邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 「あいだに入って協力する」「上手くいくように協力する」などは全部詐欺
ある日突然、就職・昇進・恋愛などであいだに入って協力するという親切な人が登場し、
時には親身に話を聞いたり、時には盛り上がって一緒に酒を飲み、おごってくれたりもします。
警察官や公務員のケースもあります。
しかし、実際には何も協力などせず、勝手にその人の人生が上手くいくのを待っているだけです。
そして、ターゲットが自力で人生を切り開いた時から、本格的な詐欺が始まります。
あいだに入って協力したとして、「御礼」を要求されるのです。
不法行為に協力させられると、泥沼にはまって経費流用や情報漏洩も要求されます。
上手くいかない時には、適当な人物の名前をあげ、○○が政治的な動きをしたから駄目になった、
○○がいなければ上手くいったのに、あいつのせいだと言い逃れをするのも特徴です。
皆さんも、詐欺にだまされないよう気を付けて! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 漢使は目をつぶっていても、北部九州倭国に到達できたわけです。
狗邪韓国までは、楽浪官吏の案内。
対馬海峡渡海は、倭人の案内。
けれども、漢使は観光に来たわけではなく、
金印を授与するという外交職務のために来たわけです。
自分が連れていかれている場所が、本当に倭国なのかどうか、
確認しておく必要がある。
そのために、倭地にいる楽浪官吏に命じて
先んじて送らせておいたのが、里程。
漢使が来倭する、7月後半の太陽の方角を起点にして書かれていたわけですね。 その里程を忠実に辿ると、漢代伊都は吉武高木遺跡。
そして倭国内での最終地点が不弥国=雀居遺跡であることがわかります。
渡来人。環濠で囲まれた高級住宅地。
一世紀に外交文書を何度もやりとりした証の机が出土しています。
硯で書いて、
鉄製刀子で削り取る=消しゴム。
削り取る時に机にキズがつくわけですね。
外交文書を仕上げる時は、必ず委奴国王が立ちあったことでしょう。
かなり高い確率で委奴国王自身が文書作成したでしょうし、
そうでなくても、書記官の傍らに立って、ここを直せ、バランスが悪いからここを削れ、
と、あれこれ指示を出したことでしょう。
つまり、机についたキズは、委奴国王=大国主が、自らの手でつけたキズ、
である可能性が非常に高いことになり、
もはやとんでもなく貴重な超一級の考古学資料、ということになります。
神話の登場人物の生きた痕跡が、21世紀の現代に突然ありのまま登場しているのです。 三国志によると、沃沮、高句麗、濊、は同じ源流を持つそうです。
読めば一目瞭然なのでいちいち書きませんが、
古代日本と共通する風習が非常に多い。
さらに積石墓や、〇〇壁画など、考古学的な裏付けもあるわけです。
〇奴国、委奴国、というのは、源流が同じ委奴国王だからこそ
つけた国名なわけです。
雀居遺跡は洪水で流されていますが、
その出土品の中に、国産の内行花文鏡(連弧文鏡)があります。
これは、後の狗奴国領域で流通していた銅鏡の祖。
倭国を乗っ取るのに失敗して、国譲りで失脚した委奴国の末裔が、
捲土重来を期して、狗奴国を立ち上げた、という推論も十分に成り立ちます。 過去スレで書きましたが、
国津神のもう一人の重要人物、猿田彦。
これは、サルマトイの出自ですね。
それが沿海州まで来て、さらに北部九州までやってきた。
大山祇の支配下の工人となったのか、
あるいは委奴国王の片腕として、大山祇の地方女王を娶ったのか、
は、わかりませんが、
オンドル式短剣です。
柏崎遺跡の天神族五王家に嫁いだ、大山祇系女王国の女性=木花開耶姫の母
の一族が所有する、琵琶湖沿岸の現高島市の荘園、
にささやかな鉄工房を作ります。
天孫降臨に関わり、倭国の銅鏡製作技術を飛躍的に向上させます。
同じ渡来系技術者でも、時代が違うので、
大国主は小形仿製鏡止まり。
猿田彦はほとんど舶載鏡と見紛うばかりの高いレベルを持っていたのですね。 大国主=委奴国王については、
三国志東夷伝における、沃沮、高句麗、濊、との共通点。
東夷伝里だと、不弥国が雀居遺跡を指している。
そこに鉄製刀子キズがいっぱいついた机が出土。
金印とも陸続き。
中広形銅矛。
猿田彦については、
オンドル式土器
比良山高島市
熊野本遺跡の鉄器
などの根拠があるわけです。
本来は倭国の、むしろ縄文から続く大山祇も、
銅矛銅剣戦争で敗北した際に、
各地大山祇女王が大国主の後宮に入ったため、
大国主の血が色濃く入っています。 北部九州のみに、数多くの弥生王墓があるわけですが、
時代を経て続く王墓群となると、
実は吉武遺跡群と、三雲遺跡群しかありません。
三種の神器の発祥地であり、宮殿が維持され続けた吉武遺跡。
紀元後に始まる三雲遺跡。
倭人伝の記載と合致しますね。
漢代伊都と、魏代の首都です。
彼らが天神族と天孫族。
では、国津神とは、実は、土着のようでいて・・・ 漢代倭奴国と魏代伊都国だろ。
その筑紫の日向の伊都への天孫降臨の最後の案内役が猿田彦であり、陸海を照らす(支配する)施政者として登場する。
おそらく博多湾沿岸の将軍職であったのだろう。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 以上、古田原田の北部九州王朝安物説は,,, これでおしまい! >>501
>では、国津神とは、実は、土着のようでいて・・・
うん、国津神は天津神より先行して渡来した部族ということだね。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 雀居遺跡にはなぜか縄文系の女性が何人か埋葬されています。
銅矛銅剣戦争で敗北した銅剣女王国からの、各地の地域女王たちの一部でしょう。
ここが王だとまずいなら、書記官ということでいいでしょうが、
いずれにせよ、
一世紀の木簡が見つかる可能性が最も高い遺跡、ということになるでしょうね。
なにしろ洪水で流されているのですから、
書庫(木簡庫)が流されていて回収されないままになっている可能性があるわけです。
お宝の山ですよ。 雀居遺跡
ふりがな:ささいいせき
時代:縄文/弥生/古墳/古代細分不明
所在地:福岡県福岡市博多区雀居(福岡空港西側整備地区) そう言えば、伊都国の官の禰宜って、伊都国の先代の王家の初代の邇邇芸の末裔だよね。
倭王を祭る立場に格下げされたんだね。
それが嫌で磐余彦は筑紫を飛び出したんだ。 何をもって格下げと言うかによる。
天皇だって、実権を握っていた時代の方が少ないからね。
藤原氏とか幕府とかが政治を行っていたし、
外交だって彼らが日本代表として意思決定していた。
国家元首 天皇、国王、大統領 と、
政治代表 首相 のような関係だったのではないかな。
だとしたら、我々の祖先は、
超高度な政治感覚を既に古代から持ち合わせていたことになるけどね。 確かに倭王と大宰率と禰宜が全員伊都にいたなら、かなり高度に外交、内政、祖先(天孫族)の祭祀を分担していたことになるね。
そしてそこには後世の制度の下地があったことになる。 >そしてそこには後世の制度の下地があったことになる。
ですね。
私は、禰宜=倭国王=邪馬台国王(8代)、卑弥呼=摂政、だと思っていますが。
記紀があえて無視したのは、
卑弥呼に金印を渡したことと、倭国王を官よばわりしたことでしょうね。
官よばわりは、委奴国王の放った言霊でしょうね。
さらに問題があるとすれば、その時の倭国王がうっかり者で、
うっかり銀印をもらってしまったのかもしれません。 外交の一大拠点でもあった伊都国には、
倭の渡航船や外国船が出入りする、立派な港があったことだろう。
やはり那の津という良港の存在は大きかったと思うな。 那の津は福岡市のほうで、国内船の荷揚げ港ですね。
那珂遺跡に集まる土器を見れば、
北部九州倭国が次第に領土を広げていく様が手に取るようにわかります。
外国船は、唐津湾を経ての船越湾(糸島)着ですね。 船越湾というのは
東の今津湾から入った一番西の奥と、西の深江湾から入った一番東の奥が背中合わせになってるところだな。
昔は、小さな船なら、その間を引っ張って越したから船越というのだろうな。
ほう、そんな外国船対応の良港が、糸島中央のしかも前原の目の前にあったのか・・・。 前原(船越)で上陸、東南500里で三雲(平原)...
