【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬六
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
狗奴国は邪馬台国の南にある強大国。
北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)は、粟国(旧吉野川流域北岸勢力・旧吉野川流域南岸勢力・鮎喰川下流域勢力)
南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)は、長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力・海部川流域勢力)
狗奴国も邪馬台国に勝るとも劣らない強大国だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。 @阿波 >>870
分かったかい? 忘れないように、よく覚えておくんだよ、坊や! @阿波 >>872
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな ※阿波に王都が在った根拠の新しい情報
「美馬・中山路遺跡 青銅の鈴・椀 県内初出土 6〜8世紀 副葬品に使用」
徳島県教委と県埋蔵文化財センターは8日、美馬市美馬町の中山路遺跡から6世紀後半〜8世紀のものとみられる青銅製の鈴と椀が県内で初めて出土したと発表した。
遺跡の南東約100mには7世紀後半に建てられた国史跡の郡里廃寺跡があり、県教委などは郡里廃寺に関係する建物があった可能性が高いとみている。
出土した約7千点のうち、6世紀後半の青銅製の鈴は直径約3.7pで、古墳の副葬品や儀礼用の馬の飾りに用いられた。
7世紀後半〜8世紀の青銅製の椀(直径12〜14p)の破片は全長約6pで、仏具や副葬品に使われた。
直径が約20pあるとみられる7世紀後半〜8世紀前半の陶製の円形すずりの破片(全長約5p)や、
郡里廃寺跡で出土したものと同じ型枠で作られたハスの花の模様が付いた瓦(蓮華文軒丸瓦)の装飾部分(直径約20p)も見つかった。
郡里廃寺跡は県内最古級の寺院跡で、地元の豪族が建立したとみられている。
中山路遺跡で建物の遺構は確認できなかったが、通常の集落跡では出土しない品が出ているため、寺の関連施設があった可能性があるという。
県埋蔵文化財センターは「当時は権力の象徴が古墳から寺院へと移行する時期だった。古墳と寺院の両方に関係する品が1か所から見つかったことは、変遷を知る上で貴重だ。
郡里廃寺跡周辺の全体像を研究する手掛かりにもなる」としている。
徳島新聞 2016?年?9?月?9?日 芝遺跡は阿波南部地域で数少ない発掘調査を行った遺跡である。
県内では珍しい円形周溝墓をはじめ、竪穴住居等の遺構や弥生時代前期後半以降の土器・石器も出土し、本地域の集落形態の一様相が確認できた遺跡である。
また、弥生時代終末頃〜古墳時代前期前半頃にかけての搬入土器がまとまって出土したことから、出土状況・共伴関係の検討を行い、各搬入土器の搬入時期のピークを探った。
土器の搬入には鮎喰川下流域集団の関与が想定され、一連の動きに若杉山遺跡(岡山1997)の朱が関わっていると考えられる。
本地域の発掘調査事例が芝遺跡に限られる現状では、搬入土器が普遍的に出土するのか、芝遺跡の特異性なのか、判断しがたいが、
大里松原神社遺跡においても搬入土器が認められることは、本地域に一定量の土器が搬入される状況があったことの傍証になるものと考えられる。
芝遺跡は土佐ー阿波ー畿内を結ぶ四国東岸海岸沿い太平洋ルートを想定できる遺跡であり、海上交通に際しての人・物が集中する拠点集落であったと考えられる。
古墳時代初期(約1800年前)の遺構から、出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃〜古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、
徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、他地域で製作された土器が多く出土。
特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、他地域での出土点数は限られてくる。
ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、各地の多くの土器が出土している。
おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していたと思われる。
芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められ、
弥生時代終末頃になると吉野川下流域の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる。
古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。
この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、「海人」の存在が想定されている。
この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、
阿波南部地域の特異性が窺える。
これは往古徳島県の海岸沿いにあった長國の範囲内とも一致する。 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354 成る程、勝浦川、近いということもいいし河内にも近いしねえ、でもなんで瀬戸内通らんで中一月も歩くん?でもおじちゃん一歩リードしてるかも。 >でもなんで瀬戸内通らんで中一月も歩くん?
「瀬戸内海を通し航行できるようになったのは、五世紀 雄略天皇の時期」
瀬戸内海は、干満による潮流が非常に速く、世界有数の難所。
潮待ち港を造り、澪標(みおつくし)を完全に整備しないと、瀬戸内海は通し航行できなかった。
瀬戸内海沿岸諸国を制圧・統制する体制が整い、そういった潮待ち設備が整ったのは、五世紀頃の雄略朝を待たなければならなかった。 @阿波 >>877
分かったかい? 忘れないように、よく覚えておくんだよ、坊や! @阿波 奥山氏が畿内説新スレ立て中!テンプレ投稿中につき、絶対に荒らさないでください!
いいか、テンプレだけは、絶対に荒らすなよ!
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1565060607/l50 ニュー速でも持論がことごとく論破され、九州説罵倒に没頭する奥山氏は、IDを変えるのを忘れて、自演がバレてしまったのでは、ないのかな。。。
240 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2019/08/06(火) 13:24:51.30 ID:KIq9frOV0 [38/40]
>>237
漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」
「漢委奴国王」は九州で合っている
57年から「漢委奴国王」は九州にいたのだから
長崎で鉄戈と鉄剣が出土するのは当然だな
「漢委奴国王」の痕跡で、九州にあって当然のもので
邪馬台国の「親魏倭王」の痕跡だという証拠はどこにもない
242 名前:名無しさん@1周年[] 投稿日:2019/08/06(火) 13:32:42.32 ID:KIq9frOV0 [40/40]
>>240
むしろ
「漢委奴国王」なんかいなかったのに、急に大陸のモノの出土品が出てくる地域が邪馬台国
畿内だね >>863
福津から八木山越えて直方だと60km越えるよ。勝浦からだと直線に近い猿田峠経由で30km無いくらいで、福丸まで出て犬鳴川沿いに下ったとして30kmちょい。
あと1里が50〜250mはさすがにブレすぎじゃないの? >>879
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな 「麁布の麻 心込め」 木屋平で初紡式
皇位継承に伴う11月の重要儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」に調進される麻織物「麁布(あらたえ)」になる麻糸を紡ぐ初紡式(はつつむぎしき)が7日、美馬氏木屋平の三ツ木八幡神社であり、関係者約70人が出席した。
本殿に設けられた麁布麻績殿(おうみでん)に巫女5人が正座。
水や米ぬかに浸すなどした精麻を竹くしで整えた後、繊維の強度を上げるため、糸車で麻糸を巻き取りながらねじって毛羽(けば)を取り除くなどした。
住民も加わって今月下旬まで作業を行い、調進する4反分の麁布に必要な約52kmの麻糸を紡ぐ。
4月に約600uの畑に種をまき、約3mの背丈に育った7月に抜き取った。
湯を張ったおけに浸して殺菌し、乾燥や発酵などを経て精麻した。
代々調進してきた三木家の28代当主、三木信夫さん(82)は「布ができるまでは気が抜けない。 完遂に向けて粛々とやっていきたい」と述べた。
紡いだ麻糸は、9月上旬に吉野川市の阿波忌部麁布調進協議会に渡した後、献上品の反物に仕上げる。
10月末に三木さんら関係者が皇居に納める。
令和元年8月8日 徳島新聞朝刊 >>884
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるなwww 魏志には、邪馬台国と魏の国交の全てが記されている。
238年から247年である。
倭人伝では、240年に九州の『偽倭王、卑弥呼」と同盟する訳だが、
この間の半島における重要なイベントとして
238年、魏は楽浪帯方を奇襲侵略し、239年公孫氏を滅ぼした。
246年、南部韓に侵攻し、馬韓の箕氏韓王朝を滅ぼした。
さて、
本州日本海諸国は、青銅、方形墳丘墓に見るように
紀元前から、半島東岸〜沿海州と交流が有った。
馬韓韓王朝や公孫氏との交流も篤かったと考えられるが
この間の魏によって、この関係も断たれている。
双方とも、遺民が日本に流れていると考えられるが、邪馬台国ではない。
これを原因として九州は日本海諸国と統合するが、
出雲、越、吉備、淡路、近江、阿波、紀伊、美濃、関東
などの統合も有ったと考えられるわけで、この時作られた首都が、纏向であろう。
