邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 魏使が上陸した地点は呼子か名護屋浦で
そこから500里(40q)で伊都国
伊都国には倭王卑弥呼が居て郡使の往來常所駐でもあった。 >>603その山門は福岡のみやま市
田油津姫は女王
福岡には女王や姫様の塚と云われている場所が
他にもあるんだよ
古事記日本書紀には載ってないけどね 福岡平野の守り神とされてきた東の三笠山(宝満山)と西の飯盛山を結ぶ直線上には、
須玖岡本王墓遺跡と、吉武高木王墓遺跡の二つの有名な大王墓がある。
弥生時代、この直線は、この地の聖なるラインであったのである。
更にこの直線を西に延ばすと、四世紀後半に造営された糸島平野西端の一貴山銚子塚古墳に届く。
この古墳は、糸島地方で一番大きい前方後円墳(103m)である。
即ち、三笠山−飯盛山を結ぶ直線はさらに西に延び、福岡平野から糸島平野までを貫く王墓ラインであった。
このことから、福岡〜糸島平野一帯は、漢倭奴国王の金印を拝した博多奴国の固有領土であり、
北部九州説のいう伊都国などが存立できる余地はなかったことがわかる。
<三笠山>→ 須玖岡本王墓遺跡 → 吉武高木王墓遺跡 →<飯盛山>→ 三雲南小路王墓胃液 → 一貴山銚子塚王墓 >>607
> <三笠山>→ 須玖岡本王墓遺跡 → 吉武高木王墓遺跡 →<飯盛山>→ 三雲南小路王墓胃液 → 一貴山銚子塚王墓
これといった弥生後期集落遺跡群がないから、提示できるのはお墓ばっかり。 お粗末。 @阿波 福岡平野の守り神とされてきた東の三笠山(宝満山)と西の飯盛山を結ぶ直線上には、
須玖岡本王墓遺跡と、吉武高木王墓遺跡がある。
更にこの直線を西に延ばすと、三雲南小路王墓遺跡を経て、四世紀後半に造営された糸島平野西端の一貴山銚子塚古墳に届く。
聖なる東西の直線ラインで結ばれた博多・大奴国の王墓4世代は、雄大で豪華絢爛そのものだ。。 >>609
>聖なる東西の直線ラインで結ばれた博多・大奴国の王墓4世代は、雄大で豪華絢爛そのものだ。。
これといった弥生後期集落遺跡群がないから、提示できるのはお墓ばっかり。 お粗末。 @阿波 墓は、現世における王たちの権勢の豪華さあってこそのものであり、
それを反映し、死せる王たちのあの世での王宮を豪華に再現構築したものである。阿波にはないだろうな。 >>611
>それを反映し、死せる王たちのあの世での王宮を豪華に再現構築したものである。阿波にはないだろうな。
お墓? なにがいい? 倭国(阿波)は選り取り見取りだよ。
「土壙墓」も「甕棺墓」も「木棺墓」も「石棺墓」も「配石墓」も「方形周溝墓」も「円形周溝墓」も「円墳」も「前方後方墳」も「前方後円墳」も
何故か、すべて在るのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、西端の糸島一貴山までは、40qほどもある。
両聖山を結ぶ直線ライン上に、奴国王の4世代(4時代)の王墓をおよそ10qごとに配した雄大さ・時代観は、見事というほかない。
博多奴国王家の感性のすごさを、敬意を以て知るべし。 >>613
どうやら福岡平野も人が少ない寒村らしいね。 @阿波 阿波は道端ウンコなので無視してかまわない
でも道端にウンコが多いと歩きにくい >>616
それに比べて、福岡平野は人が少ない寒村のようだね。 @阿波 古墳時代の鍛冶工房から砂鉄の小瓶が出たからって
無意味な妄想に誘導しようとしているところがうんこ >>621
鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。 @阿波
板野・鳴門古墳群
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm 邪馬台国は、女王に率いられた平和なユートピアではなかった
鉄器で完全武装した渡来侵入者の奈良ず者集団で、九州の弥生の村々を襲って倭国大乱の勝者となり、
やがては畿内へも迫り、征服し、国を建てたのだよ。 >>624
>阿波は畿内説の亜流デス
阿波を取り込もうとしてもダメだよ。 @阿波 >>626
それにしても、なんなの、この口調は
>やがては畿内へも迫り、征服し、国を建てたのだよ。 福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、西端の糸島一貴山までは、40qほどもある。
両山を結ぶ直線ライン上には、奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
その雄大な国家観・歴史観は、見事というほかない。
福岡平野〜糸島平野のすべては、漢委奴国王家の長きにわたる支配下にあったのだ。 >>630
それにしても、福岡平野は人が少ない寒村のようだね。 @阿波 @瀬戸内(山陽)→大山祇の子孫の国々
A対馬北九州→海神の子孫の国々
高祖皇統は上記と姻族関係を結んで勢力を広げた。
大山祇と海神=イザナギ×イザナミの子供
イザナギとイザナミは肉食系で他にもパートナーがいて子供が多かったので
後々揉めますたというのが記紀が本当に言いたいことだと思っている俺。 >>633の続き
@→ニニギの時代
A→彦渚(ウガヤフキアエズ)の時代
神武の代になって九州から上京したのが神武東征。
ナガスネヒコがニギハヤヒを崇拝してる聞かん坊だから成敗した。 >>633-634
う〜ん、あまり出来の良くない妄想だね。 妄想は楽しいだろうけど。 @阿波 >>634
>ナガスネヒコがニギハヤヒを崇拝してる聞かん坊だから成敗した。
少しだけ間違いだな。
長髄彦を成敗したのは饒速日だぞ。
饒速日と神武の天神一族が一族で長髄彦から大和を奪ったのだよ。 >>633
>@瀬戸内(山陽)→大山祇の子孫の国々
長髄彦は大山祇の曽孫な。
長髄彦の祖父が初代鴨王だ。 鴨じゃねえよw
ただ、あいつも一部は正しいんだよ。
鴨王一族から筑紫から来た天神族が畿内を奪った。 >南至投馬国 水行二十日 ・・・ 可五万余戸
帯方郡から南へ行くと、半島南部の投馬国に至る。水行で20日である。
>南至邪馬台国
さらに投馬国から南へ行くと、北部九州邪馬台国へ至る。
(対馬も邪馬台国だから水行1日)
>女王之所都 水行十日陸行一日
北部九州邪馬台国において、女王卑弥呼が首都としている伊都には、
水行10日陸行1日で到着する。(※首都の説明)
>可七万余戸
26国邑を擁する北部九州邪馬台国は約7万余戸である。(※戸数の説明) 1日の行程を千里としたんだよ。
だから帯方郡から九州北岸までは水行10日、一万里。
投馬国は水行20日の宮崎県。 >だから帯方郡から九州北岸までは水行10日、一万里。
いい加減だなあ。
水行10日はいいとして、陸行の部分はどう説明するのだ? 宮崎のは念仏みたいにただ唱えてるだけだから相手しなくていいよ。
遺跡とかの根拠も無いし。 韓国は陸行さ。
帯方郡から狗邪韓国まで7千余里。
沙里院から金海まで直線で500km。
陸行だから、多少の紆余曲折を入れると550km。
7000で割ると、78.5になる。
一里76.6kmでばっちり。 投馬国は五島列島。
富江の事を現地ではトンメと言うらしい。
投馬=トンメ
郡より水行20日の行程になる。 先に結論ありの無理やり詰め込み北部九州説だな。
古代ラッシュアワー並みの混雑地帯で、内乱必死。 先に結論ありの無理やり詰め込み北部九州説だな。
古代ラッシュアワー並みの混雑地帯で、内乱必死。 奈良県には古墳時代になってもろくに鉄器がない。
纏向には人の住んだ形跡(住居跡)が皆無。
纏向は墓場だった。あるのは墓。
国の首都であるはずがない。 弁辰から帯方に至る鉄の道の[道里]が7千余里
男王が壹與に倭國王の職を譲った年に
不耐淮王が発生して
帯方に至る鉄の道が設定された
川を辿る船旅の陸行だけどね 夏華に到る鉄の道の半島側のポートが沙里院というのは
まったく受け入れ難い
そもそものが帯水の河口付近にあったとされる帯方だが
この帯水は古の漢江の謂いとするのが妥当だろう
ちなみに記号上でいえば弁韓は華韓と等価ではある 「妥当だろう」の一言で、
「ははーん、また嘘をついているな」とわかるw 壱岐 銅戈将軍 銅矛王
博多 銅戈将軍 (出土:銅戈+銅矛)
下関 銅戈将軍 銅矛将軍
神戸 銅戈将軍 銅剣女王
大阪 銅戈将軍
銅矛王は金印漢使を迎える時に、重要経由地の壱岐に多大な投資
銅矛王配下の銅矛将軍が瀬戸内銅剣女王と戦う時に、重要兵站基地の下関に多大な投資
銅矛王&銅矛将軍を追いやった、銅戈将軍+銅剣女王が大阪湾上陸作戦の際に、
重要兵站基地の神戸に多大な投資
銅戈将軍とその末裔は全てに投資 銅鐸とは北部九州倭人が領土拡大する過程で、
本土の九州から離れた場所を開拓する際に、
現地人からの襲来に備えたJアラート。
環濠集落とセットであり、敵が襲来して来た時に高台の銅鐸を鳴らして
環濠集落の中に逃げ込んで防戦。
銅鐸を鳴らした者はそのまま伝令として、最寄りの倭人陣地へ救援軍を呼びに急いだ。
敵も稲作しているから、農繁期は攻めてこない。
収穫が終わった冬に攻めてきても、収穫した食料を備蓄した環濠集落の中で籠城すればいいだけ。
基本的には、本格的な襲来は収穫期だけだから、
普段は土中に保管しておいて、収穫期だけ取り出して、高台の見張り台に設置した。
イタズラ防止のため舌は普段は環濠集落のお偉いさんの家に保管していた。
淡路島は畿内本場と目の鼻の先だから
しょっちゅう襲来があったのだろうな。
>銅鐸鳴らしまくり 倭人がどんどん進出して銅鐸の使用頻度が減り、
集落に配布する側の威信を示すため大型化した。
けれども本来は単なるJアラートだから、
最終的に敵がいなくなったら必要なくなったんだよ。
銅矛(北部九州〜淡路島まで)が北部九州において失脚し、
銅戈が(北部九州〜)実権を握った。
銅矛勢は畿内の向こうの東海に逃げ込んだ。
銅戈が(北部九州〜)畿内進出を果たしたので、
畿内と東海で睨み合う形になり、
お互いの味方集落にお互いが防衛目的で銅鐸を設置した。
銅戈が勝ったから、畿内のは大型化して非実用。
銅矛は負けたから、東海のは大型化することなく実用段階で終了。
東海が負けて、銅鐸は必要なくなり、敗者として労働力を畿内銅戈へ献上する。
土器の流れ。
倭国乱で銅戈は狗奴国側についたから、金属原料が枯渇して、
淡路島の鉄工房は使われなくなるし、
埋めてあった銅鐸を掘り返して破砕して再利用した。 銅鐸は単なるJアラートだから、
畿内と東海でお互いに占領して奪った銅鐸は
気兼ねなく道具として使い合ったし、
捕縛した銅鐸職人が恭順すれば、そのまま自領で働かせたから
後期には双方の特徴を持った銅鐸が作られることになる。
銅戈側が勝ったのだから、銅戈側に東海銅鐸職人が捕縛される確率の方が高く、
大型化銅鐸に双方の特徴を持った銅鐸が出現した。 >>655
>夏華に到る鉄の道の半島側のポートが沙里院というのは
まったく受け入れ難い
そもそものが帯水の河口付近にあったとされる帯方だが
この帯水は古の漢江の謂いとするのが妥当だろう
沙里院の南にも大川が流れている。
その川は沙里院からカーブして大同江に合流している。
楽浪郡から船で行く事もでき、馬での交通も可能だ。
ソウルには中国人の住んだ形跡が皆無で中国の基地があった可能性がナイ。
一方、沙里院近くからは帯方郡太守の墓碑のある古墳が検出されている。
沙里院が帯方郡であった可能性が高いだろう。
沙里院から南に行けば海州と言う港があって、此処からだと船に乗って韓国に行く事も、陸路で韓国に行く事も可能だ。
漢の時代には平壌、沙里院、海州を通って陸路韓国へ行き道があったことが確認されている。
ただ、この道は間に大河が三つもあって陸路の旅だと橋がかかっていたわけではないので、三度も船の乗り降りをしなければならなかった。
大量の人員を運ぶにはこの三つの大河をバイパスしたほうが楽である。
江戸時代の東海道も途中に大河が三つも並んでいた名古屋付近を船でバイパスしていた事を思い出せ。
そこで韓国に兵を送るときとか、物資を送るときなどは海州から船を使って韓国に行ったと推定される。
京幾湾内は比較的波も穏やかで船旅も安全だったろう。
もし、沙里院で無いとしたら、海州が帯方郡の候補地になる。 >>664
一つ付け加えると長山串より北は冬場は鴨緑江から流れてくる流氷で覆われ、冬場に大同江から船で外海に出ることは出来ない。
海州が韓国への基点だった可能性が高いだろう。 >>661
>淡路島は畿内本場と目の鼻の先だから
「目と鼻の先」は倭国(阿波)の鳴門。 淡路島は倭国(阿波)の島 だと、何度言えばw @阿波 東夷伝里がなんのためにあったかというとやはり異民族への増税だろう。
漢本国に比べて同じ面積の耕作地でも距離で3倍。面積で9倍の増税となる。 >>669
漢?!
魏でもなく、後漢でもなく、か、か、か、漢?! >>49
こういう説聞くといつも思うのだが
単純に日本列島が天変地異の多い土地だから
渡来してもうまく定住できなかったとか
もしくは遺構として残らず消えてしまったとか
そういうの可能性は無いのかな >>671
それNGワード指定してる人も多いネタコピペな 魏は戦争戦争また戦争だから里程を測定する余裕なんて無かっただろう。倭地だけとかなら張政が一人頑張って歩数を数えたなどありうるが、東夷伝全部で里程が記されているのだから東夷伝里を測定できるのは戦争の無い平和な時期。後漢の安定した時期だな。 1日の行程を千里と数えるだけだから、厳密な測定は不要だ。 >1日の行程を千里と数えるだけ
百里単位で記載されている部分がある以上、その理論は間違っている。 【従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 「到」其北岸狗邪韓國 七千余里】
帯方郡から韓国(方可四千里)を通り過ぎて、
「通り過ぎてから」、さらに南へ進み、そして東へ進んで、
倭人領域の北岸である狗邪韓國に到着する。
帯方郡から狗邪韓國までの総距離7000余里。
(対馬海峡渡海専用倭舟に乗り換えるため、必ず到着する必要がある)
【始度一海 千余里 「至」対海國 所居絶島 方可四百余里】
これまでの沿岸航海から、対馬海峡渡海専用倭舟にて、渡海を開始して1000余里。
対馬島にある複数のクニの一つである、対海國へと至る。
対海國のある場所は、絶海の孤島である対馬島である。
対海國は400余里四方。
<7000+1000+400×2=8800余里>
【又南渡一海 千余里 名日瀚海 「至」一大國 方可三百里】
また渡海1000余里で、壱岐島にある一大國へと至る。
一大國は300里四方。
<8800+1000+300×2=10400余里>
【又渡一海 千余里 「至」末盧國】
また渡海する。1000余里で、末蘆國へと至る。
(末蘆國東部=唐津湾より東に上陸しただけで、
唐津の柏崎や桜馬場遺跡などには立ち寄っていない)
<10400+1000=11400余里> 【東南陸行 五百里 「到」伊都國】
陸行500里で伊都國(糸島平野+早良平野)の中の、目標地点へ到着する。
<11400+500=11900余里>
漢代の到着目標地点は、吉武高木宮殿だから、500里で到着。
末蘆國上陸地点から、至伊都國なら200里。
吉武高木宮殿は動かないんだから、これらの里程は漢代でも魏代でも現代でも変わらない。
魏代は末蘆國上陸地点は伊都國寄りで、目標地点は三雲遺跡だから、
至伊都國は100里で、到伊都國は300里。
魏代のこの里程は、現代の我々が現代地図を見たら計算できるが、
陳寿の手元には三雲遺跡への里数情報はなかった。
魏使の見聞録には、考古学的に判明している奴國の描写が無いので、
魏使は伊都國までしか来ていない。
魏代の伊都國中心は、糸島平野の三雲遺跡。
女王墓は平原遺跡1号+2号+共通の周濠で囲まれた墓域。
【東南「至」奴國 百里】
吉武高木宮殿から、伊都國と奴國の境界まで100里。
伊都國の吉武高木宮殿(政治中枢)と、奴國の最大発展地域である須久遺跡群(経済中枢)の間
=北部九州倭国の中心地点<11900+100=12000余里>
【東行「至」不弥國 百里】
奴國を横切って、奴國と不弥國の境界まで100里。
雀居遺跡。 【女王国東 渡海千余里 復有国皆倭種】
不弥國の博多湾に面した港から出港して、
渡海1000余里で、下関。
下関から本州日本海沿岸には、倭種の国がある。
【又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里】
日本海沿岸の南、瀬戸内海沿岸に、侏儒國がある。
水銀朱を露天掘りではなく、坑道掘りで身を低くして採掘している国である。
坑道に入るひとの身の高さは、三四尺=約70〜90センチメートルである。
(若杉山遺跡にて発見済み)
侏儒國は、北部九州倭国(倭読み邪馬台国)から4000余里である。
【又有裸國黒歯國 復在其東南】
侏儒國の東南には、
温暖だが未開の南の後進国、裸國と、
お歯黒の風習のある、黒歯國とがある。 以上の里程は全て、金印漢使の倭国出張用のロードマップ。
在倭の楽浪郡吏が測定して55年頃にまとめあげた、
57年当時の里程。
金印漢使を運ぶのは、
狗邪韓國までは楽浪郡吏。
対馬海峡渡海からは倭吏。
漢使は金印を倭地に届け、吉武高木宮殿での授与式を行うのが仕事なので、
自分がちゃんと目的地へ運ばれているかどうか、
毎朝出発する前に、7月後半の日の出の太陽方角と照らし合わせながら確認した。
方位磁針はまだ無い時代。 委奴国王が金印を貰うにあたって、
その評価基準を満たしたのが、
奴國弥生銀座の大規模工房群に加えて、
瀬戸内海沿岸の高地性集落群=弥生時代の石油である木材
淡路島の五斗長垣内・舟木遺跡=大規模鉄工房
それらの事前チェックは在倭の楽浪郡吏が行った。
タケミナカタの船団にて、
まず福岡湾を出航して、下関着。
住吉神社の前身の官社に宿泊。
関門海峡を通って、瀬戸内海へ入り、東行。
侏儒國へ入国し、淡路島へ向かった。
五斗長垣内・舟木遺跡に、やけに立派な施設が多いのはその時に外交用に整備したため。 >>681
>瀬戸内海沿岸の高地性集落群=弥生時代の石油である木材
無知。 木材を言うなら、北部九州や瀬戸内海は不適。
木材は四国南部一帯。 これ常識だよ。 @阿波 【南至投馬國 水行二十日 可五万余戸】
帯方郡から南に水行20日で、投馬國に至る。
投馬國に入国した時点で、一旦倭の支配町で旅装を解いて、休憩したり補給したり病人を治療したりする。
その後移動した先の狗邪韓國では対馬海峡渡海倭舟への移乗作業なども必要。
だから、帯方郡→投馬國の20日は旅日程として意味があるが、
投馬國入国して狗邪韓國で再度の出発準備をするまでの日程は、移動以外の時間がほとんどで、
移動日程としての意味が無いから書いてない。
【南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七万余戸】
投馬國から南へ行くと、邪馬台国=北部九州倭国へ至る。
北部九州倭国の中の、女王卑弥呼が首都としている場所、
(つまり漢代の早良平野吉武高木宮殿ではなく、魏代では糸島平野三雲遺跡を中心とする地域)
までは、
投馬國から水行10日陸行1日かかる。 【韓在帯方之南 「東西以海為限」「南與倭接」 方可四千里有】
【國出鉄韓濊「倭」皆従取之】
【今辰韓人皆褊頭 男女近倭亦文】
辰韓人は倭人に近く、倭人と同様に入れ墨を入れている。
【其瀆盧国與倭接界】
弁辰の瀆盧国は倭と境界を接する。
【従郡至倭 循海岸水行 「歴」韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千余里】
<韓>
「馬韓」50余國 十余万戸
「辰韓」12國
「弁辰」12國 辰韓+弁辰=四、五万戸
<倭>
「投馬國」4國 五万戸
「邪馬台国=倭国」26國 七万戸
(今使譯所通三十國)30-26=4 日程部分は張政の出張日誌が情報源。
魏使は伊都までで、奴国以東には行っていないのだから、
当然投馬國は半島南部。
陳寿は各部族の出自として墓制を重視している。
巨大な前方後円墳なるものが存在しない場所に
卑弥呼の墓は作られた。
【居所作草屋土室 形如「冢」】
韓人の住居は、草の屋根と土の部屋で作られており、
韓人の住居は「冢」のようである。 【又有裸國黒歯國 復在其東南 船行一年可至】
北部九州倭国=邪馬台国から、瀬戸内海を東へ4000里行くとある侏儒國の、
さらにその東南に、
温暖だが未開の南の後進国、裸國と、
お歯黒の風習のある、黒歯國(大阪湾沿岸)とがある。
船で1年かけると至ることができる。
陳寿の情報源
@金印漢使の倭国出張用の里程・方角は7月後半の日の出基準
A張政の出張日誌
B邪馬台国女王から贈られた生口への直接インタビュー
裸國もしくは黒歯國出身の生口は、
楽浪郡吏が乗せてもらった準構造船などではなく、
普通の輸送船であっちこっちの港に立ち寄って、荷物を上げ下ろししながら、
瀬戸内海を西へと運ばれた。
途中の生口島で、職業訓練を受けてから、
また輸送船であっちこっち立ち寄りながら、西へと運ばれ、
那の津に陸揚げされた。
生口が北部九州倭国に着いたのは、
故郷を出発してから、じつに1年後のことであった。
と、若かりし日の出来事を陳寿に話した。 >>686
>船で1年かけると至ることができる。
12日が12月と誤記され1年に書き換えられたんじゃないかな。
C公孫氏の帯方郡から押収した東夷に関する資料(里は公孫氏の1里80m)。 東夷伝里が、
後漢代の楽浪郡里であるか、
公孫氏里であるか、
という問題。
もし楽浪郡里=後漢本国の漢里、であって、
公孫氏里=東夷伝里≠楽浪郡里である場合、
公孫氏が、高句麗の国土面積や、北方の沃沮の土地、
はたまた倭の侏儒國までの里程などを全て測定したことになる。
公孫氏が栄えたのは実質的には30年ほどであり、
韓や倭を従えたといっても、考古学的には実体があまりない。
たった30年の政権が、後漢や魏と睨み合いながら、
他民族の領土を広域に測定する動機もなければ余裕も無い。 @金印漢使の倭国出張用の里程・方角は7月後半の日の出基準
A張政の出張日誌
B邪馬台国女王から贈られた生口への直接インタビュー
C梯儁の出張記録
【三国志東夷伝倭人条(魏志倭人伝)】
情報源:@〜C
作者:陳寿(233-297)
完成:280-297
【魏略】
情報源:@C
作者:魚豢
完成:魏末〜晋初期
魏 220-265
晋 265-316 <魏略逸文(漢書)>
【倭在帯方東南大海中依山島為國 度海千里復有國皆倭種】
倭人の国は山島=九州島にあって、
その東に渡海千里で下関以東は全て倭種である。
(@からの情報)
<魏略逸文(翰苑)>
【従帯方至倭循海岸水行歴韓國「到」拘邪韓國七千里】
帯方郡から韓人の領土(方可四千里)を「通り過ぎてから」、
倭人領である狗邪韓國に到着する。
【始度一海千余里「至」対馬國 其大官卑狗副曰卑奴無良田南北市糴】
これまでの沿岸航海から、対馬海峡渡海専用倭舟にて、渡海を開始して1000余里。
対馬島にある複数のクニの一つである、対馬國へと至る。
金印漢使・張政=対海國で停泊
梯儁=対馬國で停泊 (その日の天候や潮流の影響)
対馬島の中で、
北部に対馬國(半島南岸投馬國に対面する) ?里 ?戸
南部に対海國(瀚海に対面する) 方可四百余里 千余戸
【南度海「至」一支國 置官与対同 地方三百里】
また南に渡海して、壱岐島にある一大國へと至る。一大國は三百里四方。
梯儁は対海國ではなくて、対馬國に停泊してしまったから、
魚豢にとっては、対馬國から一大國までの渡海距離がわからない。
【又度海 千余里「至」末盧國 人善捕魚能浮没水取之】
また渡海する。渡海+東松浦半島〜唐津湾を越えての沿岸航海の、
合計1000余里で、末蘆國へと至る。
(末蘆國東部=唐津湾より東に上陸) <魏略逸文(翰苑)>
【東南五百里「到」伊都國 戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也】
陸行500里で伊都國(糸島平野+早良平野)の中の、目標地点へ到着する。
【女王之南又有狗奴國女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也】
魏略は伊都國までで、次は狗奴国の説明に入る。
梯儁は伊都國で金印外交を終えて、帰国した。
【自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆点而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人又文身以厭水害也】
梯儁が対馬國に停泊したことで、万二千余里の詳細を示せなくなった。
以上は翰苑より。
<魏略逸文(法苑珠林)>
【倭(種)南有侏儒國其人長三四尺去女王國四千余里】
@にあった侏儒國までで、
Cの裸國黒歯國は魏略に間に合っていない。 魏略と魏志倭人伝の制作時期は20年ほどの差。
魏略には、@Cの情報しか含まれていない。
魏志倭人伝には、@Cに加えて、A張政B生口の情報が含まれている。
【台与遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 献上男女生口三十人】
ABの情報源はセットで洛陽にもたらされた。
魏志倭人伝は魏代の歴史を記載しているので、張政が帰国したのは魏の末期。
魚豢はギリギリでABの情報源を入手し損ねており、
魏略の成立は魏末期〜晋成立直後の混乱期でABに接触できなかった。
魏略には、狗奴国は出てくるのに、邪馬台国は出てこない。
邪馬台国は、倭国に長年滞在したA張政が当てた倭読み訓読みであり、
邪馬台国(倭読み訓読み)=倭国(漢魏読み音読み)
魏略に狗奴国が登場して、拘右智卑狗の存在まで判明しているということは、
もう一つの情報源があった可能性が高い。
狗奴国が後漢と接触していた。 張政は卑弥呼の墓の完成形を見ている。
見ているどころか毎日目にしていた。
男王時代の邪馬台国内の内乱を経験し、
台与の共立まで倭国邪馬台国に滞在。
崇神と景行にも会っている。 >>691
魏略は使った字が違うだけで倭人伝の焼き増しだよ。
対馬の方可4百里は、西岸からしか見ていない。
釜山⇔壱岐に向かう場合、対馬の長辺が海岸水行の千里有る。
これは、使っていない。
狗邪韓國は弁辰狗邪と見るべきで、東行3千里も東岸には届かない。
投馬国は謎の倭人域であるが、この時魏は、辰韓と弁韓の雑居を把握していない。
韓伝の記述は246年の臣智を置いた以降である。
魏は、邪馬台国外交が終わる247年、この後も、弁韓、倭人域は未知なのである。
240年が梯儁だが、魏船は黄海を渡る帆船であって、
対馬から壱岐を経由せずに博多湾に入った可能性も高い。
半島西岸から済州島なら、対馬が要らない。
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
が、自郡至女王國 萬二千餘里 である。 九州王さんがいつも書いているように、
筑紫の日向=(魏代)伊都国
三雲南小路遺跡1号墓被葬者=ニニギ
平原遺跡1号墓被葬者=卑弥呼
なのであれば、
座標点が固定されるので、
あとは説ではなく、方程式のように解読されていくわけです。
倭国乱が146-189に納まりますから、
男王70-80年から逆算して、
三雲南小路王は66年以降にしかならないわけです。
ということは、57年の委奴国王は、伊都国以外の場所にいたことになります。
記紀から、ニニギは高天ヶ原から降臨する。
その途上で、猿田彦と出会うわけですが、
猿田彦からニニギに向かう光が、高天ヶ原と葦原那珂津国を照らすので、
高天ヶ原と葦原那珂津国は、ニニギの背後。
つまり早良平野と福岡平野なのだろう、ということになります。 >>695
> 九州王さんがいつも書いている
何の話をしているんだお前は??? >>695
>倭国乱が146-189に納まりますから、
>三雲南小路王は66年以降にしかならないわけです。
>ということは、57年の委奴国王は、伊都国以外の場所にいたことになります。
ムムム
倭奴国王は伊都国王ではない可能性についての具体的な反証は初めて読みましたが、一理ありますね。
>猿田彦からニニギに向かう光が、高天ヶ原と葦原那珂津国を照らすので、
記紀の「照らす」は支配することと解釈していますが、猿田彦は博多湾で陸海を支配していたようです。
ただ、高天原はあくまでも天照が照らしているわけです。
>高天ヶ原と葦原那珂津国は、ニニギの背後。
豊葦原那珂津国は良い読み方ですね。
福岡平野の繁栄ぶりを伝える言葉なのでしょう。
葦とは稲穂のことだそうです。
稲作先進地域である博多湾沿岸の呼称として相応しい。
あと、九州王さんとは別人です。 詳細は過去スレで何度も出ているので省きますが、
三雲南小路1号王墓と2号王妃墓がセットになっており、
すぐそばの細石神社がコノハナサクヤを祀っていることからも、
三雲南小路王はニギハヤヒよりはニニギの可能性の方がはるかに高く、
倭国王とは、九州説の一部の方がおっしゃっているニギハヤヒではなく、
やはりニニギなのだろう、とわかります。
ニギハヤヒについては、
先代旧事本紀に、一旦畿内で埋葬されたが、
天神達が憐れんで、高天原に遺体を運んで埋葬し直した、とあります。
手がかりが少なすぎるのですが、
須玖岡本甕棺墓が最も可能性が高いと思われます。
三雲南小路とほぼ同時代である点。
そして伊都国から見て、金印漢使ルートを鬼門方向で遮る位置にあります。
本当は憐れんで、ではなく、
滅ぼした委奴国王の祟りを遮断するため鎮めるために、
同時代最強の銅戈将軍であったニギハヤヒを須玖岡本に配置したのではないでしょうか。 詳細は過去スレで何度も出ているので省きますが、
三雲南小路1号王墓と2号王妃墓がセットになっており、
すぐそばの細石神社がコノハナサクヤを祀っていることからも、
三雲南小路王はニギハヤヒよりはニニギの可能性の方がはるかに高く、
倭国王とは、九州説の一部の方がおっしゃっているニギハヤヒではなく、
やはりニニギなのだろう、とわかります。
ニギハヤヒについては、
先代旧事本紀に、一旦畿内で埋葬されたが、
天神達が憐れんで、高天原に遺体を運んで埋葬し直した、とあります。
手がかりが少なすぎるのですが、
須玖岡本甕棺墓が最も可能性が高いと思われます。
三雲南小路とほぼ同時代である点。
そして伊都国から見て、金印漢使ルートを鬼門方向で遮る位置にあります。
本当は憐れんで、ではなく、
滅ぼした委奴国王の祟りを遮断するため鎮めるために、
同時代最強の銅戈将軍であったニギハヤヒを須玖岡本に配置したのではないでしょうか。 委奴国王についてはこれも過去スレで検討しましたが、
中広型銅矛王として、平型銅剣女王を滅ぼすわけですね。
弥生時代のメインプレイヤーを考えると、
壱岐対馬唐津からの天神男系イザナギ。
遠賀川発祥の豊国女系イザナミ。
天神イザナギが、福岡市土着の古来勢力に阻まれている間に、
イザナミ系が一気に日本全国に稲作をもって拡散します。
イザナミ系は、
北部九州の豊国領域に、祖である八雷神8部族。
本州日本海沿岸に、八岐大蛇部族。
福岡市で壱岐対馬と遮断された状況では、八岐大蛇が最大勢力だったわけです。
イザナギとイザナミが婚姻を結んで、福岡市を挟撃して筑紫統一。
吉武高木王=アマテラスが誕生し、
東征将軍スサノオが八岐大蛇を下し、日本海沿岸を統一して、
丹後に扇谷遺跡が建設されます。 敗北した八岐大蛇が虐殺された遺構は有りません。
アマテラスの支配下に入ったことになります。
豊国の八雷神→8山津見と、八岐大蛇は、共にイザナミ女系なので、
支配者と被支配者の関係になりにくいわけです。
一方のイザナギ系は男系なので、
イザナギ系の王族男子が、八岐大蛇の女首長に子供を産ませ、
その息子が支配者として君臨する、という支配体制が
円滑に進んだことでしょう。
よって、日本海沿岸の支配権はイザナギ系によって占められることになり、
大山祇の女性指導者は、
琵琶湖や、瀬戸内海に進出することになります。
後に銅矛銅剣戦争で負けた銅剣女王国の、開拓最前線が、
荒神谷や加茂岩倉の同范銅鐸の分布域となります。 >>699
そういや最近どこかのスレで三雲南小路と金印を無理やり繋げようと躍起になってた阿呆がいたな 八上姫=豊国女王が、大国主との子供に国を継がせることを拒んだので、
大国主は天神族と組んで、スサノオ将軍職について、
銅矛銅剣戦争を開始します。
しかし、大国主は自分の手勢も欲しい。
そこで目をつけたのが、
イザナギ、豊国(八雷神→大山祇)、本州日本海沿岸(八岐大蛇)の、
八岐大蛇族ですね。
沼河比売を口説いてタケミナカタを産ませて、
上手く越国を乗っ取ったわけです。
八岐大蛇族の指導権を乗っ取った方法は、八雷神への復讐心を煽ったわけですね。
八雷神+イザナギが八岐大蛇を負かした恨みを利用して、
八岐大蛇をタケミナカタに率いさせて、
瀬戸内銅剣女王国を攻めさせたわけです。
紀元前に、イザナギ(スサノオ)+八雷神 vs 八岐大蛇
一世紀前半に、イザナギ(アマテラス)+大国主(スサノオ)+八岐大蛇(タケミナカタ) vs 八雷神(大山祇)
一世紀後半に、イザナギ(ニニギ)+饒速日(スサノオ)+八雷神(建御雷神)vs 大国主+八岐大蛇(タケミナカタ) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています