邪馬台国四国説 part2
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お前の中では、そうなんだろうな、
それで、どこの池沼なんだ? ちなみの家は『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、どういう事だと思う 底筒男命は県南部海岸を支配した長国の神(大国主命、事代主命)
中筒男命は北に続く小松島市、徳島市の海岸を支配した阿曇の神(和多都美豊玉比賣命)
表筒男命はさらに北に続く鳴門の海岸一帯を支配し淡路、奈良大倭に進出した大倭の神(速吸宇豆彦)
神功皇后は阿波全ての海人族神を味方につけて異国との闘いに挑んだ訳である。 アタマのビョーインに行けと言っているんだよwww
どこの低脳なんだ?
『松傾』
こういう名前の家、上の名前の読み方も
「す」?だと言っているし 少しは理解出来ただろう、
はやく刑務所に行け、べつに自殺でも良いけど。
『松傾』
本当に、こういう名前の家、ググってみてw それで、お前がアマテラスで・・・神武なの?
「さあ❔」 太陽神天照が卑弥呼って説あるが、実際日本神話の神々って実在の人物なのかな? だとしたら、高天原は天でもなんでもなく、日本国内(あるいは国外)のどこかに実在するのでは? 封神演義みたいな、実話をもとにしたフィクション説。 その剣山系山岳集落(高天原)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/ 三貴子でしょ?
日本の話ではないと、何度言えばわかるんだ? 残念ながら時代が対応していないが、中国の歴史書の「倭国大乱」と、日本の神話上の「荒ぶる神々を平定」を対応させて考えれば…
確か、三国志魏志倭人伝に、「卑弥呼を王に立て、倭は治った。」というくだりがあるでしょ? 記紀には崇神紀七年、「大田田根子」を大物主大神の祭主とし、翌八年には高橋邑の「活日」を大神(オオミワ)の掌酒(サカビト)にすると記されている。
その大神とは「大物主大神」を指し、祭主となった大田田根子の「祭祀場」と掌酒を分担した活日の「高橋邑」は近接していたことになる。
阿波国旧美馬郡にある「段の塚穴型石室」といわれる特異な石室構造をもつ古墳は、分布範囲がほぼ旧美馬郡に限られており、
段の塚穴の2基のみでなく、旧美馬郡の範囲の古墳に共通してみられる特徴である。
その吉野川北岸美馬郡美馬町「段の塚穴」の南対岸 貞光町に「太田」と「高橋」の地名が並んで残っている。
尚且つ、日本唯一社「倭大国魂神社」が旧美馬郡美馬町に存在している。 日本神話の内容と中国の歴史書の倭の記述の内容が酷似している。 『神仙界』の話?
家の話なんだけどw日本ではそうなっている、
どうにもならない事なんだよ やはり史実か。日本はローマ帝国と同じで、菅原道真や徳川家康、明治天皇など、人を神として祀る(神格化の)伝統があるしな。
家康→東照大権現(日光東照宮)
卑弥呼→天照(伊勢神宮)
という感じ? 『伊達の桃太郎』
この辺りの話でしょ?
