邪馬台国四国説 part2
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忌部の話 二十 「三種の神器」その三 尾野 益大 朝廷の祭祀には玉が祭料,幣帛として使われた。忌部は,大和朝廷が祭祀に必要としたその玉類の生産,調達にかかわっていたとの指摘がある。 忌部の祖神である「天太玉命」に玉の文字が含まれていることも偶然ではないはずだ。 「日本書紀」(神代下第九段)に忌部に関する記述があり「…櫛明(くしあかる)玉神を作玉者とす…」とある。「古語拾遺」にも似た記述があり,忌部氏はいろいろな神を率いて幣帛・祭具の生産に従事した。 櫛明玉神は出雲国の玉作の祖という。 さて,島根県で玉作といえば,出雲玉作遺跡がある玉湯町,松江市忌部だ。つまり旧意宇郡忌部郷を中心とする地域だった。 「延喜式祇式」臨時祭条に「…毎年十月以前令意宇郡神戸玉作氏造備…」とある。 これを「出雲風土記」と照らすと,毎年十月に玉を調達した玉作氏の住む意宇郡神戸が,「和名抄」に出てくる「忌部神戸」であることが明らかになる。つまり出雲の玉作りは忌部が行っていたわけだ。 もちろん,忌部の祖神を祀る天太玉命神社がある奈良県橿原市の近くにも玉作遺跡である曽我遺跡がある。大和朝廷の官立の玉作工房だったようだ。 徳島の玉作遺跡は,徳島市国府町矢野の「矢野遺跡」と三好市三加茂町の「稲持遺跡」がある。両遺跡とも緑灰色の蛇紋岩を使用し,勾玉の製作をしていた。矢野では気延山や眉山から石を運んできたようだ。 時代は矢野が若干古く弥生時代後期後半とみられる。矢野遺跡周辺は,いうまでもなく古代阿波が最も栄えていた土地である。 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。 阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。 ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。 ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。 それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。 阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定) http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 どのスレだったかな、数年前の話 まだ記紀(神話)なんて信じているのか? と言ってる人がいたでしょ 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加賀志(いかがし)神社 鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635 御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと) またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社である。 『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、 物部なのだから、みな河内(そもそも“河内”は阿波の一般的な地名)の人間であると単純に考える人が多い。 しかし、 @ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること A 伊加賀志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること C 『阿波両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 同じく祭祀を司る物部氏との関係は、同族分派の可能性が非常に高い。 「伊加賀志(いかがし)神社」 http://sueyasumas.exblog.jp/10039623/ 「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、 阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。 そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。 阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。 「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、 船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。 「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。 船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。 船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。 当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。 次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、 これを「田村大神」と総称する。 阿波の一宮神社の社家、大宮司家を世襲した一宮長宗の流れを汲む一宮氏(分家)が「水主神社」の宮司として祭祀を行っていた時期があり、 この部分についても「大宜都比売命」と「倭迹迹日百襲姫命」に何らかの繋がりがあったと考えられる。 倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、旧黒田村であった徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり、 百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた徳島市不動町の式内社「天佐自能和気神社」で祀られている。 王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、 第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の「前期難波宮」に皇居を営むことになる。 【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】 「春三月に、難波宮に幸せる時の歌」 「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも」 「上の一首、船王の作」 奈良時代の後期難波宮(大阪市)からは「阿波の山」は絶対に見えない。 また、この「阿波の山」は、徳島市の眉山ではなく、香川県さぬき市津田の前期難波宮辺りから見た、なだらかな讃岐山脈である。 倭国(阿波)から遷都する前の飛鳥時代に宮が設置された前期難波宮は香川県さぬき市津田。 この歌は香川県さぬき市津田の前期難波宮で読まれた歌六首の一つである。 「あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・」 この歌は、応神天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。 通説の難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。 また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。 さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。 これらの説話は、古代「難波」の地であった讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、 さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。 仁徳天皇の大后、石之日売命は、葛城之曾都毘古の娘である。 葛城之曾都毘古の父は、第8代天皇・孝元天皇(こうげんてんのう)の御子、武内宿禰(たけうちのすくね)。 母は、山下影日賣(やましたのかげひめ) で、その兄が珍彦(うづひこ)である。 珍彦(うづひこ)とは、神武天皇を水先案内し、後に倭国造の祖となった倭宿禰命であり、その父が「天村雲命」である。 吉備の黒日売は「海部直の娘」であるが、その海部直の祖先にも当たる。 その「天村雲命」が日本で唯一の式内社「天村雲神伊自波夜比賣神社」にて、阿波で祀られている。 式内社 天村雲神伊自波夜比賣神社http://www.genbu.net/data/awa2/murakumo2_title.htm 神武天皇が珍彦(うづひこ)とめぐり合った「速吸門」は、「鳴門海峡」のこと。 海人族をも支配し、各地の海を知り尽くしていた天皇家の物語で、鳴門以外の海を速吸門(はやすいなと)などと表現するわけがない。 潮流の速さ【速】と、巨大な渦潮【吸】と、【門】で表現される地形、「なと」「なると」の響き。 当然、珍彦(うづひこ)の「うづ」は、渦潮(うづしお)の「うづ」であろう。 また、山下影日賣の「山下」は、これも地名から取っており、『和名抄』に記される阿波國板野郡「山下(也萬乃之多)」郷のことで、現在の鳴門地方である。 現在の地名(住所表示)では確認できないが、その山の南北に「葛城神社」が鎮座する。 その山とは「葛城の山」を示唆している。 従って、「葛城」も、鳴門地方の地名と思われる。 『古事記』には、葛城長江 曾都毘古(かづらきの、「ながえ」の、そつひこ)と記され、「葛城」地方のなかに「長江」があることが確認できる。 現在の鳴門市に、古代からの地名、「大津」が残っており、その大津町に「長江」が在る。 もちろん、『古事記』に登場する“本来”の「大津」とは、この地のことである。 葛城がそれなりに広範囲な地名であることもわかるが、『古事記』文中には度々「葛城の〇〇」、という感じで登場する。 孝元天皇の妃の一人が、伊香色謎命(いかがしこめのみこと) 延喜式式内社 伊加賀志神社 である。 妃にはまた、埴安姫命がいるが、阿波國那賀郡の式内社 「建嶋女祖命神社」の御祭神となっている。 伊加賀志神社、建嶋女祖命神社ともに、全国唯一の阿波国式内社である。 「伊加賀志神社」 https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/44664411.html 「建嶋女祖命神社」 http://www.genbu.net/data/awa2/takesima_title.htm いわ」も地名から取ったと考えられるが、讃岐の難波郷から南に進み阿波へ入ると「いわ野」の地名がある。 そこから東に進み、鳴門地方にも「いわ浜」「いわ崎」があり、「いわ国」と推定されるエリアと、上記の神々、人々の関連地が全く一致する。 石之日売は、「みつ」の崎で、御綱柏を海に投げ棄てたのち、怒りのままに難波宮を通り過ぎて、故郷の国「葛城(鳴門)」を目指す。 (一旦難波に戻ったのは、その怒る様を天皇に見せつけるためであろう。) 「宮には入り坐さずして、其の御船を引き避きて、堀江に泝(さかのぼ)り、河のまにまに、山代に上り幸でましき。 山代より迴り、那良山の口に到り坐して、歌ひ曰りたまはく・・・」 阿波國には「山代」郷も存在したが、この場合の山代は地形の形容詞だと思われる。 阿波には「河内」「日浦」「宇佐」など地形から生まれた地名が複数存在する例がある。 「やましろ」は、山背とも書き、山の背、後ろ側、すなわちこの場合は、阿波本国から見て、阿讃山脈の裏側という意味である。 讃岐の難波郷から(南へ上る川に人力で船を引き、所々で乗り継ぎながら)、古代の難波奈良街道に沿って大坂峠を越え、日開谷川を吉野川へと下る。 この途中に上に書いた「いわ野」がある。 そして吉野川に突き当たった一帯が「奈良」である。 石之日売の「いわ」も地名から取ったと考えられるが、讃岐の難波郷から南に進み阿波へ入ると「いわ野」の地名がある。 そこから東に進み、鳴門地方にも「いわ浜」「いわ崎」があり、「いわ国」と推定されるエリアと、上記の神々、人々の関連地が全く一致する。 石之日売は、「みつ」の崎で、御綱柏を海に投げ棄てたのち、怒りのままに難波宮を通り過ぎて、故郷の国「葛城(鳴門)」を目指す。 (一旦難波に戻ったのは、その怒る様を天皇に見せつけるためであろう。) 「宮には入り坐さずして、其の御船を引き避きて、堀江に泝(さかのぼ)り、河のまにまに、山代に上り幸でましき。 山代より迴り、那良山の口に到り坐して、歌ひ曰りたまはく・・・」 阿波國には「山代」郷も存在したが、この場合の山代は地形の形容詞だと思われる。 阿波には「河内」「日浦」「宇佐」など地形から生まれた地名が複数存在する例がある。 「やましろ」は、山背とも書き、山の背、後ろ側、すなわちこの場合は、阿波本国から見て、阿讃山脈の裏側という意味である。 讃岐の難波郷から(南へ上る川に人力で船を引き、所々で乗り継ぎながら)、古代の難波奈良街道に沿って大坂峠を越え、日開谷川を吉野川へと下る。 この途中に上に書いた「いわ野」がある。 そして吉野川に突き当たった一帯が「奈良」である。 【飛鳥の地は小松島市一帯】 小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町は「あすか」と呼ばれていた。 そして、江戸時代まで「飛鳥神社」が鎮座していた。 香具山―小松島市日峯山・籠山(かごやま) 萬葉集註釈 巻第三 「阿波国風土記の如くは、天(そら)より降り下りたる山の大きなるは、阿波国に降り下りたるを、アマノモト山と云ふ、 その山の砕けて大和国に降りつきたるを、天香具山と云ふ。」 『和名抄』 阿波国板野郡の郷名に「田上」がある。 阿波の田上郷は鳴門市大麻町坂東に比定されている。 この郷の民の一部を記した延喜2年の「田上郷戸籍断簡」が遺っている。23氏487口の名簿である。 この「田上郷戸籍断簡」の中には、帰化人系の氏である「服部(はとりべ)」、「錦部(にしきべ)」、「漢人(あやひと)」、「秦(はた)」が見える。 このうち漢人(あやひと)を除く三氏はすべて衣手(職業集団)である。 この「田上郷戸籍断簡」により、倭国(阿波)に半島帰化人が来ていた事実が分かる。 中国朱が検出された萩原墳墓群・天河別神社古墳群のある地域を支配していた有力者は 当時、魏と交流していたことがうかがえる。 その、魏の水銀朱が使われた萩原古墳群から出土の画文帯神獣鏡 同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群から出土の斜縁二神二獣鏡 魏から下賜された鏡は、この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかの可能性が高い。 「淡海」とは「阿波海」のこと。 そもそも通説とされる滋賀県の「大津」は平安遷都の際に「大津」の地名が誕生している。よって天智天皇の時代には滋賀県(近江)に「大津」の地名は存在しおらず、現在の通説では不都合が生じてしまう。 「山背を山城と改め新京を平安京と名付ける、また近江の古津を大津と称する」とあり、天智天皇が六六七年に、淡海の大津宮を拓いた当時、滋賀県大津はまだ存在していない。 近江=「淡海」とされているが、これは後世の解釈によって踏襲されているだけ。 本居宣長も、「あふみ(淡海•近江)は「阿波宇美(あわうみ)が切(つづ)ま」ったものと説き、 また記紀にみえる淡洲(あわのしま)・阿波国(あわのくに)・淡島・阿波島(あわしま)の用例や、 淡路島の名の由来が阿波への道(阿波に至る途中の島)の意味から、「淡海」は「阿波海」が転記されたもの。 例えば「万葉集(巻二ー 一五三)の大后の御歌では 鯨魚(いさな)取り 近江(淡海)の海を 沖放(さ)けて 漕ぎ来る舟 辺(へ)付きて 漕ぎ来る舟 沖つ櫂(かい) いたくなはねそ 辺つ櫂 いたくなはねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ ここで歌われている「いさな」とは鯨の古称。鯨が滋賀県大津に隣接する琵琶湖に生息しているのだろうか。 ここの「近江(淡海)」とは紀伊水道の「淡海(阿波海)」なのである。 「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は阿波国の矢野遺跡が最西端に位置する。 同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。 この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。 「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。 用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。 また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。 さて、神武東征の際に活躍した「大久米命(おおくめのみこと)」が黥面だったことが古事記に記載されている。 「大久米命」は神武東征に随行した久米一族の祖神にあたる。 久米一族については、石井町の久米勝夫氏による、全国の久米氏を調査した資料「久米一族の調査研究」によれば、昭和55年現在、全国の久米姓は5461戸。 一般的に言われる久米氏の本拠地は大和国久米(奈良県橿原市)であるはずだが、奈良県に在する久米姓は、わずか43戸(当時)、徳島県は540戸となっていた。 一方、徳島県内では徳島市と石井町に集中している。 さらに言えば、矢野遺跡や観音寺遺跡などのある国府町の気延山付近を「気延の庄」、気延山を挟んだ北を「久米の庄」と呼んだそうである。 まさに、全国の久米姓の本拠地は徳島県石井町近辺なのである。 「矢野遺跡」 http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C6%C1%C5%E7%BB%D4%2F%CC%F0%CC%EE%B0%E4%C0%D7 倭〜という人物などがいるでしょ、 なぜ皇族と(表記)書いてあるの? アマテラス(不明)? ここから誕生したのが皇族(不明)という話なんだろうけど、 民族的には、どこの国の人間になるの? 長野県諏訪市にある「諏訪大社」は光仁帝の宝亀10年(779年)に阿波國名方郡「多祁御奈刀弥神社 御祭神 建御名方命」から移遷された、と社伝にあるそうだ。 その頃、現在の長野県にある諏訪大社は「南方刀美(みなとみ)神社」と言われており、阿波からご祭神が移されてきたことが伝えられている。 つまり大国主命の息子神である建御名方神はここ徳島県石井町諏訪の「多祁御奈刀弥神社」に祀られ、ここから各地に広がっていった、ということである。 それにしても観光地として多くの参拝者が訪れる諏訪大社のご祭神が阿波から移遷された神様だと知っているひとはどれだけいるだろうか。 http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/46148157.html 神武天皇に鳴門で敗れた長髄彦は、『古事記』では 「那賀」須泥毘古 また 「登美能那賀」須泥毘古 と表記されている。 『日本書紀』には、「ナカ」邑の地に、また「トビ」の地名が起こり、それが後に訛って「トミ」になったと書かれている。 「登美」の後裔氏族には「中臣(ナカトミ)氏」がいる。 徳島県板野郡板野町周辺は、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。 長髄彦の末裔 中臣氏の本貫地は徳島県板野郡板野町周辺の可能性が高い。 「住吉大明神こと住吉神社」 板野郡藍住町住吉神蔵に鎮座。 祭神は神功皇后、表筒男命、中筒男命、底筒男命。 鎮座地は神功皇后ゆかりの地で当社は全国住吉神社の元社にあたる。 神功皇后の本名は息長足姫 (おきながたらしひめ) 命。 息長ということは生粋の海人族である。 大陸進出にあたり航海の守護神として、底筒男命、中筒男命、表筒男命を御舟に祀っていた。 百済征伐の帰りに当地(板野郡藍住町住吉)に寄り、御舟に祀っていた住吉三神を降ろしたのであろう。 そのほか、夫にあたる仲哀天皇は西に位置する板野郡矢武の応神山仲哀寺で祀られ、大臣 武内宿禰は同町 矢武八幡神社を中心に武威神社、高良神社で祀られている。 また御子である応神天皇の葬場跡は南に位置する応神町宮島。 審神者(さにわ)で顕れた淡郡の嚴(いつの)事代主は吉野川を上流に上った阿波郡市場町伊月の式内社「事代主神社」で祀られている。 ちなみに海人族でも支配地域が違うと氏族も違う。 神功皇后も幼少の頃より古の各海人部族の神話を聞かされていたのであろう。 そもそも住吉三神は泡(阿波)より産まれた神。 この三神は神代より祀られた阿波の海人の神々なのである。 お前の中では、そうなんだろうな、 それで、どこの池沼なんだ? ちなみの家は『松傾』? こういう名前の家なんだけど、どういう事だと思う 底筒男命は県南部海岸を支配した長国の神(大国主命、事代主命) 中筒男命は北に続く小松島市、徳島市の海岸を支配した阿曇の神(和多都美豊玉比賣命) 表筒男命はさらに北に続く鳴門の海岸一帯を支配し淡路、奈良大倭に進出した大倭の神(速吸宇豆彦) 神功皇后は阿波全ての海人族神を味方につけて異国との闘いに挑んだ訳である。 アタマのビョーインに行けと言っているんだよwww どこの低脳なんだ? 『松傾』 こういう名前の家、上の名前の読み方も 「す」?だと言っているし 少しは理解出来ただろう、 はやく刑務所に行け、べつに自殺でも良いけど。 『松傾』 本当に、こういう名前の家、ググってみてw それで、お前がアマテラスで・・・神武なの? 「さあ❔」 太陽神天照が卑弥呼って説あるが、実際日本神話の神々って実在の人物なのかな? だとしたら、高天原は天でもなんでもなく、日本国内(あるいは国外)のどこかに実在するのでは? 封神演義みたいな、実話をもとにしたフィクション説。 その剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡 磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/ 三貴子でしょ? 日本の話ではないと、何度言えばわかるんだ? 残念ながら時代が対応していないが、中国の歴史書の「倭国大乱」と、日本の神話上の「荒ぶる神々を平定」を対応させて考えれば… 確か、三国志魏志倭人伝に、「卑弥呼を王に立て、倭は治った。」というくだりがあるでしょ? 記紀には崇神紀七年、「大田田根子」を大物主大神の祭主とし、翌八年には高橋邑の「活日」を大神(オオミワ)の掌酒(サカビト)にすると記されている。 その大神とは「大物主大神」を指し、祭主となった大田田根子の「祭祀場」と掌酒を分担した活日の「高橋邑」は近接していたことになる。 阿波国旧美馬郡にある「段の塚穴型石室」といわれる特異な石室構造をもつ古墳は、分布範囲がほぼ旧美馬郡に限られており、 段の塚穴の2基のみでなく、旧美馬郡の範囲の古墳に共通してみられる特徴である。 その吉野川北岸美馬郡美馬町「段の塚穴」の南対岸 貞光町に「太田」と「高橋」の地名が並んで残っている。 尚且つ、日本唯一社「倭大国魂神社」が旧美馬郡美馬町に存在している。 日本神話の内容と中国の歴史書の倭の記述の内容が酷似している。 『神仙界』の話? 家の話なんだけどw日本ではそうなっている、 どうにもならない事なんだよ やはり史実か。日本はローマ帝国と同じで、菅原道真や徳川家康、明治天皇など、人を神として祀る(神格化の)伝統があるしな。 家康→東照大権現(日光東照宮) 卑弥呼→天照(伊勢神宮) という感じ? 『伊達の桃太郎』 この辺りの話でしょ? 蚕を飼い、機織りをしていて・・・。 牛を飼い・・・とか、 なぜ詳しいんだと思う? むかーし 橋が架かった、完成したので・・・、 来てくださいという招待状が届いたこともあったという話とか 『日本昔話 天狗の羽うちわ』? 例えば、「西遊記」は妖怪変化が山ほどでてくるけど、史実として「大唐西域記」ってのがある。 フィクションの「三国志演義」には、正史「三国志」がある。 「水滸伝」も実話に基づいたフィクション。 後漢書東夷伝、三国志魏志倭人伝、宋書倭国伝などのおそらく史実であろう中国の歴史書と、古事記、日本書紀などの日本神話を比較検討して調べれば(まあそうしているだろうが)、かなり日本古代史が正確になって行くと思う。 「大田田根子」は「大国主命」の五世孫とされ、崇神天皇は河内の美努村(ミノノムラ)から「大田田根子」を探し求めたとされる。 この「河内の美努村」とは「三好郡美野郷」のことで、現在の三野町にあたる。 また日本書紀では「陶邑(スエムラ)から大田田根子を得た」とあるが、これは「三好郡美野郷」三野町の吉野川対岸に位置する三加茂町、 その下流の半田町が「陶邑」と考えられる。 半田(ハンダ)は植田(ハニタ)が変化したもの。 これは陶器や埴輪、瓦をつくる邑の意味になる。 このように「太田田根子」にまつわる伝承は、阿波の地名や伝承そして「倭大国魂神社」が、現に美馬郡に鎮座していることから裏付けられるのである。 阿波町新開にある賀茂神社を訪れたときです。 名称からすると鴨族に由来する神社でありますが、境内に瓊瓊杵尊と他に3名の方の 名を記した大きな石柱がありました。 内お一人は我家に伝わる始祖の方のお名前です。 不思議に思い、宮司さんのお家が近在に会ったため図々しくも訪問しお話を伺いました。 宮司さんに教えて頂いた事は、当神社(宮司家)に昔から伝わるご祭神は瓊瓊杵尊及び 3名の方(天孫降臨時の随伴者)だそうで、欠かさずこれ等の方々をお祀りしている そうです。そして天孫降臨の舞台は神社から南方、四国山脈を指さして、「ここだから」と 真顔でお話頂きました。 ちなみに宮司家の紋は「三つ葉葵」だそうです。徳川家の紋と同じです。 江戸時代、徳川巡見使も訪れていたようで、その時は「三つ葉葵」の紋付き袴で迎えていたとの事、 当然お咎めもないとの事で、通常なら考えられない出来事です。 徳川家も鴨族の末裔とされていますし、恐らく幕府要人も阿波国の由緒を知っていたのでしょうね。 さもなければ、元禄忠臣蔵事件当時に幕府より蜂須賀藩に阿波国にある古代天皇陵の調査など 命じないでしょう。 >>343 >さもなければ、元禄忠臣蔵事件当時に幕府より蜂須賀藩に阿波国にある古代天皇陵の調査など >命じないでしょう。 【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】 元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。 元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。 『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺 阿波淡路右兩國之内、古代之、 天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… ) 同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、 一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、 一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、 一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、 一、今一つかうべの儀は不分明 一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、 一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、 一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、 一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、 一、からうとの内かうや貮つに書付添、 右之通 以上』 「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。 反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」 と記録されているが、こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。 徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると 「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」 阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。 阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。 内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。 その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。 ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、 穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。 主として近年の考古学上の成果によって、箸墓古墳に代表される奈良盆地の初期王とみられる古墳及びホケノ山古墳のルーツが阿波であることが明らかにされ、 また、卑弥呼の近畿年代(庄内式期)を含め、阿波の鮎喰川流域で製作された東阿波型土器(軽量薄型土器)が、近畿地域一円の多くの遺跡から大量に出土している。 さらに卑弥呼の没年頃から、阿波吉野川南岸の結晶片岩が船で運ばれ、同地域の首長級の古墳の石材として使用されていることも次第に明らかになってきた。 古い常識に捉われない研究者は、阿波の王権の東遷か、あるいは阿波の王権が、近畿・奈良地方に進出し、これらを従属化した痕跡と考えるのである。 「阿波の神様 大宜都比売」 大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。 名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。 『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。 阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、 オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神 豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。 元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。 大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。 また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。 穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 『大分宇佐神宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)』 大分の宇佐神宮の開基は725年。 一方、阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 御祭神:誉田別命・仲哀天皇・三女命(いわゆる宗像三神) 「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修・・・」 以下略 大分の宇佐神宮の創建より遡ること51年、白鳳二年(674年)にこの阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 は阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。 よって、大分の宇佐神宮も、『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたものであろう。 「日下姓の起源」 古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。 日下姓は、聖徳太子様の時代には存在していた名前である。 「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在していた名前である。 勿論、日本書紀にも出てくる。 阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。 徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。 香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。 このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、 よって、記紀に登場する日下姓をみても、記紀は四国地方を記したものと言える。 阿波国内に二千基程度あると云われる地神塔。 これは阿波独特のもので、寛政二年(一七九〇)に徳島藩主であった蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に地神塔(塚)を建て、春秋の社日(戌の日)に地神祭を行うようにさせたと言われている。 阿波藩独特の祭礼行事ではあるが、香川県の南部、岡山県南部の瀬戸内海に面する部落、北海道では阿波藩からの入植者のいる地域等で「地神さん」が祀られている。 その形は五角柱で、塔の五面には… 1. 天照大神 2. 大己貴命 3. 稲倉魂命 4. 少彦名命 5. 埴安媛命 が彫られている。 通説では農業五面神といわれているが、正しくは皇祖天照大御神、葦原中つ国の盟主神 大己貴命、薬学の神 少彦名命、稲米(五穀)の神 稲倉魂命、埴土(はに: 土器や祭祀にかかわる)の神埴安媛命 の五神で、記紀神話の中でも国土創生に欠かせない、いわば主役級の神々であり、阿波国内では神蹟の明らかな「土着の神」である。 http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/01/12/225133 四国は四県合同で国から借金して 遺跡発掘しろよ。 それで邪馬台国=四国に確定すれば 経済効果は莫大だろ。 確定できなかった先は知らんがw 少なくとも倭国(阿波)には、鉄鍛冶の工房が多数あり、畿内や九州を圧倒している。 少なくとも倭国(阿波)には、辰砂(丹)の採掘遺跡があり、魏志倭人伝の「其山有丹」に唯一、合致している。 少なくとも倭国(阿波)には、勾玉造りの工房や原石が存在していることから、勾玉造りの発祥地でもある。 なんで奈良はバンバン発掘やってるのに徳島はさっぱり? 奈良はどうして発掘費用が出るの? 徳島は差別されてる? 魏志倭人伝に曰く 「卑弥呼の死去に伴う徇葬者は百余人」。 無知な人たちは箸墓古墳が卑弥呼の墓だと申すが、今まで散々調査を行ってきても 未だq葬者達の墓(古墳)は見つかっていない。 倭人伝の記載に合致する卑弥呼の墓と見做される古墳は徳島気延山のみであろう。 八倉姫神社奥の院の古墳及びその周辺の小さな古墳群は正に魏志倭人伝を彷彿とさせるね。 矢野遺跡なぜもっと掘らない? 音楽ホールやらオーケストラやらにあれだけ金使ってるんだから 金ないとは言わせない 少なくとも倭国(阿波)には、各地に特異な弥生後期集落遺跡群が点在し、畿内や九州を圧倒している。 少なくとも倭国(阿波)では、弥生土器X様式期の小形丸底鉢(東阿波型土器)を発明しており、庄内式土器や布留式土器も「東阿波型土器」の一つである。 少なくとも倭国(阿波)には、中国朱や中国鏡が出土していることから、倭国(阿波)が中国と交流していたのは紛れもない事実である。 少なくとも倭国(阿波)には、前方後円墳の原型墳が存在していることから、前方後円墳の発祥地でもある。 あるあるばっかりで どうやって広めていくのか 戦略性が足りないよ 徳島城再建運動している小松格は九州説みたいだな残念 神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。 神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。 東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。 その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。 西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳で、 中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。 竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m、 墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が晶片岩で覆われている。 石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。 石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。 棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土、棺外からは鉄槍や土器が出土した。 3世紀半ばの築造と推定されている。 370 1年後に市長選挙あるよ 出てくれるかわからないけど この団体(NPO法人阿波国古代研究所)から、年内にはコミックを発刊するようです。 コミック 「よみがえる皇都」 JTB出版 NPO法人阿波国古代研究所主催の講演会や遺跡巡りバスツアー この頃、いつも満席になるね。 徐々に阿波が見直されつつある実感がする。 @阿波 祇園山古墳の「水銀朱」や「勾玉」「葺き石」「箱式石棺」等から、まず間違いなく筑紫忌部のお墓。 「纒向勝山古墳」朱塗の板の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」。 「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「東大寺山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「桜井茶臼山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「那珂八幡古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「津古生掛古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「大和天神山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 徳島古事記研究会 落合てるき 徳島市議落選 残念! 「柳本大塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「ホケノ山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「大仙古墳」の石棺水銀朱は、まず間違いなく和泉忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「千葉県香取市の禅昌寺山古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく関東忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「静岡県沼図市の高尾山古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく東海忌部が持ち込んだ「若杉山産」 糸島市の「一貴山銚子塚古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」 長野県千曲市の「森将軍塚古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく信州忌部が持ち込んだ「若杉山産」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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