うーん、500里というより、せいぜい50里だけどな,,,, 末廬国の港は呼子か名護屋浦付近(呼子か名護屋浦付近〜伊都GC付近が末廬国)
東南500里で伊都GC付近(伊都GC付近〜飯場峠が伊都国)
東南100里で飯場峠(飯場峠〜セブンミリオンCC付近が奴国)
東100百里でセブンミリオンCC付近(セブンミリオンCC付近より先が不彌国) うーん、伊都国の素晴らしい港までは、
500里というより、せいぜい50里なんだけどな,,,, 伊都国にはいい港が無かったんだよ
海外使節には末廬国の呼子か名護屋浦を使い
国内へは奴国の港を使っていた。 >>524
>海外使節には末廬国の呼子か名護屋浦を使い
対馬海流に流されて、「末廬国の呼子か名護屋浦」は有り得ない と、何度言えばw @阿波 糸島市前原の北に、泊という地名がある。泊保育所という現在施設もある。
南の山地から流れ出した雷山川?が北の糸島半島に突き当たり、大きく西へ転ずるところだ。
この辺りはかって深い入り江であり、周辺には多くの古代遺跡もある。
泊という地名は、この入り江の一番奥に、泊という良港があったことを伝えているのであろう。
原田大六は、西端の深江という小さな港のことは詳しく述べていたが、この前原の泊のことはまるきりスルーしている。
江戸時代にはすでに開拓されて一帯は水田になっていたので、
糸島・前原地先に良港があったことには気づかなかったのであろうか・・。 >>526
>江戸時代にはすでに開拓されて一帯は水田になっていたので、
>糸島・前原地先に良港があったことには気づかなかったのであろうか・・。
良港を水田にしてしまうほど愚かな妄想。 @阿波 >>527
弥生時代の中頃までは、西の深江から東の今宿迄、海が通じており、
糸島水道といった光景だったのだろう。
それが、弥生農耕社会になり、流出した土砂で順次埋まっていき、弥生末には泊付近は天橋立状態だったとみられる。
同様に出雲の国も、弥生時代の差鉄採取の土砂で、出雲ー松江ー米子間の水道が埋まった。
これを、大国主のくにびきという。 >>528
>それが、弥生農耕社会になり、流出した土砂で順次埋まっていき、弥生末には泊付近は天橋立状態だったとみられる。
そんな「流出した土砂で順次埋まっていく」ような不良な場所が「良港」などと妄想も甚だしい。 @阿波 >>529
なかなかのツッコミをするじゃないか。
阿波も、昔は良港だらけだったのだが、土砂の流出で不良ばかりになってしまった。。。 >>530
糸島の寒村と一緒にされると迷惑。 @阿波 糸島寒村説は、当たらずといえども遠からず、、、
三世紀の糸島地方は博多奴国の王や諸侯の墓場地帯だった。
大古墳ができるようになったのは4世紀以降のことだから、三世紀の倭人伝の伊都国とは何の関係もなかった。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 古墳は関係ないよ。
行政事務も鏡の製作などの工業も、糸島平野に集中していた。 そして糸島には、近くて便利な前原に「泊」という良い港があった。 >>533
>三世紀の糸島地方は博多奴国の王や諸侯の墓場地帯だった。
筑紫「忌部はん」 のね。 @阿波 >>537
阿波のレスは芸がない。いわく無芸大食。 >>536
>そして糸島には、近くて便利な前原に「泊」という良い港があった。
そんな「流出した土砂で順次埋まっていく」ような不良な場所が「良港」などと妄想も甚だしい。 @阿波 木を伐り、畑にしてアワをつくり、泥土を海に流した@阿波の先祖が悪い。 >>541
>木を伐り、畑にしてアワをつくり、泥土を海に流した@阿波の先祖が悪い。
筑紫「忌部はん」 だね。 君のご先祖だよ。 @阿波 阿波のレスには、相変わらず芸がないな。
無芸大食の忌部飯は、
アワ入り麦飯は食っても、コメの飯など食ったことがないのだろう。頭の回転がイマイチ。 >>540
小型船が主体だった中世までは砂浜を港にする方が多かっただろ
舟を引きずって浜に押し上げるんだ
流出した土砂で埋まることのデメリットは近現代ほど深刻じゃない
といっても、流出土砂で大阪湾が埋まって住吉あたりに存在していたナニワ津が廃止されたように、影響ナシとは言えないな >>544
>小型船が主体だった中世までは砂浜を港にする方が多かっただろ
そうだね。 どう転んでも末盧国は「砂浜を港にする」福津辺りだね。 @阿波 中国の船が関西方面に来れるようになったのは
平清盛が瀬戸内海航路を整備し神戸港を築いて以後のこと
それまでは九州止まり。 >>546
>それまでは九州止まり。
福津辺りに着船・上陸・陸行して、築上町辺りからまたまた出航するんだよ。 @阿波 そもそも関門海峡を船が通過できるようになったのが仲哀天皇による開削からだから。 >>544
小型船かどうかわからない
中国船だったらすでに帆船だよね?
小型船に乗り換えた後に入港ならわかるがね >>549
だから、対馬海流でも遠浅の砂浜でも、どうやっても末盧国は福津辺りとなる。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>552
>あら、呼子だったらいいわよ
呼子は対馬海流でも、遠浅の砂浜でも、即刻アウト! @阿波 >>548
冗談だと思うけど関門海峡自然に出来たものですよw >>554
まさかとは思うけど、いちおう日本書紀にはそのように書かれており、それ以前の地名は穴門と呼ばれていた。
仲哀天皇の宮は穴門豊浦宮。 本居宣長の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。
それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。
平田篤胤によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となったという。 伝説ですね
阿蘇の立野を健磐龍命が蹴破ったみたいな 瀬戸内海ができたのが7000年前
縄文海進で関門海峡が貫通したのが5000年前らしい
その貫通が最初は地下の穴から始まったんだろね >>556
解読とか解釈とか称するけど実態は創作でしょ ポスポラス海峡はアレクサンダー大王が掘った運河だそうだよ
伝説なんてそんなもんだ 縄文人の関門穴門伝説を仲哀天皇がパクった。
出雲にもあるな、向かいの島根半島を、新羅から大国主命が引っぱってきた。
伝説なんてそんなもんだよ。 >>544
>といっても、流出土砂で大阪湾が埋まって住吉あたりに存在していたナニワ津が廃止されたように、影響ナシとは言えないな
糸島も、まったくその通り。
その昔、糸島半島とのあいだは海で、糸島水道だった。そしてちょうど中間の泊地区に良い港があった。
しかしその東西各4km、全体で8qほどの水道が、ほとんど流砂・泥土で埋まり、
西は加布里の船越湾として残り、東は今津の今津湾として残っている。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 泊地区に良い港があったなら何で魏使は末廬國に上陸したの? >>565
そうだね・・、 なんでだろ? なんでだろ? 泊【とまり】
>船舶が寄港・停泊するところで,風波を防ぐ海岸地形や防波堤などの施設,ひいては港湾全体をいう。
>海岸に沿って航行した古代・中世において,風待ち・潮待ちなどのため泊を設置した。
>中世までは〈津泊〉とも史料にみえる。
>奈良時代,行基によって創設されたという五泊(河尻・大輪田・魚住・韓・室)は,船で1日行程の距離をおいて設置されていたという。
>五泊では防波堤・石椋(いしくら)の維持のため,勝載(しょうさい)料と称する津料が徴収されていた。 港は深くないと大きな船は着けない
土砂で埋まるような港は浅くて小舟しか利用できない。 泊【とまり】
>船舶が寄港・停泊するところで,風波を防ぐ海岸地形や防波堤などの施設,ひいては港湾全体をいう。
>海岸に沿って航行した古代・中世において,風待ち・潮待ちなどのため泊を設置した。 「泊」の名が示す如く、古代には糸島・前原に立派な港があった。
埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。 >>572
>港は深くないと大きな船は着けない
それは、現代の大型タンカーの事を言ってるんだね。 @阿波 >>574
>埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。
後世に埋め立てられるような不良な場所に「立派な港」がある訳が無い。 @阿波 「泊」という名が、その立派さを物語っている。
阿波にそのような立派な名前の港があるのか。ないだろう。 >>577
>阿波にそのような立派な名前の港があるのか。ないだろう。
立派な名前??? なにをとぼけたこと言ってんの? よっぽど根拠が無いんだね。 @阿波 アワすとーりぃ?
それにしても、どういう話なんだろう、
小泉じゅんいちろーの話(老婆談)をしていた事があったり 家は『松傾』・・・こういう名前の家なんだけどw
住んでいるところは神奈川県の川崎というところ なんだ、阿波には「泊」と名の付く立派な港はないのか。
そうだろうな、有るとすれば、せいぜい素泊り一泊・・・円とかの88か所めぐり木賃宿、、、 >>581
>なんだ、阿波には「泊」と名の付く立派な港はないのか。
椿泊など。 そんなこと、本気で言ってんの? まじ、顔を見てみたい。 @阿波 どこだったかな?
一緒にビール工場に行ったりもしたとか、たしか横浜のほうの工場w
『松傾』? 徳島県阿南市 椿泊小学校という立派な小学校と、椿泊漁協もあるな。
南端の岬の和歌山に向いたところだが、ふか〜い入り江の中に在って、波にも風にも強そうな超優良港のようだ。
「泊」と名がつけば、立派間違いなしなのだよ!!、 >>560
文献ってのは執筆時点での、執筆者が知る情報と執筆者の考えが分かるだけで、それより以前のことについては分からないんだよ
古事記伝は本居の考えを記した物であって古代の事実を明らかにしたものではない。 本当に、テレビ(漫画なども同じ)とか、そういうのがあるでしょ、
何がしたいのか理解できないんだけど、必要ないだろう。
家の話ばかりしていたり、悪く言うと寄生。
出演している人々の給料?どこから出ているんだ? >>584
>徳島県阿南市 椿泊小学校という立派な小学校と、椿泊漁協もあるな。
>「泊」と名がつけば、立派間違いなしなのだよ!!、
どうしようもない人だね。 「泊」など全国津々浦々あるよ。 恥ずかしいからもう止めなさい。 @阿波
http://kakijun.com/kanji/chimei/6cca.html 311なども人工地震だと言っているのに、
それ以前の大震災も、そうなの? 数年前の、とあるスレ
誰々さんの家は、なぜ収入がないのですか?
と言ってる人がいたんだけど、家の話、家のことを言っているんだろう
あと人権侵害ばかりだし、調べてみた?
おそらくチンピラか何かが関係しているんだろう 数年前の、とあるスレ
誰々さんの家は、なぜ収入がないのですか?
と言ってる人がいたんだけど、家の話、家のことを言っているんだろう
あと人権侵害ばかりだし、調べてみた?
おそらくチンピラか何かが関係しているんだろう テレビなどの話
家は川崎(神奈川県)に住んでいるんだから、
TVKを中心にしないと、本来ならそうなんだよ
だから何もわかっていないという意味 『TVK』
ワニ(さめ)さん、ワニ(さめ)さん・・・
みたいなイラストが出てきたり 「泊」の名が示す如く、
古代には、糸島前原の平原遺跡近くに立派な港があった。
埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています