X



【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬六
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0050日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 13:12:44.40
>>49
>* 現代語訳が必要と、言うほどのことも無い。

そうだね。
まさに、倭国(阿波)への行程説明である。  @阿波
0052日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 14:00:40.36
>>50
ああ、四国なら、別であるよ。

女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有 侏儒國 在其南 人長三四尺

小人国 だってよ。
四国は多分、良いけど、阿波かな? 
心当たり無いかな?
0053日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:21:38.54
邪馬台国論争の嚆矢、「倭女王卑弥呼考」(白鳥庫吉、明治43年・1910)

>白鳥庫吉は、邪馬台国論争において、邪馬台国の位置を「九州の熊本県菊池郡山門」に比定した。
>また、当時盛んに言われていた、卑弥呼が神功皇后である可能性よりは、
>むしろ神話上の天照大御神(アマテラス)に近い存在とした。
>またアマテラスには係争した弟のスサノヲがおり、男王との不和という記載もこうしたものを比したものか、とも指摘。

九州説のルーツは、まずこのあたりから辿ってみてはいかがかとおもう・・・
0056日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:27:18.50
否、行程は、完全に解決している。

今 使譯 所通 三十國 從郡至倭
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里

始度一海千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離
所居絶㠀 方可 四百餘里 土地山險 多深林 道路 如禽鹿徑
有千餘戸 無良田 食海物 自活乗船 南北市糴

又 南渡一海千餘里 名日 瀚海 至一大國 官亦日 卑狗 副日 卑奴母離 方可三百里 
多竹木叢林 有三千許家 差有 田地耕田 猶不足食 亦南北市糴

又 渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸
濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沉没取之

東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐

東南 至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行 至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

行程は、到 伊都國 までで終わり、郡からは一万五百里である。
東南 至奴国 及び 東行 至不彌國 は、行程には含まれない。
これは、247年の張政の行程であり、伊都に駐留し、女王宮には行っていない。

南至 投馬國 水行二十日 官可五萬餘戸 
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
は、240年の行軍であり、上記、247年の行程には、含まれないし、
投馬國 邪馬壹國 は、都市間を里程で示した行程内ではなく、
馬韓54国、辰韓12国、邪馬台国21国、といった概念の国名である。
帯方郡からの、都市間、行程に、直列で、繋がることは無い。
伊都ではなく女王宮名でであり、これは、一万二千里である。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:29:55.18
倭女王卑弥呼考 (白鳥庫吉)
>以上地理上の考證によりて、女王の都せし邪馬臺國は肥後の國内にありて、
>其領土は九州の北半に亙りたりと思はるるが故に、
>之と對抗して而も之を敗北せしめたる狗奴國も、亦決して小國にあらざりしなり。

白鳥庫吉の文に、「女王の都せし邪馬臺國は肥後の國内にありて・・」と書かれている部分は見つけた。
熊本県菊池郡山門郷の件は、まだみあたらない。
(大国であるとの認識だったので、郡や郷にはこだわっていなかったのかも)
0058日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:31:27.74
道里を記した文章は行程の説明文ではない
0059日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:57:15.93
循海岸水行 歴韓国 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
又 南渡一海千餘里 至一大國
又 渡一海 千餘里 至末盧國
東南 陸行五百里 到伊都國

行程文は、動詞+距離+至 地名で繋がり 到 で終る。

東南 至奴国 百里 は動詞が無い。行ってない。
東行 至不彌國 百里 は 至 地名 の後に距離がある。

南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

これも、同様。 至 地名 動詞 距離時間 の語順である。
前節の継続行程文内に繋がってはいない。
国の概念が違い、人口も単純な有ではなく、概念の違う可に変わる。

残念ながら、結論は出せていなかったが、張先生の文法論は成立していると考える。
0060日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:59:11.81
倭女王卑弥呼考 (白鳥庫吉)
>菅氏ノ説ニ「漢土ニ渡ルニモ、對馬ニ趣クニモ、コノ美彌良久埼ヨリ船發キセシナリ。
>西北ニ向フニ便リヨキ地ト思ハルレバ、海路モオシハカリ知ラルベシ」ト云ヘリ。
>と説かれたり。魏國の使者が倭國に渡れる時も、亦此美彌良久の埼に由りしなるべし。
>而して此埼は松浦郡値嘉島にあり。(ちかしま、血鹿島。現在の平戸一帯をさす)

白鳥庫吉は、末盧国の港を、平戸付近といってるなあ。ちと違うんでないの。
0061日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:11:11.32
>>54
白鳥庫吉
又文中に「到其北岸狗邪韓國」とある北岸の文字甚だ穩かならざれども、
之を倭韓兩國の間に横はる海洋の北岸と見れば文意通ずべし。
狗邪韓國より九州の北岸に達するには三海を通過す。

>北岸の文字甚だ穩かならざれども
半島南岸の倭人国の存在が投馬国である。 
ということは禁句だったのかね?

絶対解決せんよwww
0062日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:12:11.16
倭人は帯方の東南、大海の中にあり、山島に国を作っている。
土地は平野少なく山林多く、良田はない。海産物を食す。
昔は百余の小国が互いに接す。魏の時に至って、三十の国があり親しく交流す。
戸数は七万あり、男子は大人、子供はみな、顔と体に入れ墨をしている。

倭人たちは自ら太伯(古代中国の周王朝)の子孫だという。
また昔、倭国の使者が中国を訪れた時、倭人は自ら大夫(周朝の貴族)と称す。

いにしへの夏朝(中国大陸初の王朝)の少康(夏朝皇帝)の子は
中国会稽に封じられると、髪を切り、入れ墨をし蛟龍の害を避けたが
今まさに倭人達は沈没して魚を取るのを好み、同様に入れ墨し水魔を払う。

倭国までの道のりを計算すると、まさに会稽東冶(”現中国の浙江省”)の東にあたる。
その男子の衣服は横長の布を結び合わせてつなぐだけで、ほとんど縫いつづることがない。
婦人の衣服は一枚の掛け布団のようで、中央に穴をあけ頭を入れる。
皆おかっぱ頭で、裸足である。
0063.
垢版 |
2019/01/20(日) 22:12:47.36
倭人の地は温暖で、稲やカラムシを植え、養蚕して布を織る。
土地に牛、馬は無し。刀、楯、弓矢があり、鉄をヤジリにしている。
倭国には家屋があり、父母と兄弟は異なる場所で寝る。
食飲にはまな板状の台と高坏を用いる。
正月や四季の区別が無く、ただ秋の収穫の時を数えて年紀としてる。
死に際し棺はあるが槨なく、土を盛って墓を作る。初め喪中は哭泣して肉食を絶つ。
葬儀が終わると、家中の者が水に入り、体を洗い清潔にし穢れを取り除く。(神道の源流)

重大な決断時には、太占を行い骨を焼いて吉凶を占う。
倭人は長生で、百歳とか八、九十歳の者が多い。
婦女は淫らではなく、嫉妬もしない。争いや訴えはない。
軽罪を犯した者は家族ともども身分を奪って奴隷にし、重罪者は一族を滅ぼす。

その倭国の王家は昔は男子を君主として立てていたが
漢末に倭人達は乱れ戦うことなり倭人は共に女子を立てて倭国の女王とす。
其の名は卑弥呼という。
宣帝(魏の宣王、司馬懿仲達。晋の建国後、宣帝と諡された)が公孫氏を平らげると
その女王は遣使して帯方に至り朝見した。その後も貢ぎ、遣使することは絶えなかった。
文帝(司馬昭)が魏の相国になると、また何度か使者を遣わし中国に来朝す。
晋の泰始元年(司馬炎)に遣使し、倭人は通訳を重ねて中国へ朝貢に遣って来た。

「晋書」第97巻  『 四夷伝倭人伝 』 房玄齢撰
0064日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:15:11.83
白鳥庫吉は、
末盧国の港を、平戸付近といい、
東に行って伊都国は怡土郡、その東南の奴国は東の那の津の博多付近、
そして東行不彌国は、東南の大宰府とすれば、概ね間違いなかろう・・・、(結構大胆ですなあ)、
0065日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:32:12.54
「司馬懿仲達」
こういう言い方は中国では絶対にされない
「司馬懿」か「司馬仲達」どちらか
0066日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:32:23.98
>>64
判ってるのに、何かに忖度が有るんだろうね。

>伊都国は怡土郡、その東南の奴国は東の那の津の博多付近
だいたいあってる。

末盧は糸島半島北岸、伊都は今宿〜早良、奴国は博多周辺、不彌国は博多湾岸
考古学検証が進んじゃって、末盧、南東500里が成立するパズルはもうないんじゃないのかな?

なんで、平戸なんてスーパー僻地に上陸するんだ?
それって、博多湾まで船で来るだろ? わざと、デタラメ言ってんだよ。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 10:07:41.09
>>64
白鳥庫吉は短里に気付かなかったんですね
>>66
末盧国は東松浦半島北岸、伊都国は糸島市東南部、奴国は福岡市とその周辺、不彌国は那珂川町、春日市付近ですよ。
0068日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 10:34:37.13
倭女王卑弥呼考 白鳥庫吉
>本居氏の説出でてより以後、本朝の學者は殆ど卑彌呼を熊襲の類と見做すに於いて一致し・・・、
>又近藤芳樹氏は倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷なるべしと説かれたれば・・・
>(この説は)尤も余輩の意を得たるものなり。

(近藤芳樹)
幕末明治期の国学者。
周防国岩淵村(防府市)田中源吉の長男。早くから上方に遊学して村田春門,本居大平,山田以文に国学,律令を学んだ。
天保11(1940)年長州(萩)藩士近藤家を継いで藩の和学方となり,萩に居を構える。
藩主毛利敬親に重用され,元治1(1864)年には藩校明倫館の教官となった。
維新後しばらく山口県庁に勤めたが,明治8(1875)年宮内省に出仕して文学御用掛に任じられた。
明治天皇の東国行幸,北陸行幸に供奉して『陸路の記』『十符の菅薦』の供奉日記を著す。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 10:47:27.30
>>68 つづき
倭女王の都邪馬臺を肥後の菊池郡山門郷とする説は、
東京帝国大学の白鳥庫吉の発説と思っていたが、ちがっていたようだ。
実は、これには別の発信元があり、驚くべきことに・・・、
宮内庁の文学御用掛で、明治天皇にも供奉した近藤芳樹氏から出たことらしい。
0070日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 15:17:55.67
白鳥庫吉 その他の先人は 末盧国=松浦 という
邪馬台国=大和 それ以下の記紀などの過信による思い込みによって

倭人伝を方角、距離も違えることなく、
正しく読むことを 完全に放棄してしまっている。
里程や方角が誤記誤記の九州説なんて要らない。
キナイコシw に馬鹿にされて当たり前だwww
むかしからだったのかorz

考古成果の乏しい時代でも 常識によって、
伊都国以降で修正が可能だったのは、ただ一満二千里によるだけのようだ。

女王宮 菊池郡山門郷の可能性はゼロではないにしても
狗奴国である方がぴったりとくる。

この、邪馬台国も狗奴国もたいした軍事国家では無いし
宗教対立程度のもんなんじゃないのかな?

これは、卑弥呼と卑弥弓呼という名前のイメージと
熊本程度との 小競り合いで、大国を想定するのは
400年辺りに成立してる大倭王と違うと考えた為である。
300年辺りで熊本は筑紫文化圏と融合してないか?
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 15:50:20.52
>>70
>女王宮 菊池郡山門郷の可能性はゼロではないにしても
>(菊池郡山門郷は)狗奴国である方がぴったりとくる。

菊池郡山門郷を狗奴国にすると、邪馬台国は筑紫平野の筑前・甘木・朝倉になるが、
近年の発掘結果では、
その筑前・甘木・朝倉の邪馬台国が倭ヱ蝸垂ナ完全に敗退し放棄されたことになり、
倭国大乱後に、邪馬台国が卑弥呼を擁立したという倭人伝の記事とまるきり矛盾してしまう。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 16:38:20.37
明治のことではあるが、東京帝国大学の白鳥庫吉と、宮内庁文学御用掛の近藤芳樹とが気脈を通じ、
「邪馬台国女王之所都は、肥後の菊池郡山門郷なるべし」と説いたそうであるから、
これは、まるきり故なきこととは思い難い。
0073日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 17:02:05.50
>>71
>筑紫平野の筑前・甘木・朝倉は

筑前・甘木・朝倉は 150〜190年辺りの大乱で完全に敗退し放棄されてるなら
240年の邪馬台国が、糸島、福岡、筑紫平野の21国である。
ってことで、考古立証的に完全に一致だろ?
ならば、狗奴国は熊本。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:10:35.59
>>73
筑前・甘木・朝倉は、どこから来た勢力に負けたと思ってるの。
狗奴国? それとも糸島・福岡?
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:26:26.59
考古立証との一致という意味で、 卑弥呼の墓は何処か?

247年の張政は、倭人船に便乗し末盧国に上陸、
南東陸行500里の伊都国に到り、壹與 難升米に為檄告喩之。
東南 至奴国 百里 東行 至不彌國 はついでに、紹介している。

基本的には、この間(糸島北岸〜今宿、早良)で卑弥呼の墓を見ている。
というか、末盧国から伊都まで500里は無駄に歩いてる可能性も高い。
敵性国に伊都の軍港を見せない、か、盛大な卑弥呼の墓を見せるためではないのかな?

もちろん、無駄に糞僻地から歩かせる、
という意味では、唐津以西も無いとは言えない。

松浦半島?なんで? 外洋船、王船、軍船だぞ。
今津、今宿、早良、博多へは 普通なら海路で移動するだろ?
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:38:39.82
>>74
中国人が知ることのできた、倭国大乱。 であれば、
女王を共立するまでの糸島福岡筑紫平野と熊本程度の内乱だろ。

三国志という、数代に渡る戦国史を記した陳寿が
女王国などという、一代王の名称で、帯方南東の大国、日本国を紹介するか?

陳寿は、238年に半島進出した帯方郡が倭王と紹介した卑弥呼が
参問倭地21国の共立王で 絶在海中洲㠀之上 九州北部2千里で 
周旋可五千餘里の領土だけの ローカル王でした
と、紹介している。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:44:34.29
>>75
>敵性国に伊都の軍港を見せない、か、盛大な卑弥呼の墓を見せるためではないのかな?

つまらん妄想は時間の無駄使いだよ。  @阿波
0078日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 18:45:49.36
>>76
>女王を共立するまでの糸島福岡筑紫平野と熊本程度の内乱だろ。

つまらん妄想は時間の無駄使いだよ。  @阿波
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 19:07:13.43
>>77
もう、めんどくさくてうんざりなんだけど、
アラシに反応するアタシもアラシなんですが・・・

つまらん妄想は時間の無駄使い、
じゃなくて、有効に使ってもらいたいんだけど。

阿波は邪馬台国以前のBC200年
青銅器=銅鐸時代以前から日本の中心に関与している。
247年には邪馬台国のせいで、日本と魏の国交は終わっているが、
これ以降、牛馬の移入や、鉄の国内生産で富国強兵をけん引したのは
日本海ルート、および新規の瀬戸内海ルートだ。

九州東岸、宗像以東、小倉、行橋、中津、宇佐は瀬戸内海勢力下。
238から247の、魏が、たまたま見ちゃった女王国のことより
BC300 〜卑弥呼以前の阿波の歴史の方が、価値は高いと思うぞ。
当然、九州東岸の 247以降との考古的関与。

ディベートに陥ってる倭人伝論争にはうんざりだ。
何言ってるか判るか? がんがれ!
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:04:36.75
東京帝国大学の白鳥庫吉と、宮内庁文学御用掛の近藤芳樹とが気脈を通じ、
邪馬台国の女王之所都は、肥後の菊池郡山門郷・・、と説いた。
何かの由縁あってのことだろう。、
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:07:41.22
東京帝国大学の白鳥庫吉と、宮内庁文学御用掛の近藤芳樹とが気脈を通じ、
邪馬台国の女王之所都は、肥後の菊池郡山門郷・・、と説いた。
何かの由縁あってのことだろう。、
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:20:12.64
「邪馬台国の女王之所都」と曲げて読むのはいかがものかと

「邪馬壹国女王」之「所都」は
北側に不彌國が広がる早良平野の高みにある
0083日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:44:16.14
南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

北側に不彌國が広がる早良平野?
なんだそれ?

そういう都市間里程の行程中の、町とは無関係に21諸国をもって
卑弥呼という女王を共立する21国による 邪馬台国 が有り

投馬国 から 水行十日で九州上陸、
さらに、陸行一月の行軍をもって、女王宮に到達した。

これが、240年の卑弥呼印綬で、魏の軍船で渡航した梯儁の使譯だよ。
水行二十日 水行十日 陸行一月 を要した。 これは、一万二千里だった。

他の読み方、が、合理的であり得る可能性が、あんのか?
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 20:44:17.84
福岡平野東端の三笠山(宝満山)から、糸島平野西端の一貴山までは、40余qあり、
両山を結ぶ直線ライン上には、漢委奴国王の4世(4時代)の王墓がおよそ10qごとに築造されている。
すなわち、福岡平野東端から糸島平野の西端までは、博多・奴国王家の支配下にあったのである。
<東端・三笠山> − 須玖岡本王墓 − 吉武高木王墓 − 三雲南小路王墓 − 銚子塚王墓 − <一貴山・西端>
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:01:43.72
>>82
倭人伝女王国の範囲として合ってると思う。
遠賀川、宗像? 直方、飯塚、田川は、日本海ルートか、瀬戸内海系だ。
非属女王国である。 

この、邪馬台国の歴史は238年〜247年でしかない。

参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
が、どこまでか? は、現代考古学の成果が相当部分で解明できてる。

唐津以西や、宗像以東を、含むべきかどうかは、文献に考古学がついてくる。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:36:27.92
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

邪馬台国が倭の王都であったのは卑弥呼の年代だけではない。
漢委奴国王印を貰った倭王も邪馬台国にいた。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:39:58.22
倭人伝での「女王國」の用法を拾って解析してみる必要がある
「去女王」に安易に「國」を補って読み込むのはいかがものかと
直前の「復有國」の「國」と「女王境界」との関係を考えてみる必要がある
「去女王」は「去女王境界」の省略形と考えると
1,000里+4,000里=5,000里の等式が成立する
「參問倭地 絶在海中洲島之上或絶或連 周旋可五千餘里」の
「五千餘里」は12,000里を超えた追加の「道里記事」ということにはなる
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 21:49:29.79
邪馬台国卑弥呼の塚は、阿蘇・高千穂神社のご神体山
>国道218号からそれて高千穂神社の駐車場に駐車。駐車場から境内へ進みます。
>境内で拝殿と本殿(重要文化財)をお参りした後、
>本殿裏の小山を周回する小径へ。
>何処か裏の小山の頂上に行く経路は無いか、周回してみましたが道無し。
>磐座的なにかがあるのかと思いながら確認出来ず残念なのでした。
>おそらくこの本殿裏の小山は、古くからご神体山の扱いなのでしょうね。
https://akiba9echo.exblog.jp/19202164/
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:10:04.58
>>87
そのとおりだね。
両方の女王ともに、女王国=邪馬台国とは違う。
これは、女王の覇権の境界、即ち「倭国の境界」の意味だろうね。

此女王境界所盡(此処女王の境界尽きるところ)。、、、
去女王四千余里(女王の境界を去る四千余里)。、、、
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:26:52.22
>>87
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里

「女王境界」って何?

去女王四千餘里 又有裸國 
は 240年の女王国の位置は特定しているから 言える。

裸國 は女王宮=上陸2千里 から、4千里。
つまり、九州南岸であると 読める。

それだけのことだ。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:32:26.57
参問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連周旋可五千余里。

ここで目を引くのは「参問倭地」の表現ですね。
女王の覇権のもとの倭国ではなく、「倭地」としてあるのは、女王の覇権の境界の南に狗奴国があったからでしょう。
つまり倭地とは・・、

女王の覇権内の倭国と女王に反抗した狗奴国を足した地域のことであり、
筑紫島(九州島)全体を指していたのではないでしょうか。
よって周旋可五千余里とは、筑紫島(九州島)が周旋可五千余里ということになります。
現地でいえば、九州島の北端から南端(開聞岳辺り)までのことだったのでしょう。
事実、対馬海峡を三千余里とすれば、九州島の南北は五千余里に相当します(図上で計ってみてください)。

0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:34:59.61
なんで? 
文章の話だよ。 っ原文

南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡

其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

これで、邪馬壹國が列記21国構成 の 可7万戸 
其南有 狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里


南至 投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

じゃない、なんていう文章の読み方は無いヨw
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:38:02.81
九天神章経
道教の神学最高峰の教理書

九天応元雷声普化天尊が日本の神々を従える
神々が誕生する日本神話や神道、日本各地の神社創建の元になった
日本書紀や古事記の一般人には目も触れることができなかった極秘教理書
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 22:56:03.04
おまえら馬鹿だろwww

魏時の中国人は
使譯2回で、知った倭地 以外は知らんって言ってるだろ。

女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種
意外でも、山海経みたいな荒唐無稽な
又有侏儒國在其南人長三四尺 去女王四千餘里
又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至

は、有る。

女王国以北は知ってる。 他は知らん。 つまり
韓と海峡と九州の狗奴国以北が自女王国以北だろ?
船行一年や、有り得ない奇譚国、以外の 国名も知ってないだろが?

21国は 240年の 建中校尉梯儁 が 軍船で行軍して、参問して漢字にした。
里程行程は、倭人船便乗で247年の張政が記録した。
他に記録される可能性は、有り得ない。

それが、倭人伝、238〜247 である。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/21(月) 23:36:40.25
21ヶ国は回っていないと思うよ。
それに倭国についての知識は漢代から少しはあった。
でも、中国から見た倭とは対馬海峡だけというのは確かだな。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 07:26:53.50
>>6
魏志倭人伝のスタートは238年

景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻
238年最初の?朝貢から始まる。

正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王
240年、金印を持って最初の?使者がやってくる。

其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人 上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹木拊短弓矢
243年、再度魏に朝貢する。

其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
245年、黄色い旗をもらう。

其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
247年、狗奴國とドンパチ中だと帯方郡に報告。帯方郡から2回目の?使者がやってくる。

明確に時期が書かれているのはこれだけ。
このあとは卑弥呼が死んだ話しと、男王が立って纏まらず壱与が立った話しがさらっと書いてるだけだが

魏志倭人伝の最後の文は

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還

壱与が帯方郡からの2回目の使者を送り返した。
とあるので、247年に帯方郡を出立した使者の送迎とすれば、247年から250年頃の出来事であると考えられる。

魏志倭人伝に書かれているのは238年から250年頃までの、たった12年程度の話しだよ。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:44:47.42
>>97
魏志倭人伝は、時系列に則りながら書かれている。
スタートは漢時で、奴国の朝見から。

その後、年次に従って記事を重ね、
全文の2/3ほどが経過したところで、
始めて「景初二年六月の倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻」に至る。
魏の238年から250年頃までの記事は、最後の1/3の部分にしか書かれていないのだよ。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 08:57:09.83
>>95 
その通りです。 21国は印綬した女王国の規模を参問した際の所属国
今 使譯 所通 三十國 は
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國
姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國
鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國←240年の邪馬台国21王国

狗邪韓國 對海國 一大國 ←非女王国 
末盧國 伊都國 不彌國←240年所属王国に含まないが 女王国内部の地域名
邪馬台国 投馬国 狗奴国←領地名都市名ではない通常概念の国名

参考 ・奴国は247年の行程と240年参問国で重複
・狗邪(韓)國は韓伝の(弁辰)狗邪国と考えられるが投馬国も半島南岸倭人国であり、
韓伝のいう辰韓と弁韓が入り交ざっていた状態によって帯方郡は把握していない謎の国。
246年韓王朝滅亡で、馬韓、辰韓の王たちは臣智以下、郡の官として冊封された。
しかしこの、弁辰韓、投馬国には、郡の官制は及んでいない。

漢代の倭国についての知識
女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種 又有 侏儒國 在其南人長三四尺
去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國在其東南船行一年可至 にたいして
参問倭地 は 絶在海中洲㠀之上 の 或絶或連 周旋可五千餘里 の
九州島の上、福岡筑紫平野程度の領地しかない小国でしかなかった。
これが、倭人伝の言う邪馬台国です。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:20:42.20
倭女王卑弥呼考・・・ 東京帝国大学 白鳥庫吉
>つらつら神典の文を案ずるに、
>天照大御神は素戔嗚尊の荒らき振舞を怒りて、天ノ岩戸に隱れさせ給へり。
>此時天地暗黒となりて、萬神の聲は狹蠅の如く鳴りさやぎ、萬妖悉く發りぬ。
>是に於て八百萬神達は天安河原に神集ひに集ひて、大御神を岩戸より引出し奉り、
>次で素戔嗚尊を逐ひやらひしかば、天地再び照明となれり。

>飜て『魏志』の文を案ずるに、倭女王卑彌呼は狗奴國男王の無禮を怒りて、長く之と爭ひしが、其暴力に堪へずして、遂に戰中に死せり。
>是に於て國中大亂となり、一時男子を立てて王となししが、國人之に服せず、互に爭鬪して數千餘人を殺せり。
>然るに其後女王の宗女壹與を奉戴するに及んで、國中の混亂一時に治れり。是はこれ地上に起れる歴史上の事實にして、

>彼は(天照の件は)天上に起れる神典上の事蹟なれども、
>その状態の酷似すること、何人も之を否認すること能はざるべし。
>若しも神話にして太古の事實を傳へたるものとせば、神典の中に記されたる天ノ安河の物語は、
>卑彌呼時代に於けるが如き社會状態の反映と見るを得べきか。

以上纏めれば、白鳥庫吉は、天照大神時代と卑弥呼時代の世相は似通っているとした。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:26:23.85
倭女王卑弥呼考・・・ 東京帝国大学 白鳥庫吉
>「日本書紀」の編者が暗に卑彌呼を以て神功皇后に擬せしも、全く此類似を認めたるが故なるべけれど、
>斯る類似は獨り皇后と卑彌呼とに限るべからず。
>苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。
>故に余輩は茲に「書紀」が卑彌呼を以て神功皇后と考定せし妄を斷じて、本論の結末となす。

〔明治四十三年六・七月、『東亞之光』第五卷第六・七號〕
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:36:41.77
>>94 >>97 >>99
これは、イトクズの自作自演。
畿内説崩壊で、邪馬台国・倭奴国・伊都国を福岡平野に積み重ね、重箱状態にせざるを得なくなったからだろう。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 09:48:13.06
おまけに投馬国も付いてきちゃったので、入れる場所がない。
そこでしかたなく、これは半島南岸に押し付けちゃおうと四苦八苦・・・
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:08:53.25
>>98
「魏」志倭人伝なのに後漢から??

昔は100国ありました、義の時代には30国です。は陳寿のコメントだよ。
そこから先は最初の朝貢があり、返礼に金印を持って倭国を訪ねた帯方郡使の梯儁の出張報告が続く。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:20:04.25
今(魏時) 使譯(240梯儁、247張政の2回) 所通 三十國
のうち
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國 呼邑國
華奴蘇奴國 鬼國 為吾國 鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國
の 21国は、
240年印綬の、女王国の規模を、梯儁が倭人に参問し、漢字にして記録した。
この内、邪馬國 で見た女王宮の臺をもって、梯儁が
女王国総称の仮称、邪馬台国 と名付けた。

しかし、邪馬台国名は、梯儁の記録以外では、使用されることなく
一代名称でしかない女王国として 247年魏との国交は終わり、歴史から姿を消した。

さらに、この梯儁の漢字化の国名に比定できる 大夫=領主=王 が 3人いる。
奴王/(難)升米  都支王/(都市)牛利 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
である。 
これらも、魏の将軍となったが、245年漢王朝滅亡戦の 黄幢 檄 にも応えず
三国志の歴史にも 卑弥呼の使者以外として、登場することは無かった。
ちょっと、残念だったねw 所詮、倭王に値しない小国だったということ・・・
字の違いは、郡での奏上時に役人が漢字で記録と240梯儁の漢字の違いである。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:25:15.93
>>105
そうだよ
魏の時代は短かく、卑弥呼の時代の方がはるかに長かった。
しかも以前から公孫氏が監督に当たっていたので、景初元年まではさしたる外交記事がない。
もちろん逆賊公孫氏のことは書けないので、魏代の前半は書こうにもネタがなかった。
そこでやむなく、後漢から魏にかけての時代に帯方郡の役人が調査した報告書をもとに、倭30国の情勢をつぎはぎ書いたのさ。
(だからその部分には、魏以前、或は魏以後と特定されるような年号を入れていない。)
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:36:56.32
>>108
その通り、
魏代のことでなく、倭国大乱がおさまって共立卑弥呼の倭30国になり、
206年ごろに帯方郡が開かれたころの状況だと思うね。(魏は220年ころからだろ?)
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 10:54:24.73
>>107
具体的に魏志倭人伝のどこがそれに該当するの?
またその根拠はどこに書いてある?

空想はいらねーんだ
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:01:31.88
>>108  これはひどい

今 使譯 所通 三十國 從郡至倭
魏志なんだから、今、は魏時です。
從郡至倭  この使譯に 從って 倭に至るには、以降が行程です。

おまけ
倭人伝 評曰 史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷 使譯 時通 記述隨事 豈常也哉

倭人伝は 
漢の書や後漢の書が記した朝鮮両越西羌 のように
魏時に 
爰及 東夷 で 使譯 時通 記述隨事 
これが倭人伝であり
 
豈常也哉!
という話です。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:05:43.23
>>110
魏の時代の出来事には、
魏代の関係者の手柄を明らかにするため、年号が振られている。
だから逆に言えば、年号の入っていない記事は、魏代以前か魏代以後ということだ。
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:16:32.29
>>112
以下に略記する如く、魏代の出来事には魏の年号と人名を入れて、その手柄を明示している。
これは伊達ではない、官・役人一族の末代までの名誉と出世にかかわることなのだ。

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・、
其年十二月、詔書報倭女王曰「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣・・・
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国・・・
其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人・・・
其六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。
其八年、太守王頎到官。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:18:27.96
>>112
三国志魏書の中に書かれてるんですから
基本的に魏の世のことしか書かれてませんよ
年号の入っている記事は特定の年の出来事
それ以外は魏の世全体を通じてのこと。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:23:07.82
「其國本亦以男子為王,住七八十年,倭國亂,相攻伐?年,乃共立一女子為王」

魏代じゃないよね
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:28:53.74
>>115
それは建前というもの。
元ネタがなければ書きようがないから、魏以前のことでも「今」という様なあいまいな用語を入れてそれらしく書くわけだ。
それと、魏の宰相になった曹操は、後漢朝の時代から宮廷内で権勢をふるっていた。
帯方郡も、後漢時代の曹操の意をくんで部下の公孫康氏が開いた。
だから当時のことを(年号なしで)倭人伝に書き込んでも、それはそれで曹操の大手柄になったわけだ。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:42:28.60
>>115
>三国志魏書の中に書かれてるんですから
>基本的に魏の世のことしか書かれてませんよ

これは錯覚だな。
魏は中国の国号だから、外交関係は魏代のことに縛られる。
だから中國の魏の時代に朝貢に来た「卑弥呼の使い」を主人公にして書いた。
だがそれでは尻切れトンボになるので、
倭国に住んだ卑弥呼については、其の出自から、親魏倭王になった経緯、その死、その後継の臺与まで、時代を超えて(年号を入れず)幅広く書いている。
倭国は中国ではないから、倭国内の情勢は魏に縛られることはなかったのだ。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 11:51:31.82
変な人が混ざってかき回してるみたいだけど
倭人伝の構造って、読むための基礎知識じゃないのかな?

倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者 
は 導入発起文で 

今 使譯 所通 三十國 從郡至倭 〜 自郡至女王國 萬二千餘里 
までは 魏使の行程と諸国紹介

男子 無大小 皆 黥面 文身 〜 國國有市交易有無 
は 倭についての風物記録他 古文書ソース

使大倭監之 〜 常有人持兵守衛 
は、238〜247年で 魏使の見た女王国の様子

女王國東渡海千餘里 〜 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里
で、一旦 古書ソースの倭の話と 魏使の報告の倭人伝 を 〆る。

景初二年六月 〜 送政等還因詣臺
は、238年から247年迄の 魏と女王国の外交史 含む皇帝詔書報文面
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 12:05:02.85
梯儁や張政は、帯方太守の命で倭国に来た帯方郡役所勤めの小役人なのだから、
あくまで郡使(帯方郡の使い)である。
そこんとこ誤解なきよう。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 13:17:17.79
このスレって文法とか表意表音文字とかの話で、倭人伝の検証しようと思って来たのに
いつの間にか読んですらいない感じの人との話になっちゃった、でござるの巻ですなw
原文無いんで、漢字飛ばして読む人以外は参考に、コピペ用、よそのテンプレw
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1543404937/

>梯儁や張政は、帯方太守の命で倭国に来た帯方郡役所勤めの小役人
梯儁は一応、卑弥呼に印綬って役目があって、魏の軍船で来て女王宮まで行ったけど
張政に至っては、其八年 太守王頎到官 (倭難升米黄幢 檄の後、前太守、戦死で新任)
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
の、倭人船に便乗して女王国の視察に来ている。

卑弥呼の戦争の応援で黄幢 檄をもたらした、という変なちょこ話が有るけど
辺境の負け犬に肩入れするなんて、そんなマヌケな戦国王なんて絶対居ない。
張政は武官ですら無いし、倭人船に便乗で戦争の応援に来ちゃダメだよネwww

この247年張政の旅は、『到』伊都 までの一万五百里で 一大卒検閲の駐留まで。
百里の 奴国 と 不彌國 は女王宮に向かっているとは限らない。
壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
の、帰国便を出してもらえた、という事実が不思議だ。

この247年送政等還因詣臺 便に、皇帝の返書、返礼は無い。
このあと司馬氏戴冠などに続き、280年三国志の覇者となる。
しかし、魏と女王国の国交は、これで終っている。
九州の女囚如きは、相手にする価値も無い、とバレちゃったのである。
オワタ\(^o^)/ 
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 15:01:32.40
>>121
どんな船で来たとか、同乗してきたとかどこに書いてあるの?
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 15:03:57.29
マンガ世代かな
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 15:50:55.87
>>118
あなたの錯覚ではないかな?

魏志倭人伝は
漢の時代には百余国が訪ねてきたが、今交流があるのは三十余国。から始まる。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 16:30:42.45
魏志倭人伝を正しく読むスレに、魏志倭人伝に書いてないことを書くなら、それ相応の根拠は必要だわな。

書いてないし、根拠もないけど、きっとそうに違いない!なら、スレ違い
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:23:43.11
>>125
魏志倭人伝は
漢の時代には百余国が訪ねてきたが、
今交流があるのは三十余国。
???

漢時、朝貢は、金印の57年、帥升107年の2回だが?
魏の2回の使の譯=説明で30国が確認されている。
 
この説明に拠り、郡から倭に至るには、で、倭人伝の問題の行程が始まる。
見りゃわかるだろwww

ミスリードばっかしの、現代語訳は読まない方が良い。
倭人伝は、素読で、読める。


倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
今 使譯 所通 三十國 從郡至倭  
で、行程だよw 小学生も騙せない、だろがwww
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/22(火) 23:34:12.33
>>123
文書や出土品を 読む、という意味が判らない?
そういう、読めない、文学や考古学、歴史が何処かに有るのかな?
漢字が読めないなら、文法スレに参加は、あきらめた方が良い。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 10:44:28.70
なんか変なのがわいてるな。
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 11:24:34.64
三国時代の魏
>魏(ぎ、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。
>首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏ともいう。

魏は220年から始まっているので、倭人伝の記事は、(建前上)220年から265年までということになる。、
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 13:19:16.16
島原半島に一票
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/23(水) 17:11:13.65
魏志倭人伝以外の中国の文献も合わせて読むと面白いよ。

魏の次の王朝である晋の歴史書である晋書の倭人伝には265年に晋が成立した直後に、壱与の使者が朝貢したと書いてある。
ただし記述はその一回だけしか書いてない。

それと、倭国大乱の時期に付いても書いてある。
倭国が乱れたのは、漢の末期の出来事であると書いてる。
つまり210年頃に倭国大乱があったことになり
卑弥呼が代表の座についたのはその後、210年代後半の出来事だとわかる。
また魏への朝貢は朝鮮半島で公孫氏が討たれた後になって始まっているとも書かれているので
238年がはじめての魏への朝貢だったということもわかる。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 08:58:22.61
ここのスレタイの九州説ってのは外した方が良いと思う。

魏志倭人伝をキチンと読み解くのが主目的のハズで、九州に到着するか否かは別問題なハズ。
今のスレタイだと、魏志倭人伝を九州説に合わせるためにこじつけるスレって意味になる。
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 09:27:16.85
>>135
倭人伝の主要テーマは、誰がどう読んでも九州・筑紫島のお話だよ。
残念ながら、こじつけはキミではないのかな。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 10:07:29.99
>>136
>倭人伝の主要テーマは、誰がどう読んでも九州・筑紫島のお話だよ。

「其山有丹」で即刻アウト と、何度言えばw  @阿波
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 11:00:10.15
>>136
では、魏志倭人伝を九州説にこじつけるスレにスレタイ変えればいい。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 11:36:15.76
>>137
>「其山有丹」で即刻アウト と、何度言えばw  @阿波

もう、そのお話は良子さん     @・・・
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 11:42:08.02
>>139
>もう、そのお話は良子さん     @・・・

「其山有丹」は倭国(阿波)。  @阿波
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 11:47:11.33
>>136
>倭人伝の主要テーマは、誰がどう読んでも九州・筑紫島のお話だよ。

「橘」でも「楠」でも倭国(阿波)。  @阿波
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 11:55:54.10
>>136
>倭人伝の主要テーマは、誰がどう読んでも九州・筑紫島のお話だよ。

「句珠」でも倭国(阿波)。  @阿波
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/24(木) 19:37:07.98
>>143

オッケー分かった
妄言は巣に帰ってやるよ @阿波
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 02:46:44.84
>>144
よし良い心がけだ
巣に閉じ籠もって二度と来るなよ
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:03:31.31
>>144
妄言って認めるんだなw

魏志倭人伝に書かれてる内容に合致するだけの理屈がこねられるだけのストーリーが出来たらまた見せてくれ。
ただの妄想や希望は正直お腹いっぱい
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:16:40.90
>>146
>妄言って認めるんだなw

言っとくけど、>>144は私じゃないよ。


>魏志倭人伝に書かれてる内容に合致するだけの理屈がこねられるだけのストーリーが出来たらまた見せてくれ。

君のように、理屈をこねなければ成り立たないストーリーは書けないよ。 くだらんことはよく書いてるようだが。  @阿波
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:36:05.94
赤白黄色の自称泡だらけ・・、
さいきん、シャボン玉ホリデーに成っとるな。
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/25(金) 10:50:14.64
不弥国は北九州。これは確実。

@投馬国は水行20日。
A邪馬台国は水行10日、陸行1月。

@水行しかないので海岸沿い。
A陸行があるから内陸。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況