邪馬台国畿内説 Part402
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542983556/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。 ◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。 ◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。
地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998)
纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。暮壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし ◆FAQ 23−1
>築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
前円後方墳??? ◆FAQ 23−1
>築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
円丘と基壇部のみの前方部から成っていた「時期」とは
國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
〜
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
の「時期」と解釈してもいいのだろうか? 仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
水戸神の子櫛八玉神って何者なんだろう
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します 神と人間は違うんだよ、どこのキチ外なんだ?
そんなに神になりたいの?神様だと思われたいとか お前の思っている、想像している?
庶民、一般人というのがいるでしょ
その一般人のほうが神様なんだよ、
キチ外(騙り、成り済まし?)には何を言っても、わからないんだろうけど 投稿数のグラフが、みごとだな。
翼の折れた紙飛行機のようにヘナへナと墜落しとるなあ。 それと、その他大勢の中の、さらに雑魚?
なぜ、このような人物が偉そうにしているんだ、
すべて取り仕切っていたの?騙り?
あと魚を獲ってきて・・・どう考えても家の話だろう、
ロトちゃんというキャラ(仮名)も、魚を獲ってきて・・・・、
母親(ママ)が〜と言っていたり、家の母親という話じゃないの?
『松傾』?
こういう家なんだけど >>86
>>◆FAQ 23−1
築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。<
>前円後方墳???<
遺族や後継者は、円頂部での埋葬祭祀が終われば、その後は、
前方部の巨大墳丘工事など、、余計な事はしないもの。
つまり、スレ主は、詐欺師。 >>87
>>>◆FAQ 23−1
築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある<
>円丘と基壇部のみの前方部から成っていた「時期」とは
國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 〜
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺
獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
の「時期」と解釈してもいいのだろうか?<
「南≠東」などによって、始めから×。 >>88
>仁徳天皇・・・<
書紀は、九州の倭国の存在や歴史を隠蔽盗用造作した半分×書であるから、
史料批判無しには、証拠にはならない代物だし、
「天皇」なんて存在しなかったんだから、
この男も×。 >>89
>神と人間は違うんだよ、どこのキチ外なんだ?
そんなに神になりたいの?神様だと思われたいとか<
神なんて存在もしないし、
どこかのキチ外が、生きていくのに不安を抱えているために人々を騙すために、
造作した脳神経的な、宗教的な偶像に過ぎない。
そんなに神になりたいの?。神様と思われたいの?。
人間は(大体の生物もそうだが)、
親から貰った遺伝子と栄養に拠って、細胞や組織を作って大きくなり、
使い古して壊れたり、病気や損傷したして組織を、
修復したり一部再生してしたり生きて行き、子供を作っておくが、
修復再生し切れなかった部分が段々と増加して行き、
やがて、破壊した部分の修復再生仕切れなくなって、
全て死亡してしまうもの。
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ボーっと生きてるだけなら何も不安はないので
祈る必要がないわけです。 崇神紀とタウポ火山大噴火
西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火(過去100万年で最大級の大噴火)
西暦181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」 『後漢書』
西暦182年 『後漢書』 によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。 『後漢書』
西暦182年(崇神5年) 『日本書紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「崇神天皇の徳でも国を治める事が困難になった。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「渟名城入姫の髪が抜け落ち身体が痩せ細って神を祀れなくなった。(崇神天皇の娘も餓死寸前)」
西暦184年 黄巾の乱が勃発
西暦184年(崇神7年) 『日本書紀』によると「モモソ姫(卑弥呼)に大物主神を祀らせたら、五穀豊穣になった。民百姓は喜んだ。」 >>101
>西暦184年(崇神7年) 『日本書紀』によると「モモソ姫(卑弥呼)に大物主神を祀らせたら、五穀豊穣になった。民百姓は喜んだ。」 <
「南≠自我氏」などに拠って、×。 2018/07/13
【人類学】縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? ゲノム配列解読[07/11]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1531460749/1,28,272,380,385
https://www.asahicom.jp/articles/images/c_AS20180711004656_comm.jpg
https://pbs.twimg.com/media/DhZwL_LWkAAZH4i.jpg
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/08/20140806-083728-31048521.jpg
2018/09/22
【愛知】渥美半島の縄文人はムキムキ?! 上腕が極端に骨太、舟こぎ発達か[09/19]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1537627890/54
2018/11/12
【九州説】邪馬台国 魏志倭人伝を正しく読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542023631/593,594,596-602,640,665
2018/11/23
【考古学】縄文土器に大量の「米食い虫」=北海道・館崎遺跡から出土−熊本大[11/23]
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1542962973/141,143,142,144
2018/07/31
邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1533027941/
2018/11/28
【朗報】天皇家、縄文人だった。皇族のハプログループはD1b1a2b1a1(縄文人)、藤原氏はO1b2a1a1(弥生人)と判明 [483053163]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1543380625/204,206-208
https://famousdna.wiki.fc2.com/upload_dir/f/famousdna/c9776942f03942da3061bcf81e421f08.jpeg >>102の訂正
>西暦184年(崇神7年) 『日本書紀』によると「モモソ姫(卑弥呼)に大物主神を祀らせたら、五穀豊穣になった。民百姓は喜んだ。」 <
「南≠東」などに拠って、×。 >>101
崇神7年には、大物主がモモソ姫に憑りついて「我をよく祀れば国は平らぐ」と告げたと書かれているが、モモソ姫が大物主を祀ったとは書かれてないぞ。 >>106
>崇神7年には、大物主がモモソ姫に憑りついて「我をよく祀れば国は平らぐ」と告げたと書かれているが、モモソ姫が大物主を祀ったとは書かれてないぞ。
記紀には崇神紀七年、「大田田根子」を大物主大神の祭主とし、翌八年には高橋邑の「活日」を大神(オオミワ)の掌酒(サカビト)にすると記されている。
その大神とは「大物主大神」を指し、祭主となった大田田根子の「祭祀場」と掌酒を分担した活日の「高橋邑」は近接していたことになる。
阿波国旧美馬郡にある「段の塚穴型石室」といわれる特異な石室構造をもつ古墳は、分布範囲がほぼ旧美馬郡に限られており、
段の塚穴の2基のみでなく、旧美馬郡の範囲の古墳に共通してみられる特徴である。
その吉野川北岸美馬郡美馬町「段の塚穴」の南対岸 貞光町に「太田」と「高橋」の地名が並んで残っている。
尚且つ、日本唯一社「倭大国魂神社」が旧美馬郡美馬町に存在している。
「大田田根子」は「大国主命」の五世孫とされ、崇神天皇は河内の美努村(ミノノムラ)から「大田田根子」を探し求めたとされる。
この「河内の美努村」とは「三好郡美野郷」のことで、現在の三野町にあたる。
また日本書紀では「陶邑(スエムラ)から大田田根子を得た」とあるが、これは「三好郡美野郷」三野町の吉野川対岸に位置する三加茂町、
その下流の半田町が「陶邑」と考えられる。
半田(ハンダ)は植田(ハニタ)が変化したもの。 これは陶器や埴輪、瓦をつくる邑の意味になる。
このように「太田田根子」にまつわる伝承は、阿波の地名や伝承そして「倭大国魂神社」が、現に美馬郡に鎮座していることから裏付けられるのである。 @阿波 このスレさぁ
畿内説を信じ、書き込んでる人はウソつきじゃ無いよ
畿内説の学者に騙されやすい人が書き込んでるのだよ
「井の中の蛙大海を知らず」ってとこかな このスレさぁ
畿内説を信じ、書き込んでる人はウソつきじゃ無いよ
畿内説の学者に騙されやすい人が書き込んでるのだよ
「井の中の蛙大海を知らず」ってとこかな >>111
九州説もいっしょ。 「井の中の蛙大海を知らず」 @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀〜香賀〜英賀
見事なラインだなぁ まあ、大和は纏向連合の所在地。
その纏向連合が大和の王権に発展した。
博多を握った大和は発展し、博多を失った北部九州は舶載品の中継地となった。
日本史は、纏向連合が発展した大和王権を軸にして、はなばなしく展開することとなった。
そして、かつての王権所在地の北部九州人は、九州王朝の夢よ今再びと、捏造歴史に力を注いでいる。
まあ、がんばりたまえ。 具体的な反論がまったく出来ないアンチの惨状を見るに
畿内説は盤石そのものの通説だな 情報量の決定的な不足と
論理性の欠如
これ、九州説の二大死因 >>117
かつての九州王権、卑弥呼の都は筑後山門。
筑後山門には、二十四節気暦を基にした祭祀が行われた痕跡がある。
みごとな10度角による季節祭祀の跡だ。
卑弥呼の祭祀であった。 >>122
二十四節気暦を基にした祭祀が行われた痕跡なんて
どこにあるんだ?
証拠は? >>124
>中傷だけはいっちょまえのテンプレ脳畿内説
だという証拠は? テンプレ脳に侵されるとこのように自省ができなくなります >>124や>>111、>>115なんかが中傷専門の典型でないの? 畿内説はもう中傷でしか九州説を攻撃できなくなっている
それがテンプレ脳の限界 ・情報ソースが出せない
・その結論が出る論理的な説明ができない
この二大特徴が該当しない九州説の投稿つ、ある? >>132
>畿内説はもう中傷でしか九州説を攻撃できなくなっている
という証拠は? >>136
いくら言われても具体的事実が示せない点 >>139
意味が分からないことに対して意味が分からないと言っただけなんだが
証拠必要か? >>140
事実なら出てるじゃん
自省するべきところが見当たらないって >>142
意味が分からないということが
自省できない人な証拠なんだよ >>145
意味が分からん
論理学を学んだほうがいいよ >>143
たしかに九州説優位の状況での
共倒れは九州説の損だな >>150
こういう妄想癖が畿内説論者に多いこと多いこと >>147
なんで論理学を学んだほうがいいと思うの?
理由は? >>148
自省すべきところが見当たらないのに
自省しろはないな >>154
>自省すべきところが見当たらないのに
>自省しろはないな
誰かがあんたに自省しろと言ったという証拠は? >>160
自省ができないということは
自省すべきところをしてないから出る言葉だから ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>161
それはお前の考えだろ?
相手がそう言った事実はないよ >>165
自分の考えだけではないと
一般的な理解です >>167
九州説はごまかす必要がないからその線はない >>166
証拠はまったく出せないが
俺様の言うことが人類の常識なのだあ
という九州説的パターンいただきました >>168
論理的な帰結として導けるものだから一般的だね >>175
論理的な帰結として導けるものだ
という証拠は? >>179
論理的帰結として導かれた命題ですので
理由になっています 九州説は根拠提示さずに九州倭国はとかいきなり語りだすけど僕の考えた九州倭国サーガはスレチだし別スレで語ってくれ >>180
日本語が不完全だな
誰か何の証拠を出せないことが、なんの証拠なんだ? 九州説は罵倒しか出来ないなら
それはぐうの音も出ないほど論破された証拠だな >>182
論理的帰結として導かれた命題だという証拠は? >>184
畿内説の誰も証拠を出せない
それが証拠
>>186
>>161 >>189
畿内説の誰も証拠を出せない
という証拠は? >>192
畿内説が中傷しかできていない
という証拠は? 九州説はこのスレの存在により
完膚なきまでに論破されたのだ
あとは九州説が悔し紛れの罵詈雑言を並べ立ててるだけだな 畿内説を攻撃してる人は
証拠を出すことが大嫌いだ
ということが
よくわかった ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>200
畿内説の中ではそうなんだろうね
>>201
そしていつもの自演荒らし 邪馬台国=大和国を中心とした地域には
3世紀他の地域にない巨大前方後円墳が作られ
魏鏡の三角縁神獣鏡が国内最多で出土する
おら論破してみいや >>125
場所は、福岡県みやま市瀬高町山門
国道443号の吉井信号北側付近。
北緯33度8分56秒
東経130度29分20秒
ここが卑弥呼の祭祀所の所在地。 >>202
>そしていつもの自演荒らし
自演荒らしだという証拠は? >>208
三角縁で草
まだ畿内説の妄想続いてたんだ >>203
三角縁は3世紀後半からだろう。
卑弥呼が筑後八女付近で死んだのは248年。 議論を挑まれないように前スレにこそこそ×をつけてまわるのが九州説でしょ 三角縁神獣鏡に関しては
九州説がつく嘘は全部証拠挙げて論破可能だというのに
九州説は学習しないなあ 骨董市の一枚にしがみつく畿内説、みじめすぎるだろw 三角縁神獣鏡は出土数が豊富でしかも中国本土の鏡との技術や様式の比較で年代がかなりの精度で特定できるから大事だぞ 畿内説スレで論じるのではなく罵倒し荒らし出鱈目を並べ立てる
九州説にとって学問とはそんなもの >>221
そういう事にしたくて必死だなあ
魏鏡で倭への下賜鏡の証拠は他にも山ほどあるし ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>225
こういうおかしなレスに何でやねんとツッコミ入れるだけでいいから
最近策だな >>117
>まあ、大和は纏向連合の所在地。<
まあ、纏向連合なんてなかった。
あったのは、九州倭国の「東征毛人五十五国」の倭種連合あり、盟主は九州倭国。
>その纏向連合が大和の王権に発展した。
博多を握った大和は発展し、博多を失った北部九州は舶載品の中継地となった。<
これも逆ね。
東征毛人五十五国を握った九州倭国は、五十五国にの九州文化や大陸伝来の文化を伝えた。
>日本史は、纏向連合が発展した大和王権を軸にして、はなばなしく展開することとなった。<
日本は、九州倭国連合が発展し、
梁代には、倭国と出雲の文身國との越の大漢國と侏儒國と、東北の女國などになり、
大和は、継体の反乱で九州倭国内王家に参画出来て、扶桑國と呼ばれた。
そして、白村江の後で大敗した九州倭国を、扶桑國の後裔の大和日本国が併合吸収継承して、
王権所在地になった大和は、九州倭国の存在や歴史を隠蔽盗用し、捏造歴史に力を注いでいる。
まあ、がんばりたまえ。 >>118
史料事実や史料実態からの具体的な反論が、
まったく出来ない・・・・アホ詐欺師の大和説者の惨状を見るに、
九州説は盤石そのものだな。 >>229
磐石という割にはいつもボコボコにされてるんだが >>119
「南→東」などにような、
史料事実に対する否定や曲解捏造の嘘吐き騙しや、
史料事実からの帰納的確率的推論の決定的な不足と、
学問的論理性の欠如。
これ、大和説者の三大死因。 >>123
「南→東」などのような、
史料事実に対する否定曲解の嘘吐き騙しの連投の脳硬直偏執は、
だいたい大和説者だ。 >>231
そういうオリジナリティの無さが九州説の死因じゃね? >>133
・「南→東」などのような史料事実に関する否定曲解の嘘吐き騙しをする
・その結論が出る論理的な説明ができない
・議論に負けそうになると、相手が論拠を言っているのに知らん振りして、
「証拠は?」を連発し始めて、その返事も待たないで「証拠を言わなかった」として、
議論に勝ったかのように、世間の人々に吹聴するから、
この三大特徴が該当しない大和説の投稿つ、ある?。 >>135
>畿内説も九州説もどっちもどっちだな <
この男も、存在もしない「畿内」なんて言葉を使う嘘吐き騙しのようだな。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>138
>どこに論破できてるレスがある?<
大和説のレスは、全て「南→東」などの嘘吐き騙しである、
などと、
すべて論破してある。 >>151
>九州説優位の状況だと思う理由は?<
大和説者は「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き騙しだ、
という指摘に対して、大和説者が、全く反論が出来なかった事。
何せ、「東西南北の区別」は、人類誕生以来の人類の常識的な事だったからね。 >>154
>自省すべきところが見当たらないのに自省しろはないな <
大和説者は、「南→東」などの嘘吐き騙しのように、
自省すべきところが見当たるのに 、
「自省しない」はないな。 >>167
「南≠東」などのように、
まいど論破されては誤魔化す、
嘘吐き騙しの・・・・顔の表情大和説者。 >>169
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
思い込みばかり強くて、証拠が出せない。 >>171
「南→東」などの嘘吐き騙しの証拠はまったく出せないが、
俺様の言うことが人類の常識なのだあ
という大和的パターン、いただきました。 >>177
「南→東」などの単なる嘘吐き騙しをしての罵倒じゃ、
九州説は引っくり返らないよ。 >>238
>大和説のレスは、全て「南→東」などの嘘吐き騙しである、
>などと、
>すべて論破してある。
嘘吐き騙しである、
などと理由も言わずにただ決めつけると
論破したことになるとか
本気で思ってんの? >>180
>証拠が出せないのが証拠だね<
相手には証拠が出せと言いながら、
自分ら大和説者は「南→東」などに嘘吐き騙しの証拠は全く言えないのが、
阿部文部省や右翼マスコミや、皇国史観学会教育界や、大和説者の負け、の証拠だね。 >>183
>九州説は根拠提示さずに九州倭国はとかいきなり語りだすけど<
いや、原則としてきちんと根拠は出してある。
>僕の考えた九州倭国サーガはスレチだし別スレで語ってくれ <
嫌だ。
「南→東」などの大和説者の嘘吐き騙しに、
世間の人々が騙される事は黙過し難いし、
そんな嘘吐き騙しの学会教育界や阿部文部省や右翼マスコミらに騙されて、
国民が「戦前の万世一系皇国史観の八紘一宇」の戦争をさせられて、
殺されるのを見るのも嫌だ。 >>185
「南≠東」などの嘘吐き騙しの大和説が、
罵倒しか出来ないなら、
それはぐうの音も出ないほど論破された証拠だな 。 >>196
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
このスレの存在により完膚なきまでに論破されたのだ。
あとは大和説が、悔し紛れの罵詈雑言を並べ立ててるだけだな。 >>198
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説名物
現実逃避。 >>200
九州説を攻撃してる「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の人は
証拠を出すことが大嫌いだ
ということが
よくわかった。 久留米市にある祇園山古墳墳頂の石棺の向きを平面図でみてみると、真北に対して東へちょうど30度の角度に振ってある。
これに、円環上に3年分の二十四節気を配置した3年暦を重ねると、この真北に対して30度の角度は春分点に重なる。
春分は彼岸に当たり、祖先を祭る。
皇居では祖先の皇霊祭を行い、伊勢神宮では御園祭を行い、農作物の成育と農業の発展を祈る。
祖先の魂を祀ることで、豊かな稔りを祈るもの。
二十四節気と関連するのであれば、この春分の方角に向けて、棺が向けられていることになる。
なお、棺の向きが反対方向であれば秋分の角度と重なり、やはり彼岸に当たり、祖先を祀って豊作を祈る。
二十四節気暦と関係するのであれば、この祇園山の被葬者の棺は、春分(秋分)の方角に向けて安置されたということになる。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>203
おら論破してみいや。
>邪馬台国=大和国を中心とした地域には<
邪馬台国なんて、史料事実に存在しない嘘つき騙し文言。
>3世紀他の地域にない巨大前方後円墳が作られ<
大和の前方後円墳は、卑弥呼の冢ではなく、撥型前方後円墳であるから、
3世紀末以後に、九州倭国の「東征毛人五十五国」の将軍らに拠って造られた。
>魏鏡の三角縁神獣鏡が国内最多で出土する<
△は、魏鏡ではなく、渡来の呉系の楽浪鏡師やその弟子らの制作であり、
大和の△や4世紀以後。 >>210
大和説名物の「南→東」などの嘘吐き騙しの妄想は、国民のためにならないから、
もういい加減で、勘弁してくれよ。 自分からは何も出さず、「という証拠は?」と言い続け、相手にするのが面倒になってレスしなくなると「論破した」と居丈高になる、パターンの粘着がいるよね。 >>214
「大和の三角縁神獣鏡は、明帝鏡ではなく、呉系楽浪鏡師らに拠る4世紀以後」、
を突きつけられ逃げ惑う大和説 。 >>216
議論を挑まれないように、
「南≠東」に対する反論から逃げて、
「卑弥呼の冢」や「正北抵新羅」や「東征毛人五十五国」からも、
こそこそ逃げてまわるのが、
大和説でしょ。 >>218
三角縁神獣鏡に関しても、
大和説学者がつく嘘は、全部証拠挙げて論破可能だというのに、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説ガキらは、
学習しないなあ。 >>222
>三角縁神獣鏡は出土数が豊富でしかも中国本土の鏡との技術や様式の比較で年代がかなりの精度で特定できるから大事だぞ <
△は、魏も呉も楽浪も合わせても、出土は0〜1枚で、
列島からの出土は500枚以上だから、
中国鏡ではなく、列島に渡来の呉系楽浪鏡師らの鏡であり、
大和の△は4世紀以後なの。 >>228
自分でもこんぐらかってるな。
ま、がんばりたまえ。 >>223
古代史スレで、
文献考古の史料事実からの帰納的確率的推論を論じるのではなく、
「戦前の八紘一宇の万世一系の皇国史観」の人種差別的殺戮戦争宗教、
という結論先にありきでの、史料事実への否定曲解の嘘吐き騙しをし、
ヘイトスピーチの罵倒をし、荒らし出鱈目を並べ立てる、
大和説にとって、学問とはそんなもの。 中国での鏡の発掘や研究が進んで三角縁神獣鏡は徐州の製鏡集団の影響が濃いのが分かってきてる
かつて呉の地域で神獣鏡が発見されてたので三角縁神獣鏡は呉系なんて言われてたけど今や神獣鏡は中国のあちこちで見つかってて四川から各地に伝播したと見られてるよ >>224
大和説者は、そういう事にしたくて必死だなあ。
△が魏鏡でない証拠や、倭への下賜鏡でない証拠は、
他にも山ほどあるし、 >>227
>こういうおかしなレスに何でやねんとツッコミ入れるだけでいいから最近策だな<
この男が、
自分からの証拠は一切言えず、
何でも「証拠は?」だけを連発し続けて、
すぐさま「相手からの返事がないから議論に勝った」と投稿して、
世間の人々を騙そうとする「戦前の八紘一宇の万世一系皇国史観」宗教の戦争狂のの戦争、
「南→東」などの嘘吐き騙しの戦争・・・・大和説男だな。 >>230
磐石という割には、
「戦前の八紘一宇の万世一系皇国史観」の殺戮戦争狂の・・・・大和説は、
いつもボコボコにされてるんだが・・・。 >>233
「南→東」などの史料事実の否定曲解の大和説は、
説ではなく歴史改竄教徒のお経。 >>234
「戦前の八紘一宇の万世一系皇国史観」の戦争宗教という、
そういう結論先にありきの、オリジナリティの無さが、
・・・・なんだろうなあ。大和説の死因じゃね?。 お話しぶった切りますが?ミトコンドリアハプロが母系オンリーは間違いでしたな
まーどーでもええか >>245
>>大和説のレスは、全て「南→東」などの嘘吐き騙しである、
などと、 すべて論破してある。<
>嘘吐き騙しである、 などと理由も言わずにただ決めつけると 論破したことになるとか
本気で思ってんの?<
九州説者が、
この長かったスレで、「南≠東」などの根拠を一度も言っていなかった、なんて、
本気で思っているの?。
目か頭の病気じゃないの?。 >>257
長かったこのスレでの議論で、「九州説者が証拠を言わなかった」、
と大和説者が言いはるだけじゃ、
論破にならんぞ。 >>264
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、
自分でも何を言っているのか?が分からなくなって、
こんぐらかっているいようだな。
ま、大和説をあきらめて、九州説者になって、がんばりたまえ。 >>265
>証拠の提示がない 論破完了<
証拠は、日本史掲示板でのこれまでの議論内容全体。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説に対する、
論破完了。 >>268
>中国での鏡の発掘や研究が進んで三角縁神獣鏡は徐州の製鏡集団の影響が濃いのが分かってきてる
かつて呉の地域で神獣鏡が発見されてたので三角縁神獣鏡は呉系なんて言われてたけど
今や神獣鏡は中国のあちこちで見つかってて四川から各地に伝播したと見られてるよ<
いや、肝心の魏の都の洛陽付近から0〜1枚しか出土しなければ、
明帝から卑弥呼への銅鏡百枚の説明根拠にならず、
列島から出土した500枚以上の△の根拠にもならず、
徐州の呉系の楽浪鏡師らの渡来で、列島で大量に制作された、
という事にしかならない。 畿内説は南⇒東のカラクリを明確にすべきだな
誤認、誤情報なんて説得力が無い >>276
実は畿内説は言い張るだけで九州説を論破可能
なぜなら今まで証拠が積み上がってるから
九州説はまず確実な根拠証拠を見つける所から始めなくてはならない >>280
な・・・。
反論や論破などの内容がねえ。
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師の大和説者らしいか?。 >>281
後漢の時代から倭国とその都は帯方から南1万2千里にある事になっていた
魏の時代もその伝承を踏襲した
しかし都は奴国から邪馬台国へと変わっていたから齟齬が生じる事になった >>284 名前:日本@名無史さん 2018/12/01(土) 08:03:04.88
>>
しかし都は、奴国から邪馬台国へと変わっていた(と、大和説者は思い込んでいた)から齟齬が生じる事になった アリャ、失敗した、訂正。
>>284 名前:日本@名無史さん 2018/12/01(土) 08:03:04.88
>>
しかし都は、奴国から(畿内大和の)邪馬台国へと変わっていた(と、大和説者は思い込んでいた)から齟齬が生じる事になった >>286
魏志倭人伝には倭国の都は奴国ではなく
邪馬台国と出てくるのでね 「南→東」でないと畿内説は成立しない
畿内説に取ってはもっとも重要な部分なんだが
全く証明がなされていないので畿内説はそもその妄想の類なんだ。 「南→東」でないと畿内説は成立しない
畿内説に取ってはもっとも重要な部分なんだが
全く証明がなされていないので畿内説はそもそも妄想の類なんだ。 「南→東」でないと畿内説は成立しない
畿内説に取ってはもっとも重要な部分なんだが
全く証明がなされていないので畿内説はそもそもが妄想の類なんだ。 >>260
突きつけられてないなあ
どこにそんな証拠があるのかな 畿内説を論じるにはまず「南→東」の誤りを証明する必要がある
でないと先には進めないな。 >>262
三角縁神獣鏡が魏鏡でない証拠
4世紀以降のものの証拠を挙げてもらおうか >>289
南→南でもそもそも九州北部説も成立しない
魏志倭人伝に邪馬台国が東なのに南と書かれているわけは
当時の魏の役人学者が邪馬台国は倭国の極南界にあるとしたかったから 齟齬を感じる、道を間違ったかな・・、
とおもったとき、途中での方向修正は齟齬を拡大するだけ。
きれいさっぱり頭を掃除して、上陸原点の末盧国まで引き返すべきだったな。 >>297
言っちゃあれだが
億が一本当だとしても文献史学的にも考古学的にも無意味な発見とも言える 3世紀の鏡である事は紀年鏡がある以上疑う必要無いからな >>299
>億が一本当だとしても文献史学的にも考古学的にも無意味な発見とも言える
億が一本当って何だ。
無意味なのは箸墓だ。
卑弥呼が誰なのか言えてない、
径百余歩ではない、
奴婢埋葬痕跡もない。
その程度で恥ずかしげもなく卑弥呼墓候補だと言えたもんだ。 >>303
崇神の少し前のトヨ。そしてヒミコ、いるではないか。
見ようとしないのは記紀に「いない」と決めつけてたおまえたちが馬鹿なだけ。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 >>302
畿内説はそっちが言うほど卑弥呼の墓特定に血まなこになってるわけじゃないから
畿内の前方後円墳のどれか
その内の箸墓かもねぐらいのもんさ
径百歩とも言えるし
特殊器台という人物埴輪の作られる前に殉死の儀式を行ってたかも知れない
痕跡も見つかるから >>305
>血まなこになってるわけじゃないから
おまえさぁ、400もスレ立てて何が「血まなこになってるわけじゃない」
なんて言い訳してるのだ。
>特殊器台という人物埴輪の作られる前に殉死の儀式
マジで言ってるのか?
あるかい、そんなものw 名前が似ているからといって、それだけで安心・慢心はできない
そもそも、末盧国からの方角が違う
これを、お門違いという >>307
行程論はずっとやってるので参加しない。
くだらない。
名前が似ているからだけではない。
神武に先立たれた姿は「歳すでに長大 夫婿無し」
政治を補佐する男弟は兄の鴨王ことクシヒガタ、
宮に出入りするただ一人の男子はタギシミミ。 >>308 名前:日本@名無史さん 2018/12/01(土) 09:21:17.58
>>行程論はずっとやってるので参加しない。
くだらない。
ついに、限界と本音がでたようです。 柳田さんがまた九州でスズリを見つけたようだね。
これで弥生時代後期から古墳時代までには、すでに文字文化があった事は確実になったね。
にもかかわらず九州にヒミコらしき人物がいないのは九州説にとって致命傷。 九州説とは、邪馬台国が九州にあったとは全く思ってない新井白石が、
「私は邪馬台国は九州だと思う」などとしらを切った事から始まる。
虚構でである。
高天原を常陸と言ってるのも同じ。
大和に決定させると中国の臣下であったことを認めることになるからな。 >>311
目の前にいても見えないんだろな。。。
神功皇后に匹敵する、或はそれを上回るかもしれない女神様 >>312
>大和に決定させると中国の臣下であったことを認めることになるからな。
卑弥呼の使いを以て、臣下になったというのは考え違い(というか、言い掛かり)
ただの年末年始のご挨拶で、多少の手土産を持参しただけ。お土産には倍返しの貴重な品々。
親魏倭王の金印紫綬も、「親魏倭王」だから、名誉国民の称号みたいなものさ。外交儀礼だな。 >>282
実は九州説は、史料事実を提示するだけでするだけで、大和説を論破可能。
なぜなら今まで、「南≠東」などのように、文献考古の証拠の提示が積み上がってるから。
大和説は、まず確実な文献考古の、根拠や証拠を見つける所から始めなくてはならない。 >>315
お爺ちゃん、もう朝だよ
いつまで夢みてるの? >>315
九州説が何出してきても
畿内説はそれ論破済みでテンプレにも書いてるよと言えば済む >>306
俺スレ主じゃないから
そういうのを全1病と言う
そして卑弥呼の墓はどこかはスレの主題じゃないし
特殊器台は畿内の最前期の特に大型な古墳から見つかるよ
箸墓もそう >>297
ほかの誰にも見えない塚w
裸のかつらぎ様 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 破綻した畿内説の宣伝係が、完全に論破されて負け組になったのだから、負け組の掲示板で討論を続行すれば良いのではないのかな、、、
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/l50 テンプレートを作製したキナイコシではなく、1尺2寸男ではないのかな。。。
318日本@名無史さん2018/12/01(土) 10:06:12.41
>>306
俺スレ主じゃないから
そういうのを全1病と言う
そして卑弥呼の墓はどこかはスレの主題じゃないし
特殊器台は畿内の最前期の特に大型な古墳から見つかるよ
箸墓もそう 魏志倭人伝時代の1尺2寸は、何センチメートルだったのだろうか、、、 畿内説の本音は邪馬台国論争なんてしたくない、魏志倭人伝とか無視しろ!
中国の書物何て糞喰らえ、記紀が日本の歴史なんじゃ!
何が何でも畿内が大古より日本の中心だったんじゃ! 僕達の中学生の孫が、分度器と定規を使用すれば、北緯35度の8尺の棒の高さを測定できるといって、測定していたな。。。 >>325
1尺2寸男の脳は、中学生にも負けてしまうのではないのかな、、、 裸のかつらぎ様というのは、立小便男ではなかったのかな。。。
319日本@名無史さん2018/12/01(土) 10:06:40.60
>>297
ほかの誰にも見えない塚w
裸のかつらぎ様 >>284
>後漢の時代から倭国とその都は帯方から南1万2千里にある事になっていた
魏の時代もその伝承を踏襲した<
いや、魏の時には、魏使らの使節が来て実見計測記録しており、
客観性や信頼性が非常に高い。
>しかし都は奴国から邪馬台国へと変わっていたから齟齬が生じる事になった<
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言。 >>327
1尺2寸男の脳と、立小便男の脳は、どちらがレベルが高いのか、興味が出てきたのではないのかな。。。 >>329
1尺2寸男と、立小便男が、古墳を作製するために高句麗の馬が通行した左側スロープの勾配が、何度だったのかを話題にして討論すれば、はっきりするのではないのかな、、、 >>292
>突きつけられてないなあ どこにそんな証拠があるのかな<
洛陽付近から0〜1個しか出ない△が、
列島から500枚以上出土しいている、
という考古史料事実を、突き付けた。 洛陽付近から0〜1個しか出ない△とは、どのような物体だろうか。。。 >>324
記紀に書いてある通り東遷したから九州説になぜならないのか >>325
僕達の中学生の孫が、分度器と定規を使用すれば、測定できると言って測定したのは、棒の高さではなく、影の長さのことだったのではないのかな。。。 >>324
そういう妄想しか出来ないから
九州説が亡んだ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>324
九州説の本音こそ邪馬台国論争なんてしたくないじゃないの
中国に朝貢していた勢力は九州にあった!
ゆえにのちの神聖不可侵な天皇大和政権とは関係なし!
記紀も魏志倭人伝も無視だ無視! >>337
トンデモ同士、仲良くしなさい。 @阿波 文献
中国の歴史書では邪馬台国と大和は同じ国に認識してる。
『日本書紀』では神宮皇后記に魏志倭人伝が引用されており、『日本書紀』でも邪馬台国は奈良である。
物的証拠
古墳時代の「大王の古墳」は奈良に集中している。 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね。。。 >>341
>お前に言われたかないわ
よくわかるよ、その気持ち。 @阿波 阿波説の人はまず自説をまとめて書いたほうがいいよ。
タウポ説の人みたいにね。 >>331
三角縁神獣鏡は洛陽と日本でしか見つかってない事実と
魏と倭の交流は記録には少なくとも4回
さらに三角縁神獣鏡は国内でもコピーをたくさん作られた
という事実が九州説に突き付けられてしまうのだが >>345
>阿波説の人はまず自説をまとめて書いたほうがいいよ。
いっぱい有りすぎて、まとめて書けないんだよ。 @阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。 阿波説とかまだいるんだな
房総半島の阿波も実際の忌部氏の伝承も痕跡もなく古語拾遺に乗っかって後から作られた物語だしな
そもそも「各地に整合性がある」とか言うのが伝承としてかなり異質
普通の豪族の物語は長い歴史と変遷で混同や混乱が進むものだからな
整合性とか出ちゃう時点で「歴史がない」「少人数の人間の創作」ってのが逆に浮き立つだけ
珍説系でよくあるバカ話だな 珍説系でよくあるバカ話というのは、天皇の娘の墓が、卑弥呼の墓という話ではないのかな。。。 箸墓古墳に埋まっている天皇の娘は、大物主の妻だったな。。。 >>350
天皇の娘の家に、大物主が通っていたのではないのかな。。。 >>351
卑弥呼の城は、軍隊が守備していたので、誰も通えないので、箸墓古墳に埋まっている天皇の娘は、卑弥呼ではないね。。。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 畿内説はマキムクはこんなに発展して支配地も大きかったンや!
って言うのが心の拠り所みたいだが、
マキムクの影響を大きくすればする程、
日本列島に邪馬台国vs狗奴国のパワーバランスを
再現できなくなるパラドックスを全く理解していない。
オツムの程度が知れている。 破綻した畿内説の宣伝係が、完全に論破されて負け組になったのだから、負け組の掲示板で討論を続行すれば良いのではないのかな、、、
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/l50 >>318
>そして卑弥呼の墓はどこかはスレの主題じゃないし
「箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり」と書いてるじゃないか。
>特殊器台は畿内の最前期の特に大型な古墳から見つかるよ
>箸墓もそう
だから何なんだ、殉葬と何の関係もない。 >>107
倭大国魂は、崇神6年に疾病が流行して宮中から出されてる。
倭大国魂は、荒魂(疾病や災害を起こす神)なので祀るところが少なかったんだろうね。
崇神天皇までは倭大国魂(阿波)は大事にされていて
卑弥呼からは倭大国魂(阿波)は廃れたことが『日本書紀』と倭大国魂の神社が阿波にしかないことからわかるな >>348
>房総半島の阿波も
にわかさん、房総半島の「安房」だよ。 @阿波
>実際の忌部氏の伝承も痕跡もなく古語拾遺に乗っかって後から作られた物語だしな
下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は、千葉県南房総市にある神社である。
同名社が旧白浜町と旧千倉町に2社ある。いずれも*天日鷲命を主祭神とし、式内社「安房国朝夷郡 下立松原神社」の後裔社を称している。
長らく論争となっていたが、結局どちらにも決め手がなく、そのままとなっている。
どちらの社伝でも、天富命とともに安房に渡り当地を開拓した天日鷲命の孫の由布津主命が、神武天皇元年に天日鷲命を祀ったのに始まると伝えている。 >>349
それを珍説とすると皇族を否定するぞ。
朝廷で一番偉いのは箸墓に眠る人の子孫(三輪氏)だからね
日本では1000年以上、箸墓に眠る人の子孫が一番格上 >>357
>卑弥呼からは倭大国魂(阿波)は廃れたことが『日本書紀』と倭大国魂の神社が阿波にしかないことからわかるな
8世紀に倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことがわかるな。 @@阿波 >>360
>8世紀に倭国(阿波)から奈良大和へ遷都したことがわかるな。
まったくわからないw >>359
>日本では1000年以上、箸墓に眠る人の子孫が一番格上
「阿波で千年、京で千年」 @阿波 もし仮に大和が3世紀に北部九州の支配を確立していたのなら、
山門の支配者、磐井の君が代々糟屋に屯倉を持っていた事を説明できなくなる。 >>292
>三角縁神獣鏡が魏鏡でない証拠<
魏の洛陽付近から出土の△は0〜1枚であり、魏で盛行しておらず、
明帝の銅鏡百枚の選択にもされず、
そんな△では、列島の500枚以上の△の根拠になる筈がない。
>4世紀以降のものの証拠を挙げてもらおうか <
大和の△は、3世紀末以後になるホケノに△がないから、4世紀以後。 >>356
>「箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり」と書いてるじゃないか
書いてたから何なのか
特殊器台と殉葬は大いに関係あるが
殉葬の代わりに人物埴輪を埋める事にしたと日本書紀にある
古墳に人物埴輪が現れると特殊器台は姿を消す
あとはわかるな >>364
>大和の△は、3世紀末以後になるホケノに△がないから、4世紀以後。
ホケノ山が3世紀末以後だという根拠が
まったく無し 三角縁は国産鏡だろ
箸墓は世代で言うなら崇神天皇とか4世紀の大王
こんなもん別に強弁する必要ない 破綻した畿内説の宣伝係が、また、頭の悪さを公表したな、、、
359日本@名無史さん2018/12/01(土) 11:24:36.60
>>349
それを珍説とすると皇族を否定するぞ。
朝廷で一番偉いのは箸墓に眠る人の子孫(三輪氏)だからね
日本では1000年以上、箸墓に眠る人の子孫が一番格上 >>369
>日本では1000年以上、箸墓に眠る人の子孫が一番格上
「阿波で千年、京で千年」 @阿波 >>369
1尺2寸男も、頭の悪さを公表しているな。。。
366日本@名無史さん2018/12/01(土) 11:37:12.27
>>356
>「箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり」と書いてるじゃないか
書いてたから何なのか
特殊器台と殉葬は大いに関係あるが
殉葬の代わりに人物埴輪を埋める事にしたと日本書紀にある
古墳に人物埴輪が現れると特殊器台は姿を消す
あとはわかるな >>371
頭が悪い癖に、空想は尽きないのではないのかな。。。 >>295
>南→南でもそもそも九州北部説も成立しない <
郡からの「折れ線的道のり距離」合計が不彌國で不彌國でほぼ萬二千余里に達しており、
投馬國は「移動して至った」という記載がないから魏使らは行っておらず、
邪馬壹國も不彌國の直ぐ南に入り口がある、という記載になっているから、
邪馬壹國女王之所都は北部九州の筑紫にある事になる。
魏志倭人伝に邪馬台国が東なのに南と書かれているわけは
>当時の魏の役人学者が邪馬台国は倭国の極南界にあるとしたかったから<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
実見計測記録を書いた魏使らは、
部下や後続の魏の役人たちにウソを書いていた事がバレれば、
首が危ない事になるから、
嘘は書けないもの。 >>371
1尺2寸男は、80km移動するだけで、影の長さが3寸少ないと間違うほど脳が悪いので、仕方ないのではないのかな。。。 >>364
三角縁神獣鏡は魏で流行していた鏡とはどの古代文献にも出てこない
むしろ全唐文の記述より特注品であった可能性が大きい
そして魏が倭に下賜した鏡が特注品であるとするなら
他に同じものがない魏鏡の三角縁神獣鏡こそがそれに当たると思われる
国内でもコピーは盛んに作られたので洛陽で1枚しか発見がないから
500枚の説明にはならないという主張は倫理は短している
以上の事から三角縁神獣鏡は魏が倭に下賜した特注品の鏡という事に
何の合理的疑いも挟まる余地は存在しない >>374
1尺2寸男と名付けるよりも、3寸男の方が似合っているのではないのかな。。。 >>332
△というのは、三角縁神獣鏡のことだった可能性があるのではないのかな。。。 神武天皇から9代までは近畿だけの地方政権
10代崇神天皇の四道将軍派遣や、
12代景行天皇派遣のヤマトタケルの遠征でやっと日本の大部分を統一した >>375
倭国(阿波)で仿製した鏡という事に
何の合理的疑いも挟まる余地は存在しない @阿波 >>368
九州説が三角縁神獣鏡は国産品と主張する割には
景初、正始という魏の年号が入っていて
洛陽付近の畑で発見もあり
銅出徐州 師出洛陽と漢字の銘文も入っていて
当時の魏・晋鏡と同じ銅成分と分析結果が出ている
これを国産と言い張るから誰も九州説の言う事は真に受けない ワザワザ特注と言う割に規格がバランバランだな
使い方も棺の外に大量に並べて雑な使い方してる
地方のそれしか鏡が出ない古墳ならともかくどの古墳でも三角縁の扱いは悪い
とても格の高い鏡とは思えない 魏が倭に下賜した鏡が特注品であるとするならという、空想を基にして、空想を拡大させているので、空想科学小説になったのではないのかな。。。
375日本@名無史さん2018/12/01(土) 11:47:30.11
>>364
三角縁神獣鏡は魏で流行していた鏡とはどの古代文献にも出てこない
むしろ全唐文の記述より特注品であった可能性が大きい
そして魏が倭に下賜した鏡が特注品であるとするなら
他に同じものがない魏鏡の三角縁神獣鏡こそがそれに当たると思われる
国内でもコピーは盛んに作られたので洛陽で1枚しか発見がないから
500枚の説明にはならないという主張は倫理は短している
以上の事から三角縁神獣鏡は魏が倭に下賜した特注品の鏡という事に
何の合理的疑いも挟まる余地は存在しない 銅の産地はそのまま生産地や生産時期とはなり得ないからな
洛陽の発見とやらもまともな調査もされてないし
逆に三角縁を下賜鏡と積極的に評価する方が難しい 三角縁神獣鏡の銘文は文法がおかしい事がわかっている。
日本製の模造品である事は間違いなく、
しかもその勢力は、魏と外交できる程の語学能力を持っていなかった事が
三角縁神獣鏡の銘文で判明している。 指摘も受けてるように出現期古墳からは三角縁が出ない
最近の編年だと出現期古墳は3世紀半ば
ちょうど卑弥呼の死後くらいの築造だと言われてる
この辺の鏡は画文帯神獣鏡
三角縁が出てくるのは定型化後だからどう早く見積もっても3世紀末になる 破綻した畿内説の宣伝係が作製したテンプレートが、空想を基にした空想科学小説だったことも、はっきりしたので、討論は空想の掲示板で続行すれば良いのではないのかな、、、
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 新井白石の焼き直し、というかそのまんま畿内説、、、 >>386
中国朱が検出された萩原墳墓群・天河別神社古墳群のある地域を支配していた有力者は
当時、魏と交流していたことがうかがえる。
その、魏の水銀朱が使われた萩原古墳群から出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群から出土の斜縁二神二獣鏡
魏から下賜された鏡は、この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかの可能性が高い。 @阿波
>>387
SF・ファンタジー・ホラーの掲示板での討論が、活発になってきているのではないのかな。。。 >>391
邪馬台国畿内説は、SF・ファンタジー・ホラーとして、受け入れられてしまっているねw >>373
不彌国までで正確には1万700里
邪馬台国まで残り1300里ある事になり
魏里の一里400mで換算すれば畿内まで到達する事になる
1万2千里は解釈次第ではどうにもなるので
これを邪馬台国を指し示す根拠とするには論証的に不適当
そもそも1万2千里は漢時代の准南子に書かれた世界観の
概念上の南の果てに一致しており
邪馬台国が魏志倭人伝で南に1万2千里とされているのは
偶然の一致ではありえない
倭奴国が後漢に朝貢した時代から倭とその首都は
帯方より1万2千里にあるものであり
三国時代我こそ漢の後継国と争っていた時代において
後漢時代朝貢していた南の最果ての倭国と同じように国交を結ぶのは
魏にとって大いに政治的意義のあるものだった
ゆえに倭とその首都は後漢の時代の伝承どおり
魏で使われていた里にでも漢で使われていた里にでも照らし合わせれば明らかに過大な
1万2千里になければならないものであり
皇帝にそう報告しなくてはならないものだった
実は三千里くらいでしたと報告したら
それこそ首が飛ぶのである 魏志倭人伝は解釈次第ではどうにもなるのでこれを邪馬台国を指し示す根拠とするには論証的に不適当、、、と空想したので、邪馬台国畿内説が空想科学小説として、楽しんで貰えているのではないのかな。。。 三角縁は棺の外に置かれるもので格の違いはない
と書いてるが地方の古墳などでは三角縁を主体部近くに配置し、小型鏡等のそれよりも劣る品を周囲に置くなどの扱いをしている
三角縁の扱いは一定ではない事
被葬者にとって貴重な鏡は主体部のすぐ近くに置く
という傾向が見えている
なので三角縁と言う鏡が中央で余り格の高くない鏡として扱われてるのが分かる
特に中央の古墳においてこの傾向が出るので下賜品として尊重してる様子は見えない >>383
銅の産地はそのまま生産地や生産時期とはなり得ないかも知れないが
逆に考えればなり得るという事でもある
成分分析でエジプト産とでも出たらさすがに中国製品とするのは苦しいけれど
>>384
全唐文に魏が倭国に下した鏡について
「魏酬倭国止于銅鏡鉗文」
今までの文の使用をやめとある
決まりきった形式的文句をハンコみたいに刻むのではなく
親しみのあるメッセージを新たに記銘したのである 古墳の鏡副葬は
・主体部近くに貴重な鏡を置く
・周辺部にはそれよりも劣る鏡を置く
と言うのが全国的にみられる傾向であるのが分かる
なので、三角縁も例外ではなく中央では大した扱いの鏡ではないと分かる
これは逆に言うと中央で大した扱いをしてない三角縁を貴重品扱いしている地方とは力関係がハッキリと出ていると言う一つの証拠となり得る
古墳と言うのが大和の中央を頂点とする明確な秩序の元に作られていることが分かる 三角縁神獣鏡は多数入ってきたので
それまでの古く数少なくなった漢鏡に逆に希少価値が出たのだろう >>400
そうだね、、、
学部の世界では完全に駄目だが、SFとしても寿命は短い可能性があるな。。。 やれやれこうも完膚なきまでに九州説が論破されたら
ザラコクが何も主張する事がなくなって
ついに南≠東だから×としか言わない南≠東おじさんになってしまう >>402
優れた人気の高いSFの空想科学小説には、製作者の空想を読者に納得させられる説明文が必要なのだが、邪馬台国畿内説には納得させられる説明文がないな。。。 卑弥呼存命中に大量に入手して価値が無くなる程の扱いになったと言うなら、
卑弥呼前後の出現期古墳から大量に出土されると言うのが自然
一括して大量に貰って貰った時点で既に価値がない程になっていることになる
三角縁出土の時期は東晋の頃になっていて矛盾がある 邪馬台国畿内説は、ホラー小説として、発展する可能性はあるのではないのかな。。。 >>409
邪馬台国畿内説にしがみついたまま、狂っていく老人の小説なのでは、ないのかな。。 キナイコシが、無慈悲な夜の女王として、出現した可能性が高いな。。。
81名無しは無慈悲な夜の女王2018/12/01(土) 12:39:57.06ID:rOZx3oA0
古墳の鏡副葬は
・主体部近くに貴重な鏡を置く
・周辺部にはそれよりも劣る鏡を置く
と言うのが全国的にみられる傾向であるのが分かる
なので、三角縁も例外ではなく中央では大した扱いの鏡ではないと分かる
これは逆に言うと中央で大した扱いをしてない三角縁を貴重品扱いしている地方とは力関係がハッキリと出ていると言う一つの証拠となり得る
古墳と言うのが大和の中央を頂点とする明確な秩序の元に作られていることが分かる。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. そもそも紀年三角縁にしても皇帝の下賜品として記載されたと言うのであればもっと大量に出てもおかしくない
何故か紀年三角縁の数が少ないことからも皇帝の一定した意図が背景にあるとは考えにくい
規格の不統一性と併せてそこに特注品として一度に配られるような状態を読み取れない
むしろ長い時間を掛けて生産し配布を続けたと言う形の方が自然
大和の邪馬台国が自主的に作成してある程度の機関作り続けた鏡と見るのが筋が通る 新井白石をパクったそのまんま畿内説、絶版でしょうw >>413
阿波の邪馬台国が自主的に作成してある程度の機関作り続けた鏡と見るのが筋が通る @阿波 >>413
不統一なんてどうでも解釈できる
分業で一度に大量に作ったとか複数回にわけて下賜があったとかな
国内で作り続けられたのもそうだが
国内コピーも多い
三角縁神獣鏡が魏鏡であり
倭への下賜鏡という事の何の反証でもない 三角縁は中国で存在しなかった鏡で「下賜品としてこの時初めて創出された」と言う事になる
しかも遣使の際の下賜品として100枚用意されたことになる
これが文様も規格も全てバラバラに生産されると言うのは考えにくい
背景に指示を送った人間の意図も、組織だった活動も見いだせない
規格の非統一性は下賜品ではないと言う傍証となる そして繰り返しになるが当の日本で三角縁の扱いはあまりいい物ではない
主体部近くに貴重な鏡を置き、それ以下の鏡は周辺に置くと言うスタイルが全国共通している事から、
下賜されたはずの日本で格下の鏡として扱われていることは明確
逆に外交の年号をことさらアピールする様にしている事から、外交そのものはとても重要な出来事であると認識している事から矛盾がある
なので、三角縁自体は記念品的な形で国内で作成したと考えるのが自然 下賜鏡は方角規矩鏡や内行花文鏡、もしくは画文帯神獣鏡だろう >>417
べつに考えにくくないわ
鉗文の使用を止めだから
何をどう下賜しようが魏の自由
>>418
下賜された頃は古い漢鏡の方が数が少なく貴重品になっていた
魏年号の記銘、銅出徐州 師出洛陽の銘文、
素材銅が魏晋鏡と一緒なのは魏鏡であると考えるのが自然を通り越して
それ以外考える余地すらない >>419
>>386
中国朱が検出された萩原墳墓群・天河別神社古墳群のある地域を支配していた有力者は
当時、魏と交流していたことがうかがえる。
その、魏の水銀朱が使われた萩原古墳群から出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群から出土の斜縁二神二獣鏡
魏から下賜された鏡は、この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかの可能性が高い。 @阿波
遣使に対する一括特注の下賜品(それまでに存在してないのでこの時にデザインから何からすべて創作)ではなく、
ある程度の期間生産と配布を続けて様々なバリエーションが現れた国産鏡とみた方が自然 >>419
卑弥呼が魏に使いを出したと記録にある
景初三年号が入っているから
三角縁神獣鏡は下賜鏡で間違いなし >>422
魏で使われていた年号の記銘
銅出徐州 師出洛陽の銘文
素材銅が魏晋鏡と一緒という事は
三角縁神獣鏡は魏鏡であるという事意外にない >>300
>3世紀の鏡である事は紀年鏡がある以上疑う必要無いからな<
△が魏から0〜1枚の出土である限り明帝鏡ではない、という事は疑う必要がないし、
紀年鏡よりも古い△が糸島の志登から出土していた限り、
△の制作者は、呉系楽浪の△鏡師らが一旦筑紫に来て、それから西日本の販路を増やしたが、
大和の△は4世紀まで見つからないんだから、呉系楽浪鏡師らが大和に来たのは4世紀だった、
という事は、疑う必要がないからな。
、 >>359
>朝廷で一番偉いのは箸墓に眠る人の子孫(三輪氏)だからね
なんで三輪氏なんだよ、全然違う。
むしろ大物主を滅ぼして陶邑から引き入れたオオタタネコの末裔が三輪氏。
その陶邑に前方後円墳などない。むしろ狭山丘陵から見つかった銅鐸が象徴的だ。
>日本では1000年以上、箸墓に眠る人の子孫が一番格上
箸墓に眠る人はイカガノシコオ。
崇神の叔父になり磯城の王。
その物部は6世紀末に蘇我に滅ぼされる。
蘇我が外威になって前方後円墳が消えるのが面白い。 >>301
>九州説の大敵 考古学的証拠<
大和説者の大敵、文献考古の史料事実や史料実態、という証拠。 原料は生産地や生産時期を決める要因とはならない
原料が魏晋時代と言うのであればそれが古さの下限と言うだけでその時期の生産とならない
出土時期を考えれば、古い時代に全く出ず4世紀以降の古墳からしか出ない事からむしろ4世紀生産鏡と見る方が整合性がある
銘文や文様についてはこの時初めて作った下賜用の特別品であるのに、
あまりにもバラバラの内容なので、その背後に特定の時期に限定される一括ヒント見ることが出来ない
4世紀ごろに国内である程度の期間作成して配布した鏡と見るべきもの >>431
4世紀ごろに倭国(阿波)である程度の期間作成して配布した鏡と見るべきもの このように
なーんも理由なしで
結論ばかり連呼するのが
トンデモ九州は >>304
>崇神の少し前のトヨ。そしてヒミコ、いるではないか。<
「南≠東」に拠って、×。 >>107
>日本唯一社「倭大国魂神社」が旧美馬郡美馬町に存在している。
色々考えてみたが、倭大国魂は災害を引き起こす荒魂なので
首都から離れた阿波に隔離されたと考えると一番スジが通るな >>431
>出土時期を考えれば、古い時代に全く出ず4世紀以降の古墳からしか出ない事から
そんなこと言ってるのは
考古学を全く知らない
九州説の素人だけ ・下賜されたはずの日本での扱いが悪い
(仮に少数の本物の下賜鏡があったとしても中央の主要古墳で三角縁を主体に扱う古墳がないのでそもそも存在しない)
・かなり限定された時期にこの時初めて一括で作られた下賜鏡なのに余りにもバラバラな作り
・出土するのが4世紀以降の古墳からで卑弥呼時代の出現期古墳からは全く出ない
国産鏡とみるのが自然
下賜鏡は別のものだろう 俺は九州説じゃないけどな
邪馬台国は大和
箸墓卑弥呼説とか
三角縁魏鏡説を否定してるだけ >>431
いくらないない言ったところで
三角縁神獣鏡は魏晋鏡と同じ銅素材と言う事は
魏晋時代に作られた鏡である事をあらわし得るものであり
国産鏡説を否定するもの
さらに魏年号があり銅出徐州 師出洛陽と記銘
これは魏鏡である事を強く裏付ける
これを受け入れられないという事は九州説は論でも学問でもなく
都合の悪い事実を見なかった聞こえなかったフリをしているだけの子供のわがままである ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>305
>畿内説はそっちが言うほど卑弥呼の墓特定に血まなこになってるわけじゃないから
畿内の前方後円墳のどれか その内の箸墓かもねぐらいのもんさ <
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
「南≠東」に拠っても、始めから×。
>径百歩とも言えるし<
短歩だから始めから合わないし、
前方後円墳だから、長径では長里でも全く合わないから、×。
>特殊器台という人物埴輪の作られる前に殉死の儀式を行ってたかも知れない
痕跡も見つかるから<
百余人の殉死した奴婢を殉葬せしめたものを、魏使らが目撃したことになるから、
箸墓は×。 くどいようだが原材料は生産時期にも生産地の特定にもならない
逆に出土は卑弥呼の頃に無く、4世紀以降の古墳にしかない
この事から東晋時代前後に輸入銅で作られた鏡だろうと言う方が自然
しかも扱いが悪く丁重な扱いを受けてない
かなり限定された時期に下賜品として作られたはずのこの時初めての創作鏡なのにデザインから何から何までバラバラ
とても下賜鏡とは言えないな >>444
なぜ原材料が製造地の特定にならないのか
九州説の言う事は不思議で仕方ない >>308
>行程論はずっとやってるので参加しない。 くだらない。<
大和説者は、都合の悪いものに対しては、逃避隠蔽して逃げる詐欺師であるから、×。 >>107
>日本書紀では「陶邑(スエムラ)から大田田根子を得た」
須恵器の生産が始まったのは4世紀末なので、
大田田根子が陶邑(須恵器を作る村のこと)出身の可能性はゼロ
古墳からも須恵器は出てこない。
つまり卑弥呼や大田田根子と陶邑の関係性はゼロ >>444
>逆に出土は卑弥呼の頃に無く、4世紀以降の古墳にしかない
という証拠は? >>297
念のために国土地理院地図で見てみたけど、
https://maps.gsi.go.jp/#18/34.417823/135.698867/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f1
完全な自然地形だね。 破綻した畿内説の宣伝係が、完全に論破されて負け組になったのだから、負け組の掲示板で討論を続行すれば良いのではないのかな、、、
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/l50 >>447
>古墳からも須恵器は出てこない。
どの古墳? 全ての古墳かい?
>つまり卑弥呼や大田田根子と陶邑の関係性はゼロ
卑弥呼と大田田根子を同期と考えてるのかね? @阿波 破綻した畿内説の宣伝係が作製したテンプレートが、空想を基にした空想科学小説だったことも、はっきりしたので、討論は空想の掲示板で続行すれば良いのではないのかな、、、
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/ 古い素材を再利用すれば新しい時代に作ろうが古い時代の材料と出る
また鉱山なりの発掘場所がそのまま生産地ではないのは言うまでもないこと
平原の鏡等も制作は新しくても材料は古い鏡を鋳つぶして作った物
この事から材料は時期や生産地の判断材料にならない
魏晋の素材と出るなら「それ以降の物」と言う判断しかできない
なので出土時期をもって合わせて判断する
三角縁は卑弥呼時代の弥生終末期や出現期古墳からは全く見つからない
そしてそれから時代の下った4世紀の定型化後の古墳から出土する
むしろ魏晋時代の素材を使って4世紀に作成したと言う方が自然なのが分かる >>452
邪馬台国の時代の古墳からは須恵器は出てこない。
邪馬台国の時代には須恵器の制作は始まってない。 やっぱ阿波説の人バカだな。
遺伝子の話だからわからないのかと思ったが
古墳の話でも話が噛み合わない >>398
ソレこそが全唐文を読めてない証拠www
三国志倭人伝の「又特賜汝紺地句文錦三匹」の個所から、
金と甘いを合わせて作った造語で、
「鉗文」とは倭人伝に書かれている贈物全体を示していると考えられます。
そうすると、銅鏡と鉗文は並んでいますから、
「銅鏡贈物は止めた」と成る訳です。
つまり、忠実にして友好的な倭に対しては、
豪華な贈物は必要なく、後半の吐蕃に対しては
要求するものは与えて慰撫する事が好いと対比して述べているのが、
この文章の趣旨だと言っているわけです。
「銅鏡」と「鉗文」の間には、「之」も「的」も挿入はないので、「銅鏡の鉗文」とは読めない。
仮に、「鉗文」を聖徳大学の山口博の説のように「禍々しい模様や銘文」と解しても、
[銅鏡の禍々しい模様と銘文]とは続かないのである。
従って、山口博氏の解釈は、字句の解釈と文法、全体の文意の誤り、
と言う二点で成り立たない。 >>456
よくある典型的珍説くんだから
古語拾遺より昔に遡れない伝承をそのまま信じ込んで「日本の支配者だった!」とか思い込んでる恥ずかしい子だから 三国志の倭人伝によると、壹與は塞曹掾史張政が魏に帰還する時、
遣使二〇人と三〇国の代表三〇人で朝貢し、白珠、孔青大句珠、異文雑錦を献上したとありますが、
これに先立つ、卑弥呼の朝貢時の皇帝からの賜り品目の膨大さに対して、
壹與に対する賜り品の記録は一切ありません。
つまり、豪華な賜り品はなかったのです。その事を言っているのです。
コレな。 >>454
わからないねえ
三角縁神獣鏡は魏晋鏡と成分が一致した
そして国産鏡は雑多な銅を混交して作られたらしい
国産鏡としての成分分析結果が出る
成で見れば三角縁新住居は魏晋鏡であり
素材だけ輸入し国内で作ったと言うのは理由も動機も証拠も不明
そう設定する事は全く不自然極まりないと言わざるを得ない >>408
>三角縁出土の時期は東晋の頃になっていて矛盾がある
だから、その年代認識に何も根拠がないので
矛盾があるのではなく
>>408の考えがトンデモなだけ >>211
>三角縁で草
三角縁神獣鏡が大陸から出ていないというのが九州説の拠り所だが、
斜縁神獣鏡は出ている
「張氏車騎神獣画像鏡」などhttp://inoues.net/mystery/osaka_history88.jpg
そして、日本出土の三角縁神獣鏡の編年研究が進んでいるが、最初期のものは、
実は斜縁神獣鏡になっている
https://stat.ameba.jp/user_images/20150327/10/tskrtskr/cb/de/j/o0338045013257034783.jpg
九州説で、これに反論できたやつがいないんだよな >>461
同じこと
ある程度の期間生産の続いた三角縁は材料も一定の物ではないのは言うまでもないこと
魏鏡と同じ材料を使えば同じものが出る
魏鏡とかけ離れた材料を使えば違う物が出る
ただそれだけの違い
むしろかなり雑多な形で広い期間作られたものであると言う傍証となる数字だと言える
魏で作られた魏の時代の鏡であると言う証拠にはなり得ない >>465
>むしろかなり雑多な形で広い期間作られたものであると言う傍証となる数字だと言える
鏡を専門とする考古学的の言ってることと180度逆で
ワラタ 箸墓の築造年代はバラツキがあるが大体280年〜290年前後
他の定型化後の古墳はそれに続くものになる
三角縁が出てくるのはこれ以後の古墳
殆どの古墳が4世紀に入ってから物だと言うのは特にどの説だろうが了解を得る必要もないだろう >>284
>後漢の時代から倭国とその都は帯方から南1万2千里にある事になっていた
>魏の時代もその伝承を踏襲した
>しかし都は奴国から邪馬台国へと変わっていたから齟齬が生じる事になった
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない 魏晋時代の材料を使えば魏晋時代の数字が出る
魏晋時代以外の時代の材料ならその時代の数字が出る
それだけの事
むしろこれだけ幅が出ると言う事はそれなりの期間、複数の場所で生産されていることを意味する
逆に特定の場所で特定の期間だけ作られた鏡と言うのは無理があると言える >>465
>魏鏡と同じ材料を使えば同じものが出る
ということは、同時期に作られたってことだって
理解できないの? >>455
>邪馬台国の時代の古墳からは須恵器は出てこない。
それがなにか? @阿波 >>319
>ほかの誰にも見えない塚w
しかも本人が図を提示するたびに、位置も大きさもずれるんだぜw
実際には、本人にも塚なんて認識できていないことを自ら暴露してるwww >>447
>つまり卑弥呼や大田田根子と陶邑の関係性はゼロ
卑弥呼と大田田根子を同期と考えてるのかね? @阿波 >>469
>むしろこれだけ幅が出ると言う事はそれなりの期間、複数の場所で生産されていることを意味する
これだけの幅って、どれだけの幅? ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>467
>箸墓の築造年代はバラツキがあるが大体280年〜290年前後
情報ソースもなしに結論だけ言い張るのが
九州説の持病だね
いくら言われても治らないのかい? >>470
何度も繰り返しになるがその時期の材料をもっと後になってから使ってもその時期の材料と言う数字が出る
なので「魏晋以後」と言う以外に言うことは出来ない
だから出土場所が重要になる
そして出土場所を考えると定型化後にしか現れない
終末期の新式鏡の画文帯神獣鏡などは終末期遺跡から出るが三角縁は出ない
この事から考えると4世紀に魏晋の時代の材料を使って作ったと考えるのが自然 >>477
>この事から考えると4世紀に魏晋の時代の材料を使って作ったと考えるのが自然
倭国(阿波)でね! @阿波 >>474
スプリング8の分析図の分布をみるとかなりの違いが見えている
これだけ大きな違いが同じ鏡式から出る時点で材料も、生産方法も、時期も場所もバラバラに生産していることが分かる
むしろ成分分析の成果はそういう事が分かった事が大きい >>467
>殆どの古墳が4世紀に入ってから物だと言うのは特にどの説だろうが了解を得る必要もないだろう
九州説名物、根拠ヌキ断定
ww 九州説が三角縁神獣鏡を魏鏡と認めたくなくて詭弁抗弁してますな >>479
だから、口だけで「かなりの違い」と言い張ってるけど
なんで絶対に証拠を出さないの?
九州説の人って「しよあだしたら死ぬ」病なの? 俺は九州説じゃない
邪馬台国は大和で確定してる
箸墓が卑弥呼の墓説と三角縁魏鏡説を否定してるだけ
こんな無理な物を主張するまでもなく大和にあった事は十二分に証明できる
むしろこんなこと言ってと余計におかしくなる 箸墓の築造が280〜290年頃なら、台与の陵の可能性がある訳だ。
そうすると、卑弥呼の陵はホケノ山古墳の方の可能性が高くなる訳だ。 >>482
九州説の人って「しよあだしたら死ぬ」病なの?
打ちまちがい↓
九州説の人って「証拠だしたら死ぬ」病なの? >>482
証明も何もスプリング8の実験結果の話してるんだが
三角縁神獣鏡の原材料産地を探る− SPring-8を利用した青銅鏡の蛍光X線分析 −(プレスリリース)
http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/press_release/2004/040515/ >>483
じゃあ、なんで証拠出さないの?
そんなの、まるで九州説じゃね?
ww >>477
縄文時代の土で今土器を作っても縄文時代のものと出るが
だから縄文土器は縄文時代の物とは言えないの?
国産鏡のものではない魏晋鏡の銅をわざわざ輸入し国内で使って
4世紀に三角縁神獣鏡を新造したわけを言いなさいわけを >>484
>箸墓の築造が280〜290年頃なら
「なら」は結論だが、根拠は? >>488
だからこそ合わせて出土場所を考える
縄文土器のように胎土と出土場所や時期、形状が一致してるなら問題はない
三角縁を卑弥呼の鏡だと言うなら一致していない
4世紀の国産鏡と言う方が整合性が取れる >>486
だから「これだけの幅」って言う根拠は? >>447
>つまり卑弥呼や大田田根子と陶邑の関係性はゼロ
卑弥呼と大田田根子を同期と考えてるのかね? @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. スプリング8の結果からして鋳上がり良い中国製とされていた鏡がそのまま中国の成分を示している
そして鋳上がりの悪い国産とされていた鏡がそのまま中国とは違う成分を示している
この事から中国人の工人と倭人の工人の工房があったと言う事だろう
材料の輸入から生産まで多種多様な形態を持っていたことが推察される
三角縁と言う鏡の性質を知る一つの手がかりとなり得る
そして、この鏡が定型化後に普及する事から、
邪馬台国による日本全国への統治のシステムの拡大に伴い鏡の不足を補う為の新鏡式として創出されたと考えられる >>490
畿内の3世紀中期以降の古墳から出るし
景初三年と卑弥呼が魏に使いを出したと記録にある
年号が入った鏡も出るし
銅出除州 師出洛陽、徐州産の銅で洛陽の鏡師が作成と銘もあり
素材の銅は魏晋鏡と一緒
魏から卑弥呼が貰った鏡とする方が矛盾しない
これに合理的な疑いは生じない >>477
>何度も繰り返しになるがその時期の材料をもっと後になってから使ってもその時期の材料と言う数字が出る
不合理なことを何度連呼してもダメだろう
なんで「もっと後になってから」
わざわざ「その時期の材料」ばかり集めて作るんだ? >>467
>殆どの古墳が4世紀に入ってから物だと言うのは特にどの説だろうが了解を得る必要もないだろう
こうまでして証拠出したくないって
横車すごくね? >>493
箸墓を仮に古く見積もったとしても三角縁を出す古墳は布留1式以降の物で庄内に掛からない
布留1式の編年は290年以降の物なので、三角縁出土古墳を3世紀にもっていくのは困難
どう頑張っても29年代後半以降にしかならない >>498
魏晋の材料を使ってるならそれが古さの上限になる
それ以上古くはならない
そしてそれを使って作成したのであればどこの時代でも該当する
だから「魏晋以後」としか材料では言えない
なので出土場所と出土状態を調べることになる
そうなると4世紀以後にしか出てこない物なのでその頃に作られたと考えるのが妥当になる >>502
そうなると以降で急におかしくなるな
畿内の3世紀の古墳からも出ているよ
黒塚古墳や椿井大山古墳とか >>311
>原柳田さんがまた九州でスズリを見つけたようだね。
これで弥生時代後期から古墳時代までには、
すでに文字文化があった事は確実になったね。<
それでもまだ、柳田が大和説を張っている、とすれば、
そりゃ柳田も、大和説の嘘吐き騙しの詐欺師であるか?、
分裂幻覚の妄想患者になるか?だなあ。
>にもかかわらず九州にヒミコらしき人物がいないのは九州説にとって致命傷。<
南≠東に拠って、卑弥呼は始めから九州女性であったし、
大和説も始めから×であったし、
呉王夫差の遺民の姫氏系図の「刀良」がいる。 卑弥呼の墓はやっぱホケノ山のような気がするわ。
箸墓は台与の墓なんだね。 >>502
>そうなると4世紀以後にしか出てこない物なのでその頃に作られたと考えるのが妥当になる
おんなじ事ばかり連呼して
理由を聞かれても絶対に答えない
頭こわれてんの? >>312
>九州説とは、邪馬台国が九州にあったとは全く思ってない新井白石が、
「私は邪馬台国は九州だと思う」などとしらを切った事から始まる。 虚構でである。
高天原を常陸と言ってるのも同じ。
大和に決定させると中国の臣下であったことを認めることになるからな。<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、
そんな嘘吐き騙し男の投稿自体が何の信頼性もなく、×。 >>503
>黒塚古墳や椿井大山古墳とか
「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw
「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 >>313
>目の前にいても見えないんだろな。。。
神功皇后に匹敵する、或はそれを上回るかもしれない女神様<
皇后も存在していなかったから、嘘吐き騙し文言であり、
だから、この投稿自体が×。 >>503
椿井大塚山古墳は布留式土器が出ている
葺石もあり築造は新しい
石塚、椿井ともに主体部に画文帯や内行花文鏡を配置して三角縁は周辺部に配置している
これも上で書いたように「重要な鏡は主体部に置き、それ以下の鏡は周辺に置く」と言う方式が出ている
この事から豪華な副葬品を持つ中央の人物は三角縁を重視していないことが分かる
三角縁のこの扱いからしても下賜鏡と言う可能性は低い >>511
>椿井大塚山古墳は布留式土器が出ている
>葺石もあり築造は新しい
「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw
「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw @阿波 >>511
鏡は副葬するものだし
当時は数が多かった
遺跡の年代は定説に従った上で論を展開しないと
その時点でまともな説でなくトンデモ説になる >>317
>九州説が何出してきても
畿内説はそれ論破済みでテンプレにも書いてるよと言えば済む <
大和説がいくらテンプレを出してきても、
テンプレも「南→東」の根拠も言えずに遁走して逃げた、
という実態を指摘すれば済む。 >>318
>そして卑弥呼の墓はどこかはスレの主題じゃないし
特殊器台は畿内の最前期の特に大型な古墳から見つかるよ 箸墓もそう <
そう。
スレ主は、「南≠東」問題から逃げて、
箸墓をこっそり「卑弥呼の墓だ」としたインチキ詐欺師なんだよ。 >>510
んじゃ、卑弥呼もいなかったというか
ま、そりゃそうだろな、卑弥呼は大和にゃいなかった。九州に都したのだからなww >>514
テンプレには「南→東」の根拠が書いてあって
ザラコクは論破されて逃亡中でしょ >>513
上でも書いたように
・三角縁の扱いは各古墳で一定ではない
(三角縁は周りに置く鏡で格下ではないと言う理屈は成り立たない)
・地方では三角縁を主体部に置き、他の小さい鏡や破鏡を周辺部に置くと言う形式が見える
(副葬品で最も貴重な物が主体部に置かれ、それ以下の鏡は周囲に置くと言う全国共通のシステム)
なので三角縁神獣鏡は肝心の中央で大して格が高い物として扱われていないのは明白
中国皇帝の下賜鏡であると言う判断は難しい
そしてこれらの三角縁は所謂「船載」とされる物が多く含まれている
それでもこの扱いなので三角縁と言う鏡の実情が推し量れると言える >>324
>畿内説の本音は邪馬台国論争なんてしたくない、魏志倭人伝とか無視しろ!
中国の書物何て糞喰らえ、記紀が日本の歴史なんじゃ!
何が何でも畿内が大古より日本の中心だったんじゃ! <
そう。
魏使らの実見記録に基づいた魏志倭人伝は、
非常の客観性も信頼性も確率も高いが、
はるか後代の大和政権の「万世一系八紘一宇」思想で書かれた記紀は、
半分偽書であり、まともな史料批判無しには、信頼性がないんだよ。 >>511
>これも上で書いたように「重要な鏡は主体部に置き、それ以下の鏡は周辺に置く」と言う方式が出ている
それは現代人の想像
大臣のデスクが次の間で妾が王様のベッドサイドにいても、大臣の身分のほうが低いわけじゃない
それぞれ持ち場にいるだけ 三角縁は後の世に倭魏交流を記念して作られただけの単なる記念鏡じゃないのか? この中央と地方の三角縁の扱いにはかなり明確な差が現れている
数の違いは言うまでもないが、中央ではあまり大切に扱わないが、地方では主たる副葬品として扱われている
この事から古墳が明確な中央と地方と言う地位の差を示すものであることが分かる
古墳は大和から全国に広まる身分の上下関係の成立を見いだすことが可能で、
古墳が見つかる場所と言うのはこの秩序を受け入れた地域として理解することが出来る
この萌芽は弥生時代終末期から始まっており、その発信源たる大和以外に邪馬台国などありえないと言うのが分かる >>333
>記紀に書いてある通り東遷したから九州説になぜならないのか<
記紀が半分偽書であり、まともな史料批判無しには根拠に使えない。
客観性と信頼性の高い歴代中国史書群の記載では、
倭國は、筑紫城の倭奴國の後裔であり、「正北抵新羅」の北部九州の位置にあって、
歴代の中国と交渉のあった国であり、
大和は、筑紫城の倭奴國(の阿毎氏)から別れた別種の旧小国の倭種であり、
白村江の後で、母国の九州倭国を併合吸収継承した国であったの。
、 >>522
この萌芽は弥生時代終末期から始まっており、その発信源たる倭国(阿波)以外に邪馬台国などありえないと言うのが分かる @阿波 >>335
「南→東」などの嘘吐き騙しなどの、
そういう分裂幻覚の妄想しか出来ないから 、
大和説が亡んだ・・・。 三角縁の出る古墳はもう布留0末から布留1初期頃まで遡るというのが専門家の間で常識化してる
それが編年でI〜IV段階まとまって出る
これは、三角縁の初入手があって以降なんらかの「解禁」イベントまで副葬されなかったってことだろう
初入手が正始元年で「解禁」が景初末年という想定は現実的だね >>521
>三角縁は後の世に倭魏交流を記念して作られただけの単なる記念鏡じゃないのか?
ならば景初四年銘鏡が存在できなくなる
よって、その想定はありえない これ等の事からそもそも無理筋な三角縁の下賜鏡説や、箸墓卑弥呼説など唱えるまでもなく大和が邪馬台国であることに何の問題もない
むしろ、国産鏡であると言う事こそが、意図的にそれまでにない独自鏡を作成して明確な身分秩序の元に全国に配布している大和の強い意志の存在を見出すことが出来る >>525
もう反論不能で悪口しか言えない敗者九州説 >>528
むしろ、国産鏡であると言う事こそが、意図的にそれまでにない独自鏡を作成して明確な身分秩序の元に全国に配布している倭国(阿波)の強い意志の存在を見出すことが出来る @阿波 >>340
>文献
中国の歴史書では邪馬台国と大和は同じ国に認識してる。<
邪馬台国なんて存在もしないし、
邪馬壹國も倭国中枢も「正北抵新羅」に拠って北部九州。
>『日本書紀』では神宮皇后記に魏志倭人伝が引用されており、
『日本書紀』でも邪馬台国は奈良である。<
書紀は、倭国の存在や歴史の 隠蔽盗用造作をしている半分偽書であり、
客観性や信頼性の非常に高い歴代中国史書群の記載と違う部分は、
根拠にはならない。
>物的証拠 古墳時代の「大王の古墳」は奈良に集中している。<
九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国であり、
東征将軍らが必要であったから造られた墓。 三角縁神獣鏡の銘文は和風漢文と言うべき物であり、
国産の模造品である事は確定しているし、
拙い漢語で正式な外交関係を結んだ可能性はゼロに等しい。
三角縁神獣鏡を作った勢力は、
魏との外交能力を持たなかった事が確定したと言える。
そういう意義のある鏡である。 民衆にとって卑弥呼と台与のどちらがありがたい人だったか?
俺は台与の方だと思うんだわ。
やっぱ戦争や内乱を鎮めた人だから。
卑弥呼は戦争を鎮められず、戦争中に亡くなった人。
台与は平和を取り戻して国が豊かになったところで亡くなった人。
箸墓は台与の墓だろう。 >>534
>三角縁神獣鏡を作った勢力は、
>魏との外交能力を持たなかった事が確定したと言える。
はい、ハズレ。 @阿波 >>534
>三角縁神獣鏡の銘文は和風漢文と言うべき物であり、
まったく根拠なし
いつもトンデモ説は結論言い張るだけ >>346
>三角縁神獣鏡は洛陽と日本でしか見つかってない事実と<
△は、洛陽では0〜1個で、列島では500個以上、
という事実が突き付けられてしまうのだが。
>魏と倭の交流は記録には少なくとも4回<
魏帝が卑弥呼らに銅鏡百枚を下賜したのは、明帝の詔書の分だけ、であった、
という事が突き付けられてしまうのだが。
>さらに三角縁神獣鏡は国内でもコピーをたくさん作られた
という事実が九州説に突き付けられてしまうのだが<
大和では、3世紀には△の出土は0であり、4世紀以後にしか出ないのであり、
「海東鏡」のように、徐州銅を持った鏡師らの渡来があった、
という事実も突き付けられてしまうのだが。 >>539
>大和では、3世紀には△の出土は0であり、4世紀以後にしか出ないのであり、
はい、ウソ発見
正始元年鏡でてます >>539
>△は、洛陽では0〜1個で、
現在中国で見つかってる魏鏡の枚数が分母だとすると、結構大きかったりして ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>357
>卑弥呼からは倭大国魂(阿波)は廃れたことが、
『日本書紀』と倭大国魂の神社が阿波にしかないことからわかるな<
「南≠東」などの嘘つき騙しに拠って、始めから、×。 >>363
>もし仮に大和が3世紀に北部九州の支配を確立していたのなら、
山門の支配者、磐井の君が代々糟屋に屯倉を持っていた事を説明できなくなる。<
賛成です。 >>367
>>大和の△は、3世紀末以後になるホケノに△がないから、4世紀以後。<
>ホケノ山が3世紀末以後だという根拠が まったく無し<
ホケノは、庄内〜布留の有棺有槨の△無しの前方後円墳である。
だから、卑弥呼の冢や有棺無槨よりも後だし、
石塚の「庄内」の撥型前方後円墳が、那珂八幡の「くびれ部彎曲」の前方後円墳の後になり、
だから、ホケノは、
卑弥呼の後の、壹與の後の、那珂八幡の後の、石塚の後になるから、
3世紀末以後になる。 >>546
>ホケノは、庄内〜布留の有棺有槨の△無しの前方後円墳である。
>だから、卑弥呼の冢や有棺無槨よりも後だし、
「だから」って、なんの因果関係もないだほー >>373の訂正
>魏志倭人伝に邪馬台国が東なのに南と書かれているわけは
当時の魏の役人学者が邪馬台国は倭国の極南界にあるとしたかったから<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
実見計測記録を書いた魏使らは、
部下や後続の魏の役人たちにウソを書いていた事がバレれば、
首が危ない事になるから、
嘘は書けないもの。 >>373の訂正の訂正
>魏志倭人伝に邪馬台国が南だから南と書かれているわけは
当時の魏の役人学者が邪馬台国は倭国の極南界にあることをしっていたから< >>375
>三角縁神獣鏡は魏で流行していた鏡とはどの古代文献にも出てこない
むしろ全唐文の記述より特注品であった可能性が大きいそして魏が倭に下賜した鏡が特注品であるとするなら
他に同じものがない魏鏡の三角縁神獣鏡こそがそれに当たると思われる<
問題の全唐文は、はるか後代の清代での収集文であり、
同時代史料でもないし、唐代の解釈本の紹介に過ぎず、根拠性が非常に低いもの。
そして、その文は、山口の解釈の、
「昔、魏ハ倭国二酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ノ鉗文ヲ止メ 漢ハ單于二遣(おく)ルニ犀毘綺袷(さいびきごう)ヲ過ゴサズ
並ビニー介ノ使、将二万里ノ恩トス〉」
からは、
「それは〈銅鏡ノ鉗文ヲ止メ〉という箇所です。
これは倭国にとって禍々しい模様や銘文を刻むのをやめて、彼らの好むような銅鏡を作ってあげたと読める。
いわば特注品を贈ったとあるわけです。
日本のために特別に作ったのですから、後に同じものが中国から出土しなくても不思議ではない。
三角縁神獣鏡には諸説ありますが、少なくとも元々のオリジナルは中国から贈られたものと考えてよいでしょう」
いうのも唐代の解釈の再解釈に過ぎず、
当然明帝の意図であったのか?の保証もなく、根拠に使えない。 >>551
卑弥呼の墓は「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。 @阿波 >>378
>神武天皇から9代までは近畿だけの地方政権
10代崇神天皇の四道将軍派遣や、
12代景行天皇派遣のヤマトタケルの遠征でやっと日本の大部分を統一した <
これも×。
半分偽書である記紀の記載は証拠にならず、
「正北抵新羅」の九州倭国は、白村江後まで列島代表であったし、
大和日本國は、継体の反乱でようやく九州倭国の王家の一員に参加出来、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」で初めて、
独立國の形を取ろうとしたに過ぎず、
だから、崇神や景行や倭建命は、いずれも、
九州倭国内の一将軍などとしての活動であった、という事になる。 卑弥呼の墓は経百余歩だろ。
箸墓では大きすぎる。
やっぱホケノ山古墳だよ。
80mだから、当時の小柄な人の歩幅にあってるじゃないの。 >>366
>特殊器台と殉葬は大いに関係あるが
何も関係がない。
円墳先造説といい、単なる君の願望。 纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓。
纏向にヒミコなんぞおるかいw 身長160cmの人の一歩の歩幅は約55cmで計算するんだそうな。
80m÷55cm=約145歩
ホケノ山古墳でイイんじゃないか。 後円部径約55mだから、後円部径だとちょうど百歩になるわ。 >>558
卑弥呼の墓は「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳。 @阿波 >>357
荒魂は本来の場所と違うところに祀るのが原則だからね
倭大国魂が荒魂になった責任を取って、阿波が鎮魂しろということだろう 敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀〜香賀〜英賀でぐるりと囲まれたクニ、圓滿の中天なんじゃないか?
月待之祓
掛巻も畏き月弓尊は上絃の大虚を主給ふ
月夜見尊は圓滿の中天を照給ふ
月読尊は下絃の虚空を知食す
三神三天を知食と申す事の由を聞食て
祈願圓滿感応成就無上靈法神道加持 >>562
>倭大国魂が荒魂になった責任を取って、阿波が鎮魂しろということだろう
「阿波が鎮魂しろ」じゃないんだよ。
そのとき、世界は「阿波」しかないんだから。 @阿波 泳げないわけでもないし九州+近畿説でいいじゃないか。 >>380
>九州説が三角縁神獣鏡は国産品と主張する割には 景初、正始という魏の年号が入っていて<
景初三年以後の紀年鏡は、根本的に明帝の詔書の後の年号であるから、
明帝の下賜よりも後に造られた鏡である。
そして、一番古い志登の△や、景初二年以前の紀年鏡は、
呉系楽浪鏡師らの渡来製作であった、という事になる。
>洛陽付近の畑で発見もあり <
△の0〜1枚では、明帝の銅鏡百枚の根拠にも、列島の500枚以上の△の根拠にもならない。
>銅出徐州 師出洛陽と漢字の銘文も入っていて<
中国においては、「銅出徐州」や「師出洛陽」なんて何の自慢にも価値もなく、
はるか田舎の倭国の人々になら、銘に刻む価値があるもの。
>当時の魏・晋鏡と同じ銅成分と分析結果が出ている <
呉系楽浪鏡師らの手持ちの持参銅や、
倭地に於ける古い中国銅製品の再溶融銅を使った可能性があるから。
これをいつまでも魏鏡だと言い張るから、
誰も大和説の言う事は、真に受けない。 笠朝臣金村の長歌にあるように食国と言及されたのは、なにわくらいだろう
夜の食国を治めたのは月夜見
倭国大乱は、万葉集に載っているこの歌の通りなんじゃないか?
東海は火の神だらけだし、纒向遺跡の外来系土器の半数は東海系だしね
東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ >>567
>笠朝臣金村の長歌にあるように食国と言及されたのは、なにわくらいだろう
違う。 食物の神様は倭国(阿波)なんだよ。 @阿波 ホケノ山は副葬品に武具が多かったので被葬者は男であろう。
纏向古墳群に卑弥呼の墓があるなんて考えが妄想。 南北朝や戦国時代は自由に議論できるのに、倭国大乱の取った取られた、国譲りがタブーなのは意味不明 全てが阿波とか、大丈夫か?
日本列島各地のそれぞれの歴史を抹殺したいのかな? 石野さんは勝山、寺沢さんはホケノ山、
これは完全に迷路に入ったわけだw
ヒミコが誰なのか文献で考えないから迷路に入ってしまう。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
ヒミコもトヨも墓は葛城なのだが。
いつになったら分かるのかな、バカばっかりだねw >>573
>全てが阿波とか、大丈夫か?
>日本列島各地のそれぞれの歴史を抹殺したいのかな?
日本列島各地の歴史を作ったのは倭国(阿波)を発った「忌部はん」 なんだよ。 @阿波 トヨも面白いよな
西瀬戸内海なのか、丹後半島なのか
一大勢力なんだろう
摂津は昔、豊崎県だった時がある
大阪北部は豊ばかり、豊中とか豊津とか
秀吉は豊臣だったな、面白いネーミング >>553
記紀が半分偽書だろうが何だろうが
ザラコクの話は全部作り話だから
話にならず、×。 >>395
>不彌国までで正確には1万700里 邪馬台国まで残り1300里ある事になり
魏里の一里400mで換算すれば畿内まで到達する事になる<
邪馬台国も畿内も存在せず、「南≠東」によって大和は始めから×。
>1万2千里は解釈次第ではどうにもなるので
これを邪馬台国を指し示す根拠とするには論証的に不適当<
魏使らの記録そのものであり、「どうにもなる」ものではない史料事実そのもの。
>そもそも1万2千里は漢時代の准南子に書かれた世界観の概念上の南の果てに一致しており
邪馬台国が魏志倭人伝で南に1万2千里とされているのは偶然の一致ではありえない <
倭人伝記載の珠儒國や裸國や黒歯國は、1万2千里に全くなっていないから、その妄想は×。
>倭奴国が後漢に朝貢した時代から倭とその首都は帯方より1万2千里にあるものであり<
嘘を付くな。漢書の如淳注では「萬里」と書いている。
>三国時代我こそ漢の後継国と争っていた時代において
後漢時代朝貢していた南の最果ての倭国と同じように国交を結ぶのは
魏にとって大いに政治的意義のあるものだった ゆえに倭とその首都は後漢の時代の伝承どおり
魏で使われていた里にでも漢で使われていた里にでも照らし合わせれば明らかに過大な
1万2千里になければならないものであり <
いや、如淳も魏使らも魏略も魏志も後漢書も、短里を使っていた。
>皇帝にそう報告しなくてはならないものだった 実は三千里くらいでしたと報告したら
それこそ首が飛ぶのである<
魏使らは、皇帝にウソを報告した方が、バレれば首が飛ぶもの。 http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/114_6_2.png
ここが径百余歩=約150mだ。
隣が蜘蛛窟で、高天彦神社には埋葬された土蜘蛛の痕跡もある。
ヒミコの墓は日本の歴史の原点、高天原にあった。
江戸時代までここが普通に高天原だと認識されてたのに、
現代人は誰も注目しなかった。
ここに何かあると足繁く通ったのはわしくらいだ。
わしが発見者だ、残念だったなおまえら。w >>398
>銅の産地はそのまま生産地や生産時期とはなり得ないかも知れないが
逆に考えればなり得るという事でもある
成分分析でエジプト産とでも出たらさすがに中国製品とするのは苦しいけれど<
国分茶臼山の2枚の△の「海東」鏡を見れば、
徐州の銅を持参して、材料銅にして△を造った、という事が分かる。 >>580
この楕円エリアが最近立小便の被害に合っている斜面ですので
見かけた方は高鴨神社に通報してください。 というわけでヒミコの墓は日本の歴史の原点、高天原にあった。
魏志倭人伝の記述通り、奴婢も埋葬されている。
奴婢とは土蜘蛛である。
邪馬台国論争は終わりということでいいね?
もう箸墓だ、ホケノだ、平原だ、祇園山だ、うんこだなんて言わない様にね。 >>583
>もう箸墓だ、ホケノだ、平原だ、祇園山だ、うんこだなんて言わない様にね。
「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳から逃げたな? @阿波 >>578
>魏使らの記録そのものであり、「どうにもなる」ものではない史料事実そのもの。
理由もなく、そんなこと決めつけてもな
それは歴史研究じゃない
ただの作文だ >>399
>古墳の鏡副葬は ・主体部近くに貴重な鏡を置く ・周辺部にはそれよりも劣る鏡を置く
と言うのが全国的にみられる傾向であるのが分かる
なので、三角縁も例外ではなく中央では大した扱いの鏡ではないと分かる
これは逆に言うと中央で大した扱いをしてない三角縁を貴重品扱いしている地方とは力関係がハッキリと出ていると言う一つの証拠となり得る
古墳と言うのが大和の中央を頂点とする明確な秩序の元に作られていることが分かる<
ダメだ。
大和の古墳では、3世紀末以後のホケノの画文帯副葬などが鏡副葬の最初であり、
その後の△副葬は、(倭国から東征将軍らへの下賜の)内行花文鏡などが中心部であって、
△は、大和の在地の鏡造り神社で大和在地の子弟らが造った粗悪な副葬用の鏡であり、
地方の豪族の紀年△は、大和の△よりももっとましな鏡であり、
という事は、(大和のような子弟が造ったものではなく)
渡来の呉系の楽浪鏡師らが直接的に造った鏡であったんだろう、
という事になる。 >>253
>円環上に3年分の二十四節気を配置した3年暦を重ねると
その3年暦ってのが実在しないんだが?w >>551
テンプレ主とバトルだな。
しかし、テンプレ主は円墳先造説だからなあ。
どちらかと言えば、ホケノ山説有利。
だが、あとの4基の前方後円型墓の説明がつかないから、ホケノ山も最終勝者にはなれんがな。
卑弥呼の祭祀所は、筑後山門だし。 >>584
では言い直し。
もう箸墓だ、ホケノだ、平原だ、祇園山だ、
ましてや天石門別八倉比売神社」裏手のうんこの様な円墳だ、
なんて言わない様にね。 >>586
>事実です。
証拠なにひとつ無く言い張るって
それこそ学問の正反対にあるね >>583
殉葬という点では、久留米の祇園山が最有力。 トンデモ説はん同じ台詞カキコの繰り返しばっかりやな >>595
なんにも証拠出せずに言い張るだけって
あんた馬鹿? >>401
>三角縁神獣鏡は多数入ってきたので
それまでの古く数少なくなった漢鏡に逆に希少価値が出たのだろう <
ちょっと違う、と思う。
△は、「多数入って来た」のではなく、
始めは渡来の呉系楽浪鏡師らが造り、
4世紀頃から大和などの鏡作り神社が多数造ったもの。
また、漢鏡タイプの鏡にも、平原のようにように、楽浪鏡師らが関与した鏡もあった。 >>358
>にわかさん、房総半島の「安房」だよ。
www
いや、万津浦→末盧よりはよっぽど筋がいいと思うぞw >>591
>ましてや天石門別八倉比売神社」裏手のうんこの様な円墳だ、
どう見ても、ションベン山より、「天石門別八倉比売神社」裏手のうんこの様な円墳」だろ @阿波 >>596
北部九州のような防衛最前線に都はない。
今も遷都論で名古屋だ、仙台だ、もう一度京都だという意見はあっても、
北海道だ、北部九州だなんて誰も言わないでしょ。
みんな危険だと分かってるからだ。
北部九州ほど邪馬台国にふさわしくない場所はない。
同じ九州なら熊本や宮崎の方がよほどまし。 >>595
ブライドだけ肥大化した無学じいさん見てて悲惨 >>591
>ましてや天石門別八倉比売神社」裏手のうんこの様な円墳だ、
言っとくが「天石門別八倉比売神社」裏手のうんこの様な円墳」で小便する者は絶対いないからw @阿波 >>413
>そもそも紀年三角縁にしても
皇帝の下賜品として記載されたと言うのであればもっと大量に出てもおかしくない
何故か紀年三角縁の数が少ないことからも皇帝の一定した意図が背景にあるとは考えにくい
規格の不統一性と併せて
そこに特注品として一度に配られるような状態を読み取れない
むしろ長い時間を掛けて生産し配布を続けたと言う形の方が自然
大和の邪馬台国が自主的に作成してある程度の機関作り続けた鏡と見るのが筋が通る <
成程。 >>591
だから
どう見ても、ションベン山より、「天石門別八倉比売神社」裏手のうんこの様な円墳」だろ @阿波 ブーッ!
一歩は魏では145cmの事なんかよ。
じゃあ経百余歩は145mくらいじゃないか。
妄想虚しく、あっというまに、ホケノ山から箸墓に引き戻されてしまいましたとさw 三角縁は規格性が高いんで有名なのに
世間と反対の感覚を持ってるひとも
またにいるんだねー
ま、そういう人の印象論が世間に通じる可能性は無いわけだけどさー 福岡は大陸に近いのに二重瞼で眉毛がキリッとして濃い顔だちの人が多い。
博多美人というのは本当だ。
九州全体に濃い人が多い。
武田鉄矢を見ろ、典型的縄文人ではないか。
おそらく防人であった蝦夷の名残りあろう。
そういうわけで防人の土地に邪馬台国の女王様は住んでいないのだ、あきらめろ。 >>416
>不統一なんてどうでも解釈できる
分業で一度に大量に作ったとか複数回にわけて下賜があったとかな<
複数回下賜は×。下賜の記録がない。
>国内で作り続けられたのもそうだが国内コピーも多い <
渡来の呉系楽浪鏡師ら職人が関与した、という事の証拠。
>三角縁神獣鏡が魏鏡であり倭への下賜鏡という事の何の反証でもない <
魏から0〜1枚では、魏鏡根拠にならないし、
明帝の銅鏡百枚の根拠にも、列島の500枚以上の△の根拠にもならないし、
呉付近で盛行した△では、明帝の下賜鏡に選択もされないから、×。 円環上に3年分の二十四節気とか
妄想もここまで来ると笑劇場 >>613
>呉付近で盛行した△では、明帝の下賜鏡に選択もされないから、×。
三角縁が呉付近で盛行した形跡ナシ >>613
>複数回下賜は×。下賜の記録がない。
前例どおりの場合めったに記録されないよ >>606
>むしろ長い時間を掛けて生産し配布を続けたと言う形の方が自然
いや、不自然の極致だ
倭で突然仏像彫るとか
ないわー 邪馬台国は奈良
くだらない位置論争はそろそろ終わらすべきだな >>521
三角縁は、鍬形石とともに作られた威信財に過ぎない。 >>618
>くだらない位置論争はそろそろ終わらすべきだな
まあ学者の世界では終わってるわけだが >>619
トンデモ説さんって、なんで絶対に理由を言わないの? >>528
>むしろ、国産鏡であると言う事こそが、意図的にそれまでにない独自鏡を作成して
>明確な身分秩序の元に全国に配布している大和の強い意志の存在を見出すことが出来る
この人、三角縁神獣鏡の編年とか見てないのかな?
三角縁神獣鏡の後期のものは間違いなく国産鏡だよ
でもそれで「すべての」三角縁神獣鏡が国産だということにはならない
魏鏡説否定者は、全部十把一絡げで雑な論議をしているだけのように思える
最初期のものは「斜縁」神獣鏡だし、斜縁神獣鏡は大陸でも出ている >>420
>べつに考えにくくないわ
鉗文の使用を止めだから 何をどう下賜しようが魏の自由<
「鉗文の使用を止め」は、はるか後代の唐代学者の単なる解釈や考えに過ぎないから、
事実であったのか?の保証がなく、根拠にはならない。 >>623
>最初期のものは「斜縁」神獣鏡だし、斜縁神獣鏡は大陸でも出ている
だから、画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね
と、何度言えばw @阿波 和風漢文なんて銘打っちゃってる時点で三角縁神獣鏡は詰んだ。
むしろ、三角縁神獣鏡が、外交能力の欠如を証明してしまったのである。 まあ画文が卑弥呼の鏡でもおかしくはないし
箸墓が台与の墓でもおかしくはない >>627
>箸墓が台与の墓でもおかしくはない
豊玉姫も倭国(阿波)で眠ってるよ。 @阿波 >>626
和風漢文なんて決め付けちゃってる時点でアンタのトンデモゼロは詰んだ >>420
>下賜された頃は古い漢鏡の方が数が少なく貴重品になっていた<
当然、明帝の下賜鏡が最も貴重になった。
>魏年号の記銘<
明帝の詔書の景初二年より後の△の紀年鏡は、明帝の下賜の鏡ではない。
>銅出徐州 師出洛陽の銘文、<
中国や魏では、「銅出徐州 師出洛陽の銘」は何の自慢にもならず価値もないから刻む筈もなく、
同じ場所に副葬された「海東」鏡が、渡来鏡師であった事を証言しているから、
呉系楽浪鏡師らの渡来と製作であった事を示すもの。
>素材銅が魏晋鏡と一緒なのは魏鏡であると考えるのが自然を通り越して
それ以外考える余地すらない <
渡来楽浪鏡師らは、当然の事ながら、手持ちの材料銅を持ちこんで来ており、
列島に残存していた漢鏡やホウ製鏡や銅矛などの武器や銅鐸等も、
鋳つぶして材料銅に使ったであろうから、
素材銅が魏晋鏡に類似したって何らおかしくない。 >>621
泣いてるよ。
通った後にはペンぺン草も生えないと言われる徳島県民が哀れで哀れで… >>423
>卑弥呼が魏に使いを出したと記録にある 景初三年号が入っているから
三角縁神獣鏡は下賜鏡で間違いなし<
卑弥呼が魏に使いを出し、明帝が詔書を出したのは景初二年であると記録にあるから、
下賜鏡は既に確保されていたのであり、
景初三年号が入っている△は、「下賜鏡ではない」という事で間違いなし。 >>630
>渡来楽浪鏡師らは、当然の事ながら、手持ちの材料銅を持ちこんで来ており、
>列島に残存していた漢鏡やホウ製鏡や銅矛などの武器や銅鐸等も、
>鋳つぶして材料銅に使ったであろうから、
>素材銅が魏晋鏡に類似したって何らおかしくない。
列島に残存していた漢鏡やホウ製鏡や銅矛などの武器や銅鐸等も、鋳つぶして材料銅に使ったならば、
素材銅が魏晋鏡に類似したらおかしい。
異質な素材が混ざれば魏晋鏡に類似しない。 >>631
ションベン山はペンぺン草がよく生えるだろう? @阿波 ションベンはよく効くからね。 だけど、ションベンかけすぎると終いに枯れるよ! 要注意。
ま、ションベンする程度の山だから枯れてもいいかw @阿波 >>427
>なんで三輪氏なんだよ、全然違う。
むしろ大物主を滅ぼして陶邑から引き入れたオオタタネコの末裔が三輪氏。
その陶邑に前方後円墳などない。むしろ狭山丘陵から見つかった銅鐸が象徴的だ。
>箸墓に眠る人はイカガノシコオ。 崇神の叔父になり磯城の王。
その物部は6世紀末に蘇我に滅ぼされる。
蘇我が外威になって前方後円墳が消えるのが面白い。<
ふーん。 >>432
>九州説には史料も考古的証拠もない<
大和説には、「南≠東」などのように、
文献考古の史料事実や史料実態の曲解捏造の、
嘘つき騙しばかり、しかない。 >>434
このようになーんも理由なしで
史料事実や史料実態の否定曲解のウソつき騙しの結論ばかり連呼するのが
「南→東」などのトンデモの大和説派。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. ミトコンドリアハプロショックはおじーちゃんらはノーリアクションか?
少し視野広げれ? >>437
>>出土時期を考えれば、古い時代に全く出ず4世紀以降の古墳からしか出ない事から<
>そんなこと言ってるのは 考古学を全く知らない 九州説の素人だけ<
おや?、この大和説男は、また、
「言葉尻を切り取って変な文にすり替えて」ヘイトスピーチしている!。
「出土時期を考えれば、古い時代に全く出ず4世紀以降の古墳からしか出ない」と言っているのは、
当然大和での話であり、△の話。
それをこの男は隠している。 年号どころか、左右逆に打っちゃってるんだからもう下賜の態を成していない。
ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。
と言っているのに、
その鏡の銘が、洛陽出身のオ様が作った鏡なんや〜とか、有り得んだろ。 >>642
>その鏡の銘が、洛陽出身のオ様が作った鏡なんや〜とか、有り得んだろ。
だから、倭国(阿波)で作った仿製だ と、何度言えばw @阿波 >>439
>俺は九州説じゃないけどな 邪馬台国は大和
箸墓卑弥呼説とか 三角縁魏鏡説を否定してるだけ<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「大和」説も、「南≠東」などに拠って、×。 >>642
>年号どころか、左右逆に打っちゃってるんだからもう下賜の態を成していない。
左右逆に打ったら、なんで下賜の態を成していないことになるの?
理由は? >>610
武田鉄矢の母親はくまもつの阿蘇の人
武田姓は茨城県ひたちなか市武田の発祥
平安末期に源義光(源義家の弟)の三男の源義清が武田氏を名乗ったのが武田氏の始まり ん?岡上せんせーがミラー談議か?
さんかくなんたらミラーは舶来数枚あとはめーどいんにっぽん? >>641
>「出土時期を考えれば、古い時代に全く出ず4世紀以降の古墳からしか出ない」と言っているのは、
>当然大和での話であり、△の話。
三角縁なら奈良県の三世紀の古墳からゴロゴロ出てるぞ ニコバルやら安打マンやらで弓矢で射殺されたのは宣教師やね?
日本人の祖が犯人やろか? >>440
>いくらないない言ったところで三角縁神獣鏡は魏晋鏡と同じ銅素材と言う事は
魏晋時代に作られた鏡である事をあらわし得るものであり 国産鏡説を否定するもの<
海東鏡の呉系楽浪鏡師らの手元の持ち込んだ徐州の材料銅などが使われた可能性が高いから、
国産説を肯定する証拠になる。
>さらに魏年号があり銅出徐州 師出洛陽と記銘 これは魏鏡である事を強く裏付ける<
景初3年以後の魏年号の△は、明帝の詔書の景初二年以前にならないから×だし、
「銅出徐州 師出洛陽」も、中国や魏では何の自慢にもならない事だから、
むしろ列島産であった証拠。
これを受け入れられないという事は、大和説は論でも学問でもなく、
都合の悪い事実を見なかった聞こえなかったフリをしているだけの、
子供のわがままである。 >>445
>なぜ原材料が製造地の特定にならないのか
九州説の言う事は不思議で仕方ない <
「海東」鏡と「銅出徐州 師出洛陽」鏡があるから、
呉系楽浪鏡師らが、手持ちの中国の材料銅を持ちこんで△を造った、
という事が明らかだから。 >>651
>「銅出徐州 師出洛陽」も、中国や魏では何の自慢にもならない事だから、
>むしろ列島産であった証拠。
なら、どうして
「銅出徐州」銘の鏡が中国で出てるんだ?
ばかですか >>457
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説、
顔を真っ赤にして逃亡中で〜す。 >>458
>ソレこそが全唐文を読めてない証拠www
三国志倭人伝の「又特賜汝紺地句文錦三匹」の個所から、
金と甘いを合わせて作った造語で、
「鉗文」とは倭人伝に書かれている贈物全体を示していると考えられます。
そうすると、銅鏡と鉗文は並んでいますから、
「銅鏡贈物は止めた」と成る訳です。
つまり、忠実にして友好的な倭に対しては、
豪華な贈物は必要なく、後半の吐蕃に対しては
要求するものは与えて慰撫する事が好いと対比して述べているのが、
この文章の趣旨だと言っているわけです。
「銅鏡」と「鉗文」の間には、「之」も「的」も挿入はないので、「銅鏡の鉗文」とは読めない。
仮に、「鉗文」を聖徳大学の山口博の説のように「禍々しい模様や銘文」と解しても、
[銅鏡の禍々しい模様と銘文]とは続かないのである。
従って、山口博氏の解釈は、字句の解釈と文法、全体の文意の誤り、
と言う二点で成り立たない。<
成程。 ミラーつまんね
卑弥呼さんの貰ったミラーは全部で50キロくらいじゃね?
寺の鐘にもならんし?(鋳つぶされてほぼ残っとらんやろ? アホ爺どももっと考えれ?
ちょい八つ当たり(ごめんなさい<(_ _)> 三角縁神獣鏡は変な日本語のタトゥーを彫っちった外国人みたいなもん。 >>461
>わからないねえ 三角縁神獣鏡は魏晋鏡と成分が一致した
そして国産鏡は雑多な銅を混交して作られたらしい 国産鏡としての成分分析結果が出る
成で見れば三角縁新住居は魏晋鏡であり
素材だけ輸入し国内で作ったと言うのは理由も動機も証拠も不明
そう設定する事は全く不自然極まりないと言わざるを得ない<
何度も言ってある。
「海東」鏡と「銅出徐州 師出洛陽」鏡の国分茶臼山古墳があるから、
呉系楽浪鏡師らが、手持ちの中国の材料銅を持ちこんで△を造った、
という事が明らかだから。 >>660
>何度も言ってある。
>「海東」鏡と「銅出徐州 師出洛陽」鏡の国分茶臼山古墳があるから、
>呉系楽浪鏡師らが、手持ちの中国の材料銅を持ちこんで△を造った、
>という事が明らかだから。
なんで?
なんで、
「海東」鏡と「銅出徐州 師出洛陽」鏡の
国分茶臼山古墳があると
呉系楽浪鏡師らが、手持ちの中国の材料銅を持ちこんで
△を造った、
という事が明らかになるの?
なんにも論理的なつながりが無いんだけど >>463
>>三角縁出土の時期は東晋の頃になっていて矛盾がある<
>だから、その年代認識に何も根拠がないので 矛盾があるのではなく
>>408の考えがトンデモなだけ<
これも「三角縁出土の時期は東晋の頃」というのは、大和盆地内の話であり、
だから、庄内だけの石塚の後の、庄内と布留のホケノの更に後の、
箸墓の後であるから、4世紀であり
この男は、その事を隠している。 >>659
九州説=理由ヌキ結論断定レンコ
この構図が確立しとるな >>663
なんの理由もなくお経となえても
畿内は調伏できないのだよ >>659
いい国つくろーキャバクラ幕府Tシャツ思い出しました >>663
ほらな
根拠が出せない九州説はトンデモ説ということだ >>464
>三角縁神獣鏡が大陸から出ていないというのが九州説の拠り所だが、
斜縁神獣鏡は出ている
「張氏車騎神獣画像鏡」などhttp://inoues.net/mystery/osaka_history88.jpg
そして、日本出土の三角縁神獣鏡の編年研究が進んでいるが、最初期のものは、
実は斜縁神獣鏡になっている
https://stat.ameba.jp/user_images/20150327/10/tskrtskr/cb/de/j/o0338045013257034783.jpg
九州説で、これに反論できたやつがいないんだよな<
「最初期のものは、実は斜縁神獣鏡になっている」というのが、
実は景初三年の紀年鏡であったために、
明帝の詔書の後になってしまって、明帝の下賜の銅鏡百枚にはならない、
と反論済みだよ。」 >>668
なんで明帝の詔書の後だと
明帝の下賜の銅鏡百枚にはならないのか?
と、聞かれると答えられなくて発狂するザラコク >>466
>>むしろかなり雑多な形で広い期間作られたものであると言う傍証となる数字だと言える<
>鏡を専門とする考古学的の言ってることと180度逆で ワラタ<
そりゃ、「鏡を専門とする考古学」者の方が、
始めから「△は魏晋鏡だ」という結論先にありきの・・・・アホであった事になる分けで、
「南→東」と同じように、ワラッタ。 >>670
>そりゃ、「鏡を専門とする考古学」者の方が、
>始めから「△は魏晋鏡だ」という結論先にありきの・・・・アホであった事になる分けで、
証拠あんの? 「オレ様の説が正しいから、オマエの説は間違いなんだ」
という論理構築では、決して議論に勝てないことを
ちっとも理解できない九州説の悲劇 究極の結論
1、3世紀 日本全国に人は居たし邑や国的組織も全国にあった
2、大陸のの文化は九州が先進である
3、倭人伝に基く遺物は九州に多い
4、行程が間違っていいると主張するなら、径百歩も間違っているという主張も成り立つ
5、纒向に集落群が無い、邪馬台国以外国としても王都の可能性は低い
6、米作として畿内は多くは生産できない・・縄文遺跡群も小規模であり河内湖や奈良湖もあり耕地面積は北部九州の数十分の一 >>468
><萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「萬二千里」は変わらない <
魏志の「中国の国境から辺縁までの距離」は、
侏儒國までの四千里があるから、萬6千里以上になっていて、
「萬二千里」とは変わってしまっている。 >>468
>要は中国の国境から辺境まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ
要は中国の国境から倭国(阿波)まで「萬二千里」と観念距離を置いているわけ @阿波 >>668
三角はいたるところで発見されてるし、
別に大陸の模倣かも知れないし、持ち込まれたとしても
発掘場所が3世紀中期以前と言う確証も無い
邪馬台国にもたらされた百枚が問題である
また、東遷の折、配下にした証ととして配った可能性もある
また、別に▲の分布の中心軸は奈良に限らず京都、神戸、近江、河内でもいいし
魏鏡であるかどうかは不明だし 関東(▲出土)まで畿内邪馬台国の勢力が伸びていたら狗奴国にも問題あるし
現畿内説の学者の殆どは▲や前方後円墳を根拠としない現況もある
畿内説のおおまかな根拠は
1、ヤマト王政への変遷
2、畿内に圀?国の連合体?があった、それが邪馬台国 つまり、邪馬台国畿内説は、完全に、破綻してしまったのだね、、、 >>676
お前が阿保
>>673に反論せよ
1、縄文期日本全国に人が居ないという根拠は
2、大陸の交易を示すものがヤマトに多いという証拠は
3、ヤマトで倭人伝に記述された遺物を九州より多く挙げよ
4、南⇒東とする根拠を示せ(誤認?誤情報・・推測の域を出ないよ)
5、王都(首都)に集落が見つかっていない前例を示せ
6、3世紀にいかほど(7万戸を養う)稲作に適した地の耕作面積を示せ
罵声は誰でもできるよwww 破綻した畿内説の宣伝係が、完全に論破されて負け組になったのだから、負け組の掲示板で討論を続行すれば良いのではないのかな、、、
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/l50 >>470
>>魏鏡と同じ材料を使えば同じものが出る<
>ということは、同時期に作られたってことだって
理解できないの?<
一つの材料銅は、
古くても新しくても成分は変わらない、という事が分からないの?。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>684
負け組の掲示板も良いが、破綻した畿内説の宣伝係が作製したテンプレートが、空想を基にした空想科学小説だったことも、はっきりしたので、討論は空想の掲示板で続行すれば良いのではないのかな、、、
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/ 畿内の参加者は説撃沈だな
もう書きこまない方が良い
根拠も証拠もあったもんじゃねー
ごねてるだけじゃん テンプレも言い訳すればするほど疑いが深まるだけジャン
このスレに限ってでだが」
子どもの畿内説論者が喚き散らしているだけじゃん
からかうにはもってこいだが
他説も>>1他数人を虐めてるだけじゃん
イジメはイカン >>690
このように
アンチ畿内説はいつも
まったく証拠が出せない
つまり妄言している 破綻した畿内説の宣伝係員は、明確な人格障害で、おかしな人なのではないのかな、、 >>467
>情報ソースもなしに結論だけ言い張るのが九州説の持病だね
いくら言われても治らないのかい? <
世間や通説で常識になっている事まで情報ソースを要求し、
その返事を待たずに返事を待たずに「返事がない」事にしてにして、
相手へのヘイトスピーチ街宣を言い張るのが 、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者の持病だね。
いくら言われても治らないのかい?。 昼に卑弥呼の墓はホケノ山だとニンマリしてたら、夜には脆くも崩れ去って箸墓に戻されてしまったw
魏の一歩は145cmなりw >>692
あんたがスレ主より適任だ
南⇒東の論理的解説頼む >>479
>スプリング8の分析図の分布をみるとかなりの違いが見えている
これだけ大きな違いが同じ鏡式から出る時点で材料も、生産方法も、時期も場所もバラバラに生産していることが分かる
むしろ成分分析の成果はそういう事が分かった事が大きい <
成程。 >>480
>>殆どの古墳が4世紀に入ってから物だと言うのは
特にどの説だろうが了解を得る必要もないだろう <
>九州説名物、根拠ヌキ断定 ww<
「南≠東」などの嘘吐き騙しの大和説名物、
何でも「根拠は?」と言って、
返事も待たずに「「根拠ヌキ断定」とヘイトスピーチ宣伝をする ・・・・詐欺師。 >>481
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者が、
三角縁神獣鏡を魏鏡と認めて欲しくて、
また、詭弁抗弁してますな。 >>482
だから、口だけでヘイトスピーチを言い張ってるけど、
なんで絶対に、反論証拠を出さないの?。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の人って、
「証拠だしたら死ぬ」病なの?。 >>483
>俺は九州説じゃない 邪馬台国は大和で確定してる<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言だから、×。
>箸墓が卑弥呼の墓説と三角縁魏鏡説を否定してるだけ
こんな無理な物を主張するまでもなく大和にあった事は十二分に証明できる
むしろこんなこと言ってと余計におかしくなる<
それなら、なぜその「十二分の照明」とやらを書き出さないの?。 >>592
>実際に運用されてるが。
どこで?ww
>>592の脳内だけだろw >>484
>箸墓の築造が280〜290年頃なら、台与の陵の可能性がある訳だ。
そうすると、卑弥呼の陵はホケノ山古墳の方の可能性が高くなる訳だ。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>694
ザラコクの言うことが
世間や通説で常識になっているなんて
口先だけで言われて
誰が信じると思う? >>679
>三角はいたるところで発見されてるし、
>別に大陸の模倣かも知れないし、持ち込まれたとしても
>魏鏡であるかどうかは不明だし 関東(▲出土)まで畿内邪馬台国の勢力が
>伸びていたら狗奴国にも問題あるし
だからこういう「十把一絡げの荒い議論」は無意味だって
関東で出た三角縁神獣鏡はいつの時代のものなんだい? >>487
じゃあ、なんで「南≠東」の根拠や、反論などの証拠出さないの?。
そんなの、まるで大和説じゃね? 。ww >>596
>久留米の祇園山が最有力
本体の地山成形時に、甕棺墓の上部三分の一が削られてしまっているんだが?
そもそも甕棺墓と段築葺き石のある古墳時代の方墳では、100年単位で時差がある >>668
>実は景初三年の紀年鏡であったために、
卑弥呼の遣使は景初三年が正しいというのが通説なんだがね
まあ、ザラコクは魏志倭人伝原理主義で、一字も間違いはないって
立場だから認めないだろうけどな >>488
>縄文時代の土で今土器を作っても縄文時代のものと出るが
だから縄文土器は縄文時代の物とは言えないの?<
言えないよ。「今作った土器」は現代のものだよ。
>国産鏡のものではない魏晋鏡の銅をわざわざ輸入し国内で使って
4世紀に三角縁神獣鏡を新造したわけを言いなさいわけを<
大和の大量の粗悪な副葬用の△は、箸墓の後の前方後円墳に見られるから。 >>706
あんたがスレ主より適任だ
南⇒東の論理的解説頼む ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>664
あんたがスレ主より適任だ
南⇒東の論理的解説頼む
畿内説のスレだからヨロシク >>692
あんたもスレ主より適任だ
南⇒東の論理的解説頼む
畿内説のスレだからヨロシク >>614
んじゃ、二十四節気はどのようにして目に見えるようにしたのか。
つまり、箇条書きにしたのか、それとも円環の上に配置したのか。
どないにしたというのか。 うぜー
畿内説は「倭人伝」と関係ねーから破たんのだよ 日本人の歴史は7世紀から
倭人の歴史は古代から
因果関係は渡来人なのだ
九州倭人と渡来人連合が畿内倭人を制圧したんだよ
逃げた奴が蝦夷地と融合したんだよ
これ俺の定説 畿内は邪馬台国となんの関係もない
いくら大きな遺跡が出ても何の証拠もない 九州説は九州説というより「九州だったらいいな」説だなw カキコミ九州や阿波が多いし
畿内説がケチョンケチョン
テンプレにも問題があるが
最新の畿内説情報を知りたい ホマツタエは結構面白い
鈴は暦の源とか、化成の話とか、豊が夏と結びつけて語られていることとか >>724
それは九州だったらいいな説の方だろ?ww ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 畿内説は馬具と槨が出た時点で詰んだ。
残念だが仕方が無い、コレが畿内説の終焉なのだよ。 >>490
>だからこそ合わせて出土場所を考える
縄文土器のように胎土と出土場所や時期、形状が一致してるなら問題はない
三角縁を卑弥呼の鏡だと言うなら一致していない
4世紀の国産鏡と言う方が整合性が取れる <
成程。 >>493
だから、大和の三角縁神獣鏡が4世紀ではない、と言い張る根拠は?。
なぜ、大和説者は、大和説側の根拠を言って反論しないの?。
もう、議論に負けている事を自覚しているから、ではないの?。 >>496
>スプリング8の結果からして鋳上がり良い中国製とされていた鏡がそのまま中国の成分を示している
そして鋳上がりの悪い国産とされていた鏡がそのまま中国とは違う成分を示している
この事から中国人の工人と倭人の工人の工房があったと言う事だろう
材料の輸入から生産まで多種多様な形態を持っていたことが推察される
三角縁と言う鏡の性質を知る一つの手がかりとなり得る<
ここまでは構わない。
>そして、この鏡が定型化後に普及する事から、<
ここから×。
箸墓の前にすでに、筑紫から始まって、西日本各地に△が普及している。
>邪馬台国による日本全国への統治のシステムの拡大に伴い
鏡の不足を補う為の新鏡式として創出されたと考えられる<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
統治システムの拡大は、九州倭国の「東征毛人五十五國」に依る面が多く、
それに付随して、「海東」鏡の鏡師らも広がった、と思われる。 >>497
これももう何度か反論済みね。
>畿内の3世紀中期以降の古墳から出るし<
畿内なんて存在しない嘘つき騙し文言であるし、大和の△は4世紀以後。」
>景初三年と卑弥呼が魏に使いを出したと記録にある <
景初二年に魏に使いを出し、明帝の詔書は景初二年12月。
>年号が入った鏡も出るし<
呉年号も出ているから、呉系楽浪鏡師らの渡来による製作。
>銅出除州 師出洛陽、徐州産の銅で洛陽の鏡師が作成と銘もあり
素材の銅は魏晋鏡と一緒<
海東鏡と一緒だから、呉系の鏡師の(新たな?)渡来による△。
>魏から卑弥呼が貰った鏡とする方が矛盾しない これに合理的な疑いは生じない <
矛盾するし、合理的な疑いがあることばかり。
この男も、・・・・詐欺師の仲間。 >>498
>>何度も繰り返しになるが
その時期の材料をもっと後になってから使ってもその時期の材料と言う数字が出る<
>原不合理なことを何度連呼してもダメだろう なんで「もっと後になってから」
わざわざ「その時期の材料」ばかり集めて作るんだ?<
不合理な事を何度連呼してもだめだろ?。
始めから、データの分布が広範囲であり、
同じ時期同じ場所の材料銅ではなかった、という結果であったんだろ。 >>500
>>殆どの古墳が4世紀に入ってから物だと言うのは
特にどの説だろうが了解を得る必要もないだろう≪
>こうまでして証拠出したくないって 横車すごくね?<
こうまでして、自分ら通説大和説側の「巨大古墳の大半は4世紀以後」という説を否定して、
証拠出したくないって 横車、
すごくね?。 >>503
>そうなると以降で急におかしくなるな 畿内の3世紀の古墳からも出ているよ
黒塚古墳や椿井大山古墳とか <
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であるし、
椿井は、大和ではない。
また椿井も黒塚も竪穴式石室であるから、明らかにホケノの有棺有槨よりも後であり、
ホケノが3世紀末以後であるから、椿井も黒塚も4世紀以後。 また朝から九州説ボケ老人が
支離滅裂なことワメいてるな その爺さんは他人の投稿丸コピして、いくつか単語入れ替えて機械的にコピペ荒らししてるだけだよ >>739
>無能な入植地畿内説w
ただし、入植者は倭国(阿波)を発ったスーパー頭脳集団の「忌部はん」 なんだよ。 @阿波 >>737
あんたがスレ主より適任だ
南⇒東の論理的解説頼む
畿内説のスレだからヨロシク >>716
>んじゃ、二十四節気はどのようにして目に見えるようにしたのか。
なに言ってんだかイミフ
二十四節気は天動説ベースの地球公転だから元々目に見える 現代からタイムスリップした医者が幕末の江戸でペニシリンを作るドラマあったけど24節云々はそんな感じの話よね >>743
テンプレは憶測だから論理性に欠けるからダメ >>749
>憶測だから論理性に欠けるから
だからどこが憶測で、どこが論理性に欠けるのか「具体的に指摘」しなきゃ無意味だと何度言えば
九州だったらいいな説はいつもそんなもの 破綻した畿内説の宣伝係員が、論破されたので、反論を諦めてしまったな、、、 畿内説はもう崩壊している
考古学の新しい展開は九州説に開かれている >>753
>畿内説はもう崩壊している
九州説もいっしょに崩壊している と、何度言えばw @阿波 >>756
>九州説って、いつも言うことに具体性がないね
畿内説もいっしょ と、何度言えばw @阿波 >>505
>卑弥呼の墓はやっぱホケノ山のような気がするわ。 箸墓は台与の墓なんだね<
「南≠東」などに拠って、×。 >>507
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
おんなじ事ばかり連呼して、
理由を聞かれても絶対に答えない。
頭こわれてんの?。 >>513
>遺跡の年代は定説に従った上で論を展開しないと
その時点でまともな説でなくトンデモ説になる <
これは×。
「定説」を決めた学会の学者らは、殆ど全員が始めから、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者なんだから、
そんな・・・・学者らの「定説」なんて、始めから信頼性も価値もなく、×。 >>522
>この中央と地方の三角縁の扱いにはかなり明確な差が現れている
数の違いは言うまでもないが、中央ではあまり大切に扱わないが、地方では主たる副葬品として扱われている
この事から古墳が明確な中央と地方と言う地位の差を示すものであることが分かる<
△は、明帝→卑弥呼の下賜鏡では有り得ないから、
地方の△は、渡来して来た呉系の楽浪鏡師らが、地方の豪族の依頼で造った△だった、
という事になる。
>古墳は大和から全国に広まる身分の上下関係の成立を見いだすことが可能で、
古墳が見つかる場所と言うのはこの秩序を受け入れた地域として理解することが出来る<
「南≠東」などに拠って、大和は、盟主ではないから、
この投稿も始めから×。
大和は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の東征将軍らの支配地。
>この萌芽は弥生時代終末期から始まっており、
その発信源たる大和以外に邪馬台国などありえないと言うのが分かる<
勿論邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しであるし、
弥生時代と古墳時代との境目は、当然前方後円墳からが古墳時代という事になり、
墳丘墓や冢の卑弥呼や壹與は古墳時代ではなく、
筑紫の那珂八幡などからが古墳時代だという事になる。 「南≠東」とか「南→東」とか
ひたすらお経か呪文みたいに
定型句を連呼するだけになっちゃった
九州説・・・
あたま、壊れちゃってるね >>526
>三角縁の出る古墳はもう布留0末から布留1初期頃まで遡るというのが専門家の間で常識化してる
それが編年でI〜IV段階まとまって出る <
その「専門家の編年」」とやらは、
筑紫の△や土師器と、大和の△や土師器とは、50年位の時間差があった、
という事をは、考慮していないから×。
>これは、三角縁の初入手があって以降なんらかの「解禁」イベントまで副葬されなかったってことだろう
初入手が正始元年で「解禁」が景初末年という想定は現実的だね<
変な男。「初入手が正始元年で「解禁」が景初末年」なら、「初入手」になっていないから、
この男はアホ。
△は、列島では、呉系楽浪鏡師らに拠って、筑紫の志登が最も古いようで、
その後に祇園山や藤崎西新町に現れ、
その次が那珂八幡の△であるようであり、一貴山銚子塚が続く。
しかし、楽浪鏡師らは、「明帝→卑弥呼」の銅鏡百枚を知って、筑紫での商売を減らして、
地方の豪族らのための△製作に切り替え。
大和が△を持ったのは4世紀。 >>528
>これ等の事からそもそも無理筋な三角縁の下賜鏡説や、箸墓卑弥呼説など唱えるまでもなく
大和が邪馬台国であることに何の問題もない<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、
この男の話自体が、信頼性が全くなく、×。
勿論、大和は九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国でしかなかったからでも、×。
>むしろ、国産鏡であると言う事こそが、
意図的にそれまでにない独自鏡を作成して
明確な身分秩序の元に全国に配布している大和の強い意志の存在を見出すことが出来る<
△は、当初は、呉系楽浪鏡師らの製作鏡であったから、「国産鏡」という表現はインチキ。
また大和が△を自前で造ったのは、4世紀。 >>529
「南≠東」や、「大和は九州倭国から別れた別種の旧小国」や、
「大和は九州倭国の東征毛人五十五國の中の一国」や、
「冢≠前方後円墳」や、「大和の△は4世紀」などにもう反論不能で、
悪口しか言えなくなった敗者、大和説。 >>534
>三角縁神獣鏡の銘文は和風漢文と言うべき物であり、
国産の模造品である事は確定しているし、
拙い漢語で正式な外交関係を結んだ可能性はゼロに等しい。
三角縁神獣鏡を作った勢力は、
魏との外交能力を持たなかった事が確定したと言える。
そういう意義のある鏡である。 <
成程。 >>535
>箸墓は台与の墓だろう<
台与なんて存在しないから×だし、
「南≠東」に拠っても、×。 >>764
>その「専門家の編年」」とやらは、
>筑紫の△や土師器と、大和の△や土師器とは、50年位の時間差があった、
>という事をは、考慮していないから×。
ないもの考慮したら、×。 >>748
なにいっちゃって。
24は、秦の時代に完成した。
これが日本にもたらされて、弥生後期には、活発に運用された。
24なくしては、倭の各地の政権祭祀は不可能になっていた。 >>745
紙や板の上にどう書いたか、というてまんねん。 >>770
魏略にある「其俗不知正歳四節」は完全無視かね
・・これだからトンデモ説はw >>771
板や紙の上に?
1年間あたり全円365度として文章表現したり、図示したりしたよ 狗奴国には暦があったんじゃないの?
女王国には無かったけど
暦は王の独占事項
邪馬台国側には倭国の男系の王統も無かった可能性があるな >>766
>「南≠東」や、「大和は九州倭国から別れた別種の旧小国」や、
>「大和は九州倭国の東征毛人五十五國の中の一国」や、
>「冢≠前方後円墳」や、「大和の△は4世紀」などにもう反論不能で、
アンタ、それ全部テンプレで論破されてるよ
そしてアンタは反論不能だ
事実を見ろ 冬至はクリスマスや!
あーめん?
つうか弥生は水田時代ちゃうんかい?天文時代にきまっとるやんけ?あん? モミの木に
綿かぶせんと
ホコリたつ(スターがないやん! >>540
>>大和では、3世紀には△の出土は0であり、4世紀以後にしか出ないのであり、<
>はい、ウソ発見 正始元年鏡でてます<
はい、桜井茶臼山の鏡片の「一文字」の、
蟹沢の「正始元年△」の「一文字」との同范は、
「正始元年」という文字ではなく、それ以外の別文字の同范であったから、
単に同じ版を使った事になるだけであり、「正始元年」の根拠にはならないものだから、
この男のウソ発見であった事になる。
勿論、蟹沢の△は正始元年の製作であろうが、桜井茶臼山は竪穴式石室だから4世紀であり、
△全体の同范である事も否定される。 >>551
>卑弥呼の墓はホケノ山古墳 <
「南≠東」などに拠って×。 >>554
>卑弥呼の墓は経百余歩だろ。 箸墓では大きすぎる。 やっぱホケノ山古墳だよ。
80mだから、当時の小柄な人の歩幅にあってるじゃないの。<
「南≠東」などに拠って、これも始めから、×。 >>709
地山整形時に、それまでにあった既設の甕棺墓の上部三分の一が削り取られたということだが、その調査報告書はあるのか。
祇園山古墳を地山部の深度まで掘らなければそのことは分からないはずだが、実際に掘ったのか。
どの報告書に、そのことが記載されているのか。 >>558
>身長160cmの人の一歩の歩幅は約55cmで計算するんだそうな。
80m÷55cm=約145歩 ホケノ山古墳でイイんじゃないか。<
「南≠東」だから×だし、
「冢≠前方後円墳」でも×だし、
「径百余歩」は「短歩≒1尺」でも、×。 >>561
>九州倭国ってあったとしても漢倭奴国王の時代でしょ<
倭奴國の頃は、まだ「倭國」という呼称の記録がないから、×。 >>565
>泳げないわけでもないし九州+近畿説でいいじゃないか<
近畿は」ほぼ、九州倭国の「東征毛人五十五國」地域内のなるから、
九州とは対等ではなく、
「九州+近畿」説は×。 >>574
>石野さんは勝山、寺沢さんはホケノ山
>ヒミコもトヨも墓は葛城なのだが。<
「南≠東」に拠って、×。 >>576
>トヨも面白いよな 西瀬戸内海なのか、丹後半島なのか 一大勢力なんだろう
摂津は昔、豊崎県だった時がある 大阪北部は豊ばかり、豊中とか豊津とか
秀吉は豊臣だったな、面白いネーミング <
「南≠東」などに拠って、×。 >>583
>というわけでヒミコの墓は日本の歴史の原点、高天原にあった。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>785
上ではなく片側を道路建設のために削ったはず。
報告書の実物は見たことないけど、近年だからあるはず。 >>773
太陽の移動の最南点から最北点までが半年。
この移動の中間点を通る東西線の特定の一点からみると、二十四の節気は一節気当たり5度の角度に配分される。
なので、二十四節気暦の基本は、一節気5度の角度となる。
これを円環上にそのまま配置すれば、360度の円環上に3年分の二十四節気が配置される。
一方、360度の円環上に一年分の二十四節気を配置するれば、一節気当たり15度の角度となる。
この一年暦のほうは、太陽の移動を目視した場合の一節気5度の角度とは異なり、具体性がなく、抽象的な配置である。
このことから、円環上に一年分の二十四節気を配置する形式は、後代のものだと理解できる。
一年分の太陰太陽暦を円環上に配置する発想から派生したのが、円環上に一年分の二十四節気を配置する図であろう。 >>608
>ブーッ! 一歩は魏では145cmの事なんかよ。<
ブーッ!。
一歩は魏では約一尺の事なんだよ。 >>610
>そういうわけで防人の土地に邪馬台国の女王様は住んでいないのだ、あきらめろ。<
唐会要は、
(日本國伝戸を書き分けた)倭國伝の「正北抵新羅」と位置説明がされており、
倭國は、北部九州にある事になるから、あきらめろ。 >>612
>須恵器も出てる共同墓地<
祇園山は、高良大社の祭祀地でもあったから、須恵器があってもおかしくないが、
内倉氏の報告では、筑紫では「弥生式土器と灰色の須恵器の混在」遺跡が沢山あり、
宝賀氏も、菱田氏が「吉武高木に初期須恵器ある」としておられる事を報告されていて、
だから、祇園山に須恵器が出ても、何ら問題はない。 >>615
>三角縁が呉付近で盛行した形跡ナシ<
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
には、浙江省から三角縁が幾つも出ている事が書かれているよ。 >>782
無理だって理由は?
トンデモ説はいつも理由を言わない
だから、世間から信用されない >>794
>これを円環上にそのまま配置すれば、360度の円環上に3年分の二十四節気が配置される。
それ、あんたの個人的な思いつきで
世界でたった一人あんたが主張してることだろ?
ばかですか? >>794
>これを円環上にそのまま配置すれば、360度の円環上に3年分の二十四節気が配置される。
それ、あんたの個人的な思いつきで
世界でたった一人あんたが主張してることだろ?
ばかですか? >>616
>>複数回下賜は×。下賜の記録がない。<
>前例どおりの場合めったに記録されないよ <
正始元年には「景初二年の詔書印綬や大量の下賜」の実行が記載されているが、
正始四年は「壹拜率善中郎將印綬」だけの記載であり、
正始六年は「其六年、詔賜倭難升米黄幢」だけの記載であり、
正始八年は「齎詔書、黄幢」だけの記載であるから、
正始四年六年八年には、「大量の下賜」はなかった、という事になる。 >>802
つまり、前例どおりの場合めったに記録されないよ >>617
>>むしろ長い時間を掛けて生産し配布を続けたと言う形の方が自然<
>いや、不自然の極致だ 倭で突然仏像彫るとか ないわー<
九州倭国の雷山の千如寺に4世紀頃にインド僧が布教しに渡来して来た記録があり、
呉系楽浪鏡師も、仏像を彫った可能性がある。 >>618
>邪馬台国は奈良 くだらない位置論争はそろそろ終わらすべきだな<
「南≠東」などに拠って、×だな。 >>798
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
の一体どこに
浙江省から三角縁が幾つも出ている事が書かれているの?
??? >>805
どんどん古史古伝トンデモの世界に堕ちていく九州
もう学問には戻れない 畿内大和が九州についてあまり説明できていないのは確かだ。 >>810
畿内大和が九州の何を説明すんの?
あたま、大丈夫? 奈良県で150mくらいの3Cの古墳って、箸墓以外に何がある?
全長でも後円部でも、どちらでもイイけど。 あーあ
九州やら纒向ガセやなー
出雲か葛木か?穴は吉備? >>620
>>くだらない位置論争はそろそろ終わらすべきだな<
>まあ学者の世界では終わってるわけだが <
まあ、国民の間では、「九州説」で終わっているわけだが。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者や学会教育界や、右翼マスコミや掲示板や、
阿部自民文部省などでは、終わっていないようだが。 >>622
「南→東」などの嘘吐き騙しのトンデモ大和説さんらって、
なんで絶対に理由を言わないの?。 >>627
まあ画文が卑弥呼の鏡の一つでもおかしくはないが、
「箸墓が台与の墓でもおかしくはない 」は、
「南→東」などの嘘吐き騙しのために、×。 >>817
>「南→東」などの嘘吐き騙しのトンデモ大和説さんらって、
>なんで絶対に理由を言わないの?。
いや、言ってるけど? >>801
二十四節気3年分1サイクル説。
これは、ワイが半キチ○イになりかかりながら考え出した、3年1サイクル説じゃ。
ま、それは冗談だが、この説は太陰暦と関係がある。
太陰暦は太陽の運行より日数が少なく、1年が354日になる。
実際の太陽の1年の365日と同期させるために、太陰暦を3年に1回閏年として一ヶ月分を増やして13ヶ月とすることで調整した。
これが太陰太陽暦。
太陽の運行にしたがって作り出された二十四節気暦の3年分を1サイクルとする円環の考え方は、太陰暦を太陽の運行に同期させる3年に1回
閏年を設ける太陰太陽暦の3年1サイクルの考え方に従うものなのだ。
なので、二十四節気3年1サイクル説は、何もとっぴな説ではない。
1年分の二十四節気を円環上に配置するものよりも、3年分を円環上に配置するもののほうが基本と言えるのだ。 >>823
つまり、あなたが発明して、証拠は何もないのですね? >>823
ウソつくな
閏年は4年に1度だ
無学な人がデタラメ書いても無駄だ >>823
>太陽の運行にしたがって作り出された二十四節気暦の3年分を1サイクルとする円環の考え方は、太陰暦を太陽の運行に同期させる3年に1回
>閏年を設ける太陰太陽暦の3年1サイクルの考え方に従うものなのだ。
ないわー
非科学の極致 >>785
ザラコクの好きな宝賀寿男氏のところのウェブページにも
「当初の調査にあたった久留米市教育委員会(その後、高良大社文化研究所長)の古賀寿氏は、
同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること、それらの
出土品に鏡・装身具・鉄器のほか土師器・須恵器があること、高良大社所蔵の三角縁神獣鏡が
かって祇園山古墳で発掘されたと推定されること等の事情から、同種の鏡を出土する古墳の
全国的な編年のうえで、四世紀後半の古墳かとみた、とのことである」
と、報告書からの引用が載ってるよ 三角縁神獣鏡って、4世紀後半なのか。
それだけで畿内説が大崩壊だな。 >>612
墳丘外周で西新式土器も出ているので、この場所が西新式期をスタートとして、その後も墓域として使用されたと考えることができる。
吉野ヶ里の北墳丘では、その側に継続して甕棺墓が造営されているので、この吉野ヶ里と同じケースだとみなすこともできる。
須恵器が出ているから祇園山古墳が5世紀の築造だ、とは言いきれない。
もちろん、墳丘の中から須恵器が出たのなら、これは5世紀以降の築造とはなるが。 ▲や前方後円墳を畿内説の根拠にしてる学者は今ではいねーし
ここの畿内説の輩は相当遅れてるな >>830
この「卑弥呼の冢補論ー祇園山古墳とその周辺」のサイトでは、県教育委員会の報告書の抜粋なども掲載されており、それには「地山削りだしの際に周囲の埋葬主体を上面カットしたものとは認められない」と書かれている。
外周部の埋葬体の頭の方向などについても書かれている。
墳頂の被葬者に対する外周部の墓の関係については、ほとんどが同時期か若干新しいものとされている。
墳丘自体を5世紀の築造とする見解にはなっていない。 >>829
1年分の二十四節気を円環上に置くほうが、非科学的なのだ。
何の根拠もない配置のしかただ。
3年分配置のほうが、太陰太陽暦の3年ごとの閏年設置の考え方に、同期している。
3年分のほうが、根拠がちゃんとあるのだ。
太陰太陽暦と合わせてあるのだ。
これが、元々の円環上配置のしかただよ。 >>827
また、デタラメこいとる。
4年に1回は、太陽暦のユリウス暦じゃ。 太陰太陽暦と太陽暦の違いが判らないのではないのかな >>839
二十四節気は完全なる太陽暦だから三年爺が無学じいさん >>839
みんな、知ってるわい。
知らんのは、だれかさんだけだ。 >>842
天文官だった司馬遷が、太陰暦の正月を冬至とするための作業に加わった。
二十四節気はその冬至を提供したのだ。
二十四節気の中国における地位は、それくらい重要だったのだ。
ちょっとは、勉強せよよな。 まあ、祇園山が卑弥呼の墓に一番近い位置につけとるわな。
しかし、卑弥呼の宮室が久留米にあったとは、とても信じられん。
卑弥呼の宮室は山門だ。 >>840
西新式が外周で出ていて、それより古い土器は出てないんだからなあ。
西新は卑弥呼の時代の土器だぞ。 二十四節気は
中国の戦国時代の頃、太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、
一年を12の「節気」(正節とも)と12の「中気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。
重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分は併せて二至二分(にしにぶん)と言い、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立(しりゅう)、
二至二分と四立を併せて八節(はっせつ)という。太陰太陽暦では、暦と季節のずれを正すために用いられる。 >>846
つまり二十四節気は太陽暦
三年爺さんは無知無学すぎる >>847 あわてるな
太陰太陽暦では、
暦を季節と月相の双方に一致させなければならない。
そのため、理屈の上では2種類の閏がある。ただし、通常は暦と月相を一致させるシステムは閏とは呼ばれず、
暦と季節を一致させるための閏のみが存在する。
太陰太陽暦では1暦年の長さは平均朔望月のほぼ整数倍でしか選べない。
1平均回帰年は12.368平均朔望月なので、平年は12ヶ月(354日前後)、閏年は閏月が挿入されて13ヶ月(384日前後)となる。
閏年を2.715年に1回
入れれば、平均暦年と平均回帰年が一致する。 景初4年は日本では存在するが
中國では存在しない
存在するならば景初4年と記述された中国の古文書を示してほしい。 >>848
あほだなあ
二十四節気は太陰太陽暦に閏月を入れる判定基準の太陽暦だから、動かないの
判定基準は月内に中気が入るかどうかだから、三年分など必要ない
そんなものを必要とした人もいない >>848
>閏年を2.715年に1回
つまり、三年おきなんてウソウソってこと
三年おきと二年おきが混在する
二十四節気三年ぶんを円周に割り振るなんて、誰もやらないし、する必要もない >>845
>西新は卑弥呼の時代の土器だぞ。
しれっとうそこくんじゃねー >>633
>>渡来楽浪鏡師らは、当然の事ながら、手持ちの材料銅を持ちこんで来ており、
列島に残存していた漢鏡やホウ製鏡や銅矛などの武器や銅鐸等も、
鋳つぶして材料銅に使ったであろうから、 素材銅が魏晋鏡に類似したって何らおかしくない。<
>列島に残存していた漢鏡やホウ製鏡や銅矛などの武器や銅鐸等も、
鋳つぶして材料銅に使ったならば、 素材銅が魏晋鏡に類似したらおかしい。
異質な素材が混ざれば魏晋鏡に類似しない。<
元々、魏晋鏡と列島鏡との「材料銅の完全なポイント的一致」など、と望むべくもない。
スプリング8も、ポイント的完全一致ではなく、大体の領域的近似的一致であった筈。
材料銅が徐州銅であったとしても、徐州銅の中でも「不一致が存在する」もの。
要するに、確率的な一致、というデータしか得られない。 >>642
>年号どころか、左右逆に打っちゃってるんだからもう下賜の態を成していない。
ことごとく、汝の国中の人に示し、我が国が汝をいとおしんでいることを周知すればよろしい。
と言っているのに、
その鏡の銘が、洛陽出身のオ様が作った鏡なんや〜とか、有り得んだろ。<
成程。古田さんらも指摘しておられた事だな。 >>643
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・宗教の大和説者らには、
そんな「口先でのヘイトスピーチ誹謗中傷」で世間の人々を騙す事位しか、
残っていない 。 >>855
それ、もう古い情報だよ
今は西新式がもっと後まで続いてたことが判ってる >>653
>>「銅出徐州 師出洛陽」も、中国や魏では何の自慢にもならない事だから、
むしろ列島産であった証拠。<
>なら、どうして 「銅出徐州」銘の鏡が中国で出てるんだ? ばかですか <
「銅出徐州 師出洛陽」という「出目自慢」を鏡に銘しなければならなかった、
という事は、その鏡師は、鏡の希望の客に対して、
自分の出目や材料銅の品質が立派なっものなのだ、
と言い訳しなければならないような地位身分の鏡師であった、
という事を示す事だから。 >>662
>>何度も言ってある。「海東」鏡と「銅出徐州 師出洛陽」鏡の国分茶臼山古墳があるから、
呉系楽浪鏡師らが、手持ちの中国の材料銅を持ちこんで△を造った、 という事が明らかだから。<
>なんで? なんで「海東」鏡と「銅出徐州 師出洛陽」鏡の国分茶臼山古墳があると
呉系楽浪鏡師らが、手持ちの中国の材料銅を持ちこんで△を造った、 という事が明らかになるの?
なんにも論理的なつながりが無いんだけど <
「海東」や「銅出徐州 師出洛陽」などの奇妙な銘が、何故必要であったのか?、
という理由を考えた上での、帰納的確率的な推論。 >>664
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説=理由ヌキ結論断定レンコ。
この構図が確立しとるな。 >>665
>なんの理由もなくお経となえても畿内は調伏できないのだよ <
「畿内」なんて嘘吐き騙しの文言など存在もしなかった古代において、
なんの理由もなく、「南→東」など史料脂質の否定曲解の嘘吐き騙しのお経となえても、
世間や国民は、調伏できないのだよ。 ここまで毎日ウソついてたら
一体誰がザラコクを信用する? 二十四節気君は、冬至から夏至までを等分して1節気5度ずつとかいっているけど、
そもそも、日の出方向は等速で動かない
夏至冬至の近くではゆっくりで、春分秋分の頃が一番速い
これを円環状に3年分配置する理由が本当に心底どこにもない
夏至から冬至まで行ったあと、戻り始めるのを
そのまま延長して進んでいくとする時点で意味不明ww >>865
つか、円環状に3年分配置した人って、歴史上だれもいないよな この3年というところにどういう意味があるんだ?
別に2年でも4年でもいいじゃね >>867
むりやり5度という数字を手に入れるためでしょ
むりなのに >>667
ほらな。
「南→東」などの嘘つき騙しの根拠も言えずに逃げ、
「口先言葉尻」の誹謗のヘイトスピーチをするしかない大和説は、
根拠が出せない・・・・キョクウのトンデモ説だ、ということだ。 >>669
>なんで明帝の詔書の後だと 明帝の下賜の銅鏡百枚にはならないのか?
と、聞かれると答えられなくて発狂するザラコク<
難升米らに
「有り難きご詔書でございますれば、
では直ちにの持ち帰って卑弥呼様に届けさせて頂きます」とでも言われたら、
皇帝側は、「いや、ごめんごめん申し訳ございません。
まだ用意出来ておりませんでしたので、至急揃えさせていただきます」というような、
明帝の失敗を知られてしまうような事になるから、
皇帝側は、きちんと準備が出来てから詔書を発表するもの。
こんな事は、当たり前の事であり、以前に2〜3度書いた事もある事であり、
この大和説男は、そんな事も判らない・・・・アホであった、という事。 >>672
「南→東」などの嘘つき騙しの、
万世一系皇国史観のオレ様らのら大和説が正しいから、
オマエの説は間違いなんだ、 という論理構築では、
決して議論に勝てないことをちっとも理解できない大和説者の悲劇。 >>676
まったく、反論根拠の出せない、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説者の結論、
ワロタ。 >>677
いや、この大和説者も、「南→東」などの嘘つき騙しの根拠が言えないから、
究極のアホでんがな。 >>870
つまりザラコク爺さんの想像しか根拠が無いのね
それじゃ話にならんわ >>681
破綻したのは、それは、
「南→東」などに嘘つき騙しの「万世一系皇国史観八紘一宇殺人戦争」に狂った、
大和説のおまえの脳だよ、
それは・・・。 >>682
韜晦で、「南→東」などの嘘つき騙しをごまかして、
倒壊した大和説 。 >>692
このように、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの、
アンチ九州説の「万世一系皇国史観狂」の大和説者は、
いつもまったく証拠が出せない。
つまり妄言している。 >>695
>昼に卑弥呼の墓はホケノ山だとニンマリしてたら、
夜には脆くも崩れ去って箸墓に戻されてしまったw
魏の一歩は145cmなりw<
魏の一歩は、周髀算経の一寸千里により、「およそ一尺」なり。 話を戻すと、二十四節気君が、1節気5度刻みを言い出したのは、
吉野ヶ里北墳丘墓とそれに付随する立柱・祠堂の軸線が、
「南北方向から5度ずれてる」から、なんだよなww
単に、南祭壇の位置に合わせてあるだけなのに、
それを無理やり太陽信仰と結びつけるための詭弁
太陽信仰に結び付けなきゃいけない理由は、平原1号墓に
墳丘墓に軸線を合わせた大柱と小型建物という、吉野ヶ里と同じセットがあって
その軸線方向の日向峠を重要視して太陽祭祀と言いたいから
単純に、平原1号墓も太陽祭祀とは無関係だったと考えるのが妥当
平原5号墓にも墳丘に軸線を合わせた大柱があるが、これが1号墓とは
無関係な方角を向いている
いずれにしても、北部九州に太陽信仰を示す遺跡、遺構はない
二十四節気君も、いい加減に諦めなよw >>709
>>久留米の祇園山が最有力<
>本体の地山成形時に、甕棺墓の上部三分の一が削られてしまっているんだが?
そもそも甕棺墓と段築葺き石のある古墳時代の方墳では、100年単位で時差がある<
この投稿に対する反論を書いて、投稿ボタンを押したが、
「このページを表示できません 対処方法
Web アドレスが正しいことを確認してください: https://lavender.5ch.net
Bing で "https://lavender.5ch.net" を検索してください
ページを最新の情報に更新 Details
という表示が出て、書いた投稿を全部消去否定されて、無くされてしまったから、
テスト投稿。 >>836
「地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められる」と言ってるのは
当初の調査にあたった久留米市教育委員会(その後、高良大社文化研究所長)の古賀寿氏
「古賀氏のいう上面カットしたとは認められない、後世の事情に因るのではなかろうか」
と言ってるのが考古素人の宝賀 計算を3寸間違えた男が出現して、また、何かの角度のことを、討論しようとしているのではないのかな。。。 角度は、計算するよりも、分度器で測れば良いな。。。 魏志倭人伝時代には、分度器があったのだろうか、、、 又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る、、、、、東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
末盧国や伊都国はどこにあったのだろうか。。。 >>886
末盧国や伊都国は、、、やはり、熊本城の北の方にあった可能性が、99.5パーセントあるのではないのかな。。。 吉野ヶ里城というのは、魏志倭人伝時代には、誰が城主だったのだろうか。。。 >>886
>末盧国や伊都国はどこにあったのだろうか。。。
末盧国は福津・宗像方面に決したのではないのかな。。。 @阿波 >>890
太陽の神が岩山に隠れたので、人民が困ってしまったのではないのかな。。。 >>890
太陽の神が岩山から出てきて欲しいので、他の神が、鳥を鳴かせたり、祈ったり、躍ったりしたのではないのかな。。。 >>709の書き直しでの分割再投稿
>>久留米の祇園山が最有力<
>本体の地山成形時に、甕棺墓の上部三分の一が削られてしまっているんだが?<
その事は、逆に、墳裾の埋葬が、「本体の地山形成」の後ではなく、
ほぼ同時期に実行された、つまり、殉葬や陪葬であった、
という事の証拠になるんだよ。 相変わらず説明せずに結論に飛躍してる
成長しないな >>893
>ほぼ同時期に実行された、つまり、殉葬や陪葬であった、
>という事の証拠になるんだよ。
殉葬のときに、殉葬墓の上面カットが行われるってどんなバカ理論だ?wwww >>883
破綻した畿内説の宣伝している、3寸男が、また何かの角度のことで、論破されてしまったね。。。 破綻した畿内説を宣伝している、3寸男が、また何かの角度のことで、論破されてしまったので、スレッドを埋め立てて、倉庫に格納しようとしているのではないのかな。。。 >>709のテスト投稿が通ったので、続き投稿。
>そもそも甕棺墓と段築葺き石のある古墳時代の方墳では、100年単位で時差がある<
そもそも、発掘報告学者の「50〜100年単位」という判断や解釈が人間的におかしいのであり、
一家族や一部族に「百人位にもなる死者が50〜100年位で発生する」、
という事が普通では起こり得ないのであり、
また、そんなに長い期間では、雑草が生い茂ってしまって、
前の埋葬の後が表面から全く判らず、
墳頂の主体墓に対して、側面正対する方向で、重複や攪乱もなく追加埋葬が出来る事も、
起こる筈がないから、
「50〜100年間の共同埋葬であった」という判断をした発掘報告者の頭がおかしい、
という事になる。 >>710
>>実は景初三年の紀年鏡であったために、<
>卑弥呼の遣使は景初三年が正しいというのが通説なんだがね
まあ、ザラコクは魏志倭人伝原理主義で、一字も間違いはないって
立場だから認めないだろうけどな<
根本的に、この「南→東」など嘘つき騙しの大和説男らは、
同時代の実見記録である魏志の信頼性と、
はるか後代の学者の「自己思想に拠る(犯罪者的な)魏志の記載の否定解釈 」という事の、
という事の区別が付かない・・・・アホだ、という事だろうね。
それが、大和説学者や大和説者らの特性であった訳。 >>905
次回のスレッドを作製してくれたので、感謝します。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ここは書き出しから妄想だらけの糞スレです。
>>1
>・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
根拠なし。 ここは書き出しから妄想だらけの糞スレです。
>>1
>・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
根拠なし。 >>721
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、説というより、
「万世一系八紘一宇の戦争皇国だったらいいな」という・・・・宗教だなw。 >>741
このように、
「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師の、
トンデモ大和説者の言うことは、
いつもイミフ。 >>750
>>憶測だから論理性に欠けるから<
>だからどこが憶測で、どこが論理性に欠けるのか「具体的に指摘」しなきゃ無意味だと何度言えば
九州だったらいいな説はいつもそんなもの<
だから、
どこが憶測ではなく、
どこが論理性に欠けないのかない?を、
「具体的に指摘」しなきゃ無意味だと何度言えば。
大和だったらいいな説はいつもそんなもの。 >>755
>九州説で何か新しい考古学上の知見あったっけ<
ダメだよ。
古代史に関しての学問は、不可知部分が殆どであるから、
文献考古などからの知り得た全ての情報からの、帰納的確率的な推論をすべきなのであり、
(文献をこっそり外して隠して)「何か新しい考古学上の知見あったか」なんて、
インチキ論理の話にすり替えて、国民を騙そうとしては、×だよ。
日本の考古学は、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者らの文部省や学会教育界や、
右翼マスコミらに殆ど支配されており、
だから考古学も、殆ど信用出来ない半分偽学状態であり、
文献と考古とを合わせた学問の再構築が必要なんだよ。 >>756
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説って、
いつも言うことに具体性がないね ?。w >>763
「南≠東」とか「南→東」とかの嘘吐き騙しへの反論が出来ず、
ひたすらお経や呪文やばかりをみたいに、
定型句を連呼するだけになっちゃった、大和説・・・。
あたま、壊れちゃってるね。 >>776
>>「南≠東」や、「大和は九州倭国から別れた別種の旧小国」や、
「大和は九州倭国の東征毛人五十五國の中の一国」や、
「冢≠前方後円墳」や、「大和の△は4世紀」などにもう反論不能で、<
>アンタ、それ全部テンプレで論破されてるよ そしてアンタは反論不能だ 事実を見ろ<
それなら、その「テンプレやスレ主の反論文」を転写してみろ?。
なぜ、転写しての議論をやらないんkね?。 >>799
「南→東」などの嘘吐き騙しのトンデモ大和説は、
いつも理由を言わない。
だから、世間から信用されない。 >>920
ザラコクがウソついてる事実の指摘だけすれば十分だからね 何度も、転写しての議論が実行されて、破綻した畿内説の宣伝係が、論破されてしまったな。。。、 破綻した畿内説の宣伝係が製作した、テンプレートには、嘘が多いな。 >>927
嘘が多いという真実を、発表したので、十分ではないのかな、、、 破綻した畿内説の宣伝係が、論破されたので、真実の証拠を集めているのではないのかな、、、
930日本@名無史さん2018/12/03(月) 14:48:25.60
>>928
真実だという証拠は? >>932
破綻した畿内説の宣伝係が、論破されたので、集めている証拠は、新しい宣伝方法にとって、必要になる可能性があるな。。。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>807
>www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
の一体どこに浙江省から三角縁が幾つも出ている事が書かれているの? ???<
www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
の、「中国出土鏡」の欄を見てみろ。 >>808
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解の、
どんどん「戦前の万世一系八紘一宇の戦争皇国史観」の、
トンデモの世界に堕ちていく大和説者。
もう学問には戻れないし、
戦争を引き起こして、国民を殺し合い戦争に引きずり込む事になるしか、
道はない。 >>811
>畿内大和が九州の何を説明すんの? あたま、大丈夫?<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙し文言。
唐会要倭国伝によって、倭國は「正北抵新羅」だから、北部九州。
そして、大和は、倭国の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
倭国の地方の市を監督する大倭職の国であったのであり、
そして倭国の「東征毛人五十五国」の将軍らに支配された国の中の一国であり、
九州倭国が、白村江で大敗した後、母国の倭国を併合吸収継承したの。 >>824
「南→東」などの嘘吐き騙しなどのように、
ひたすらウソをつき続ける大和説のモラル、すげえ。 >>830
>ザラコクの好きな宝賀寿男氏のところのウェブページにも
「当初の調査にあたった久留米市教育委員会(その後、高良大社文化研究所長)の古賀寿氏は、
同墳の墳丘が地山削出しの際、周囲の埋葬主体を上面カットしたと認められること、<
当然の事ながら、それは、「地山削り出し」の前の墳裾の主体群の埋葬が始まっていた、という事を示すのであり、
「50〜100年間」における共同墓地であった事の否定になること。
公務員学者の古賀寿は、大和説学者であるから、その事は判らなかったアホであった。
>それらの出土品に鏡・装身具・鉄器のほか土師器・須恵器があること、高良大社所蔵の三角縁神獣鏡が
かって祇園山古墳で発掘されたと推定されること等の事情から、同種の鏡を出土する古墳の
全国的な編年のうえで、四世紀後半の古墳かとみた、とのことである」
と、報告書からの引用が載ってるよ <
鏡も土師器も、(大和での編年との対応ではなく)、
九州での編年で見れば、卑弥呼の3世紀中頃でほぼピッタリであるし、
須恵器も、筑紫の弥生式土器と灰色の陶磁器との混在があちこちで見られたり、
吉武高木に古式須恵器が見られたりするなど、
卑弥呼の墓の3世紀中頃に、何の齟齬もない。 >>832
>それがウソだったんで九州説が死んだ<
庄内の前方後円墳の石塚が、
卑弥呼の冢の後の壹與の後の那珂八幡などよりの新しいために3世紀末になり、
△の無いホケノが、有棺有槨で庄内〜布留であったから3世紀末以後になり、
だから、庄内のない布留の箸墓は4世紀になり、
のそれ以後の△が大量にある大和の巨大古墳は、4世紀以後になった。 >>942
>鏡も土師器も、(大和での編年との対応ではなく)、
>九州での編年で見れば、卑弥呼の3世紀中頃でほぼピッタリであるし、
そんなこと言ってる専門家は一いなきけど >>834
>墳丘外周で西新式土器も出ているので、この場所が西新式期をスタートとして、
その後も墓域として使用されたと考えることができる。<
西新は倭人伝の不彌國地域であるから、
卑弥呼生存の頃には西新土器が存在していた筈であり、
卑弥呼の墓なら、当然、卑弥呼は土器も鏡も装身具も最新的なものが選択副葬され、
奴婢らには、古くからの土器や装身具なが副葬されておかしくない。
吉野ヶ里の北墳丘では、その側に継続して甕棺墓が造営されているので、この吉野ヶ里と同じケースだとみなすこともできる。
>須恵器が出ているから祇園山古墳が5世紀の築造だ、とは言いきれない。
もちろん、墳丘の中から須恵器が出たのなら、これは5世紀以降の築造とはなるが。<
須恵器に関しても、吉武高木の「古式須恵器」の存在や、
筑紫の遺跡で「弥生式土器と灰色の陶器片の混在出土」が沢山あったから、
卑弥呼の墓にも使われた可能性は十分にある。 祇園山は石棺が露出しているほど削られてるんだからもっと大きかったんじゃないかな。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>840
>祇園山は5世紀かよ嘘ついて3世紀とか酷過ぎるだろ<
祇園山は、「冢」でも、径百余歩でも、殉葬奴婢百余人でも、墳頂の箱式石棺でも、
墳裾の甕棺や竪穴式石棺でも、土師器の古い方でも、西新式でも、△でも、
須恵器でも、いずれにしても3世紀中後の「卑弥呼の冢」にぴったしだ。
5世紀とか、発掘報告者の4世紀だなんて、酷過ぎるだろ?。 破綻した畿内説の宣伝係が、論破されたので、やる気を失ってしまったのではないのかな、、、 >>895
それは、実際の太陽移動を考慮しないことから生じる妄想。
特定の一点に立って西の山並に沈む太陽を観測し、その最南点から最北点までの移動の半年分約182日を24節気の半年分12節気で割ると、一節気当たり約15日の日数になる。
この15日分を、その特定の一点から見て、角度を求めれば、その角度は5度になる。
これが一節気15日=5度の角度という理解。
ただ、古代の中国人が円環を360度に分割し、1刻みを1度として、その5倍を5度とするというような現代式の認識をしていたかどうかは定かでないが、太陽の最南点から15日目の方角を次の節気の初日と理解していたことは、明らか。
その15日目の方角を、われわれは、起点から5度の角度だと表現しているわけ。
角度はあくまで、現代のわれわれの理解のしかた。
古代では、(15日目の方向)というふうに理解していたかも知れない。
しかし、漢書地理誌では、方位について、(分)という言葉が使われているので、(分度)という認識はあったとみていいのではないか。 >>854
>>西新は卑弥呼の時代の土器だぞ。<
>しれっとうそこくんじゃねー<
西新町は、魏志倭人伝の不彌國の位置であり、
不彌國は(戸ではなく)「家」の記載であるから、魏の支配からは独立的であり、
西新町には半島人の居住家屋もあり、
卑弥呼の時代の存在した。 >>855
www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html
に拠れば、
柳田は、北部九州では、西新式と土師器は併存していて200〜300年の編年だな。 >>868
>むりやり5度という数字を手に入れるためでしょ むりなのに <
別に「むりやり」でもない。
夏至の日の出の位置は、真東から北へ29〜30度の場所。
冬至の日の出の位置も、真東から南へ29〜30度の場所。
半年の6か月で約60度になり、二十四節季の半分の12節季で約60度である、
という事になるから、
1節季の平均は5度位だろう、という事になる。 あのーーーー
景初4年の記述された中国の文献、見つかった??? >>874
>>難升米らに
「有り難きご詔書でございますれば、
では直ちにの持ち帰って卑弥呼様に届けさせて頂きます」とでも言われたら、
皇帝側は、「いや、ごめんごめん申し訳ございません。
まだ用意出来ておりませんでしたので、至急揃えさせていただきます」というような、
明帝の失敗を知られてしまうような事になるから、
皇帝側は、きちんと準備が出来てから詔書を発表するもの。
こんな事は、当たり前の事であり、以前に2〜3度書いた事もある事であり、
この大和説男は、そんな事も判らない・・・・アホであった、という事<
>つまりザラコク爺さんの想像しか根拠が無いのね それじゃ話にならんわ <
いや、明帝側が大恥をかく、という事は「人類の常識」。
つまり、この大和説男らは、「人類の常識」知らずの・・・・アホであったんだろう、
という事。 >>896
>>ほぼ同時期に実行された、つまり、殉葬や陪葬であった、
という事の証拠になるんだよ。<
>殉葬のときに、殉葬墓の上面カットが行われるってどんなバカ理論だ?wwww<
この大和説男が、また曲解捏造しての誹謗をしている!。
「殉葬のときに、殉葬墓の上面カットが行われる」なんて言っていないね。
何人かの奴婢の殉葬が埋葬された後に、本体の冢の成形工事が行われ、
その本体工事が終わって卑弥呼や残りの殉葬奴婢らの埋葬も行われた事を、
「ほぼ同時」の埋葬だった、と言ったんだよ。
つまり、大和説学者の古賀寿の「百年間の共同墓地」説は、インチキだった、という事。 相変わらず非論理的な反論だ
どうしてそう考えたのか全く説明が無い ◆FAQ 3
机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
イミフ
魏使は現場に行って南と言っているのだが・・・・ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>954
>この15日分を、その特定の一点から見て、角度を求めれば、その角度は5度になる。
何度もいうが、太陽の日の出位置の移動は、15日ごとに等間隔にはならない
夏至や冬至の近くではほぼ動なくなるし、春分、秋分の近くでは、15日で5度以上動く
サインカーブって知ってるか?(そこまで正確にサインカーブを描くわけではないが)
この時点で、現実から遊離しているし、5度刻みを正確に測る手段がない
(角の等分は幾何学的に困難)
いい加減に、脳内妄想(3年分で1周ww)から目覚めなよ
どうやっても無理筋の憶測をいつまで引っ張る積もりなんだかw
何処まで恥をさらせばすむんだ? >>964
>魏使は現場に行って南と言っているのだが・・・・
>>964
魏使が現場に行って南と言っている
という証拠は? >>960
>景初4年の記述された中国の文献、見つかった???
有名だと思うけど? 知らないのかな?
晉書/卷012 月奄犯五緯
景初元年七月,公孫文懿叛。
二年正月,遣宣帝討之。
三年正月,天子崩。
四年三月已巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。 >>915
>答えられないからオウム返しで逃げる<
もう何度も答えてあるし、説明してある事を、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説男が、
知らん振りして、聞いていない振りをして、
「答えられないから」と言っているだけであり、
同じ事を繰り返しては、読んでおられた読者らには迷惑になるだけだから、
返事が不必要で、むしろ大和説者側への批判になる事だと思えば、
世間の人々にも判りやすいように、
鸚鵡返し投稿をしているだけ。 >>969
>もう何度も答えてあるし、説明してある事を、
という証拠は? 前にも書いたんだが、魏使が方角を間違うはずがないと言い張る人たちは、
その間違えなかった方角をどうやって大陸中央に伝えたと思ってるのかな?
もちろん、魏使は漢字が使えるから、書の形で伝えたって所まではいいけれど、
この時代の書というのは、木簡や竹簡の束だって理解してるかな?
紙はまだ外国まで持っていくほど普及しているわけではない
木簡や竹簡ではこと細かく書いていたら大量になってしまってかさばるから
当然、戸数道里を略載する程度の情報量になるし、方角を記したものが
一本抜けたら、方角は分からなくなる
魏使が方角を間違えなかったとしても、それが遺漏なく正確に伝わるものでもない
日本海経路では、
1.北部九州から出雲まで水行20日
2.出雲から丹波まで水行10日
3.丹波から大和まで陸行1月
となるが、この経路の1と2で方角が記されておらず、
3の南向きの陸行だけが記録にあった場合、それに引きずられて
全行程が南とされてしまう
短里を捏造するよりは、蓋然性が高いw >>919
>この人ホントに壊れてるよ<
この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説男は、精神的にも人間としても知能的にも、
ホント壊れているね。 >>946
>祇園山は石棺が露出しているほど削られてるんだからもっと大きかったんじゃないかな<
祇園山のどこの石棺の話なんだ?。
墳頂か墳裾か?。
墳頂の箱式石棺から、盗掘されているんだよ。 >>966
>>この15日分を、その特定の一点から見て、角度を求めれば、その角度は5度になる。<
>何度もいうが、太陽の日の出位置の移動は、15日ごとに等間隔にはならない
夏至や冬至の近くではほぼ動なくなるし、春分、秋分の近くでは、15日で5度以上動く<
勿論、「節季」という区分自体が「大体論」的な論であり、近似的な概念であるから、
大体の数字や位置であって、それで問題はない。
この「南→東」などの嘘つき詐欺師の大和説男は、
自分が「南→東」のような90度もの曲解のウソ付き騙しをしている事を隠して、
九州説者の「1〜2度程度の差異」に、目くじらを立てて、誹謗している。 >>968
>>景初4年の記述された中国の文献、見つかった??? <
>有名だと思うけど? 知らないのかな?
晉書/卷012 月奄犯五緯
景初元年七月,公孫文懿叛。
二年正月,遣宣帝討之。
三年正月,天子崩。
四年三月已巳,太白與月俱加景晝見,月犯太白。占同上。<
何度も言うけど、晋書は、
はるか後代の唐代の文書であり、
「魏志を自己解釈に拠る書き換える」事を実行していた書であり、
「四年三月已巳」と書かれても、
実際に魏代での「景初四年」の記載の存在証拠にはならないんだよ。 朝鮮半島の西岸を南に四千里、南岸を東に三千里、対馬海峡を南に三千里。
おおむね東南、または南南東。 >>974
それは阿蘇山のある九州にいた倭王多利思比孤が出した国書の書き出しだ。
聖徳太子じゃないからな。 >>971
>前にも書いたんだが、魏使が方角を間違うはずがないと言い張る人たちは、
その間違えなかった方角をどうやって大陸中央に伝えたと思ってるのかな?
もちろん、魏使は漢字が使えるから、書の形で伝えたって所まではいいけれど、
この時代の書というのは、木簡や竹簡の束だって理解してるかな?
紙はまだ外国まで持っていくほど普及しているわけではない <
紙を持っていたのか?は、不明だが、
魏使らは、詔書(おそらく紙)と金印などの他にも、
「絳地交龍錦五匹、絳地suu粟kei十張、sen絳五十匹、紺青五十匹」や、
「紺地句文錦三匹、細班華kei五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤」
をも運んでいるんだから、木簡や竹簡もおそらく紙や布などを持っていたんだろうし、
卑弥呼の方も、上表文を書いているんだし、硯も発見されているんだから、
倭側にも木簡や竹簡や紙や布を持っていた可能性がある。
>木簡や竹簡ではこと細かく書いていたら大量になってしまってかさばるから
当然、戸数道里を略載する程度の情報量になるし、方角を記したものが
一本抜けたら、方角は分からなくなる<
魏使らは、木簡も竹簡も紙も布も持っていた可能性がするような十分にあるから、
大和説者が妄想するような「一本抜ける」というアホな事は、殆どあり得ない。
>魏使が方角を間違えなかったとしても、それが遺漏なく正確に伝わるものでもない<
魏使らは、記録する事が仕事であるから、「遺漏なく正確に伝える」ものだ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>978
>日本海経路では、
1.北部九州から出雲まで水行20日
2.出雲から丹波まで水行10日
3.丹波から大和まで陸行1月
となるが、この経路の1と2で方角が記されておらず、
3の南向きの陸行だけが記録にあった場合、それに引きずられて
全行程が南とされてしまう
短里を捏造するよりは、蓋然性が高いw<
郡からの「折れ線的道のり距離」の合計の萬二千余里が不彌國でほぼ終わっているから、
日本海経路そのものが、存在せず、
だから、
「この経路の1と2で方角が記されておらず、3の南向きの陸行だけが記録にあった場合」
という仮定の設定自体が、始めから分裂幻覚の妄想の嘘つき騙しであった事になり、
従って、
「それに引きずられて全行程が南とされてしまう 」ものだ。
「短里を捏造するよりは、蓋然性が高いw」も、
分裂幻覚の妄想であった、という事になる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったので、今後は、国民から空想科学小説として扱われます、、、
だから、次回のスレッドを、SFの掲示板に作製しました。。
邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/ 邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったので、今後は、国民から空想科学小説として扱われます、、、
だから、次回のスレッドを、SFの掲示板に作製しました。。
邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/ 邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったので、今後は、国民から空想科学小説として扱われます、、、
だから、次回のスレッドを、SFの掲示板に作製しました。。
邪馬台国畿内説 part1
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/ このスレッドは1000を超えました。
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