邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 >>565
そうだね・・、 なんでだろ? なんでだろ? 泊【とまり】
>船舶が寄港・停泊するところで,風波を防ぐ海岸地形や防波堤などの施設,ひいては港湾全体をいう。
>海岸に沿って航行した古代・中世において,風待ち・潮待ちなどのため泊を設置した。
>中世までは〈津泊〉とも史料にみえる。
>奈良時代,行基によって創設されたという五泊(河尻・大輪田・魚住・韓・室)は,船で1日行程の距離をおいて設置されていたという。
>五泊では防波堤・石椋(いしくら)の維持のため,勝載(しょうさい)料と称する津料が徴収されていた。 港は深くないと大きな船は着けない
土砂で埋まるような港は浅くて小舟しか利用できない。 泊【とまり】
>船舶が寄港・停泊するところで,風波を防ぐ海岸地形や防波堤などの施設,ひいては港湾全体をいう。
>海岸に沿って航行した古代・中世において,風待ち・潮待ちなどのため泊を設置した。 「泊」の名が示す如く、古代には糸島・前原に立派な港があった。
埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。 >>572
>港は深くないと大きな船は着けない
それは、現代の大型タンカーの事を言ってるんだね。 @阿波 >>574
>埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。
後世に埋め立てられるような不良な場所に「立派な港」がある訳が無い。 @阿波 「泊」という名が、その立派さを物語っている。
阿波にそのような立派な名前の港があるのか。ないだろう。 >>577
>阿波にそのような立派な名前の港があるのか。ないだろう。
立派な名前??? なにをとぼけたこと言ってんの? よっぽど根拠が無いんだね。 @阿波 アワすとーりぃ?
それにしても、どういう話なんだろう、
小泉じゅんいちろーの話(老婆談)をしていた事があったり 家は『松傾』・・・こういう名前の家なんだけどw
住んでいるところは神奈川県の川崎というところ なんだ、阿波には「泊」と名の付く立派な港はないのか。
そうだろうな、有るとすれば、せいぜい素泊り一泊・・・円とかの88か所めぐり木賃宿、、、 >>581
>なんだ、阿波には「泊」と名の付く立派な港はないのか。
椿泊など。 そんなこと、本気で言ってんの? まじ、顔を見てみたい。 @阿波 どこだったかな?
一緒にビール工場に行ったりもしたとか、たしか横浜のほうの工場w
『松傾』? 徳島県阿南市 椿泊小学校という立派な小学校と、椿泊漁協もあるな。
南端の岬の和歌山に向いたところだが、ふか〜い入り江の中に在って、波にも風にも強そうな超優良港のようだ。
「泊」と名がつけば、立派間違いなしなのだよ!!、 >>560
文献ってのは執筆時点での、執筆者が知る情報と執筆者の考えが分かるだけで、それより以前のことについては分からないんだよ
古事記伝は本居の考えを記した物であって古代の事実を明らかにしたものではない。 本当に、テレビ(漫画なども同じ)とか、そういうのがあるでしょ、
何がしたいのか理解できないんだけど、必要ないだろう。
家の話ばかりしていたり、悪く言うと寄生。
出演している人々の給料?どこから出ているんだ? >>584
>徳島県阿南市 椿泊小学校という立派な小学校と、椿泊漁協もあるな。
>「泊」と名がつけば、立派間違いなしなのだよ!!、
どうしようもない人だね。 「泊」など全国津々浦々あるよ。 恥ずかしいからもう止めなさい。 @阿波
http://kakijun.com/kanji/chimei/6cca.html 311なども人工地震だと言っているのに、
それ以前の大震災も、そうなの? 数年前の、とあるスレ
誰々さんの家は、なぜ収入がないのですか?
と言ってる人がいたんだけど、家の話、家のことを言っているんだろう
あと人権侵害ばかりだし、調べてみた?
おそらくチンピラか何かが関係しているんだろう 数年前の、とあるスレ
誰々さんの家は、なぜ収入がないのですか?
と言ってる人がいたんだけど、家の話、家のことを言っているんだろう
あと人権侵害ばかりだし、調べてみた?
おそらくチンピラか何かが関係しているんだろう テレビなどの話
家は川崎(神奈川県)に住んでいるんだから、
TVKを中心にしないと、本来ならそうなんだよ
だから何もわかっていないという意味 『TVK』
ワニ(さめ)さん、ワニ(さめ)さん・・・
みたいなイラストが出てきたり 「泊」の名が示す如く、
古代には、糸島前原の平原遺跡近くに立派な港があった。
埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。 >593
どうしようもない人だね。 「泊」など全国津々浦々あるよ。 恥ずかしいからもう止めなさい。 @阿波
http://kakijun.com/kanji/chimei/6cca.html うらしまマリンというキャラがいるでしょ・・・、
なぜかサメ(わに)と一緒にいたり
あとワンピースという作品にも出てきたでしょ、
どういう事なんだろう >>565、>>566
>そうだね・・、 なんでだろ? なんでだろ?
