邪馬台国四国説 part2
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>>138
> 「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
今も昔も徳島にはおかしな「場所・謂れ」が多かったってことだな。 @阿波 邪馬台国四国説は平然とデータの改竄を行うことを前提としたトンデモ説であり、学説ですらありません。
大前提として、魏志倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるのを無視して「東、邪馬台国に至る」と
方向も国名も改竄するところからスタートしているのですから。
これと同じことを理系の研究論文で行ったら、即レッドカード(退場)です。
それ以前に、論文掲載を拒否されるでしょう。
この一点だけでも、邪馬台国四国説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白です。 俗称邪馬台国九州説、畿内説こそ馬鹿げた妄想説だよ
いい加減に覚醒したほうが良いよ
距離・方向を勝手気ままに自説に都合よいよう改竄しているのは明らかでしょう
そもそも「邪馬台国」など存在しない国名を使うんじゃないよ
中国原典は「ヤマト」と読まざるをえない表記がほぼ全てでしょう
下らん解説書ではなく原典を自分で解読しなさい、能力があればね >>144
「南、邪馬壹国に至る」
これは覆らないのだから四国は非現実的だろマヌケ 開花天皇の義母は高屋阿波良姫
阿波の名前はここから取ったのでは? >>146
>阿波の名前はここから取ったのでは?
阿波国の前は粟国だったからね、読みは「粟」からだろう。 @阿波 倭人伝の記述が概ね正しい→阿波説
倭人伝の記述に多少の誤差がある→畿内説・宇佐説・肥後説
倭人伝は国名くらいしかあてにならない→筑紫説・筑後説 >>148
「南、邪馬壹国に至る」
これは覆らないのだから四国は非現実的だろマヌケ 南水行10日で四国南西岸上陸、陸行1月でちょうど阿波
使者は文官だろうし荷物や雨の日があったりと考えたら移動速度はアベレージで一日10kmくらいじゃないの? 「南、邪馬壹国に至る」
これは覆らないのだから四国は非現実的だろマヌケ
↑
誰もこれを反証しないんだな 徳島に最古の鉱山遺跡か 卑弥呼も入手?「朱色」の原料
朱色の原料である辰砂(しんしゃ)と呼ばれる鉱物の採掘跡とされる
徳島県阿南市の若杉山遺跡で、弥生時代後期(1〜3世紀)とみられる
土器片がみつかった。阿南市と県教委が1日発表した。
この時期にすでに採掘が始まっていたとみられ、
国内最古の鉱山遺跡となる可能性が高まったとしている。
市文化振興課などによると、辰砂は水銀と硫黄の化合物。
古代には辰砂を含んだ岩石を砕き、死者の顔や棺(ひつぎ)、
古墳の石室などに塗った。朱は権力の象徴とされ、
3世紀の中国の三国時代の歴史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、
倭(日本列島)の山では丹(辰砂)が採れ、
女王卑弥呼が中国王朝に丹を献上したとされる。
若杉山遺跡は全国唯一の辰砂の採掘遺跡。坑道跡とみられる
横穴や露天採掘場所などが確認されていた。今年度の調査で、
若杉山の山腹(標高245メートル)の坑道跡
(高さ0・7〜1・2メートル、中心部の幅約3メートル、奥行き12・7メートル)で複数の土器片が出土。
このうちの5点に弥生時代後期の土器の特徴がみられた。
国内の鉱石採掘跡は山口県美祢市の長登(ながのぼり)銅山跡(8世紀ごろ)が
最古とされてきたが、500年以上さかのぼることになる。 「南、邪馬壹国に至る」
これは覆らないのだから四国は非現実的だろマヌケ
↑
誰もこれを反証できないんだな 話についてこれないのが居るな。
魏志倭人伝の記述をきっちりなぞるってのが難しすぎるの? 「南、邪馬壹国に至る」
これは覆らないのだから四国は非現実的だろマヌケ
↑
魏志倭人伝の記述をきっちりなぞれないからこんな事を言われてるんだろ >>149
>「南、邪馬壹国に至る」
>これは覆らないのだから四国は非現実的だろマヌケ
「南にいくと邪馬台国に至る」
宿毛辺りを南へ出航したんだね。 ワハハハハ @阿波 >>157
>さすがにそれはダメだろw
ダメもなにも、「其山有丹」で倭国(阿波)に決定済みなんだから、無茶言っちゃいけね〜よ。 @阿波 >>158
魏志倭人伝を無視して水銀だけで主張するほうが無茶を通り越して無謀だろマヌケwww >>159
>魏志倭人伝を無視して水銀だけで主張するほうが無茶を通り越して無謀だろマヌケwww
魏志倭人伝に「其山有丹」ってあるんだから、無視なんかしていないわね。 無茶言っちゃいけね〜よ。 @阿波 倭人伝の記述を無視して、500里の唐津に行くから後が続かないってのが理解できないみたいだな。
壱岐から1000里→東南に500里→東に100里→南に船で10日、陸を一月で邪馬壹国
短里で当てはめたら阿波につく。何も小難しく考えるh津用はない。 >>161
そうですね。
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70、6mは、概ね妥当。 @阿波 >>160
都合の良いとこだけしか採用しないんじゃ畿内説信者と同じく妄想でしかないやんけ >>163
>都合の良いとこだけしか採用しないんじゃ
それは、そっくり九州説。
倭国(阿波)はすべて都合よし! ワハハハハ @阿波 倭地は温暖にして、冬夏生菜を食す。
皆、徒跣。屋室有り。
父母、兄弟は異所に臥息す。
朱丹を以ってその身体に塗る。
中国の紛を用いるが如し。
男子は大小無く、皆、黥面文身す。
古より以来、その使中国に詣(いた)るや、皆、自ら大夫と称す。
夏后少康の子は会稽に封ぜられ、断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。
今、倭の水人は沈没して魚、蛤を捕るを好み
文身は、亦、以って大魚、水禽を厭(はら)う。
後、稍に以って飾と為る。諸国の文身は各に異なり
或いは左し、或いは右し、或いは大に、或いは小に。尊卑差有り。
その道里を計るに、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”) の東に在るべし。
女王国より以北は、特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏憚す。
常に伊都国に治す。国中に於ける刺史の如く有り。
王が使を遣わし、京都、帯方郡、諸韓国に詣らす、及び郡が
倭国に使するに、皆、津に臨みて捜露す。
文書、賜遺の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず。
「魏書」第30巻『 魏志倭人伝 』 普平陽侯相 陳寿撰
神々からの日本最古の捏造教科書とされる古事記や日本書紀には記述されてないが
致密かつ高度な中華文明を生み出した古代中華帝国漢人官僚には正確に記述されてた
神々しい伝説の邪馬台国や女王卑弥呼、倭人達の倭国群は日本の何処にあったんだろう? >>164
けっきょく邪馬台国の比定地なんて妄想ごっこでしかないわけか・・・ >>165
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ヽ. !:l:::l/-ヽ.゙;::', U /:::::::::::r=‐'''"´`''‐,.-゙'‐-、ヽ.
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. / l:! !:;'::!::::;! ``'''‐‐---┬'゙ `'''''''''‐-、 ゙、 ./ l:::l 南、至邪馬壹国
この記述にて阿波説を排除しようとしているようだが
南へ行く起点はどこなの?
投馬国を意味しているんだろうが、投馬国自体特定されているのかね?
君のおむつの中では別として、一般的にこの国の所在地は確定していないよ
したっがて「南、至邪馬壹国」の文脈での論の展開は意味をなさない
ごめん、「君のおむつ」でなく「君のおつむ」だった
昨日のNHK全国ニュースでの若杉山遺跡の話は大変興味深いものである
徳島からの発信を積極化してもらいたいね、関東から応援しています なにやってんねん徳島
3/3(日) 18:53配信 共同通信
和牛の受精卵と精液が不正に中国に持ち出された事件で、
大阪府警が受精卵の流出元として徳島県内の畜産農家を家宅捜索していたことが3日、
捜査関係者への取材で分かった。
外部リンク:headlines.yahoo.co.jp
6: (大阪府) [US] 03/03(日)19:03 ID:JxkXSZGy0(1) AAS
やっぱ徳島土人ってクソだな
7: (catv?) [CL] 03/03(日)19:05 ID:TPQ1lgFt0(1) AAS
こういうのはどんどん取り締まれ
10: (長野県) [CN] 03/03(日)19:07 ID:5tsWN8tH0(1) AAS
さすが売国奴仙谷由人のお膝元だぜ!
13: (茸) [ニダ] 03/03(日)19:09 ID:xXsArTnD0(1) AAS
これ経済的ダメージで言ったら農家のおっさん1万人56したくらいの威力あるからな
極端なこといえば死刑でもおかしくない案件 >>169
>徳島からの発信を積極化してもらいたいね、関東から応援しています
千葉県人さん、有難うございます。
徳島からの発信として、近く倭国(阿波)を広めるためのコミックが出るようです。 面白い企画に期待しています。 @阿波 泡フリーク的には倭国と倭奴国と邪馬台国は同一視な感じ? >>172
>泡フリーク的には倭国と倭奴国と邪馬台国は同一視な感じ?
邪馬台国=女王国=粟国(阿波北部)
狗奴国=長国(阿波南部)
倭人伝時代倭国(阿波)=粟国+長国+東讃+南淡程度 @阿波 >>174
>倭奴国は?
倭国(阿波)のことでしょう。 @阿波 >>176 阿波さんの見立てはどうよ?
>淡路島はイザナキとイザナミが磤馭慮(おのころ)島の次に生んだ土地だ。
そもそも、これが間違い。 磤馭慮(おのころ)島は忌部の郷の粟島。
>また、伊勢内宮(三重県伊勢市)と淡路島の伊弉諾(いざなぎ)神宮(兵庫県淡路市)、そして葛城山は同緯度線上にあって、聖なるラインを形成している。
そういう、オカルトめいた話は意味ないから。
>この、光と影を、どう説明すれば良いのだろう。
もともと、淡路島に光など当たっていなかったってこと。
>淡路島に鉄の素材を流していたのは、出雲だろう。
そんな遠くから来なくとも、倭国(阿波)からだよ。 もっとも、淡路島は倭国(阿波)の島なんだけど。
>弥生時代の最先端地域は北部九州で、朝鮮半島の鉄を独占的に入手していた。
鉄を独占的に入手していたのは、倭国(阿波)だよ。 倭国(阿波)にいくつ鍛冶炉遺構が在ると思ってんの?
以下略。 @阿波 やっぱり怒ると思ったよ
古代語で魚の事を(な)と発音したらしいんだけど
魚=な=奴ってことかな
奴=委なのかな
わかりますか? いろいろ畿内に盗まれたんだろうね
vs東京でなくvs畿内でいけよ 賛成。 vs東京で徳島をアピールするより、徳島の古代の財産をアピールに使うべき。
絶対、これはどこにも勝つんだから。 負ける心配が無いんだから。 @阿波 阿波時代以前は九州の時代だろう
文明は西から東へ伝わって行ったからな >>183
>阿波時代以前は九州の時代だろう
「九州の時代」って、どういう意味なんだろうね。
まず、九州ってどこの地域? 九州全体? @阿波 「深曽木の儀から考察」
深曽木の儀では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、それに先立つ着袴の儀で男子は滝の意匠をあしらった和服である落滝津の御服の上に白絹の袴を着付けます。
そして、青石(あおいし)二個を踏み、南側を向いて立ち、御用掛が髪をくしですきそろえ、はさみで毛先を少し切ると、日置盤からぴょんと飛び降りるのです。
これは高天原から天照大御神の孫、つまり天孫が葦原中国の支配者として降臨した様子を模した儀式がこの深曽木(ふかそぎ→みそぎ)の儀であると思われるのです。
この山橘は恐らく酢橘か柚で、共に阿波で産するものの象徴でもあり、青い石は、阿波で採れる青石=多くの古墳等の積石に使用されているもので、これも阿波を象徴するものです。
そして私が注目したのは、「南の方角へ飛び下りる」ということ、つまり高天原から南方へ降臨したということを意味するものではないでしょうか。
実際は高天原がどこにあったのかはわかりませんが、あくまで徳島県に高天原があったとするならば…ということで、
その場合、霊峰剣山を中心にとした1000m超級からなる剣山系の山々から南方へ下ったということになります。
https://ameblo.jp/marine816/entry-12314233650.html
天皇家は今でも「陸稲と粟」に関わってるんだね。 感動。 やはり倭国(阿波)。
弥生の大洪水により、卑弥呼時代は灌漑稲作が壊滅状態だったからね。 だから、陸稲や粟などの雑穀が主食。
本来なら「麻」こそ、お手播きされたいんだろうけれど、今のご時世じゃあねwww @阿波 高天原で素戔嗚が畔を壊すなど乱暴を働き追放される話があります
平地にある田圃の畔を壊しても被害は少ないですが、棚田の場合は被害は甚大です
上方の田から下方の田へ被害が連続的に拡大します
高天原比定地で棚田での稲作栽培地は徳島佐那河内の棚田に代表されますよね
佐那河内の山中には、天の岩戸神話で活躍するタジカラオの陵と伝わる古墳があります
古事記に記された「佐那の県」の地名と符合しています 古事記には、天照大御神が石屋戸隠れをした時、八百萬神が集い神楽などで大神を誘い出し、この時手力男命が大神の手を取りて引き出したと記されている。
この手力男神は「佐那県に坐す」との記述とおり佐那河内村牛木屋(古代には佐那の県または狭長村と呼ばれていた)に祭られている。
https://sueyasumas.exblog.jp/23490705/ もしかしてソナモリ→佐那モリかな?
ソナモリは韓国カヤって話も多いけどね @阿波さんへ
仰せのとおり千葉県人です なぜ判りましたか?
一つ提案です
本年は今上陛下のご譲位と新天皇陛下のご即位があります
秋には陛下にとって最重要な践祚大嘗祭が執り行われます
正に阿波忌部族の務める一大行事の年になります
お願い事ですが、徳島蜂須賀家・江戸徳川家に存在していたと噂される
阿波風土記は恐らく宮内庁書陵部に保管されているのではないかと思慮していますが
徳島県人の請願にて宮内庁に情報開示を求めて頂きたいと願います
署名運動等出来ないものでしょうかね? >>191
>署名運動等出来ないものでしょうかね?
千葉県人さん、遠くから声援ありがとうございます。
残念ながら、今現在では徳島県人に千葉県人さんのような熱意がないのが現状です。
いや、熱意がないというより、徳島県人自体が真の古代阿波の歴史を知らないのです。
徳島の郷土史家の中でも、阿波説に耳を貸さない人も大勢います。 「まさか阿波が」という感覚です。
今の段階では、署名運動等は無理でしょう。
そのため、地道に、真の阿波古代史延いては真の日本古代史の啓蒙に努力してくれている団体が複数存在しています。
まず、徳島県人自体の歴史認識を変えるのが先決だと思っています。 @阿波
阿波説の徳島人結構居るようですが、それぞれの交流とかあんまり無いんですか?
https://youtu.be/MzfWzToAyk8
この人たちとか >>194
今は特に交流しているようには見えませんね。 基本的には同じですが、多少、考え方の違いもあるようです。 @阿波 立石が市長になったら少しは変わるよ
あと四国放送は阿波古代史をもっと取り上げて宣伝しないとな 宣伝という手法は宮崎県とか島根県と同類になるから良くないと思う。
神社の古記録・江戸期以降の行政記録(村史など)・阿波国造家の子孫に伝わる文書・
民間の伝承・古代地名等少なくともコマーシャルベースで毒されていない事実に基づいた
良質の番組作成が望まれる。 近く、コミックがでるようです。
コミックなら、連載しながら歴史に興味のある若者を中心にじわじわ浸透していくかも。
少なからず阿波説の認知拡大に期待しています。 @阿波 テレビの邪馬台国論争はいつも畿内vs九州
四国は蚊帳の外
悔しくないのか? テレビ番組の大部分はプロデューサーが作るもの
日本の問題はプロデューサーの質の悪さ
民放番組の程度の低さは君も知ってんだろう???
程度の酷い彼らの作る番組に君が満足しているのであれば君の程度も知れちゃうね >>200
>民放番組の程度の低さは
NHKもだね。 邪馬台国番組に出る識者って、阿波について無知なのか無視なのか、なんか無様だね。 @阿波 テレビによく出る、古代史学者が阿波の遺跡にコメントしないって、かえって変だよね。 @阿波 TVの内容は酷いけど悪名は無名に勝るではないが
低俗でも取り上げられないよりはマシなんだよ その様な無自覚の視聴者が益々テレビ番組を劣化させているんだよ
日本の将来をよく考えよう
その程度の人間をターゲットとして、メディア・政治屋が食い物にしてんだよ 徳島は観光、魅力度ワーストで使えるもんは使って村おこししていかないといけない
じゃないと徳島はそのうち消滅する、もう時間はないんだよね
ってそのあたりの実情は徳島人でないとわからんだろね @阿波さん
徳島県人の支持も高くなさそうですね、残念です。
大都会近在では住民の大半の方々は昭和以降に地方より転居してきた人々及びその方たちの
子孫です。私の勤務先にも徳島出身者の社員・徳島にルーツを持つ社員が沢山います。
逆に地方都市の住民の方は古代より生活されてきた人々の血族の方々が大半でしょう。
とすると、阿波風土記は古より徳島に生をうけた人たちにとって自分の先祖の物語・
自分たちの歴史書でもあります。
自分たちの歴史書の有無を宮内庁に問い合わせる権利はあるのではないかと思うのですが
無理でしょうかね? 役に立ちそうな政治家はいませんかね。
徳島消滅を危惧されている人もいるようですが徳島県人の血を継ぐ人は関東にも沢山いますよ。
皆さん徳島に愛着を持たれています、念の為。 後藤田正純は忌部の末裔
後藤田の家というのは、こうした神話の地域をルーツとする忌部(いべ)族から分かれたと
言われておりましてね、私の父で十七代目だそうです。
私は兄がいますから、(後藤田家)十八代目ではありませんが、
それでも徳島、阿波の国のルーツを構成するところの末(裔)にいさせてもらっているのです。
私にはやはり、徳島の“血”がしっかり流れているのです 小松島商工会議所が動き出した!
https://www.awakoku.com/
でも見るのは歴史マニアだけ
TVでじゃんじゃん放映して啓蒙しないとね >>208
この団体(NPO法人阿波国古代研究所)から、年内にはコミックを発刊するようです。
コミック 「よみがえる皇都」 JTB出版
着々と動き出しましたね。 @阿波 幼児には漫画は難しいから
邪馬台国時代の阿波をCGで再現できないかな? 小松島商工会議所の該当箇所拝見しました。
小さな一歩ですが意義はありますね。
ただ細目記事は現地のお店に行かなければならないようで県外者にとってはハードルが
高いですよ。
より利用しやすくする方法を考慮すべきですね、さらに検索でヒットされやすい技法導入が
必要です。
これでは効果が限定的です。
又、小松島だけでなく徳島の他地域との連携が必須でしょう。
県の主導が望まれます。
何度も古のロマンを求めて徳島を訪問しましたが当該場所が非常に分かりづらいです。
案内板もなく道も当然ながら整備もされていません。
特に四国山中に車で乗りいれると最悪ですよね。
徳島県神社庁は少なくとも式内社と比定されている神社の由緒書を整備しなければ
いけないでしょう。
今年も訪問をしたいと思っていますが神社・古墳。遺跡等を網羅した地図が望まれます。 観光化して、観光客を集めて、税収上げて、発掘のサイクルを作りたい 宮内庁に情報開示を求めたら、不倫は不問にするよ>後藤田 徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの) @阿波
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/03/231418 蓮華谷古墳群(U)二号墳
「蓮華谷古墳群」
当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。
調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。
副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/renge.html >>220
じゃ、「インパクトある発掘」ってなに? 挙げてごらん。 @阿波 大代古墳は全長約54mの前方後円墳
後円部南北径31m・東西径45m 前方部長23m、くびれ部幅18m、前方部前面幅21m、墳高は後円部6.7m、前方部3.3m
前方部、後円部とも2段築成 葺石はあるが、全体ではなく、裾部を列石状に区画している程度。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪の破片が出土(第1段テラス上や前方部墳頂に円筒埴輪列があり、後円部墳頂に形象埴輪が並んでいたと考えられている。)
後円部頂に南北方向に南北約7.4m、東西約4.5m残存深さ約80cmの墓壙の中に内法で長軸3.7m、北小口幅1.1m、南小口幅1.0mの竪穴式石室があり、その中に刳抜式石棺がある。
石棺内から、滑石製臼玉28・緑色凝灰岩製管玉1が出土した。
原位置から移動した遺物は、鏡片、装飾品(管玉・臼玉) 武器(鉄鏃・銅鏃・鉄剣片・鉄刀片・鉄鉾片)武具(短甲片) 農工具(鋤先・鉄鎌) 工具(鉄斧・刀子・ヤリガンナ・鉄鑿)など。
石棺の石材は、さぬき市津田町火山産の白色凝灰岩。4世紀末の築造と推定されている。さぬき市津田町「岩崎山4号墳」より少し新しい古墳とみられている。 「加茂宮ノ前遺跡」
朱の生産国内最大・最古
Q 遺跡ではどのようなものがみつかったのですか。
A 水銀朱を生産したとみられる石臼や石きねが約300点。辰砂原石や表面に水銀朱を塗った土器の破片、耳飾りなどの関連遺物も多く、出土数の合計は約1000点になりました。
また、祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構16基と住居跡2基も見つかりました。
Q どのぐらい珍しいのでしょうか。
A 非常に珍しいものばかりです。縄文後期の石臼や石きねは三重県度会町の森添遺跡などでも見つかっていますが数十点程度で、1000点規模の発見は他になく、
加茂宮ノ前遺跡が当時国内最大規模の生産拠点だったと考えられます。過去の発掘調査で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)に水銀朱が精製されていたことは分かっていました。
今回の発見で、生産の起源は1500年ほどさかのぼることになります。
また、円形配石遺構の発見は西日本でほとんどなく、居住域と祭祀の遺構がひとまとめに確認できたのは西日本で初めてです。
Q 阿南市内では他の遺跡でも発見がありました。どのようなものですか。
A 加茂宮ノ前遺跡から約5キロ離れた若杉山遺跡は弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての辰砂の採掘遺跡で、坑道は国内最古であることが分かりました。
遺跡の時代は異なりますが、加茂宮ノ前遺跡で見つかった辰砂原石は若杉山遺跡から産出されたと考えられています。
那賀川中流域で辰砂の採掘から水銀朱の精製まで一体的に行っていたのでしょう。 「矢野遺跡」
徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。
このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。
用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。
祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。
文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊 交流を示す出土品
縄文時代を研究する県埋蔵文化財センター・湯浅利彦専務理事の話
矢野遺跡の出土品は、関東や九州から伝わった文化と県内で育まれた文化が混ざり合っており、地域交流の結節点だったことを示している。
西日本を代表する出土品で、徳島の歴史を県民に知ってもらいたい。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊 古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や、水銀朱の原料の辰砂原石などが大量に出土した阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡。
辰砂原石などの発見で、水銀朱の生産、利用時期が1500年以上さかのぼることが明らかになった。
また、水銀朱の生産拠点だったとされる竪穴住居跡や、祭祀に使っていたとみられている円形配石遺構など、縄文社会の解明に大きな役割を果たす。 @阿波 徳島県阿南市水井町「若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」
出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
貝片・獣魚骨・人骨片
想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半
若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
(徳島県立博物館1997・岡山1998) 鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。
「板野・鳴門古墳群」
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm 「カネガ谷遺跡」
出土した弥生土器・石器から、弥生時代後期初頭の集落であることが分かった。
特に、注目される遺物として朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧が出土した。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023019/ 「桧はちまき山遺跡」
桧はちまき山遺跡は、軍事的防御性をもつ遺構や石鏃などの武器が少ないことなどから、日常生活が営まれた高地性集落であったと思われる。
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023021/ 稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、
石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。
蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡
原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩
徳島県で勾玉が出土された遺跡:稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。
井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、
新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。
出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、
当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。 @阿波
「稲持遺跡」
https://www.pref.tokushima.lg.jp/rekishiru/remains/5023036/ 「レキシルとくしま」のHP 初めて知りました。
訪問時の役に大いに立ちそうです、 ありがとうございました。
新元号が発表され、原典である万葉集が見直されているようです。
解説書には、素人でも地勢的に疑問に思う説明がなされています。
奈良盆地にカモメがとんでいるとか、難波宮(大阪)から小豆島がみえるとか・・・
漫才の世界です。
今次を機会に斯様な馬鹿げた解釈の見直しがされればよいのですがね。 【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】 「春三月に、難波宮に幸せる時の歌」
「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも」
「上の一首、船王の作」
奈良時代の後期難波宮(大阪市)からは「阿波の山」は絶対に見えない。
また、この「阿波の山」は、徳島市の眉山ではなく、香川県さぬき市津田の前期難波宮辺りから見た、なだらかな讃岐山脈である。
倭国(阿波)から遷都する前の飛鳥時代に宮が設置された前期難波宮は香川県さぬき市津田。
この歌は香川県さぬき市津田の前期難波宮で読まれた歌六首の一つである。 @阿波 土成町宮川内の奥に飛蔵山(ひそやま)という山がある。 飛蔵山は御祭神として第二十七代 安閑天皇を奉斎する吉野神社が古くから鎮座していたと伝わる。
吉野神社は神仏習合の時代に飛蔵宮(ひそみや)または蔵王権現と改称され、山伏をはじめとする修験道の一大霊場として栄えた。
近くに大別当、教連寺という字名が残されており、教連寺は蔵王権現の宮司であり大権別当は大宮司が居住していた場所であると考えられている。 芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、
大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。 芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。
古墳時代初期(約1800年前)の遺構から、出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、
徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、他地域で製作された土器が多く出土。
特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、他地域での出土点数は限られてくる。
ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、各地の多くの土器が出土している。
おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していたと思われる。
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められ、
弥生時代終末頃になると吉野川下流域の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、「海人」の存在が想定されている。
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。
これは往古徳島県の海岸沿いにあった長國の範囲内とも一致する。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています