったんか
そーいや、畿内説見てるとそうかもしれんと思うな、
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/23(土) 09:17:37.89
>>530
中華の完全属国に成り下がってから580年後に編纂された冊子に何の価値があるんだ?
また、李大龍が指摘しているように、今でも朝鮮ヒトモドキが
「海外メディアでは」
「○○によれば」
「最近の研究によると」
と虚偽の出典元で信憑性を高めようとしてるのと同様に三国史記の出典元とされる九書も実在が疑わしく検証価値の低いラクガキ。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/23(土) 13:36:21.18
>>521
そうだな。
現代の視点で古代を紐解こうとしてもダメだよな。

帯方郡からなら連続だろ
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/24(日) 10:09:59.03
>>534
こりゃ、なかなか参考になる図だ。
帯方郡〜倭国航路もこれだったのだろう
それから、南至投馬國、水行二十曰。の処だが、坊津から薩摩半島を回って油津〜西都市都万で良いのではないか。
(帯方郡〜松浦間10日と、松浦〜都万間10日で、合計20日)
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/24(日) 10:19:35.52
>>535 続
女王の都を阿蘇・高千穂に置き、西都市都万を投馬国とした場合、
郡使の女王之都からの帰りは、都万に降り、此処から船で北上し帰国したのかもしれない(神武の東征と同じで近道になる)。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/24(日) 20:08:30.00
白村江以降の新羅も唐の完全な属国というよりは、唐と遣唐使時代の日本の緩衝材、
日本を背景としたバランサーとして機能はしてたみたいだけどね。

三国史記って言ったって、高句麗は350年から幽州刺史楽浪候であって中華貴族だ。
日本が中国を見限った900年、半島の後高句麗、誤百済、の三国時代は唯の内乱時代。
誰が、どの王が、半島を中国に売るか? って、聞いたような話なのでは?

半島史は、日本の影響が消える高麗からが、完全な中国貴族の収奪属国でしょ。
大日本帝国が大韓帝国を復興させるまで長かったな。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/25(月) 18:22:55.63
>>536
>半島史は、日本の影響が消える高麗からが、完全な中国貴族の収奪属国

後高麗(王氏高麗)は前半と後半かなり違うのでゴッチャは良くない。
前半は、日本が天皇を称したのに見習って、
渤海系の諸勢力や契丹が皇帝を名乗るようになった流れで
高麗も独自年号たてたりわずか短期間だけど皇帝を称したり独立心旺盛だった。
後半はモンゴル文化圏に編入されちゃったんで身も心も完全にモンゴルマンセー。
中華圏に完全に入っちゃったのは高麗ではなく「李氏朝鮮」になってから
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/25(月) 21:29:23.62
薩摩川内市の唐浜海水浴場
ここが邪馬台国に向かった中国人の上陸地点
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/25(月) 22:49:33.05
いや、八代の球磨川河口
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/26(火) 06:46:55.16
球磨川沿いに上がって行くと市房山の山中で行き止まる
川内川の上流は盆地
そして九州の東側に流れる別の川の上流
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/26(火) 08:39:59.05
>>541
詳しいじゃないか。
確かにその辺りは、一大勢力の文化圏。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/26(火) 19:55:40.22
ちょっと前まで「陸の孤島」と言われてた宮崎
仮に誰かが大陸から干渉されたくない国を作ろうとしたのなら宮崎平野に作るだろうな
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/26(火) 20:02:27.77
>>543
宮崎平野なら海からのアクセス容易で大陸から干渉されまくるだろw
陸の孤島なのは九州山地で西南北を塞がれてるからだろww
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/26(火) 20:29:04.21
霧島山の山頂に立てば宮崎平野は宮崎市西都市高鍋町あたりまで見えるんだよ
海流に乗って九州の鹿児島に着いた中国人
見知らぬ場所に付いて二番目か三番目にすることは高い所に登って「周りを見る」ことでしょ
霧島山に登って宮崎平野を見つけた事が天孫降臨伝説の始まりじゃないのかなと想像してるw
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/26(火) 21:08:18.19
宮崎平野って、わざわざ霧島山まで登らないと見つけられないのかw

そもそも山幸に筑紫を追われた海幸が隼人の祖であるという伝承がある。
その拠点が、九州において邪馬台国と並ぶ大国となった投馬国だったのだろうな。
海幸の宮が日向国一宮都万神社だろう。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/27(水) 06:47:41.70
>>544
これな
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/27(水) 19:39:39.83
>>6
使 大倭監 之自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治 伊都國 於國中有 如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯

これは、247年張政の査察報告である。
 
特に現代語訳の必要は感じないが、三国志時代の語彙で
一大率 は唯一にして最高権威の進駐軍将軍、
如刺史は、地域王の上位の中央政府派遣の官、将軍である。

これによって、247年をもって、魏と九州邪馬台国の外交は終わった。
九州と畿内のどっちが、当時の倭王だったか? という、論争は間抜けである。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/27(水) 19:51:20.28
中央(伊都)から地方(女王国より北=対馬海峡)に出かけて検察したから、その地方の官からは恐れ憚られたわけだ。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/28(木) 09:19:19.28
>>549
伊都には、女王国諸国を検察する唯一最大の中央政府の将軍、刺史を置いたんだよ。
使 大倭 監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國 畏憚之 常治伊都國 於國中有 如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使 倭國 皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯

いまだに誤訳のミスリードに嵌ってるって、どこの伊都屑なんでしょうか?
東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐

丗有王/ この世界には王が有ります。
じゃ、主語があさってで、行程文の中で存在できないだろ。
倭人伝の記述を改竄するべき箇所は無いし、陳寿は名文官だが、
こんな現代日本のご都合主義が存在するとは草葉の陰でビックリだろうw

伊都は、女王に属する(共立21国の)王や郡使が往来し、常に駐留する所。
だから、首都なんだよ。 女王は極南界の引きこもりで伊都国王というのは居ない。

後続文で邪馬台国の構成が 次有列記 21国 此女王境界所盡であり、可(総計)七万戸。
女王之所都は、一万里で上陸した後、郡から万二千里の領土南端で狗奴国と接する。
と、書いてあります。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/02/28(木) 12:21:01.08
到伊都國・・・・有千餘戸
東南至奴國百里・・・・・有二萬餘戸
東行至不彌國百里・・・・・有千餘家


(伊都国) 千戸
  8km
(奴国) 2万戸
  8km
(不弥国) 千戸


伊都国と不弥国に1kmを割いて奴国の広さは半径7km
1辺14kmと考えよう
面積は196km2
2万戸の奴国の広さは久留米市ぐらい


久留米市 230km2
福岡市 340 km2
佐賀市 431.km2
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/02(土) 00:55:51.78
伊都国は単なる入国管理所ね
出土品は通過出来なくて没収されたもの
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/02(土) 01:01:13.47
>>552
アンチの妄想の域を出ない説やね。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/02(土) 08:22:55.18
>>552
没収されなかったものとやらが見つからない。
平原遺跡を見ると、伊都にいた女王が総取りしていたことがわかる。
伊都が女王国の中心となる国邑であり、平原遺跡の被葬者がその女王であったことは明白。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/04(月) 04:37:19.83
日本本土の弥生時代に並行して、狩猟採集生活が続く北海道の続縄文時代、沖縄の貝塚時代という区分は知られている。
東北ではいったん始めた水田稲作を途中でやめてしまう地域や、稲作を続けつつ縄文時代の要素も残す地域がある。
「稲作文化」で一括されがちな弥生時代だが、地域によって多様性があることを、鹿児島県の例は改めて教えてくれる。

 3月21日まで、上野原縄文の森。

毎日新聞 2019年2月24日
https://mainichi.jp/articles/20190224/ddp/014/040/005000c?inb=ra


この領域に広がっていたのが狗奴国連合でしょうね。平和で豊かな国家群だったのでしょう。
筑紫の伊都国連合Vs肥国の邪馬台連合との戦争(倭国大乱)で後者が勝利をおさめた後
邪馬台国はその矛先を狗奴国に向けますが、狗奴国王に率いられた軍勢は
筑紫の夜須川(天の安河)の会戦で邪馬台国軍を敗走させ、これが邪馬台国滅亡のきっかけでしょう。
スサノオは恐怖政治を敷く邪馬台国(ヤマタノオロチ)を退治し、草薙剣(金属精製技術)を手に入れました。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/04(月) 07:21:09.20
>>555
もはや縄文人と弥生人って区別自体がナンセンスだよな
いまフツーの中学生に聞いても農耕始めたのは弥生人で渡来人のことで、縄文人は狩猟民族で消滅したって認識してる
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/04(月) 07:25:21.91
卑弥呼と卑弥弓呼の名前の類似性から見ると、狗奴国は邪馬台国と起源が同じなのであろう。
つまり狗奴国との戦いは邪馬台国内部における家督争い、お家騒動ということになる。
これが「素より不和」の意味であろう。

ならば狗奴国の比定地は、従来通りに肥後熊本で良い。
その拠点が菊池城、官が菊池彦なのである。
熊本は稲作、製鉄が盛んであり、福岡と対峙するだけの国力があった。
卑弥呼亡き後、熊本は文化的に福岡に統合されていく。
鹿児島は開拓が進んでおらず、福岡に対抗するだけの力はなかった。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/04(月) 07:37:05.97
>>556
新しい教科書を作る会の再起を願うばかり
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/04(月) 08:49:24.73
縄文の「朱」生産拠点
阿南・加茂宮ノ前遺跡
国内最大、最古級
祭祀と居住一体出土
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や石きね300点以上や、
水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。
水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。
県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
石臼の大きいものは直径30センチ。石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、
関連した遺物の出土数は1000点以上に上った。
水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の石臼や石きねが見つかっているが、数十点にとどまる。
調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。
縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、
「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末〜後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。
今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。
県教委教育文化課は「調査研究を進めて広く展示公開し、徳島の歴史や文化財に興味を持ってもらえるような取り組みを進めたい」としている。
2019年(平成31年)2月19日 徳島新聞朝刊
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/04(月) 08:50:24.02
極めて重要な発見
同志社大学文学部・水ノ江和堂(かずとも)教授(考古学)の話
縄文時代の遺跡が東日本や九州に比べてかなり少ない中四国の状況を示す極めて重要な発見。当時の水銀朱の生産、利用状況や集落構造を総合的に確認できる遺跡は他に例がなく、
今後の研究につながる。遺構を切り取って復元などしてもらいたい。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/04(月) 10:07:52.55
球磨川流域と川内川流域とでは文化圏として大きく異なるものになるんだろうな。
焼酎の北限が球磨川流域で、シベリアから鶴がやってくる南限が薩摩の出水だったか。気候的な違いが大きい。
川内川上流の大口盆地は大きな政権が都を置いていたと考えても自然な好地。
狗奴国の中心がこの盆地に有ったと、必ずしも考えているわけでは無いのだけれども。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:04:52.02
>>3南至投馬國
水行二十日 官日彌彌


東に向かって流れる海流を考慮した場合は
船を南に向けて漕げば東南東に進む

ってことで南→東南東になる


投馬國 は出雲圏で
船で東南東に進んで出雲圏についたってこと

記紀によれば出雲圏の宮の長官名は八耳だし
投馬國 の官命の彌彌は耳ってことになる
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:08:07.06
>>3南至投馬國
水行二十日 官日彌彌


出雲の宮の官命は記紀によれば八耳で
八は出雲では名前の前につく接頭語なんで
接頭語の八を除けば出雲の官命は耳ってことになり
これが投馬國の官命の彌彌ってことだし
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:14:24.78
>>521南至投馬国 水行二十日 可五萬餘戸 
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸

投馬国は出雲圏だし
邪馬台国は大和圏だよ

水行20日で出雲圏につき
そこからさらに水行10日で陸に上陸して
そこから大和に向かったってことかな

海流の流れを考慮すれば南は東南東になるし
日本海を東南東に進んで出雲圏に20日かけて到達

さらに10日かけて水行してから上陸して
そこから大和に行くってこと
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:16:49.43
>>535南至投馬國、水行二十曰

東に向かう海流を考慮すれば
船を南に向けて漕いだ場合の進路は東南東になる
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:18:15.76
>>551


出雲圏と大和圏はともに広いんで
万単位の戸数になる
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:21:36.04
>>534南至投馬國、水行二十曰。 沖縄か?

東に向かう海流を考慮すれば
南→東南東ってことになる


投馬國は出雲圏で邪馬台国は大和圏になりともに広い地域何で
間に国はない

よーするに出雲圏と大和圏は接してる感じで
範囲が広いんで人口も多いんだよね
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 16:45:20.54
「僕の考えたさいきょうのヤマト」
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:08:48.39
>>565
倭人伝が記された目的すら理解しようとしないのかな?

南至投馬国 水行二十日 可五萬餘戸 
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸

この間が、瀬戸内海や日本海ルートの倭地であるなら、
魏の使譯は、海峡諸島沿岸国同様、道里、戸数、他について
何らかの説明をしなければ意味がない。

この間の説明がない理由は
馬韓西岸の20日行 と 海峡の10日行で、
既に、道里、戸数の略載を得ているからである。
これが、間違いなく、南至であるから、
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有 以下 次有21国列記 此女王境界所盡
女王国所属の21国を次有で示し、此で女王の境界が所盡なのである。

其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

他の読み方は無い。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:34:24.23
>>570

投馬国の範囲は出雲圏全体でかなり広い

邪馬台国も大和圏全体でかなり広くて
2つの国は接してるんで間に国がない
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 18:57:18.74
「僕の考えたさいきょうのヤマト」
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:04:40.87
>>535南至投馬國、水行二十曰。


船が南に向いてても
東に向かう海流がある場合は船は東南東に進むんで
南→東南東でみる必要がある
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 20:57:23.20
>>570

投馬国は出雲圏の広い範囲で
今の基準で複数県のまたがる広い国で
邪馬台国も大和圏の広い範囲で
今の基準で複数県にまたがる広い国なんで
互いに接してたんで間に国はなかった
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:20:33.15
>>80>A対馬海流の影響


海流が東に流れてれば
船を南に向けて漕いでも
進むのは東南東っことで
水行20日は東南東に進むことになるね
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 21:57:07.62
>>573
どこの話だよ?

馬韓西岸に海流は無い。
半島南岸から南に向かわなければ対馬は無い。
対馬からは西よりの南が壱岐。

上陸したら南に向けて船は出さない。
最初から最後まで、目標も無く
ご都合の奈良に向かって漂流してるだけかwww
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:29:59.33
>>576


船を南に向けて東に流れる海流に乗れば
つくのは投馬国でそこは出雲圏だよ

ってことで船を向けてるのは南でも
船の進んだ方向は海流を考慮して東南東ってことで
日本海沿いの出雲圏が投馬国で
さらにそこから水行したのち上陸して
南に下れば大和圏(邪馬台国)
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/05(火) 22:38:25.75
>>571
投馬国との間に 馬韓54国 辰韓12国 邪馬台国21国 のような国は無い、
だけは、ほぼ合ってるが・・・

240年に卑弥呼印綬の魏使が通過した投馬国は、
246年以降、弁辰韓と呼ばれる倭人系半島国。

246年韓王朝滅亡後、臣智以下官制とするまで魏には不明の土地。
半島南岸を倭地としたのは、弁辰韓と辰韓の詳細を知らなかったから。

韓伝は辰韓12国と弁辰韓12国であり、投馬国も5万戸とされる。
246年以降も、倭人勢力の強い弁辰韓は王政が残る。
韓伝は臣智制定以降の韓を記していると韓だえられるし、
247年張政の北西岸渡海開始の狗邪韓國は、韓伝の弁辰狗邪國と考えられる。

投馬国の記述、仮称は240年の建中校尉梯儁の行軍記録による
探検家的、時期尚早の命名によるものである。
邪馬台国も同じであり、ヤマトは無関係。

陳寿はこの探検家の命名を尊重すべきでは無かった。
が、・・・
倭人伝 評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 09:50:18.83
評曰によって 倭人伝が、使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
倭人伝は、魏時240年梯儁と 248年張政の 二回の使譯の時に知った、
倭人国30国の事を、ありのままに記述したものであることが判る。これが読めたなら、東夷伝序文も読もう。
前半は中華史 其九服之制 可得而言也 で、而公孫淵 仍父祖三世 有遼東 以降が魏時の話である。

書稱 東漸於海 西被於流沙 其九服之制 可得而言也
然荒域之外 重譯 而至 非足跡 車軌所及未 有知 其國 俗殊方者也

自虞暨周 西戎有 白環之獻 東夷有 肅慎之貢 皆 曠世而至 其遐遠也如
此及 漢氏 遣張騫 使 西域 窮河源 經歷諸國 遂置都護 以總領之然
後 西域之事 具存 故史官 得詳載 焉

魏興 西域 雖 不能 盡 至其大國
龜茲 于ゥ 康居 烏孫 疏勒 月氏 鄯善 車師 之屬
無歲 不奉 朝貢 畧 如漢氏故事


而公孫淵 仍父祖三世 有遼東
天子 爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷 東夷 不得通 於諸夏
景初中 大興師旅 誅淵 又 潛軍浮海 收 樂浪帶方之郡
而後 海表謐然 東夷 屈服

其後 高句麗背叛 又 遣偏師 致討窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭

東臨大海 長老說 有異面之人 近日之所出 遂周觀 諸國
采其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀

雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 11:45:50.30
東夷伝序文 において重要なことの 
一つは、韓の記述が無い事。 これはまあ、
>收 樂浪帶方之郡 によって、四夷の国とは違い、直轄領とされている。かな

次に、(本文、改行改める)
>東臨大海 長老說 有異面之人 近日之所出
>遂周觀 諸國 采 其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀

東臨大海 長老說は、東沃沮伝で既出の日本海の向こうの人の奇譚。 これに対して
遂に日本列島の国を見ることが出来、其法俗 小大區別 各有 名號を記した。
つまり、魏志の倭人伝は、漢書等に対して最新の情報にして、最重要記事である。

さらに、東夷伝序文の結語は、少々難解だが、
>雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
>故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉

日本も夷狄之邦だが、俎豆之象は中国にある。
礼を失わないことを四夷に求めるべきと 猶、信じるものである。
故に、その國列を選び、その同異をもって、前史の未だ備わざる所につなぐ。

これが、中華正史における、東夷伝の意義なのである。

俎豆之象 存中國 失禮は、
おまんまの喰える礼法は 中国様のおかげ、を忘れるな。 
だが、日本は倭人伝中で、食飲用籩豆 手食 なので、
だから、西夷諸国のように朝貢を毎年寄こさない土人扱いなのかもしれないw
つまり、魏時においても、いまだ倭人国は未知の領域にある。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 15:47:58.39
>>576

20日の水行は船の向きが南に向いてて漕いだ
ってことで素人の中国の使者は海流を考慮してない

東に流れる海流を考慮すれば
南の20日の水行は東南東と水行となる

よーするに南じゃなくって東南東に20日水行して点ついたところは
日本海側の出雲圏でそれが投馬国
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:10:18.33
>>581
デタラメはいいかげんにしてほしい。
北前船は、逆行がデフォ。 
海流ガアガア、では、海運無知のアワと一緒。

海峡の潮流は両方向にある。
素人の中国の使者は確かに、瀬戸内海航行は、難しいだろう。

九州島に接岸して、舳先を南に向けて東に漂流って、巻き網引いて魚取ってんのかな?
博多湾から南? 出雲は九州からじゃ東南東じゃなくて東北東だ。
日本海知ってんのか?
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 19:37:23.06
福岡から南の方、宮崎が投馬国でよかろう。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 20:09:33.84
>>583福岡から南の方、宮崎が投馬国でよかろう


東に流れてる海流があるんで
船を南に向けて漕いでも進む方向は東南東になり
水行20日でつく投馬国は出雲圏ってことになる
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:34:24.99
出雲に行くにしても単に方位がずれてるだけで、使者は南に向かってるつもりが東だったって方が納得できる。
沖合は対馬海流の影響は大きいけど、陸沿いはそうでもないし時間によっちゃ西向きの流れにもなる。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:52:31.26
>>585
そんなご都合主義で良いなら何処にでも比定できるやんけ無能
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 21:57:36.54
帰れないしwww
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:14:59.47
>>583福岡から南の方、宮崎が投馬国でよかろう

東に流れる海流があるんで
船を南に向けて漕いでも
つくのは日本海側の出雲圏でそこが投馬だし

八雲立つ出雲の宮の長官名は八耳だけど八は接頭語で
官名は耳ということになる

投馬の長官名はミミときされてるし
出雲圏が投馬ってこと
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:17:56.32
>>586


八雲立つ出雲の宮の長官名は八耳だけど八は接頭語で
純粋の長官名は耳

倭人伝に投馬国の長官名がミミと記されてるけど
これは出雲の長官名のこと
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:20:52.91
>>585出雲に行くにしても単に方位がずれてるだけで、使者は南に向かってるつもりが東だったって方が納得できる。
沖合は対馬海流の影響は大きいけど

船が南に向いてても海流に流されて
ついた先が出雲圏でそこが投馬国

さらのそこから水行して上陸して
陸を南下すればついた先が大和圏でそこが邪馬台国
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:46:33.97
>>590
南向いててどんどん左に行くならさすがに東に流されてるとわかるよ。
畿内説の「測位ミスで東を南と思い込んでた。」の方がまだ受け入れやすい。
あと水行10日はどうなるの?

>>586
自己紹介乙
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 22:51:09.43
>>591

出雲(投馬)からさらに水行して
それから陸路で南下して大和に入る

ちなみに出雲の宮の長官名はミミで
これは倭人伝にきされてる投馬の長官名のミミのこと
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/06(水) 23:32:10.08
>>591
マヌケの悔しがり笑うわ
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 01:41:38.29
>>587
そう。「倭人伝の方角は間違いで、正しくはこう」ってのだと行きはどうにかなっても帰りはどうやって帰ったの?ってなるわな。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 07:18:57.99
>>595南は東の誤りにきっと違いない説自体がオカシイ

中国の使者は海流の知識がなかったんで
単に船の向いてる方向の南が進路だと思ってた

だけど海流があるんで船の向きが南でも海流に流されて
航路は南じゃなくなる

海流に流されてついた先が出雲圏で
そこが投馬国
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 08:38:07.56
海流に流されるのはいいが、
帰りはどのルートをとったのかい
北海道から樺太からウラジオストック回りとかで、1年くらいかけたのか??
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 12:40:48.58
>>596
魏使一行は方位の認識はちゃんとできてたって解釈で良いのよね?
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 12:45:33.73
>>596
> 中国の使者は海流の知識がなかったんで
根拠は?
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 13:24:40.94
>>598帰りはどのルートをとったのかい


帰りのルート」は神功皇后の九州遠征と似てる可能性もあるけど
なんともいえない
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 13:26:47.75
>>600


中国の使者は素人で海流の知識なんてなかったから
単に船の方向が南を向いて立ってことでそれが船の進行方向としたんで
魏志倭人伝は邪馬台国の位置が分からなくなってる
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 13:29:03.20
>>599

中国の使者は船が南に向いてる事は認識してたけど
船が海流に流されてる認識はなかったんで
単に船の向いてる南で船の経路を記述したんで
投馬国の位置が不明になってしまった
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 13:31:29.81
>>601漢代にはインド洋航路も開発してるくらいだし現地に行くまで海流知らなくても行きたい


倭国付近の海流の知識がなかったんで
単に船が向いてる南を船の進行方向と記述してしまったために
投馬国の位置が不明になってしまった
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 13:51:04.18
南だけは正確に判別できたのに、
それ以外の、西か東か北かはわからなかったというのは極めて不自然。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 13:53:13.47
>>603
> 中国の使者は素人で海流の知識なんてなかったから
> 単に船の方向が南を向いて立ってことでそれが船の進行方向としたんで
> 魏志倭人伝は邪馬台国の位置が分からなくなってる

だからその根拠は?お前の希望だろ?
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 14:08:15.07
>>605
まかりなりにも莫大な国費を使って現地調査を任命した勅使に方向感覚や海流の知識がなかったなんて畿内説や徳島説の盲信者の願望でしかないわw
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 14:09:21.91
現実と妄想の区別がつかなくなってしまうのが邪馬台国ロマンの一番の弱点
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 14:16:02.70
議論の前提が、判ってないで ぐちゃぐちゃにしたいだけだろ? 子供の将棋かいwww
倭人伝行程は、大陸四夷支配の中華の覇者となる、魏軍軍人の行軍や外交官が
辺境の卑弥呼の国への地理を記録している記録だぞ。 >>579

卑弥呼に金印を届ける、という使命を持った魏軍将校が
南に船を向けて、東に流されたとしても、そこは目的地ではない。

目的地は、帯方郡から南である。
と言えば、南だよ。そのうえで、目的地は郡から一万2千里で、
馬韓西岸は4千里で歴韓国 乍南乍東して
渡海開始まで7千里。そこから対馬海峡は3千里。

そこは、魏にとっては未知の倭人国でも、
21王国が女王を共立したという人口可7萬戸の女王国だった。
そこから、陸行2千里に、女王の王宮が有った。

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
卑弥呼は大倭王ではなく、九州島北部の小国でした。 
と書いてある。 それだけのこと。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:01:06.82
>>606南だけは正確に判別できたのに、
>それ以外の、西か東か北かはわからなかったというのは極めて不自然。

船の向いてる方向が南と認識できたのは別に問題ない

ただ海流により船がどの方向に流されてるかが
分かって無かった事

海流に流されてついた先が出雲圏で
そこが投馬国だった

スサノヲが出雲に作った宮の長官名はミミで
これは倭人伝の投馬国の長官名のミミとおなじだし
出雲圏が投馬ってことの証拠だ
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:05:04.26
>>607

記紀によればスサノヲが出雲に作った都の長官名はミミだけど
これは倭人伝の投馬国の長官名がミミと共通


ってことで船は南にむいてたけど海流にながされてついた先は出雲圏で
そこが投馬国ってこと

巻向以前の最大の遺跡は出雲圏のムギバンダ遺跡で
倭国第二の人口を誇る投馬国にふさわしい
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:08:42.57
>>612
それを世間一般では「思い込み」による「妄想」という
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:10:28.47
>>609
歴史学とは文献などから真実を導き出す学問
考古学とは遺跡などから真実を導き出す学問

文献や遺跡とは違う独自解釈を始めた時点で学問ではなくSFだわな
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:24:33.81
長官名、ムギバンダ遺跡から出雲が投馬ってのはまぁ有かもしれんとは思うけども、そこまでの行き方があんまりすぎる。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:31:20.28
>>615
>長官名、ムギバンダ遺跡から出雲が投馬ってのはまぁ有かもしれんとは思うけども

出雲からさらに水行10日で上陸した
次に陸路で南下して大和っていうんは地理的に普通だけどね
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:35:14.21
>>615>長官名、ムギバンダ遺跡から出雲が投馬ってのはまぁ有かもしれんとは思うけども


船が南に向いても海流で流されたんで
ついた先が出雲圏で別に問題はない

海流の知識の無い使者が
船が南に向いてる方向だけど記したのはごく自然のことで
なんの違和感もない
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:39:12.28
複数の著名霊能者達が本や放送媒体で
いろんな意味でも出雲には大した役割はないって言ってたけど
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:43:41.57
妄想出雲はスピリチュアル系
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:49:57.19
妄想出雲は魏志倭人伝などの文献じゃなくて神社や神話の創作物のたまもの。
歴史学にも値しない。
古事記も文献というなら神武東征も認めろよ?

>>609
歴史学とは文献などから真実を導き出す学問
考古学とは遺跡などから真実を導き出す学問

文献や遺跡とは違う独自解釈を始めた時点で学問ではなくSFだわな
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:51:17.07
上陸地点はどのあたりを想定?
出雲大社あたりなら斐伊川を上れば南に水行にはなるから奥出雲辺りまで行ったとしても10日はかからないんじゃない?
その辺から大和を目指すなら吉備の領域通ることになるけど吉備は出雲か大和の構成国という設定?
水行で大和目指すなら但馬とか丹後あたりまで行って上陸がベターだと思うけど、そこまで南向いたまま左に左に流れて行ったってのでOK?
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:57:22.54
>>620>古事記も文献というなら神武東征も認めろよ

神武はトヨの後に共立された男王だ

卑弥呼の後に共立された男王は国が乱れたんで追放されたけど
神武(崇神)は武力による倭国の統一を目指した
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 15:59:29.44
>>621
>水行で大和目指すなら但馬とか丹後あたりまで行って上陸がベターだと思うけど、そこまで南向いたまま左に左に流れて行ったってのでOK?


水行10日は別に方向も記してないし
お宅の案でいんじゃないの
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 16:03:23.55
>>613

記紀ではスサノヲが作った都の長官名がミミで
魏志倭人伝で投馬国の長官名がミミときしてるから
出雲圏が投馬国っていうんは自然の解釈だ

巻向以前の最大の遺跡が出雲圏のムギバンダ遺跡だし
出雲圏が第二の人口を誇る投馬国っていうんは自然の解釈だ
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 16:05:56.28
偉そうなことを語っているのがいるけど、
どこの馬の骨なんだ?お前の名前は?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 16:10:25.14
お前の名前なんて、どこにも出てこないし、
日本の歴史の話だよw

どうでもいいところには、
出てくるんだろうけど
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 16:15:14.58
あと明治、明治(時代)と言ってる人がいたりw
テレビなどの話?
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 16:37:47.02
>>627

船が南に向いてても海流があるんで
南進するとは限らない

中国の使者は海流の知識がなかったので
単に船の向きだけど投馬国の方向を記述したけど
海流でながされてついた先は出雲圏でそこが投馬国

記紀によればスサノヲが出雲圏に作った都の長官名はミミで
これが倭人伝に記されてる投馬国の長官名のミミにあたる
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 16:59:45.91
>>631
南至投馬國水行二十曰官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳?可七萬餘戸

南に水行20日で投馬國
南に水行10日、陸行1月で邪馬壹國
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:04:06.50
>>631
>海流でながされてついた先は出雲圏でそこが投馬国


投馬國? なに頓珍漢言ってんの?

対馬海流に流されて着いた先は福津・宗像方面でそこが末盧国。  @阿波
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:17:01.37
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林が多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をしている。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。

いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:17:22.26
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

「晋書」第97巻  『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰

神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう?
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:23:03.26
耳とつくのは九州の王族だぞ。
あと、神武は卑弥呼共立前に筑紫から逃れた敗者だ。
神武東征というと勇壮に聞こえるが、実は大本営発表の転進とかわりない。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:26:01.85
>>637
なにその珍説
詳しく説明して
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:34:50.71
>>637耳とつくのは九州の王族だぞ。

スサノヲが出雲に作った都の長官名が八耳で
接頭語の八を除けば出雲国の長官名はミミとなって
これが投馬国の長官名のミミに相当する
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:36:05.85
思い込み合戦が白熱中
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:38:24.58
>>637あと、神武は卑弥呼共立前に筑紫から逃れた敗者だ。

天照は鏡祭祀の時代の人物で
動滝祭祀の終焉は2世紀末なので
天照は2世紀末以降の人物だ

神武は天照よりも5世代後の人物なんで100年程度時代が過ぎて
3世紀末以降の人物になり

崇神はトヨの後で3世紀末とされてるんで神武と時代が重なり
神武と崇神は同一人物となる
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:41:43.26
博多湾の志賀島にいた綿津見や大山祇の「み」も、王(または神)の意味だ。
神武の息子たちも、手研耳、神八井耳、神沼河耳などとある。
魏志倭人伝でも、投馬国の官がミミである。
大王も「おおきみ」と最後にミがつく。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:42:14.11
>>636

2世紀末になると環濠集落は一斉に破棄さて
人々は分散して便利な平地に暮らし始めた

それで3世紀の巨大遺跡は巻向だけになり
他の巨大遺跡は存在しない

ってことで関東から九州にかけて巨大遺跡は巻向のみで
ここが卑弥呼のいる邪馬台国ってこ
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:43:04.37
内陸だから、変化に取り残されただけ。
纒向は後進地域。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 17:50:12.52
>>644
>てことで関東から九州にかけて巨大遺跡は巻向のみで
>ここが卑弥呼のいる邪馬台国ってこ

碌に人が暮らしてもいない纏向ごときが邪馬台国などど、余りにも厚顔無恥。  @阿波
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/07(木) 23:30:11.83
637じゃないけど

ミミ=海王やろ
ツミ=半農半漁の王
キミ=農耕部族の王


神武は肥後南部(益城郡あたり)が本地なんじゃないのか?
阿蘇の爆発によってやっていけなくなった部族が集団で東征したものだろう。
そもそも他国を侵略する必要があるのは自分たちが豊かではない、食いつめものであるのが理由のひとつ。
古代ローマの誕生しかり、ゴート族しかり、フン族しかり、アングル族しかり、モンゴル族しかり。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 07:03:07.15
>>646

国会議事堂で暮らす馬鹿はいない
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 07:10:12.95
>>645

男王の死後に倭国は大いに乱れた

そこで男王の御霊を奉斎する巫女である卑弥呼を倭女王として共立した

男王の御霊はヤタノ鏡に移され
その鏡を三輪山に納めた

そして三輪山のふもとに
男王の御霊を祭祀するための都を建造して
その都が巻向だ

九州から卑弥呼が巻向に移住して
そこで卑弥呼は男王の御霊を奉斎する巫女となり
国を治めた
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 10:25:16.09
|∩`Д´) / '⌒☆魏志倭人伝においては、
 墓の中の卑弥呼は纏向行けないでしょw

1、自郡至女王國 萬二千餘里
2、到狗邪韓國七千餘里+千餘里至對海國+千餘里至一大國+千餘里至末盧國+陸行五百里到伊都國
  が、一万五百里
3、参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
  であることから、女王国は九州島北部である。

4、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
  この付加された、陳寿の解説によって、理解されることとして

一、本州は 其餘旁國遠絶であり、魏はこの情報を全く知らない。
二、倭国大乱は、190年あたりに「女王国となった国」の話である。
三、卑弥呼の墓は、247年張政の 2、の行動範囲である、
  至末盧國〜陸行五百里到伊都國 または至奴国 百里、至不彌國 百里 の中にある。
四、次有 ―以下21国列記― 此女王境界所盡
  が、参問された、女王国の所属構成国の全ての漢字化された国名である事。
五、前文の南至邪馬壹國は、21国と同じ240年の梯儁の命名で有り、
  壹(臺)が、この中の邪馬國の中の有った、女王宮を意味しているであろうこと。
六、南至投馬國、南至邪馬壹國 は、弁辰韓、辰韓12国のような概念の国である事。
  韓伝諸国の列記される書式同様の邪馬台国列記21国の、人口は、可で表記され7万戸である事。
  (というより投馬國は240年当時不明だった弁辰韓5万戸の梯儁による別名である)

・以上の明確化によって、銅鐸〜古墳、纏向と九州の関係、日本の統一と半島、馬と鉄の移入、
これら、日本古代史の課題へと、歴史愛好家諸君は、迷うことなく進むことが出来るはずである。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 10:28:23.64
>>649
>国会議事堂で暮らす馬鹿はいない

碌に人が暮らしていないようなところに、国会議事堂など有る訳ないじゃん。  頭大丈夫?  @阿波
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 10:31:18.00
>>650
>その都が巻向だ

碌に人が暮らしてもいない纏向ごときが都?  @阿波
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 10:33:45.09
>>651
>以上の明確化によって、銅鐸〜古墳、纏向と九州の関係、日本の統一と半島、馬と鉄の移入、
>これら、日本古代史の課題へと、歴史愛好家諸君は、迷うことなく進むことが出来るはずである。

九州など、出る幕無いよ。  @阿波
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 15:52:49.79
>>637神武は卑弥呼共立前に筑紫から逃れた敗者だ。

銅鐸祭祀の終焉は2世紀末で
それ以降は卑弥呼の鏡祭祀の時代が始まる

天照は銅鐸祭祀ではなくて鏡祭祀の時代の人物なんで
2世紀以降の人物となる卑弥呼と同時代だ

神武は天照よりも5世代後の人物で100年程度あとなんで
3世紀末として崇神と同時代の人物だ

だから神武が倭王になったのは卑弥呼やトヨのあとで
トヨの死後に共立さえた男王だよ神武(崇神)は

神武(崇神)は初めて武力で倭国を統一しようとた
(それまでは共立)
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 15:56:33.24
銅鐸の出土って3世紀から6世紀前半だよ?
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 16:22:04.88
>>653碌に人が暮らしてもいない纏向ごときが都? 

卑弥呼が巫女女王として共立されて九州から大和圏に来た時に
大量の九州の人たちが一緒に大和圏にきたので
九州と大和圏は地名や土地の位置が同じになってる

これは九州から北人たちが自分の故郷の地名を大和圏に土地につけたからだ

巻向は三輪山に祭られてる男王の御霊を奉斎するための祭都であって
人の居住のためのものじゃない

九州からきた人たちが住んだのは大和圏の広い範囲で
その範囲が邪馬台国だ
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 16:28:08.85
240年に、印綬で卑弥呼の王宮を訪れた梯儁の行軍の報告で
>参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
参問倭地=女王を共立した列記21国 可7万戸の小国だった、ということを知り

247年に、245年の黄幢と檄に応えなかった 邪馬台国の視察で伊都まで来た張政が
>使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
>王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
を 報告した。 これによって、247年で魏と邪馬台国の国交は終わる。

張政が見た大倭が、卑弥呼の小国=小倭ではない、吉備、出雲、阿波、近江、越、紀伊、濃尾
等の統一日本だってことは、明らかなんじゃないのかな?

>>579 東夷伝序文の 
近日之所出 遂周觀 諸國 采其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀 大小区別だよ。 
600年までに倭人伝を読んだ天皇、聖徳太子?も中国の知る日本は昔の小倭では無いと喝破した。

もしこの小国が、倭人伝に描かれた筑紫であるなら、247年〜313四郡撤退、350年までの
これ以降の、半島進出、高句麗戦、鉄の生産や馬の移入、百済、新羅の建国に間に合わない。

日本は、238年公孫氏滅亡で青銅の輸入元を失い、246年韓王朝滅亡で外敵を学んだ。
筑紫を併合して、外交に関しては、一大卒を置いた。 対魏で敵対政策をとってるに決まってんだろ?
これによって、重農政策の銅鐸社会から、軍事帝国化の強兵を持ち、古墳時代に突入した。

倭人伝を読んで、小倭=邪馬台国が、畿内や阿波や吉備や出雲であってはならない理由が判らないのか?
>>2~>>9 をちゃんと読む。 たったこれだけだ。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 18:18:19.88
240年卑弥呼印綬で邪馬台国は大陸貿易を独占した。
畿内説、阿波説w、九州も? などの諸君は、そう考えるのか?

違う。 公孫氏がBC200からの銅鐸文化を支えた窓口だった。
阿波説の、宗像wや土井ヶ浜、対馬東岸〜釜山ルートも有っただろう。
この公孫氏を、失った本州勢力は筑紫に従うか? 
違う、筑紫に一大卒を置いて、東亜戦争を控えた半島のように併合した。

可7万戸の未開の邪馬台国など、三国志の魏には、屁のような国である。
九州が征服されていないのは、背景の本州は不沈空母で、攻略不能だからだ。
張政が見た、伊都の 諸國畏憚之 於國中有如刺史 はこれである。

陳寿の仕官した 劉備や曹操も、刺史や州牧から皇帝となった戦国武将である。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 18:24:57.69
>>660
違う、銅鐸文化は越から齎されたものだと判明してるから公孫は倭の歴史に無関係
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 18:34:02.06
>>661
チラ裏の反論歓迎で、推敲もしてないし、言葉も足りないのは知っている。
すまない。
銅鐸文化は日本独自であって、青銅文化を支えた、公孫氏かな?
青銅や、出所が判る銅の輸入元です。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 18:38:23.80
引用元は嫌韓だけど理論はしっかりしてる百済スレから

> 銅鐸は朝鮮の無紋小銅鐸がルーツだと言い出したチョンコ起源説を叩き潰そう♪
>
> 朝鮮半島から出土した小銅鐸はサイズや製法、その構造などから殷の馬鈴がルーツと断定されている。
> 馬鈴とは多数の騎馬を統率するために用いられた馬具だが、
> 遊牧民族が牧畜の際に家畜の統率用に転用するようになり、それが朝鮮半島に伝わったと考えられる。
> 傍証として挙げられるのが外側が無鰭(むき)で鈕(ちゅう)と共に摩耗が激しい、また家畜と共に出土している点である。
> これはつまり家畜の頸に結わえ付けていた証拠であり、小銅鐸ではなく畜産用の首鈴と名称を変えるべきという意見も多い。
> なにより6世紀以前の遺跡からは出土していない。
>
> 一方、3世紀の遺跡から出土している日本の銅鐸は越の祭祀鐸がその起源と考えるのが一般的である。
> 越の祭祀鐸はその使用目的から有鰭(ゆうき)装飾があり、司祭が手に持って振っていたために持ちやすいよう鈕は平たく、
> 共に磨耗は少ない。
> これは日本国内で発見されている銅鐸もまったく同じで、鈴ではなく鐸という共通点もある。
> 5世紀から巨大化と装飾が増えていくが、これも当初から祭祀鐸であればこその正常進化と言える。
>
> 上記の検証により日本の銅鐸が朝鮮の小銅鐸とは何ら関連がないのは明白である。
> なお、朝鮮半島で小銅鐸が出現する6世紀に忽然として日本から銅鐸が消えている点の因果関係はまだ判明していない。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 18:54:03.41
>>663  情報、ありがとうございます。

> なお、朝鮮半島で小銅鐸が出現する6世紀に忽然として
日本から銅鐸が消えている点の因果関係はまだ判明していない。

これが、筑紫に一大率を置いた、238年から247までのどこか?
238公孫氏滅亡〜246韓王朝滅亡、であることは、

戦時半島忖度の無い、若い日本の歴史愛好家なら容易に推測可能なのです。

これ以降、富国強兵の古墳時代になる。 >6世紀?銅鐸? 知らんけど諏訪銅鐸?
地域差で数百年有っても、銅鐸の終わりが古墳の始まり、ではないのかな?
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 19:37:00.97
わかりやすく、判る人にはw

銅鐸が消えたのは247年
古墳が始まるのは247年
これは、こじつけかもしれないw

卑弥呼が死んだのは247年
韓王朝滅亡246年
卑弥呼 朝貢238年
公孫氏 滅亡239年

フロント国の卑弥呼は独自に外交有ったし、魏から印綬した。
日本本州は、BC200から、青銅輸入してる。

対魏で防衛しないで良いわけが、有りますか?
九州併合で、魏や高句麗や列強を押し返す。

半島や九州は緩衝材。
まあ、663年白村江で半島利権はあきらめ、棄民。
それが、東亜古代史です。


歴史認識の違いで良いのだが
大韓帝国の崩壊は、日本が強制的に半島の、棄民
を強いられたので無ないかな?
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 19:40:17.22
>>665
考古学の研究成果としては日本最古の銅鐸鋳型(吉野ケ里)が3世紀半ばだと判明している以上
君の主張する> 銅鐸が消えたのは247年 はウソと断言せざるを得ない。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 20:02:46.04
>>667
鶏冠井遺跡
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 20:08:42.05
>>666
3世紀半ばってのは日本最古やなくて九州最古の銅鐸鋳型やろ
年代測定で3世紀半ばと判明してる木幡家の銅鐸が吉野ケ里製
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 20:11:12.47
ちなみに出雲の木幡家が所蔵してる銅鐸が佐賀製ってことには大きな意味があると踏んでいる
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 20:19:19.94
>>670
いや鶏冠井遺跡の鋳型が日本最古だと教えてやったに過ぎないんだが
ちな紀元前
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 20:45:54.33
>>673
それは>666に聞いてくれ
0675668
垢版 |
2019/03/08(金) 20:47:37.88
私がややこしくしてしまったんだな
私が書いたのは>668だけ
よって国内最古の銅鐸は3世紀ではないと考えている
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 20:53:02.03
弥生中期にはあるんだから、3世紀が最古なんてあり得ない
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 21:15:42.73
1 意図的に誤情報を流布する嘘つき
2 紀元前を示す前を見落としたうっかりさん
3 違う過去をもつ世界からやってきた異世界人

どれだろうね
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 22:23:02.80
九州最古の銅鐸ってのは興味ある
というか、

筑紫大乱の卑弥呼時代190年以降に
九州に持ってったら、相手にされなかったんで
古墳時代になったんじゃないかな?

九州の銅鐸は、先駆でBC200以前なのかな?
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 22:28:39.33
>>669
見落としてて、すみません。
予想通りの情報をありがとうございます。 
感謝です。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/08(金) 23:38:23.83
大型銅鐸が作られなくなったのは2世紀末で
卑弥呼が共立された時期だけどね

卑弥呼が共立されて以降が鏡祭祀の時代で
これは死んで鬼籍に入った人の御霊を鏡に移して祭る鬼道で
神道のルーツと呼ぶべきものだ

男王の死後に倭国連合は大いに乱れ
卑弥呼が共立されて男王の御霊は平原で作られたヤタノ鏡に移され
ヤタノ鏡は三輪山に据えられふもとに御霊を祭る為に都である巻向が造営された

卑弥呼は巻向で男王の御霊を奉斎し
男王の御霊の神託に従って祭りごとを行った
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 00:44:21.32
>>678
厳密には出雲で出土した銅鐸の鋳型が吉野ヶ里で見つかった=九州は出雲に下賜する立場であったという傍証の一つ
銅の炭素年代測定って難しいらしくて、木幡家の銅鐸も年代測定はB.C.100-A.D.200となってる
吉野ヶ里の鋳型は3世紀の地層から出土してる
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 01:40:13.71
広島、岡山、鳥取、島根で出土した邪視文のある福田型銅鐸が全て吉野ヶ里製
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 02:09:10.88
銅鐸は謎が多いよ
淡路島の松帆銅鐸なんて内部に付着してた植物編の炭素年代測定が最古のもので紀元前2,200年とか出てるし
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 04:02:09.34
>>682
一昔前までは近畿・中国が銅鐸文化で、九州は銅鏡文化だったって説が一般的だったのに
発掘が進んだら少なくとも中国地方の銅鐸は九州製が多いってことが分かってきた

まだ依然として不思議なのは製造元の九州からの出土は少ない上に、人口密集地からの出土ばかりなのに対し
大量に出土してる中国・近畿では人里はなれた所からの大量出土が多い

銅鐸に古代史のカギが眠ってる気がしてならない
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 06:23:37.59
>>685
>まだ依然として不思議なのは製造元の九州からの出土は少ない上に、人口密集地からの出土ばかりなのに対し
>大量に出土してる中国・近畿では人里はなれた所からの大量出土が多い

一方、倭国(阿波)では、万遍無く、各地で出土している。 これは倭国(阿波)だけの特徴だろう。  @阿波
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 07:41:23.30
銅鐸も銅矛も銅鏡も九州が起源であったということか。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 07:52:34.67
>>685 なるほどねえ
以下のようなことだったのかな
・元々北部九州(佐賀含む)〜中国・近畿まで(全域が)銅鐸文化圏だった。
つまり北部九州のいわば先住渡来民族(倭奴国系)が、吉野ヶ里などで作った銅鐸を各地へ下賜しつつ、東へ勢力を広げていた。
・そこへ2世紀ごろから、順次、鉄を匠する漢民族系の新しい渡来種族が、末盧国経由で侵入し、
手初めに吉野ヶ里辺りから陥落させて、勢力を示し始めた。
・言うまでもなくこれが第一波の騒動であり、つづいて倭人伝の云う倭国大乱となり、九州全土に拡大した。
(吉野ヶ里の銅鐸鋳型はこのころ放棄されたのではないか。)
そしてこの一族は肥(火、肥前肥後日向)に拡大し、やがて大倭王や卑弥呼を擁立することとなる・・・、
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 08:08:43.13
倭人伝の国の副官に「卑奴母離=卑奴守」が登場する。
これは、先住種族であった博多奴国(倭奴国)の影響が残る国々(卑国民)を
監督する軍人の長のことだったのではないか
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 08:23:08.84
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓         近江→尾張→伊勢→纏向

宇佐→安芸・伊予→阿波・吉備→淡路島→摂津・河内

【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→3世紀初に畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

支配は西から東へ拡大し、土器などの産物は王都である筑紫へ
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 10:38:33.10
>>689
渡来?!
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 11:00:24.43
>>689-690
5chにはまだこんな昭和なこと言ってる人がいるんだな
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 11:51:14.28
>>692
銅や鉄の精錬技術をどうやって手にしたかということだ。
縄文人にはそうした気配はない。
とすれば、それはどのみち渡来の技術で、
それを秘伝とする弥生の種族が渡来したからと考えるべきであろう。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 12:23:13.80
>>694
鋳造技術は紀元前2-3世紀に越からもたらされたのは分かってる
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 14:18:36.71
>>672

最古の鋳型だけど
最古の銅鐸ってことじゃない

見つかった鋳型の最古のものだけど
その鋳型で作らてた銅鐸よりも古い銅鐸はあるし
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 14:22:38.28
>>664

小銅鐸は鉄鐸に置き換えられて今でも神社の祭具
として使用されてる

諏訪神社で鉾の先に鉄鐸をぶら下げて
それをガラガラならすことで神に位置を知らせて道案内するってことで
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 14:26:49.21
>>691

巻向以前の最大の遺跡は
出雲圏のムギバンダ遺跡

出雲圏のムギバンダ遺跡の前の最大の遺跡か
東海県の朝日遺跡
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 14:29:16.59
>>661

銅鐸は九州から東海までの反にはほぼ同時に広まって
少し遅れて関東だけど

前方後円墳は関東から九州までほぼ同時期なんで
銅鐸の時代よりも前方後円墳の時代は倭国の範囲が広がってる
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 14:39:08.03
>>688

銅鐸については
九州から東海までがほぼ同時期で
関東が少し遅れる
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 14:47:22.17
>>684>銅鐸は謎が多いよ

小銅鐸が最も多く出土するのは千葉県だし
謎が多いっていうのは確かにそうかな
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 14:59:16.61
>>670吉野ヶ里はどこいった?

吉野ヶ里も含めて卑弥呼が共立された2世紀末に
関東から九州にかけての環濠集落は一斉に破棄され
人々は便利な平地に分散して住むようになったんで
人口が急激に増えた
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:19:06.69
>>695

鉄の技術はヤマタノオロチから出てきた鉄製の剣からも
越が先駆的って感じはするけど
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:48:25.14
>>702
卑弥呼による九州北部の和平の恩恵だな。
大変わかりやすい。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 15:50:29.99
銅鐸も前方後円墳も千葉県が最多なのに、なぜ誰も邪馬台国千葉県説を唱えないのか。
千葉県と奈良県の条件は似ている。
にも関わらず畿内説ばかり出てくるのは、後世のヤマト王権のイメージによるバイアスがあるだけなんだよ。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 18:12:41.27
>>705
>銅鐸も前方後円墳も千葉県が最多なのに、なぜ誰も邪馬台国千葉県説を唱えないのか。

そりゃ、「忌部はん」 なんだから、倭国(阿波)に遠慮するわね。  @阿波
0708日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 18:17:33.27
そうですね。
そしてそれは畿内説にも当てはまります。
畿内にはヤマト王権が後に成立するのでしょうが、それをわざわざ邪馬台国と結びつける意味はあるでしょうか?
0709日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 18:43:26.80
>>708
全く不必要で、無意味です。  @阿波
0711日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 20:26:51.80
>>705
>銅鐸も前方後円墳も千葉県が最多なのに、なぜ誰も邪馬台国千葉県説を唱えないのか

数は最多でも銅鐸は小銅鐸だし前方後円墳は小型だから
0712日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 20:32:51.19
>>708畿内にはヤマト王権が後に成立するのでしょうが、それをわざわざ邪馬台国と結びつける意味はあるでしょうか?

今現在の神道のルーツは卑弥呼の鬼道で
これは死んで鬼籍に入った人の御霊を神として信仰の対象にする宗教だ

人が死ぬと神上がりして御霊が神となるっていうんが
神道の祭事の基本だし神楽や宮中祭祀は
死んで神上がるする祭事がその中心になってる

今現在でも神社のご神体は鏡で
ここに死んで鬼籍に入った人の御霊が移され
神として祭られてる

この原型が卑弥呼の鬼道であり
卑弥呼の時代に御霊が鏡に移されて神として祭られる鏡祭祀ができた

それ以前は銅鐸祭祀で
卑弥呼が共立された2世紀末が銅鐸祭祀の終焉で
以降は鏡祭祀の時代となる
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 20:36:54.84
>>708畿内にはヤマト王権が後に成立するのでしょうが、それをわざわざ邪馬台国と結びつける意味はあるでしょうか?

大和王権も卑弥呼の鬼道(神道)をベースにした王朝だらか

卑弥呼の御霊はヤタノ鏡に移されて伊勢神宮の祭られてるけど
これが大和朝廷の祖霊神ってことになってる
0714日本@名無史さん
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2019/03/09(土) 21:25:30.56
>>713
>大和王権も卑弥呼の鬼道(神道)をベースにした王朝だらか

そんなものは古代王権なんて似たりよったりさ。
半島の国だってそうだし、地球の裏側の国だってきっとそう。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 22:56:36.10
>>714
死んで鬼籍に入った人の御霊を神として奉斎する鬼道は
シャーマニズムで世界的にみても普通のあるけど
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:01:58.52
>>714

でも人間の御霊を神とするっていうのは
もしかして神道(鬼道)だけかも

神道だと松下幸之助も神社の祭神となって
神様として扱われてるけど
他の宗教だと人間が神っていうのは?

仏教の場合は悟りを開いた人間が釈迦になるってことで
ベースが人間だけど

仏教の神道もベースが人間なので
神仏習合で天照はブッタと同一人物だってしたのは
ちょっと性別を無視してる感じで無理があるかもしれないけど

八幡大菩薩なんて
なんか神仏習合で笑えてしまう
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:03:22.33
千葉県在住の郷土史家(あくまでも自称ね)のひとりとして言わせてもらえば
千葉のものにはダイナミックなスケールが皆無、関西あるいは九州から流れて来た者たちが持ち込んだものなのだろう。
銅鐸も前方後円墳も。しかし見るべきものも多いよ、千葉の遺跡は。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:06:29.65
>>708畿内にはヤマト王権が後に成立するのでしょうが、それをわざわざ邪馬台国と結びつける意味はあるでしょうか?

大和朝廷は
卑弥呼の御霊をヤタノ鏡に移して天照とし
それを皇祖としてるから
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:06:33.12
>>716
  
神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷「忌部はん」 だろ。  @阿波

忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩 

「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」

http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:13:50.03
>>717

千葉県の神門5号墳は最古級の古墳で
大和の古墳と古さがいい勝負だし
興味深い
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/09(土) 23:53:09.17
>>718

その八咫の鏡は、高天原から筑紫に運ばれ、いつの間にか畿内に運ばれて、伊勢にたどり着いた。
出雲の奏上文は奈良時代の文書なので、途中をすっ飛ばしている。
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 00:42:47.77
>>721出雲の奏上文は奈良時代の文書なので、途中をすっ飛ばしている

出雲国造神賀詞の上奏文は
大国主の御霊を収めたヤタノ鏡のことなんで
天照の御霊を収めたヤタノ鏡のことじゃないけど
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 01:43:40.71
八咫の鏡は何枚あるんだよ...
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 07:58:51.05
>>6913世紀末に大型内行花文鏡が畿内へ侵入

2世紀末の平原でつくられたヤタノ鏡は
倭国大乱前の男王の御霊を移す為のものだ

男王の御霊はヤタノ鏡にうつされ三輪山に据えられた

三輪山のふもとで男王の御霊を奉斎するための都である巻向の造営が
2世紀末に開始された

巻向遺跡のある場所の昔の地名は出雲庄だけど
これは男王が出雲の大国主であることちなんだものだ
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:00:47.62
>>723八咫の鏡は何枚あるんだよ

一つの鋳型から複数枚の八咫の鏡をつくり
一番出来のいいのが御霊を移す鏡として使われた
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:05:56.33
>>721

平原で作られた八咫の鏡は
男王の御霊を移して三輪山に据えられた

卑弥呼の御霊を移したヤタノ鏡はこれとは別物
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:39:14.57
>>726
残りは割って卑弥呼に副葬したんですね。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 08:47:51.99
天岩戸において、
天照大御神がお隠れになったので、再来を願うため、思兼神の案で八咫鏡を作ったという。
が、ここに一つのトリックがある。

お隠れになったのは天照大御神(ヒミコ)であり、再びお出ましになったのは玉照皇大神(トヨ)である。
知らぬ間に代替わりしている。
つまり、八咫鏡は再来の天照皇大神(トヨ)のために作られ、
のちには、その御魂を映すものとして、代々伊勢神宮において祀られているのである。
(なお伊勢神宮では、一般向けには天照大御神と天照皇大神をあえて区別していない)
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:25:12.60
この八咫鏡や八咫カラスだが、
古代三世紀に、羽を広げると八咫、つまり1.8mもあるコンドルのようなカラスがいたかと言うと、そんなことは考古学的にもない。
八咫鏡もそうであろう。
ともに、高天原に由縁のあった鏡とカラスというだけのこと。

その八咫という八世紀・記紀の記述をバカ正直に解釈したどこぞのトンマが、
真っ正直に八咫の寸法の鏡を作らせたまでは良かったが、冷却の途中でひび割れが入ってうまくいかない。
5枚作らせたがどうにもならなかったので、あきらめて平原に捨てた・・・、
実寸が八咫であったところからして、八世紀以降の作であったことはまず間違いない(涙、、、
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:36:21.31
八咫の鏡に近い大きさの鏡が畿内でも見つかったので、そのようなデマは通用しない。
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 09:40:48.98
その畿内の大鏡も、
八世紀以降のバカ正直が作らせたまがいものなのだろう、、、
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:14:46.75
>>732
は?八咫の鏡に比定される銅鏡は3-4世紀の遺跡や地層から出土してるんだぞマヌケw
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 12:41:57.98
畿内説がやたらと否定ばかりするのは今に始まった事ではない。
彼らは政治的な思惑のために事実を捻じ曲げようとする。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 14:21:28.55
そもそも畿内説(というか九州以外説全て)に一つも信憑性を感じないんだけど、なんで九州説は妄言扱いされまくってんの?
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:36:23.06
九州説だと記紀とも整合性が取れてしまうが、記紀の神代をなかったことにしたい人たちには耐えられない。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 16:52:17.50
そうだね
九州説が妄言扱いされまくるということは、それだけ脅威だということなんだろうね。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:15:19.17
>>738
さいきん九州説は、専門家の支持者が増えてね。
たのもしいかぎりなんだよ。
それに比べ畿内方面では、あちこちから火の手が上がり、戦線総崩れの感じだね。
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 17:28:40.64
纒向があまりにも邪馬台国と違いすぎた。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:24:26.91
邪馬台国は7万戸、
纒向は70戸くらいだったんじゃね。
というか、畿内大和説の人たちは、当時の国を村、王を村長みたいに小さく想定し過ぎてた気がする。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:39:13.49
九州説は考古学的と言うか物証を以って主張してるのに対して、九州以外説って地元愛とかヤマトって音感に結びつけようとしてたり、水銀に固執したりと強引なものばかりって印象
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:48:24.58
>>742
>九州説は考古学的と言うか物証を以って主張してるのに対して、九州以外説って地元愛とかヤマトって音感に結びつけようとしてたり、水銀に固執したりと強引なものばかりって印象

あれれ、「水銀朱」は考古学的と言うか立派な物証だよ?  文献的にもね。  
九州説の考古学的と言うか物証ってなに?  ベンガラ? 大きな鏡?  甕棺墓? 環濠集落?  @阿波
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:59:04.26
倭人伝に登場する、邪馬台国論争の話なんだろ?

倭人伝は、240年当時の日本=大倭国王の話はしてないだろ?
自郡至女王國 萬二千餘里
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
残念ながら、九州北部の小国でした。
と、言ってます。

隋唐史の際に、日本の天皇(聖徳太子)は、倭人伝を読んで、
いにしえの倭国は、日本とは別国であり、これを統合した
と言っています。

遣隋使当時の天皇 聖徳太子? は、邪馬台国、九州説です。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 18:59:26.34
>九州説の考古学的と言うか物証ってなに?

卑弥呼の時代を特徴づける物証は、国と国とを結び付けた道だ。
道あっての倭国、倭国内の道のネットワークこそ女王を共立できた最大の物証なのだ
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:11:17.40
>>744
>隋唐史の際に、日本の天皇(聖徳太子)は、倭人伝を読んで、
>いにしえの倭国は、日本とは別国であり、これを統合した
>と言っています。

「いにしえの倭国」とは、倭国(阿波)
「日本」とは、8世紀遷都後の奈良大和 だと、何度言えばw  @阿波
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:23:17.05
>>744
自己レスだが補足
倭人伝は、明らかに卑弥呼は大倭王では無かったと言ってるのに
何故卑弥呼を、日本建国の大和王にしたいの?

238公孫氏と246韓王朝滅亡以降、日本は魏と敵対する
その為に、九州フロントに、漢語表意文字の「一大率」を置いた。

これは、247年に死んだ卑弥呼の仕事でも、傀儡臭の壹與の仕事でもない。
これによって、313年四郡撤退、高句麗戦、牛馬移入、鉄の国内生産を経て、
350年百済新羅建国。 400年倭の五王半島利権外交が存在する。

邪馬台国論争は、
古墳時代化=古代帝国主義化
を 否定したいだけなのかな? そういう歴史は無理。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:26:21.80
泡は水銀の一点だけで頑張ってるから悪い意味で凄いなと毎回感心してる。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 19:30:25.90
>>750
>泡は水銀の一点だけで頑張ってるから悪い意味で凄いなと毎回感心してる。

ハハハハ  ネタが多すぎて困ってるんだけどwww   
どれか一つ、分けようか?
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。   @阿波
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 20:34:33.18
>>751
魏志倭人伝に描かれているような、
郡から1万2千里で周旋可五千餘里の小国で
247年に魏との国交が終わった小国は、

古代日本の中枢を築いた阿波であってはいけない。
と、何度言えばわかるんだ?

銅鏡文化全盛を築いた阿波に100〜190年の倭国大乱なんて要らんだろ?
こんなの対外外交の失策で併合される、戦前半島みたいな、古代九州の話だぞ?
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/10(日) 21:05:07.34
@阿波の水銀灯
明るさは申し分ないのだが、タイミングがちょっとアレだな、、、。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 22:09:21.69
>>
>74邪馬台国は7万戸、
>纒向は70戸くらいだったんじゃね。

巻向は人が生活する集落じゃないけどね
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 22:46:19.73
>>753
>郡から1万2千里で周旋可五千餘里の小国で

もしかして周旋が一周という意味だと勘違いしてないか?
それと多分、短里があると思ってるだろ?

それ、九州説がすがりついてる捏造&誤解釈で大間違いなんだよ

「脇目もふらずまっすぐに」ではなく「各所にいろいろ寄りながら」進むのが、周旋
短里は、3世紀当時、その長さを知っている人も使う理由のある人もどこにもいない
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 23:03:07.91
>>756
>邪馬台国は7万戸、

その邪馬台国七萬餘戸は「大和+河内〜環大阪湾」の畿内第V様式土器が共通して出土する範囲
地域首長の成長が遅れる北部九州とは違って、畿内は弥生時代後期に入る頃には
一つの勢力・交流圏としてまとまっている
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 23:24:51.23
ただの田舎の交流会
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/11(月) 23:25:44.91
大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)

もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。

ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 00:53:30.60
>>757
> 短里は、3世紀当時、その長さを知っている人も使う理由のある人もどこにもいない

はぁ?
対海国〜一大国(対馬 峰町遺跡群-壱岐 原の辻遺跡)
千余里(短里約80km、長里570km)
実際の直線距離79km、目視航海路86kmkm

一大国〜末廬国(壱岐 原の辻遺跡-唐津 柏崎遺跡郡)
千余里(短里約80km、長里570km)
実際の直線距離48km、目視航海路76km

末廬国〜伊都国(唐津 柏崎遺跡郡-糸島 井原遺跡群)
五百里(短里38km、長里270km)
実際の直線距離26km、陸路35km

伊都国〜奴国(糸島 井原遺跡群-福岡 吉武遺跡群)
百里(短里7.6km、長里54km)
直線距離7km、陸路10km

魏志倭人伝で距離と位置がハッキリしてる遺跡は完全に単里だぞ、このウソツキ!
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 03:49:45.35
というか古田武彦が「三国志全体の記述内容」から周や魏、西晋が短里を使用していたことを証明したのは1992年で、以後26年以上も経つが誰一人として古田の解説を反証できた者が一人もいないという事実。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 08:36:58.98
>>761
>魏志倭人伝で距離と位置がハッキリしてる遺跡は完全に単里だぞ、このウソツキ!

キミが論理的思考のできない無能だってだけだよ

それ、一里あたりの距離に直してごらん
何倍も異なるバラバラの値にしかならないだろ?
そんな単位はないんだよ

魏志倭人伝の距離は、三国志が書かれたときの西晋の高祖、司馬懿の公孫氏討伐と
そのおかげで可能となった東夷世界の朝貢を持ち上げて、顕彰するために誇張されているだけ

また、西域の大月氏の朝貢をもたらした曹真の功績に見劣りしないようにという具体的な
対象もある
漢書西域伝で大月氏は萬千六百里の彼方
「大月氏國治監氏城去長安萬一千六百里」

これを超えるために、淮南子の漢土の外の世界の果てまでの萬二千里を、
実際の地理と無関係に倭国までの距離にしている

また、壱岐から九州までの渡海距離は他の区間の半分の距離しかないが、
渡海3回は一律で千餘里とされていて、一日で漕ぎ渡れる距離を
実距離とは関係なく千餘里としていることが分かる

実際、海上距離を測る手段は3世紀にはないから、ここは測定値ではないし、
短里の根拠にもならない

続きはまたあとで
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 08:40:36.98
>>762
>以後26年以上も経つが誰一人として古田の解説を反証できた者が一人もいないという事実。

あまり笑わせるなよ
古田武彦氏の挙げた例は、天柱山の高さをはじめとして、公表した瞬間に同じ九州説の
安本美典氏にすら論破されてるぞww

魏・晋朝で短里が使われていたと考えるのは、古田史学の会の狂信者、心酔者だけ
周朝での短里の存在は井田法の存在で否定できる
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 09:01:55.05
>>757
もしかして、図形の算数知らなくないか?
南北直系2千里なんだから、5千で周回したら東西500里だぞ。

福岡平野と筑紫平野だけで、東西の最大部分は1000里は超す。
参問倭地はこの中に限定してある21国である。
これをあまねく廻っても、5千里程度。 と書いてある

>「各所にいろいろ寄りながら」進む 
周旋可は、進む、という動詞として使ってはいない。

周旋した結果の報告ではなく、この21国が、或絶或連であるなら、
或絶の地域は往復で計算する道里ですら無い、図面上の概念と考えられる。


短里という規格は無関係に、東夷伝では
韓方可4千里、対馬〜壱岐千里、壱岐方可300里 などによって
里程の定義は統一されている、と言える。

>>762 の短理の存在証明は知らないが
ただの小学生レベルの算数、文章問題で済む。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 09:37:11.42
倭地は「周旋可五千餘里」との記述であるから、
倭国のことでも、邪馬台国のことでも、21国のことでもない。
狗奴国を含む倭地、すなわち筑紫島のおおよその大きさである。
則ち、対海国は方可400里、一大国は方可300里と記述されている。これに対比しての筑紫島のおおよその大きさ概念である。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 10:00:30.86
>>766
この魏時、中国人は倭地の全体概念を知らない。
狗奴国の大きさは判らないが、長年、女王と争うくらい小さい。

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至
↑これが、女王國東以遠で奇譚を含む倭の全体像。

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
↑女王国の道里に有る、以北の国は陳寿が倭人伝で略載を得た。
他は、知らない。

そのうえで、
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
であり、参問したのは、女王国7万戸を構成する21国である。

和音名称の21国名を漢字にできる機会は、この二回の魏使来日時以外にない。
知らない餘旁國の名前21国は、おそらく九州筑紫人も知らない。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 10:47:44.53
>>767
>そのうえで、
>参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里

参問したのは「倭地」であると明記されているではないか。周旋可五千餘里は倭地のことである。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 10:54:41.17
漢文を(日本語に変換して)読み解けるから、
オレさま達人と思い込んでは良くない。変換するときに、個人の趣味・誤りが混入しがちだからな。
中国文(漢文)は、中国文(漢文)のまま読むのが最上。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 10:56:56.66
>>763
無能は読解力以前に文盲だったのかwww
対海国〜一大国(対馬 峰町遺跡群-壱岐 原の辻遺跡)
千余里(短里約80km、長里570km)
実際の直線距離79km、目視航海路86kmkm

一大国〜末廬国(壱岐 原の辻遺跡-唐津 柏崎遺跡郡)
千余里(短里約80km、長里570km)
実際の直線距離48km、目視航海路76km

末廬国〜伊都国(唐津 柏崎遺跡郡-糸島 井原遺跡群)
五百里(短里38km、長里270km)
実際の直線距離26km、陸路35km

伊都国〜奴国(糸島 井原遺跡群-福岡 吉武遺跡群)
百里(短里7.6km、長里54km)
直線距離7km、陸路10km
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 11:15:05.26
>>769
漢文が読めない、のでは無くて、日本語を知らないのかな?
おかしな翻訳に騙されてるだけのことなのかな?

>参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
参問したのは「倭地」である  ではない。

参問した「倭地」は、
周旋可五千餘里であって、倭地のほんの一部であり、
海に囲まれた、洲㠀之上にある。

九州島が倭地である かと言うと
前文の
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至
↑これが、女王國東以遠で奇譚を含む倭の全体像。
によって、九州島を倭地と言っているわけでもない。

この魏時2回の、魏使によって参問された倭地 は、
日本列島の九州島の中にある周旋可五千餘里のごく一部の地域にある。
と書いてある。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 11:50:24.82
♪ドン来いスレなので、あえて、倭人伝の構造を説明しよう。
 
>>2 248年張政の行程 報告は 同行程文中、各都市の様子 
及び >>6 所属21国王が往来し、駐留した伊都の政治状況

>>3 240年梯儁の行軍報告 印綬女王の国勢、隣国、地理概略と韓伝諸国同様の構成国名列記
及び >>7  歴史と王宮見聞、女王国地理に陳寿の史料の付加説明含む、である。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 11:50:49.02
>>771
狗邪韓国の港と末盧国の港、伊都国中心地、奴国中心地の比定地はまだまだ確定していないので、
比定地が確定している対海国・一大国間で言えば、実際の目視航海路は約80Kmであり、
千余里が1里76mであることは明確(約1,050X76m=79,800m=約79.8Km)。

逆に長里であれば1里435mであるから千余里は約456.75Kmとなり、
朝鮮半島南部から出立して最初の目的地である対海国ですら、
九州なら枕崎を超え、四国なら宇和島を越え、本州なら広島や松江を優に超えていることになる。

長里説は出立からして既に破綻している
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 12:39:52.76
>女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
>又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
>又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至
>↑これが、女王國東以遠で奇譚を含む倭の全体像。
>によって、九州島を倭地と言っているわけでもない。

これらは倭種が住むと書かれており、倭人扱いはされていない種族の住む島であった。
本文では、倭人の住む島を以て倭地という。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 12:58:36.11
倭、大倭、倭人、倭種を混同させようとするのは、
韓、韓半島、韓人、韓王朝などと朝鮮半島を一括りにして論じようとする
朝鮮ヒトモドキと同じ思考回路のキチガイ
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 15:06:06.88
>>775

倭種っていうのは弥生系で
倭種じゃないのは縄文系
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 15:09:17.42
>>775これらは倭種が住むと書かれており

日本には2種類の人種がいたと中国の使者が認識してたから
倭種っていう表現になってる

倭種が弥生系で
非倭種が縄文系

遺伝子分析によると
今のアイヌが縄文系の人たちの遺伝子とほぼ同じ
ってことだ
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 15:29:26.37
>>778
妄想乙
倭人は九州に住んでいて、倭種は朝鮮半島南部に住んでる倭人の同種という意味
言葉は悪いが、そもそも縄文人と弥生人を分けて考えるって思考がチョンコ洗脳
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 15:29:38.06
〜最新の核DNA調査におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異はこれだけある♪〜

2018年、木村資生記念進化学セミナー 第1回「Human Evoluion I」
https://kimuraseminar.files.wordpress.com/2017/08/20170804_humanevol1_saitoun.pdf
発表者である国立遺伝学研究所の斎藤成也教授はNHKの取材に対してハッキリと弥生系渡来人の定義を「中国大陸からやってきた」断言してる
https://i.imgur.com/nVcSlih.jpg
https://i.imgur.com/XwcDxQu.jpg

弥生人とは縄文人の父系と大陸系の母系である
2019年、国立科学博物館の篠田謙一教授の人骨DNA分析によって、朝鮮ヒトモドキ要素はゼロと判明
https://www3.nhk.or.jp/lnews/tottori/20190303/movie/4040002195_20190303075459.html
朝鮮半島由来の渡来人は縄文人の出戻りと判明
https://i.imgur.com/pPUxdx9.jpg


従来のY遺伝子D系統におけるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/tuGIduV.jpg
https://i.imgur.com/hK8dTgL.jpg
https://i.imgur.com/7TCLGYP.png
Y遺伝子(父系)のD2はアイヌ88%、沖縄56%、日本本土42〜56%、チョン半島0%


従来のミトコンドリアDNAならびにY染色体DE、O2b1とO2b*によるニッポン人と朝鮮ヒトモドキの差異
https://i.imgur.com/e3mDcoo.jpg

チョンコはミトコンドリア(母系)においてニッポン人女性と牝ヒトモドキに差異はないとホルホルするが、アジア全体で大きな差はない
また有史以来、チョンコロ半島の国々は貢ぎ物として牝ヒトモドキを大量輸出していた実績があり、その伝統は近年の第五種補給品まで続いていた
なおM7aがニッポン人女性の特徴と言える


結論:ニッポン人にとってチョンコは距離的には近くても血統的には非常に遠い存在
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 16:19:48.46
>>778
書いたそばから論破されるのって辛いだろ?
もう少し勉強してから書き込みなよ
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 18:06:42.32
>>774
よく考えたら比定地が確実視されてるのってその二ヶ所しかないんだな。
もう後漢書や三国志などの史料に基づいく歴史学からのアプローチじゃ邪馬台国の位置特定するのは不可能なんだろうな。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 18:12:37.48
そんなことあるか
不弥国・投馬国・邪馬台国以外はだいたい合意されてるよ

ま、ごく一部に異説となえてる連中もいるだろうけどさ
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 18:24:14.79
考古学は、多数決では決まらぬ
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 18:58:59.11
>>786
>考古学なんてどーでもいい

ハハハハ  考古学の後押しがないからだね。   @阿波
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 20:14:53.53
>>784
お前の中だけで合意されてることを一般社会では妄想と言うんだよ
覚えておきなね
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 22:49:44.03
参問倭地は倭地を訪問することじゃないんだよ

倭地のことをいろいろ資料にあたって(参:参照が近い)調べる(問う)ことだ

三国志よりも前の正史、史記と漢書には、参問が史記の注釈1箇所しかない
せっかくだから少し長めに引用して、解釈も書いておく
史記/ 列傳 凡七十卷/ 卷一百二十三 大宛列傳第六十三
「後漢書云:「大秦一名犂鞬,在西海之西,東西南北各數千里。有城四百餘所。
 土多金銀奇寶,有夜光璧、明月珠、駭雞犀、『火浣布』、珊瑚、琥珀、琉璃、瑯玕、朱丹、青碧,
 珍怪之物,率出大秦。」(中略)萬震南州志云:「大家屋舍,以珊瑚為柱,琉璃為牆壁,
 水精為礎舄。海中斯調(州)〔洲〕上有木,冬月往剝取其皮,績以為布,極細,手巾齊數匹,
 與麻焦布無異,色小青K,若垢污欲浣之,則入火中,便更精潔,世謂之『火浣布』。
 秦云定重『參問門樹皮』也。」括地志云:「火山國在扶風南東大湖海中。
 其國中山皆火,然火中有『白鼠皮及樹皮』,績為『火浣布』。」
『 』はオレが付けた

後漢書の、大秦(ローマ帝国)の事物について書いてあるところに『火浣布』があって、
それを受けて萬震南州志に「海の中の島に生える木の皮を冬に剥いで布に織る(績)と、
極細で青黒く汚れても火に入れると綺麗になる、世にいう『火浣布』になる。
秦がいうには定めて重ねて参問するに門樹皮なりと」とある
さらに括地志には「扶風の南東の大湖海中に火山国があり、その国中の山が火を噴いている。
その火の中に白鼠皮と樹皮があり、織りて(績)『火浣布』と為す」とある

門樹皮について参問した訳だから、訪問じゃ意味が通らないだろ?
ちなみに、この話はかぐや姫に出てくる「火鼠の皮衣」の元ネタ
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 23:02:49.12
どっちが荒らしかわからんな
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 23:15:45.20
次、周旋

『晋書』陶璜伝
又廣州南岸、「周旋」六千余里

南岸を一周じゃ意味が通らないだろ?
一周するとかぐるぐる回るでは、地理記事では意味が通らない

周旋五千里は単に女王国まで萬二千里から半島の循海岸水行七千里を引いただけ
直線ではないけれど、進む一方で萬二千里まで行くんだよ
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 23:19:47.92
どっちにしても九州じゃん。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 23:33:06.63
次、井田法と里の関係

漢書
六尺為步,步百為畝,畝百為夫,夫三為屋,屋三為井,井方一里,是為九夫

六尺が步、
百歩で畝、
長さ百歩の畝を横に百並べた正方形が夫、
夫を3つ並べた横百歩、縦三百歩の長方形が屋
屋を3つ並べると夫が九個、井の字に並び、
その井(一辺300歩の正方形)が、方一里

井田法では一里四方が9分割されて、
その百歩四方の土地が夫=一家が暮らせる土地となる

一里が短里で70メートルだったら、一家は20メートルちょい四方の土地しかなくて
飢え死にしちゃうんだよ

魏晋が短里だったというのは、あり得ない
そして魏朝中央が普通に魏晋里(435メートル)の、公定尺の体系の社会であるなら
魏の役人である魏使(倭王除正使)が、公定尺以外の単位で報告するのはあり得ない
度量衡の公定は皇帝権限なのだから、公定尺以外を使うのは皇帝の権威に対する叛逆になる

短里を使う人は、3世紀にはどこにもいない
短里は九州説のご都合主義の産物で、昭和の発案でしかないんだよ
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 23:35:18.54
>>788
へー。おまえが多数派だという証拠もないよね?
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 23:35:36.24
>>793
>どっちにしても九州じゃん。

九州では、水行20日+10日、陸行一月がどうやっても入らないし、
五萬戸の投馬国を置く場所がないし
奴国二萬戸、投馬国五萬戸、邪馬台国七萬戸がどうやってもまともな説明ができない

九州はないよ
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/12(火) 23:36:40.21
奈良盆地にはないよ
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/13(水) 00:21:02.77
狗邪韓国
  │
対馬国
  │
一大国
  │
 末廬国──不弥国
 │ │\ \
 │ │ 奴国 \
 │ │    伊都国
 │ │
 │ │
 │ │
 │ │
 │ 邪馬台国(水行10日 or 陸行1月)
 │
 │
 │
 │
 │
 │
 │
投馬国(水行20日)
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/13(水) 00:35:31.15
>>794
現実を直視する勇気を持て

比定地が確定している対海国・一大国間で言えば、実際の目視航海路は約80Kmであり、
千余里が1里76mであることは明確(約1,050X76m=79,800m=約79.8Km)。

逆に長里であれば1里435mであるから千余里は約456.75Kmとなり、
朝鮮半島南部から出立して最初の目的地である対海国ですら、
九州なら枕崎を超え、四国なら宇和島を越え、本州なら広島や松江を優に超えていることになる。

長里説は出立からして既に破綻している
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/13(水) 06:25:54.95
>>796

投馬国五萬戸と邪馬台国七萬戸の間に他の国が出てこないので
投馬国と邪馬台国は両方とも複数県にまたがる広い国
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/13(水) 07:17:25.41
>>802
複数の国邑なのだろうが、複数の県にまたがるという根拠はない。
投馬国が宮崎県、邪馬台国が福岡県でもよい。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/13(水) 10:52:08.68
>>792
書かれている文の読み方が違うと熟語の意味が変わってしまう場合があるようですね。

倭人伝の周旋、周旋可ですが、>>773 で示した、
>>3>>7 240年の文が出典ですから
九州北部、南北2千里の中の21国を周旋(あまねくめぐる)
して 5千里な訳で、直線にはなりません。 

当然、筑紫ですが、東西、辺境四隅は、周旋可5千里で
深江唐津、香椎新宮、みやま大牟田、、うきは日田
を 超えない範囲だと考えます。

次に、参問倭地について
>>2>>6 の247年ソースの文は、行程ですから参問した地名ではなく順次の経過地です。
参問したのは、卑弥呼王宮へ行った240年の梯儁によって漢字化された21女王所属国です。
この邪馬台国は、韓伝における辰韓12国のような記述の国邑郡であり、邪馬台国21国となります。
>>2 のような地名、里程で示せる都市間は有りません。
戸数も「有」ではなく「可」であらわされます。

投馬国も邪馬台国同様で、240年まで国名も不明だった
韓伝の記述もごちゃごちゃなw 弁辰韓を梯儁が命名したもの。
この2国名は梯儁以外では歴史上使用されません。
陳寿は結局女王国という247年まで存在した一代の名称で済ませます。

梯儁 張政 ソースの文に付加される陳寿の説明は
漢書籍の引用のような倭地や倭種の国の説明ではなく、
魏時238年から247年まで交流のあった、
女王国について、を説明する趣旨で書かれています。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/13(水) 11:54:25.65
>>800 正しく読むスレ では、文法を学んだ。 感謝。
今(魏時) 使譯(梯儁、張政) 所通 三十國 
從郡至倭
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到其北岸 狗邪韓國

↓― 始度一海千餘里
至對海國 有千餘戸

↓― 又 南渡一海千餘里 瀚海
至一大國 有三千許家

↓― 又 渡一海 千餘里
至末盧國 有四千餘戸

↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸 丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
(以上動的な直列行程、里程合計、一万五百里)
→東南 至奴國 百里 有二萬餘戸
→東行 至不彌國 百里 有千餘家
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここまでは、247年張政の行程、倭人船便乗で、寄港都市名を聞いて漢字で記録した。
至奴國 には動詞が無い。 前文に直列する行程としてではなく
到伊都國 で、訪日目的の査察檄告諭は終わり、近隣二国を紹介した。

南至投馬国 水行二十日 
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月
↑ この文法も当然前文に直列しない。
というより、後文によって、邪馬台国21国という
前文までの、里程で示した都市間とは概念が別の辰韓12国のような国
つづく
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/13(水) 12:02:17.39
つづき【240年梯儁從郡至倭】

南至投馬国 水行二十日 可五萬餘戸 (←↓郡から地理の概略)
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日陸行一月 可七萬餘戸

(自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳)←陳寿の付加説明

斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國
此女王境界所盡
(190年女王共立の 次有21王国 240年当時)

其南有 狗奴国 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

*不彌國伊都國末盧國は240年当時無かった或いは21王国のいずれかに含まれる地名
可七萬餘戸 の『可』は、21国トータルの意味を含む。
奴国は、前文行程と所属国で重複 
(国の意味はともかく合計30国、陳寿は案外細かい?w 日本語訳要らんだろ?)
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/13(水) 21:17:51.76
>>2>>3 倭人伝行程部分を読む気がするよう簡略化、まあ当然漢字ですw

今(魏時) 使譯(梯儁、張政) 所通 三十國 
從郡至倭
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到其北岸 狗邪韓國
↓― 始度一海千餘里
至對海國 有千餘戸
↓― 又 南渡一海千餘里 瀚海
至一大國 有三千許家
↓― 又 渡一海 千餘里
至末盧國 有四千餘戸
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸 丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
(以上動的な直列行程、里程合計、一万五百里)

→東南 至奴國 百里 有二萬餘戸 ←動詞無し行程に直列しない文法 近隣の紹介
→東行 至不彌國 百里 有千餘家
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

南至投馬国 水行二十日 可五萬餘戸 ←↓郡からの地理の概略、行程に直列しない文法
南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
↑(文意としては水行十日で邪馬台国に上陸 後、陸行一月で女王之所都 ということ)

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 ←陳寿の付加説明

斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國
此女王境界所盡 ←↑(190年女王共立の 次有21王国 240年当時)

其南有 狗奴国 不屬女王  自郡至女王國 萬二千餘里
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 21:46:56.94
>>801
>比定地が確定している対海国・一大国間で言えば、実際の目視航海路は約80Kmであり、
>千余里が1里76mであることは明確(約1,050X76m=79,800m=約79.8Km)。

海の上は測量法方がないんだから、現代の知識で何キロだからと言っても、何の意味もないんだよ
そして渡海は、一律で千里とされているだけ

短里があるという根拠にはまったくならない
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 21:53:03.87
>>806
>参問したのは、卑弥呼王宮へ行った240年の梯儁によって漢字化された21女王所属国です。

「参問」は訪問したという意味じゃない
参考や参照の「参」だよ

陳寿が大陸にいて、倭国のいろいろな情報を参照し参考にして問う(調べる)ことをした、という意味
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 22:06:12.35
わざわざ恣意的なミスリードの為じゃなきゃ、
現代日本語訳が要るとも思えない、行程部分がデタラメじゃなきゃ成立しない論争で
倭人伝をちゃんと読む という気が有る誰かが居るとも思えないが・・・

>>6 は、どう読まれているのだろうか?
使 大倭 監之 自女王國 以北 特置一大率 檢察諸國 畏憚之 常治 伊都國 於國中有如刺史
王 遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯

247年張政は、245年の難升米将軍が韓王朝滅亡戦の黄幢檄に応えなかった為、視察に来た。
この張政報告の一文が、247年で魏と女王国の国交が終わった理由、証明だと思うのだがどうだろう。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 22:08:50.16
>>812
>海の上は測量法方がないんだから、現代の知識で何キロだからと言っても、何の意味もないんだよ
>そして渡海は、一律で千里とされているだけ

その結果、一里が100メートル以下の短里になったわけだ。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 22:19:47.92
晋書に「其後貢聘不?。及文帝作相,又數至。」とある
魏との国交は絶えることはなかった
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 22:21:36.62
>>813
印綬した女王の所属国21国は、訪問してません。
あまねくまわっても、5千里程度の範囲に有ります。

印綬国の実態を知る為、21国の国名を参問して、その和音を梯儁が漢字にしました。
同じ梯儁の漢字化で邪馬國が有りますから、邪馬台国は梯儁が見た、邪馬

この中に、
奴王/(難)升米
都支王/(都市)牛利 
巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
が想定可能です。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 23:09:15.35
>>817

彼らは中央官僚だよ。
元倭王の禰宜ですら官の扱いであるのだから、卑弥呼の時代に王は卑弥呼(と卑弥弓呼)だけになったんだよ。
卑弥呼王権の確立は、自称王の集まりであった倭国においてはかなりの変革だったのだろう。
もっとも、その前の邇邇芸の時にもすでに他の王の存在を許さなくなっていたかもしれないけどね。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 23:10:06.14
>>816
魏時の国交は、同時代で陳寿の記録を信じて良い。

>>8
魏と卑弥呼の国交は
238年難升米都市牛利、243年伊聲耆掖邪拘曹芳元服、
247年載斯烏越で張政便乗。 帰国は、政等還因詣臺 伊聲耆掖邪拘
で終わりです。

使をわざわざ帰国させて朝貢してるのに
国が続いてるのに、
返礼選書を記録しないなんてことは有り得ません。
終わりました。

魏は、BC200 から、本州も青銅の輸入で親交のあった
公孫氏を239年に滅ぼし、246年に韓王朝を滅ぼしています。

日本にとって、こんなもんは、ただの脅威であって、敵国です。
247年建設中の伊都の軍港を隠したため、張政は糸島半島北西から、
南東500里を歩いて、そこに駐留させられました。

伊都が、丗有王皆 統屬女王國  郡使 往來 常所駐
で、なければ、張政は難升米と壹與に 檄告諭できませんwww
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 23:28:51.51
>>819
中国の皇帝の記事は官僚が記録して残すものだから信頼性は一番高い
晋書の国交記事は当然それら官邸の信頼性の高い記録を元に書かれている
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/14(木) 23:46:09.99
起居注:

中国,歴代の王朝で皇帝の起居・言動を記した日記体の官撰記録。皇帝近侍の官がこれをつかさどり,その官もまた起居注といった。
その起源ははなはだ古く,周代に始まったといわれるが,記録に残るものとしては,後漢の明帝起居注が最初である。
これが制度として完備されたのは隋・唐のころであるが,皇帝の起居・言動はそのまま天下国家のうごきであるから,起居注はひろく
国家の記録であるとみなされた。そして四季の終りごとにこれを史官に送り,史官はこれを整理して皇帝が死ぬとその皇帝の一代記
すなわち実録とした。

日本書紀も晋の起居注から記事を取ってるね
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 00:37:12.99
>>815
>その結果、一里が100メートル以下の短里になったわけだ。

測量不能だから、その測量不能区間の表記が短里という「長さの決まった距離単位」になった、
っていうのが、どれだけ論理を無視した暴論か気づくことすらできない人だけが、未だに九州説に
しがみついてるんだよ
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 00:40:20.68
>>817
>印綬国の実態を知る為、21国の国名を参問して、その和音を梯儁が漢字にしました。

まだダメ
参問したのは陳寿であって、梯儁ではない

誤読の上で「作り話」を展開しても、意味のある論説にはならない
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 07:19:45.56
>>822
測量困難とはいえ、目視で見える島なのだから、およその表現はできる。
それがおよそ千里ということだったのだろう。
弥生時代なので数字に誤差はあろうが、全く当てにならない数字というわけではない。
少なくとも九州と畿内を間違えたという理由にはならない。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 08:20:16.21
>>822
いわば数学と算術をごっちゃにして、自己内闘争してるようなもんだぞえ。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 09:40:51.44
韓は帯方の南方可4千里 と海峡の島間の千里×3、壱岐の方可は300里
渡海開始地点までが7千里、九州上陸から500里に首都機能の伊都が有る。
これが架空の数字、というのは陳寿をコケにしすぎの暴論。

女王に印綬の際の旅程の総計は一万二千里
7000+3000+(X)=12000 これは成立するだろ。
(X)=九州上陸から女王印綬までの行程=2000里

小学生の文章問題だし・・・、九州以外=www

対馬が、方可400里になっていることから、247年の張政は西岸しか見ていない。
対馬の長辺は千里近いので、壱岐〜対馬〜釜山へ向かうならこの海岸水行が見える。
つまり考古重視のご都合、狗邪韓國の釜山説は文献的に消える。

韓伝で、記述が曖昧な弁辰韓に弁辰狗邪國があり、狗邪韓國と同一な可能性が高い。
238年楽浪帯方に進出した魏が韓を制するのは246年であり国状を知らない。
240年の梯儁が名付けた投馬国は、この246年まで不明状態の弁辰韓、可5万戸である。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 12:27:23.82
上島か下島のみだったら方可400里と人口が壱岐の1/3くらいってのも整合性はあるけど苦しすぎるよな
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 12:53:15.66
解釈が可笑しいと苦しく感じる。
ここは島(シマ)の大きさを書き留めたのではない。
帯方郡の役人は、「対海国というクニ」の大きさは方400里と認識していたので、それをそのまま記述したのだ。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 12:54:33.21
と言うか三国志には220年に司南魚(指南魚)で方位を求めていたと明記されてるんだから勅使が南と東を錯覚してたなんてのは与太話
厳密な測量が出来ないからといって目視できる距離を4563キロとはしない
そもそも記録をしに行っているのだから
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 13:45:34.00
腕が磁石になっており,磁石の腕で南を指す指南車があったのかの論争が行われた。
例えば,魏(220-265)の時代,宮中での学者連の論争があり,そのようなものは存在しなかった,
ということになっている(宋書十八)。また北宋時代の武経総要(1040年,曾公亮署)「軍事書」にも,
“指南車法世不伝,,とあり,使用方法が伝わっていないと書かれている。
晋の時代,帝の行列には指南車と一定の距離を走ると音で知らせる記里鼓車とが先導したが,これらは歯車
仕掛けのもので,必ずしも正確に動くものではなかった。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 14:06:04.11
>>830
指南車と指南魚は全く別のもの
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 14:54:11.39
ま〜たかいな?
評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

238年に楽浪帯方を陥落した魏時の韓西岸から対馬海峡の使譯は240年梯儁が初めてで、
これは卑弥呼に印綬のため王宮まで行った。 魏の軍船での行軍。

二度目は247年の張政で 遣倭載斯烏越等詣郡
の報告に対して、査察と 黄幢拝假難升米に 為檄告喩之
の為に、この倭人船の帰国便に便乗して来た。
要件は 伊都、丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐 で、終わった。

一応目的と目的地は判っているので、方向を間違えるとかそういう間抜けな話は無い。
南は東ってのは、距離が有り得無いから、書写間違いって話だろ?
南で、合ってるんだよ。

倭人伝は、この二回の東夷探検記を記したものである。
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 17:47:06.93
2019年3月17日「徐福東渡のナソに迫る 〜DNA研究から見た渡来系弥生人〜」学術シンポジウム(佐賀県佐賀市)
https://blog.goo.ne.jp/horuhorushiho/e/31dc1b8f67e93f5c002d3a301e9236d7

徐福やっぱり来てます!?

佐賀県徐福会からのご案内です。

佐賀県徐福会と徐福長寿館では来る3月17日日曜日13時より佐賀市のほほえみ館で「徐福東渡のナソに迫る〜DNA研究から見た渡来系弥生人〜」の学術シンポジウムを開催します。

今回は古人骨のDNA研究では世界的権威者の国立科学博物館副館長篠田謙一先生に、ミスター吉野ヶ里、高島忠平先生、七田忠昭先生を講師にお招きして、徐福をキーワードに弥生人のルーツに迫ります。なかなか珍しいメンバーでのシンポです。是非ご参加下さい。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 18:05:28.92
>>828
對馬國は上か下のどちらかの島のみでもう片方は別国って解釈はありなの?
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 23:16:18.98
>>824
>測量困難とはいえ、目視で見える島なのだから、およその表現はできる。
>それがおよそ千里ということだったのだろう。

魏尺は現物が出ているから、一歩の長さも一里の長さも明確に分かっているんだよ
目で見えていても、その目で見える距離が「実際には何里なのか」が分からなければ
およその表現も何もないよ

単に修辞としての、千里の名馬とか白髪三千丈とかの「千」で「渡海千餘里」としているだけ
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 23:23:08.92
と言うか三国志には220年に司南魚(指南魚)で方位を求めていたと明記されてるんだから勅使が南と東を錯覚してたなんてのは与太話
厳密な測量が出来ないからといって目視できる距離を4563キロとはしない
そもそも梯儁も張政も旅行に行ってたわけではなく、「記録」をしに行って「報告」する義務があったのだから
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 23:29:15.74
>>826
>女王に印綬の際の旅程の総計は一万二千里
>7000+3000+(X)=12000 これは成立するだろ。

成立しません
ここからかよw

この萬二千里というのは、現実の地理とは無関係に淮南子時則訓の東方之極までの距離を当てたもの
淮南子時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。

また、萬二千里にしなければならない理由として、曹真が西域の大月氏を朝貢させるという功績を
挙げたので、晋の高祖司馬懿の公孫氏討伐により朝貢してきた倭国を大月氏の匹敵する遠方の大国に
したいという動機がある
漢書西域伝で大月氏まで萬千六百里なので、それを超える萬二千里が都合がよかったということもある

短里があるというのは、九州説のご都合主義の産物でしかない

魏晋朝が短里だったら、井田法が成りたたないのは納得したな?
古田武彦氏の挙げた天柱山の例は、山の高さではなくて山中の道の長さだから短里でもなんでもない

魏朝が短里を使っていないのに、技師が短里で報告するのはあり得ない
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/15(金) 23:38:29.30
>>836
>と言うか三国志には220年に司南魚(指南魚)で方位を求めていたと明記されてるんだから
>勅使が南と東を錯覚してたなんてのは与太話

原文を示してごらんww
三国志には指南魚も司南魚も出てこないよw

3世紀に指南魚があったという文献はある
けれども磁化した鉄片を魚(っぽい)形の木片に植えて、水に浮かべるだけのものだから
まったく実用的なものじゃない
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 00:00:03.21
>>837
>この萬二千里というのは、現実の地理とは無関係に淮南子時則訓の東方之極までの距離を当てたもの

それはあなたの勝手な希望w

>漢書西域伝で大月氏まで萬千六百里なので、それを超える萬二千里が都合がよかったということもある

それはあるだろうね
だから誇張した数字を盛り、結果として一里が短くなった可能性はある

>魏朝が短里を使っていないのに、技師が短里で報告するのはあり得ない

もう一つの可能性は、郡使が現地で聞き取りした数字だということ
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 00:50:52.17
>>839
>だから誇張した数字を盛り、結果として一里が短くなった可能性はある

誇張を認めた時点で、短里はない
誇張の裏返しを勝手に短里だと認識しているだけ
3世紀に短里は存在しないしそれを使用する人もいない

短里の存在を記した文献も一切ない

短里がないとなれば、九州説が存在可能な余地もない
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 00:55:55.82
>>839
>それはあなたの勝手な希望w

地の果てまでが萬二千里というのは、>>837で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える

また、漢土は秦・漢の統一を経て、方万里に拡大されている
ちなみに、この漢土方万里という観念が、万里の長城の「万里」の元

これをもとに五行思想を容れて東西南北中央を対等に整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太?、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少?、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。

五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 01:00:46.16
>>842
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となり、
南北はそれぞれ万千五百里(26,000-3,000/2)で、間を取ると萬二千里になる

さらに中央の漢土方萬里も萬二千里に揃えると、淮南子時則訓の世界観ができあがる

女王国(倭国)まで、漢土の端・帯方郡から萬二千里というのは、世界の果てからの朝貢と
いう意味であって、具体的な地理を背景にした数字ではない
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 08:18:31.56
>>841
>短里の存在を記した文献も一切ない

魏志倭人伝は都合が悪いから無視ですね。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 08:19:11.92
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 09:53:08.96
水行30日と陸行一月の郡から女王までの一万2千里ってのが、架空でも
帯方郡から伊都まで、積算の1万500里は九州ってことで良いなw 

この陳寿が記録した行程 (評曰 使譯 時通 記述隨事 豈常也哉)
がデタラメなら倭人伝の全否定で、邪馬台国論争要らんだろ? あほ草

>>845
邪馬台国時代の遺物の出土状況

このデータの情報は、邪馬台国の想定される
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
に、一致すると思うのですが、どういう調査の成果なんでしょうか?
諫早以外?

完璧すぎて、初めから邪馬台国の範囲を規定して、作ったようにも思えます。
出展を教えていただけますか?
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 10:03:59.16
拾いものなので出典は不明です。
まあ、どのデータも似たり寄ったりになるみたいですよ。
個人的には、対馬海峡が三千里ですから、 周旋5千里はもう少し広いと思います。
邪馬台国(倭国)には長崎県も含めるべきでしょう。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 10:37:38.63
発掘調査は、全国均等に進んでいるわけではない。
都道府県により、多寡・精粗・熱意・予算はてんでまちまちだ。
それを同一に扱って、出土物がない県には古代文化はなかった・・・、みたいな推論は典で学問的ではない。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 10:46:51.54
ガッツリと予算を組んでいるはずの奈良県にないのはどうしたことか。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 10:50:46.03
倭人伝に「奴国」は2つ出てくる。
奴国という表現は、当然陳寿流の表現であり、
当時倭国を支配していた一流の国にはあらず、というウラの意味があったのだと思う。
おそらく、倭国大乱で譲歩を余儀なくされた二流・三流の国(種族)だったのだろう。
やはり奴国は(佐賀平野と福岡平野に1国づつ)2つあったと考えて読み解くべきであろう。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 10:56:19.30
>>850
まだ掘っていないところには、お宝が唸っている可能性を排除できない。
しかし奈良県のように、帆っても掘っても出てこないところには、そもそも金銀財宝は埋まっていなかったのだ。
あったのは、サバの骨と桃の食べかす・・、ただそれだけの事。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 11:18:13.13
>>848
兵庫県とか千葉県とかは、古代史の中での位置付けをもっと考えてもいい。
奈良大和ありきの畿内説は、ヤマト王権という妄想に囚われているように見える。
奈良が都になるのは694年の藤原京から。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 11:20:29.59
>>844
>魏志倭人伝は都合が悪いから無視ですね。

九「魏志倭人伝は短里で書かれている」
 ↓
畿『短里があったという根拠はない』
 ↓
九「魏志倭人伝が短里があった証拠だ」

それ、結論と理由が同一のただの循環論法で、なんの論証にもなってないのが理解できないのかな?

短里だと言い張っているものは、西晋の高祖司馬懿の功績をヨイショするための誇張を
無理解釈しているだけのものなんだよ
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 11:21:49.72
>>845
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。

これが間違い
いい加減にしなさいな

○ 楽浪郡の国境は、その国(倭国)から一万二千里である。
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 11:25:52.03
>>848
ありがとうございます。
広範な史料が有って素晴らしいです。
特に、原本数種の写真見れて感謝感激です。

これで、たったこれだけのことを誤読というのも、なんとも悲しい世界です。
結論見たくないだけで、わざと、なんだろうね(ーー;
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 11:27:52.73
>>845
>>855
どっちもーーー ×
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 11:28:02.26
>>846
>帯方郡から伊都まで、積算の1万500里は九州ってことで良いなw 

これは、漢土「方萬里」の漢代に、倭の奴国から朝貢に来たときに、
「郡から倭国上陸まで」を萬里に合わせただけのもの

渡海は距離が測れないからひと声千里で三千里
残りの七千里を韓半島の西岸南行を4千里、南岸の西行は東の端までは行かないから三千里で
韓地方四千里が出てくる

九州上陸後は、近ければ100里、少し遠ければ500里としているだけで、
実測したと考えるべき距離は一つもない

この程度の記述を頼りにしないと九州説は成り立たないんだから諦めな
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 11:37:41.65
ま、誤畿内説は更に絶望的だけどな。。。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:06:12.54
>>855
>○ 楽浪郡の国境は、その国(倭国)から一万二千里である。

楽浪郡は、倭の国境から七千里と書いてあります。

大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 13:08:11.73
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生み神話で、イザナギが矛を使って最初に得た領土である淤能碁呂島は、銅矛文化圏の中心である博多湾にある能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国土のうち、天の冠詞がつく隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国(海の国)の本来の領域である。
倭は博多湾沿岸を都として対馬海峡に広がるという後漢書の記事とよく対応している。
国産み伝説には、記紀編纂までに西日本各地の土地が追加された。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。

卑弥呼の時代には倭は九州内陸へ拡大していく。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 17:57:47.70
>>860
>楽浪郡は、倭の国境から七千里と書いてあります。

しつこいな、こいつは
広島から九州までの距離という時に、関門海峡を越えたところまでの距離を言うやつはいない
どことは言わないけれど、地理的な中心付近までの大体の場所を言う

広島から、北九州市までというのが140キロくらいで、
それが帯方郡から倭国の北西界狗邪韓国まで7000里に当たる数字

広島から、九州までという場合は220キロくらいになる
これが、其国(倭の国)までの萬二千里に相当する

どうやっても樂浪郡徼去其國萬二千里の「其国」は邪馬台国にはならない
カッコ書きで、その国(邪馬台国)と補うのも、捏造の類だ

いい加減に諦めなさい
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:35:49.71
>>862
>広島から九州までの距離という時に、関門海峡を越えたところまでの距離を言うやつはいない
>どことは言わないけれど、地理的な中心付近までの大体の場所を言う

言わないよ。
その例だと、関門海峡まで七千里、博多まで一万二千里というように、県庁所在地なり主要な駅なり、中心となる土地への距離を書くよ。
郡使は伊都にとどまっていたから、倭の全体像も中心も知らないはず。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:41:08.75
>>861
この図はとうてい三世紀ではない。5-6世紀ころの状況だろうな。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 18:54:51.95
其大倭王居邪馬臺国
楽浪郡徼去「其国」万二千里
去其西北界狗邪韓国七千余里

>>862
「其」は、適宜解釈して自己解釈に相応しいものを指して良いわけではない。
「其」の直近・直前に出てくる物事を指すので、
ここでは、直近の「邪馬臺国」を指すこと明白である。

しかるに、これを飛び越して、
文中に出てもこない「倭国」を指すなどというのはとんでもない自己満足解釈である。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:10:16.50
>>863
>その例だと、関門海峡まで七千里、博多まで一万二千里というように、

それは、「博多まで」を言いたい時の話で、その場合は博多までと書かれる
後漢書の原文は
其国=倭の国、倭国まで、なんだから、九州までという場合に相当する

魏志倭人伝でも、邪馬台国までの行程を書いてある部分と、女王国≒倭国までの萬二千里とは、
間に余傍国21国と狗奴国の話が挟まった後の別の場所に書いてあるだろ?

女王国≒倭国という大きな洲島の上の国までの、大雑把な距離が萬二千里なんだよ
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:13:02.79
>>865
>「其」の直近・直前に出てくる物事を指すので、
>ここでは、直近の「邪馬臺国」を指すこと明白である。

そのガバガバ理論だと、その直後の
去「其」西北界狗邪韓国七千余里
の「其」も「邪馬臺国」を指すことになるから、破綻してるって何度教えればいいんだ?
拘邪韓国=邪馬臺国だとは主張しないんだろ?ww

ここの、三連続の「其」はずべて「倭」だよ
諦めなww
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:21:11.08
ちなみに「倭国伝(藤堂明保)」では「其」は両方とも「邪馬台国」にしてるね
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:21:47.00
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
文法に関して、これが、水行十日または陸行一月 という読み方がある。

しかしどうだろう?
247年には、倭国には、到其北岸 狗邪韓國 7千里で到着している が

240年では、後文の 列記次有21国=此女王境界所盡、其南有 狗奴國
によって、邪馬台国は筑紫の21王国であるから、海峡島領は含まず、邪馬台国については
九州上陸時、郡から1万里=水行10日時点で、邪馬台国に入国していることになる。

郡から女王印綬までの行軍の全ては、満二千里だったわけだが
九州上陸=邪馬台国入国から女王までが、陸行一月の行軍、2千里なのである。

247年張政は、倭人船便乗で卑弥呼の墓を見て、伊都までで駐留させられた。
240年の魏軍将校 建中校尉梯儁は、後の伊都、今津湾に上陸したはずでR。

印綬は、247年の張政倭人船便乗の情けない無能な査察とは違って、韓西岸の寄港地を蹴散らし、
直接、女王宮に行軍しなければ、戦争になる覚悟があっての任務なのである。

魏の使譯、この行程や手法が別の、二回の探検行を記述したのが倭人伝である。
文法問題では、投馬国は女王より遠くても有りだが、常識的に無理。以北だし・・・

倭人伝の探検の、最奥は極南界の女王宮で、この南の狗奴国にはタッチしている。
女王所属の21国が此女王境界所盡 
で、魏時の使譯が倭を見て、陳寿が記録できた、極限なのである。 評曰
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 19:28:31.79
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
文法に関して、これが、水行十日または陸行一月 という読み方がある。

しかしどうだろう?
247年には、倭国には、到其北岸 狗邪韓國 7千里で到着している が

240年では、後文の 列記次有21国=此女王境界所盡、其南有 狗奴國
によって、邪馬台国は筑紫の21王国であるから、海峡島領は含まず、邪馬台国については
九州上陸時、郡から1万里=水行10日時点で、邪馬台国に入国していることになる。

郡から女王印綬までの行軍の全ては、満二千里だったわけだが
九州上陸=邪馬台国入国から女王までが、陸行一月の行軍、2千里なのである。

247年張政は、倭人船便乗で卑弥呼の墓を見て、伊都までで駐留させられた。
240年の魏軍将校 建中校尉梯儁は、後の伊都、今津湾に上陸したはずでR。

印綬は、247年の張政倭人船便乗の情けない無能な査察とは違って、韓西岸の寄港地を蹴散らし、
直接、女王宮に行軍しなければ、戦争になる覚悟があっての任務なのである。

魏の使譯、この行程や手法が別の、二回の探検行を記述したのが倭人伝である。
文法問題では、投馬国は女王より遠くても有りだが、常識的に無理。以北だし・・・

倭人伝の探検の、最奥は極南界の女王宮で、この南の狗奴国にはタッチしている。
女王所属の21国が此女王境界所盡 
で、魏時の使譯が倭を見て、陳寿が記録できた、極限なのである。 評曰
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:05:16.28
>>867
>去「其」西北界狗邪韓国七千余里
>の「其」も「邪馬臺国」を指すことになるから、破綻してるって何度教えればいいんだ?
>拘邪韓国=邪馬臺国だとは主張しないんだろ?ww

読み違えているようだが、北西界とは、北西の境界線(に接する)のことではない。
界とは、単に北西のあたり(界隈)にあるといういみにすぎない。
よってここは、邪馬台国の北西の界隈(≒方角)にあるクヤカンコクを去ること7000里であり、
「去其」も「去邪馬台国」で良い。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:26:31.22
>>864
ほうほう。
5〜6世紀は畿内より九州の方が栄えていたのだな。
ましてや3世紀はどうだったんだろうね。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:30:10.04
>>866
中国人が九州の大きさを認識していたわけはない。
その説は成り立たない。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:32:14.47
ぶっちゃけ畿内は入植地だった
それでいろんな貧弱な所から人を集めてごちゃまぜにして
成立しただけだしコレ真実
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:33:05.19
>>872
この図に畿内は載っていないのだから、その比較対比はできない。
比較対比できる近畿の頭があるなら、うpしてくれれば助かる。
なお、九州の三世紀の発掘は偏っており、有益な論拠を提供できるほどの図はまだ書けない。、
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 20:49:11.55
畿内は図に載せるようなものは何もなかったのではないか?
王冠が見つかったとか、玉璧が見つかったというような話は聞かないから。
畿内には王なんていなかった。
4〜5世紀まで、いたのは豪族だけ。
倭王は筑紫にいた。
0877日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:07:44.58
>>873
>中国人が九州の大きさを認識していたわけはない。
>その説は成り立たない。

九州の例は、「現代人でもそう判断するだろ」という現代の例であり、
人間の普遍的な地理の表現方法だ

陳寿がどうこうという話ではないし、問題にしているのは後漢書であり、
後漢書の撰者は范曄だ
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:10:12.92
>>876
>4〜5世紀まで、いたのは豪族だけ。
>倭王は筑紫にいた。

4〜5世紀の古墳時代に、九州には小さな古墳しかないんだって!
豪族より小さな倭王の墓って、本気で言ってるのか?

九州説では辻褄の合わないことばかりだ
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:19:14.59
>>871
>界とは、単に北西のあたり(界隈)にあるといういみにすぎない。

その今思いついたばかりの言い訳でも、邪馬台国の北西の界隈っていうのは
そこまで邪馬台国があるってことになるぞww

それから、邪馬台国の北西の離れたところにあると言いたいのかもしれないが
その場合、邪馬台国は北部九州じゃないなww
北部九州なら拘邪韓国の南だから、>>871の想定の通りでも
「その国(邪馬台国)の『北』界」じゃないといけなくなるww

九州説は言い訳を積み重ねた挙げ句、相互に矛盾して自爆するww
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:48:51.54
>>879
ちょっと君の論理は何言っているのかわからないな。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 22:50:25.35
倭の西北の国境が狗邪韓国で、王都が南岸の倭奴国だということに変わりないが?
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/16(土) 23:18:22.73
後漢書は倭讃の朝貢より後に成立してるからねえ
その朝貢時の情報に引きずられてる可能性はあるよな(大倭王とか)
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 01:06:20.19
>>881
>倭の西北の国境が狗邪韓国で、王都が南岸の倭奴国だということに変わりないが?

南岸の倭奴国は拘邪韓国の南であって、南東じゃないだろ?ww

拘邪韓国が倭の北西界となるためには、倭が拘邪韓国の南からさらに東の方に
広がってなくちゃいけなくて、九州説の「九州のみが倭国」っていうにが成りたたないんだよ

>>880
>ちょっと君の論理は何言っているのかわからないな。

この説明で分かったかな?ww
反論できないことを「分からない」で誤魔化すのも、九州説のやりがちなこと

論理的思考能力が低いからね、九州説は
でなきゃこれだけの考古学をはじめとする研究成果が
利用できる現代に九州説なんて支持してないだろw
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 09:01:52.28
>>879
深夜までご熱心だなあ、感心した。

>その今思いついたばかりの言い訳でも、邪馬台国の北西の界隈っていうのは
>そこまで邪馬台国があるってことになるぞww
その通り、そこまで邪馬台国が広がっていたかもしれぬ。理屈の上では、それは否定できぬ。

>それから、、、その場合、邪馬台国は北部九州じゃないなww
>北部九州なら拘邪韓国の南だから、>>871の想定の通りでも
>「その国(邪馬台国)の『北』界」じゃないといけなくなるww
その通りだ、だから邪馬台国は北部九州ではなくて、狗邪韓国から見れば、
さらに東南に下ったところにあったということだ。文章の通りに読めばよい。
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 11:47:30.75
横だけども、倭人伝読めてないんじゃないかな?

>>2 は、倭人 在帶方東南 大海之中 を受けて 到其北岸 狗邪韓國 
400年の五王で東の倭の存在を実際に知った後漢書ではこれを北西に修正したのかな?
隋唐時も倭は九州から斑鳩の東の山までなので、後漢書時点の倭の北西界は弁韓で合ってる。

ところが、邪馬台国は、>>3 で、定義される
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 の
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡 21国で構成する、7万戸。
で、其南有 狗奴國 自郡至女王國 萬二千餘里 
これが、魏時の使譯の到達した最奥です。 東国など餘旁國遠絶は名すらも知り得ません。

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
九州島の北部2千里に収まる、小国です。
これは、>>2 で、明らかなように半島の南であり、
糸島、福岡、筑紫の範囲に有った、190年時に女王を共立した国々です。

大夫難升米 次使都市牛利 大夫伊聲耆掖邪拘
は、この21国の、奴国王、都支國王、巳百支國王に比定可能です。
字の違いは、聞き取りが帯方郡でと梯儁が現地で、の違いです。

又、魏人が同じ梯儁の漢字命名以外には、倭人にこの和音の国名を参問する機会は無いので
これにある、邪馬國、ここに見た卑弥呼の臺、これが梯儁による邪馬台国命名の由来と想定できます。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:35:06.53
>>885
>参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
>九州島の北部2千里に収まる、小国です。

第一点、参問倭地は倭地を訪問したという意味ではない
第二点、周旋は一周したり元の場所に戻ったりはしない
第三点、短里などは存在しない

なので、北部九州は二千里ではないし、倭国は小国ではない
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 13:45:26.16
>>885
>此女王境界所盡 21国で構成する、7万戸。

邪馬台国だけで七萬餘戸だ
九州説は常にインチキ読みする

国を入れ子にする二重帳簿詐欺も九州説の基本アイテムww
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 14:26:20.48
〆て四萬戸が [其餘旁國] 20ヶ國の戸数
〆て二萬戸が [奴國]         の戸数が
〆て一萬戸が [自女王國以北] 5ヶ國の戸数

これらの総計 七萬戸が [邪馬壹國]なる行政区域で
[邪馬壹國女王]の[治所]が [女王國]で [奴國]内にある
[女王境界]の内側は[女王界]とよぶべきで
安易に無自覚に[女王國]に読み替えることは御法度
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:00:22.40
[女王境界]の内側の[女王界]は
〆て四萬戸の [其餘旁國] 20ヶ國 と
〆て二萬戸の [奴國] で構成され
〆て六萬戸の行政区域となっていて
別称を[邪馬]と称する行政区域である

〆て一萬戸の [自女王國以北] 5ヶ國は
[乘船南北市糴]で弁辰産の[板状鉄斧]を列島産の[米]で購う交易を
一手に独占する最強の武装集団であり
難升米がその首領であり
ここは別称を[壹]と称すべき行政区域であり
その[治所]は [伊都國]にあたる
この武装集団は海の民であり
三雲地区のような内陸部の占拠はかなりな程度で制限される

阿呆な学芸員が盛んに喧伝する三雲伊都國説はきっぱりと否定されなければならない
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:02:55.80
でも南は東の写し間違いニダ〜!ってウソつかないと畿内説は始まらないんでしょう?
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:23:04.63
>>888
邪馬台国が広域を示すというのは、畿内説も同じだよ。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:23:56.85
>>889
>これらの総計 七萬戸が [邪馬壹國]なる行政区域で

インチキww

投馬国は?
投馬国が倭国の最大国だっていいたいのか?ww
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:25:04.16
>>892
>邪馬台国が広域を示すというのは、畿内説も同じだよ。

奴国を邪馬台国に算入するなんていうインチキを畿内説はしないってww
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:32:18.67
でも南は東の写し間違いニダ〜!ってウソつかないと畿内説は始まらないんでしょう?
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:34:07.44
>>891
>でも南は東の写し間違い

畿内説はそんなことは言ってない
陳寿が倭国を会稽東冶之東という南国だと認識していた

そして日本海経路で丹波まで水行後、大和までの陸行が南向きになるので、
「水行十日南陸行一月至邪馬臺國」が「南水行十日陸行一月至邪馬臺國」に化けた可能性もある
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:35:50.48
>>895
方角は末盧國−伊都国間でもう間違ってるんだから、
間違ってるはずがないというのは意味がない
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 15:36:56.40
> 化けた可能性

やっぱ基本にウソを置くのは変わらないのね
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 16:35:13.92
邪馬台国が畿内説だと説明がつかない


「新唐書」
日本國者、倭國之別種也。
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 16:38:56.91
>>900
でも南は東の写し間違いニダ〜!ってウソつかないと畿内説は始まらないんでしょう?
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 16:42:58.24
>>901
遣唐使(遣隋使)から日本の代表が畿内(大和)に代わったんだ
じゃ〜今までの代表は?
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 16:53:40.27
>>902
邪馬台国は九州倭国?
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 17:12:26.23
近畿説や北部九州説は大間違い。
大間違い同士で1000年ウソつき議論しても結論は出な〜い。
邪馬台国は、上陸後2000里の九州中部にあった。これならウソつかなくてよい。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 17:27:26.47
>>904
少なくとも魏の時代は畿内(大和)が日本の代表政権ではなかったということだね
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 17:40:40.07
>>900
それねぇw 
いわゆる聖徳太子なんだけど、三国志読んで、
倭人伝の女王卑弥呼は九州の小国の王だったっての読み切ってるんだよね。
戦後の半島史や、記紀への忖度で、東遷したり南=東の嘘ついた学者も多いけど、
聖徳太子は、九州説です。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 18:33:29.25
金印は漢の倭奴国。 倭国の代表ではない。 親魏倭王の卑弥呼も同様。
238年にたまたま公孫氏に挨拶で寄ったら、政権変わって、洛陽に招待された。

邪馬台国は九州だが、出雲吉備畿内近江越濃尾紀伊四国は
銅鐸の連携以降、統一を形成しつつあった。

239年公孫氏滅亡、246年韓王朝滅亡。 
BC200 年以来、日本の青銅器文化で友邦であった王道楽土が滅ぼされた。

これを失った日本は、筑紫女王の外交に対し、一大卒を置いて管理を強化した。
公孫氏と韓王朝の滅亡を見れば、危機感を持つのは当然であり、
重農政策の、銅鐸文化を捨て、兵士を集め帝国化への富国強兵の古墳文化へ突入した。

三国志の覇者に対し、漢四郡は高句麗と挟み撃ちで、313年追討し
350年、百済、新羅を建国する。 400年には倭の五王の半島利権交渉が始まる。
この半島進出が無ければ、日本への馬や鉄生産の移入は無い。

日本にはこんな、当たり前の歴史の時系列が理解できない学者が存在するのかね?
600年には、隋唐に対し聖徳太子は、邪馬台国は九州ローカルであると言っている。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:38:13.13
韓王朝って何?
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 20:43:18.04
>>909
朝鮮ヒトモドキがよく使う手法
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:03:21.86
三国志、魏志、東夷伝、倭人条、で、韓伝って知ってるか?
魏時に公孫氏が半独立状態だった漢四郡の南に、馬韓ってのが有って、
238年に公孫氏の楽浪帯方郡を侵略した魏が南進して246年に韓王朝を滅ぼした。

これを復興して、350年に百済、新羅を建国できたのは
313年に漢四郡を高句麗と挟み撃ちにした日本の支援が有ったから。
これ以降、日本は高句麗戦を展開して、牛馬の移入に成功した。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:03:44.55
>>900
>邪馬台国が畿内説だと説明がつかない

>「新唐書」
>日本國者、倭國之別種也。

簡単に説明つくよ

旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能

だいたい、倭国伝に出てくる人物名が大和朝廷の貴族で、続日本紀等で名前が確認できるんだから、
新旧唐書の倭國も日本國も、どちらも大和朝廷だよ
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:04:26.52
韓半島、漢民族、韓語、韓文化、韓王朝という語はチョンコが新羅、高句麗、百済の三国をひとまとめにして大きく見せようとする手法なのは確かだけど、>>908はチョンコではないと思うぞ。 いろいろと間違ってはいるけど。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:06:14.81
>>911
で、あんたの言う韓王朝って何のこと?馬韓?
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:07:21.61
>>912
唐代以降の文献でしか確認できないということは、実は不確かだということ。
完全に別の国ではなく、大和が筑紫倭国の属州であったなら、人物が行き来していても何の不思議もない。
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:07:59.32
>>912
> 倭国伝に出てくる人物名が大和朝廷の貴族で、続日本紀等で名前が確認できる

サンプルカモン!
0917日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:10:34.95
>>908
>金印は漢の倭奴国。 倭国の代表ではない。 親魏倭王の卑弥呼も同様。

倭に様々な勢力がいても、その中で一つだけ代表権を認められたのが博多湾沿岸勢力であり、金印の授受をもって倭王に冊封されたということなんだよ。

>邪馬台国は九州だが、出雲吉備畿内近江越濃尾紀伊四国は
>銅鐸の連携以降、統一を形成しつつあった。

銅鐸文化は滅びちゃったじゃん。
筑紫の内行花文鏡による神道に置き換えられてしまったじゃん。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:13:19.03
銅鐸の鋳型は九州北部が最古
銅鏡も銅鐸も実は九州発祥
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:16:54.23
九州から畿内への侵入は何波もあったのでその初期の勢力が銅鐸を用いていたのだろう。
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:20:29.13
>>914
倭人伝や韓伝読めば判る、と言ってるわけで、漢字読めないなら話にならん。

245年に、倭難升米は
其六年 詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 で、対韓王朝での 檄を受けた。

これに、応えなかったのは、BC200から青銅器を輸入していた
韓王朝や公孫氏が日本の友邦だったからだと想定できる。

238年魏の友邦となった、邪馬台国が外交権を失ったのは、
本州日本が親韓政策で魏を敵視したからである。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:24:53.37
韓半島、漢民族、韓語、韓文化、韓王朝という語はチョンコが新羅、高句麗、百済の三国をひとまとめにして大きく見せようとする手法
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:26:47.59
韓半島、韓民族、韓語、韓文化、韓王朝、親韓という語はチョンコが新羅、高句麗、百済の三国をひとまとめにして大きく見せようとする常套手段
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 21:39:35.88
「大日本帝国」が欧米列強の植民地化に対し
半島を「大韓帝国」と命名して建国したのは、古代韓をにおける、
百済、新羅の建国の栄光を復興させる という意味において命名されたのである。

制空権、ミサイル戦争でなければ、瀬戸内海大和が不沈空母であるのは明瞭。
魏使が到達できた、邪馬台国では、白村江以降の防衛は無い。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:11:50.72
>>924
全然ちゃうぞ
まず、三韓と朝鮮三国を混同しとる
三韓は馬韓(慕韓)・弁韓・辰韓(秦韓)のこと
朝鮮三国が新羅・高句麗・百済やで

大「韓」帝国は、李氏朝鮮最期の王であるイ・ゴジョンが
清の冊封から解かれた=上に皇帝はおらん=ウリが皇帝って名乗りたいニダ!と嘆願し
さらにはウリのルーツは三韓に遡るニダ!とか言い出し
大「日本」帝国にあやかって大「韓」帝国と命名させてもらったという経緯や

三韓
https://ja.wikipedia.org/wiki/三韓/
朝鮮三国
https://ja.wikipedia.org/wiki/三国時代_(朝鮮半島)/
ゴジョン実録
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&;id=1000107326
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:12:34.23
>>923
そこに古代韓も加えといて
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:13:10.29
韓半島、韓民族、韓語、韓文化、韓王朝、親韓、古代韓という語はチョンコが新羅、高句麗、百済の三国をひとまとめにして大きく見せようとする常套手段
0928日本@名無史さん
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2019/03/17(日) 22:13:16.42
>・・・という語はチョンコが新羅、高句麗、百済の三国をひとまとめにして大きく見せようとする常套手段

なるほど。
新羅、高句麗、百済の三国問題は、現代でも大きなものがあるようだねえ。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:16:44.89
>>928
三つまとめてようやく半人前だからな(笑)
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:18:11.85
           ,..-─‐-..、  うわっ、キモッ、
            /.: : ノ し:::.ヽ   本当にウンコで釣れるんだ!
          R: : : ⌒:pq: :i}               ,,
           |:.i} : : : :_{: :.レ                / ⌒ヽ
          ノr┴-<」: :j|             /     |
        /:r仁ニ= ノ:.ノ|!             /      ∧.|∧
          /:/ = /: :/ }!         /       <´д`> ニダー
       {;ハ__,イ: :f  |       /´         し  J
       /     }rヘ ├--r─y/◎          し J
     /     r'‐-| ├-┴〆
      仁二ニ_‐-イ  | |
      | l i  厂  ̄ニニ¬
     ,ゝ、 \ \   __厂`ヽ
     / /\_i⌒ト、_   ノrr- }
   └-' ̄. |  |_二二._」」__ノ
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 22:56:39.04
>>925
> さらにはウリのルーツは三韓に遡るニダ!とか言い出し
ちょっと違う。 朝鮮王朝実録の中のゴジョン実録には
「我邦乃三韓之地, 而國初受命, 統合爲一。 今定有天下之號曰‘大韓’, 未爲不可」
(我が邦は三韓の地。しかし我が先祖の命によって初めて一つの国に統合された。今、国号を大韓に定めて為らぬというようなことは無い)
と書かれている。
どうやら初代帝も三韓と朝鮮三国の区別がついていなかったらしい。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:18:22.37
>>915
>大和が筑紫倭国の属州であったなら

そんなことがあったら、古墳時代の全期間を通じて、九州には畿内の大王墳より
小さな古墳しかないことが説明できない

王墓(筑紫)が属州太守(大和)の墓より小さい、ということはつまり
家臣に王を凌ぐ巨大墓の造営を許していることになるが、そんな王朝は古今東西一つもない
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:21:22.66
そもそも馬韓って小国の集まりで王朝と呼べるものではないのでは?
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:44:21.64
>>932
>そんなことがあったら、古墳時代の全期間を通じて、九州には畿内の大王墳より
>小さな古墳しかないことが説明できない

田舎の方が土地に余裕があった。
以上
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:49:07.43
>>916
>サンプルカモン!

旧唐書  又遣新州刺史「高表仁」持節往撫之
日本書紀 四年秋八月、大唐遣「高表仁」送三田耜

新唐書  長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣「朝臣真人粟田」貢方物
続日本紀 《慶雲元年(七〇四)七月甲申朔》○秋七月甲申朔。正四位下「粟田朝臣真人」自唐国至。

唐会要  大歷十二年。遣大使「朝楫寧」副使「總達」來朝貢。
続日本紀 《宝亀七年(七七六)十二月丁酉【甲申朔十四】》○十二月丁酉。
     停遣唐副使大伴宿禰益立。以左中弁兼中衛中将鋳銭長官従五位上「小野朝臣石根」。
     備中守従五位下「大神朝臣末足」並為副使。

唐会要   開成四年正月。遣使「薛原朝常嗣」等來朝貢。
続日本後紀 《承和三年(八三六)四月壬辰【廿四】》○壬辰。天皇御紫宸殿。
      賜餞入唐大使「藤原朝臣常嗣」。副使小野朝臣篁等。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:55:13.86
>>933
そうだよ
別スレでイタリアに例えてる人がいたけど

イタリア半島=朝鮮半島

ローマ市=馬韓(慕韓)

バチカン市国=伯済(のちの百済)
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/17(日) 23:56:25.62
>>934
お前、バカだろ?ww

>田舎の方が土地に余裕があった。

巨大墳丘墓は、その造営に必要な大量の労力が動員できる=国力の大きさを誇示するモニュメントだ

重要なのは土地ではなく労力
九州の豪族の力(国力)が、畿内の大王を一度も超えられなかったという明確な証拠が
代々の古墳の大きさだ
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 00:02:24.10
田舎に動員人口がいても、ローマの属州に奴隷階級がたくさんいるのと変わらないだろ。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 00:10:38.59
弥生時代後期に東征は完了していた
古墳時代に九州に残っていたのは分家だから小さい
畿内を統治した本家のはデカい
コレで全て解決じゃん
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 00:48:37.81
>>939
まー実際そんなとこだろ
じゃなかったらわざわざ神話にしてまで残さない
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:27:16.72
神武が分家だろ。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 07:28:21.53
『旧唐書』倭国・日本国伝

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。

日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。


『新唐書』日本伝

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至るおよそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州


(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書)
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:07:42.75
>>938
>田舎に動員人口がいても、ローマの属州に奴隷階級がたくさんいるのと変わらないだろ。

本当に底抜けの大バカ野郎だなwwwww

その田舎にいる動員人口を糾合できる権力こそ中央政府であり、その巨大な動員に
よる巨大なモニュメントがある場所こそが王権の所在地だろ

九州倭国とやらの王様は、どうして田舎の人口を徴発しなかったんだ?ww
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:10:32.68
>>939
>弥生時代後期に東征は完了していた
>古墳時代に九州に残っていたのは分家だから小さい

つまり弥生終末期の倭国の中心=邪馬台国は畿内だってことだな!

まあ、東征があったとも思わないし、そもそも征服したり支配したりと
いう関係は見いだせないんだが
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:21:05.54
>>942
>日本と倭国は別種。

・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
近江朝と天武の政権交代を示しているだけ

>日本は東側の小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)

それは
「以其國在日邉 故以日本爲名
 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
 或云 日本舊小國 併倭國之地」
の三番目で、旧唐書の撰者ですら可能性の低い異説としているもの

唐会要では、
「則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。」
と明記されていて、武則天の長安四年の遣唐使、粟田眞人が倭国の日本国への改号を
報告したことが確認できる

>日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は筑紫にいた。(新唐書)

これ、日本書紀=大和朝廷の歴史書の引用だよ

(まとめ)
すべて、畿内政権、大和朝廷のことが書かれているのが確認できたね!
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:53:07.88
>>943
>九州倭国とやらの王様は、どうして田舎の人口を徴発しなかったんだ?ww

徴発したから畿内の土器が九州に持ち込まれたんだろw
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 08:53:57.70
神武は都落ち
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:18:52.15
東夷伝では、高句麗と扶余を別種としてる。
「高句麗在遼東之東千里・・・。東夷舊語以為夫餘別種,言語諸事,多與夫餘同,・・・」
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:33:03.60
>>946
>徴発したから畿内の土器が九州に持ち込まれたんだろw

徴発した田舎ものの土器を、首都の祭祀供献土器に採用して、
王都の土器は廃れてしまったなんて本気で考えてるのか?ww

九州説は、いつも思いつきで言い逃れを考えてその場しのぎをしようとして
結局つじつまの合わないことばかりになるww

属州民を徴発して首都のローマにコロッセオを作っても、
その動員人口の地元の属州にはコロッセオは作られないんだよ

古墳時代にしょぼい古墳しか作れない九州に、古墳時代も倭国王がいたなんていうのは
よほどのバカでなければ支持しないトンデモなのに、何をがんばっているんだかww

そんなに自分のバカをさらしたいものなのかねぇ
もしかして、ドMなのか?ww
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:34:19.97
>>948
>東夷伝では、高句麗と扶余を別種としてる。
>「高句麗在遼東之東千里・・・。東夷舊語以為夫餘別種,言語諸事,多與夫餘同,・・・」

これも結局は、扶余人の別政権という意味だよ
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 09:43:32.06
3世紀の話をしろよ。
すり替えるんじゃねえよ。
畿内の詐欺師。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 11:53:27.14
>>951
>3世紀の話をしろよ。
>すり替えるんじゃねえよ。

おや?
旧唐書(945年成立:10世紀ww)の話を持ち出したのは九州説の方なんだが?

それとも、古墳の話の方かい?
筑紫倭国が古墳時代も倭国の代表政権だって言ってるのも九州説の方だぞ?ww

論破されて逆切れかい?
しかも、自分の非を相手に擦り付けるミラーリングでww
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 11:55:12.44
>>952
>でたらめはいいよ

どこがでたらめ?
具体的に根拠をあげて説明して?

「倭」というのは、「倭種の人・倭人の住んでいる領域」という意味でしかないから、
倭の別種がいるところも、当然に倭の中だぞ
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 12:28:03.65
倭国と日本国は高句麗国と扶余国の関係と同じでいいんだよ
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 12:30:15.97
>>954
>倭の別種がいるところも、当然に倭の中だぞ

それは違うな。
国としての体裁がなくても倭人が住んでいるところはある。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 12:41:25.72
>>942
>其國界東西南北各數千里

魏志倭人伝は南へ南へと縦に伸びてるのに対して唐書は東西の横への伸びが表されてる
やはり邪馬台国は九州だ
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 12:42:41.55
>>956
>国としての体裁がなくても倭人が住んでいるところはある。

魏志「倭人」伝であって、「倭国」伝ではないことに注意

一応、卑弥呼を王と仰ぐ範囲が「倭国」扱いされているが、中央集権国家ではないし
ある意味「国としての体裁」は3世紀時点では整っていない

魏志倭人伝の扱う領域は、倭国ではなく「倭人の住んでいる領域」だ
「国としての体裁がなくても倭人が住んでいるところがある」という反論には意味がない
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 13:40:22.63
でも南は東の写し間違いニダ〜!ってウソつかないと畿内説は始まらないんでしょう?
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 14:59:10.70
>>958
>一応、卑弥呼を王と仰ぐ範囲が「倭国」扱いされているが、中央集権国家ではないし
>ある意味「国としての体裁」は3世紀時点では整っていない
>魏志倭人伝の扱う領域は、倭国ではなく「倭人の住んでいる領域」だ

指摘のとおり、倭人伝は倭人の住む領域全てを扱うが、実際には詳細な情報は女王国についてしかなく、情報に乏しい倭種の地についてはそのように断り書きがある。
そして帯方郡から一万二千里というのは、すでにわかっている女王国、すなわち邪馬台国までの距離だ。
範囲が不明確な「倭人の住むところ」もしくはその中心までではない。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:25:31.41
>>955
>倭国と日本国は高句麗国と扶余国の関係と同じでいいんだよ

倭の別種と書いてあるのは、旧唐書だから、旧唐書での解釈を書いているんだが?
旧唐書194巻 突厥
突騎施烏質勒者,西突厥之別種也。
蘇祿者,突騎施別種也。

突騎施も蘇祿も、突厥の中の政権
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:30:38.25
>>960
>「国としての体裁」はないけど政権はあったんです!

政権とは一度も書いてないぞww
畿内説が想定するのは、卑弥呼を王とする祭祀連合であり、
邪馬台国=ヤマト国が卑弥呼の居所・都のある国で、祭祀連合の盟主というもの

緩やかな祭祀連合であって、参加する地方首長同士の個人的な紐帯だけを基礎とし
代替わりごとに関係を新たに確認する必要のあるゆるい連合体だ

その新たな関係の確認の舞台が、前方後円墳上で行われる、前代首長の葬送儀礼と
いう位置づけになる

支配ー被支配の中央集権体制ではないから、九州説のよくいう
「畿内による九州の支配はないから畿内説は成り立たない」という論立ては成立しない
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:36:07.23
>>965
>これも結局は、扶余人の別政権という意味だよ

これはお前じゃないのか?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:36:08.61
>>964
>三国志で解釈しろよ

残念ながら、三国志に倭国について「別種」という記載はないから、
三国志で倭国と日本国が別種というのを解釈することはできないよww

九州説の人は、旧唐書の記述に引きずられ過ぎだし、旧唐書で解釈すれば
別種は同じ国の別の政権という解釈でよい
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:40:23.97
三国志東夷伝の「別種」表記は2箇所

東夷舊語以為夫餘「別種」 言語諸事多與夫餘同 其性氣衣服有異
東夷の昔話では夫餘の別種となし、言語や様々なことで多くが夫余と同じだが、
気性や衣服に違いがある。

結局、扶余と同じ種族であることを示すのが主眼

句麗「別種」依小水作國 因名之小水貃 出好弓所謂貃弓是也
高句麗の別種がこの小水のほとりに国を作っており、小水にちなんで
小水貊と名づけられている。良い弓を産出する。いわゆる貊弓がこれである。

これも、高句麗人の作った国だが、高句麗とは違う国名で呼ばれているという注記

別種というのは同じ種類の民族・種族が違う国名を名乗っているという程度の意味
「同じ民族、種族」というのを記述するのが目的
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:44:18.31
>>969
>「倭種」は「別種」じゃなかったんだ

そうだよ、別種だなどとは書いていない

原文は「女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種」であり、
渡海前も渡海後も「皆」倭種である
つまり、倭地は或絕或連の海中洲島之上で、絶えた部分(海峡)を渡海千里しても、
その辺に住んでいる人は全部皆同じく倭種だと書いてあるだけ

倭種の人が倭人
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:45:55.70
文字として「倭種」と「倭の別種」と書き分けてることに注目せよ
0974日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:46:15.64
この別種の討論でも、畿内説側がきちんと原文の典拠を示して、
論理的に理詰めで説明しているのに対して、九州説の人のレベルの低さが際立ってるなww
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:46:52.59
倭種って言ったら新羅も倭種だな
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:47:18.78
>>974
え?逆にしか見えないんだが
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:47:56.94
でも南は東の写し間違いニダ〜!ってウソつかないと畿内説は始まらないんでしょう?
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:54:11.97
>>965
>畿内説が想定するのは、卑弥呼を王とする祭祀連合であり、
>緩やかな祭祀連合であって、参加する地方首長同士の個人的な紐帯だけを基礎とし

魏志倭人伝の解釈が間違ってませんかね。
卑弥呼が共立された経緯からそのように考えたというのはわかるけれども、即位から何十年も経ち、大率などの説明からは強力な集権体制が伺えます。
実際、各地の環濠集落が解体されたり、平原遺跡などごく一部に宝飾品が集中する傾向が見られます。
畿内説が夢想する緩やかな連合というのは、卑弥呼が支配する女王国ではなく、それ以外の領域に当てはめるべきです。
それが倭人が住むけれども邪馬台国ではない、倭種の地であり、畿内を含む西日本のことです。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 15:56:28.48
>>967
>旧唐書で解釈すれば
>別種は同じ国の別の政権という解釈でよい

それでもいいよ。
魏に朝貢した邪馬台国は九州北部、畿内は倭種だけれども別の政権だね。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:08:56.56
>>973
>文字として「倭種」と「倭の別種」と書き分けてることに注目せよ

三国志に、文字として「倭の別種」(倭別種)はないよww
10世紀の旧唐書の記述で、3世紀の倭国を語るのはいい加減にやめなよww
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:09:42.94
>>981
新羅もそれだな
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:10:22.58
>>982
え?日本国の話をしてるんだが?
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:11:47.50
邪馬壹國は国邑ではなく国邑の連合体だった
これが理解出来ないと魏志倭人伝は読み解けない。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:12:03.72
>>978
>大率などの説明からは強力な集権体制が伺えます。

集権体制が整っていたら、直接統治ができるってことだから、
一大率のような派遣官は必要ないんだよ

諸国が一大率を畏憚するのは、卑弥呼の権威が高いからであって
直接統治もしていなければ、中央集権体制にもない
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:21:31.10
>>975
>倭種って言ったら新羅も倭種だな

またいい加減なことをww
新唐書にも旧唐書にも、倭種って言葉はどこにもないぞ

>>976
>え?逆にしか見えないんだが

>>975>>983を見ても分かるだろ?
新羅が倭種ってのは、典拠も示さずに勝手に書いてるだけww

たぶん、三国史記の新羅の脱解尼師今が、多婆那國で生まれたってのを
聞きかじったんだろうが、思いっきり後世の12世紀成立の話だし、
王の一人の出自だってだけで、新羅の民族が倭種って話ではない
「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里」
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:26:49.70
>>979
>それでもいいよ。

いいだろ?
倭国が、畿内大和朝廷の天智朝までの国号で
日本国が、畿内大和朝廷の天武・持統朝以降の国号だ

同じ民族の同じ国の、異なる国号の政権を、別種と表現している

>魏に朝貢した邪馬台国は九州北部、畿内は倭種だけれども別の政権だね。

これは大間違い
後漢に朝貢した倭奴国は、北部九州福岡平野の国
魏に遣使した卑弥呼の都のある邪馬台国=ヤマト国は、そのまま後の大和国の旧名だよ
そして、畿内政権がずっと倭国を名乗っていて、天武・持統朝から国号を改めたということ
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:33:42.48
新羅は王族が倭種でも住民は北方から来た満洲系だな。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:36:31.64
>>987
バカは黙ってろ
瓠をぶら下げて海を渡って来た倭人が初代王のパク氏族
多婆那国から箱で渡ってきたタルヘが四代目以降の王族であるソク氏族
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:37:10.75
>>989
そだよ
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 16:50:10.14
>>990
そのあとの金王朝は倭人でも倭種でもないけどね
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:10:02.87
新羅の成立は4世紀後半の金王朝
それ以前の新羅の看板が懸かった諸記事は
金王朝の先祖騙りと考えるのが良い
新羅の王統も然り
これは倭人の歴史が巧妙にぱくられているということ
金王朝の名前もたぶん金海の首露王の末裔からの貰い物だろう
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:24:58.60
>>986
>集権体制が整っていたら、直接統治ができるってことだから、
>一大率のような派遣官は必要ないんだよ

大率は中央官僚であり、周辺諸国を監視する統治機構だよ。
集権体制の内容を説明しているんだよ。
刺史のようだと書いてあるだろ?
後漢から魏の時代の刺史についての説明がこれ。

三国志最強の男 曹操の人望力 - 12 ページ

刺史は本来、地方行政の組織の枠に組み入れられた存在ではなかった。役職も目付のようなもので、州や郡、県の役人が政務を真面目に司っているか否かを監督し、 その成績を考察して、中央へ報告する役割を担っていた。
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 17:26:42.60
>>985
>邪馬壹國は国邑ではなく国邑の連合体だった
>これが理解出来ないと魏志倭人伝は読み解けない。

誤読だよ。
成立した時はそうだったが、約半世紀の間に中央集権化したんだよ。
それは考古学的にわかっている。
卑弥呼体制が九州北部を中心とする西日本の政治体制に影響を与えたんだ。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:17:01.71
>>996
>魏志韓伝の斯蘆を意図的に無視するなよ無能チョンコロ

差別用語を使えば、半島人じゃないフリができるって訳じゃないんだよ、おバカさん

三国志の時代に、新羅はまだ成立していないし、魏志韓伝の斯蘆は新羅じゃないって話だよ
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:18:08.84
>>995
>それは考古学的にわかっている。

その根拠を具体的に書いて見せてよww
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:19:56.76
>>994
>大率は中央官僚であり、周辺諸国を監視する統治機構だよ。
>集権体制の内容を説明しているんだよ。
>刺史のようだと書いてあるだろ?

刺史は首都にいる中央官僚ではない
何度言えば分かるのかねぇ

思い込みだけでチェリーピッキングする人の相手はなかなか大変だw
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/03/18(月) 19:21:48.05
>>994
>中央へ報告する役割を担っていた。

刺史が中央官僚だったら、中央に報告する必要ないだろ?
自分で矛盾していることに気づかないのかねぇ?ww
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