【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬六
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>>812
旧唐書を読めば何となくわかるよ。
朝貢に訪れて文献をむさぼって、なかなか帰国しなかった使者がいる。
ヤマト政権はその頃になって初めて、魏志倭人伝などを目にしたのかもしれない。 >>812
600年の遣隋使時点では、これを読んでいます。
『日本は古の九州の小国、倭国ではない。』
これは、大和朝廷は女王卑弥呼の後継ではない事を意味します。
推古天皇時ではあるけれど、一応、聖徳太子であろうと言われています。
百済新羅建国が高句麗全盛の350年、500年に百済から最初の五経博士を献上させた。
代は過ぎるが、曽我氏、馬子邸に置き聖徳太子はこれを家庭教師として通い、
反発勢力に馬屋戸の王子と揶揄された。
仏教公伝は当然、中国語訳の経典が読めないと伝わったことにはならない。
史書も読める。
仏教公伝も、中国から直接ではなく、傀儡立国の百済王経由で入った。
これは、公孫氏、韓王朝滅亡から、四郡追討迄日本が北朝中原に敵対したため
中国は、日本に先進文化を与えなかったのである。
日本の400年から500年は、中華を仮想敵国としての富国強兵時代。
これが、日本の古墳時代である。
邪馬台国論争のせいで、全然真実に近づかないw 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
(日本語訳)
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。
あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。
あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
(わかりやすくまとめ)
倭国の使者は異なる3つの説明をした。
A 倭国が日本に改名した。
B 日本と倭国は別の国である。
C 日本は東側の小国だったが倭国を併合した。
倭国の使者は不誠実だったので中国は倭国の使者の話を信用しなかった。
さて、日本国がした説明はどれでしょう?
おそらく、Aが日本国がした説明(嘘)。
真実は、倭国が日本国に改名したのではなく、日本国が倭国の別種であり、倭国を併合した。
倭国は古の倭奴国のこと、つまり九州北部の博多湾沿岸、筑紫のこと。 >>815
倭人伝を読めば卑弥呼は筑紫で間違いないんだが・・・
これ247年以降で、大和朝廷と統合して、
魏外交は断ち、富国強兵で、半島進出、四郡挟み撃ち追討、百済新羅建国。
で、400年は南朝で倭の五王お披露目です。
この大和朝廷は、倭の五王の奏上で良いけど
この間に、関東、関西、中部、中国、四国が統合したわけで、
どれが、主流かは、時代時代で判らない。
聖徳太子は遣隋使の弁で九州じゃない、だから魏志倭人伝の古の倭国ではない。
しかし、天智天武天皇は、700年記紀で九州回帰を計っている。
一応王家が血族であっても、こういう主流の交代ということは有る。
だから、大化の改新だろwww 纏向の箸墓は朝廷に加わった300年付近で
九州から迎えた台与の古墳でも全然問題ない。
しかし、考古学なら判るだろうが、
纏向の遷都ってのは、失敗してないか?
奈良と京都は古都ではある。 >>816
>倭人伝を読めば卑弥呼は筑紫で間違いないんだが・・・
「丹」の採れない筑紫に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>817
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 「其山有丹」で、アカゲザル?とクロキジ?も、倭国(阿波)で生息していたことになるな。
「橘」や「楠」も温暖な倭国(阿波)で自生していたことになるな。 ワハハハハ @阿波 >>819
相変わらず精神勝利と妄想しか出来ない四国チョンコwww 古代史関連スレには色んなチョンコが住み着いてるけど
共通点がいくつかある
・自説を自らが発見した新説であると主張する
・その新説に辿り着けなかった学者(学会)を小馬鹿にする
・自説に不都合な事実は徹底的に無視
・破綻を指摘されても無視
・ナゾの高笑い >>821
「其山有丹」で、アカゲザル?とクロキジ?も、倭国(阿波)で生息していたことになるな。
「橘」や「楠」も温暖な倭国(阿波)で自生していたことになるな。 ワハハハハ @阿波 >>822
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 「其山有丹」で、アカゲザル?とクロキジ?も、倭国(阿波)で生息していたことになるな。
「橘」や「楠」も温暖な倭国(阿波)で自生していたことになるな。 ワハハハハ @阿波 >>824
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 お前の主張だと「丹」の採れない九州は倭国ですらなくなるな。 ワハハハハ @阿波 >>826
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ 阿波踊りの元祖も、「天宇受売命」だな。 ワハハハハ @阿波 四国チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 四国チョンコは他の四国民に失礼
阿波チョンコと呼びなさい 「加茂宮ノ前遺跡」
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。
弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡計100棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。
弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。
鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。
那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) 近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、
その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。
「板野・鳴門古墳群」
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm >>816
>倭人伝を読めば卑弥呼は筑紫で間違いないんだが・・・
「丹」の採れない筑紫に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>835
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな アカゲザルとクロキジが生息しない筑紫に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>837
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな >>838
「加茂宮ノ前遺跡」 や「板野・鳴門古墳群」のような、稀有で特異な遺跡がない筑紫に、卑弥呼が居る訳がない。 ワハハハハ。
「丹」やアカゲザルとクロキジが生息しない筑紫に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。 ワハハハハ。 @阿波 >>839
「お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなる」で理解しろよ泡チョンコ >>840
まぁ、それが「加茂宮ノ前遺跡」 や「板野・鳴門古墳群」のような、稀有で特異な遺跡がない筑紫の、精一杯の抵抗だ。 わはははは。 @阿波 お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな 多くの動植物が記載されているのだから、それらがどこに見られるかで一番可能性が高いところを探せば良い。
それをベイズ推定を用いて計算すると、90パーセントの確率で、邪馬台国は福岡県と推定される。 >>841
大喜びするほど稀有で特異な遺跡か??? >>844
>大喜びするほど稀有で特異な遺跡か???
他に無いんだから、稀有で特異な遺跡。 わはははは。 @阿波 「加茂宮ノ前遺跡」
徳島県阿南市加茂町大西、宮ノ前にある加茂宮ノ前遺跡は那賀川の右岸、標高約24〜26mの自然堤防に立地している。
発掘調査では、弥生〜古墳時代と鎌倉〜室町時代の集落跡を確認。
弥生時代中期後半〜古墳時代前期初頭(紀元1〜3世紀ごろ)の竪穴住居跡計100棟余りと、土坑、溝、柱穴を発見した。
弥生〜古墳時代の県内最大規模の集落とみられる。
住居跡や周辺の遺構からは、水銀朱の精製に関わる磨石(すりいし)や石杵、石臼などの石器500点余りと、祭祀に関わる水銀朱の原料となる辰砂約90点が見つかり、注目される。
住宅跡からは、サヌカイト製の石器とその残りかす、糸を紡ぐために使う土製紡錘車、鉄器、ガラス小玉が出土。
鍛冶炉(製鉄の炉)を備えていた。
一つの住居で辰砂の精製と鉄の加工、紡織、石器づくりをしていることから、さまざまな物を同時に作る工房としての性格があることが分かった。
加茂宮ノ前遺跡の南西約5qには、弥生〜古墳時代の辰砂採掘遺跡である若杉山遺跡がある。
那賀川の対岸には縄文〜鎌倉、室町時代の深瀬遺跡がある。若杉山、深瀬の両遺跡は時代が共通する上、辰砂が見られる点から、加茂宮ノ前遺跡との関連が注目される。
加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱を作っていたほか、石器、鉄器の製作加工や紡織をするなど「生産のムラ」として大規模に展開していたといえる。(県埋蔵文化財センター専門研究員 田川憲) 近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする
摂津・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。
板野・鳴門古墳群
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm 「矢野遺跡」
徳島南環状道路建設に伴い1992〜98年に行われた発掘調査で、縄文時代後期初頭(約4千年前)の遺構面から見つかった。
このうち、土面は縦15.8センチ、横16.7センチ、厚さ1センチのほぼ円形で、粘土で作られている。穴を開けて目や口を作り、鼻や眉も付けている。
用途は定かではないが、祭祀で使われた可能性がある。土面としては国内最古で、最も西の地域の出土例となっている。
土器は煮炊き用の深鉢や盛り付けに使われた鉢、つぼなど。関東の土器に見られる文様だけでなく、近畿から九州北部の広範囲で確認された文様が混じっている。
祭祀で使われた赤色顔料「水銀朱」が付着しているものもあり、国内最古の水銀朱の使用例として注目されている。
石器にはやじりなどの狩猟道具や食物加工用具がある。最も多いのは石の重りの石錘で、網にくくりつけて漁労に使ったほか、編む際の重りなどに使われたとみられる。
文化審議会は「縄文時代最古級の土面や、水銀朱の使用例が含まれ、西日本における縄文時代中期末から後期の生活の様子を示す資料として貴重だ」としている。
2019年(平成31年)3月19日 徳島新聞朝刊 「矢野遺跡(弥生時代)」
徳島県最大級の弥生時代の集落、銅鐸(重要文化財)が出土
1992年(平成4年)から始まった徳島南環状道路建設に伴う発掘調査により、徳島県では最大規模の弥生時代の集落遺跡であることが判明した。
現在までに、竪穴住居跡約100棟が見つかっている。
大量の遺物の中で、とくに注目されるのは銅鐸である。鰭と呼ばれる縁の部分を太い線で飾る突線鈕式と呼ばれる銅鐸の中でも最新型式。1992年12月18日に発見された。
銅鐸は木製容器に納めて埋められたと考えられ、土坑の周りには、7本の柱穴が確認されている。このような埋納状況が判明した銅鐸は非常に珍しく、銅鐸の謎を解く鍵となる。
1995年6月15日に重要文化財(考古資料)に指定された。
そのほか、鉄器を製作したと考えられる鍛冶遺構も見つかっており、集落内での鉄器生産を考える上で興味深い。 下のようにルート比定すれば、短里(韓倭の里)と良く一致する
壱岐ー松浦中原津(末盧国)は55q(700里)でまあまあ
松浦中原津ー佐賀川上(伊都国)は東南38q(500里)でドンピシャ、
佐賀川上ー佐賀市街(奴国)は東南至7.5q(100里)でドンピシャ
佐賀川上ー吉野ヶ里(不彌国)は東11q(145里)で、四捨五入すれば100余里 下のようにルート比定すれば、短里(韓倭の里?)と良く一致する。 わはははは。 @阿波
帯方郡
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 古代史関連スレには色んなチョンコが住み着いてるけど
共通点がいくつかある
・自説を自らが発見した新説であると主張する
・その新説に辿り着けなかった学者(学会)を小馬鹿にする
・自説に不都合な事実は徹底的に無視
・破綻を指摘されても無視
・ナゾの高笑い >>852
まともに反論できなくなると、こういう駄レスで誤魔化すいつものパターン。
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 反論・で・き・る・人・は、はい、どうぞ。 @阿波 >>853
どの説にも負けない以前に
相手にされてなくね? 君が相手してくれてるじゃんよ。 ワハハハハ。 @阿波 >>853
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな >>856
まともに反論できなくなると、こういう駄レスで誤魔化すいつものパターン。
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。 反論・で・き・る・人・は、はい、どうぞ。 @阿波 >>857
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな 阿波チョン
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; ∧,_∧: 悔しいニダァァアーーッ!!!
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(6>>8579):
:ム__)__) 魏志倭人伝を朝日新聞みたいに一生懸命偏向・捏造解釈したのだろうが、
阿波なんて引っ張り出してくると記紀との整合性が全く取れないと思う。 魏志倭人伝を朝日新聞みたいに一生懸命偏向・捏造解釈したのだろうが、
阿波なんて引っ張り出してくると記紀との整合性が全く取れないと思う。 卑弥呼とは「天照大御神=大宜都比売(阿波の神)」
男弟とは「月読尊」
卑弥弓呼とは「素戔嗚尊」
の3兄弟だよ。
これが魏志倭人伝と記紀との整合性。 @阿波 下のようにルート比定すれば、短里(韓倭の里?)と良く一致する。 わはははは。 @阿波
帯方郡
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 >>863
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな 九州チョン
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(6>>6859):
:ム__)__) >>861
年期の正しい倭人伝と、
ご都合主義の神話の続き記紀との整合性という矛盾の為に
嘘を重ねるのは、学問である歴史の為によくない。
倭人伝、卑弥呼伝によると、190〜247年までの九州筑紫は、
後の大和朝廷に参加していないと考えるべき。
帯方郡から南万二千里、会稽上海の東であって
倭人伝の邪馬台国が九州以外というのは論外。
この卑弥呼以降、朝廷が半島進出、富国強兵に向かった歴史は、
銅鐸消滅の謎と古墳時代の始まりの必然に一致する。 記紀は天皇家につながる家系の話しか書いてないから、天孫族が去った後の筑紫、すなわち倭国の歴史を必ずしも反映していない。 日本の政治の根本は宗教である政(まつりごと)
神話の否定は先祖である氏神の冒涜 >>867
そうだね、九州は天皇家とまったく縁もゆかりもないところ。 わはははは。 @阿波 狗奴国は邪馬台国の南にある強大国。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は、粟国(旧吉野川流域北岸勢力・旧吉野川流域南岸勢力・鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は、長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力)
狗奴国も邪馬台国に勝るとも劣らない強大国だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。 @阿波 >>870
分かったかい? 忘れないように、よく覚えておくんだよ、坊や! @阿波 >>872
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな ※阿波に王都が在った根拠の新しい情報
「美馬・中山路遺跡 青銅の鈴・椀 県内初出土 6〜8世紀 副葬品に使用」
徳島県教委と県埋蔵文化財センターは8日、美馬市美馬町の中山路遺跡から6世紀後半〜8世紀のものとみられる青銅製の鈴と椀が県内で初めて出土したと発表した。
遺跡の南東約100mには7世紀後半に建てられた国史跡の郡里廃寺跡があり、県教委などは郡里廃寺に関係する建物があった可能性が高いとみている。
出土した約7千点のうち、6世紀後半の青銅製の鈴は直径約3.7pで、古墳の副葬品や儀礼用の馬の飾りに用いられた。
7世紀後半〜8世紀の青銅製の椀(直径12〜14p)の破片は全長約6pで、仏具や副葬品に使われた。
直径が約20pあるとみられる7世紀後半〜8世紀前半の陶製の円形すずりの破片(全長約5p)や、
郡里廃寺跡で出土したものと同じ型枠で作られたハスの花の模様が付いた瓦(蓮華文軒丸瓦)の装飾部分(直径約20p)も見つかった。
郡里廃寺跡は県内最古級の寺院跡で、地元の豪族が建立したとみられている。
中山路遺跡で建物の遺構は確認できなかったが、通常の集落跡では出土しない品が出ているため、寺の関連施設があった可能性があるという。
県埋蔵文化財センターは「当時は権力の象徴が古墳から寺院へと移行する時期だった。古墳と寺院の両方に関係する品が1か所から見つかったことは、変遷を知る上で貴重だ。
郡里廃寺跡周辺の全体像を研究する手掛かりにもなる」としている。
徳島新聞 2016?年?9?月?9?日 芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、
大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。
古墳時代初期(約1800年前)の遺構から、出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、
徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、他地域で製作された土器が多く出土。
特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、他地域での出土点数は限られてくる。
ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、各地の多くの土器が出土している。
おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していたと思われる。
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められ、
弥生時代終末頃になると吉野川下流域の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、「海人」の存在が想定されている。
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、
阿波南部地域の特異性が窺える。
これは往古徳島県の海岸沿いにあった長國の範囲内とも一致する。 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 成る程、勝浦川、近いということもいいし河内にも近いしねえ、でもなんで瀬戸内通らんで中一月も歩くん?でもおじちゃん一歩リードしてるかも。 >でもなんで瀬戸内通らんで中一月も歩くん?
「瀬戸内海を通し航行できるようになったのは、五世紀 雄略天皇の時期」
瀬戸内海は、干満による潮流が非常に速く、世界有数の難所。
潮待ち港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備しないと、瀬戸内海は通し航行できなかった。
瀬戸内海沿岸諸国を制圧・統制する体制が整い、そういった潮待ち設備が整ったのは、五世紀頃の雄略朝を待たなければならなかった。 @阿波 >>877
分かったかい? 忘れないように、よく覚えておくんだよ、坊や! @阿波 奥山氏が畿内説新スレ立て中!テンプレ投稿中につき、絶対に荒らさないでください!
いいか、テンプレだけは、絶対に荒らすなよ!
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1565060607/l50 ニュー速でも持論がことごとく論破され、九州説罵倒に没頭する奥山氏は、IDを変えるのを忘れて、自演がバレてしまったのでは、ないのかな。。。
240 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2019/08/06(火) 13:24:51.30 ID:KIq9frOV0 [38/40]
>>237
漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」
「漢委奴国王」は九州で合っている
57年から「漢委奴国王」は九州にいたのだから
長崎で鉄戈と鉄剣が出土するのは当然だな
「漢委奴国王」の痕跡で、九州にあって当然のもので
邪馬台国の「親魏倭王」の痕跡だという証拠はどこにもない
242 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2019/08/06(火) 13:32:42.32 ID:KIq9frOV0 [40/40]
>>240
むしろ
「漢委奴国王」なんかいなかったのに、急に大陸のモノの出土品が出てくる地域が邪馬台国
畿内だね >>863
福津から八木山越えて直方だと60km越えるよ。勝浦からだと直線に近い猿田峠経由で30km無いくらいで、福丸まで出て犬鳴川沿いに下ったとして30kmちょい。
あと1里が50〜250mはさすがにブレすぎじゃないの? >>879
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな 「麁布の麻 心込め」 木屋平で初紡式
皇位継承に伴う11月の重要儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」に調進される麻織物「麁布(あらたえ)」になる麻糸を紡ぐ初紡式(はつつむぎしき)が7日、美馬氏木屋平の三ツ木八幡神社であり、関係者約70人が出席した。
本殿に設けられた麁布麻績殿(おうみでん)に巫女5人が正座。
水や米ぬかに浸すなどした精麻を竹くしで整えた後、繊維の強度を上げるため、糸車で麻糸を巻き取りながらねじって毛羽(けば)を取り除くなどした。
住民も加わって今月下旬まで作業を行い、調進する4反分の麁布に必要な約52kmの麻糸を紡ぐ。
4月に約600uの畑に種をまき、約3mの背丈に育った7月に抜き取った。
湯を張ったおけに浸して殺菌し、乾燥や発酵などを経て精麻した。
代々調進してきた三木家の28代当主、三木信夫さん(82)は「布ができるまでは気が抜けない。 完遂に向けて粛々とやっていきたい」と述べた。
紡いだ麻糸は、9月上旬に吉野川市の阿波忌部麁布調進協議会に渡した後、献上品の反物に仕上げる。
10月末に三木さんら関係者が皇居に納める。
令和元年8月8日 徳島新聞朝刊 >>884
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるなwww 魏志には、邪馬台国と魏の国交の全てが記されている。
238年から247年である。
倭人伝では、240年に九州の『偽倭王、卑弥呼」と同盟する訳だが、
この間の半島における重要なイベントとして
238年、魏は楽浪帯方を奇襲侵略し、239年公孫氏を滅ぼした。
246年、南部韓に侵攻し、馬韓の箕氏韓王朝を滅ぼした。
さて、
本州日本海諸国は、青銅、方形墳丘墓に見るように
紀元前から、半島東岸〜沿海州と交流が有った。
馬韓韓王朝や公孫氏との交流も篤かったと考えられるが
この間の魏によって、この関係も断たれている。
双方とも、遺民が日本に流れていると考えられるが、邪馬台国ではない。
これを原因として九州は日本海諸国と統合するが、
出雲、越、吉備、淡路、近江、阿波、紀伊、美濃、関東
などの統合も有ったと考えられるわけで、この時作られた首都が、纏向であろう。
卑弥呼の都は、190年から247年まで九州に在り、
これが邪馬台国である、という記録が倭人伝だが、
偽倭王を大倭王とした皇帝の恥を隠すため陳寿は若干文を濁している。
考古学以前に歴史は史書から読み取れる。 >>886
>卑弥呼の都は、190年から247年まで九州に在り、
碌な遺跡の無い九州に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>887
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるなwww この韓国人のブログの指摘になるほどと思ったんだけど、どうなんだろ
・帯方郡から狗邪韓国までは海岸に沿って南へ東へと記述されている。 朝鮮半島南西部はリアス式海岸の上に潮位差、
潮流共に大きい地域であり、2008年保寧の海水氾濫事故のように陸上でも注意が必要な地域だ。海中には暗礁が多数
存在し海岸沿いの航行は極めて危険である。実際に野性号の実験(資料2)では何度も座礁した上に、古代船がこのル
ートを航行するには二ヶ月が必要であるとされた。 南西部を海岸に沿って航行するのは不可能ではないか? 海岸から
離れて航行したとしても今度は黄海暖流に逆らう事になりやはり難しいのではないか。
・朝鮮半島南西部の航行は航海技術が向上した元代のジャンク船でも新安沖で難破(新安沈船)しているし、 莞島郡で
も高麗船が沈没しており、 泰安郡馬島も高麗船の墓場である。 最近だけでも1993年には扶安郡・蝟島付近でフェリー
が沈没、 1995年には麗水市付近でタンカーが事故、 2007年にも泰安半島付近でタンカーが事故、 2014年にも珍島(韓
国No.3の島)付近で旅客船が沈没など大規模な海難事故が定期的に発生しており、現在に至っても安心して航海できる
海域ではない。 実際に後世の朝鮮通信使は半島内は水行せずに12回全て陸行している。 例え海岸に沿って航行しな
かったとしても、暗礁が多く潮流の激しいこの海域を3世紀に郡使が手漕ぎの船で頻繁に往来したという事自体が非現実
的ではないか?
http://lelang.sites-hosting.com/naklang/shinsou.html 指摘としてはわかるが、自国内を陸行した朝鮮通信使と、他国の沿岸を水行しなくてはいけなかった郡使とでは、事情がかなり違う。
しかもおそらく帯方郡からは倭人の船だったろう。 >>889
>実際に後世の朝鮮通信使は半島内は水行せずに12回全て陸行している。
ところで、朝鮮通信使は半島のどこを出航したの? @阿波 >>889
ところで、朝鮮通信使は半島のどこを出航したの? 資料は残っていないの? @阿波 魏使は
240年の建中校尉梯儁、女王印綬で水行30日と陸行一月の1万2千里
247年の張政、遣倭載斯烏越の船で九州北岸、伊都まで徒歩500里の1万500里。
帰国は、率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因 詣臺
この二回しか来ていない。
評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉 >>891,893
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるなwww 247年の張政の行程は、到伊都国で終っている。
ここまでの間で、卑弥呼の墓を見て、
伊都、一大卒に駐留させられ、一大卒が
奴国王難升米と壹與を呼びつけ、張政はその職務で檄告諭している。
伊都の説明
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
は、これ(郡使駐留、壹與や所属21国の王が往来)を意味する。
東南 至奴国 百里 及び 東行 至不彌國 百里
は、行く必要が無い以上、行程ではなく、周辺を紹介しただけ。
これで帰っていただいたw
この時の報告は
使 大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都 帶方郡諸韓國 及 郡使倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
であり、
邪馬台国が倭の主権国家では無かった(無くなっていた?)ことを知り、外交は終わった。
240年の梯儁は、皇帝からの印綬目的で行軍しているので、伊都経由ではない。
伊都に駐留や臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王が有れば、海賊相手同様で戦争になる。
博多湾から上陸し、2千里の行軍で女王宮を訪問、所属21国を参問し、国勢を報告した。 >>896
帯方郡
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 伊都の説明
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
陳寿のこの筆法、文法には少々癖が有るが
女王付属国の王は皆すべからく伊都を往来していて、
郡使が常駐させられた所 である。
これ
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
が、同様の構文と思われる。
南至 邪馬台国入国までは水行10日、女王之所都へはさらに陸行で1月行を要する。
である。 >>897
四国チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 898 日本@名無史さん ▼ New! 2019/08/08(木) 16:45:01.93 [0回目]
>伊都の説明
内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。
伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。 @阿波 釜山方面からは、壱岐経由とは限らないが
出雲の船は出雲に帰るし、越の船は越に帰る。
どこに着いても関係ない。
結構土井ヶ浜方面も多かったようだぞ。
それでも、博多の船は博多に帰る。
魏時は関門海峡知らないんで、瀬戸内海が無い。
西回りでも四国〜阿波は遠いな。 黄海渡って楽浪帯方奇襲の帆船だろうが
半島西岸ですら初体験の240年に阿波へは絶対届かない。
津軽海峡から沿海州とか、北回りじゃなきゃ帰れないだろwww
247年以降中国文献では600年の裴世清迄この魏の九州までの情報しかない。
日本船が往復してるばっかしなんだよ。
渡来人が、どうたらって言ったって、
107年の帥升なんて、ほぼ人さらいだぞwww
これはひどい↑ >>902
>西回りでも四国〜阿波は遠いな。
九州東回りだよ。 四国は近いよ。 わはははは @阿波 倭人伝の話しをしている。
スレチやアラシなら、ご遠慮願いたい。
巣に帰れwww ん? わはははは だな?
240年梯儁は、魏の軍船で卑弥呼に印綬に来た。
船を他国の瀬戸内海フェリーに乗り換えるなんてことは有り得ない。
国勢を参問し、21国で7万戸と報告している。 里程基準は?なんだが、
郡から満2千里(韓方可4千里)周旋可5千里であり、筑紫程度の広さしかない。
計る其の道里が 会稽東治の東、
ってのは、上海の東が帯方郡から満二千里の邪馬台国女王国であり
九州以外は当たらない。
陳寿は、三国志皇帝のメンツで小国特定を避けたが、記事は九州筑紫である。
阿波が初期倭王を出した、統一倭国の一国であることは間違いない。
当然、九州もこの時、これに参入した。
邪馬台国論争は、文献では九州明示で、
250年時の大倭王論争にはなり得ない。
↑これヒドw >>904
碌な遺跡の無い九州に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 倭人伝の話しをしている。
スレチやアラシなら、ご遠慮願いたい。
巣に帰れwww ん? わはははは だな?
邪馬台国は240年印綬に来た、梯儁が命名した
筑紫21国、7万戸。 郡から満2千里(韓方可4千里)周旋可5千里
の小国である。 これが、倭人伝である。
これ以降313年の四郡追討等、半島開拓で進出する旧銅鐸国等、
大和朝廷の前身として統合された。
阿波はもう少し古い古参だな。
歴史とは、そういうもの。 >>906
>郡から満2千里(韓方可4千里)周旋可5千里
>の小国である。 これが、倭人伝である。
その通り。 まさに四国の倭国(阿波)。 @阿波 使大倭監之で大倭国があったはずとしたいだけで、あったとしたら、誰が漢倭奴国で帥升は誰で台与はだれなんよ記紀でわ?で五王わ?その後の流れに不自然が生まれるような気がするけど。 >>901
>>903
>>905
>>907
四国チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 九州佐賀川上ルート:
(伊都国・不彌国までの方角はもとより、距離も短里(韓倭の短里)と一致)
壱岐ー末盧国(唐津市中原津)は55q(700里)で渡海千里はまあOK、
末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南行38q(500里)でドンピシャ、
伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南至7.5q(100里)でドンピシャ、
伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東行11q(145里、其の四捨五入の100里は適切)
南至投馬国(宮崎県西都市都万)、水行二十日(自郡末盧国迄十日、九州西岸回り都万迄十日)。可五万余戸。
南至邪馬壹国(官衙は肥後熊本菊池郡砦邑臺城)、女王之所都(宮殿は宮崎県高千穂町三田井)。
水行十日(自郡至末盧国)、陸行一月(自末盧国至三田井)。可七万余戸。
・・(中略:其余傍国22国は国名のみ記載。華奴蘇奴国は2国縮合)・・
自郡至女王国万二千余里。
以上の結果、投馬国だけには里数記載がないこととなり、依って投馬国は、女王国以南の宮崎県西都市都万一帯と比定できる。。 >>910
帯方郡
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 九州佐賀川上ルート:(一部修正)
(伊都国・不彌国までの方角はもとより、距離も短里(韓倭の短里75m)と一致)
(狗邪韓国〜対海国〜一大国は省略、壱岐から)
壱岐ー末盧国(唐津市中原津)は55q(700里)で渡海千里はまあOK、
末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南行38q(500里)でドンピシャ、
伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南至7.5q(100里)でドンピシャ、
伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東行11q(145里、其の四捨五入の100里は適切)
(不彌国から)
南至投馬国(宮崎県西都市都万)、水行二十日(自郡末盧国迄十日、九州西岸回り都万迄十日)。可五万余戸。
南至邪馬壹国(国衙は肥後熊本菊池郡砦邑臺城)、女王之所都(神殿は宮崎県高千穂町三田井)。
水行十日(自郡至末盧国)、陸行一月(自末盧国至高千穂三田井)。可七万余戸。
・・(中略:其余傍国22国は国名のみ記載。華奴蘇奴国は2国縮合)・・
自郡至女王国万二千余里・・・行程説明の締め
以上の結果、投馬国だけには里数記載がないこととなり、依って投馬国は、女王国以南の宮崎県西都市都万一帯と比定できる。。
なお高千穂の三田井(みたい)は馬臺(またい)の訛り。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。