卑弥呼の都は、190年から247年まで九州に在り、
これが邪馬台国である、という記録が倭人伝だが、
偽倭王を大倭王とした皇帝の恥を隠すため陳寿は若干文を濁している。
考古学以前に歴史は史書から読み取れる。 >>886
>卑弥呼の都は、190年から247年まで九州に在り、
碌な遺跡の無い九州に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>887
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるなwww この韓国人のブログの指摘になるほどと思ったんだけど、どうなんだろ
・帯方郡から狗邪韓国までは海岸に沿って南へ東へと記述されている。 朝鮮半島南西部はリアス式海岸の上に潮位差、
潮流共に大きい地域であり、2008年保寧の海水氾濫事故のように陸上でも注意が必要な地域だ。海中には暗礁が多数
存在し海岸沿いの航行は極めて危険である。実際に野性号の実験(資料2)では何度も座礁した上に、古代船がこのル
ートを航行するには二ヶ月が必要であるとされた。 南西部を海岸に沿って航行するのは不可能ではないか? 海岸から
離れて航行したとしても今度は黄海暖流に逆らう事になりやはり難しいのではないか。
・朝鮮半島南西部の航行は航海技術が向上した元代のジャンク船でも新安沖で難破(新安沈船)しているし、 莞島郡で
も高麗船が沈没しており、 泰安郡馬島も高麗船の墓場である。 最近だけでも1993年には扶安郡・蝟島付近でフェリー
が沈没、 1995年には麗水市付近でタンカーが事故、 2007年にも泰安半島付近でタンカーが事故、 2014年にも珍島(韓
国No.3の島)付近で旅客船が沈没など大規模な海難事故が定期的に発生しており、現在に至っても安心して航海できる
海域ではない。 実際に後世の朝鮮通信使は半島内は水行せずに12回全て陸行している。 例え海岸に沿って航行しな
かったとしても、暗礁が多く潮流の激しいこの海域を3世紀に郡使が手漕ぎの船で頻繁に往来したという事自体が非現実
的ではないか?
http://lelang.sites-hosting.com/naklang/shinsou.html 指摘としてはわかるが、自国内を陸行した朝鮮通信使と、他国の沿岸を水行しなくてはいけなかった郡使とでは、事情がかなり違う。
しかもおそらく帯方郡からは倭人の船だったろう。 >>889
>実際に後世の朝鮮通信使は半島内は水行せずに12回全て陸行している。
ところで、朝鮮通信使は半島のどこを出航したの? @阿波 >>889
ところで、朝鮮通信使は半島のどこを出航したの? 資料は残っていないの? @阿波 魏使は
240年の建中校尉梯儁、女王印綬で水行30日と陸行一月の1万2千里
247年の張政、遣倭載斯烏越の船で九州北岸、伊都まで徒歩500里の1万500里。
帰国は、率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因 詣臺
この二回しか来ていない。
評曰
史漢著 朝鮮両越 東京撰 録西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑 爰及 東夷
使譯 時通 記述隨事 豈常也哉 >>891,893
お前の主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるなwww 247年の張政の行程は、到伊都国で終っている。
ここまでの間で、卑弥呼の墓を見て、
伊都、一大卒に駐留させられ、一大卒が
奴国王難升米と壹與を呼びつけ、張政はその職務で檄告諭している。
伊都の説明
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
は、これ(郡使駐留、壹與や所属21国の王が往来)を意味する。
東南 至奴国 百里 及び 東行 至不彌國 百里
は、行く必要が無い以上、行程ではなく、周辺を紹介しただけ。
これで帰っていただいたw
この時の報告は
使 大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都 帶方郡諸韓國 及 郡使倭國 皆 臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
であり、
邪馬台国が倭の主権国家では無かった(無くなっていた?)ことを知り、外交は終わった。
240年の梯儁は、皇帝からの印綬目的で行軍しているので、伊都経由ではない。
伊都に駐留や臨津 捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王が有れば、海賊相手同様で戦争になる。
博多湾から上陸し、2千里の行軍で女王宮を訪問、所属21国を参問し、国勢を報告した。 >>896
帯方郡
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 伊都の説明
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
陳寿のこの筆法、文法には少々癖が有るが
女王付属国の王は皆すべからく伊都を往来していて、
郡使が常駐させられた所 である。
これ
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
が、同様の構文と思われる。
南至 邪馬台国入国までは水行10日、女王之所都へはさらに陸行で1月行を要する。
である。 >>897
四国チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 898 日本@名無史さん ▼ New! 2019/08/08(木) 16:45:01.93 [0回目]
>伊都の説明
内陸の伊都国(直方辺り)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。
大陸からの行きと帰りのルートは異なる。
伊都国(直方)は大陸との往路と復路の分岐点である。
だから、大陸出入りを監視出来る立地(内陸)の直方辺りに一大率(筑紫忌部)が置かれた。
伊都国は一大率(筑紫忌部)が大陸出入りを監視するための言わば、「出入国管理局」。 @阿波 釜山方面からは、壱岐経由とは限らないが
出雲の船は出雲に帰るし、越の船は越に帰る。
どこに着いても関係ない。
結構土井ヶ浜方面も多かったようだぞ。
それでも、博多の船は博多に帰る。
魏時は関門海峡知らないんで、瀬戸内海が無い。
西回りでも四国〜阿波は遠いな。 黄海渡って楽浪帯方奇襲の帆船だろうが
半島西岸ですら初体験の240年に阿波へは絶対届かない。
津軽海峡から沿海州とか、北回りじゃなきゃ帰れないだろwww
247年以降中国文献では600年の裴世清迄この魏の九州までの情報しかない。
日本船が往復してるばっかしなんだよ。
渡来人が、どうたらって言ったって、
107年の帥升なんて、ほぼ人さらいだぞwww
これはひどい↑ >>902
>西回りでも四国〜阿波は遠いな。
九州東回りだよ。 四国は近いよ。 わはははは @阿波 倭人伝の話しをしている。
スレチやアラシなら、ご遠慮願いたい。
巣に帰れwww ん? わはははは だな?
240年梯儁は、魏の軍船で卑弥呼に印綬に来た。
船を他国の瀬戸内海フェリーに乗り換えるなんてことは有り得ない。
国勢を参問し、21国で7万戸と報告している。 里程基準は?なんだが、
郡から満2千里(韓方可4千里)周旋可5千里であり、筑紫程度の広さしかない。
計る其の道里が 会稽東治の東、
ってのは、上海の東が帯方郡から満二千里の邪馬台国女王国であり
九州以外は当たらない。
陳寿は、三国志皇帝のメンツで小国特定を避けたが、記事は九州筑紫である。
阿波が初期倭王を出した、統一倭国の一国であることは間違いない。
当然、九州もこの時、これに参入した。
邪馬台国論争は、文献では九州明示で、
250年時の大倭王論争にはなり得ない。
↑これヒドw >>904
碌な遺跡の無い九州に、邪馬台国が在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 倭人伝の話しをしている。
スレチやアラシなら、ご遠慮願いたい。
巣に帰れwww ん? わはははは だな?
邪馬台国は240年印綬に来た、梯儁が命名した
筑紫21国、7万戸。 郡から満2千里(韓方可4千里)周旋可5千里
の小国である。 これが、倭人伝である。
これ以降313年の四郡追討等、半島開拓で進出する旧銅鐸国等、
大和朝廷の前身として統合された。
阿波はもう少し古い古参だな。
歴史とは、そういうもの。 >>906
>郡から満2千里(韓方可4千里)周旋可5千里
>の小国である。 これが、倭人伝である。
その通り。 まさに四国の倭国(阿波)。 @阿波 使大倭監之で大倭国があったはずとしたいだけで、あったとしたら、誰が漢倭奴国で帥升は誰で台与はだれなんよ記紀でわ?で五王わ?その後の流れに不自然が生まれるような気がするけど。 >>901
>>903
>>905
>>907
四国チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 九州佐賀川上ルート:
(伊都国・不彌国までの方角はもとより、距離も短里(韓倭の短里)と一致)
壱岐ー末盧国(唐津市中原津)は55q(700里)で渡海千里はまあOK、
末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南行38q(500里)でドンピシャ、
伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南至7.5q(100里)でドンピシャ、
伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東行11q(145里、其の四捨五入の100里は適切)
南至投馬国(宮崎県西都市都万)、水行二十日(自郡末盧国迄十日、九州西岸回り都万迄十日)。可五万余戸。
南至邪馬壹国(官衙は肥後熊本菊池郡砦邑臺城)、女王之所都(宮殿は宮崎県高千穂町三田井)。
水行十日(自郡至末盧国)、陸行一月(自末盧国至三田井)。可七万余戸。
・・(中略:其余傍国22国は国名のみ記載。華奴蘇奴国は2国縮合)・・
自郡至女王国万二千余里。
以上の結果、投馬国だけには里数記載がないこととなり、依って投馬国は、女王国以南の宮崎県西都市都万一帯と比定できる。。 >>910
帯方郡
↓【南】海岸水行7000里(500km)1里=71m
狗邪韓国
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り)
↓【東南】陸行500里 (25キロ)1里50m 福津市→八木山峠越え→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里 (15キロ)1里150m
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里 (25キロ)1里250m
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日又は陸行1月(旧土佐街道)
《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。 @阿波 九州佐賀川上ルート:(一部修正)
(伊都国・不彌国までの方角はもとより、距離も短里(韓倭の短里75m)と一致)
(狗邪韓国〜対海国〜一大国は省略、壱岐から)
壱岐ー末盧国(唐津市中原津)は55q(700里)で渡海千里はまあOK、
末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南行38q(500里)でドンピシャ、
伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南至7.5q(100里)でドンピシャ、
伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東行11q(145里、其の四捨五入の100里は適切)
(不彌国から)
南至投馬国(宮崎県西都市都万)、水行二十日(自郡末盧国迄十日、九州西岸回り都万迄十日)。可五万余戸。
南至邪馬壹国(国衙は肥後熊本菊池郡砦邑臺城)、女王之所都(神殿は宮崎県高千穂町三田井)。
水行十日(自郡至末盧国)、陸行一月(自末盧国至高千穂三田井)。可七万余戸。
・・(中略:其余傍国22国は国名のみ記載。華奴蘇奴国は2国縮合)・・
自郡至女王国万二千余里・・・行程説明の締め
以上の結果、投馬国だけには里数記載がないこととなり、依って投馬国は、女王国以南の宮崎県西都市都万一帯と比定できる。。
なお高千穂の三田井(みたい)は馬臺(またい)の訛り。 >>911
泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるな。 >>912
碌な集落遺跡の無い九州熊本に、邪馬壹国が在る訳がない。
「丹」の採れない九州に、邪馬壹国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 方保田東原遺跡とか
狩尾遺跡とか
御堂、、、なんだっけ
いっぱいあるよ? >>914
泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるんだが? ♪ i.\ .i.\ i.\ チャンカチョンコ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ チャンカチョンコ♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ チャンカチョンコ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ チャンカチョンコ♪
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ エーラ張ハッタ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ 目ーガ吊ッタ♪
└i===|┘i===|┘.i===|┘ ホルホルホルホル
〈__〈 〈__〈 〈__〈 )))
♪ i.\ .i.\ i.\ 北ノ無脳ニ♪
♪ 乂_\ 乂_\ 乂_\ 下ノ無能♪
〈,<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘
((( 〉__〉 〉__〉 〉__〉
♪ /.i /.i. /.i
♪ ∠__ノ ∠__ノ ∠__ノ オナージミンジョク ♪
〈<`∀´>ノ`∀´>ノ`∀´>ノ
└i===|┘i===|┘.i===|┘ クーソ食ッテ
〈__〈 〈__〈 〈__〈 ))) チョンチョ〜ン ♪ >>908
>使大倭監之で大倭国があったはず
に、関しては文中で魏使も十分には把握してはいないようだが、
郡から南満2千里内の南2千里に収まる邪馬台国が筑紫程度の周旋可21国で7万戸であれば、
卑弥呼が大倭王である、という事は無く、倭の一部、小倭であったことは理解できる。
またこの、邪馬台国が九州筑紫21国であることが理解できていれば
その小さな自国内の自前の一大卒が、三国志の刺史に例えられる可能性は無いことが判る。
250年辺りの記紀は、倭人伝を知って書いてはあるが
まるで九州のことなど知らないし、漢4郡存在中の三韓征伐なんて有り得ない。
ちなみに倭の五王には記紀の諡号は無いので、実際中国風の王名を名乗ったであろうし、
600年の推定、聖徳太子は、三国志にある古の小倭は日本ではないと言った。
四郡を追った313年以降、日本は新羅百済を後援し、幽州刺史楽浪候の高句麗と戦い
高句麗馬や製鉄国内化に成功し、百済新羅が建国した。
公孫氏と箕氏韓王朝の滅亡で、九州含む国内が結束したのである。
この公孫氏や四郡の遺民から軍師が出なければ
戦争の必然性に備え富国強兵政策は成し得なかったであろう。
中国でアホの始皇帝以降すたれていった、日本の古墳の時代というのも
若干、まぬけなアドバイザーが居たことを意味する、と考える。
記紀に整合させれば、日本古代史は時系列が壊れる。 中韓系の歴史愛好家には判らない話が真実なんだけどね。
銅鐸消滅から古墳時代への移行
(これには、徴兵が有ったと思うんだけど)とか、
陳寿採用の東夷伝里程や日行月行の謎とか、原典倭人伝根拠の話しを深めたいね。
もう全部出尽くしてるけど・・・
邪馬台国に記紀絡めて、トンチキになる東遷説とかは
単純に倭人伝読むだけの、九州説じゃないだろ? >銅鐸消滅から古墳時代への移行
完全に朝鮮半島動乱期だから疎開民だな
高句麗には前方後円墳の原型とも呼べる前方後円(方)墳型積石塚(つみいしづか)が出土してる 前方後円墳はもともと前方後方墳から発展してる
前方後方墳としえば高句麗の積石塚
間違いない 日本列島の謎の4世紀
顕著なのが「墓」で、それまで丘に過ぎなかった墳墓から前方後円墳など複雑な形へと変化し、
弥生時代の祭祀用具の代表であった「銅鐸」が、突然、製造中止。
青銅が中心だった金属器も、「鉄器」が使われるようになる。さらに彫りが深くがっしりした縄文人に近かった体型が、
彫りが浅い大陸系の体型に変化し、なぜか、それまで行われていた「入れ墨」の習慣が消滅。
そして4世紀後半になると、この文化的大革命の様相はさらに顕著になり、墳墓は100mを超える「前方後円墳」が中心となり、
玄室に「壁画」が描かれるようになる。副葬品も剣や鏡、玉などが中心だったのに対し、「馬具」や「王冠」など、
朝鮮半島や大陸の文化に非常に近くなる。 卑弥呼は天照大神だっただとか、記紀の東遷説は正しかっただとか・・
そんな先走りを云ったって、ただのツマミ食い、ツバ付け、食言にすぎぬ。
ましてや怡土が伊都国だったなどと、神功皇后伝の焼き直しでは、底が知れてる。 >>927
100%正しい意見
山形明郷もその著作で同様なことを述べてる
「中国の学者楊守啓氏がいうには、「朝鮮側の史料『東鑑( 東国通鑑) 』では詳らかではないが、
日本の史書から判断すると、高句麗広開土王即位の年は西暦3 9 1 年であり、日本では仁徳天皇の治世時に当たる。
しかし、この間、両国には抗争の事実はみられず、又、中間の履中・允恭両天皇の時代にも、高句麗・新羅と闘争の事実はない。
又、三宅米吉氏も『高麗碑考』の中で同様のことを語っている。即ち、「倭・倭人と高麗との抗争記述も、
『日本書紀』など日本側の記述に対応すべきものがなければ、強いて附会する必要はなかろう。
碑文中に現れる倭が、大和朝廷で在ることを明証した論考は現れていないのである」との見解を述べている。
倭や邪馬台が何処であろうと、我が国の古代史に繋がることではないので、
目角を立て附会曲解をする必要ないこと、論ずるまでもない。
「倭」そのものゝ総体的な輪郭が把握できず、「邪馬台」が「大和朝廷」の前身などという固定観念で、
これら倭人に関する伝記などを捏ねくり返してみたところで、
先人の糟粕を舐め啜るのが落ちであろう。」 >>928
>日本の史書から判断すると、高句麗広開土王即位の年は西暦3 9 1 年であり、日本では仁徳天皇の治世時に当たる。
神功皇后は実年代が卑弥呼の120年後だから、391年は応神天皇の即位年代に近いだろう。
4世紀は謎でもなんでもない。
景行天皇や神功皇后など、珍しく記紀が九州も取り扱っているし、記紀を無視すれば謎にも思えるだろうが、答えはちゃんと用意されている。 >>930
つかなんで古墳の推定作成年と記紀の記述は合わないのかな?w 400年代は信州甲斐の御牧に古墳が出来始め
大伴氏の御牧の前方後円墳に高句麗墳墓が伴う形になる。
百済新羅建国当時の高句麗戦は強制連行を伴うようにも見えるが
日本での成功者は古墳が成立する厚遇である。
この倭人による半島開拓の歴史は
高句麗王やジンギスカンが旧倭人でも
不可能性は存在しないと考える。
日本国内の渡来人は、時代は三代実録など時代が下るが
武蔵高麗のように戸籍管理が為されていた。
三国志の弁辰韓は倭人の植民で国境は成立していない。
これは、名が無い豊国、卑弥呼の筑紫、肥国のように、九州もだが、
投馬国は梯儁の240年探検での馬韓の向こうという表意文字の国名であり
弁辰韓5万戸、である。
同様に、この探検で、漢字化した21国参問の女王所属、邪馬国に在った女王の臺
これをランドマークとして、筑紫を邪馬台国とした。
文字の違いは、臺は曹操の楼閣を意味するので、倭王宮には使わなかった、である。
400年代の古墳からは絶対に木簡、石誌、は出る。
倭の五王の漢名は文字使用の初期であり、実用したはずである。 音韻学を使って日本書紀を研究してるらしいんだがすごく興味を惹かれる
それによるとα群とβ群に分かれて
β郡は、正格漢文には見られない、日本語の発想に基づく漢文の誤用や奇用の倭習によるものらしい ヒトモドキの祖国が被害妄想で反日激化すると
在日ヒトモドキがウリナラファンタジーを声高に主張するという
いつものルーティン つか宮内庁を解体してとっとと古墳の調査を始めればいい
そうすれば日本会議脳は死亡するだろう 古墳時代は、出雲吉備近江淡路摂津紀伊美濃伊勢阿波関東越の連携で
卑弥呼の筑紫を最後に、卑弥呼の150m古墳によって始まった。
3〜40mとかの日本海方墳は古いが、一応九州含む統一は247年が妥当なのではないか?
この原因は、倭人伝にある魏による公孫氏、韓王朝滅亡への対峙である。
これによって、古墳時代に日本の軍事統一が為されたかのように思われがちだが
軍事統一というのは、関ヶ原の江戸時代までないわけで、
大和朝廷というのは、軍事以前のこれら豪族の調略の中で形成されている。
これは、663年白村江海戦で百済王や在日の強制送還で
対大陸、半島の対馬国境を確立したことによって終わる。
600年聖徳太子は、古の倭国、卑弥呼は日本ではないと言うが、
記紀は九州を起源として神話を再構築\\? に、失敗している。
中国史で、日本への稲作渡来は既に有史で神代は無理。
軍事統一は、朝廷成立期ではなく、信長から家康で完結した。
これ以降も、皇朝維持武王取り込み、参入で婚姻等の調略は継続している。
日本と朝鮮半島と国境のない時代の百済新羅建国など、
アタシのような・・・ ネトウヨも糞も無く形成された歴史である。
古墳解明を勧めない、宮内庁センスが相当古いのは間違いない。
封建武人社会崩壊以降は、調略無しで、みっちゃんや、きこちゃんだろwww
まこちゃん? ちこちゃんだっけか・・・
皇太子は後宮に100人位の大奥を構えるべきではないのかな?
君が代は、まあ1000年は持たないとして、現代モラルとしては立派なことだ。 何が言いたかったと言えば、
王が存在する資本主義社会と言うのは
何かが、間違っている。
私達、日本国民が、君が世は千代に八千代に
と言っても、皇室?天皇がお断りしたらオワリである。
王権も人権も一緒である。
日本国民はだれ一人として、
日本国の終わりを望んでいない。 >後の世の国境で語る悪い頭とは思わなったよw
よく言うよ。 西日本一帯にわたる「倭国大乱」などと妄想しておきながらw
>狗奴国等の近隣諸国の抗争には兵力がいるし、連合体の邪馬台国なら中心国は連合自体を維持する兵力が必要。
だから、 狗奴国の軍勢は、鮎喰川下流の邪馬台国王都に攻め込み、鮎喰川上流の神山まで押し寄せている。
そこで、邪馬台国側は吉野川流域の勢力を味方につけ、狗奴国軍を押し戻し、打ち破った大戦争。 @阿波
>丹が水銀と仮定した話で成り立ってるからな。
そんな、くだらないイチャモンは、もはや通用する時代じゃないよ、 旧説トンデモさん。
>1800年前の徳島県の平地は今より少ないから、どのような人口区分だったか徹底的な検証が必要で、お前の妄想人口区分の話は必用無し。
卑弥呼時代の弥生集落遺跡群を見れば、七万戸?に該当するのは徳島しか無いのは明らか。 碌な集落遺跡の無い九州に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >阿波で近隣諸国を従えた兵力を出せるかだな。
そもそも卑弥呼時代に、西日本各地へ兵を出すような事態は起きない。 @阿波 >狗奴国を知らないの?
ちなみに、この狗奴国(長国)に匹敵する国は、畿内にも九州にもないんだよ。 そんなことも知らないの?
その狗奴国(長国)も邪馬台国に勝るとも劣らない強大国だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「温暖な海の恵み」と「海洋航行技術」。 そんなことも知らないの? @阿波 >>942-944
泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるんだが? >>945
碌な集落遺跡の無い九州に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>945
「辰砂採掘遺跡」の無い九州に、卑弥呼が居る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>946-947
だから泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるんだが? 祇園山古墳から三角縁神獣鏡が出てるんだな、じゃあ卑弥呼と時代が違うな >>951
筑紫忌部のお墓だよ。
祇園山古墳から水銀朱や三角縁神獣鏡、大型硬玉製曲玉、鉄製武器、鉄製農機具などが出土することから、まず間違いなく筑紫忌部が築造した古墳。
水銀朱や三角縁神獣鏡、大型硬玉製曲玉、鉄製武器、鉄製農機具などの製作地がすべて倭国(阿波)であることから、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだもの。 @阿波 >>950,951
だから泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるんだが? 安価間違えたわ
>>950,952
だから泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるんだが? 卑弥呼の墓にいなりずしで参拝しようと思うが、
九州じゃ、野菜ひじき椎茸とか混ぜない白い酢飯が良いのかな? | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 次でファビヨって. |
|________|
∧_∧ .||
<ヽ`∀´>||
/ つ|| >>957
なかなかの腕前ではないか。
各説各国の位置関係をよく表している。出来れば「伊都国は佐賀川上だった新説」も加えていただけないものか。 >>960
碌な集落遺跡の無い糸島に、伊都国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 国衙は国衙、墓は墓。
墓が国の証明というのは、単純にその近辺に国衙があるかもと推定されるだけ。
糸島平原の場合は、博多奴国王の王家の墓場の一つということ。
なお奴国の王家の墓場は、大宰府の近くから糸島深江迄、東西一直線上に並んでいる。 >>962
>糸島平原の場合は、博多奴国王の王家の墓場の一つということ。
その通り。 筑紫忌部(博多奴国王)のお墓。 @阿波 >>962
魏志倭人伝を読めよ。
王は伊都にいて奴国にはいない。 >>964
大国の博多には王がおらず、小村の平原には世々いたというのは不自然、あり得ない。
またいたというのなら、代々の王墓はどこか?
云えないだろう。だから本当の伊都国は平原ではないのだ。 >>963
泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなるんだよな(笑) >>965
三雲南小路遺跡から始まる一連の弥生王墓だよ。
佐賀にはそれに相当する王墓はない。
吉野ヶ里は並行する時代だが、首長層の副葬品が糸島平野に劣る。 生活活動域が博多沿岸で平原は墓地と考えられている。 >>967
>三雲南小路遺跡から始まる一連の弥生王墓だよ。
碌な集落遺跡の無い北部九州に、邪馬台国など在る訳がない。 以上御終い。 @阿波 >>968
誰が考えているの?
奴国は庶民の商業の町、伊都国は王家の行政の町だろうね。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。