邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 高祖神社とゆかりのある細石神社が消失し、再建も叶わぬまま没落してしまったのは何故なのか? ここは邪馬台国のスレです。
大宰府のスレでも白村江のスレでも細石神社のスレでもありません。 >>882
白村江は専スレもあるからスレチ認定でも良いが、大宰府は邪馬台国の外交機関という側面を否定できないし、細石神社の御神体と思われる三雲南小路の王墓跡は伊都国の案件 >>882
ここは邪馬台国のスレじゃなく(伊都国を王都と考えた)邪馬壹國のスレな 九州上陸から二千里(短里)、帯方郡から一万二千里の倭国の王都。
それが大宰府。 >>886
うめぇよな
対して櫛田神社の松ケ枝餅はクソまじぃ 倭人伝の行程記事の
従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国
この「到」狗邪韓国の前には、「○乍ら(途中右折の)△乍ら」が入っている。
しかし上陸後の第一歩を、北東の糸島平原へ向かえば、険しいけれど一本道で右折左折はない。
ここを、前例に倣って(省略せず、正しく)読むならば、
東南陸行して、○乍ら、途中折れて、△乍ら、「到伊都国」となる。
つまり、唐津平野から松浦川沿いに(南して、途中多久で右折の、東して)、
東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る、という書き方だ。 >>881
個人的に気になるのは、神社の境内(社殿の後方70m)の土を土塀の材料にと掘り出してること
三苫清四郎はキチガイだったのか? 細石神社(佐々禮石社)の来歴
建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜
紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
元慶元年(877年) 三代実録に高磯ひめ神に従五位下を授けるとあり
天正年間(1573〜1586年) 戦火により焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の実在が確認
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社 >>891
何度も断絶してるんじゃないか?
天正年間に消失しても再建できなかったって時点でほとんど力がなかったってことだろ
寛永年間に流鏑馬したのは神社再興すれば神田に戻って年貢逃れできるとの目論みだったけど頓挫
元禄16年には実在してたようだが、その8年前の御縁起は細石神社と名称の混乱が見える
文政12年に奉納されたツクバイは三雲南小路遺跡の発見で、ここに神社があった記憶が蘇り再建したと取るのが自然な気がする 秀吉も黒田氏も細石神社を日本の歴史とは関係ないと判断したんだろう >>894
>秀吉も黒田氏も細石神社を日本の歴史とは関係ないと判断したんだろう
一方、徳川幕府は阿波が天皇陵と関係があると判断していたがね。 @阿波 土佐(後に阿波)に流された土御門天皇の墓のことじゃね? 【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺 阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」
と記録されているが、こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。 @阿波 >>899
>宮内庁が参考地に指定してないから結局違ったんだな
指定したら大変な事になるでしょ。 今までの諸常識が崩壊するから。 @阿波 なんでも鑑定団に持ってきたら千円の壺だったみたいなことだな 二年くらい前の確か秋くらいな記憶あるけど
TVで四国説みて作品のネタにしようかなと思って四国スレに質問書き込んでたけど
こっちの伊都国スレのレベルの高さにビビって取りやめた思い出 >>904
武器時計力が全ての時代だったからな
ぶっちゃけ相当に怖かったと思うw 中立的な立場から、邪馬壹国九州説の人に質問がある
倭国大乱によって邪馬壹国を中心とする倭国連合が北九州に成立したとして、考古学的にはほぼ同時期に大和の地に一大勢力が形成されているのは事実
また大和の勢力形成に吉備(つまり東部瀬戸内勢力)まで関わったいるのもほぼ確実(弧文円板や特殊器台から)
九州説の立場からすると、倭国大乱による北九州の倭国連合の形成と、吉備が関わった大和勢力の形成は、ある程度関連したものと見ているのか、それともほぼ無関係の動きと考えているのか
もう一つ
卑弥呼の死後に倭国が乱れたとあるが、この倭国が乱れた原因は、これもあくまでも九州内での争乱と見ているのか、それとも大和勢力が関連していると考えるのか 邪馬壹国という名前を使うのは古田氏とその支持者だけなので、ほぼ九州王朝説の人だよな
九州王朝説では壬申の乱までが九州王朝で、壬申の乱によってヤマトに交替したとか言ってるから、それ以前の記録は基本的に九州の出来事を記してると認定してるんじゃなかったかな
このあたりの与太話を言いだしたあたりになると古田氏の説ってgdgdだった気がする、すでに馬脚を現しきってたのではないかと >>907
>考古学的にはほぼ同時期に大和の地に一大勢力が形成されているのは事実
これは願望が先に出て目が曇ってますよ見直しが必要でしょうね。
>それともほぼ無関係の動きと考えているのか
当然です。 >>907
>九州説の立場からすると、倭国大乱による北九州の倭国連合の形成と、吉備が関わった大和勢力の形成は、ある程度関連したものと見ているのか、それともほぼ無関係の動きと考えているのか
九州の騒乱で失脚した天孫族の東征が、本州の西日本にも影響した可能性はある。
>卑弥呼の死後に倭国が乱れたとあるが、この倭国が乱れた原因は、これもあくまでも九州内での争乱と見ているのか、それとも大和勢力が関連していると考えるのか
おそらく関係しない。
ちなみに上のレスとは別人です。 >>909
>これは願望が先に出て目が曇ってますよ
いや、纒向石塚古墳が造られたのは遅く見積もっても3世紀前半になるが 九州王朝説は、フルタのニッチねらい、与太話。
いまさら、言うほどのことではない。 ろくな根拠も示さずに理化学年代を全否定するデムパ集団だしな、与太話としてしか通用しないのが現状。傾聴に値する話はほとんど無くなった。 >>911
今どき巻向どうのって言ってるのは関西の自称研究者だけだぞ。みっともない。 >>913
そもそも理化学的に畿内説を説明できてるやつを見たことがない >>910
なるほど
確かに、纒向型前方後円墳の前身の可能性もある吉備の楯築墳丘墓も、実は吉備であれほどの規模の墳丘墓が形成されるのは唐突だったりするからな
そう考えると、北九州の争乱を逃れた何らかの勢力が吉備→大和と東征したと考えるのには一定の説得力はある そもそも邪馬台国畿内説などと言う学説は存在しない
卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他を軍事的に統括することは出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な常識であり、異を唱えるものなど居ない。
しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺を軍事的に統括することが出来ずにいるのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括することが出来たと主張することになる。
このような説はバカが言う説であり、もはや学問の体をなしていない。
邪馬台国畿内説は検証を加える以前に、立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。
邪馬台国畿内説は、在大阪朝鮮人による民族的願望から発生したファンタジー 邪馬台国畿内説などというものは平然とデータの改竄を行うことを前提としたトンデモ説であり、学説と呼ぶのが痴がましい下劣ものであります。
大前提として魏志倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるわけですが、この大前提を無視して「東、邪馬台国に至る」と、方向も国名も好き勝手に改竄するところからスタートしているのが邪馬台国畿内説なのであります。
これと同じような下劣な行いを理系の研究論文で行おうものなら、立ちどころにレッドカード(退場)となることはお分かりいただけるでしょう。
それ以前に、論文掲載を拒否され、二度と学者としての振る舞うことは許されなくなることでしょう。
この一点だけでも、邪馬台国畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白なのであります。 纒向の「ま」の字を見たとたんに、ヒステリーになったのかしょうむない煽りをする人がいたのは非常に残念だったが、九州説の人から別勢力の東征説を聞き出せたのは良かったよ
魏志や後漢書から分かる倭国大乱の時期は2世紀後半なので、邪馬台国と別の東征勢力が九州から逃れて吉備→大和と拠点を移したとしても楯築墳丘墓や纒向型前方後円墳の年代比定に大きな矛盾は無い 箸墓古墳を卑弥呼の墓と想定するのは無理がある。
魏書に於いては一貫して短里が用いられているのだから、1里=300歩、100歩は25.3m、百余歩は30m程度ということになる。
箸墓古墳は、墳長が約278m、後円部の直径が約150mであり、百余歩よりも桁違いに大きい。
畿内説信者は苦し紛れに「当初は円墳として築造され、前方は後年増築された」と言い出したが、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏らによって完全に否定されている。
また三国志に於いては「塚」と「墳」が明確に区別されていたことに留意せねばならない。
諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」や、大君公侯の墓が「墳」であったという記述からも高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「塚」と区別していた。
周礼には「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下庶民に至るまで各々差あり」とあり、高さが四丈もあれば、墳として扱われていたことになる。
一丈の長さは時代によって2-3mの間で変化するが、8-12mを超えれば間違いなく墳である。
箸墓古墳は高さ30mもあるので、魏使が見たら「大いに塚を作る」ではなく「大いに墳を作る」と書いていなければ辻褄が合わない。 >>919
続き
畿内説は纒向遺跡形成に関わった勢力の広範囲性(吉備の影響が強く、出雲や伊勢東海圏も関与)を根拠にして、当たり前のように筑紫・吉備・出雲・東海を含んだ大規模連合が形成されたかのように言うが、実は肝心の筑紫が纒向形成に関与していたという根拠が希薄なんだよね
つまり、伊都国や奴国が当時において大和連合に加わっていた証拠が無い
大和連合が広範囲"にも関わらず"筑紫勢力の関与が薄いことは、邪馬台国=畿内説最大の弱点なんだよね
北九州の亡命勢力が吉備に迎え入れられて、さらに東征して大和に本拠を移したという可能性は、記紀の東征神話(史実を反映している可能性はある)や弥生後期までの北九州の他地域に対する政治的・文化的優位性からはあり得ない話ではない
何も纒向遺跡の考古学的年代比定を頭ごなしに否定せずとも、邪馬台国(邪馬壹国)=九州説が崩壊するものではないし、まだまだある程度の理はあると思うけどね 実在しない短里を、あたかも事実であるかのように強弁するのも九州王朝信者の病弊の1つ。 九州王朝説は、フルタのニッチねらいの与太話。
もう、消え失せたたおとぎ話さ。 全く証拠を出さなくなった九州説が学説として終わってる、という現実を思い知らされるスレ >>922
アホなのか?短里認めないと沖縄方面行っちゃうぞ A: 曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方
B: 自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬
上のABは同じ構文であるが、「之」があるので、
Aでは、平を「・・を平らぐる」と他動詞読みすること明らか。・・・宣帝、これ公孫氏を平らぐる也
Bにおいても、極は「・・を極むる」と他動詞読みすること当然である。・・・倭国、これ南界を極むる也
つまり、「奴国は、倭の極南界であった」などとはワラワラ で、南界を極むる、と、極南界であった、とどう違うの? >>921
理解してくれてありがとう。
卑弥呼が記紀に登場しない理由も説明できるし、在位年数から考えて神武が卑弥呼に近い年代でもいいことになる。 >>927
おんや、ちがいがお分かりになりませぬか。
こりゃ、重症ですな。 「倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」 一大卒が北九州にいたなら、首都は北九州から離れた場所なのでは? >>925
記事がすべて正しいと想定するから海の果てに到着しちゃうだけだ
実際には記事内に多くの間違いが含まれているから問題ない。記事の本文では到着不可能で所在地を探し当てることができないと、いい加減に認めるべき >>936
魏志倭人伝の話をしてるところに虫ケラどもの民族願望を挟み込むな無能ヒトモドキ いや、民族願望はお前さんだろ
戦闘民族・北九州人? 魏志倭人伝や記紀を読めば、当時の倭人は戦闘民族のように思えるよ。
ユートピアお花畑の奈良盆地はただのど田舎。 >>938
魏志倭人伝の話をしてるところに虫ケラどもの民族願望を挟み込むな無能ヒトモドキ(本日二度目) 倭奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国これ南界を極むる。光武帝は印綬を賜った。 >>939 どこが戦闘民族なん? むしろ平和民族だけど?
三国志 魏書三十 東夷伝 韓伝(主に馬韓=後の百済)
其衣有上無下 略如裸勢
上着だけ身にまとい下半身は丸出しで裸同然。←土人の証拠
其俗好衣帽 下戸詣郡朝謁皆假衣帽 自服印綬衣帽千有餘人
衣頭巾を好み、朝謁にあたって帯方郡から借りるも、印綬や衣頭巾を自作する者1,000人以上。←パクりの起源
其俗少綱紀 國邑雖有主帥 邑落雑居不能善相制御 不知乗牛馬 牛馬盡 於送死
規律が少なく、統治者はいるが法はないので統率が取れない。 牛馬に乗ることも出来ず、死ぬまで酷使する。←無法地帯の証拠
居處作草屋土室 形如家 其戸在上擧家共在中 無長幼男女之別 其葬有棺無槨.
入り口が上にある塚を掘っただけの家とは言えない穴に草の蓋をしただけの住居に老若男女入り乱れて住む。 埋葬は棺がなく地面の槨に収める。←未開の証拠
其遠處直如囚徒奴婢相聚 無他珍寶 禽獸草木略與中國同
囚人や奴隷のごとく礼俗をわきまえない。 また宝と言えるものが一切ない。 なお動植物は中国と同じ。←奴隷根性の証拠
三国志 魏書三十 東夷伝 倭人条
男子皆露? 以木緜頭 其衣幅 但結束相連 略無縫
男子は皆髷をし、木綿布を頭に巻いている。 衣服は幅広い布を結び合わおり、縫われていない。←髪の服もきちんとしてる証拠
婦人被髪屈 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之
婦人は髪に被り物をし、後ろで束ねており、衣服は単衣のように作られた貫頭衣である。←女でも髪の服もきちんとしてる証拠
不?忌 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者滅其門戸及宗族
盗みはなく争いもない。 法を犯すと軽いものは妻子を没収し、重い者は家族を皆殺しにする。←法治国家の証拠
有屋室 父母兄弟臥息異處 其死 有棺無槨 封土作冢
家には部屋があり、家族の寝室が別にある。 人が死ぬと槨のない塚に棺を納める。←高文化の証拠
其風俗不淫 婦人不淫
その風俗は淫らではない。 女は慎み深く嫉妬しない。←高民度の証拠 魏志倭人伝の、倭国の風土関連記事は儒教経典(経書)を元にした創作譚が過半を占めてるから実録じゃない ゞ:.y.ノゞ ; ;y.ノゞ; ;ゞ ;" "ゞ; ; y.ノゞ;;ヾ ;ゞ y.ノゞ ;;;; "ゞ;ヾ;
ゞ:.y.ノゞy.ノゞヾ ; ;ゞy.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ:ノゞ ; ;ヾ ゞ ;" "ゞ; ゞ゛;
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;;;....;;::;...;;ii:| _ 春ねぇ〜またチョンコが花粉と共に
::;...;;:..;i...iii:| ' ´ ,、 `ヽ ソメイヨシノの嘘をつきまくる季節だわ。
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j (リハ从レ| ノ⊂i(.乂)つ レ'´iノヾヽi) i ノノヾ(リ゚ ー゚ノ l | ノ(G!|゚ o゚ノ!|
iヘ(i゚ ヮ゚ノ`i| (( 〈ハi__i〉)) 从゚ヮ ゚从i ∩∩ (( ( O▼O (i∪ ∪
iii( つ▼とii ,,,,,,.と__)__).. ,,,.,っ[◎]c ⌒⌒; ,...,... と__)__),.....,..と__)__),,,.,
'''''ヽ_つ-つ'''''
,;∧_∧: グギギギギギィィィィィ
<;l|l;`田´>;
(6 9 もうバレてるニダか・・・
ム__〉__〉 >>935、>>942
そうだね
主語は倭の奴国で、・・・南界を極むる、だね >>952
そうか、分割してすまんかった。
それで倭奴国と、倭の奴の国とはどう違うのかい。正直良くわからんのだ。 なるほど
委国が伊都国になって、奴国は博多の那国になったというわけか。良く勉強しておこう。 金印スレからの引用だけど
> 中国史では、王朝と民族は密接に結び付いた概念である。
> とは言えイデオロギー論争はそうであっても、
> 中国の古代の印章のなかに
> 「民族名+国名」の構造をもつ印章実例を一つも見いだし得ない。
> 委奴国王は「委(の)奴国(の)王」ではなく「委奴国(の)王」である。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/488 良くわからんな
倭は倭人という民族名でなく、
その後に倭国と出てくるその国名ではないのかな?? 金印に彫られてる「委奴国」のことを倭奴国と言ってるんだよな?
だとしたら一度も実例がないんだから倭の奴国、つまり倭国の中の奴国という解釈はあり得ないので実例通り倭奴国と読もうぜって話でしょ >>959
金印に彫られている文字のことではない
先ほど来、話題にしているのは、下の文章の「倭奴国」のことだけどな
「倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」 >>960
それにしても倭の中の奴国って読むのは筋違いだと思うよ
東夷伝の中にそういう読み方する国が他に一つもないんだから >>961
委奴国、或は倭奴国の名称それ自体はそれでいいんだけど、
その後に出てくる「倭国」とは何者なのか、
それとの整合性もつけなくてはならぬなぁ。この倭国はどこにあって、どの範囲たのかい。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 後漢の頃の倭国は対馬海峡と筑前だけだね。
卑弥呼の頃には筑後、肥前は含まれたかもしれない。
肥後は狗奴国かな。 >>967
そういうこと。
「倭奴国は倭国の南界・・・」だから、倭国>倭奴国と読めるんだけどねえ。
そして、
>後漢書における邪馬台国までの里程
>大倭王は邪馬台国にいる
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
だから、後漢書時代の倭国はどこにあってどの範囲で、倭奴国とはどんな関係にあったのか?。
(また同様に、三世紀の倭国はどこにあってどの範囲で、倭奴国とはどんな関係にあったのか?) >>948
中国古代思想史および中国古代思想の専門家である渡辺センセの論考
それぞれの要素がどの本のどの文章に由来するかを明示してある
あと、三国時代の思想系譜やら魏晋朝の政治派閥の関係、立ち位置も示してる
三国志は政治的中立ではないとな 三国志は政治とは無縁の陳寿が個人の趣味で完成させたからこそ価値が高いとして正史扱いになったんだろ? >>970
その通り。 三国志は陳寿の私撰であって政治色はない。
自身が蜀出身だったので若干の贔屓は感じられるものの魏書・呉書・蜀書をバランス良く書いてあったので成立の400年後に唐の第二代皇帝 太宗が正史と認定した。
また内容の正確さと密度が高かったため夏侯湛は筆を置いてしまい、夏侯版魏書は未完となった。 陳寿がそもそも派閥抗争の真っ只中にいたし、
陳寿を庇護していた上司は陳寿の学閥の師匠筋の人間を求めて雇用してるっぽく >>972
それだと一般に知られてる>>971の情報と真逆なんだけど、何かそれを裏付けるソースある? 陳寿が招聘された頃、晋では征呉論争があった
貴族の大半が和平派で、陳寿を招聘(というか、晋朝に推挙)した張華のほかでは羊?と杜預ぐらいしか征呉賛成者がいない中で征呉を強行したことで派閥争いになったっぽい
その影響か、張華は敵の多い人だったようだ
少しのち、魏志の記述の一部への反感から陳寿を左遷する動きがあって、青島近辺にあった長広郡の太守としてとばされそうになった際には上記の杜預の推薦で治書侍御史に任命されてるように、
間違いなく派閥人事の影響を受けている。
もちろん、左遷を求めたのは征呉反対派だった人物(荀勗)だ。 >>976
それと>>972の内容は違うんでない? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。