末盧国には寄ってないんだよ
末盧国と、そこからの東南陸行五百里は、
末盧国に上陸して佐賀平野に抜けた古い記録の混入
郡使は、伊都国直行が普通
だから伊都国に郡使往來常所駐と記される そうだよねえ
平原王墓のすぐ近くに港があったのだから、郡使直行は当然、、、 伊都国、世有王、郡使往來常所駐
王もおり郡使の往來常所駐でもあったのだから、郡使は前原港まで直行した 田油津姫は山門にいて神功皇后に討ち取られた
この山門は倭人伝でのどこだろう 魏使が上陸した地点は呼子か名護屋浦で
そこから500里(40q)で伊都国
伊都国には倭王卑弥呼が居て郡使の往來常所駐でもあった。 >>603その山門は福岡のみやま市
田油津姫は女王
福岡には女王や姫様の塚と云われている場所が
他にもあるんだよ
古事記日本書紀には載ってないけどね 福岡平野の守り神とされてきた東の三笠山(宝満山)と西の飯盛山を結ぶ直線上には、
須玖岡本王墓遺跡と、吉武高木王墓遺跡の二つの有名な大王墓がある。
弥生時代、この直線は、この地の聖なるラインであったのである。
更にこの直線を西に延ばすと、四世紀後半に造営された糸島平野西端の一貴山銚子塚古墳に届く。
この古墳は、糸島地方で一番大きい前方後円墳(103m)である。
即ち、三笠山−飯盛山を結ぶ直線はさらに西に延び、福岡平野から糸島平野までを貫く王墓ラインであった。
このことから、福岡〜糸島平野一帯は、漢倭奴国王の金印を拝した博多奴国の固有領土であり、
北部九州説のいう伊都国などが存立できる余地はなかったことがわかる。
<三笠山>→ 須玖岡本王墓遺跡 → 吉武高木王墓遺跡 →<飯盛山>→ 三雲南小路王墓胃液 → 一貴山銚子塚王墓 >>607
> <三笠山>→ 須玖岡本王墓遺跡 → 吉武高木王墓遺跡 →<飯盛山>→ 三雲南小路王墓胃液 → 一貴山銚子塚王墓
これといった弥生後期集落遺跡群がないから、提示できるのはお墓ばっかり。 お粗末。 @阿波 福岡平野の守り神とされてきた東の三笠山(宝満山)と西の飯盛山を結ぶ直線上には、
須玖岡本王墓遺跡と、吉武高木王墓遺跡がある。
更にこの直線を西に延ばすと、三雲南小路王墓遺跡を経て、四世紀後半に造営された糸島平野西端の一貴山銚子塚古墳に届く。
聖なる東西の直線ラインで結ばれた博多・大奴国の王墓4世代は、雄大で豪華絢爛そのものだ。。 >>609
>聖なる東西の直線ラインで結ばれた博多・大奴国の王墓4世代は、雄大で豪華絢爛そのものだ。。
これといった弥生後期集落遺跡群がないから、提示できるのはお墓ばっかり。 お粗末。 @阿波 墓は、現世における王たちの権勢の豪華さあってこそのものであり、
それを反映し、死せる王たちのあの世での王宮を豪華に再現構築したものである。阿波にはないだろうな。 >>611
>それを反映し、死せる王たちのあの世での王宮を豪華に再現構築したものである。阿波にはないだろうな。
お墓? なにがいい? 倭国(阿波)は選り取り見取りだよ。
「土壙墓」も「甕棺墓」も「木棺墓」も「石棺墓」も「配石墓」も「方形周溝墓」も「円形周溝墓」も「円墳」も「前方後方墳」も「前方後円墳」も
何故か、すべて在るのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、西端の糸島一貴山までは、40qほどもある。
両聖山を結ぶ直線ライン上に、奴国王の4世代(4時代)の王墓をおよそ10qごとに配した雄大さ・時代観は、見事というほかない。
博多奴国王家の感性のすごさを、敬意を以て知るべし。 >>613
どうやら福岡平野も人が少ない寒村らしいね。 @阿波 阿波は道端ウンコなので無視してかまわない
でも道端にウンコが多いと歩きにくい >>616
それに比べて、福岡平野は人が少ない寒村のようだね。 @阿波 古墳時代の鍛冶工房から砂鉄の小瓶が出たからって
無意味な妄想に誘導しようとしているところがうんこ >>621
鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。 @阿波
板野・鳴門古墳群
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm 邪馬台国は、女王に率いられた平和なユートピアではなかった
鉄器で完全武装した渡来侵入者の奈良ず者集団で、九州の弥生の村々を襲って倭国大乱の勝者となり、
やがては畿内へも迫り、征服し、国を建てたのだよ。 >>624
>阿波は畿内説の亜流デス
阿波を取り込もうとしてもダメだよ。 @阿波 >>626
それにしても、なんなの、この口調は
>やがては畿内へも迫り、征服し、国を建てたのだよ。 福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、西端の糸島一貴山までは、40qほどもある。
両山を結ぶ直線ライン上には、奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
その雄大な国家観・歴史観は、見事というほかない。
福岡平野〜糸島平野のすべては、漢委奴国王家の長きにわたる支配下にあったのだ。 >>630
それにしても、福岡平野は人が少ない寒村のようだね。 @阿波 @瀬戸内(山陽)→大山祇の子孫の国々
A対馬北九州→海神の子孫の国々
高祖皇統は上記と姻族関係を結んで勢力を広げた。
大山祇と海神=イザナギ×イザナミの子供
イザナギとイザナミは肉食系で他にもパートナーがいて子供が多かったので
後々揉めますたというのが記紀が本当に言いたいことだと思っている俺。 >>633の続き
@→ニニギの時代
A→彦渚(ウガヤフキアエズ)の時代
神武の代になって九州から上京したのが神武東征。
ナガスネヒコがニギハヤヒを崇拝してる聞かん坊だから成敗した。 >>633-634
う〜ん、あまり出来の良くない妄想だね。 妄想は楽しいだろうけど。 @阿波 >>634
>ナガスネヒコがニギハヤヒを崇拝してる聞かん坊だから成敗した。
少しだけ間違いだな。
長髄彦を成敗したのは饒速日だぞ。
饒速日と神武の天神一族が一族で長髄彦から大和を奪ったのだよ。 >>633
>@瀬戸内(山陽)→大山祇の子孫の国々
長髄彦は大山祇の曽孫な。
長髄彦の祖父が初代鴨王だ。 鴨じゃねえよw
ただ、あいつも一部は正しいんだよ。
鴨王一族から筑紫から来た天神族が畿内を奪った。 >南至投馬国 水行二十日 ・・・ 可五万余戸
帯方郡から南へ行くと、半島南部の投馬国に至る。水行で20日である。
>南至邪馬台国
さらに投馬国から南へ行くと、北部九州邪馬台国へ至る。
(対馬も邪馬台国だから水行1日)
>女王之所都 水行十日陸行一日
北部九州邪馬台国において、女王卑弥呼が首都としている伊都には、
水行10日陸行1日で到着する。(※首都の説明)
>可七万余戸
26国邑を擁する北部九州邪馬台国は約7万余戸である。(※戸数の説明) 1日の行程を千里としたんだよ。
だから帯方郡から九州北岸までは水行10日、一万里。
投馬国は水行20日の宮崎県。 >だから帯方郡から九州北岸までは水行10日、一万里。
いい加減だなあ。
水行10日はいいとして、陸行の部分はどう説明するのだ? 宮崎のは念仏みたいにただ唱えてるだけだから相手しなくていいよ。
遺跡とかの根拠も無いし。 韓国は陸行さ。
帯方郡から狗邪韓国まで7千余里。
沙里院から金海まで直線で500km。
陸行だから、多少の紆余曲折を入れると550km。
7000で割ると、78.5になる。
一里76.6kmでばっちり。 投馬国は五島列島。
富江の事を現地ではトンメと言うらしい。
投馬=トンメ
郡より水行20日の行程になる。 先に結論ありの無理やり詰め込み北部九州説だな。
古代ラッシュアワー並みの混雑地帯で、内乱必死。 先に結論ありの無理やり詰め込み北部九州説だな。
古代ラッシュアワー並みの混雑地帯で、内乱必死。 奈良県には古墳時代になってもろくに鉄器がない。
纏向には人の住んだ形跡(住居跡)が皆無。
纏向は墓場だった。あるのは墓。
国の首都であるはずがない。 弁辰から帯方に至る鉄の道の[道里]が7千余里
男王が壹與に倭國王の職を譲った年に
不耐淮王が発生して
帯方に至る鉄の道が設定された
川を辿る船旅の陸行だけどね 夏華に到る鉄の道の半島側のポートが沙里院というのは
まったく受け入れ難い
そもそものが帯水の河口付近にあったとされる帯方だが
この帯水は古の漢江の謂いとするのが妥当だろう
ちなみに記号上でいえば弁韓は華韓と等価ではある 「妥当だろう」の一言で、
「ははーん、また嘘をついているな」とわかるw 壱岐 銅戈将軍 銅矛王
博多 銅戈将軍 (出土:銅戈+銅矛)
下関 銅戈将軍 銅矛将軍
神戸 銅戈将軍 銅剣女王
大阪 銅戈将軍
銅矛王は金印漢使を迎える時に、重要経由地の壱岐に多大な投資
銅矛王配下の銅矛将軍が瀬戸内銅剣女王と戦う時に、重要兵站基地の下関に多大な投資
銅矛王&銅矛将軍を追いやった、銅戈将軍+銅剣女王が大阪湾上陸作戦の際に、
重要兵站基地の神戸に多大な投資
銅戈将軍とその末裔は全てに投資 銅鐸とは北部九州倭人が領土拡大する過程で、
本土の九州から離れた場所を開拓する際に、
現地人からの襲来に備えたJアラート。
環濠集落とセットであり、敵が襲来して来た時に高台の銅鐸を鳴らして
環濠集落の中に逃げ込んで防戦。
銅鐸を鳴らした者はそのまま伝令として、最寄りの倭人陣地へ救援軍を呼びに急いだ。
敵も稲作しているから、農繁期は攻めてこない。
収穫が終わった冬に攻めてきても、収穫した食料を備蓄した環濠集落の中で籠城すればいいだけ。
基本的には、本格的な襲来は収穫期だけだから、
普段は土中に保管しておいて、収穫期だけ取り出して、高台の見張り台に設置した。
イタズラ防止のため舌は普段は環濠集落のお偉いさんの家に保管していた。
淡路島は畿内本場と目の鼻の先だから
しょっちゅう襲来があったのだろうな。
>銅鐸鳴らしまくり 倭人がどんどん進出して銅鐸の使用頻度が減り、
集落に配布する側の威信を示すため大型化した。
けれども本来は単なるJアラートだから、
最終的に敵がいなくなったら必要なくなったんだよ。
銅矛(北部九州〜淡路島まで)が北部九州において失脚し、
銅戈が(北部九州〜)実権を握った。
銅矛勢は畿内の向こうの東海に逃げ込んだ。
銅戈が(北部九州〜)畿内進出を果たしたので、
畿内と東海で睨み合う形になり、
お互いの味方集落にお互いが防衛目的で銅鐸を設置した。
銅戈が勝ったから、畿内のは大型化して非実用。
銅矛は負けたから、東海のは大型化することなく実用段階で終了。
東海が負けて、銅鐸は必要なくなり、敗者として労働力を畿内銅戈へ献上する。
土器の流れ。
倭国乱で銅戈は狗奴国側についたから、金属原料が枯渇して、
淡路島の鉄工房は使われなくなるし、
埋めてあった銅鐸を掘り返して破砕して再利用した。 銅鐸は単なるJアラートだから、
畿内と東海でお互いに占領して奪った銅鐸は
気兼ねなく道具として使い合ったし、
捕縛した銅鐸職人が恭順すれば、そのまま自領で働かせたから
後期には双方の特徴を持った銅鐸が作られることになる。
銅戈側が勝ったのだから、銅戈側に東海銅鐸職人が捕縛される確率の方が高く、
大型化銅鐸に双方の特徴を持った銅鐸が出現した。 >>655
>夏華に到る鉄の道の半島側のポートが沙里院というのは
まったく受け入れ難い
そもそものが帯水の河口付近にあったとされる帯方だが
この帯水は古の漢江の謂いとするのが妥当だろう
沙里院の南にも大川が流れている。
その川は沙里院からカーブして大同江に合流している。
楽浪郡から船で行く事もでき、馬での交通も可能だ。
ソウルには中国人の住んだ形跡が皆無で中国の基地があった可能性がナイ。
一方、沙里院近くからは帯方郡太守の墓碑のある古墳が検出されている。
沙里院が帯方郡であった可能性が高いだろう。
沙里院から南に行けば海州と言う港があって、此処からだと船に乗って韓国に行く事も、陸路で韓国に行く事も可能だ。
漢の時代には平壌、沙里院、海州を通って陸路韓国へ行き道があったことが確認されている。
ただ、この道は間に大河が三つもあって陸路の旅だと橋がかかっていたわけではないので、三度も船の乗り降りをしなければならなかった。
大量の人員を運ぶにはこの三つの大河をバイパスしたほうが楽である。
江戸時代の東海道も途中に大河が三つも並んでいた名古屋付近を船でバイパスしていた事を思い出せ。
そこで韓国に兵を送るときとか、物資を送るときなどは海州から船を使って韓国に行ったと推定される。
京幾湾内は比較的波も穏やかで船旅も安全だったろう。
もし、沙里院で無いとしたら、海州が帯方郡の候補地になる。 >>664
一つ付け加えると長山串より北は冬場は鴨緑江から流れてくる流氷で覆われ、冬場に大同江から船で外海に出ることは出来ない。
海州が韓国への基点だった可能性が高いだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています