邪馬台国四国説 part2
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
>>823
>阿波から毎日10人づつ移民していったのかね?
阿波だけじゃなく、全国に進出している「忌部はん」 たちだよ。 朝廷の祭祀には玉が祭料,幣帛として使われた。忌部は,大和朝廷が祭祀に必要としたその玉類の生産,調達にかかわっていたとの指摘がある。
忌部の祖神である「天太玉命」に玉の文字が含まれていることも偶然ではないはずだ。 「日本書紀」(神代下第九段)に忌部に関する記述があり「…櫛明(くしあかる)玉神を作玉者とす…」とある。
「古語拾遺」にも似た記述があり,忌部氏はいろいろな神を率いて幣帛・祭具の生産に従事した。 櫛明玉神は出雲国の玉作の祖という。
さて,島根県で玉作といえば,出雲玉作遺跡がある玉湯町,松江市忌部だ。 つまり旧意宇郡忌部郷を中心とする地域だった。 「延喜式祇式」臨時祭条に「…毎年十月以前令意宇郡神戸玉作氏造備…」とある。
これを「出雲風土記」と照らすと,毎年十月に玉を調達した玉作氏の住む意宇郡神戸が,「和名抄」に出てくる「忌部神戸」であることが明らかになる。
つまり出雲の玉作りは忌部が行っていたわけだ。 もちろん,忌部の祖神を祀る天太玉命神社がある奈良県橿原市の近くにも玉作遺跡である曽我遺跡がある。
大和朝廷の官立の玉作工房だったようだ。 徳島の玉作遺跡は,徳島市国府町矢野の「矢野遺跡」と三好市三加茂町の「稲持遺跡」がある。
両遺跡とも緑灰色の蛇紋岩を使用し,勾玉の製作をしていた。 矢野では気延山や眉山から石を運んできたようだ。
時代は矢野が若干古く、弥生時代後期後半とみられる。
矢野遺跡周辺は,いうまでもなく古代阿波が最も栄えていた土地である。 奈良藤原京より前の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡で習字をしていた。 阿波国国府町の「観音寺・敷地遺跡」から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯・上級貴族が使用する油杯(燈明)など、官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。 ではなぜ、奈良藤原京より前の時代に、阿波の地にそれらが存在したのだろうか。 それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国 国府推定地に隣接する「観音寺・敷地遺跡」出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 伊加賀色許雄命は、伊加賀色許賣命の「弟」で、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「物部氏」の祖神とされている。
『先代旧事本紀』によれば、両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。 日本一社 延喜式式内社 阿波國麻殖郡 伊加賀志(いかがし)神社
鎮座地 徳島県吉野川市川島町桑村字大明神1635
御祭神 伊加賀志許賣命(いかがしこめのみこと) 伊加賀色許雄命(いかがしこおのみこと)
またもや、日本で唯一、徳島県にしか存在しない延喜式式内社である。 『先代旧事本紀』によれば、伊加賀志許賣命・伊加賀色許雄命 両神は饒速日命(にぎはやひのみこと)の6世孫にあたる。
また、日本書紀によると伊加賀色両神の母(『先代旧事本紀』によれば“父”) とされる大綜杵命(饒速日命5世孫)も、隣町鴨島町の「御所神社」に祀られている。 このような人間関係から一般的には、伊加賀色許雄命から更に遡って饒速日命までを「物部氏の祖」とし、物部なのだから、みな河内の人間であると単純に考える人が多い。
しかし、そもそも“河内”は阿波の一般的な地名なのである。 そして、
@ 「イカガシ」の名を冠し、「イカガシコメノミコト」を御祭神とする式内社が、全国で阿波国麻植郡のみに存在すること
A 伊加賀志神社は朝廷から「大明神」の称号を送られていること
B 母神もまた同地(忌部の本拠地である)麻植郡に祀られていること
C 『阿淡両国神社録』(1430)に当社が忌部神社8摂社のひとつに挙げられていること
などから、伊加賀色許賣命は阿波忌部の女性である可能性が高いと考えられる。 これらのことから、物部氏との関係は、同族分派の可能性が非常に高い。
「伊加賀志(いかがし)神社」 http://sueyasumas.exblog.jp/10039623/ 御託はいいからもっと発掘せーよ
暇な老人をボランティアに使えば >>841
いや、ゆっくりじわじわ、真綿で首を締めるようにやるよ。 「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、
阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。 そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。 阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。 「水主神社」から北上すると、倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、
船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。 「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。 そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。
船岡山は、倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。 船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。
当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。 次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。 祭神を 倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命とし、
これを「田村大神」と総称する。 倭国開拓に伴う国生み過程で、「伊予の二名島(四国)」のあと「隠岐之三子島」が
作られていますが、この島は隠岐島とされている。
然しながら隠岐島は4島で成り立っており、この事実は地図で簡単に確認できる。
すなわちこの解釈は明らかに間違い。
古事記伝で本居宣長が唱えたそうだが、現地を知らない愚民の解釈であろう。
「隠岐之三子島」は「沖にある三つの島」を示しており、まさに阿南市の沖合にある
伊島の事であろう。伊島は三つの島で構成されている。
伊弉諾尊が禊を行った阿波岐原の対岸である。 奈良時代に一番食料の生産高が高かったのは阿波って本当? 徳島市の一宮神社(「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ)の社家、大宮司家を世襲した一宮長宗の流れを汲む一宮氏(分家)が「水主神社」の宮司として祭祀を行っていた時期があり、
この部分についても「大宜都比売命」と「倭迹迹日百襲姫命」に何らかの繋がりがあったと考えられる。 倭迹迹日百襲姫命の父にあたる第七代孝霊天皇の陵墓と黒田廬戸宮跡は、旧黒田村と呼ばれていた徳島市国府町芝原の蔵殊院あたり、
倭迹迹日百襲姫の弟君にあたる日子刺肩別命は、蔵殊院から東に5km隔てた徳島市不動町の式内社「天佐自能和気神社」で祀られている。 王族らによる阿波(倭)から讃岐(山背・難波)への進出は、孝霊天皇の御子時代から盛んになり、
第十五代応神天皇の御宇に至って、ついに香川県さぬき市津田の「前期難波宮」に皇居を営むことになる。 【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】
「春三月に、難波宮に幸せる時の歌」
「眉のごと 雲居に見ゆる 阿波の山 かけて漕ぐ船 泊まり知らずも」
「上の一首、船王の作」 奈良時代の後期難波宮(大阪市)からは「阿波の山」は絶対に見えない。
また、この「阿波の山」は、徳島市の眉山ではなく、香川県さぬき市津田の前期難波宮辺りから見た、なだらかな讃岐山脈である。 倭国(阿波)から遷都する前の飛鳥時代に宮が設置された前期難波宮は香川県さぬき市津田。
この歌は香川県さぬき市津田の前期難波宮で読まれた歌六首の一つである。 >>636
大仙古墳があった場所は当時海岸線で、
船乗りの為に灯台代わりとして巨大にしたそうな
また港町の繁栄を誇示する目的もあった >>858
本国倭国(阿波)に対する進出地発展の誇示・見栄もあったんだろう。 「あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・」 この歌は、応神天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。 通説の難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。 また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。 さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。 これらの説話は、古代「難波」の地であった 讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、
さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。 仁徳天皇の大后、石之日売命は、葛城之曾都毘古の娘である。 葛城之曾都毘古の父は、第8代天皇・孝元天皇(こうげんてんのう)の御子、武内宿禰(たけうちのすくね)。
母は、山下影日賣(やましたのかげひめ) で、その兄が珍彦(うづひこ)である。 珍彦(うづひこ)とは、神武天皇を水先案内し、後に倭国造の祖となった倭宿禰命であり、その父が「天村雲命」である。 吉備の黒日売は「海部直の娘」であるが、その海部直の祖先にも当たる。
その「天村雲命」が日本で唯一の式内社「天村雲神伊自波夜比賣神社」にて、阿波で祀られている。
「式内社 天村雲神伊自波夜比賣神社」
http://www.genbu.net/data/awa2/murakumo2_title.htm 神武天皇が珍彦(うづひこ)とめぐり合った「速吸門」は、「鳴門海峡」のこと。 潮流の速さ【速】と、巨大な渦潮【吸】と、【門】で表現される地形、「なと」・「なると」の響き。 当然、珍彦(うづひこ)の「うづ」は、渦潮(うづしお)の「うづ」であろう。 また、山下影日賣の「山下」は、これも地名から取っており、『和名抄』に記される阿波國板野郡「山下(也萬乃之多)」郷のことで、現在の鳴門地方である。 現在の地名(住所表示)では確認できないが、その山のふもとに「葛城神社」が鎮座する。 その山とは「葛城の山」を示唆している。
従って、「葛城」も、鳴門地方の地名を指している。 満州先生の新刊「馬韓も百済も満州にあった」が限定100部で発売中ですよ。
Amazonのみの発売なので、売り切れる前に君も買おう! 『古事記』には、葛城長江 曾都毘古(かづらきの、「ながえ」の、そつひこ)と記され、「葛城」地方のなかに「長江」があることが確認できる。 現在の鳴門市に、古代からの地名、「大津」が残っており、その大津町に「長江」が在る。
もちろん、『古事記』に登場する“本来”の「大津」とは、この地のことである。 孝元天皇の妃の一人が、伊香色謎命(いかがしこめのみこと) その伊香色謎命を日本唯一祀る所が、延喜式式内社 「伊加賀志神社」 である。 「満州先生の新刊が出たらしいぜ」
「それを先に言えよ! 早く買わなきゃ売り切れちまうじゃないか!」
≪「馬韓も百済も満州にあった」が尼で限定100部で発売≫ 石之日売の「いわ」も地名から取ったと考えられるが、讃岐の難波郷から南に進み阿波へ入ると「いわ野」の地名がある。
そこから東に進み、鳴門地方にも「いわ浜」「いわ崎」があり、「いわ国」と推定されるエリアと、上記の神々、人々の関連地が全く一致する。 石之日売は、「みつ」の崎で、御綱柏を海に投げ棄てたのち、怒りのままに難波宮を通り過ぎて、故郷の国「葛城(鳴門)」を目指す。
(一旦難波に戻ったのは、その怒る様を天皇に見せつけるためだったかもしれない。) 「宮には入り坐さずして、其の御船を引き避きて、堀江に泝(さかのぼ)り、河のまにまに、山代に上り幸でましき。
山代より迴り、那良山の口に到り坐して、歌ひ曰りたまはく・・・」 阿波國には「山代」郷も存在していたが、この場合の山代は地形の形容詞だと思われる。
阿波國には「河内」「日浦」「宇佐」「日向」など地形から生まれた地名が複数存在する。 「やましろ」は、山背とも書き、山の背、後ろ側、すなわちこの場合は、阿波本国から見て、阿讃山脈の裏側という意味である。 讃岐の難波郷から(南へ上る川に人力で船を引き、所々で乗り継ぎながら)、古代の阿波の難波奈良街道に沿って大坂峠を越え、日開谷川を吉野川へと下る。
この途中に上に書いた「いわ野」がある。 そして吉野川に突き当たった一帯が「奈良」である。 小松島市「嶋ノ宮神社」南方の大林町はかつて「あすか」と呼ばれていた。 そして、江戸時代まで「飛鳥神社」が鎮座していた。 萬葉集註釈 巻第三
「阿波国風土記の如くは、天(そら)より降り下りたる山の大きなるは、阿波国に降り下りたるを、アマノモト山と云ふ、
その山の砕けて大和国に降りつきたるを、天香具山と云ふ。」 主として近年の考古学上の成果によって、箸墓古墳に代表される奈良盆地の初期王とみられる古墳及びホケノ山古墳のルーツが阿波であることが明らかにされ、
また、卑弥呼の近畿年代(庄内式期)を含め、阿波の鮎喰川流域で製作された東阿波型土器(軽量薄型土器)が、近畿地域一円の多くの遺跡から大量に出土している。 さらに卑弥呼の没年頃から、阿波吉野川南岸の結晶片岩が船で運ばれ、同地域の首長級の古墳の石材として使用されていることも次第に明らかになってきた。 大宜都比売(大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。 『古事記』においては、「大宜都比売」は国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の「阿波国の神」として初めて表れる。 忌部一族は、海部(あまべ)とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた、日本唯一無二の「祭祀族、海民族、産業・文化技術集団」なのである。 阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様だが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神 豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だった。 大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。 また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。 穀物名(粟)を国名とするのも、 農業神(大宜都比売神)が国神となるのも、 日本で阿波国のみである。 『大分宇佐神宮の勧請元は、阿波國神山町宇狭に鎮座する「宇佐八幡宮」(辰の宮)』 大分の宇佐八幡宮の開基は725年。
一方、阿波国 国府町井戸 「八幡神社」の開基は、白鳳二年(674年)。 御祭神は、誉田別命・仲哀天皇・三女命(いわゆる宗像三神)。 「是社ノ奥深ク厳シク鎮守シ給フ当八幡宮(古称 井上八幡宮)ハ奉勧請白鳳二年 宇佐八幡宮ヨリ御分遷 誉田別命 仲哀天皇 三女命ヲ奉斎爾来惟神ノ誠を捧ゲ今ニ至 迄幾度改修・・・」 以下略。
大分の宇佐八幡宮の創建より遡ること51年、白鳳二年(674年)にこの阿波国 国府町井戸 「八幡神社」 は阿波國神山町宇狭の「宇佐八幡宮ヨリ御分遷」とある。 よって、大分の宇佐八幡宮は、 『国府町井戸 八幡神社』 より51年遅れて、 神山町宇狭の「宇佐八幡宮」(辰の宮)から勧請されたものであろう。 古い由来の姓に「日下(くさか)」姓がある。
日下姓は、聖徳太子の時代には存在していた名前である。 「古事記 中つ巻」の冒頭に 日下の名前が登場するので、神代の時代から人代の時代に入った時には、もう既に存在していた名前である。
勿論、日本書紀にも出てくる。 阿波国の蜂須賀藩家臣成立書に、日下姓が見られる。 また、隣の香川県も日下姓が多く、 高知県高岡郡日高村にも日下の地名がある。 徳島県全体としては、徳島市に集中しており、日本一「日下姓」が多い地域である。
香川県全体としては、高松市に集中しており、日本一の徳島市に続いて「日下姓」が多い地域である。 このことから、西日本に存在する日下姓の大半は、徳島県や香川県等、四国地方を起源にしていると考えられる。
よって、記紀に登場する日下姓をみても、記紀は少なくとも、四国地方を記したものと言える。 阿波国内に 二千基程度あると云われる 「地神塔」。 これは阿波独特のもので、寛政二年(一七九〇)に徳島藩主であった蜂須賀治昭は、神職早雲伯耆の建白を受け、県下全域に地神塔(塚)を建て、
春秋の社日(戌の日)に地神祭を行うようにさせたと言われている。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。