蚕を飼い、機織りをしていて・・・。
牛を飼い・・・とか、
なぜ詳しいんだと思う? むかーし
橋が架かった、完成したので・・・、
来てくださいという招待状が届いたこともあったという話とか
『日本昔話 天狗の羽うちわ』? 例えば、「西遊記」は妖怪変化が山ほどでてくるけど、史実として「大唐西域記」ってのがある。
フィクションの「三国志演義」には、正史「三国志」がある。
「水滸伝」も実話に基づいたフィクション。
後漢書東夷伝、三国志魏志倭人伝、宋書倭国伝などのおそらく史実であろう中国の歴史書と、古事記、日本書紀などの日本神話を比較検討して調べれば(まあそうしているだろうが)、かなり日本古代史が正確になって行くと思う。 「大田田根子」は「大国主命」の五世孫とされ、崇神天皇は河内の美努村(ミノノムラ)から「大田田根子」を探し求めたとされる。
この「河内の美努村」とは「三好郡美野郷」のことで、現在の三野町にあたる。
また日本書紀では「陶邑(スエムラ)から大田田根子を得た」とあるが、これは「三好郡美野郷」三野町の吉野川対岸に位置する三加茂町、
その下流の半田町が「陶邑」と考えられる。
半田(ハンダ)は植田(ハニタ)が変化したもの。 これは陶器や埴輪、瓦をつくる邑の意味になる。
このように「太田田根子」にまつわる伝承は、阿波の地名や伝承そして「倭大国魂神社」が、現に美馬郡に鎮座していることから裏付けられるのである。 阿波町新開にある賀茂神社を訪れたときです。
名称からすると鴨族に由来する神社でありますが、境内に瓊瓊杵尊と他に3名の方の
名を記した大きな石柱がありました。
内お一人は我家に伝わる始祖の方のお名前です。
不思議に思い、宮司さんのお家が近在に会ったため図々しくも訪問しお話を伺いました。
宮司さんに教えて頂いた事は、当神社(宮司家)に昔から伝わるご祭神は瓊瓊杵尊及び
3名の方(天孫降臨時の随伴者)だそうで、欠かさずこれ等の方々をお祀りしている
そうです。そして天孫降臨の舞台は神社から南方、四国山脈を指さして、「ここだから」と
真顔でお話頂きました。
ちなみに宮司家の紋は「三つ葉葵」だそうです。徳川家の紋と同じです。
江戸時代、徳川巡見使も訪れていたようで、その時は「三つ葉葵」の紋付き袴で迎えていたとの事、
当然お咎めもないとの事で、通常なら考えられない出来事です。
徳川家も鴨族の末裔とされていますし、恐らく幕府要人も阿波国の由緒を知っていたのでしょうね。
さもなければ、元禄忠臣蔵事件当時に幕府より蜂須賀藩に阿波国にある古代天皇陵の調査など
命じないでしょう。 >>343
>さもなければ、元禄忠臣蔵事件当時に幕府より蜂須賀藩に阿波国にある古代天皇陵の調査など
>命じないでしょう。
【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。 『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺 阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』 「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」
と記録されているが、こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。 内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。
ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。 主として近年の考古学上の成果によって、箸墓古墳に代表される奈良盆地の初期王とみられる古墳及びホケノ山古墳のルーツが阿波であることが明らかにされ、
また、卑弥呼の近畿年代(庄内式期)を含め、阿波の鮎喰川流域で製作された東阿波型土器(軽量薄型土器)が、近畿地域一円の多くの遺跡から大量に出土している。
さらに卑弥呼の没年頃から、阿波吉野川南岸の結晶片岩が船で運ばれ、同地域の首長級の古墳の石材として使用されていることも次第に明らかになってきた。
古い常識に捉われない研究者は、阿波の王権の東遷か、あるいは阿波の王権が、近畿・奈良地方に進出し、これらを従属化した痕跡と考えるのである。 「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の名前」として初めて表れる。
阿波忌部は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。 大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 『大分宇佐神宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)』
大分の宇佐神宮の開基は725年。
一方、阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 御祭神:誉田別命・仲哀天皇・三女命(いわゆる宗像三神)
「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修・・・」 以下略
大分の宇佐神宮の創建より遡ること51年、白鳳二年(674年)にこの阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 は阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。
よって、大分の宇佐神宮も、『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたものであろう。 「日下姓の起源」
古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子様の時代には存在していた名前である。 「古事記 中つ巻」の冒頭に日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。
阿波国(あわのくに:徳島県)の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 また、隣の香川県も日下姓が多く、高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。
徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。
このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられ、
よって、記紀に登場する日下姓をみても、記紀は四国地方を記したものと言える。 阿波国内に二千基程度あると云われる地神塔。
これは阿波独特のもので、寛政二年(一七九〇)に徳島藩主であった蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に地神塔(塚)を建て、春秋の社日(戌の日)に地神祭を行うようにさせたと言われている。
阿波藩独特の祭礼行事ではあるが、香川県の南部、岡山県南部の瀬戸内海に面する部落、北海道では阿波藩からの入植者のいる地域等で「地神さん」が祀られている。
その形は五角柱で、塔の五面には…
1. 天照大神
2. 大己貴命
3. 稲倉魂命
4. 少彦名命
5. 埴安媛命
が彫られている。
通説では農業五面神といわれているが、正しくは皇祖天照大御神、葦原中つ国の盟主神 大己貴命、薬学の神 少彦名命、稲米(五穀)の神 稲倉魂命、埴土(はに: 土器や祭祀にかかわる)の神埴安媛命
の五神で、記紀神話の中でも国土創生に欠かせない、いわば主役級の神々であり、阿波国内では神蹟の明らかな「土着の神」である。
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/01/12/225133 四国は四県合同で国から借金して
遺跡発掘しろよ。
それで邪馬台国=四国に確定すれば
経済効果は莫大だろ。
確定できなかった先は知らんがw 少なくとも倭国(阿波)には、鉄鍛冶の工房が多数あり、畿内や九州を圧倒している。 少なくとも倭国(阿波)には、辰砂(丹)の採掘遺跡があり、魏志倭人伝の「其山有丹」に唯一、合致している。 少なくとも倭国(阿波)には、勾玉造りの工房や原石が存在していることから、勾玉造りの発祥地でもある。 なんで奈良はバンバン発掘やってるのに徳島はさっぱり?
奈良はどうして発掘費用が出るの?
徳島は差別されてる? 魏志倭人伝に曰く
「卑弥呼の死去に伴う徇葬者は百余人」。
無知な人たちは箸墓古墳が卑弥呼の墓だと申すが、今まで散々調査を行ってきても
未だq葬者達の墓(古墳)は見つかっていない。
倭人伝の記載に合致する卑弥呼の墓と見做される古墳は徳島気延山のみであろう。
八倉姫神社奥の院の古墳及びその周辺の小さな古墳群は正に魏志倭人伝を彷彿とさせるね。 矢野遺跡なぜもっと掘らない?
音楽ホールやらオーケストラやらにあれだけ金使ってるんだから
金ないとは言わせない 少なくとも倭国(阿波)には、各地に特異な弥生後期集落遺跡群が点在し、畿内や九州を圧倒している。 少なくとも倭国(阿波)では、弥生土器X様式期の小形丸底鉢(東阿波型土器)を発明しており、庄内式土器や布留式土器も「東阿波型土器」の一つである。 少なくとも倭国(阿波)には、中国朱や中国鏡が出土していることから、倭国(阿波)が中国と交流していたのは紛れもない事実である。 少なくとも倭国(阿波)には、前方後円墳の原型墳が存在していることから、前方後円墳の発祥地でもある。 あるあるばっかりで
どうやって広めていくのか
戦略性が足りないよ 徳島城再建運動している小松格は九州説みたいだな残念 神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳で、 中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。
竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m、 墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が晶片岩で覆われている。
石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。
石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。
棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土、棺外からは鉄槍や土器が出土した。
3世紀半ばの築造と推定されている。 370
1年後に市長選挙あるよ
出てくれるかわからないけど この団体(NPO法人阿波国古代研究所)から、年内にはコミックを発刊するようです。
コミック 「よみがえる皇都」 JTB出版
NPO法人阿波国古代研究所主催の講演会や遺跡巡りバスツアー この頃、いつも満席になるね。
徐々に阿波が見直されつつある実感がする。 @阿波 祇園山古墳の「水銀朱」や「勾玉」「葺き石」「箱式石棺」等から、まず間違いなく筑紫忌部のお墓。 「纒向勝山古墳」朱塗の板の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」。 「黒塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「東大寺山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「桜井茶臼山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「下池山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「那珂八幡古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「津古生掛古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「椿井大塚山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく山城忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「大和天神山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 徳島古事記研究会 落合てるき 徳島市議落選
残念! 「柳本大塚古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「ホケノ山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「大仙古墳」の石棺水銀朱は、まず間違いなく和泉忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「千葉県香取市の禅昌寺山古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく関東忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「静岡県沼図市の高尾山古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく東海忌部が持ち込んだ「若杉山産」 糸島市の「一貴山銚子塚古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」 長野県千曲市の「森将軍塚古墳」から出土した水銀朱も、まず間違いなく信州忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「西谷3号墓」の水銀朱も、まず間違いなく出雲忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「楯築墳丘墓」の水銀朱も、まず間違いなく吉備忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「今宿五郎江遺跡 朱塗りの楯」の水銀朱も、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」 守山市の「服部遺跡 朱塗りの盾」の水銀朱も、まず間違いなく近江忌部が持ち込んだ「若杉山産」 同じく、守山市の「下之郷遺跡 朱塗りの盾」の水銀朱も、まず間違いなく近江忌部が持ち込んだ「若杉山産」 石川県小松市の「白江梯川遺跡 朱塗りの短剣の柄、容器の脚、盾や幾何学的な文様を持つ筒型容器」の水銀朱も、まず間違いなく北陸忌部が持ち込んだ「若杉山産」 「闘鶏山古墳」の水銀朱も、まず間違いなく摂津忌部が持ち込んだ「若杉山産」 蓮華谷古墳群(U)二号墳
「蓮華谷古墳群」
当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。
調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。
副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/renge.html 大代古墳は全長約54mの前方後円墳
後円部南北径31m・東西径45m 前方部長23m、くびれ部幅18m、前方部前面幅21m、墳高は後円部6.7m、前方部3.3m
前方部、後円部とも2段築成 葺石はあるが、全体ではなく、裾部を列石状に区画している程度。
円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪の破片が出土(第1段テラス上や前方部墳頂に円筒埴輪列があり、後円部墳頂に形象埴輪が並んでいたと考えられている。)
後円部頂に南北方向に南北約7.4m、東西約4.5m残存深さ約80cmの墓壙の中に内法で長軸3.7m、北小口幅1.1m、南小口幅1.0mの竪穴式石室があり、その中に刳抜式石棺がある。
石棺内から、滑石製臼玉28・緑色凝灰岩製管玉1が出土した。
原位置から移動した遺物は、鏡片、装飾品(管玉・臼玉) 武器(鉄鏃・銅鏃・鉄剣片・鉄刀片・鉄鉾片)武具(短甲片) 農工具(鋤先・鉄鎌) 工具(鉄斧・刀子・ヤリガンナ・鉄鑿)など。 県内2例目 筒形銅器出土 石井・山ノ神古墳/徳島
石井町教委は31日、2014年度から進めていた気延山の「山ノ神(やまのかみ)古墳」(同町石井)の発掘調査で、県内2例目の筒形銅器が出土したと発表した。
4世紀半ば以降、畿内で栄えた政権とのつながりがあった可能性を示す資料とみられる。
古墳は全長約56メートル、最大幅約30メートル、高さ6・7メートルに達し、前方後円墳としては、県内3番目の規模であることも分かった。
筒形銅器は円筒型で長さ11センチ、最大直径は2・7センチ。前方後円墳の築造後に加えられた円墳(直径14メートル)の周辺部から出土した。
やりの底の部分に飾りとして付けたり、祭事で楽器のような役割を果たしたりしたと推測される。
町文化財保護審議会の菅原康夫委員らによると、この筒形銅器は勢見山古墳(徳島市)を含めて、国内で約70個が出土しているものと同種。
4世紀中期以降、奈良南部から河内地方にかけて成立した大和政権内部の新興勢力が、同盟や交流の証しに配った可能性が高いとされることから、
気延山周辺には当時、阿波に勢力を誇った有力者がいたことを示している。
古墳の築造時期は、前方後円墳が大代古墳(鳴門市)と同じ4世紀後半ごろ、円墳は4世紀末とした。
県内で10基以上確認されている前方後円墳では、渋野丸山(徳島市)、愛宕山(板野町)の両古墳に次ぐ規模だった。
一方、畿内中心に当時流行した円筒埴輪を飾ったり、古墳に段を築いたりした形跡が見られず、県内の前方後円墳では初のケースだった。
町教委などは「石井町周辺の古墳群の多様性が見られるとともに、気延山周辺の有力者が独自性を誇示した可能性もあり、興味深い」としている。
町教委は来年度以降、円墳に竪穴式石室などの埋葬施設がないか調査する方針。石井町教委は5日午前10時から現地説明会を開き、筒形銅器も展示する。
山ノ神古墳 1978年、宅地造成工事で発見された。
本格調査は行われておらず、町や県の史跡には未指定。町教委は保存活用のため、2014年度から古墳の一部で発掘調査を行い、これまで形象埴輪の破片や鉄鎌と鉄斧(てっぷ)が出土した。 鮎喰川下流域で最古の古墳と考えられるのは, 名東町節句山 1・ 2号墳であり, 1号墳は石蓋盤棺で鉄製品 (飽 ?)のみの出土の点などからして,
弥生時代の墳墓の可能性が指摘されている。 2号墳は箱式石棺に 竪穴式石室をしつらえた埋葬施設を有し,棺及び石室内部から舶載の四獣鏡や
勾玉,鉄剣,鉄刀子, 鉄斧 ,鉄鎌などが検出されており, 3世紀末ないしは4世紀前半に位置づけられるとされている。
いずれにしても,節句山 1・ 2号墳が古墳発生を考える上での重要な鍵を握っているように思われる。 「阿南・加茂宮ノ前遺跡」 平成30年7月6日 徳島新聞朝刊
「鉄器の製造拠点か」
「住居跡の半数 鍛冶炉や道具出土」
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、弥生時代中期末〜後期初頭(約2000年前)の竪穴住居跡20軒が見つかり、このうち10軒では鉄器を製作した鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類などが出土した。
県教委と県埋蔵文化財センターが5日発表した。鉄器の製造工房としては国内最古級で、集落(ムラ)の半分が工房という特徴から、県南部に大規模な鉄器の生産拠点が形成されていたとみられる。
竪穴住居跡で最も大規模なものは直径が約7mあり、その内部に鍛冶炉が19か所あった。鍛冶炉は直径30〜40pで、鉄をやじりや小型ナイフなどの小さな鉄器に加工するためのものという。
住居跡からは鉄器に加え、鉄器の形状を整える台石、製品を仕上げる砥石などが出土した。石のやじりや糸を紡ぐ道具の紡錘車、古代の祭祀などに使われた赤色顔料・水銀朱を生産する石杵や石臼なども確認。
さらにガラス玉や管玉など、県内で数点しか出土していない稀少な装飾品も多数含まれ、出土品は計約50万点にも達する。
集落は、鉄器以外にもさまざまな物品を製作する工房として活用され、交易拠点としても繁栄していた可能性があるという。
県教委は2016年度から、加茂宮ノ前遺跡の発掘調査を実施。17年2月には出土品の分析などから、南西約5kmにある若杉山遺跡で採掘された原料を使い、水銀朱を製造した工房跡との調査結果を公表している。
同時期の鍛冶炉は九州や中国地方にもあり、県内では矢野遺跡、名東遺跡(以上徳島市)、光勝院寺内遺跡(鳴門市)の3か所で確認されているが、県南部では初めて。
県埋蔵文化財センターは「他の遺跡では鍛冶炉を備えた住居跡は1、2軒だが、半数もあるのは全国的にも特異だ」としている。 阿南市内原町 「国高山古墳」:県南部唯一の前方後円墳
四国山地から派生する津乃峰山の南麓の標高約48mに位置する。県南部で確認されている唯一の前方後円墳で、全長約50mの規模を有する。1963年(昭和38年)と1982年(昭和57年)年に発掘調査が行われた。
墳丘には葺石と円筒埴輪が伴う。墳丘の中央に結晶片岩による竪穴式石槨が設置されていた。規模は長さ8m、最大幅1.2mと長大なもので、その大きさは県内でも最大である。
石槨内から銅鏡・石製刀子・土製勾玉・鉄槍・手斧・鉄鏃・大刀・短甲片などが出土している。遺物などから、4世紀後半に築造されたと考えられる。
それまで古墳の作られていなかった地域に突如として現れることや、同時期に同じ規模の前方後円墳が各地に現れることなど、当時の社会状況を考える際に重要な遺跡である。
国高山古墳の副葬品:内行花文鏡、長方板皮綴短甲、鉄鏃(鳥舌鏃)、鉄剣、鉄槍、石製鞘入刀子、滑石製勾玉、鋤先、鉄製釣針ほか。 西山谷2号墳は 標高74mの尾根上、南北径20m、東西径18m・高さ2mの円墳。
中央に南北方向の結晶片岩石積の竪穴式石室がある。
竪穴式石室は全長4.72m、北幅1.05m、南幅0.83m。
墓壙は南北6.5m、東西4.8mで全体が結晶片岩で覆われている。
石室には粘土でつくられた棺台があり、刳抜式木棺があったと考えられている。
石室の床には水銀朱が塗られていて、特に北側が多量だった。
棺内北側から鉄鏃、ヤリガンナ、鉄剣、鉄斧、鉄片、青銅鏡など多くの副葬品が出土。
棺外からは鉄槍や土器が出土した。
3世紀半ばの築造と推定されている。 「天河別神社4号墳」
以前は前方後円墳といわれていたが、径20〜25mの円墳と訂正されている。
埋葬部もほとんど消滅していたが、礫敷きの粘土槨に割竹形木棺があると考えられている。
舶載斜縁二神二獣鏡片・鉄剣・鉄槍・鉄鏃が副葬されていた。 矢野遺跡(弥生時代) 徳島県最大級の弥生時代の集落
H6 鉄鏃
弥生時代になると、大陸から鉄器が持ち込まれ、弥生時代の中ごろには、日本でも作られるようになりました。
この鉄鏃は弥生時代の終わりごろのものです。大きいもので長さが約10cm、幅が約3cmあります。おそらく戦いの武器として使われたのでしょう。 「樋口遺跡発掘調査概要」
樋口遺跡は弥生時代後期〜近世にかけての複合遺跡であり、眉山南側の数少ない集落遺跡として注目される遺跡である。
3.出土遺物
今回の調査で出土した遺物としては、土師器(広口壺・二重口縁壺・小型丸底壺・小型丸底鉢・高杯)・須恵器・瓦器・青磁・管状上錘・鉄鏃
・鉄刀等の鉄製品とともに石棒・磨製石斧等の石製品などがあげられる。 「集落遺跡出土」の鉄鏃
矢野遺跡(弥生時代) 徳島県最大級の弥生時代の集落
樋口遺跡 弥生時代後期〜近世にかけての複合遺跡 「倭国(阿波)は鉄器王国」
倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。
「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」 稲作の伝播とともに、北部九州では弥生前期末〜中期前葉には遼東半島から朝鮮半島西北部で生産された鋳造鉄製品が流入し、
その破片を研磨加工した鉄器の使用がみられる。
中期後葉には朝鮮半島産の鉄素材を用いた鍛冶技術による鋳造鉄器の生産が始まる。
北部九州の鍛冶炉の定着と時期を置かず、徳島市矢野遺跡では規模・構造ともに北部九州に劣ることのないT類鍛冶炉による鉄器製作が確認される。
類似施設は徳島市名東遺跡・鳴門市光勝院寺内遺跡・拝原東遺跡・芝遺跡にも認められる。
先進技術のいち早い導入は吉野川下流域の特徴である。 矢野遺跡(弥生時代) 徳島県最大級の弥生時代の集落
鉄鏃
弥生時代になると、大陸から鉄器が持ち込まれ、弥生時代の中ごろには、日本でも作られるようになりました。この鉄鏃は弥生時代の
終わりごろのものです。大きいもので長さが約10cm、幅が約3cmあります。おそらく戦いの武器として使われたのでしょう。 「樋口遺跡発掘調査概要」
樋口遺跡は弥生時代後期〜近世にかけての複合遺跡であり、眉山南側の数少ない集落遺跡として注目される遺跡である。
3.出土遺物
今回の調査で出土した遺物としては、土師器(広口壺・二重口縁壺・小型丸底壺・小型丸底鉢・高杯)・須恵器・瓦器・青磁・管状上錘
・鉄鏃・鉄刀等の鉄製品とともに石棒・磨製石斧等の石製品などがあげられる。 「集落遺跡出土」の鉄鏃
矢野遺跡(弥生時代) 徳島県最大級の弥生時代の集落
樋口遺跡 弥生時代後期〜近世にかけての複合遺跡 弥生第X様式はあくまで、厚型の弥生土器。
弥生第X様式と同期の「東阿波型土器(軽量小型丸底土器)」は、企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
庄内式も企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴。
「東阿波型土器(軽量薄型小型丸底土器)」製法の拡散は、推して知るべし。 「東阿波型土器(軽量薄型小型丸底土器)」製法の拡散は、
倭国(阿波)を発って、全国各地へ拓殖に出た「忌部一族」によってもたらされたものに他ならない。 「教科書に書いてあることを信じないこと 常に疑いを持って自分の目でものを見ること」
ノーベル医学・生理学賞受賞 本庶佑(京都大学特別教授) 法谷寺のお水をよく頂きます
眉山から湧き出したお水で健康維持に役立っているようです
とてもおいしいですね
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