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邪馬台国四国説 part2

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0531日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 12:36:05.72
原石産出地 : 徳島県吉野川加茂谷川水系 蛇紋岩
0532日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 13:00:17.58
徳島県で勾玉が出土された遺跡 : 「稲持遺跡」、「矢野遺跡」、「黒谷川郡頭遺跡」、「井出上遺跡」など。
0533日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 14:15:39.03
井手上遺跡(徳島県三好市井川町西井川)(弥生時代後期終末〜古墳時代前期初頭の集落)出土の翡翠製勾玉は、

新潟県糸魚川で産出する翡翠を使用し北陸周辺で加工されたものであることがわかっている。
0534日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 14:54:26.15
出土した遺物は、吉野川下流域、讃岐、吉備等の搬入土器が含まれており、

当時の交易の範囲を知る上で貴重な発見となっている。 
0535日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 17:35:13.40
徳島県の銅鐸出土地
『日本古代遺跡37徳島』14ページより  後ろの数値は銅鐸の高さ(cm)
                       
1. 檜銅鐸           鳴門市大麻町檜字乾谷    90
2.神宅銅鐸         板野郡上板町神宅      41
3. 川島銅鐸          麻植郡川島町神後     45.6
4. 森藤銅鐸         麻植郡鴨島町森藤      21
5. 牛島銅鐸         麻植郡鴨島町上浦      34.7
6. 伝久勝銅鐸        阿波郡阿波町久勝   
7. 久千田銅鐸        阿波郡阿波町久勝      30
8. 伝榎瀬銅鐸        徳島市川内町榎瀬      44.5
9. 星河内美田1号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
10. 星河内美田2号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
11. 星河内美田3号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
12. 星河内美田4号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
13. 星河内美田5号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
14. 星河内美田6号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
15. 星河内美田7号銅鐸  徳島市上八万町星河内美田
16. 源田1号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
17. 源田2号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   41.3
18. 源田3号銅鐸      徳島市国府町西矢野源田   52.0
19. 安都真1号銅鐸     徳島市入田町安都真     29.5
20. 安都真2号銅鐸     徳島市入田町安都真     21.7
21. 安都真3号銅鐸     徳島市入田町安都真     24.6
22. 安都真4号銅鐸     徳島市入田町安都真     21
23. 名東銅鐸        徳島市名東1丁目       40
24. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     90.9
25. 多家良銅鐸       徳島市八多町多家良     45.4
0536日本@名無史さん
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2019/05/05(日) 18:23:12.98
26. 伝福万谷銅鐸      徳島市八万町福万谷     
27. 勢合銅鐸        小松島市立江町赤石     36
28. 畑田銅鐸        阿南市下大野町畑田     54.02
29. 八貫渡銅鐸       阿南市下大野町八貫渡    
30. 才見銅鐸        阿南市才見町
31. 長者原1号銅鐸     阿南市山口町長者原     64.25
32. 長者原2号銅鐸     阿南市山口町長者原     41
33. 田村谷銅鐸       阿南市山口町田村谷     62 
34. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          42.4
35. 曲がり1号銅鐸     阿南市椿町曲り          31
36. 伝長生銅鐸       那賀郡長生町
37. 榎名銅鐸        三好郡西祖谷山村榎名     推定55
38. 伝吉野川沿岸銅鐸   美馬郡脇町拝原        6.2
39. 伝脇町銅鐸
40. 伝阿波銅鐸
41. 江原小銅鐸

遺跡発掘後進県なのに、なぜ徳島で、このように非常に多くの場所から出土するのだろうか? 推して知るべし。 
0537日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 07:30:21.08
「徳島県出土の同范銅鐸」

倭国(阿波)から各地へ拡がっていった銅鐸たち。

川島銅鐸(吉野川市) − 加茂岩倉遺跡銅鐸(島根県雲南市)

伝脇町銅鐸(美馬市) − 荒神谷遺跡銅鐸(島根県出雲市)

安都真1号銅鐸(徳島市) − 種松山銅鐸(岡山県倉敷市)

伝榎瀬銅鐸(徳島市) − 山町銅鐸(奈良県奈良市)
0538日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 10:03:18.62
忌部一族=倭人(広義の忌部氏)は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。
0539日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 10:29:42.44
阿波から奈良大倭への遷都(7世紀後半〜710年)によって、忌部の本家は阿波に留まる一方、その一部が奈良大倭に渡り、

やがて諸国の忌部を統括することになる。これが中央忌部である。阿波に残った忌部の本家は、同家の本源的職掌である

麁布・木綿及び高天原の山の幸を由加物として、践祚大嘗祭の度ごとに新都に送った。母国からの調進である。
0540日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 11:53:32.26
忌部の本家が阿波に残った理由は、天照大神以来、天孫(天皇)の祭祀に必要な神具は「高天原で採取調整されなければならない」という、

天岩屋戸神話に由来する神典を墨守したからである。
0541日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 12:06:00.98
「由加物使」一行が阿波から京に向かうに、通過する国々の道路は掃き清められ、国司らが出迎えるという『延喜式』の別格規定は、

高天原から新都に向かう「宗国からの使」という意味からである。
0542日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 12:19:35.26
また、「麁布」がすべての貢進物の中で、唯一神祇官扱いになるなど、超絶した扱いとなっているのは、

記紀神話で、天照大神が高天原において機織女を召して織らしめ、また大神自らも織られたとする「神御衣」と見立てているからである。
0543日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 12:59:50.27
それを忌部の本家(阿波忌部)が、畏れ多くも代行厳修し、麁布として織り上げたものを、

新天皇が践祚大嘗祭に奉奠して天照大神にお示しする。
0544日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 14:28:04.87
天皇陛下即位式である大嘗祭に、麁服を調進する大役を太古から担う御衣御殿人(みぞみあらかんど)の家柄である三木家は、

木屋平村の三木山山頂に居を構える。
0545日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:29:06.15
貢(みつぎ)、あるいは三ッ木とも呼ばれる地名は、深く調進に関わる為でもあろう。 

南北朝時代にあっては、山岳武士の頭目として南朝に関わった。
0546日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 16:54:04.26
さて、この三木山こそは、太古の高天原であると同時に、天皇家の故郷でもある。

このお山から御霊を大嘗宮へ運ぶ為には何か媒体が必要である。
0547日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 17:29:21.32
剣山に居た天皇(+ユダヤ人)が下山し(天孫降臨)
麓に居た大国主を倒し、吉野川に沿ってさらに東へ侵攻(神武東征)
徳島平野を平定し倭国を設立

こんな感じ?
0548日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 18:04:37.59
>剣山に居た天皇(+ユダヤ人)が下山し(天孫降臨)

それは、ない


>麓に居た大国主を倒し、

大国主が居たのは長国(阿南市周辺)


>吉野川に沿ってさらに東へ侵攻(神武東征)
>徳島平野を平定し倭国を設立

これは正解。
0549日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 18:26:43.95
つまり、依り代に付いて初めて示現されるのが神霊であるなら、「麻」こそ媒体であると云える。
0550日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 18:43:34.11
古来より伊勢神宮の神札は神宮大麻と呼ばれ、御師が領布した御祓大麻を指すからだ。
0551日本@名無史さん
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2019/05/06(月) 19:09:18.21
後世、大麻(おおぬさ)は紙に変わってしまい、現代人は麻の持つ意味を忘れようとしている。
0553日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 08:51:16.42
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。
0554日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 09:21:19.73
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
0555日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 09:40:11.87
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
0556日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 10:59:53.27
麻といえば、阿波忌部。 

『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』  『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』

卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 
0557日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 12:08:01.32
「山の民と海の民との交流―水運」          御衣御殿人(みぞみあらかんど) 三木 信夫

道が整備されていない古代迄の交通路は,水運が徐々に発達し,すでに縄文時代には鳴門市からこの阿南市・海陽町にかけて海運交通のあったことが遺跡からみられます。
0558日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 13:38:05.33
 阿南市の若杉山遺跡は,弥生時代に赤い顔料の水銀朱をつくるため,全国唯一の辰砂(しんしゃ)の原産地遺跡でした。
0559日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 14:40:35.75
辰砂=水銀と硫黄化合物の鉱石,辰砂を粉砕して水銀朱を取り出す。

弥生時代から古墳時代を中心に,遺骸や棺に朱色を塗る風習が盛んに行われて,水銀朱は朱・丹等と呼ばれ使用流通したのです。
0560日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 15:00:23.14
この遺跡をみますと,板野郡板野町の黒谷川郡頭(こうず)遺跡や名東遺跡などから朱の精製用具等が発見されており,

弥生時代終末期(西暦200年頃)の若杉山辰砂が,海や河川を利用して運ばれております。
0561日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 15:19:16.64
若杉山遺跡にある土器類も,吉野川流域土器や鮎喰川上流の結晶片岩の混在した土器,また畿内的土器など各地の土器が混在しており,

河川や海を通じて運び込まれています。すでに若杉山遺跡には,辰砂を運び出す人や食料等を運び入れる人等の組織化された海上交通に関わる集団がいたとも考えられています。
0562日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 17:18:16.76
古代に下りますと,都を起点に諸方に陸上交通である宿駅が整備され,駅路すなわち国道がつくられていきます。

 阿波でも鳴門の撫養から讃岐・伊予・土佐に抜ける南海道と呼ばれる国道があり,それ以外に阿波国から土佐国へ通じる駅路の国道があります。
0563日本@名無史さん
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2019/05/07(火) 21:31:11.53
おおよそ現在の国道55号線沿いに阿南市から海陽町までの海岸沿いを,奈良時代初期の養老2年(718)に設置され,

平安時代初期の延暦15年(796)に廃止されるまで,水上交通路と並行して多くの港や津を経て延びていたのです。
0564日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 10:39:25.86
畿内地域の古墳の石材調査が進むにつれて、倭国(阿波)の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。
0565日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 10:42:07.87
大阪府の「闘鶏山古墳」、「将軍山古墳」、「鍋塚古墳」、「牧野車塚古墳」、神戸市の「西求女塚古墳」などが典型例だ。
0566日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 10:45:16.22
そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。  

http://www.let.osaka-u.ac.jp/kouko/061018awaitano.htm
0567日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 14:18:01.14
徳島の式内社「意富門麻比売神社(宅宮神社)」の平安時代から続く神踊り。

「伊豆毛の国の伯母御の宗女、御年十三ならせます、こくちは壱字とおたしなむ」

祭神は大苫邊尊(おおとまべのみこと)、大年(おおとし)大神、稚武彦(わかたけひこ)命。

式内社では「全国で」唯一、大苫邊尊を祀る神社。

なぜ壱与をこんな片田舎で歌う?  あとは推して知るべし。

https://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/8366006.html?__ysp=5a6F5a6u56We56S%2B77yJ44CM5LyK6LGG5q%2Bb44Gu5Zu944Gu5Lyv5q%2BN5b6h44Gu5a6X5aWz44CB5b6h5bm05Y2B5LiJ44Gq44KJ44Gb44G%2B44GZ44CB44GT44GP44Gh44Gv5aOx5a2X44Go44GK44Gf44GX44Gq44KA44CN
0569日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 16:15:25.61
延喜式内社で「伊邪那美命」が単独で祀られているのは「伊邪那美神社」一社だけで、その鎮座地は高越山山頂であったと一部では伝えられております。
0570日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 16:26:57.43
伊邪那美命は埴山比賣(はにやまひめ)と弥都波能売(みつはのめ)の神を産んだあとに薨ったと日本書紀には記され、高越山が含まれる美馬郡には、この三神が式内社で祀られているという背景もあります。
0571日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 17:07:11.16
その他に伊邪那岐命(いざなぎ)との争いの仲介役をした菊理比賣命、伊邪那岐命が投げた桃が神となった意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)が阿波町に祀られ条件が一致しているんです。

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2014/11/07/005405
0572日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 17:48:43.99
その「菊理比賣命」を祀る神社

阿波市 阿波町勝命北に鎮座する「勝命神社」

御祭神は菊理媛命(くくりひめのみこと)
0573日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 18:04:14.18
「阿波誌」に「菊理祠勝命村に在り、旧事記に云ふ伊奘諾伊弉冉二尊、泉津平坂に相争ふ。菊理媛神白す事あり伊奘諾尊聞きて之を善とす」とあります。

菊理媛神(くくりひめのかみ)は、日本の神。加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比盗_(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。 wikipedia

http://goutara.blogspot.com/2012/11/blog-post_29.html
0574日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 18:29:09.36
続いて

徳島県吉野川市山川町忌部山字白山

「白山(しらやま)比売神社」
0575日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 19:05:03.79
石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とあります。

「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」です。
0576日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 19:30:42.74
ここはイザナミ命の「遥拝所」。

この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われています。
0577日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 19:55:49.46
イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承があるそうです。

https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/
0578日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 20:41:07.42
忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩 

鳥居の原型 「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」  

http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg
0579日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 22:31:01.66
>>578
二柱、二神ということは造化の三神のうち天御中主神がお隠れになられた姿ではないだろうか。

唐突だが日本(にほん)の語源とは何だろう。
ひょっとしてこの「二本」ではないのだろうか。
0580日本@名無史さん
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2019/05/08(水) 23:51:34.47
にほんと読むようになったのはかなり後だぞ
ひのもとだからな
0581日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 06:25:08.50
珍しいけど三柱鳥居というのもある。
あれは造化の三神の御姿であろう、多分。
0582日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 06:37:05.84
縄文の「朱」生産拠点 阿南市「加茂宮ノ前遺跡」

国内最大、最古級

祭祀と居住一体出土
0583日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 06:59:05.45
阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や石きね300点以上や、

水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。

水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/09(木) 07:30:11.24
石臼の大きいものは直径30センチ。石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、

関連した遺物の出土数は1、000点以上に上った。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/09(木) 07:39:44.59
調査面積は約1万平方メートル。 祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。

縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
0586日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 08:24:12.31
センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。

土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
0587日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 08:45:05.55
県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末〜後期初頭(約2千年前)の層から、

鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。

今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。
0588日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 09:09:44.40
「極めて重要な発見」

同志社大学文学部・水ノ江和堂(かずとも)教授(考古学)の話

縄文時代の遺跡が東日本や九州に比べてかなり少ない中四国の状況を示す極めて重要な発見。

当時の水銀朱の生産、利用状況や集落構造を総合的に確認できる遺跡は他に例がなく、今後の研究につながる。

遺構を切り取って復元などしてもらいたい。
0589日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 10:07:36.71
「淤能碁呂島」は淡路島ではなく、吉野川中洲の粟島(善入寺島)。  

この粟島(善入寺島)も忌部の郷のひとつ。  
0590日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 11:22:17.88
【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】

元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として

阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
0592日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 12:21:57.75
神武天皇は瓊瓊杵尊の4代目のようだから、天照大神から7代目か。
3世紀の終わり頃〜4世紀初め頃か。
0593日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 13:00:52.85
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録が残っている。

『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺  阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
0594日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 15:34:54.02
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
0595日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 16:03:00.45
反正天皇は古事記に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」 と記録されているが、

こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。

徳島市は大原町千代ヶ丸。  この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。
0596日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 18:33:02.66
邪馬台国=女王国=粟国(阿波北部)

狗奴国=長国(阿波南部)

倭人伝時代の倭国=粟国+長国+東讃+南淡程度
0597日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 18:54:16.56
「深曽木(ふかそぎ)の儀から考察」

深曽木の儀では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、それに先立つ着袴の儀で男子は滝の意匠をあしらった和服である落滝津の御服の上に白絹の袴を着付けます。

そして、青石(あおいし)二個を踏み、南側を向いて立ち、御用掛が髪をくしですきそろえ、はさみで毛先を少し切ると、日置盤からぴょんと飛び降りるのです。
0598日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 19:06:03.27
親魏倭王(女王)国は九州
親呉倭王(大王)国は奈良

邪馬台国=ヤマトの国=倭国&倭種=日本列島全体
0599日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 19:22:59.31
これは高天原から天照大御神の孫、つまり天孫が葦原中国の支配者として降臨した様子を模した儀式がこの深曽木(ふかそぎ→みそぎ)の儀であると思われるのです。

この山橘は恐らく酢橘か柚で、共に阿波で産するものの象徴でもあり、

青い石は、阿波で採れる青石=多くの古墳等の積石に使用されているもので、これも阿波を象徴するものです。
0600日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 19:41:46.78
そして私が注目したのは、「南の方角へ飛び下りる」ということ、つまり高天原から南方へ降臨したということを意味するものではないでしょうか。

実際は高天原がどこにあったのかはわかりませんが、あくまで徳島県に高天原があったとするならば…ということで、

その場合、霊峰剣山を中心にとした1000m超級からなる剣山系の山々から南方へ下ったということになります。

https://ameblo.jp/marine816/entry-12314233650.html
0601日本@名無史さん
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2019/05/09(木) 20:29:59.71
古事記には、天照大御神が石屋戸隠れをした時、八百萬神が集い神楽などで大神を誘い出し、この時手力男命が大神の手を取りて引き出したと記されている。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/09(木) 20:32:33.02
DNAの研究で2世紀の日本列島はまだ縄文系弥生人の世界で
現代日本人たる渡来系弥生人は北部九州地域にし居住していなかったことが判明した
3世紀の四国は縄文系弥生人の世界。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/09(木) 21:08:55.07
この手力男神は「佐那県に坐す」との記述とおり佐那河内村牛木屋(古代には佐那の県または狭長村と呼ばれていた)に祭られている。

https://sueyasumas.exblog.jp/23490705/
0604日本@名無史さん
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2019/05/10(金) 06:59:50.45
弥生・古墳時代から古代にかけて、現在徳島平野が広がる吉野川河口域は東に開ける深く広い大きな入江になっていて、大
陸・朝鮮半島から北部九州を経て畿内・大和へと続く「和鉄の道」の東四国の玄関口として大いに繁栄してゆく。
弥生時代の中期後半から後期初頭にかけて 吉野川下流域北岸の阿讃山脈の山縁や吉野川の南岸 四国山地の東端 眉山・気
延山の麓 吉野川に流れ込む鮎食川の扇状地には 鉄器や鉄器関連遺物が出土する拠点集落( 北岸: 光勝院寺内遺跡・カネ
ガ谷遺跡
南岸: 矢野遺跡・名東遺跡・高川原遺跡などj が形成され、それらの地域が流通・交易拠点として 周辺地域を巻き込み
ながら次第に大きくなると共に、この地を治める有力豪族も生まれ、次第にひとつの国 阿波国としてまとまり、初期大和王
権を支える有力国のひとつとなってゆく。

「阿波の国の概説」
http://www.infokkkna.com/ironroad/2010htm/iron6/10iron04gaisetsu01.pdf

他説を凌駕する、倭国(阿波)の圧倒的考古資料  
0605日本@名無史さん
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2019/05/10(金) 07:04:01.23
>>604

これらの特異な遺跡は畿内にも九州にも存在しない。 在るのは倭国(阿波)だけ。  あとは推して知るべし。
0606日本@名無史さん
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2019/05/10(金) 10:27:01.68
邪馬台国は海洋国家
四国は海洋遺伝子が多く残ってる
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/10(金) 19:10:11.03
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、

この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。

(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)  

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/03/231418
0611日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 06:39:18.25
>>608その印はどこにあるの?
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/05/11(土) 17:15:40.23
昨夜、TBSのBS放送で放映した邪馬台国番組を期待感なく視聴した。
さすがTBS。 まったく薄っぺらな内容で最近の考古学的発見事項を何ら考慮
していない。政治関連番組同様真実を追求しようとする熱意・努力・能力の
片鱗も見受けられない。このくだらない番組に2時間を費やすなど理解できないよ。
やはり電波法の改正が求めらる。
でも探求心なき人々は納得してるんだろうね。
0614日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 17:34:30.26
>>613
実は、私も一応録画は撮っているのですが、見ずに消去することにします。 どうやら。時間の無駄のようなので。
阿波の最新発掘結果を無視しているような番組では、見る価値はありませんから。
0615日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 17:53:40.12
「蓮華谷古墳群」

当遺跡は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。

調査により古墳時代前期(3世紀後半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上で重要な古墳である。

副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄鉇1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財総合センターで展示されている。

前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は仿製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。

「蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品」
http://www.geocities.jp/yamatai4/oasa/renge.html
0617日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 19:04:10.73
大代古墳は全長約54mの前方後円墳

後円部南北径31m・東西径45m  前方部長23m、くびれ部幅18m、前方部前面幅21m、墳高は後円部6.7m、前方部3.3m

前方部、後円部とも2段築成 葺石はあるが、全体ではなく、裾部を列石状に区画している程度。

円筒埴輪、朝顔形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪の破片が出土(第1段テラス上や前方部墳頂に円筒埴輪列があり、後円部墳頂に形象埴輪が並んでいたと考えられている。)

後円部頂に南北方向に南北約7.4m、東西約4.5m残存深さ約80cmの墓壙の中に内法で長軸3.7m、北小口幅1.1m、南小口幅1.0mの竪穴式石室があり、その中に刳抜式石棺がある。

石棺内から、滑石製臼玉28・緑色凝灰岩製管玉1が出土した。

原位置から移動した遺物は、鏡片、装飾品(管玉・臼玉) 武器(鉄鏃・銅鏃・鉄剣片・鉄刀片・鉄鉾片)武具(短甲片) 農工具(鋤先・鉄鎌) 工具(鉄斧・刀子・ヤリガンナ・鉄鑿)など。

石棺の石材は、さぬき市津田町火山産の白色凝灰岩。4世紀末の築造と推定されている。さぬき市津田町「岩崎山4号墳」より少し新しい古墳とみられている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%A3%E5%8F%A4%E5%A2%B3
0618日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 19:36:46.46
私の実家の本家筋は「黒田鑓場の戦い」で三好氏に戦を挑んだ武将の系統です。
口伝ですが「先祖は天孫降臨時の随伴神」とされています。
近在の武将達(豪族)と同盟の上での戦でしたが、私の妻はこの同盟軍の一将の直系子孫で
、残されている系図では「中臣鎌足公」が始祖となっております。
居城は昔中臣荘といわれた近在にありました。
私の口からは、これらの真偽の判断は出来かねますが・・・・。
日本国生みの場所の傍証の傍証の傍証の・・・一つかなとも思います。
徳島には古代から続く家系と思われる家が沢山あります。
これ等の家の伝聞を集約すると面白い話に繋がると思いませんか?
武将名は伏してあります。
0619日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 20:50:41.20
「銅鐸」は、全国で約400個出土していて、徳島県はその約1割を占める42個(29遺跡)が出土しています!!

古代史上、重要視されていない徳島県で、なぜこれほど多数出土するのでしょうか??

https://sueyasumas.exblog.jp/9415763/
0620日本@名無史さん
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2019/05/11(土) 21:15:53.51
古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千〜3千年前)の石臼や、水銀朱の原料の辰砂原石などが大量に出土した阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡。

辰砂原石などの発見で、水銀朱の生産、利用時期が1500年以上さかのぼることが明らかになった。

また、水銀朱の生産拠点だったとされる竪穴住居跡や、祭祀に使っていたとみられている円形配石遺構など、縄文社会の解明に大きな役割を果たす。
0621日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 08:34:50.32
徳島県阿南市水井町「若杉山遺跡」・「丹波坑口」・「長生町奥ノ谷遺跡」

出土遺物
@石器(石臼・石杵)
A土器
 甕・広口壺・二重口縁壺、小型丸底鉢、鉢、高杯、器台=生活用具のほとんどがそろっている
 小型丸底坩(弥生X様式後半〜布留式まで)庄内式並行期がほとんど
 土器胎土(結晶片岩・石英・雲母)
B玉類
 蛇紋岩製勾玉
C鉄製品
 刀子・不明鉄製品(やりかんな?)
D自然遺物
 貝片・獣魚骨・人骨片

想定される生産形態
・土器以外の生活用具が少ないが、生活用具のほとんどが揃っている
・籾痕の付いた土器や鹿・猪・貝類=一定期間生活
・岩盤直上に営まれる→近くの集落の人間が農閑期に行う特産的生産レベルのものではなく、
 分業化された専門工人集団の生産
・ハマグリ・オキアサリの成長線分析→採取時期は夏期後半から秋期後半

 若杉山遺跡の採掘作業は、夏季後半から秋季後半に行われていた可能性
              (徳島県立博物館1997・岡山1998)
0622日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 18:51:02.99
鳴門・板野古墳群について    「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋

鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
0623日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 19:12:21.81
主な古墳は、西山谷2号墳  池谷宝幢寺古墳(県史跡)  天河別神社古墳群(6基・県史跡)  萩原1号墓(消滅)・2号墓  大代古墳(県史跡)  板野の愛宕山古墳(県史跡)

発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、

鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
0624日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 21:44:29.51
阿波で発掘される銅剣や銅矛は、どこで製作されたのでしょう?
翡翠は?碧石は除外で。
また銅鐸などの銅は、どこから産出されたのでしょうか?
0625日本@名無史さん
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2019/05/12(日) 22:41:22.50
高越山の高越銅山周辺で作られた可能性があります。
銅剣や銅鐸もあの辺りの遺跡から多く出土しています。
0627日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 16:38:38.34
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
0628日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 16:48:00.21
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津

・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域
0629日本@名無史さん
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2019/05/13(月) 16:50:51.41
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津

・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
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