【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬六
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>>108 これはひどい
今 使譯 所通 三十國 從郡至倭
魏志なんだから、今、は魏時です。
從郡至倭 この使譯に 從って 倭に至るには、以降が行程です。
おまけ
倭人伝 評曰 史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷 使譯 時通 記述隨事 豈常也哉
倭人伝は
漢の書や後漢の書が記した朝鮮両越西羌 のように
魏時に
爰及 東夷 で 使譯 時通 記述隨事
これが倭人伝であり
豈常也哉!
という話です。 >>110
魏の時代の出来事には、
魏代の関係者の手柄を明らかにするため、年号が振られている。
だから逆に言えば、年号の入っていない記事は、魏代以前か魏代以後ということだ。 >>112
以下に略記する如く、魏代の出来事には魏の年号と人名を入れて、その手柄を明示している。
これは伊達ではない、官・役人一族の末代までの名誉と出世にかかわることなのだ。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・、
其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣・・・
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国・・・
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人・・・
其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。 >>112
三国志魏書の中に書かれてるんですから
基本的に魏の世のことしか書かれてませんよ
年号の入っている記事は特定の年の出来事
それ以外は魏の世全体を通じてのこと。 「其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐?年,乃共立一女子為王」
魏代じゃないよね >>115
それは建前というもの。
元ネタがなければ書きようがないから、魏以前のことでも「今」という様なあいまいな用語を入れてそれらしく書くわけだ。
それと、魏の宰相になった曹操は、後漢朝の時代から宮廷内で権勢をふるっていた。
帯方郡も、後漢時代の曹操の意をくんで部下の公孫康氏が開いた。
だから当時のことを(年号なしで)倭人伝に書き込んでも、それはそれで曹操の大手柄になったわけだ。 >>115
>三国志魏書の中に書かれてるんですから
>基本的に魏の世のことしか書かれてませんよ
これは錯覚だな。
魏は中国の国号だから、外交関係は魏代のことに縛られる。
だから中國の魏の時代に朝貢に来た「卑弥呼の使い」を主人公にして書いた。
だがそれでは尻切れトンボになるので、
倭国に住んだ卑弥呼については、其の出自から、親魏倭王になった経緯、その死、その後継の臺与まで、時代を超えて(年号を入れず)幅広く書いている。
倭国は中国ではないから、倭国内の情勢は魏に縛られることはなかったのだ。 変な人が混ざってかき回してるみたいだけど
倭人伝の構造って、読むための基礎知識じゃないのかな?
倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
は 導入発起文で
今 使譯 所通 三十國 從郡至倭 〜 自郡至女王國 萬二千餘里
までは 魏使の行程と諸国紹介
男子 無大小 皆 黥面 文身 〜 國國有市交易有無
は 倭についての風物記録他 古文書ソース
使大倭監之 〜 常有人持兵守衛
は、238〜247年で 魏使の見た女王国の様子
女王國東渡海千餘里 〜 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
で、一旦 古書ソースの倭の話と 魏使の報告の倭人伝 を 〆る。
景初二年六月 〜 送政等還因詣臺
は、238年から247年迄の 魏と女王国の外交史 含む皇帝詔書報文面 梯儁や張政は、帯方太守の命で倭国に来た帯方郡役所勤めの小役人なのだから、
あくまで郡使(帯方郡の使い)である。
そこんとこ誤解なきよう。 このスレって文法とか表意表音文字とかの話で、倭人伝の検証しようと思って来たのに
いつの間にか読んですらいない感じの人との話になっちゃった、でござるの巻ですなw
原文無いんで、漢字飛ばして読む人以外は参考に、コピペ用、よそのテンプレw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543404937/
>梯儁や張政は、帯方太守の命で倭国に来た帯方郡役所勤めの小役人
梯儁は一応、卑弥呼に印綬って役目があって、魏の軍船で来て女王宮まで行ったけど
張政に至っては、其八年 太守王頎到官 (倭難升米黄幢 檄の後、前太守、戦死で新任)
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
の、倭人船に便乗して女王国の視察に来ている。
卑弥呼の戦争の応援で黄幢 檄をもたらした、という変なちょこ話が有るけど
辺境の負け犬に肩入れするなんて、そんなマヌケな戦国王なんて絶対居ない。
張政は武官ですら無いし、倭人船に便乗で戦争の応援に来ちゃダメだよネwww
この247年張政の旅は、『到』伊都 までの一万五百里で 一大卒検閲の駐留まで。
百里の 奴国 と 不彌國 は女王宮に向かっているとは限らない。
壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
の、帰国便を出してもらえた、という事実が不思議だ。
この247年送政等還因詣臺 便に、皇帝の返書、返礼は無い。
このあと司馬氏戴冠などに続き、280年三国志の覇者となる。
しかし、魏と女王国の国交は、これで終っている。
九州の女囚如きは、相手にする価値も無い、とバレちゃったのである。
オワタ\(^o^)/ >>121
どんな船で来たとか、同乗してきたとかどこに書いてあるの? >>118
あなたの錯覚ではないかな?
魏志倭人伝は
漢の時代には百余国が訪ねてきたが、今交流があるのは三十余国。から始まる。 魏志倭人伝を正しく読むスレに、魏志倭人伝に書いてないことを書くなら、それ相応の根拠は必要だわな。
書いてないし、根拠もないけど、きっとそうに違いない!なら、スレ違い >>125
魏志倭人伝は
漢の時代には百余国が訪ねてきたが、
今交流があるのは三十余国。
???
漢時、朝貢は、金印の57年、帥升107年の2回だが?
魏の2回の使の譯=説明で30国が確認されている。
この説明に拠り、郡から倭に至るには、で、倭人伝の問題の行程が始まる。
見りゃわかるだろwww
ミスリードばっかしの、現代語訳は読まない方が良い。
倭人伝は、素読で、読める。
↓
倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
今 使譯 所通 三十國 從郡至倭
で、行程だよw 小学生も騙せない、だろがwww >>123
文書や出土品を 読む、という意味が判らない?
そういう、読めない、文学や考古学、歴史が何処かに有るのかな?
漢字が読めないなら、文法スレに参加は、あきらめた方が良い。 三国時代の魏
>魏(ぎ、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。
>首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏ともいう。
魏は220年から始まっているので、倭人伝の記事は、(建前上)220年から265年までということになる。、 魏志倭人伝以外の中国の文献も合わせて読むと面白いよ。
魏の次の王朝である晋の歴史書である晋書の倭人伝には265年に晋が成立した直後に、壱与の使者が朝貢したと書いてある。
ただし記述はその一回だけしか書いてない。
それと、倭国大乱の時期に付いても書いてある。
倭国が乱れたのは、漢の末期の出来事であると書いてる。
つまり210年頃に倭国大乱があったことになり
卑弥呼が代表の座についたのはその後、210年代後半の出来事だとわかる。
また魏への朝貢は朝鮮半島で公孫氏が討たれた後になって始まっているとも書かれているので
238年がはじめての魏への朝貢だったということもわかる。 ここのスレタイの九州説ってのは外した方が良いと思う。
魏志倭人伝をキチンと読み解くのが主目的のハズで、九州に到着するか否かは別問題なハズ。
今のスレタイだと、魏志倭人伝を九州説に合わせるためにこじつけるスレって意味になる。 >>135
倭人伝の主要テーマは、誰がどう読んでも九州・筑紫島のお話だよ。
残念ながら、こじつけはキミではないのかな。 >>136
>倭人伝の主要テーマは、誰がどう読んでも九州・筑紫島のお話だよ。
「其山有丹」で即刻アウト と、何度言えばw @阿波 >>136
では、魏志倭人伝を九州説にこじつけるスレにスレタイ変えればいい。 >>137
>「其山有丹」で即刻アウト と、何度言えばw @阿波
もう、そのお話は良子さん @・・・ >>139
>もう、そのお話は良子さん @・・・
「其山有丹」は倭国(阿波)。 @阿波 >>136
>倭人伝の主要テーマは、誰がどう読んでも九州・筑紫島のお話だよ。
「橘」でも「楠」でも倭国(阿波)。 @阿波 >>136
>倭人伝の主要テーマは、誰がどう読んでも九州・筑紫島のお話だよ。
「句珠」でも倭国(阿波)。 @阿波 >>143
オッケー分かった
妄言は巣に帰ってやるよ @阿波 >>144
よし良い心がけだ
巣に閉じ籠もって二度と来るなよ >>144
妄言って認めるんだなw
魏志倭人伝に書かれてる内容に合致するだけの理屈がこねられるだけのストーリーが出来たらまた見せてくれ。
ただの妄想や希望は正直お腹いっぱい >>146
>妄言って認めるんだなw
言っとくけど、>>144は私じゃないよ。
>魏志倭人伝に書かれてる内容に合致するだけの理屈がこねられるだけのストーリーが出来たらまた見せてくれ。
君のように、理屈をこねなければ成り立たないストーリーは書けないよ。 くだらんことはよく書いてるようだが。 @阿波 赤白黄色の自称泡だらけ・・、
さいきん、シャボン玉ホリデーに成っとるな。 不弥国は北九州。これは確実。
@投馬国は水行20日。
A邪馬台国は水行10日、陸行1月。
@水行しかないので海岸沿い。
A陸行があるから内陸。 陸路で一月もかかるような土地は日本列島にはない。
最寄りの港から数日でいけるところばかり。 投馬国までの距離を1とすると、邪馬台国までの距離は2になる。
水行と陸行は船か歩きかってこと。
船で20日も遡れるような長い川は日本にはないので、
海岸沿いの水行と捉えた方がいい。 北九州の近辺の諸国と思われるところには
官として夷守がいて、特に伊都国には刺史的な者がいる。
…という時点で、北九州は僻地であることを意味している。
倭人伝自体が詳細を書いている部分は九州のことであって
詳細を得ることができていない部分は九州以外と見るのが自然に感じる。 >>150
江戸時代の伊勢参りが、街道が整備されていても片道半月掛かったらしいよ?
街道の整備されてない弥生時代なら陸行一月は普通にありえる。
ただし周りを海で囲まれた九州内に邪馬台国を探すなら、陸行一月は、やや現実的ではなくなる。
そもそも陸行一月の前に水行二十日があるので、船で直近まで行ける場所なら、水行の期間をもっと長く取って
陸行の期間を短くとったルートの方が合理的ではある。 >>153
水行すればいいだけであるから、そもそも陸行一月は一日の誤記と考えるのが妥当だよねw 倭人伝の行程の主旨は、行程記事にそって沿線の主要国を紹介することにあった。
伊都国には、帯方郡の出張所もあった・・・、とか、各国の戸数かれこれ・・、とかはその好例であり、
其の道筋を辿れば女王の都まで陸行1月だ、という表現である。
単に、直接最短の行程の経路里数日数は、また別の話し。
なお、女王の都から帯方郡へ帰る場合も、別の最短行程を利用したかもしれない。 陸行が1日でも1月でも言えることは、邪馬台国の所在は内陸だってこと。 >>154
誤記ってやってしまったら、何でもアリになり、邪馬台国はムー大陸にあったまで成立してしまう。 1日5キロ進んで1泊×30日=150キロ
1日10キロ進んで1泊×30日=300キロ
1日15キロ進んで1泊×30日=450キロ
船か徒歩かはどっちでも同じ。 @阿波氏の言う
丹と橘と楠の件は真面目に考えてみるべき。
九州の中でも北九州ではなくなるかもしれない。
ネガティブな意見は圧殺せずに反論しないといけないと思うけどね。 >>160の続き
帯方郡から北九州に来るまで大体1万500里だっけ?
だとすると、残りが1500里。
大した距離範囲ではない。
帯方郡から北九州まで×0.14ぐらいの距離範囲
1500里の範囲 半島から対馬までが1000里ぐらい。
実際は50キロ前後。
1500里というと、75キロぐらいか。 >>161
>丹と橘と楠の件は真面目に考えてみるべき。
「句珠」もね。
>ネガティブな意見は圧殺せずに反論しないといけないと思うけどね。
ところが、まともな反論が出来ないというお粗末。 @阿波 阿波は人より1歩半ほど先を言いすぎる
いうのはいいが、相手に阿波せて応えるトレーニングをしろ。阿波せるは大事なんだぞ。 萬二千餘里は実数ではない可能性がある。
漢書西域伝でも遠方の国については、長安から軒並み一万二千里+αで表現している。
遥か彼方の遠方を一万二千里と表現していたに過ぎないと見たほうが無難。
そうすると、放射読みやらの苦しい解釈は必要なく、書いている通りに素直に読めばいいだけになる。 だから陳寿は、
最初に帯方郡〜女王之都の全行程を12000里と決めて、その内訳を適切に割り振った、のだろうな。
そう考えるならば、クヤカンコクまで7000里、渡海に3000里、上陸して2000里と中分けできる。
更にこれを小分けすると、
渡海の3000里は1000里×3海、
上陸してからは伊都国まで500里と、
あと残りは1500里になるから、女王之都までは1300里〜1500里の範囲内だわな。 >>168
>阿波は人より1歩半ほど先を言いすぎる
う〜ん。 「句珠」も他説を圧倒する強力根拠だからねぇ。 避けては通れない。 @阿波 漢の時代に確立された一万二千里を魏も踏襲したが、実際には一万五百里にしかならなかったんだよ。 >>171
「句珠」を持ち出すのもわるくはないが、
まず >>161 への答礼として、
丹と橘と楠の件につき、そのとおりですとか、アワの切り札ですとか、どんなもんだいとか、自らの立ち位置・見解を述べよ。
その後で、じつはもっと強力な「句珠」もあります・・、とレスすればよかったであろう。(要は、あいだに半歩はさむわけだ) >>173
なるほど。 強力ネタの連射はダメということなんだね。 少し控えることにしよう。 @阿波 >>174
野球は表で攻撃したら、裏では守備に回る。
テニスも、まず自分が強力な玉を打ったら、今度は敵が打ち返す球を自分が受けとめる。
5ちゃんのレスでも、日常会話でも、同じように交互交代・攻守交代なのさ。 >>172
万里の長城が実際に総延長一万里と言うことではなく、とてつもなく長い事を指す比喩表現なのと一緒だよ。
漢書西域伝に出ている国は、カシミール、パキスタン、アフガニスタン、イラク、キルギスタン、タシュケントに比定されるが
勿論長安からの距離が、等しく一万二千里だった訳ではないからね。
無理やり短里を編み出し、放射読みを編み出し、何とか九州北部にこじつける為に一万二千里も利用されているだけ。 >>175
>5ちゃんのレスでも、日常会話でも、同じように交互交代・攻守交代なのさ。
いやしかし、攻守交替して待ってても一向に攻めて来ないんだけど? ほんとに真っ当な攻撃を期待してるんだけどねぇ。 @阿波 >>174
ま、そういうことだ
阿波の強力機関砲で連射される身にもなってくれ。
すぐに応戦できるとも限らぬし。いろいろ探りを入れて、阿波の弱みも握らなくてはならぬ。
で、くだんの良子さんはお元気かな。 >>178
>すぐに応戦できるとも限らぬし。
ということは、自説根拠の限界を感じているんだね。
>いろいろ探りを入れて、阿波の弱みも握らなくてはならぬ。
倭国(阿波)を羨んでいる訳だね。 @阿波 >>179
まあ、そういう面もなきにしあらず。
阿波と阿波路は、東西海路を隔てる重要拠点で、神話にも最初期の時点で登場するからね。
大和へ到達するには、なんとかうまいこと料理しないとな。 >>181
>阿波と阿波路は、東西海路を隔てる重要拠点で、神話にも最初期の時点で登場するからね。
そこまで分かっていながら・・・ なんなんだろう? @阿波 淡海の多島海を纏めあげて多嶋那の領域呼称
8世紀には何故か橘に化ける 古事記で大御~の名が冠される酋長は淡海の領域酋長がもとだね 田島は九州に多い名前だね。
立花は突き出た岬のことだとする見解もある。
筑紫の日向の橘や、筑紫の橘広庭宮など、筑紫倭国ゆかりの名称ばかり。 >>187
文化の日。
親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。
その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の産物とは此れ如何に。 @阿波 [淡海] : [あふみ]
[あふみ] - [あ] = [ふみ]
[ふみ] : [不彌] という構図 [小戸]というは汽水湖[淡海]の[今津湾]への出入り口
伊都國発でここを通過するともう不彌國の域に入る 竺紫⊃日向⊃ 橘 ⊃小門⊃阿波岐原 (8世紀の記の表記)
竹斯⊃日向⊃多嶋那⊃小戸⊃あはきばる
竹斯⊃日向⊃多嶋那⊃小戸⊃淡原 (3世紀復元案) 竺紫⊃日向⊃ 橘 ⊃小門⊃阿波岐原 (8世紀の記の表記) ずばり阿波と。 阿波以外でなにを求める? @阿波 ちょっと待てよ。
「あはきばる」なら、原っぱではなく集落・国邑じゃないか?
漠然と広場だと思っていたよ。
すべての単語に意味があるんだ! [一大國 方可三百里]の領域記述は
[1里=76.5m]を厳密に適用して計測すると
海水面をも含んだ領域表記
海を生活の域とする海の民だもの
海水面を含めたシマであることは極めて当然のなりゆき [對海國 方可四百餘里]の領域記述は
[1里=76.5m]を厳密に適用して計測すると
対馬島全島のその一部が[對海國]の領域表記
ここのはたぶん
[浅茅湾][浅海湾](あさがや)という海を挟んで展開しているから
[對海國]という[名號]なんだろう >>170
概ね同意
加えていうなら狗邪韓國〜末盧國間を3千里と設定しながら倭地を周旋5千里と書いてる事ね
彼の手元の資料をまとめれば使者を送ってくる倭国は九州の一部位の認識だったんだろうな
陳寿は列島を知っていながらこの文を書いてるとこが重要で
朝鮮半島を乍南乍東して狗邪韓國、南に渡海して末盧上陸
末盧に上陸したら2千里足らずで女王国の接続地域とした上で東の海を渡った処にも倭種の国邑があると書いてある
今の人間が普通に読めば女王国は九州で東の海の先は山陰或いは瀬戸内って思うよな >>202
萬二千餘里が実数ではないということは、邪馬台国が九州にあるかどうかも定かではない。という意味でもあるのよ?
長安からイラクまでと、帯方郡から邪馬台国までが等距離なわけがないよね?
遥か遠方と言うのを萬二千餘里と比喩表現しただけ。
これは当時中国で普通に使われてた比喩表現。
大宛国、烏弋山離国、安息国、大月氏国、康居国これらが軒並み一万二千里と比喩表現されている国。
逆説的に言えば、九州北部は帯方郡から遥か彼方と言えるほどの距離ではないし、九州北岸の福岡市は一番可能性が低いとさえ言える。 後漢の頃は概念的に一万二千里だったけれど、魏の使いが測ったら一万五百里で伊都に到着しちゃったんだろ。 >>200
どこの竹島の話だ?
そんな、岩礁が領海の基準みたいなもんは
邪馬台国時代に有るわけが無い。
日本海は潮の干満で広がる、干潟なのか?
壱岐なんてもんは、純粋に土地の広さの問題だ。 >>204
帯方郡から一万五百里で伊都国
伊都国から百里で奴国
奴国から百里で不弥国
不弥国から水行二十日で投馬国(未計測)
投馬国から水行十日、陸行一月で邪馬台国(未計測)
未計測区間もあり、日数的にかなりの遠方であることがわかるので
「自郡至女王國 萬二千餘里」で、女王国は帯方郡から遥か彼方であると書いてある。
逆説的に計測できているレベルの地域は、卑弥呼の国たり得ないという意味でもある。 魏志倭人伝を無視ですか。
郡使が邪馬台国を訪問して、そこまでは里数を記載できたとあります。 >>204
後漢書でわざわざ楽浪から万二千里に直してあるしね
そういう事だろうね 「樂浪郡徼,去其國萬二千里」
「徼」とは辺境のこと、つまり楽浪郡の辺境=後の帯方郡を指している ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています